0008771
ATRIUM
[Cafe Neptune ver.2.0]
誹謗中傷など、当方にて不適当と判断した書き込みについては予告なく削除させて頂きます。
※現在、管理者の都合により閲覧のみとなっております。
★ ヌーソロジーロッジ開設!! / kohsen ♂ [九州] [ ] | |
No.1115 - 2009/03/04(Wed) 11:50:31
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★ コーセン殿☆ / ☆Sacco☆ ♀ [九州] [30代] | |
お久しぶりです☆ 突然ですが ヌースの シャンプーは ハゲに効きますか? 私の 彼氏は 同い年で 少し薄く心配して いろんな シャンプーを 購入しています☆ カットしに行くときは 私が月や星の配置を見て コシが でる日に行くのです☆ それから 最近 かなり不思議な事を体験しました☆
今までの体験した 不思議な世界よりも 謎だらけで 解明できておりませんが・・・
あと、小説は 何とか書いております☆
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No.1113 - 2009/03/03(Tue) 16:06:48
| ☆ Re: コーセン殿☆ / kohsen ♂ [九州] [ ] | | | No.1114 - 2009/03/03(Tue) 16:33:57 |
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★ (No Subject) / コーマ [ ] | |
こんばんは。コーマことカーマです。
以下、「世界観」という言葉自体には疑念を抱かない世界観を前提にしてお話します。
「世界観」という言葉は、「世界」と世界を「観る者」の存在を前提として成立しています。 そして、常識的には、「世界」は永遠不変だが、「観る者」は永遠不変でない、と考えられています。 すると、「観る者」が不変でない以上、「世界観」もまた不変ではあり得ないことになりますが、常識的にはこれは普通のことです。 (変化のパターンが網羅されている場合は「不変」の一場合に過ぎません。以下同じ)
仮に、「観る者」もまた不変である、とした場合、一切の思弁は徒労、というよりむしろ、そもそも「世界観」という思弁自体が存在し得ない。つまり、「世界」と世界を「観る者」という区分自体が無意味になります。 (「神」が「世界」を造った、とは一体どういう意味なのだろう?)
逆に、「世界」もまた不変でない、とした場合、「世界」の変化と「観る者」の変化とが無関係であるならば、別の意味で、「世界観」を含む一切の思弁は徒労とならざるを得ません。
では、「世界」の変化と「観る者」の変化とが無関係でないとしたら? (改めて、変化のパターンが網羅されている場合は「不変」の一場合に過ぎません)
このように仮定あるいは信仰し得た場合に、「世界観」を含む一切の思弁は初めて意味を持つのではないだろうか?
ここで一つの疑問があります。
「世界」と「観る者」との媒介役であるオコツト自身の「世界観」は永遠不変なのだろうか?
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No.1095 - 2009/02/18(Wed) 00:43:54
| ☆ Re: / コーマ [ ] | | | 「神」が「世界」を造った、とは一体どういう意味なのだろう?
他ならぬ人間こそが、神=世界の、断絶の契機であったことの、紛れもない証言なのではなかろうか? しかしまた同時に、人間は、神=世界の、架け橋でもあり得る。
このことは、「オコツトが、観る者=世界の、媒介役である」ということと同義なのではなかろうか?
人間的、あまりに人間的な・・・高尿酸血症かつ高脂血症を患う、今日この頃の私の思弁!!!(ヒエ〜!ブルブル!)
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No.1099 - 2009/02/18(Wed) 02:31:39 |
| ☆ 数学は人間が作ったのか神が作ったのか? / Φ=WHY? ♂ [近畿] [ ] | | | 永遠に桁が上がらず「静止」しているのが「0進法」の世界。永遠に「運動」して桁上がりし続けているのが「1進法」の世界。まさしく「静」だけ、あるいは、「動」だけの無限の世界。いずれも、「神」の世界なのかもしれません。
人間に与えられたのは「2進法」の世界。「0進法」でも「1進法」でもない有限の世界。そして、表現される数字は「0」と「1」。
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No.1100 - 2009/02/18(Wed) 21:58:21 |
| ☆ Re:数学は人間が作ったのか神が作ったのか? / ねじ | | | 僕なりの神のイメージをコウセンさんのブログにコメントしました。神は在るか在らざるかの二進法です。そして、人間は応えるが応えないかの二進法です。神+人間は、人間が応えようが応えまいか(量子状態・シュレ猫)ゼロであるには違いない。。つまり、0←人間→無限どちらかを決める猫。。。猫(人間)は生きているか、猫(人間)死んでいるか蓋を開けるまではわからない。ちょっと整理して神+人間の双対4進は、最初の量子状態(三値‥在る、居ない、わからない)。1と0との間に人間は立ち、神は在るの在らざるかを選ぶ中間的な量子状態。。。コレを収縮させる観測決定権は常に人間の意志にかかっている。神代(かみよ)を継ぐか、継がざるか?命運を握るのは、今、ここにある。人間のこと。 ことは、人間がいなければ起こらない。その状態…場は常に今、である。ことばの始まりは神+人間という双対4進法状態。
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No.1101 - 2009/02/19(Thu) 01:10:27 |
| ☆ Re: / コーマ [ ] | | | ■Φ=WHY?さん、こんにちは。
何進法っていうのは、自然数という記号論理を前提にしてる、ってことでいいのかな。 (ところで、「自然数という記号論理」って十進法のことなのかな?)
二進法って、「0、1、10、11、100・・・」ってやつですよね。 すると、一進法は、記号表現が可能なのは「0」だけ、 0進法は、一切の記号表現が不可能。 つまり網羅的な記号表現が可能なのは、二進法以上の場合である。
というようなことを、Φ=WHY?さんは言おうとしているのかな。
では、自然数という記号論理を前提にしないと一体どうなっちゃうんだろう? ・・・って、単に何進法っていう話自体が成立しないだけか。
■ねじさん、はじめまして。
「神は在るか在らざるかの二進法です。そして、人間は応えるが応えないかの二進法です。神+人間は、人間が応えようが応えまいか(量子状態・シュレ猫)ゼロであるには違いない。」
この文章中の「二進法」は「二者択一」とした方がわかりやすいんじゃないでしょうか? そうすると、「ゼロ」は「二者択一の余地がない」、つまり「一者である」という意味になるような気がしますが、 そういうことでいいのかな?
「つまり、0←人間→無限どちらかを決める猫。。。猫(人間)は生きているか、猫(人間)死んでいるか蓋を開けるまではわからない。」
この文章の前半は、人間による二者択一、つまり「応えるが応えないか」について言おうとしているように読めますが、選択肢は、「0」に応えるか、「無限」に応えるか、というつくりになっています。 ところで、この「0」は「人間が応えようが応えまいか(量子状態・シュレ猫)ゼロであるには違いない」ところの「神+人間」のことなのだろうか? 他方の「無限」は「神」のことなのだろうか?
そして後半の「猫(人間)は生きているか、猫(人間)死んでいるか蓋を開けるまではわからない」。人間は「0」か「無限」かのどちらかを選択するけれど、その結果どっちが「生」で、どっちが「死」かは選択の時にはわからない、ということなのかな?
以上、私なりに整理した上で、改めて「ちょっと整理して」以降の文章を読んでみましたが、やっぱりわかりませんでした。むしろ「ちょっと整理し」た後の文章の方が難しいんじゃないでしょうか。
■では、おやすみなさい。いい夢をみたいものです。
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No.1102 - 2009/02/19(Thu) 07:08:24 |
| ☆ Re: / Φ=WHY? ♂ [近畿] [ ] | | | コーマさん、こんばんは。レス、ありがとうございます。
0進法と1進法について、ちょっと補足致します。
記号論理的には、1進法は「0」になるでしょうけど、というより、正確には1進法ということ自体が成り立たないわけですが、言いたかったのは、「0」であるところに、「1」を投げ込もうとした途端に、次々桁上がりしてしまって、無限に桁上がりを続けるのが、1進法だと言いたかったわけです。つまり、これは、無限桁の位置から見たときだけ「1」に見えますが、途中の有限桁で見た場合は「0」に見えます。その意味で「無限の運動」と書きました。
一方、0進法の場合は、正確には記号表記すらできませんが、仮に「0」と表記したとしても、何もそこに数値を投げ込めないわけです。つまり、「1」を入れることすらできません。ですから、何も動きが起こらないという意味で、「無限の静止」と書きました。
ちなみに「自然数という記号論理」自体は、記数法を、十進法にしようが五進法にしようが構わないと思います。十進法にするとか五進法にするとかは、単に表記的な問題なので、必ずしも十進法を前提にする必要はありません。
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No.1104 - 2009/02/20(Fri) 01:14:54 |
| ☆ 「観る者」について / Φ=WHY? ♂ [近畿] [ ] | | | > そして、常識的には、「世界」は永遠不変だが、「観る者」は永遠不変でない、と考えられています。
そもそも、「観る者」を人間のような有限期間しか生きられない存在を前提にするから、「永遠不変でない」ということになるのではないでしょうか。おそらく、物理学で「観る者」つまり「観察者」を設定した場合、永遠に作動し続ける「観測装置」であってもいいはずです。要は物理量を具体的に測定できる存在物であれば十分なわけです。さらに言えば、数値的区別ができて、特定できればいいわけです。
量子論に登場する「シュレーディンガーの猫」や「二重スリットの実験」でも、「観察者」と言った場合、そうした「特定性」の判別ができることを前提にしていて、必ずしも人間でなくても構わないはずです。
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No.1105 - 2009/02/20(Fri) 01:25:51 |
| ☆ Re: / コーマ [ ] | | | Φ=WHY?さん、こんばんは。
■自然数というのは「0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10...」という数列規則のことだ、と私は素朴に思っていました。 で、無論のこと、これは十進法規則そのものですよね。 で、「9を超える新しい記号を編み出し続けたら切りがない。仕方ないから、便宜0という記号を編み出して、9の次は繰り上がって10ということにしよう」という、この十進法規則を前提にして初めて、 例えば、「もっと効率的に、2以上の記号もないことにして、1の次は繰り上がって10ということにしよう」ということで、二進法規則が編み出された・・・と理解していました。
とすると、より根本的な問題は、「便宜0という記号を編み出した」ことになりそうです。 つまり、0という記号があって初めて、何進法という規則自体が可能になる。 逆に、0という記号がなければ、何進法という規則どころか、あらゆる規則が不可能になってしまいそうです。
結局、「記号の数が有限でなければ、記号に何らかの規則性(意味)を見出すことはできない」という命題の前に、まずは0という記号がなければならない、ということになりそうです。
ところで、0が「便宜編み出された記号」であるとするならば、0は「自然な数」ではないことになります。
自然でなさそうな数の導入によって初めて、他の数が自然ぽくなる?・・・フウ〜ム、深い〜い話だなあ・・・
■「おそらく、物理学で「観る者」つまり「観察者」を設定した場合、永遠に作動し続ける「観測装置」であってもいいはずです。」
異論ありません。人間でない観察者が、人間である観察者と、何らかの意味で関係し得る事が大前提ですが、この点については Φ=WHY?さんも異論ないことと思っております。
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No.1106 - 2009/02/20(Fri) 03:23:00 |
| ☆ Re: / あんだらせん ♂ [関東] [ ] | | | コーマさんこんにちわ
> 「神」が「世界」を造った、とは一体どういう意味なのだろう?
神が僕たちが見ている世界をつくったというのは多分嘘です。 この世は嘘で塗り固められているとはよくいいますが、その最たるものがこれだと思っています。 > 他ならぬ人間こそが、神=世界の、断絶の契機であったことの、紛れもない証言なのではなかろうか?
僕もそう思います。神からの分離という思考への同調作用が世界として現れていると考えています。
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No.1109 - 2009/03/01(Sun) 09:50:53 |
| ☆ Re: / kohsen ♂ [九州] [50代] | | | 同感です。 「神もなく、主人もなく。」ですね。
というところで、φさんも書かれていましたが、 あんだらせんさん、コーマさん、是非、ロッジの方にも顔を出されて下さい。 お待ちしています。
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No.1111 - 2009/03/01(Sun) 14:49:30 |
| ☆ Re: / あんだらせん ♂ [関東] [ ] | | | コウセンさん、Φさんありがとうございます。このごろ暦に疎くて、もう三月なんですね。
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No.1112 - 2009/03/01(Sun) 15:50:47 |
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★ 4次元空間 / あんだらせん ♂ [関東] [40代] | |
また性懲りもなく考えてみました。
単純に、三次元たす一次元で4次元なのだし、そこは観測ではなく、観察が始まる位置と考えて、プラス一次元は位相一次元をくわえて4次元と解いてみました。これがユークリッド空間をゆがめるという反映を持つと考えると納得がいく気がします。
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No.1108 - 2009/03/01(Sun) 09:14:00
| ☆ ATRIUM閉鎖! / Φ=WHY? ♂ [近畿] [ ] | | | あんだらせんさん、こんにちは。
この「ATRIUM」は、この2月一杯で閉鎖していますよ!!!
ご質問などがおありでしたら、新しい「ヌーソロジー・ロッジ」の方に参加なさってはいかがでしょうか。(ヌーソロジー・ロッジ」は、SNS形式ですが、「新規登録」ボタンをクリックすれば、紹介者なしでも所定の情報入力さえすれば、会員登録できます)。
なお「ヌーソロジー・ロッジ」はロムだけでよければ、誰でも、「全員公開」の部分なら閲覧できます。
既に「ヌーソロジー・ロッジ」ではみなさん活発に意見交換などしていますよ。
ヌーソロジー・ロッジのホームページ http://ouroboros.so-netsns.jp/pc/portal/user_top/
では、さよなら、新カフェ・ネプ、ATRIUM! ありがとうございました。
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No.1110 - 2009/03/01(Sun) 12:54:16 |
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★ ヌーソロジーロッジ開設!! / kohsen ♂ [九州] [ ] | |
こんにちは、kohsenです。 ブログ「cave syndrome」の方でもお知らせしましたが、今週始め、Ricardoさんの尽力で、ヌーソロジーのSNS「ヌーソロジーロッジ」ができました。このSNSはヌースアカデメイアの公認SNSです。
アドレスはこちらです。→ http://ouroboros.so-netsns.jp/
最初は紹介制で進めていく予定だったそうですが、閉じた場はヌーソロジーにはふさわしくない、ということで、Ricardoさんとの話合いの結果、オープン制でいくことにしました。メンバー加入希望の方は、トップ画面右上の「新規登録」をクリックして、必要事項を記入してお入り下さい。ヌースっぽい仲間がたくさんいます。何がヌースっぽいのか意味不明ですが。。もちろん、閲覧だけなら、下の公開コンテンツからできるようになっています。
SNSって何なのか僕自身よく知らなかったのですが、まぁ、たまり場のようなものなのかな。。会議室もたくさんあって、いつもカオスに陥りがちなヌーソロジーに関する議論も、ここなら、それなりに系統立てて進めていけるのではないかと思っています。ビギナーズの会議室も設けてありますので、ヌーソロジーに少しでも興味のある方はどんどん参加して下さいね。僕もできるだけ顔を出して、場を賑わせたいと思っています。
尚、ヌーソロジー・ロッジ開設に合わせて、この掲示板「ATRIUM」の方は2月一杯でクローズさせていただきます。何とぞご了承下さい。
では、では、ヨ・ロ・ピ・ク!!
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No.1107 - 2009/02/20(Fri) 13:02:21
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★ 感情の超越性 / Φ=WHY? ♂ [近畿] [ ] | |
どんなに緻密で何億年何百万年何千年も続いてきた「論理」であっても、一瞬の「感情」がその論理を簡単に超越してしまう(いい意味とは限らない)ことがあったりするのではないだろうか。つまり、論理の壁(=公理系の限界性=ψ8?)を超えるものは「論理」自体あるいは「超論理」ではなく、感情(ψ10)だということではないだろうか。
例えば、地球を木端微塵にできるほどの爆弾(核兵器であろうが何であろうが構わない)があって、その爆弾を爆発させるボタンを一人の権力者が握っているとき、その権力者が何だかムカツクという一時の感情に任せて、ボタンを押した途端に、地球の存在も歴史も一瞬で吹き飛んでしまう。それって、ある種の「超越性の行使」ではないだろうか。「超越」は時間も空間も終焉させる力を持っているのだろうか。
そして、この「超越」こそ、整然とした秩序の破綻を発揮し、「あってはならない」という意味の、ある種のインセスト=タブーにも似た垣根を超えることができる。うまく言えないが、それは秩序ある「平面」を歪ませるものであり、「場」の平坦性を破綻させるものである。ある種の重力場があると言っていいかもしれない。
もちろん、私が言っている「超越」は正確には「超越」ではなく、「擬似超越」であり、ダウン・スピン(=プレアデス)だと思う。真の「超越」(つまり、アップ・スピン=オリオン)は、おそらく新たな器(コンテクスト)を生成し、その内部においてそれまで器だったものを消滅させるのではないだろうか。
不思議なもので、Ω1(=ψ7)を物質界層のエーテル場だとすれば、アインシュタインらが求めたエーテルの存在とリンクするように思うし、Ω3(=ψ9)をアストラル場だとすれば、その歪みによって、重力が発生すると考えると、なかなか面白いかもしれない。
そして、ある意味、こういった「感情」に関する内容の投稿は、議論の火種となりやすい。なぜなら、決まって「すべては愛である」とワン・カラーで場の統一を図ろうとする者たちの一部もしくは多数の感情の琴線に引っ掛かり、「刺激−応答」的反応を示すことになるからである。安定した「粒子」性の場であったものが、不安定な「波動」性の場に変異するのである。資本主義チューチュー回路は、この「刺激−応答」システムという「子供性」を大いに利用する。
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No.1072 - 2009/02/05(Thu) 22:55:32
| ☆ 脱社会的身体 / kohsen ♂ [九州] [ ] | | | 最近、D・H・ロレンスの『黙示録論』というのを読んでいて、これがまたニーチェ以上に激烈な文体の本でして、かなり、頭を揺すぶられています。激烈な思想を展開する思想家の一つのパターンは、彼らがプレソクラテス期のギリシア思想に強く影響を受けているということです。ニーチェ然り、ハイデガー然り、そして、このロレンスもまた然りです。
人間的な倫理や善悪を形而上学に持ち込んできたのはソクラテスですが、それ以前の哲学者、たとえばピタゴラスにしろ、エンペドクレスにしろ、デモクリトスにしろ、彼らはコスモス全体を思考対象としたのであって、人間について思索するときも、つねにフィシスとしての人間、つまり、生きるコスモスの一部として思考していました。人間がそんなに出しゃばっていなかったのです。しかし、ソクラテス以後、さらに言えば、キリスト教以後、マクロコズム=ミクロコズムという調和的思考の原点は失われ、善悪や,罪や、裁きといった宗教的倫理、社会的道徳を巡る狭隘な問題が哲学の中心に居座るようになったというわけです。その意味でロレンスは審判思想の象徴としての『黙示録』を最も愛に欠けたユダヤ的ルサンチマンの代表的書として糾弾します。それも、おいおい、ロレンスさん、ここまで言っちゃっていいのと思えるくらい、チョー過激にです。
プレソクラテスかポストソクラテスか――宇宙とは何かについて思索していくことにおいて、このポジション取りの相違は極めて重要なことのように思えます。人間的倫理や社会的道徳をその片隅に少しでもイメージして言葉を噤むと、良い意味でも悪い意味でも多くの人が反応してきます。オレはこうだ。わたしはそうじゃないわ。etc。しかし、そこで為される議論は、多くの場合が不毛です。虚脱感だけが残る。というのも、それこそ僕らの中に巣食っているユダヤ的ルサンチマンが互いに衝突し合って、コスモスの中の一辺境の中のさらに辺境へと全員の意識を追いやってしまうからです。意識が興奮はしてもイクステンドしないんですね。自我による個々の優位さの証明。そういうことはもはやどうでもいい問題ですよね。
僕は徹底して個体として生きれる脱社会的な身体を作りたいなぁ。もちろん、強靭な社会的身体を持つことを絶対条件としてですよ。何が言いたかったのかというと、理性を揶揄するも、感情を揶揄するも、それは社会的身体の問題であって、コスモス的身体の問題ではなかろう、ということなんですけどね。まっ、とにかく己が信ずる道を邁進しましょう。
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No.1074 - 2009/02/06(Fri) 15:49:32 |
| ☆ 脱・・・身体 / Φ=WHY? ♂ [近畿] [ ] | | | No.1083 - 2009/02/08(Sun) 16:41:44 |
| ☆ 「場」違いについて / Φ=WHY? ♂ [近畿] [ ] | | | ちょっと違う方向から話をしてみます。
う〜ん。なぜ人は場によって観察者を変えられないんでしょう?特に、ヌースに関わる人たちにはそのきらいがあるように思います。
ヌーソロジーが力を持つことが「悪い意味」で専門分野の垣根を破壊すると警戒されるのは、各分野の存在の「尊厳」をないがしろにしかねないふるまいをする人がいるからかもしれません。
例えば、文学論を話している場で、物理学の運動方程式の話をしても頓珍漢ですし、物理学の現場で、女流文学について語っても通常意味をなしません。
そもそも、Bという他分野のことをAという分野の場に持ち込んで話すには、B分野のことを話す前に、A分野のことをある程度勉強して、その枠組みくらいはつかんでおくのが礼儀だと思います。
これは私自身も不勉強で完全にはその辺ができていないので、自己反省の意味も含めて書いています。
物理学には物理学の、数学には数学の、文学には文学の、哲学には哲学の、存在の尊厳があると思います。現代のように、各分野が完全に専門化され、分断されているのは必ずしも、いい状況ばかりでもありませんが、各専門分野という場には場のルールというか、法というか独特のやり方・学び方があるように思います。
ヌーソロジーにおいても、物理学のゲージ理論などの考え方を持ち込むのであれば、局所的な場には局所的な場における法というものがあって、局所的な場が異なれば当然法も異なるわけです。そうした異なる局所的な場に橋を架けたいのであれば、より高い次元の対称性からモノを言わなければならないわけです。つまり、場が違えば場における言語も違うわけで、通常は各場で異なる言語で話さなければなりません。もし、そうでない場合は、その言語間を変換できるようなメタ言語でつながないといけないわけです。
ヌースに関わる人たちの中には、どこの場であろうと、ヌース用語を平気で悪気なく使う人たちがいらっしゃいます。そこが何でも話していいようなオールマイティーな雑談の場であれば、それでもいいと思いますが、ある特定の切り口を持った場として開いている場で、超ローカルなヌース用語を、しかも何の前提もなしに持ち込むのはどうかと思います。
まあ、私のアタマが堅い、あるいは、ある意味「神経症」的である、と言われればそれまでですが、職場で漫画を読んでりゃまずいように、その場の存在の尊厳に敬意をはらうことは大事ではないでしょうか。
…いや、ヌースに関わる人たちだけじゃないような気もします。「精神世界系」の人たちにもそのような人が多いように思います。ネット社会では、安易な「垣根越え」が行われてしまって、質の高いコミュニケーションをとること自体が不可能なのでしょうか。だとしたら、それこそが「融解」であったり、内面の内面の「スマル」なのではないでしょうか。
よく勘違いをされるのは、「不確定性原理」は何もかもが「不確定」で曖昧なわけではありません。ある特定の範囲内において、双対性を分離できないと言っているだけですし、「不完全性定理」は数学的論理体系も結局不完全なので囚われ過ぎなくていい と言っているわけではなくて、これもまたその論理体系を支える構造にはそれだけでは閉じられない外部のものがあると言っているだけです。そこには「精緻な垣根」があるわけです。
「精緻な垣根」を超えるには何でもいいわけではなくて、ある特定性を持った「精緻な垣根」の超え方があると思うのです。古典力学を超える量子論の登場が私たちに教えてくれたのは、そういうことではなかったでしょうか。
「守・破・離」ではありませんが、ルールを知ってからルールを超えるというのが、本当の「垣根越え」なのではないでしょうか。
(なんでこんなこと、わざわざ書いてるんでしょう。自分に関係ないこととして無視すればいいだけのことなのに…。これもまた結局、自分自身の鏡の顕われということなのでしょう。私はまだラカンの「鏡像段階」の子供なのかもしれません。)
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No.1093 - 2009/02/15(Sun) 12:31:15 |
| ☆ Re: 感情の超越性 / 五面体プラス [ ] | | | Φ=WHY?さん、こんにちは。 Φさんにレスするのは初めてですかね。よろしくお願いします。
> ちょっと違う方向から話をしてみます。
最近のΦさんの発言は気にしていましたが、特に、この話には共感しました。
> ヌースに関わる人たちの中には、どこの場であろうと、ヌース用語を平気で悪気なく使う人たちがいらっしゃいます。そこが何でも話していいようなオールマイティーな雑談の場であれば、それでもいいと思いますが、ある特定の切り口を持った場として開いている場で、超ローカルなヌース用語を、しかも何の前提もなしに持ち込むのはどうかと思います。
一番よく起こるのは、生活などの自分の場とヌースの場の関わりですね。 たまに家族に、ヌースではこういうことを考えるんだよ、という話をするのですが、「ふ〜ん」という冷めた反応を確認するのが通例です。逆に、常々、生活の問題や自分が取り組んでいる仕事、興味を持って調べている事柄などを、ヌースの場で取り扱いたい(そこで得た知見をフィードバックしたい)と思っているのですが、これも簡単ではありません。 つまり、実態としては、ヌースの場とそれ以外の場とは、それぞれ別の世界として成立している、というのが私のケースです。まっ、こんなもんだと思います。頭の体操かSF小説か、くらいに考えておくのが妥当なセンかと・・。
ちなみに、毎年の年賀状では、ヌース的なイメージ(もうひとつカードゲームのイメージ)を書いているのですが、相手の場に踏み込まないよう「作品」という形の中に封じ込めることにしています。(よろしかったら、ご笑覧下さい。) http://blog.goo.ne.jp/gomentai/
# ・・って、宣伝かよ!
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No.1094 - 2009/02/15(Sun) 19:16:09 |
| ☆ Re: 感情の超越性 / コーマ [ ] | | | 「例えば、地球を木端微塵にできるほどの爆弾(核兵器であろうが何であろうが構わない)があって、その爆弾を爆発させるボタンを一人の権力者が握っているとき、その権力者が何だかムカツクという一時の感情に任せて、ボタンを押した途端に、地球の存在も歴史も一瞬で吹き飛んでしまう。それって、ある種の「超越性の行使」ではないだろうか。「超越」は時間も空間も終焉させる力を持っているのだろうか。」
この「権力者」というのは、旧約の怒りの神、新約の黙示録の中で最後の審判を下す神として復活を遂げる怒りの神、のことですよね(当たり前か?)。
唐突ですが、イワン・カラマーゾフの語る、この怒りの神の代弁者である大審問官は、イエスに対していろいろと難癖をつける。他方(ドストエフスキーの描く)イエスは、この大審問官に対して接吻で答えます。
ロレンスは、この大審問官に対して、「最も愛に欠けたユダヤ的ルサンチマンの代表」である、として罵る。
すると、コウセンさんの「僕は徹底して個体として生きれる脱社会的な身体を作りたいなぁ。もちろん、強靭な社会的身体を持つことを絶対条件としてですよ」という応答は、罵りつつ接吻する、ということになるのだろうか?
しかし・・・接吻という行動が意味を超越しているものだとするならば・・・以上の私の思弁は無意味、ということになるのかな。
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No.1103 - 2009/02/20(Fri) 01:09:25 |
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★ グーグルアースで反転感覚を見る / とーらす ♂ [東海] [ ] | |
■グーグルアースをしばらく覗いていなかったが、知らぬ間にどんどんバージョンアップしている。天空から地表方面への視座を反転したグーグルスカイには意表をつかれたが、それより今プライバシーの問題でも諸説かまびすしいストリートビューイングには改めて驚かされた。やはり視覚的イメージの共有は重要である。バーチャルなネット世界に一方的に取り込まれるのではなく、それを逆手にとって利用するということは有益だ。
■前世紀の話だ。半田コーセン氏と「反転」について話をしていて、私はエッシャーの大好きだった『反射球体と手』というリトグラフを示し、「この球体の表面にどんどん接近していき、内部まで貫通したらどう見えるのだろう。その表面に接近するに従って空間曲率がどんどん±0に漸近して行き、接した時がゼロで、貫通したら極率が反転してしまい、背後を振り返ったら球体表面が最初と同じように見えるのではないか」と言った。
■半田コーセン氏は非常にシンプルに当時のヌース用語でそれを解説してくれた。その解説自体は覚えていないが(…ゴメン!)、考え方は間違っていないことは共有できたと思った。非常に初期の初期の「反転」という概念だ。しかし何より驚いたのは、今や上述のグーグルアースの「ストリートビューイング」(プライバシー問題等でも話題だがそちらは置いておくとして)でこれによく似た体験をいともたやすく味わえるということだ。
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No.1096 - 2009/02/18(Wed) 00:59:19
| ☆ グーグルアースで反転感覚を見る2 / とーらす ♂ [東海] [ ] | | | ■ちなみに現時点では東京や横浜・神戸・仙台などでは見られるが、まだ名古屋や博多などでは展開されていない。しかし話の流れ上、そのエッシャーの球体をタイトルページにしたマンガ(『明珠』)を描いていた頃、よく通っていた東京は井の頭公園駅の近くにある喫茶店を例に出して話を進めたい。ここは半田コーセン氏がバイトをしていたお店でもある。これこそプライバシーの流出だが、まあその辺はシカトさせていただこう。
■画像に沿って話を進めよう。先ず左の画像は普通の井の頭公園駅から駅前商店街を見た画像だ。実は通りに沿ってカメラのポイントが示されている。右の画像は少し引いて上空から見たものだ。駅前通り上にストリートビューポイントを示すカメラが並んでいる。最初の画像はこの一番右?@から見た図だ。次に右から5番目?Aのカメラをクリックしてみる。するとエッシャーの球体内部に突入していくように画像が反転するのである。
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No.1097 - 2009/02/18(Wed) 01:00:22 |
| ☆ グーグルアースで反転感覚を見る3 / とーらす ♂ [東海] [ ] | | | ■実際は連続的だが、それは興味がある人に各自で体験してもらうとして、切り取った右の画像を見ていこう。先ず擬似3D化された画像上に、カメラで見た光景が内部から映りこんでいるような球体が浮かぶ。それをクリックするとどんどんその球体に接近して行き、ついに内部に入って反転した視座からの画像へと、かなり滑らかに切り替わる。そしてその逆も可能である。この技術や仕組みはよく分からないが、感覚は実に面白い。
■まあ見ようによっては、1つの世界と個人的視座のモデルにもなりうるし、もし個人同士を示すの2つ以上の球体がある時、これら同士の関係はどう表現するのかとか、色々と思いがけぬ広がりも可能だろう。もちろん規定の技術を前提にしているということを失念して話を進めたら、最初から取り込まれてしまっていることになるので、あくまでも利用するという立場でではあるが。しかし時代はすでにここまで来ているのか。
■なおバージョンの操作の違いなどはあるかも知れないことをお断りしておく。何よりご自分で操作してみて、反転の感覚や、自分が実際はどの視座からモニター内の画像を見ているのかの自覚自問をなされるのも宜しいかと思われる。時空連続としての4次元ではなく、空間としての4次元の射影として捉える多数の3次元物体の統合と考えれば、初期ヌーソロジーの概念の視覚化は可能であろうと考えるようになってきた昨今である。
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No.1098 - 2009/02/18(Wed) 01:01:05 |
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