こッ…こんばんは!(←谷風長道風味に。) 漢方薬のおかげさまで父のケガは順調に治っている今日この頃、皆様におかれましてはいかがお過ごしのことでございましょうや?
12月とは思えないような、もんのすごい寒さのせいか、うちの一族で最年長の爺ちゃんが先日亡くなってしまいました。もう2、3年前から言動がアレだったので、その兄弟姉妹も覚悟ができていて、あんまり悲しんだりしないのが印象的。やっぱり親子で一緒に住んだ方が良かったんじゃないのかな…とか思ったりしました。でもワガママな爺ちゃんだったから、当然の結末と言うしかない…なんて思ったりもします。
さて、本日は太平洋戦争開戦記念日でございます。いろいろ書きたいけど、もうちょっとネットオチしなくちゃならないので、今日は以前、??1313に書いた聞き書きを、再掲します。
親戚のじいちゃんに聞いた話、昭和20年に13歳だった人の、北関東某市での体験談です。イシはあらゆる戦争に反対する!!!!!
*********以下 聞き書き *************
空襲の時には町じゅう焼かれてな、庭の黒土を掘った防空壕に入っていたら、どうにも嫌な予感が強くしたんだよ。「ここにいたらダメだ!出るんだ!出るんだ!」と騒いでお袋や兄弟を引っ張り出して、妹を背負って逃げ出したんだが、逃げる後から後から焼夷弾が追ってくる。気がついたときには結局、家から7キロも離れた土地まで走ってしまった。
夜が明けて戻ってみたら、電信柱が根本まで焼けていてな。当時はぜんぶ木の柱だから。電柱の焼けた面が地面と平らになってるんだぜ。焼死体もそこらじゅうにゴロゴロあったよ。家なんか炭と灰になっててよ。防空壕には焼夷弾が落とされてたよ。あのとき逃げないでいたらみんな死んでたろうな。親父の蔵書でドイツ語やフランス語の文献が本の形のまんまきれいに灰になっててさ、開くと読めるんだよ。ドイツ語もフランス語も読めねえけどさ(笑)。字の形としてくっきり見えるわけ。灰の上に。触ってるとポロポロ崩れるけどな。哀れなもんだったなあ。
ウチは鉄鋼業の浸炭剤とその材料を扱っていたんだけど、それが大量にストックしてあったから、空襲後はずっと燻り続けていて、敵機にみつかる!とか言われて困ったよ。便利な水なんか無いし、かけても炭だから消えやしないんだよ。でも2日すると、近所の人たちが火を貸してくれって言うのさ。くすぶってるところをちょいとかき分けて、鍋を置いておくと、芋とか煮えるんでな。うちには商売の関係で食糧がいくらかあったから、それを使ってお袋が近所の人たちに炊き出しをしたんだ。あのあたりじゃあ、そんなことができたのはウチぐらいのもんだった。自慢じゃないよ? 困ったときはさ、そうするんだよ。
無条件降伏の3日前に、近所の陸軍大尉さんが、食糧やら何やら軍の物資を勝手に自宅へ持ち込んでいるのを見た。大量にだ。おかしいなと思っていたら、その3日後に無条件降伏だよ。いついつ降伏するぞって、軍はかなり末端の連中まで知っていたんだな。その大尉さんはすぐ屋台の店を始めて儲けてたよ。国民の財産をかっぱらって、私腹を肥やしていたわけだ。他にも沢山の軍人やら軍属が倉庫から物資を略奪していった。俺はまじめな軍国少年だったから、何もかも信じられなくなった。軍人になって国のために死ぬつもりでいたからなあ。 |
No.1490 - 2014/12/08(Mon) 23:54:14
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