毎月1日は映画の日、「ぜんぶ、フィデルのせい」を見た。9歳の女の子アンナが考え続ける映画である。子供のころ、5、6歳にもなればすでにたいていの感覚は備わっている。だから考えることができる。しかし大人のほうもいまだにみな考え続けている。そこには少しの違いしかないのだ。考え続けているお互いが触れ合う映画だから、見ていてひと恋しくなる。
以前ボニータに再会しにいったとき、その帰る日の午後、食卓のテーブルに腰掛け、スペイン語がほとんどしゃべれない俺に彼女が、確か指さし本の最初にあった日本語の説明文を読んでみてと言った。すらすらと読み終わるとうれしそうに拍手してくれた。この映画を見ながら、そのときのボニータの笑顔をなぜか思い出していた。アンナの表情はリスバニアを連想させる。しかめっ面で怒っているかと思うと、それは本気ではないと安心させるかのように、ひらひらとおどけて踊り始める。大人たちの様子もよくわかっていて、これもボニータとの思い出話だが、問題を抱えながらも最終日ハバナに向かわねばならず、玄関先に二人並んで最後の相談をしていたとき、他の家族は気を使って離れた場所にいたが、ふと何かの気配を感じすぐ横のドアのほうを見ると、さっと隠れるリスバニアの姿が隙間から見えた。
これはつまり子供の話でも大人の話でもない。考えること、他者について知り、関わっていくこと、そういう映画である。アンナは考え続け、親を知り、故郷を知り、他者を知っていくことによって、教師の教えを自分なりに判断できるようになり、父の悲しみを理解できるようになり、そしてあらゆる異者たちが入り混じる世界にみずから一歩を踏み出していく。新たな世界にはいりこみ、すくっと一人で立ちつくし、じっと自分の目でながめ、そういうアンナに手をさしのべる未知の子がいて、おそらくは少しとまどいながらも、その子の手をとって輪の中に入っていくあの瞬間、あれは人間にとっての希望のしるしだろう。 |
No.3524 - 2008/02/02(Sat) 08:25:02
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