どうも莉緒です。更新しました。思えば一年ぶりで、おおう!って感じです。常に頭の片隅にあって、断片的にこのやり取り入れよう、こういう展開にしてったらいいんじゃない?と考えてたので、一年も経ってるとは思ってませんでした。そういう思い付きを細々とメモってはいるんですけど、あまりに細切れ過ぎて、自分でもしっちゃかめっちゃかになってます。 とりあえず、一部完、です。少しだけ清幸っぽくなってきて、ようやく物語にも動きが出てきたところですね。 一応三部構成になってますので、本当の完結はまだまだ先です。ただ、一部が一番長いと思いますので、二部・三部はもっとサクサク進めたらいいなーと思います。
以下、ちょっと個人的な話です。正直、あんまり気持ちの良い話ではないのと、ちょっと道徳的にアレな感じなので、伏せておきます。
今日は敬老の日でしたけど、今年の六月に祖父を亡くしており、父方・母方共、祖父・祖母はいません。あんまりこういう話をするのは良くないとは思いますが、わたし自身淡白というか、すぐに忘れてしまう性質なので、節目節目でこういうことを残しておきたいな、と思い、文章を打っています。
わたしは多分、人の死というものが結局のところ理解できていないんだと思います。 最期の瞬間には立ち会うことはできませんでしたが、火葬される最後の最後まで触れることはできました。宗派や葬儀屋さんによって異なるとは思いますが、最後に顔に触れることができました。体温などはもちろんなく、冷たかったことを覚えていますが、それよりもまずわたしが思ったことは、不謹慎にも、作り物みたいだなあ、でした。体温がないせいか、感触はよく出来た人形、で通るように思えました。京極夏彦氏の小説の中で、『人間は死んだらただのモノに過ぎず、』というフレーズがあって、それは決して共感してはいけないものだと分かってはいるんですが、ああこういうことなのかな、って思ってしまえるところがありました。こういうことをわざわざ文章に起こして、誰かの目に触れさせるのを見っとも無いと思う人もいるとは思いますし、わたしもどちらかと言えばそちら側の人間なんですけど、それとは別に、思ってしまったのだからどうしようもない、というとんでもな自分もいるわけで。うーん。
決して、祖父が嫌いだったわけでもなく、大事にしたい思い出もたくさんあります。同時に、家族に対して抱く、特有の疎ましさというのも、もちろん持っていました。好き嫌いの感情に関係なく、変わらずに一緒にいる存在、というのが、多分わたしの家族認識なんだと思います。だから、家族に対して、好きだの嫌いだのというのはあまり思いません。だってそういうのと関係ない次元に存在していますので。好きだろうが嫌いだろうが、お互いに憎まない限り絶対にそこにいる、っていう、のかな。うーん難しい。 ただ、絶対にそこにいるっていう認識をしていた人がいなくなって、それなのに世界はちゃんと回ってて、なんだかなあ、と思うんです。いなくなってしまったことを重く受け止めておきながら、欠けたはずの世界で前と変わらずに生きてるっていうのは、悲しいとか寂しいとか、そういうのももちろんあるんでしょうけど、やっぱり、なんだかなあ、なんです。 正直、わたしはお経を上げる意味がわかりません。お墓をお参りする意味がわかりません。家族がしているのを止めたり、自分だけ知らん振り、というのはしませんが、そうしなければならない感情がわたしは分かりません。そこにはもう何もないというのを知っているのに、○周忌するのはどういう感情での自己満足なのかな、と。 うちでお経上げてくださるお坊さんが、葬式やお経を上げるのは故人の為じゃない。だから、これだけ立派な葬式をやってあげた、これだけお金を出して仏壇を作って、お経上げてもらって、という考え方はよしなさい、と言って去ってかれたそうですが。お経を上げるのが、故人を悼むためなら、文言一つ分からないお経を上げるより、その人の思い出話をする方が、わたしは道理に沿ってるんじゃないかなあ、と思うのです。なんとも中二病チックで申し訳ない。
胸糞悪くなる話ですいません。ありがとうございました。 |
莉緒 No.1957 2013/09/16(Mon) 22:42:36
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