■2015/01/17(Sat)■
こんばんは。 なんだか一日色々ありました。泉河です。
昨日まで、というか、今朝までは、二十年前の一月十七日の話を、させてもらおうかなーと、思っていました。
誰にも言えずに胸にうちに溜めていて、それでも色褪せない記憶を、二十年も経ったのだから、そろそろ外に出してもいいんじゃないかと思って。
笑いもありますが、多分ドシリアスの、読んだ方もちょっと気分を害すような、そういう思い出を綴ってみようかと思っていました。
が。
従姉とやらかしたプチ喧嘩で全部吹っ飛びました。 なんかもう、そういう方向のシリアスじゃなくなったよ!
ちなみにこの喧嘩、ほぼ確実に私が悪いです。 心無い一言で、普段は穏健な従姉を怒らせてしまいました。
しかし、怒らせたと解ったえらい長文メールを読んだときは「なんであの程度でこんなにキレるの?」と呆気にとられてしまって、読み直してじわじわ腹が立ってきて。 あの程度で、絶縁状に近いメールを送られる謂われないんだけど? そもそも、このことは何回も言ってるし、そう思われる言動するそっちに問題あるんじゃないか、とか、まぁ色々と思ってしまいました。
そこで感情のままにメールを返信したら、本当に取り返しがつかないことになりそう、という理性は働いたので、読んだけど、気持ちの整理してからちゃんと返信します、とだけ返しました。
その後、洗濯片づけたり食事の用意したりしながら、あれこれ考えまして、そういえば、こういうときって座ってじっと考えてるより、用事しながらの方が考えまとまるなーと、どうでもいいところでエイクとの共通点を発見。 ただし、奴ならこんな時、相手を責めたりしないんだろうな、と思って。
そういえば、色々と体調が悪かったり病院に通わなければならなかったり、従姉は大変な時期なのです。それを知っていても、「しっかりしろよ!」という気持ちが私にはあるのですが、それは心配の裏返しで、でも、心配しているからって、その気持ちを押しつけて、何を言ってもいいわけじゃないよな。前は傷つかなかった言葉でも、今は傷つくのかもしれない、と、自分の反省箇所を見つけ、夕食の準備が完了した時点では、「私が悪かったな」という気持ちになりました。
そのうえ、従姉は長文メールを打って、私に解ってほしいと訴えてきてくれた。関係を切るつもりなら、きっと返信しないで終わっただろうと思いますが、ちゃんと理解を求めてきてくれた。 それを全部読んだって、私は余計心配になったし、全然理解できないけれど。 たぶん、従姉に言うべき言葉は、「解ってあげられなくてごめんね」なんだと思います。
ということで、夕方から完全に従姉の方に気を取られまして。
なんかもう、阪神淡路大震災二十年を想う―――という感じにはなりませんでした。
きっと、書かなくていいっていいう思し召しなんだろうと思うので、今年はスルーしようと思います。
ただ、せっかく思い出したのでウケのいい笑い話をいくつか(震災大変だったんだろうな、という人の気持ちを踏みにじる笑い話です)。
一、震災の一番ひどい揺れのとき、私は寝ていました。めっちゃがたがたする山道を車の荷台に乗って運ばれている夢を見ていたという残念な事実(起きなかった)。
二、地震の後、小学校の校舎が避難所になっていたので授業が始まるまでに時間がかかり、宿題のない冬休み延長感覚。その上、校舎建て替え中だったのですが、木造旧校舎は使用できて、新築の鉄筋コンクリートの新校舎が罅だらけ、半壊認定で立ち入り禁止(心から残念)。
三、子供はたくましいので、余震の震度当てが流行りました。余震のたびに、みんな静かになって――― 「5!」「そんなにないわ。4!」「三階やからゆれるやって。3!」「5やと思うけどなぁ」 と口々に言い、テレビで震度を確認。当たったやつが喜ぶのと、次は負けないと闘志を燃やす(余震って……)。
四、避難所によって救援物資の種類が違うので、教室でどこどこの避難所はカップラーメンがあるとか、おにぎりが多いとか、情報交換が朝の挨拶代り。
まぁ、総じて子供はたくましいというあたりが笑いを取れますかね。 ちなみに私は小学校五年生だったので、そのたくましい子供でした。 今ならあんなにポジティブに生きていけないですねー。怖い怖い。
というあたりで、今日は失礼しまーす。 お風呂入って従姉にメール打ちます。
No,520 泉河 20:43:52
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