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日中戦争と曹洞宗 ―榑林皓堂「事変と仏教」―(1) / 地の声 引用

日中戦争と曹洞宗 ―榑林皓堂「事変と仏教」―(1)

昭和12年7月7日に勃発した日中戦争(支那事変)を当時の曹洞宗はどう捉えていたのか。大本山永平寺機関紙『傘松』昭和12年10月号掲載の標題の論説を全文紹介することにより、日中戦争の歴史的意味が定まりつつある現在の視点を通して、当時の本山あるいは宗門がどのようなベクトルを持って当時の宗門僧侶に影響を与えたのかを考えてみたい。因みに筆者は当時駒沢大学教授で宗門を代表する論客であり、戦後は駒沢大学総長となったことを申し添える。

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事変と仏教      榑林皓堂

 本稿は九月号のために八月中旬御執筆を願ったものでありますので、事変の展開状態に今日とは多少の相違がありますが、本稿を通して筆者の云わんとするところは事変の報道ではありませんので、そのまゝこゝに掲載させていただくことにいたしました。(編集子)

 北支事変は今の所なお事変であり、我方の不拡大方針に依て大したことには成って居ないが、それでも是迄の間に皇軍将兵の可成り多数の尊き犠牲を払って居り、今後、先方の出様如何に依っては、由々敷大事に至る可能性が多分にある、この事変が無條約時代の第一年の出来事であるだけに、国民一同重大なる決意を以て臨まねばならぬ。国防を第一線の将士のものとのみ思うことなく、国民大衆が将士とその労苦と護りを偕にすると云う強き意識を以て、国防献金に、慰問金の募集に大童となって居る外、神社仏閣に皇軍の戦勝、出征将士の身体堅固、武運長久を祈願し、銃後の赤誠を披攊しつゝあることは誠に当然であり、それでこそ上下一致、国民総動員の実を挙げたことになる。かくして国運は天地と共に彌栄えに栄えるであろう。
×  ×
 事変とは地方的紛争であって勿論戦争ではない。しかし戦闘行為武力行使であることは事実である。武力行使は必然に人命の破壊損傷を随伴する。而もそれが大量的に堂々と行われる。仏教徒が受戒の当初に不殺生を誓い、如何なる場合にも不殺生が第一に挙げられることを考え、更に仏教の慈悲が放生会とまでなって、禽獣蟲魚にも及び、能う限り彼等の生命を全うさせようとする仏教の立場からすれば、仏教徒は戦争に参加し得ない如くでもあり、寧ろ反戦運動こそ本来の建前に近い様にも考えられよう。然し事実は反対であって教会人と雖も国家の危急に敢然奮い起って大義名分の為に鬼畜にも等しき暴兵を膺懲せねばならぬ。
 こゝに我々は戦争の原因と種類とを考えさせられる。しかし専門家ならぬ素人に緻密な分類、精細な区分は出来もしないが、常識的に見る限りまず侵略の為の戦争が考えられる。これは自国の強大、征服欲の遂行、勝利の快哉、経済資源の獲得等々が原因となる。次に自衛の為の戦争、独立確保の為の戦争、正義の為の戦争があり、更に信仰に基く宗教戦争もある。而して今次の北支事変が正義の為の戦争であることは云うまでもない。勿論日本の戦争は日清日露を始めとして何れもそうであり、今後も同様の場合があるとすればそうあるに違いないが、恐らくそれは仏教精神の影響であろう。仏教に依って育成せられた日本精神は常に人類の協調、東洋永遠の平和を目指して止まない。仏教の感化なくしてかゝる超国境的、一視同仁の徹底化は無いであろう。
 而して東洋永遠の平和は、東洋人の東洋と云う自覚に立つ心からなる日支提携以外にあり得ぬことは何人も熟知のことなるにも拘らず、支那の為政者並に軍閥の輩は自己の地位獲得と野望達成に狂奔し、良民を苦しめ搾取をことゝし、或は利権を以て某々国等を巧みに操り、遂には支那全土をして国際利権闘争の舞台たらしめ、引いては皇国の権益を侵害し国家の安全性をおびやかすに至る有様である。玆に於てか彼等の認識を是正し其の日支親善、東洋恒久の平和確立の為にその暴戻を膺懲し自覚を促す戦争は、理想への転換過程として真に止むを得ざるものであり、仏の慈悲より現れたる聖戦であって、不動明王の瞋恚の相を人間化せるものである。依ってこれを正義の戦と名乗ることは正しい判断である。事変以来、吾等仏教徒が赤心奉公の誠を以て天地神明に祈り仏祖の照鑑を仰いで、皇軍の戦勝、出征将士の身体安全、武運の長久を祈念する所以はこゝに在る。謂わばそれは邪悪の亡滅と正義の勝利を祈る心に外ならぬ。

(続)

No.725 2008/10/13(Mon) 05:36:52


『沢木興道 聞き書き ある禅者の生涯』 / 地の声 引用

沢木興道と言えば宗門の名僧であり、その名を知らぬ宗侶はいない。だが、彼がどのような仏教認識を持っていたかとなると、それを知る宗侶もまた稀であろう。日露戦争当時の興道の「武勇談」はこのブログでも引用したが、この度それが標題の書(酒井得元著 講談社学術文庫639 1984)にあることが分かった。以下同書(pp.96-100)から引用。

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明治三十七年、いよいよ日露戦争が勃発して、わしらの分隊は、第二軍第三師団歩兵第三十三連隊に編入され、五月五日遼東半島、金州南方の地点に上陸した。‥一度戦争となると、えらく結構なもので、撃ちつづけて銃身が赤熱して動かなくなると、変な腰つきをして小便ひっかけ‥またつづけて撃っている。折れたり破損すると、死んだ兵のと取り替えておくといったふうで、実戦のほうがよっぽど楽だ。わしはここへ来て、いままで経験したことがないほど、のびのびした自由な気分になって、こんないいところはないわいと思った。‥三年のあいだ、わしらをひどい目にあわせた奴は、ここへ来てから揃って腰を抜かしていたので、みんなぶんなぐって気合いをいれ、結局みんな仇を取ってしまった。ところが、みんなが、「ありゃいったい何者だ」「うん禅宗の坊さんだげな」「なるほど、さすが禅宗の坊さんはちがったものだ、肚がでけとる」とか言って、非常に感心してしまった。わし自身もどんなものだいといい気になっていた。‥そのころの戦いは現代戦に比較すれば風流なもので、一発一発バンバンと弾を撃ったものだ。‥それでも、日露戦争を通じて、わしなども腹一杯人殺しをしてきた。なかでも、この得利寺の戦いでは、敵を落とし穴に追い込んで、ねらい撃ちにして能率を上げたもので、中隊長はとくに、わしのために個人感状を申請したが、感状はおりなかった。‥

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ああ、これが禅僧の鑑と呼ばれる沢木興道なのかと思うとやりきれない。戦後、弟子酒井得元に語ったものだろうが、まるで無反省である。曹洞宗には大きな戦争責任がある。それは今でも反省されないまま今日に至っている。

No.724 2008/10/11(Sat) 21:28:11


曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(6) / 地の声 引用

曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(6)

一方では深く戦争を反省し、他方では「英霊」を供養する。1953年(昭和28年)高階瓏仙禅師はハワイ北米巡教をおこなった。その「通信」に禅師の偽らぬ感想が語られている。

「‥一番深く感じたことはアメリカ人が宗教に対する関心が深いことである。宗教をもたぬ人は無い位であるから、就職する場合でも神の前でその会社なり役所なりに忠誠を誓う宣言をする。牧師が仲に立って誓わせるのであるから意義もあり、効果も多い。一体現在の日本程宗教に無関心の国はない。知識のある階級ほど宗教を軽んじる。煩悩のからみついたままの頭で正しいものを批判しようとするのだから、現実が正しく把握される筈がないのである。英国女王の戴冠式も法王の手で行われる程宗教に対して厳粛であるのに、日本では英霊の慰霊祭を宗教に依らないで行うというような不可解なことを国家それ自体が行っている有様である。」(「高階瓏仙禅師伝」)

なぜこの国が「靖国」を曖昧な存在にしたままなのか(現在は右傾化して「靖国」が公式のものになろうとしているが)、その理由が分からなかった。宗教が戦争を鼓舞したことを一時的には反省したものの、体質的に否定しきれなかったからだろうか。いわゆるダブル・スタンダードなのだろうか。宇治の靖国寺に行くことに違和感がなかったことは、高階瓏仙禅師の戦争観と仏教観を如実に顕したものであった。

ダブル・スタンダードのまま生き続け、法を説き続けることができた根拠はなんだろうとわたしは考えざるをえない。高階瓏仙禅師の心中を見ることはあたわないが、想像することは可能だ。「よしあしの 中を流るる 清水かな」。禅師が好んで語った句だという。戦争と平和の両極端のなかで翻弄された禅師は、この境涯に至ることによって自らを救ったのではなかったか?そして‥その「清水」とは、「母」の愛情に包まれていた、無垢で伸びやかな少年・玉雄時代の心のことではなかったのか?高階瓏仙禅師の口もとには傷があった。子どものころ水に落ちて口を切ったことがあった。医者は傷口を縫合したが、玉雄があまりにも痛そうに泣き叫ぶのを見かねた母は、後一針で終わるというときに、医者から玉雄を奪い取って家に帰ったという。そうして口もとに傷が残ったが、それは母との絆そのものだったのではなかろうか?

高階瓏仙禅師の歩みは、そのまま曹洞宗の歩みである。戦争責任を真っ向から受け止めて、そこから力強く生まれ変わることができなかったのは高階瓏仙禅師だけではない。彼を頂いて戦争責任を曖昧にした曹洞宗自身がそうなのである。いまの曹洞宗に高階瓏仙禅師を批判する資格などない。しかし、宗門を正しい方向に向かわせるためには、だれかが取り組まなければならない重いテーマであることだけは言える。

(完)

No.723 2008/10/09(Thu) 08:29:30


永平寺に於ける軍事教練 / 地の声 引用

「入営後一ヶ年一ヶ月を赤い夕日の満洲にて過ごして来ましたが、祖山三ヶ年の青訓を受けた為め、去る十二月一日上等兵に進級致しました。是れ一重に諸老師の良き教えを受けた賜と深く感謝して居ります‥」と、美しい満洲国の風景絵葉書のお便りが参りました。御進級お祝い傍々一層の御健闘をお祈りします。(『傘松』昭和10年2月号p.34「地方だより」)

つまり、当時永平寺に併設されていた青年訓練所で軍事教練を受け、そこで「諸老師の良き教え」を受けたから上等兵になった‥と感謝している便りである。曹洞宗の大本山永平寺が仏教精神と対極にある戦争教育をしていた事実に驚きを禁じ得ない。ちなみに永平寺の青訓には2〜30名が在籍していたようだ。

青年訓練所は同年、文部省と陸軍省による協力体制の下発せられた「青年学校令」によって、実業補習学校と一本化されて青年学校となり、戦時教育体制がより一層整備強化されることになる。傘松学園併立永平寺青年学校は主事に単頭源奕鳳、下志比局長加藤巳之助を教官とし安居僧葛義身兄が補佐、毎月四九日午後既定の教育を行った。学校生30余名(1935年8月現在)。

さて、大東仁『お寺の鐘は鳴らなかった』(教育資料出版会1994)やブライアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』(光人社2001)の表紙に使われた衝撃的な写真(修行僧が永平寺勅使門前で鉄砲を担ぎ行進しているもの)が、どのような事情で撮影されたのかがようやくわかった。以下『傘松』昭和11年8月号p.28「祖山だより」より引用する。

◇永平寺青年学校視察

福井県下に於けるたった二つの私立青年学校の一つにかぞえられている永平寺の青年学校視察のため金沢師団司令部附牧小将‥前駒沢大学配属将校(※)‥は副官神谷中佐、福井連隊区司令官市島大佐、同司令部附岡澤中佐、県嘱託厚地中佐、上田県社会課長、平野社会教育主事等を伴って去る六月二十二日午前九時来山、前後二時間の長きに亘って学科及び教練を仔細に参観し、終って県社会課長、神谷副官、市島司令官等の講評がありました。尚お同日は関係生徒皆出席にて制服武装姿もイサムしく(ママ)文字通りの颯爽ぶりを発揮いたしました。

※「配属将校」‥学校教練(軍事教練)に配属された陸軍現役将校のこと。(地の声:注)

この有名な写真の、左で軍刀を下げて修行僧たちの行進を査閲しているのは、右胸にある隊長章から察するに市島大佐ではないだろうか。永平寺と金沢九師団との関係は深く、南京一番乗りを果たしたことで知られる九師団鯖江三十六連隊は永平寺境内で露営訓練も行っている。永平寺と金沢九師団の関係は後日再度採りあげたい。また軍人布教に於ける禅と戦争の結合についても調べてみたい。

私は、以前このブログで「禅の暴力性」に言及したことがある。凡そ修行道場はある意味「暴力性」を孕んでいる。しかし、それが仏道のためなのか組織のためなのかによってまるで正反対の意味をなすものとなる。事実、戦時中修行僧が戦争の訓練をしていたことはその典型とも言えるし、あるいは、間違った暴力容認主義がいまだに宗門内にはびこっていれば(その可能性は極めて高いが)実に由々しき問題でもあるのだ。宗門の戦争責任及び戦後責任の一証拠として、本山に於ける軍事教練の事実を特に記しておきたい。

No.722 2008/10/02(Thu) 06:17:37


曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(5) / 地の声 引用

曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(5)

二度の「転向」で、高階瓏仙禅師は本来の仏教者に戻ったのだろうか?わたしにはどうもそうは思えないのだ。

「日本一 靖国寺は 宇治のこの寺。 靖国の 寺と お茶で ほこる宇治。」(高階瓏仙 昭和37年)  京都宇治に靖国寺がある。

「当寺は、靖国神社に対して全国の戦没英霊を仏式に合祀する日本唯一の寺であります。 建立者 中井祖門師が昭和4年に当時の首相 田中義一氏と熟議し、賛同を得て発願され建立されました。
 昭和16年より全国を托鉢勧募した浄財で用材を買い求め、本堂建立に着工し、各地の信徒の多大なる寄進により、同18年11月に入佛式を修行勤皇山靖國寺として24年4月落成した。
 戦没者の遺骨、無縁の英霊等 全国各地より奉安置され、26年には靖国神社より二百四十万余りの御分霊をお迎えして、お祀りしております。
 御開山には永平寺の71世貫首(曹洞宗管長)である高階瓏仙禅師を迎え、曹洞宗永平寺の御直末寺院となりました。建立発願者の中井祖門禅師は、三世開創となっております。
 昭和63年より山号を鳳翔山と改め、檀信徒教化の場として、また宇治の観光名所の一端となっている。」(同寺ホームページより)
http://www.eonet.ne.jp/~yasukunidera/yasukuni-topindex.html

高階瓏仙と中井祖門。二人は昭和13年、中国戦跡弔霊の旅で同行している。一方は管長代理として、他方は勤王護国会長として。中井は遺骨(土砂)を収集し、靖国寺を建立する計画だった。そもそも靖国は戦争遂行装置である。「英霊」を餌に市民を戦地に送り人を殺させたのである。どう言い繕っても仏教ではない。だが、高階瓏仙禅師が戦後「平和の使者」となってからも中井祖門「靖国寺」との交流は続いた。

1943年(昭和18年)同寺入仏式では「‥今月今日明治節の佳辰を卜し、本尊入仏式を厳修し、宗祖興聖護国の清規に遵う。恭しく今上天皇陛下聖寿万歳、尊牌を奉安し、専ら祈り奉る宝祚無窮、国威宣揚、皇国強固、敵国降伏、武運長久、聖戦完遂‥」と法語を唱えている。戦後1950年(昭和25年)、1955年(昭和30年)靖国寺で行われた授戒会にて御親化、1961年(昭和36年)には「靖国寺中井祖門像除幕式」で「仰ぐべし宇陽靖国寺。英霊殿閣中天に聳ゆ。祖翁念願不休徳。石像万年化縁を留む。」と法語。1964年(昭和39年)中井祖門(大教師)本葬、1965年(昭和40年)の小祥忌に「禅機活達道心全し。護法受宗福田を開く。靖国生涯放下去り、勤王山色余光鮮やかなり。」と法語している。高階瓏仙禅師と中井祖門「靖国寺」との関係の深さが知られることである。

(続)

No.721 2008/09/30(Tue) 20:59:40


予告 / 地の声 引用

10月12日(日)22:00放送
NHK教育テレビ

ETV特集

「70年目の名誉回復〜宗教者の戦争協力」

日中戦争がはじまった1937(昭和12)年7月、大多数の宗教者が戦争に協力していく中で「戦争は罪悪。この戦争は侵略である」と説き、検挙された僧侶がいた。浄土真宗大谷派の高僧・竹中彰元。警察の追及にも信念を曲げず、本山からも布教使資格のはく奪処分を受けて、1945年にこの世を去った。

長らく忘れられていた彰元の行動が再び脚光を浴びたのは70年近くが過ぎてから。300ページにおよぶ当時の取り調べの記録が寺でひそかに保管されていた。そこには、事件当時の関係者の証言と共に、彰元の信念も赤裸々に記録されていた。地元の人々や多くの宗教者たちの熱心な運動により、去年10月、本山はついに彰元の名誉回復に踏み切る決定を行う。彰元が検挙されて、実に70年ぶりのことだった。

本来「殺生」を禁じた仏教界はなぜ戦争に協力したのか。そして竹中彰元師はいかにして抵抗の信念を貫いたのか。発見された記録や関係者への取材をもとに描き、これまであまり取り上げられなかった「宗教者の戦争責任」について考える番組としたい。

(以上、転載)
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2008/1012.html

No.717 2008/09/25(Thu) 17:47:55

 
Re: 予告 / かものはし 引用

ハイ。ありがとうございます。観るのが楽しみです。
NHK頑張れ。地の声頑張れ。曹洞宗頑張ろう。日本仏教界頑張ろう。よ〜〜〜し。わが御檀家さんにこの番組
全員にお知らせします。捨てたもんじゃない。NKH
捨てたもんじゃない。地の声ブログ捨てたもんじゃない
曹洞宗仏教界と言われるようにお互いに頑張りましょう
淵ご老師。名無しのごんべいこと地の声殿。ありがとう。

No.719 2008/09/28(Sun) 15:43:44

 
Re: 予告 / 地の声 引用

互いに名無しのごんべいで頑張りましょう(笑)

No.720 2008/09/28(Sun) 20:47:34


曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(4) / 地の声 引用

曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(4)

1945年8月ポツダム宣言受諾。ながい戦争が終わった。アジアで2000万人、日本310万人の尊い命が失われた。曹洞宗は仏教の五戒を「国家のため、戦争のため」にすべて破っただけでなく、破戒を積極的に奨励さえしたのである。「不殺生戒」=一殺多生、「不偸盗戒」=韓国や中国の物品から財産資源に至るまでの徹底した略奪、「不邪淫戒」=強姦・慰安婦制度、「不妄語戒」=仏教を「利用」し戦争協力したこと(戦地での慰問や宣撫工作)、「不酤酒戒」=高階管長代理は中国戦跡慰霊の際、兵站部にビールを差し入れしている。

戦後数年間の沈黙があって、1950年(昭和25年)高階瓏仙管長(74)はセイロンで開催された「第一回世界仏教者会議」日本代表(総裁)として再度表舞台に姿を現す。なぜ総裁に就任したかはわからない。恐らく年齢的な理由ではないかと想像される。180度梶を切り替えた「平和の使者」としての登場であった。1954年(昭和29年)「対日戦争賠償・補償」を取り決めるためビルマのウ・チョウ・ニエン閣下が来日したさい、高階瓏仙管長は次のように語った。

「然るに先年は戦争の為に貴国に大なる被害を与えることを致しました日本軍部の本意は、東洋の各国を独立せしむる善意に出発したものが、結果に於いて其の目的と違い却(かえっ)て貴国に大なる損害を与えてしまいました。誠に申し訳の余地もありません。実はそうならない内に私共仏教徒として、その戦争を早く阻止することの出来なかったことは謝罪懺悔の外ありません。依てその方面のことは閣下のこの度における来日の使命により我が政府とお話合いを願い何卒寛大なる解決を仰ぎたいと思います。而して吾々国民同志の感情は等しく仏陀の大慈悲光明の中に復活して倍旧の親善に進むことを希望致して止みません。」(「ビルマ親善使節を送る言葉」/「高階瓏仙禅師伝」p.227)

「日本軍部の本意は、東洋の各国を独立せしむる善意に出発したもの」とは、いまだに15年戦争の真意を認識できていない限界はあるが、仏教者として戦争を阻止できなかったという反省は貴重である。一宗を代表する管長がこれほど明確に仏教の戦争責任を語ったことは先例がないのではないだろうか。

高階瓏仙禅師その後の活動は驚異的である。1955年(昭和30年・79歳)南米巡教・両大本山南米別院仏心寺開山(サンパウロ)。1957年(昭和32年・81歳)全日仏会長就任。1960年(昭和35年・84歳)日置禅師の意志を継ぎ「大船観音」完成(護国観音から平和観音へ)。1963年(昭和38年・87歳)世界永久平和使節団名誉会長としてヨーロッパ各国を歴訪。1964年(昭和39年・88歳)中国仏教協会の要請を受けて、鑑真・玄奘両師遺徳奉賛会長として日本仏教界を代表して訪中。1965年(昭和40年・89歳)沖縄で慰霊及び万国平和祈念。同年、核実験禁止宗教者平和使節団名誉会長として中近東訪問。1967年(昭和42年・91歳)韓国統一仏教・曹渓宗及び東国大学校長らの招きを受け訪韓。1968年(昭和43年)1月9日、東京逓信病院で急性心不全で亡くなるまで、まさに席の暖まる暇がなかった。

(続)

No.718 2008/09/27(Sat) 08:38:14


曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(3) / 地の声 引用

曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(3)

仏教は平等思想でありデモクラシーと言っていた同じ人物が15年でこれほど変わるものだろうか。昭和13年3月、曹洞宗管長代理として日中戦争の戦地(天津、北京、大同、大原、済南)へ弔霊に赴いている。一行は五名。教学部長奥村洞麟、佐瀬淳光(弟子、陸軍歩兵少尉)、勤王護国会長で八幡神徳寺の住職中井祖門、案内兼通訳岩谷竹二を伴っての二週間の旅だった。「(通州勝教寺を訪れて)土人は最も神聖なる崇拝所としている」(「高階瓏仙禅師伝」p.174 土人とは中国人のこと:地の声注)。「(盧溝橋事件に関して)支那から言えば蟻の穴から堤防を破壊された様な自業自得である」(同書p.194)。同年8月再度管長代理として弔霊に赴むく。青島、済南、徐州、蚌埠、南京、上海を訪れる。今回は成田大兆教学部長主事、久野随行らを帯同し、現地で中泉智法(秦部隊従軍僧、済南大覚寺住職)が随従している。戦時下曹洞宗の実態を語る証言者・中泉智法については、いずれまた改めて稿を起こしたい。「(徐州合同慰霊祭で)定刻、高階老師衆僧を従えて上殿、散華道場、香語献茶湯と型の如く禅宗独特の法式を厳修した。式後老師一場の長廣舌を揮って戦時下将兵の覚悟より銃後国民の努力等につき約二時間に亙り法話あり、何れも法喜禅悦の妙境に酔えるが如くであった。」(中泉智法「徐州慰問行」/「大法輪」昭和13年11月号pp.200-201)

昭和15年、韓国ソウル若草寺特選一世住職となるほか、曹洞宗京城別院開教記念で「渡島」。同年、高階「軍人の要諦」が「修養世界」に二回にわたって掲載される。

昭和16年太平洋戦争始まる。奇しくも同年、高階瓏仙は総持寺独住12世、永平寺71世昇住、曹洞宗のトップに立つ。「東亜共栄圏と仏教」(「修養世界」昭和17年)、「高階永平寺貫首迎え華北に禅風挙揚 曹洞の両本山別院竣成」(「中外日報」昭和18年5月30日号)。昭和19年、秦慧昭管長示寂に伴い曹洞宗管長に就任。

「日本主義死生観 附=靖国の哲学」(勅語御下賜記念事業部編)という書がある。昭和19年に発行、戦争末期だけに薄く紙質も悪い。戦地に赴く学徒に死の受容を説くもので、東条英機「学徒の初陣を祝う」を巻頭に24名の各宗派代表が稿を寄せている。原稿到着順に掲載されており、臨済宗高階永平寺貫主(ママ)高階瓏仙は三番目に登場する。他と比べて積極的だったことが伺われる。

「日本国民は君と親との恩義に酬いる忠孝が国民精神である。その忠孝の恩義に対しては死を以て債うと言うが武士道の原則精神であった。‥今日では御皇室を中心として君は即ち 天皇陛下であり、臣は国民であるから国家を一つにしての君臣である。‥君恩の下大義の前に惜まず恐れず身命を捧ぐるが日本主義死観である‥今回の戦争に於ける幾万の散華は皆な悉く、陛下の為笑って死に着く御盾である。之は個人主義鬼畜の敵共には分らぬ死生を超越の国民性である。敵の多くの軍兵が欺かれて追い向けられて余儀なく戦死をするものとは観念が違う。」(同書pp16-17)

(続)

No.715 2008/09/24(Wed) 22:42:24


宗報9月号「人権フォーラム」から / 地の声 引用

今回は「木本事件」。これは「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が取り組んでいる「朝鮮人差別殺害事件」である。宗門がフィールドワークをおこない、この事件に関心をもったことは高く評価したい。

実は私も「明らかにする会」に聊か関わりをもつものである。

当会は「木本事件」から紀州鉱山でおこなわれた紀州鉱山朝鮮人強制労働問題、さらには海南島での朝鮮人強制労働問題に取り組んでいて、戦時下のこの国の侵略および差別による大量殺人の事実を明らかにしようとしている。

曹洞宗が「木本事件」をきっかけにして、より深い人権および平和問題への取り組みを期待するものである。そして宗門がよく言うように「学行一如」を実現してもらいたい。すなわち、これをどう行動に移すかが今後問われることになる。

因みに、「明らかにする会」では来春の完成をめざして目下、紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼する碑の建立に取り組んでいる。追悼碑建立には約300万円かかり、支援者からのカンパを募集中である。宗報「人権フォーラム」に、このことを書くべきではなかったかと私は思う。それが「学行一如」ということではないかと私は思う。宗門人が自らの戦争責任を重く受け止め、さらには人権・平和問題を行動によって実現することが求められている。下記に振込口座番号を記す。「通信欄」に「追悼碑建立」と記入。

口座番号:00920-3-247174   加入者名:紀州鉱山の真実を明らかにする会

No.710 2008/09/10(Wed) 11:13:22

 
Re: 宗報9月号「人権フォーラム」から / 地の声 引用

関連(転載)

週刊金曜日 第718号 2008年09月12日
  http://www.kinyobi.co.jp/KTools/antena_pt?v=vol718

金曜アンテナ

紀州鉱山に強制連行の朝鮮人追悼碑建立計画

 三重県にある石原産業旧紀州鉱山で第2次大戦中、延べ1000人を超える強制連行の朝鮮人が鉱山労働に従事していた。事故や病気のため異郷で命を落とした朝鮮人を追悼し、歴史事実を伝える碑を建立する会の発会式が8月31日、同県津市であった。市民団体のほかに、在日本大韓民国民団県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会県本部なども名を連ね「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」が発足した。

 新しい会の母体となった「紀州鉱山の真実を明らかにする会」によると、1940年〜45年、旧紀和町にある同鉱山で朝鮮半島各地から強制連行された朝鮮人が働いていた。同会は、同町の寺に残された遺骨、石原産業や県の資料などから32人の死亡者の名前を明らかにした。しかし、実際の死亡者数は上回ることが予想されている。

 同鉱山では、同じ時期に300人ほどのイギリス兵捕虜も強制労働させられていた。同町には、死亡した捕虜16人の「英兵戦没者記念碑」もあり、町長も参加して慰霊祭も営まれてきた。しかし、朝鮮人に関しては鉱山資料館の展示や町史でも、ひと言も触れられていないという。

 これまで「建立する会」では、同町と合併した熊野市に死亡者の本籍や名前を知るため「埋火葬許可証」の開示や碑の用地提供を求めたが、いずれも拒否の回答だった。来春の碑完成を目指し、同会は今後も同市と交渉を続ける。

 同会事務局の金静美さんは「亡くなった人々の名前や数を明らかにし、碑に刻むとともに、歴史的責任を追及してゆきたい」と話している。

 追悼碑の基金も募っている。連絡先は竹本さん(TEL090・8860・9961 Mail
saito@eco.osaka-sandai.ac.jp)。

          (山本柚・ライター)

No.713 2008/09/17(Wed) 06:20:27

 
Re: 宗報9月号「人権フォーラム」から / riyos 引用

初めまして、貴ブログを読ましていただいている宗門僧侶の一人です。
「曹洞宗に物申す」にも書き込みましたので、大体の事はお解りかと思います。

宗務庁人権本部は、次回の研修目的を朝鮮人問題を取り上げるようです。

当寺にも朝鮮人遺骨が奉られておりますので、当時の様子は少しずつですが、解ってまいりました。

木本事件の「明らかにする会」の詳細は下記のアドレスに。。。。。

http://www5a.biglobe.ne.jp/〜kinomoto/

No.714 2008/09/23(Tue) 19:34:27


曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(2) / 地の声 引用

曹洞宗の戦争責任・戦後責任 ―高階瓏仙禅師を中心にして―(2)

仏教は平等思想でありデモクラシーであるという高階瓏仙の認識は実に健善である。しかしこの国が「シベリア出兵」「治安維持法の発令」「満州事変」と緊張を増していくなか、高階瓏仙は特選議員、宗務院総務、宗会議長と宗門の重職を歴任し、朝鮮布教総監(昭和8年・52歳)とキャリアを積むにしたがって、徐々に仏教認識が変化していく。

「大日本忠魂護国塔奉斎会は、その趣旨によって今回上海事変(第一次:地の声注)による英霊を弔することとなった。斎主老師の上海渡航のご決心は、既に交戦中よりの懸案であった‥江湾鎮の労働大学前で、自動車を降りた‥散乱せる煉瓦、土壌等を踏み越え、未発弾の危険を犯して校庭に入った‥けだし義勇軍を組織せる支那学生は、毎朝の朝会に‥五箇条の宣誓をしたという。 一、軍事の訓練 二、三民主義の信奉 三、智勇、忠信、雪辱、救国 四、政府援助 五、終生日貨排斥 こうした精神の下に学生は教養され、事変突発するや、強硬に皇軍に敵対したのであった。しかるにこの豪壮な大学の校舎の目もあてられない、惨々たる廃墟を見て、吾々一行は一種の痛快さを覚えたのであった。」「斎主御前は下駄ばきに、あげじきんのご軽装にて、右手に樫の木の木刀を杖にして進まれた」(永江金栄「上海戦跡弔霊慰問随行記」/「高階瓏仙禅師伝」pp.106-116)

昭和12年7月7日、北京郊外で盧溝橋事件が勃発。日中は本格的戦争状態に入る。第二次上海事変、南京大虐殺と双方共に多数の犠牲者を出しながら戦争は深刻さを増していく。前線・銃後を固めるため仏教が本格的に戦争に加担していく。昭和13年『大法輪』正月号に高階斎主は「可睡清話」と題して次のように語っている。

「一殺多生は大乗精神  前に言う如く恩恵の国に向って、砲火を交えねばならぬと云うことは、我が大日本帝国の有する、即ち東洋平和の大楽土を建設すると云う、その大使命を遂行する大信念の唱導に、応ぜざるのみならず、地上の悪魔とも言うべき悪思想と提携して、我が日本の天使的大理想を障碍することに対しては止むを得ざることである。これ一殺多生の大乗的見地よりする折伏の聖戦であると言わねばならぬ。」

(続)

No.712 2008/09/15(Mon) 13:33:47


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