| dieforくんがここで立てているヌースに対する問題提起は以前にも多くの人が立ててきたものだね。でも、僕はその度にセイレーンの歌声に耳を立てちゃいけない、って口を酸っぱくして言ってきた。人間個々の固有な記憶や感情的側面を抜きに、空間の経験を本質的に掴むことはできないとするdieforくんの考え方には大いに賛同するけども、記憶や感情に重きを置く前に、そうした意識的内容物が発生してきている原因をもう一歩突っ込んで考える必要があるように思う。記憶や感情は人間がオギャーとこの地上に生まれでて来て、後天的に派生してくるものだけど、ここで人間に経験されていく空間はつねに贈与された側の空間でしかないよね。つまり、presence=現前の場でしかない。自他という二人の人間が一つの林檎を巡って欲望の視線を交差させることができるのも、もとはと言えば、そこに林檎や知覚があるからだよね。その意味で言えば、林檎や知覚は人間が持った記憶や感情的側面のより本質的なルーツでもあると言えると思うんだ。でも、困ったことに、人間はその林檎がどうしてそこに在るのか、その由来を知らない。だから、当然、自分がどうしてその林檎を食べたいと思うのか、相手にも分けてあげなきゃと思うのか、はたまた相手から奪いたいと思うのか、という問題に関しても手がかりが全くつかめない。
林檎の出自も分らないまま、記憶や感情を考慮して空間について思考したとしても、肝心の林檎の存在原因が見えないわけだから、人間がいくら記憶や感情に重きを置いて〈内在-外在〉を巡る空間の襞を思考しても、結局は基礎のない建築物でしかないんじゃないかと思うな。最近はあまり語る人もいなくなったけど、僕はやっぱりここに「モノ自体」という問題を再浮上させる必要があるように思うんだ。人間の知覚に浮上してくる「モノ」とは一体何なのかという問題。モノ自体について思考するということは、言い換えれば、表象の結果として、その付属物として発生してくる情動ではなく、表象のシステム自体を生み出す原因となった情動とは一体何なのかという問題について考えるということなんだね。ヌースの言葉で言えば、付帯質ではなく、精神を思考するということなんだけど。。
|
No.121 - 2008/04/23(Wed) 14:41:28 |