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記事No.148に関するスレッドです

素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
ぼくの所感では、ヌース理論は認識における空間の構造性やその差異については、多くを問題とされているように思うのですが、空間を取り扱うにあたって取り立てて重要な空間の“質的な差異”や、経験の一回性についてはあまり語られていない、というか問題とされていないような気がしています。

どうもヌース理論のフィギュレーションを見ていると、風も吹いていないようなまっさらな地平で、何の感情も持ち合わせていない主体同士が林檎を挟んで向かい合っている。そんな極めて抽象的な空間を思い浮かべてしまうんです。でも、現実的な空間の経験においてはそんなことは決してありえないと思うんですね。

1個の林檎を囲んだ空間を想像するにしても、例えば林檎が好きな人と嫌いな人では、林檎を認識したときの空間の経験には必ず違いが出てくるだろうし、同じ林檎を同じ場所から見るにしても、今日見る林檎と明日見る林檎では、空間の経験は質的に変化していると思うのです。

ぼくはこうした個々の固有な記憶や感情的側面を抜きに、空間の経験を本質的に掴むことは出来ないように思うのですがどうなのでしょうか。

No.120 - 2008/04/23(Wed) 10:26:36

Re: 素朴な疑問 / kohsen [九州] [50代]
 dieforくんがここで立てているヌースに対する問題提起は以前にも多くの人が立ててきたものだね。でも、僕はその度にセイレーンの歌声に耳を立てちゃいけない、って口を酸っぱくして言ってきた。人間個々の固有な記憶や感情的側面を抜きに、空間の経験を本質的に掴むことはできないとするdieforくんの考え方には大いに賛同するけども、記憶や感情に重きを置く前に、そうした意識的内容物が発生してきている原因をもう一歩突っ込んで考える必要があるように思う。記憶や感情は人間がオギャーとこの地上に生まれでて来て、後天的に派生してくるものだけど、ここで人間に経験されていく空間はつねに贈与された側の空間でしかないよね。つまり、presence=現前の場でしかない。自他という二人の人間が一つの林檎を巡って欲望の視線を交差させることができるのも、もとはと言えば、そこに林檎や知覚があるからだよね。その意味で言えば、林檎や知覚は人間が持った記憶や感情的側面のより本質的なルーツでもあると言えると思うんだ。でも、困ったことに、人間はその林檎がどうしてそこに在るのか、その由来を知らない。だから、当然、自分がどうしてその林檎を食べたいと思うのか、相手にも分けてあげなきゃと思うのか、はたまた相手から奪いたいと思うのか、という問題に関しても手がかりが全くつかめない。

 林檎の出自も分らないまま、記憶や感情を考慮して空間について思考したとしても、肝心の林檎の存在原因が見えないわけだから、人間がいくら記憶や感情に重きを置いて〈内在-外在〉を巡る空間の襞を思考しても、結局は基礎のない建築物でしかないんじゃないかと思うな。最近はあまり語る人もいなくなったけど、僕はやっぱりここに「モノ自体」という問題を再浮上させる必要があるように思うんだ。人間の知覚に浮上してくる「モノ」とは一体何なのかという問題。モノ自体について思考するということは、言い換えれば、表象の結果として、その付属物として発生してくる情動ではなく、表象のシステム自体を生み出す原因となった情動とは一体何なのかという問題について考えるということなんだね。ヌースの言葉で言えば、付帯質ではなく、精神を思考するということなんだけど。。

No.121 - 2008/04/23(Wed) 14:41:28

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
>Kohsen氏

いえ、いま一つ納得がゆきません。そもそも、知覚するということは記憶を抜きにして語ることは出来ないのではないでしょうか?ある林檎を知覚するということは、記憶することによって成立するものなのではないでしょうか?
ぼくには、記憶や感情的側面を追いやった林檎の知覚というものが、抽象的で想像的なものであるような気がしてなりません。現象学に反するように思います。

No.123 - 2008/04/23(Wed) 17:38:04

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [ ]
dieforさん

ラ・ムー子と申します。
書き込みを読ませていただきました。
自分など余りに頭が足りなくて、dieforさんの書いている

>空間の“質的な差異”や、経験の一回性・・・?
>空間の経験は質的に変化していると思う・・・?
>知覚するということは記憶を抜きにして語ることは出来ないのでは・・・?
>林檎を知覚するということは、記憶することによって成立するものなのでは・・・?
>現象学に反するように思います・・・?

のところですが、おしゃっているところのものが
よくわからないのですが・・・?

あの…現象学って、そんなに凄いんですか?
現象学がよくわからないのですが、
「それに反する」、という事をおしゃっているので、
私はてっきり、現象学ってさ、
そんなに絶対的?なものなんだ!?!?
…と思ってしまったのですが。

現象学って、そこまで自分自身の感情の起源とか、
知覚の成立原因とかを、明確にしている、
とっても人間の生に精通した学ということなのですか!

そんなものが既に確立しているんだったら、
ヌースでわいわいしているオレって、アフォ〜だな…
現象学を深く学んだら良いんですよね。

そしたら、ヌース理論なんかに色々と物申せるんですよね。
馬鹿だな俺は…今まで何やっていたんだろ。
そんなんだったら、みんな
現象学を学んだ方が良いのかな…

「自分の感情的側面の変化によって、
空間の経験は質的に変化すると思う…」

あの…その「変化する質」ってものは
原形の質も持たないで、
いつも見るたびに、見るものによって
変化するって考えたら良いのですかね。

あれ…それじゃ、
毎回真新しいってことなんじゃないの?

見るたびに、以前とは何の関係もないんだけど、
そっくりな知覚正面が投影されている、
と考えるのでよろしいのでしょうか?う〜ん…

>林檎を知覚するということは、
記憶することによって成立するものなのでは・・・?

ん・・・?
え〜と、これを読むと、記憶が先手ですよね、
そして、知覚に至ると。
んん〜???
いつ記憶しましたかね・・・
知覚以前でしたか。

「初めてお目にかかりますが、
貴方のことは記憶していますよ…」
ってことで良いのでしょうか?

あれれ…

どうも…「記憶によって知覚が成立する」ということは
自分でも、そうだよね〜って思うんですが、
その記憶ってものが、キオク違いなんではないのかな〜
(な〜んてね。)

己奥とか、既置く、とかが良いかな〜。
自分の中に既にあるものとか言う感じ?

そこ(己が奥深く…)に、感情や情動を超えて(っていうか
それらが成立するよりもっとマエに)
『風も吹いていないようなまっさらな地平で、
何の感情も持ち合わせていない主体同士が
林檎を挟んで向かい合っている。
そんな極めて抽象的な空間』

キオクっていうヤツは!
うう…なんか目がウルウルしてくるなぁ…この風景って。

人間が成立するマエのふるさとみたいな気がする…
存在が存在として、どうして存在するのか…
深すぎて、神様にもワカロウマイ。

人間からすりゃ、ともかくオレは存在した、っていう。
懐かしく、思い出すキオクがある。

何処とも、何時からとも、何故ともいえないよ〜
トモカ〜ク!
この風景って、
ジョウドウ…、カンジョウ…、?いやいやソレイゼン。

う〜ん、
存在世界の、このスバラシイ多様性を
一!
に畳み込んだ
種、
のようなものでしょうか…

ボクハ、タネヲミテモイマシタ。
「このうちゅうは、なんという、
たとえようもなき、げいじゅつなんでしょうか…」

その手のひらには、小さな黒い粒が在るだけです。
それを見て、彼女は泣きました。
「なんて存在とは、深い…深いのでしょうか…」

私には、決して無味乾燥な風景には見えませんでしたよ〜

それもそのはず…
「人間個々の固有な記憶や感情的側面を抜きに、
空間の経験を本質的に掴むことはできないとする
dieforくんの考え方には」Kohsenさんのみならず、
私も大いに賛同だからですよね。

私には、無味乾燥な風景には見えませんでしたよ〜!

No.124 - 2008/04/23(Wed) 22:48:56

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
>ラ・ムー子さま

コメントありがとうございます。少々、誤解があるようですので、補足させて頂きます。

まず、現象学という言葉を持ち出したのは、何もラ・ムー子さまの言われるように、現象学が絶対だとかそのように思っているからではなく、単に僕自身が、ヌース理論を存在論に始まる現象学の系譜の流れの中にあると思っている。という、ただそれだけの極主観的な問題です。 言葉足らずで申し訳ありませんでした。

それから、記憶と知覚の話についてですが、ぼくは単に知覚と記憶は切り離しがたい関係性にあるのではないか?ということを問いたかっただけで、記憶を先手に取った訳ではもちろんありません。書き方がまずかったようですね。これも、ごめんなさいです。

ラ・ムー子さまは、無味乾燥な風景には見えないとおっしゃいますが、ぼくはたまにそう感じることがあるんです。こと空間の問題に関しては、その構造ばかりにより過ぎると大事な部分を取りこぼしてしまうような気がしています。空間の経験という、その豊潤さを純粋に知覚の問題だけで抽象的に取り扱うのは、空間を問題とする上である種の重大な危険性を秘めていると思うんです。

ラ・ムー子さまは、経験の一回性というものがよく分からないとおっしゃいましたが、流れ行く雲が、また生きとし生ける生命が、刻一刻とその表情を変えてゆくように空間を経験するという軌跡もまた、常に生まれ変わり、開かれ、新たに発見されうるような、驚くべき神秘の出会いの連続であるとぼくはそう思っています。

>Kohsen氏

“表象のシステム自体を生み出す原因となった情動とは一体何なのか”という問題提起にはぼくも激しく同意するんです。しかし、Kohsen氏が、『物自体』と『表象』を二元的に捉えていらっしゃるところに疑問を感じます。林檎の知覚と、記憶や感情的側面とにしてもそうです。果たして、表象なき、その『物自体』とやらが本当に存在しうるのだろうか?と思うのです。林檎の知覚にしてもそうです。何の感情的側面をも付与しない、つまり何ら意味付けられないニュートラルな『林檎』とやらが存在しうるのだろうかと。もし、存在しえないのならば、ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし、その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれているように思います。どうも、知覚に対して、それと表裏一体となって付随するKohsen氏が副産物であるというところの感情的側面や表象が軽視され、ヌースではこちらがあまり問題とされていない(突っ込まれていない)ような気がして、そこに垣間見える二元論的観点に矛盾というか、理論としてある種の素っ気なさを感じてしまうのです。

No.125 - 2008/04/24(Thu) 10:53:32

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [ ]
D I E F O Rさん

ラ・ムー子です。
コメントに対するご返信、ありがとうございます。
自分はとっても楽しんでいます。
書き込みから、D I E F O Rさんが、活き活きとした存在と
感じられるからです。

それで…
直に話していても、誤解とかなにやらを生むことって
多いんですが、ちゃんとコトバを尽くして
返信して頂けるので、ああ、そうか…と感じてます。

それで、
それ、面白いな、と思ったのは

>ヌース理論を存在論に始まる現象学の系譜の流れの中にあると思っている

とおっしゃっていることでした。
え〜!っと思いましたよ。
こんな、出所がトンデモ(失礼…)なヌースに
そんな、位置づけを与えて見れる視点って…

チャネリングですよね、一応?(kohsenさん!)
「エンタだよっ!」って言ってることに対して
こんなに真剣に捉えられるとは…

「極主観的な問題」ですってことは
フツウのことなんで、ゼンゼンオッケーなんですが、
エンタ路線に対して、とっても「真剣」ですよね…
捉え方。

自分のようなヌースシンジャ!?だと
凄く説得力のカケラも無いんで、
いろいろ言うだけムダかも知れないんですがね…

エンタって言うのは、「これってあそびですから〜」
って、カンジですよね?間違ってます??

で、「マジ、面食らうし…」

おもちゃで遊んでいたところに、
「そんなおもちゃでは、いか〜んっ!」って…

僕はね、「一緒に遊びましょ♪」って言いたい。

どうしても「それはおかしい」「納得がいかない」
って…本当に沢山の人が言うんですよ、ヌースって。

いつも思うのね…
あの〜、そんなにマジで切り込んで来るって…?
そんなに、これの価値とか、意義とか、
マジで考えてくれちゃってる?

多くの人に思うこと。
「オレより熱心なシンジャかも」ってね。

D I E F O Rさんの場合では、

>ヌースではこちらがあまり問題とされていない(突っ込まれていない)ような気がして、そこに垣間見える二元論的観点に矛盾というか、理論としてある種の素っ気なさを感じてしまうのです。

ってことだから、とっても真剣にヌースに対し、
「感情的側面や表象が軽視」されないヌースに
なって欲しいって、言ってるのか???
とか、思うし。

それで

>流れ行く雲が、また生きとし生ける生命が、刻一刻とその表情を変えてゆくように空間を経験するという軌跡もまた、常に生まれ変わり、開かれ、新たに発見されうるような、驚くべき神秘の出会いの連続であるとぼくはそう思っています。

これって、本当にそうだよな〜って、思いました。
本当に、人間が経験する事それ自体が、
神秘の連続ですよね。

その、トテツモナイ感動を常にもたらす、この存在と認識。

そこに更に、自分がちょー感動するのは、

こんな神秘的感動的多様性を成立させている、
存在のシステムに関しての、永いながい関心の、
その先に…

多様性とはまるで似ても似つかない、
ちょー「イチナルもの」!

え〜!
感動、感動、また感動です。
こんな!!!(コトバで言えないような感動的)世界が
究極のしんぷるに、由来するの〜っ!?

もし
神秘的に感じるモノゴトを、成立させているコトガラが
それと瓜二つの多様性に在るんだとしたら、

あっ、そう…

と、それこそそんな多様性は、素っ気無いよな〜
多様性が多様性に、因るもの、なんてね〜。
あまりにベタだよ…

>その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれているように思います。

そうだよね〜。そう思うよ〜、自分もさ。
これも激しく同意です。

で、

>もし、存在しえないのならば、ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし

そりゃそうだよ。しえないんだったら。

が!

>副産物であるというところの感情的側面や表象

それを、そこまで真摯に愛して?
その立場を、
「絶対に同等!」という所に持ってくる、
それには、そんな存在はいきなり「×!」ですか〜!

>もし、存在しえないのならば

ってことにイキナリしてしまって、
それに同等のポジションを与えるまで、
感情的側面や表象の、かたを激しく持つってさ…?

このエンタ(ヌース)は、それ↑をクリアすれば、

存在、知覚、その経験と情動、それらの由来について

マジ、スカーっと納得させてくれるって
考えているのかな…?
真剣に、ヌースに激しく期待しているってことか…

それならば、エンタ路線♪なオレなんて
激しくD I E F O Rさんに対して失礼だな…。
ごめんなさい。

自分は、ヌースにはあんまり関心が無いんですよね。
存在、知覚、経験、情動感情。
それらを成立させている「ほにゃらら」を
激しくワカリタイ!!!
ってことだけで。

それを「看れる」視力強度を高めてくれる
「お助けのなにか」を大事にしたいんで。

自分が「なにか」を観て感じてみて、
「それじゃあ、視力は上がらないよっ」てなものには
激しく関心を持てないよ。
持続できませ〜ん。

そういう関心からなのか、
子供の時分から、
キリストさんのお話も、
お釈迦様のおはなしも、
日蓮さんのお話も、
出口さんのお話も、
中山みきさまのおはなしも(ウチ、親が天理教ね!)
老子さんのお話も、
世界の神話も、
哲学も…etc(←古っ)・・・

みな、人間に伝えんとしたところは同じやんけ〜
と、不遜に見て聞いてきましたからね。

でも、時代背景とか、人間の意識の進度とか、
いろいろあるからさ。

で、視力を強化する精度がとてつもなく高いよな〜
ってこと、それを大事にするので、
ヌースに出会ったときに
「うお〜っ!」って感じで、

今まで、これを進めていけば行けるって感じていたことと
相補的に、合致してくるヌースに、
勢いハマリマシタ!(エンタとしてね!)

で、エンタに興じ過ぎて、実動路線からオッコチタのよ!
そんなイイカゲンやろ〜の戯れ言なんだよね〜すべて…

戯れ言、長くて、ゴメンね…

No.128 - 2008/04/25(Fri) 00:25:37

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
>ラ・ムー子さま

いえいえ、ぼくもエンタメとして楽しんじゃってるクチですよ。“真剣”だなんて言われると逆に申し訳ないです。(^▽^;)

ぼくが空間の経験に神経質にならざるをえないのは、建築空間のことを考えてしまうからだと思います。(一応、専門は建築なので)

建築空間や都市空間の場合、それがどうデザインされているかよりも、どう経験されるかというアクチュアリティというか実存的空間のほうがもっとも重要とされます。

アーキテクトがどんなに完璧なデザイン・プログラムを描き起こしても、往々にして経験によってそこにエラーが引き起こされるというか、デザイン・プログラム(図面)の中で描かれた空間と、実際に経験される空間の間には大きなズレが生じるわけです。

ぼくはこのズレ(=プログラム・エラー)が非常に重要だと考えていて、そうなるとどうしても問題は、この“経験”という迷宮に入っていかざるをえないわけです。

ですから、これは単にぼく個人の単純な興味として、空間の知覚(これももちろん大いに興味深いのですが)ではなくて、空間の実存的な“経験”という範疇についてヌースがどう切り込んでいるのか見てみたいというだけなんです。

No.130 - 2008/04/25(Fri) 11:15:50

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [ ]
D I E F O Rさん

まいどです、ラ・ムー子です。
なるほど。他のスレのコメントを読み返したら、
多くD I E F O Rさんの書き込みがあって、
今まで読んでいたんだけど、それらがD I E F O Rさんだと
ワタシ繋がっていませんでしたね。失礼。

建築がご専門なんですね。

>デザイン・プログラム(図面)の中で描かれた空間と、実際に経験される空間の間には大きなズレが生じるわけです

それって、素人ながら、感じますね〜。
何故ああもズレがあるかな〜

>ぼくはこのズレ(=プログラム・エラー)が非常に重要だと考えていて、そうなるとどうしても問題は、この“経験”という迷宮に入っていかざるをえないわけです。

それでね〜…なるほど。

>空間の実存的な“経験”という範疇についてヌースがどう切り込んでいるのか見てみたいというだけなんです

ふふふ…そうだったのか。
ほら、D I E F O Rさん、建築って立場や視点が
第一だよね。当たり前か〜

これは、本当に今までも多く、人々に感じてきたこと
何ですけどね。
やはり我々は、第一に、
自分の関わっていることの立場や、
または都合っていう方も多いかなと思うんだけど
そういうそれぞれの視点に立って、
「これはどういうことなの?」
「あれはどうしてそうなるの?」
って事を聞いたり、
(たまに誹謗したり中傷したり…汗)
この人、忙しいよな〜って人、いますでしょ…

自分はコレコレをいまやっています○○といいますが
これって、何かの役に立ちますか〜?!
とかね。

宗教、いや信仰かな。それを、
「それで幸せになるんですか。」
「はい♪」
「じゃ、やります!」
って、感じでやる。(例えが軽すぎ…汗)みたいな。

信仰って言うのが、真理の探究だっ!
って思う自分なんかは、
ご利益目指して宗教に取り組んでるのとか見ると、
「オ〜マイガッ!!」
って天を仰いじゃう天邪鬼で。

kohsenさんが、商売を目的に、ヌース理論を自分で
立ち上げた、って捉える人間も、いるんだろーなー…

自分の持っている視点でしか、見ない、見えない、かも!
そういう人って、誰だって、オレのように
そう見てしかるべしだろっ、て思っちゃうんだろう。

でもね〜
子供の頃から、「お前はなに人だ?」「宇宙人だ!」って
問う人に応えていた立場からは、
「人間として、どうなのよ?」
という問いが基本だからな〜

社会的…職業とか、趣味とか、立場とか…の視点って処か
ら、他の人と語り合っても、何か違うんだよね。
(かんぜんに社会的不適合者ですね…汗)

直球で言っちゃうと
ヌースは、「切り込まない」と思うけどな。
「実存的な経験」を「最初」にはね。

1よりも5が先行している…

在りましたよね、このコトバ。
1、2は、顕在化を起こすまでは在るとも無いとも
言えない。
でも、過程的に、1、2となって3、4となるのは
こりゃ、ひっくり返しも出来ない順だ。
でも、1、2と進んできた意識は、
3,4とならないと顕在化が起きないし。

経験、情動。それによって、空間が意味を帯びてくる。

意味を帯びない以前のモノ、コトは
在るとも無いとも言えない存在(?)で…

経験的には、
そんなの、在るとも無いとも言えないよな。
1,2のコトなんかさ〜 それこそ、「ないだろっ!」
って。ふつうそう思うし。

>もし、存在しえないのならば

ってことになるんだろ〜。

見ること、見えることを成立させている
構造性について思考する
ヌースがそういうことに取り組んじゃってる以上
経験、情動を「最初」に語りえるかな〜
それ、ないだろっ!

僕が思うに
空間の経験と情動がどのようにして立ち上がってくるのか
の理解とは

>何の感情的側面をも付与しない、つまり何ら意味付けられないニュートラルな『林檎』とやらが存在しうるのだろうか

として語られるところの
1,2から開始して
それから3,4と意識のシステムを
トレースしていくことで
初めて、経験ということの成立、
記憶、情動の働きや意味
それらが自ずと見えてくる、見えてくる…
んじゃないかな〜っと。

3、4そして5は、最初には語れない。
だから…

>どうも、知覚に対して、それと表裏一体となって付随するKohsen氏が副産物であるというところの感情的側面や表象が軽視され、ヌースではこちらがあまり問題とされていない(突っ込まれていない)ような気がして

って、D I E F O Rさんの場合だと、
ヌースをそうみる視点ってもんがあるんかな。

自分なんかはさ、ヌースしていても、
「軽視している」って全然思いが出てこないし…

D I E F O Rさんの言うとおり、
この世界は本当に芳醇だと感じるよ〜、
しか〜し。
その芳醇さを、軽視しているようには見えてこない。

むしろ、
>そこに垣間見える二元論的観点に矛盾というか、理論としてある種の素っ気なさを感じてしまう

ところのモノである
経験に先行している、無味乾燥な物自体存在(1,2)
を、「先」に思考することから、
「必然的」に立ち上がってくる、
世界の芳醇さの理由…
それこそが、感動的だよな〜と感じちゃったり
するんだけどもな〜

前にも書いたけど、
世界の芳醇さの理由が
芳醇(複雑なモノコト)に因るんであれば
それこそなんも感動がないぜ〜ってね。

無味乾燥に感じられてしまう
シンプル過ぎっ!って感じの
先行して存在するところのモノジタイが
あらビックリ!
こんな芳醇な世界を成立させちゃってさ!!

これが実にダイナミックというか、
ミラクル!って感じでさ。

ヌース
それは、経験してみる。
成ってみる。
自己と他と言う対峙のなかで、
それ(ここではヌースね)を
思考してみても、
何も語ってはくれないだろう。
切り込んではくれないだろう。
芳醇な世界を見ること
それを成立させている仕組み、自体。
それ(ヌースのことね)に、自分が成ってみると
どのようにして、世界がこんなに芳醇なのか
僕たちにも見えてくるのではないだろうか…

(ちょっと詩的に書いてみました♪)←痴的!(笑)

No.133 - 2008/04/26(Sat) 01:58:14

Re: 素朴な疑問 / kohsen [九州] [ ]

> ですから、これは単にぼく個人の単純な興味として、空間の知覚(これももちろん大いに興味深いのですが)ではなくて、空間の実存的な“経験”という範疇についてヌースがどう切り込んでいるのか見てみたいというだけなんです。

dieforくんの言う「空間の実存的な経験」と現象学とはどういう関係にあるのですか。現象学といのはそうした経験さえも()に入れて、思考の起源に立つところから始まるメソッドではなかったけ?

No.141 - 2008/04/28(Mon) 14:58:57

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]

はい、ですから、ぼくはその“思考の起源”を追うことにも関心を多く抱いています。しかし、また別のベクトルとして、物質と記憶に絡む固有の空間(経験の一回性)をも同等に問いかけていかなければ、真に実存空間を思考していることにはならないと思うのです。

ぼくが以前、煙草を目の前に持って来た後に、ライターを目の前に持って来て「これはさっき(煙草)と同じ空間ですか?」と聞いたとき、Kohsen氏は「同じだ」と答えられましたよね。ぼくはそこに非常に大きな疑問を感じるんです。もちろん、同じだと言う解釈が間違っているとは思いませんし、そんなことを言うつもりはありません。それは片方で確かに「同じ」だとぼくも思います。しかし、ぼくの中ではもう片方で「同じではない」という感覚が大いにあって、実存空間を問うてゆく上では非常に重要なファクターなんじゃないかとぼくはそう感じるんです。「同じではない」という視座からも、何か体系的な理論が形作られうるのではないだろうか。ぼくはそうゆうところに非常にワクワクしているのです。

No.142 - 2008/04/28(Mon) 16:23:32

Re: 素朴な疑問 / kohsen [九州] [ ]
一方で、同じではない空間があり、方や同じ空間がある――もちろん、ヌース理論もこの両者の差異を十分に意識しているよ。dieforくんの言う「経験の一回性」、それを「此のもの性」や今、流行のクオリアと言い換えてもいいと思うのだけど、僕はこの微細な表象の魅惑に魅了されることが、まさにセイレーンの誘惑じゃないかと思っているのね。さもそこに甘美な思考の果実が実っているように香りがするのだけれども、一度そこに入り込んだら最期、二度と抜け出すことができないような迷宮が口を開けて待っていて、結局は「永遠に女であるもの」の捕囚となってしまうような気がする。dieforくんは女好きだからそれでもいいと思うけど、僕はその女を連れてどっか別のところに行きたいんだな。ライターや煙草などが存在する生活空間も確かに経験できる空間としての大事だけど、僕のようなタイプの人間は月や太陽や星々の空間もないとやってられない。それらもきっと実存と大きく関わり合っているはずだからね。真の現象学においてはそれらは同等に語られるべきじゃなかろうか。もちろん、真の建築においても。。
No.143 - 2008/04/28(Mon) 18:42:17

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
前にも同じことを書いたのですが、なぜ『物自体』と『表象』を二元論的に語られるのでしょうか?ヌースでは『表象』なき『物自体』とやらが存在するという考えなのでしょうか?

前回書いた内容をそのまま抜粋させて頂きますが、“ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし、その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれている”と考えています。

セイレーンのくだりを聞いていると、まるで『表象』を“悪”とするような、古典的な善悪二元論を感じずにはいられません。『生活空間』と『月や太陽や星々の空間』とにしてもそうです。そこをどうして二項対立させてしまうのでしょうか。『生活空間』にも『月や太陽や星々の空間』が内在しているのではないのでしょうか?(もちろんその逆も然りですが。)
どうもその辺りに偏りがあるような気がしてならないのです。

ぼくは甘美で実りあるように見える豊かな表象が、実は極めてシンプルな幾何学的構造性によって置き換えられるようなそんな気がしているのです。真の抽象が具象の中からしか引き出されてこないように、表象のシステムは、真に表象と向かい合うことによってしか炙り出されてこないのではないかとぼくは思います。

二重スパイのようにセイレーンの誘惑であると思っていたそのものが実は大きな罠だった。。。

なんちゃって。

No.145 - 2008/04/28(Mon) 20:53:45

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [関東] [ ]
kohsenさん

マック復活よかったですよ〜ホッとしました。
ブログが進まないことにがっくりの数日でしたから。

ところで、このスレの中で、dieforさんが

> 前にも同じことを書いたのですが、なぜ『物自体』と『表象』を二元論的に語られるのでしょうか?ヌースでは『表象』なき『物自体』とやらが存在するという考えなのでしょうか?

って言うことですけど、kohsenさんは、ヌースを
二元論的に語っちゃってるんですか?!
オイラは頭がイマイチなもので…
二元論的に語られているようには、何回読んでも
見えないのですが、彼のように頭が良い人に
二元論ですっ!て何回も繰り返されると、
えっ!そうなんですか?
とか直ぐに影響されちゃうんですよ。

> セイレーンのくだりを聞いていると、まるで『表象』を“悪”とするような、古典的な善悪二元論を感じずにはいられません。『生活空間』と『月や太陽や星々の空間』とにしてもそうです。そこをどうして二項対立させてしまうのでしょうか。『生活空間』にも『月や太陽や星々の空間』が内在しているのではないのでしょうか?(もちろんその逆も然りですが。)
> どうもその辺りに偏りがあるような気がしてならないのです。


なんて、繰り返されると…
どう見ても、オイラには、二元論的に語られている
ようには、どうやっても見えないのですが。

それは、自分のものの見方に、二元論的な見方が
薄まってるからかな〜♪、なんて能天気で良いんですかね?

kohsenさんの著作のなかでも、OCOTさん(?)から、
『善悪は変換人の次元では、無い。
それは人間型ゲシュタルトの次元だとそうなってしまう』
と言うことが書かれていたように思います。

スマルという次元も、人間が進化していくためには
必要、と書かれていたように思うので、
その、存在の構造性から見ると、
人間の次元で善悪と見れる事象が、
(そこの次元では、それが在ると踏まえつつも…)
上次元では善悪二元では無い、
とそのように感じているのですが。

違うのですかね。二元論で語っていらっしゃる??

表象・知覚を成立させている上位のシステム自体に
意識が交差し、それが顕在化すると、
下位では二元論的に見えていたものが、
そうでは無いと…、そうなるのではなかったのかな〜

と、ここまで書いていてハタと気づくワタシ…
こんなに「二元論や否や!?」に拘っているワタシって
やっぱり強烈なる二元論的次元意識の持ち主なのね…
トホホ。です。
タワクシのような二元論の意識には、
何でもかんでも二元論に見えてきますよ〜 
コマッタナ〜 ワタシったら…(汗)

kohsenさん、「聖火…」へのレス、真にありがとうございます。
中途半端のゴンゲ(笑)みたいなワタクシには
大変耳が痛い一言でしたよ〜
kohsenさんは骨太の方だと、初めて認識致しました。
チュウトハンパ道だけは極めようかな…冗談です(涙)

ブログ読ませて頂きます。

No.146 - 2008/04/29(Tue) 00:25:44

Re: 素朴な疑問 / Ricardo [関東] [30代] [ Mail ]
ちょっと違う視点になるかもしれませんが。
人間は視覚の肉体的構造上、物質の本質を見る事ができない構造になっているんじゃないかと、私は考えています。

光自体は様々な波長帯域がありますが、光自体に「色」は無く、生物がその光を感受した際に、どの波長は何色、の様に認識して知覚しているそうです。
まさに文字通り色眼鏡をかけて世界を見ている様です。

また、視細胞の中には特定の形状だけを認識する何種類かの視細胞があるそうで、これも感受した世界の光景の中において、特定の形状の組み合わせで視野の中に見えるモノを認識していることになります。
モノそのものではなく、擬似的に類似形状の組み合わせで認識している可能性があるということでは、モノ自体が見えていないともとれます。

同様に心理学上?も、意識上認識していないものは見えている世界の中にその姿があっても知覚できない実験結果もあるようです。

またソフトウェア考古学という分野を作ったジュリアン・ジェインズ(「神々の沈黙」)の、「比喩としての言語」の発達が世界の描写としての心理的比喩世界を人間の内面にも作り上げ人間の精神構造もそれに伴って変わってきたとする説も、人間の知覚を豊かにしてきたと見る見方の後押しとして解釈できます。

私としては、実際に見ているのに見えていない物質世界と主観との関係性をイデア論的に説こうとするヌース理論はなじみ易いように感じています。


DIEFORさんの言う建築デザインとその後の利用者におけるプログラムエラーについても、デザイナーの経験値たっぷりの主観と、利用者の経験値たっぷりの主観とが、まったく独立して確固たる「主観」として隔絶されていることの証明ではないかと思います。

kohsenさんは、表象とモノ自体を二項対立のようにとらえているようには、私は思いませんよ。
シリウス革命でも、いろいろな二つのものが精巧に織り込み合ってこの豊かな自然世界をつくりあっている、といったような記述もあったように思います。
ψとΩで表記されているヌース理論も、Ωの中にψが織り込まれ、ψの中にもΩが織り込まれている構造だとの解説もあったように思います。

確かに表象の豊かさは奥行き深いものを感じますが、もう少しDIEFORさんの考えも聞いてみたいところです。

横やり、すいません。

No.147 - 2008/04/29(Tue) 02:22:08

Re: 素朴な疑問 / 半田広宣 [九州] [50代] [ Mail ]
ラ・ムー子さん、Ricardoさん、ご意見ありがとうございます。ここはヌース理論の全体像を哲学の言葉で紹介するいい機会なので、このままdieforくんとの議論を続けさせていただきますね。

 現象学の話が出ていたので、まずは現象学の筋道で話してみるね。
 現象学的に実存の場と言った場合、それは内在的なものでも超越的なものでもないよね。まずは「現象するもの」が超越としてあり、次に「現象を見て取るもの」が内在としてあり、そして、そうした「現象するもの」と「現象を見て取るもの」とが、今度は「現象すること」そのものとして超越論的にある。dieforくんが問題としているのも、この「現象すること、現に今、こうして現象していること」における此のもの性のことだと思う。実際、フッサールはこの現象することそのものを超越論的自我(現象学的実存)と置いていたよね。で、この種の実存に立ち入るためには、内在における超越なんてものがどうして可能となるのかが問題とされなくちゃいけない。フッサールが構造分析で辛抱強く進めていった思考もそうした問題意識から出たものだったよね。実際、dieforくんが経験の一回性というときの、その経験とは内在が超越に触れることそのもののことを言っているんだよね。(ここでまた内在と超越という言葉を使用したことを二元論だと批判されちゃうかもしれないけど、現象学の文脈で話しているのでご容赦を)

 でね。この「経験の一回性」というやつなんだけど、これを問うことは、言葉を変えれば「今」の発生を問うことでもあると思うんだ。実存はいつ何時であれ「今」であるわけだから、結局のところ、経験の一回性というものは表象に共存している永遠のことを指して言っていると考えられる。西田の言う絶対矛盾的自己同一というやつだ。「今」の中では永遠と一瞬は区別不能なものとして同一化していて、このことは経験の一回性の背後に経験の全一性であるあたかも神のような存在が併存していることを示唆している。ヌースがいうプレアデスとオリオンだ。こう考えるとこれら二つのものの関係が単純な二元論なんかでは片付けられないことが分かるよね。と言って、これは一元論なんかでもない。敢えて言えば、グノーシス的一元論ってとこかな。

 言葉じゃ分かりにくいかもしれないので幾何学的比喩で簡単に説明してみるね。

経験の一回性と全一性の関係は、たとえば円環上に一点を打ったときに、その点を果たして一点と見るか二点と見るかという問題と似ている。一点と見る思考は円環が見えておらず、それは常に一回性の「一」の方を強調することになる。一方、円環全体を模索している思考は、この一点が円環の継ぎ目としての役割を果たすものでもあろうと思考している。端点と端点が同じ位置に重なっているわけだから、それは「二でもあるし一でもある」。さらに言えば、円環全体を射程に入れている思考はこの継ぎ目に対しても二通りの見方を用意している。それは端点と端点を最小距離として見るか、最大距離として見るかだ。僕がセイレーンの誘惑と呼んでいるのは、前者しか持っていない思考の方だ。さっきの言い方をすれば、内在と超越の関係性をその場でそのもの同士で一致させてしまうような思考。

>“ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし、その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれている”と考えています。

 たぶん、dieforくんと僕は同じことを言っているように思うのだけど、でも、ここでdieforくんに「同等に」と言わせているのは、この「内在と超越を、その場で、そのもの同士で、結んでいる思考」のように思えちゃうんだよね。もし、そうなら、ヌースの立ち位置からはやはりそれはセイレーンの誘惑の産物と言わざるを得ない。それが善いとか悪いとかを言っているのではなく、セイレーンが一体どうやって、表象そのものの中に入るというんだい?ってことなんだ。僕は「表象そのものの中に映し絵のように畳み込まれている」ところの当の実体は、ここで言っている最大距離の方だと思ってるから。

>ぼくは甘美で実りあるように見える豊かな表象が、実は極めてシンプルな幾何学的構造性によって置き換えられるようなそんな気がしているのです。真の抽象が具象の中からしか引き出されてこないように、表象のシステムは、真に表象と向かい合うことによってしか炙り出されてこないのではないかとぼくは思います。

これは全く同意見。まさにヌースがやりたいと思っていること。

No.148 - 2008/04/29(Tue) 03:50:50

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
ラ・ムー子さま、Ricardoさま、そしてKohsen氏、それぞれ大変興味深い内容のコメントを頂き心より感謝申し上げます。

ぼくのような頭足らずでは、いまひとつ分からない部分もありましたが、Kohsen氏の円環における最小距離と最大距離のお話を聞いて、安易な二元論に囚われていたのはまさに自分自身であったと自覚しました。。。お恥ずかしい限りです。。。

どうも、経験の一回性に執着するあまりヌースが表象を邪見に扱っているというような穿った(誤った)見方をぼく自身がしていたようです。その中で、Kohsen氏にいささかご無礼なことを申し上げてしまったかもしれません。その点、どうかお許し下さい。

まだまだ勉強不足でいたらぬ点ばかりのぼくですが、これからも空間の問題について、些細なことでも納得しかねる部分や疑問に思うところがございましたらどんどん質問させて頂きたいと思っておりますゆえ、どうか末永くお付き合い頂けると幸いです。

なんてたって、空間はぼくのイデアの恋人なんです。笑
ぼくにとってあらゆる関心事は全て空間の問題に集約され、それは建築の問題として具現化してゆきます。
空間に秘められた暗号を紐解き、空間を再構成(建築)すること。それがぼくの生涯のテーマです。

No.149 - 2008/04/29(Tue) 12:26:07

Re: 素朴な疑問 / ふう [東海] [30代]
ずれレスかもしれませんが。

今日、外食をしているときに思ったのですが、私は、ある店が気に入ると、その店のメニューを全部食べないと気が済まないような衝動に襲われることがあります。

しかし、たとえそんなことをして、ある店のメニューを全部食べて、その店に関しては満足できたとしても、また別の店が気になったら、その店のメニューを全部食べたくなるのは必至で、結局、際限がないのです。

この、具体的経験の際限のなさが、セイレーンの誘惑かな、と、ふと思った次第です。

No.150 - 2008/04/29(Tue) 20:46:33

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [関東] [ ]
D I E F O Rさん

今回の問いを発して頂いて感謝します。
kohsenさんの解説で、少なくとも自分の中での理解に
大変な進展あり!でした。

kohsenさん、ありがとうございます。
Ricardoさん、ありがとうございました。
ふうさんのコメントは、強度高めてくれました!

で、ハナから感じていたことなんですが…
D I E F O Rさんの、
言葉では言ってないけども言わんとしているところのモノが、
自分には、「同じ事を言っているように見えてた」ってことです。

>>“ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし、その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれている”と考えています。

>たぶん、dieforくんと僕は同じことを言っているように思うのだけど、

>>ぼくは甘美で実りあるように見える豊かな表象が、実は極めてシンプルな幾何学的構造性によって置き換えられるようなそんな気がしているのです。真の抽象が具象の中からしか引き出されてこないように、表象のシステムは、真に表象と向かい合うことによってしか炙り出されてこないのではないかとぼくは思います。

>これは全く同意見。まさにヌースがやりたいと思っていること。

って、kohsenさんが言われているように、
同じことを言わんとしているよな〜ってね、思っていました。

D I E F O Rさんと自分は、理論の理解では随分違いが…
マジ自分は頭脳が終わっている、というか始まってないし(汗)

建築が専門の理解のウサギさんと、
あそび人ののろのろカメ公。
ウサギさん、丸くて赤い果物を「これはりんごだ!」と。
カメ公は、「ナニ言っての!アップルでしょう…」とな。
そこに牛さんが登場、名をkonsenくんと言います(失礼!)
(そう、生協(PALシステム)の牛キャラ!ですね♪)
で、突然…パクッ!(果物を食べちゃった。)
(いえ、かみさまのお使いってことです、牛さんは…)

…そう、見て云々より、
食べたら、それら(りんごだアップルだ)が同じものって…
甘酸っぱい、しゃきしゃきした果物。

ウサギさんもカメ公も、同じ二元論に囚われの身です。
人間型ゲシュタルトくんとは、この際バイバイしましょうよ!
ご一緒させて下さいませ♪

追伸:kohsenさま、数々の失礼な発言をお詫びいたします。

D I E F O Rさんの
>どうも、経験の一回性に執着するあまりヌースが表象を邪見に扱っているというような穿った(誤った)見方をぼく自身がしていたようです。その中で、Kohsen氏にいささかご無礼なことを申し上げてしまったかもしれません。その点、どうかお許し下さい。

の発言には、武道を歩ませて頂いてきた者としては、
彼の後から、kohsen氏へお詫びを申し上げることになったことが、
大変恥ずかしく思います。
彼は、礼も義も持ち合わせた人物でした。
氏にも彼にも、皮肉ばかりいって、申し訳ありませんでした。

貴重な機会を頂きました。ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いもうしあげます。

No.151 - 2008/04/29(Tue) 22:34:43

Re: 素朴な疑問 / kohsen [九州] [ ]
ラ・ムー子さん、気にされることはありません。
文体はそのときどきの人の態(なり)ですから、いろいろと変化するのが当たり前です。ときに硬く、ときに柔らかく。ときに熱く、ときにクールに。ときに斜に構えて、ときに真正面を向いて。。七変化で行きましょう。

No.156 - 2008/05/01(Thu) 16:12:52