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ATRIUM

[Cafe Neptune ver.2.0]

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たまには生物進化ネタでも… / Φ=WHY? [ ]
物理や認知心理額、認識論を食べ過ぎて食傷気味なあなたへ、いつもと違ったメニューでもどうぞ。カフェですので…。

先日、兵庫県篠山市内の白亜紀前期の地層(約1億4000万〜1億3600万年前)から、日本最古の哺乳類と見られるネズミに似た小動物の化石が発見されたようです。人類を含む哺乳類の祖先だとしたらすごい!

そういや、5月末にはオーストラリア西部で、臍の緒で母子がつながった約3億8000万年前の古代魚が見つかり、「胎生」が確認された世界最古の脊椎動物だと話題になっているそうです。

今後、生物の進化がどう改変されるのか見ものです。

「恐竜は一度もこの地上に存在したことがない」とオコツトが言っているヌースでは、こうした「見かけ上の」生物進化は、「精神構造」上のどういった「運動」に対応すると見れるでしょうか?

みなさんは、どう思われますか?

No.273 - 2008/06/12(Thu) 21:20:37

Re: たまには生物進化ネタでも… / mia [東海] [40代]
こんにちは!

ふと思ったんですが、
歴史とか過去とか、そういうものは本当にあったかどうかわからないですね。
今の自分(私たち)がただそう感じているだけで、
発見された化石とかも、私たちの精神のありかたによるもので、そのように見えているだけかもしれません。
それはどんどん変化していくもののように思えます。

これは是非、銀河鉄道の夜に出てきたブルカニロ博士に聞いてみたいものですね!(笑)

No.274 - 2008/06/13(Fri) 09:57:53

Re: たまには生物進化ネタでも… / Φ=WHY? [ ]
miaさん、こんにちは。

考古学に用いられる放射性炭素(カーボン)年代測定法だと、半減期約5,730年の炭素14を用いて、遺跡・遺物などの年代が推定されます。人類の歴史以前の地質時代の場合は、もっと半減期の長い放射性元素を用いた、カリウム−アルゴン(K−Ar)法(半減期12.5億年)やウラン−鉛法(U−Pb)などがあるようです。

核崩壊と言えば、ψ5〜ψ6付近の「弱い力」と関係するはずです。これは、ヌース的にはどう見ればいいでしょうね。ψ7〜ψ8(=Ω1〜Ω2)の「元止揚」もしくは「核質」の内部における時間が、半減期と言えるのかもしれません。そうすると、地球の内面の時間こそ「地球の歴史」というわけでしょうか。

交信記録19900724「地球と人間の関係とはどういうものですか」「地球は人間の内面性」「太陽と人間の関係とはどういうものですか」「太陽とは人間の内面性における地球を確実化しているもの」「恒星とは何ですか」「人間の外面性。太陽の元になるもの」
交信記録19900730「ヒトと地球の関係性は」「ヒトは地球の内面性。地球はヒトの内面性」「地球の内面性とは」「確実な力との対化」

化石とは、人間の何かの精神構造の反映の残骸なのでしょうか?

No.275 - 2008/06/13(Fri) 12:16:37

Re: たまには生物進化ネタでも… / Ricardo
化石の話はよくわからないんですけど、物理世界での意識進化って受精卵の細胞分裂に似てる気がします。


受精した直後、物理空間に意識が芽生え始めた頃は、非常に漠然とした空間認識しかなかったように思います。これを受精卵の細胞分裂始めの細胞数個の状態とします。


その後意識の空間認識はどんどん細密化されていきます。
空間の広がりを知り、森を知り、海を知り、空を知り、意識を広げ認識を細分化していきます。
更に、個を知り、他を知り、地中を知り、地球を知り、月を知り、太陽を知り、宇宙を知り、ミクロも細胞を知り、原子分子を知り、陽子や電子を知り・・・
まるで爆発的に細胞分裂して成長していく受精卵の様に思えます。


漠然とした意識が、ある程度の認識レベルまで成長した時点で、意識の具現化したものとして人体が形成されたのだとすれば、人体が形成される以前の意識レベルが具現化していたものが化石なのかしら、とも思ったりしています。


ただ、物理空間世界内の意識進化を例えたこの卵は、その細分化レベルが、分裂した細胞数がある密度に達すると、意識のシフト(卵の孵化?)を迎えるようですね。


なんて、また話をずらしてすいません。

No.276 - 2008/06/13(Fri) 21:11:24

Re: たまには生物進化ネタでも… / Φ=WHY? [ ]
なぜ「物質」の中でも不安定な有機物に「生命」が宿ったのでしょうか?なぜ「生命」は核酸の自己複製を行なうのでしょうか?

なぜ「生命体」(生物)の中でも、空を飛ぶ鳥にではなく、霊長類に「人類」への歩みとしてまず「知性」あるいは「自我」が芽生えたのでしょうか?

なぜ「人類」は抽象的なことすら考えるのでしょうか?

プランク時間・プランク長さのエネルギー→4つの力が分化する前の粒子→クォーク・レプトン→ハドロン(陽子・中性子などのバリオンやπ中間子などのメソン)など各種素粒子→原子(陽子・中性子という核子と電子)→単体・化合物という分子→酸・塩基・塩→有機物(糖質・脂質・蛋白質)→核酸(RNA・DNA)→ウイルス→リケッチア→バクテリア(微生物)→原生生物(アメーバなどの原生動物、真核藻類、鞭毛をもった菌類、粘菌などの変形菌類)→動物・植物・菌類(カビ・キノコ)→人類→…

これらの事柄は進化とどう結びついているのでしょうか?

No.277 - 2008/06/13(Fri) 23:10:37

Re: たまには生物進化ネタでも… / kohsen [九州] [ ]
化石ネタで、以前、書き留めていた交信メモがあったので、紹介しておきます。例によって、ぶっとびますが、たまにはいいでしょう。参考までに。


今の生態系は前次元の人間の思考や感情が物質化したものと前におっしゃったのですが、現在の人間のものとも言われました。どちらが正しいのでしょうか。

すでに次元は新しい方向に向き始めているので、前次元が正しいです。

化石とは相殺が起きたときに生み出されるものだとおっしゃいましたが、相殺の意味をもう少し具体的に説明していただけないでしょうか。

人間の意識における覚醒と内面の意識における覚醒の相殺です。精神の対化と精神の対化の反映によって生み出される働きが生態系と化石との違いとなって現れるということです。

人間の意識が覚醒を起こすということの意味は、DNAの次元が覚醒を起こすという意味でよいのでしょうか。

はい。DNAは人間が持った概念のカタチですから。


結果的に前次元の精神のすべてを中和させたときに、新しい人間が生まれ、そこにまた世界が作り出されると考えて良いのですね。

はい、人間が次元の方向性をすべて顕在化させるということですね。

新しく現れてくる世界は今の世界とは違う世界なのでしょうか。それとも全く同じものなのでしょうか。

全く違う世界です。

No.278 - 2008/06/17(Tue) 15:54:10

Re: たまには生物進化ネタでも… / ねじ [ Mail ]
恐竜の化石って前次元の人を押しのけて君臨した人間の意識って感じがします。例えば、現米国大統領が次の調整期の人間が見たら最後まで生き残ったティラノザウルスの化石として発見される…なんてことを勝手に妄想してしまいます(笑) まだヌースが掴めてないのでこれくらいの感想しかでてきません。お許しくださいm(_ _)m
No.279 - 2008/06/17(Tue) 20:53:54

地下生態系 / kohsen [九州] [ ]
ねじさん、どうも。
そう、恐縮することもないと思いますよ。10年以上、考え続けている当の本人さえ、まだまだ生物や化石の世界については朧げなイメージしか持てていないのが正直なところです。

『シリウス革命』にも書きましたが、化石とはOCOT情報のいう「精神の中和」や「融解」に関係があります。
「精神の中和」とは、簡単に言えば、旧い精神を相CENSOREDるための作用で、これはヌースでいう顕在化(方向覚醒)に当たります。旧い精神の方向性とは全く逆方向に精神をターンオーバーさせ、新しい精神を生成させるといったような意味です。ヌース理論ではすでに顕在化が起き始めていると考えているわけですから、化石の次元は、ある意味、現在の僕らの意識状況と密接な関係を持っていると言えるかもしれません。OCOT情報では、もともと、生物は人間が持った感情や思考の物質的投影物ということでしたから、そのあらすじから言えば、化石とは、まさに顕在化が起きた後の人間の思考や感情の投影物ということになります。

 化石的風景とはどういうものでしょう。おそらく、それは人間が抱く感情や思考が何の力も持てなくなった、無力感、脱力感的状況を指しているのかもしれません。ホームレスが道端で寝ていようが、関心を持つ人はほとんどいない。TVで悲惨な事件が報道されても、一週間も立てばみんな忘れてしまう。たとえ悲願が達成されたとしても束の間の喜びで忘れてしまう。喜怒哀楽は存在するのだけれども、それが自身の魂の中で持続するほどの強度を持つことができない。これも人間という生き物の行く末に希望が見当たらないからかもしれません。

 個人的には、社会のデジタル化が進めば進むほど、こうした傾向がより加速している気がしています。心にはもはや木漏れ日の風景も、雨の風景も、雲の風景もなく、風の風景さえも消えてしまった。もう、人間の意識は大気圏から離れてしまったのかもしれません。その証拠に光がどこからも指してこない。詩人らしい詩人もほとんどいなくなってしまった。僕が『シリウス革命』で地下生態系と呼んだのはそういう場所のことです。
 
 「融解」とは「顕在化」が起こる以前に意識が「精神の中和」の次元に入ってしまう状態をいいます。単純に言えば、自我崩壊です。自我崩壊とは、価値基準を他者側において、自らの個体としての主体性を完全に放棄し、受動者の受動者と成り果ててしまうことを言います。こうした意識は当然のことながら、「顕在化」が起こる以前、つまり、今までの歴史の中にも無数、存在したことでしょう。ファシズムに熱狂する意識。カリスマに群れ走る信者タイプの意識。金銭にしか価値の指標を見出せない意識。

 人間が歴史空間と呼ぶもの、つまり、顕在化が起こる前の意識次元は地球レベルでは「海」として投影されているようです。海とは顕在化が起こる以前の人間の意識的場、つまり、朦朧とした原初精神の状態を意味します。要は、原初精神の中で融解を起こした意識状態は海中生物の化石と呼ばれるものとなって現れる、ということですね。

No.280 - 2008/06/18(Wed) 18:26:48

石油の支配 / Φ=WHY? [ ]
「石油」が古代生物の化石の一種ということからすると、資本主義社会において「石油」が世界を牛耳っているという現状は、いったい何を意味するんでしょうね。

そういや、前期資本主義を推進したのは「石炭」でしたから、資本主義の前期のエネルギー源が「石炭」(化石植物由来)、後期のエネルギー源が「石油」(化石動物由来)と言えるのかもしれません。確か、ヌースではΩ11が植物、Ω12が動物に対応していたように思いますので、その「凝縮化」(Ω11→ψ*11,Ω12→ψ*12)と関係があるのかもしれませんね。

交信記録19910202「石油とはなんですか。」「人間が人間の等化(方向が平静を保つための)を行うための位置の状態。」
交信記録19910325「石油は肉体において何に当たるのですか。」「腸の内部にある一つの対化です。」
交信記録19930126「石油とは何ですか。」「3次元化された方向性の位置。内面性の顕在化を交差させることにより生まれたものです。
」「では石炭とは何ですか。」「精神の交差が生み出される前の次元によって生み出されたもの。精神の交差が内面を持つことにより生み出されたもの。」「石炭や石油というのは何か特別な意味を持ったもののような気がしますが、それらは何ですか。」「人間の意識に精神の相殺をおこすために生み出す位置のようなもの。人間の内面にある力。」

No.281 - 2008/06/18(Wed) 20:15:22

Re: たまには生物進化ネタでも… / kohsen [九州] [50代]
Φさん、レール敷きありがとうございます。

> 「石油」が古代生物の化石の一種ということからすると、資本主義社会において「石油」が世界を牛耳っているという現状は、いったい何を意味するんでしょうね。

石油は炭化水素ですから、炭素と水素の結合を観察子に照らし合わせてみるとアバウトですが、次のようなことが言えるかもしれません。

顕在化としては、

水素=ψ1、炭素=ψ6です。

このことから、
水素はモノの内部の3次元性の概念のカタチ。
炭素は観測者の3次元性(時空)の概念のカタチ。
と言えるのかもしれません。

とすると、炭化水素のカタチは観測者の空間がモノ内部の空間と同一視されている概念と深い関係があることになります。
いわゆる、近代に起こった意識の脱中心化です。
自己中心化の位置としての肉体が他の物質と並列的なものとして見られるようになったということですね。

No.282 - 2008/06/18(Wed) 21:59:34

生物進化ネタに絡めて虫とはヌース的に何なんだろ? / ねじ [ Mail ]
オコツトがコウセンさんを直接観察出来ないようですが、オコツト以上の次元の人間がコウセンさんを直接観察しようと思ったらボクだったら虫の中に紛れ込んで観察したいなぁ!?と思います。蠅、蚊、ゴキブリ、蟻など嫌われ者の中に紛れ込めば普通では見せないような側面もつぶさに観測できそうだから(笑)また昆虫の複眼とは何なんでしょうか 複眼で見える世界観も気になります。コウセンさんにコメントしてもらいかなり嬉しかったです。蟻がとうごさいますm(_ _)m
No.283 - 2008/06/19(Thu) 20:51:59

脊索動物 / Φ=WHY? [ ]
コウセンさん、レスありがとうございます。

そういやゲノムの大きさが人間の6分の1で、遺伝子が約2万1600個である脊索動物「ナメクジウオ」の全遺伝情報が解読され、その6割が人間と共通し、並び順も似ていることがわかったそうですね。これで、ナメクジウオが脊椎動物の祖先に最も近いと考えられるようです。

No.284 - 2008/06/19(Thu) 22:41:08
またまた素朴な疑問。 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]

これまで(本当にザックリと)ヌース理論に触れて来て幾度か感じてきたことなのですが、ヌース理論はコスモロジーを謳いながら極めて視覚に依存しているように思うのです。

果たして盲目の方々に、ヌース理論が強調するような認識の反転が(伝達)可能でしょうか?いや、もっと言うなれば盲目の方々に対してヌース理論は伝えうるような何かを果たして持っているのでしょうか?

これらは言い換えると、ヌース理論がないがしろにしている(ように見受けられる)その他の人間が持つ五感。触角や嗅覚(味覚)あるいは聴覚をどのように考えられておられるのかということなんです。

こうした状況は実は建築にも同様にあって、建築においても視覚に対してその他の五感に対する研究があまりに浅いんですね。もちろん、マテリアルだのサウンドスケープだの一部にはないことはないのですが、建築家が実際に建築物を考えるとき、視覚的な側面だけでなく、触角や聴覚あるいは嗅覚のデザインをどこまで考えているのだろうかというと、どうも怪しいんじゃないかと。

と、まあ、そういった建築に対する個人的な問題意識もあって、それじゃあヌース理論はどうなの?と思ったわけです。

野暮なこと言っちゃうと、全員アイマスクでヌースレクチャーやれますか?みたいな。(笑)

それはそれで挑戦的というか実験的で面白そうですが。

No.248 - 2008/05/28(Wed) 01:19:10

人間の五感について / Φ=WHY? [ ]
DIEFORさんの議題からは少し外れるかもしれませんが、人間の五感について、脳の座標軸に対してこんなふうに言われています。人間の五感のうち、触覚の情報は「脳の上下軸」上にある「頭頂葉」でキャッチし、視覚の情報は「脳の前後軸」上にある「後頭葉」でキャッチし、聴覚の情報は「脳の左右軸」上にある「側頭葉」でキャッチするそうです。

これらをベースにし、ずいぶん昔にコウセンさんと人間の五感の次元観察子との対応について、「ψ1:嗅覚、ψ2:味覚」「ψ3:触覚、ψ5:視覚、ψ7:聴覚」ではないかと話したことがあります。「ψ1:嗅覚、ψ2:味覚」は怪しいですが、「ψ3:触覚、ψ5:視覚、ψ7:聴覚」は「脳の上下軸、前後軸、左右軸」の考え方から、いい線を行っているのではないかという感じがしました。

さらに人間の視覚において、空間視情報は「頭頂葉」で、物体視情報は「側頭葉」でキャッチするそうです。この辺については、旧ヌース理論会議室で書かせて頂いたことがあります。

【4393】人間にとっての左右と上下は逆ではないか?
http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=4393;id=noos

【4481】シリウス・プレートが形成する人間の次元観察の仕組みについて
http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=4481;id=noos

保坂和志さんは『世界を肯定する哲学』という著書の中でこんなことを述べられています。
「思考が視覚イメージを借りることによって徹底されなくなる」
少し詳しく述べると、「視覚イメージを持つことによって、思考は徹底されず、適当なところで折り合ったつもりになってしまう−−というようなことだ。あるいは、思考はだいたいいつも徹底されずにほどほどのところで、考えたつもりになりたがっていて、その方策として視覚イメージを借りてくることが多い−−というようなことだ。」というふうに彼は述べています。

この辺りのことを、私なりにヌース的な文脈で追ってみると、cave compass上で、ψ10(感性)というのは、「ψ3:触覚、ψ5:視覚、ψ7:聴覚」を覆っていて、つまり、感覚神経というか知覚を分断しながら制御する構造を作り上げていて、ψ9(思形)がそれを統合して一貫した論理的「思考」というものを作り上げているのではないかと。

言ってみれば、ヌースでよく言われる「後ろ」がψ10(感性)であり、「前」がψ9(思形)ではないかという感じです。知覚のうち人間が最も重要視している「視覚」が「後頭葉」にあるのに対して、思考領域が「前頭葉」にあるというのも、ヌースでよく言われる、人間の「前」と「後ろ」が反転していることに他ならないことかもしれません。つまり、人間にとっての「後ろ」が真の「前」であり、人間にとっての「前」が真の「後ろ」であるという説明です。

こういったことも踏まえて、DIEFORさんが掲げられた問いについて考えてみると、さらに深みが増して面白いような気がします。

No.250 - 2008/05/28(Wed) 11:29:56

Re: またまた素朴な疑問。 / ラ・ムー子 [関東] [ ]
ラ・ムー子です。

Φ=WHY?さんの書き込みを見ていて、「なるほど…」。
(っていっても、殆ど分かってないんですけどね!汗)

それで、D I E F O Rさんが、
>野暮なこと言っちゃうと、全員アイマスクでヌースレクチャーやれますか?みたいな。(笑)

>それはそれで挑戦的というか実験的で面白そうですが。

っていう事を書いてますが、それでふと思いついたのは、
もしかして、盲目の方は、見えるということの体験が無いのですよ???
にも関わらず、ですよ…
「前と後ろ」を理解されているの?!かも。
う〜ん。なるほど!です。

それで「ψ1:嗅覚、ψ2:味覚」「ψ3:触覚、ψ5:視覚、ψ7:聴覚」っていうことを見ていて思い出したのは、人が臨終の時には、最後は聴覚だと聞いています。
息は止まった、瞳孔も開いた。心肺停止だ、でも耳は聞こえている・・・と。
何人もの肉親の他界前に際して、まだ意識ある状態でも、触覚って、かなり前段階で途切れるんです。とっくに臭いのことなど話題に出ないし、味覚も同様です。それで、一般的には視覚がぼんやりして、殆どは目を閉じて、心肺が止まり、瞳孔が開くんですが、実は耳はかなり聞こえているそうです。
所謂臨死体験などからも、そういうことになります。
と言うことを、思い出していました。
なるほど♪

No.256 - 2008/05/29(Thu) 23:59:49

Re: またまた素朴な疑問。 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
>ラ・ムー子さま

> もしかして、盲目の方は、見えるということの体験が無いのですよ???
> にも関わらず、ですよ…
> 「前と後ろ」を理解されているの?!かも。
> う〜ん。なるほど!です。


盲目の方の方向感覚というものはおそらく聴覚によって養われているもので、視覚中心によって養われた、いわゆる私たちの通常の方向感覚とはまた違っているのではないかと思われます。(私たちでも例えば、突然、ブラックアウト(あるいはホワイトアウト)された空間に投げ込まれたら、まず通常そう感覚化しているような方向感覚というものは即座に失われます。)この辺りの差異に対する研究は非常に興味深いところですね。(音響心理学の範疇でしょうか?)

芸術で言えば、音響派以降のフリーシークエンスあるいはロウアーケース・サウンドが、このいわゆる『聴覚的方向感覚』やあるいは聴覚そのもの(の限界性)を問題としていた(いる?)と言えると思います。

ぼくはこの手の音楽が好きでよく聴いています。具体的には、フランシスコ・ロペスやバーナード・ギュンター、フリーシークエンスと言えばやはりRyoji Ikedaですね。いま、ちょうどYCAMでインスタレーションの展示がされていますが。彼の音響作品はヤヴァいです。ヌースの世界観とも相性がいいんじゃないでしょうか。

http://datamatics.ycam.jp/index.html

No.257 - 2008/05/30(Fri) 17:07:20

Re: またまた素朴な疑問。 / Naoko [関東] [20代]
目の見えない方の肉体感覚の形成ってどうなっているのでしょう?

目が見える場合だと、他者からの無数の視線が焦点化される位置として、「私」「私の肉体」がはっきりと意識されてくるわけですよね? ラカンによると?

肉体(身体)感覚が形成されることによって、方向感覚が形成されてくるのではないのかなーと思ったのですが。

聴覚や触覚をつかって、世界とはっきり分かたれた「私」「私の体」という感覚が生まれてしまえば、目が見える・見えないの差異ってどこにあるんだろう・・・

と、ぐるぐる考えてしまいました。。。

No.258 - 2008/06/02(Mon) 14:36:17

Re: またまた素朴な疑問。 / kohsen [九州] [ ]
コウセンです。

ヌースは視覚を偏重しすぎている。視覚は理性の温床であり、男性原理の象徴的感覚だ。こうした批判はヌース理論を紹介するたびに、いろいろな人から受けてきました。

僕自身は、五感のうちで視覚が最も知性と直結した感覚だと思っているので、ヌース理論が視覚を中心に組み立てられていても何の違和感もないし、そのことに特別に問題意識も持っていません。むしろ、問題なのは、見ることを単に「視覚」という言葉で片付けてしまうことの危険性です。

上でNaokoさんがおっしゃっていることとも関係しますが、おそらく、目が見える人も、目が見えない人も、ある共通の認識枠で世界を捉えているはずです。こうした認識を形作っているのは、当然ながら、視覚ではないです。五感における諸々の感覚というよりも、感覚を通して立ち上がる想像力の綜合の在り方がより重要な役割を担っているように思えます。

言い換えれば、実のところ、人の五感は五感に素直には働いていないってことですね。感覚器官は人間がそのときどきに持った観念の在り方に大きく影響され、つねに変化しているのではないかってことなんです。

見ることを単に視覚としてしか捉えられない近代から現代における思考性がどうもまずいです。ヌースの文脈では、見ることは、そのまま、いること、と同意であり、モノと観測者を結ぶ空間は、カメラと物体を結ぶ次元とは全く別の次元の場所です。この違いを空間的にきっちりと定格化するためにも、視覚という概念を、本来の視覚そのものの位置に戻す必要があるのではないかと考えています。

人間の周囲に世界が広がっていること。。
視覚とは何かを見るなどといった対象捕捉の機能ではなく、宇宙そのもの、光そのもの、のことではないのか、ということです。

No.259 - 2008/06/03(Tue) 14:32:04

Re: またまた素朴な疑問。 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]

> 上でNaokoさんがおっしゃっていることとも関係しますが、おそらく、目が見える人も、目が見えない人も、ある共通の認識枠で世界を捉えているはずです。こうした認識を形作っているのは、当然ながら、視覚ではないです。五感における諸々の感覚というよりも、感覚を通して立ち上がる想像力の綜合の在り方がより重要な役割を担っているように思えます。

となれば、なぜヌースは視覚(=見ること)による認識の反転に終始するのでしょうか?嗅覚、触覚、聴覚による認識(?)の反転についてはどのように考えられているのでしょうか?ぼくはそこに非常に関心があります。
視覚(=見ること)を中心とする学は、極めて近代的なものではないかと思うのです。

ぼくは空間を感知する感覚器官はいわゆる第六感と呼ばれるところにあると考えています。これらは、5つの感覚器官を1とするような感覚器官です。空間について論じるには、視覚のみならず、その他4つの感覚器官を総合的に捉えられる視座にあらねば、空間の問題は部分的にしか解決されないと確信します。

純粋に教えて頂きたいのです、ヌース理論が単なる知覚心理学のようなものではなく、コスモロジーだと仰るのであれば、盲目の方々、あるいはヘレン・ケラーのような人物に、ヌースにおける認識の反転はどのように伝えられるのだろうかと。

No.260 - 2008/06/03(Tue) 17:52:20

Re: またまた素朴な疑問。 / ラ・ムー子 [関東] [ ]
ラ・ムー子です。

視覚に囚われているのは、当然、ヌース理論ではなく、それを論じている私たち自身(人間型ゲシュタルト)だと直感します。
その、知覚という言葉に、概念を与えている自己の様子を
誰も気が付いていないままに、知覚、知覚と言いまくりますが(笑)それは本来の知覚とは似て非なるモノと言えなくないか?というのが自分の主張です。
(多く、言葉はそのように概念の手垢にまみれてません?)
「それ」について、論じているようで、全然別のことについて言い合っているのが、人間型ゲシュタルトの一側面ではと思います。

>実のところ、人の五感は五感に素直には働いていないってことですね。

というkohsenさんのコメントは、今までの経験から、そーかもなーっと。うなずくところです。

自分の感じるところでは、盲目の方の視覚とは、見えないという見え方かも知れない、そうも思えます。
(この言い方に賛同は得がたいと心得ながら)それを視覚と呼ぶならば、当然本来的な視覚とは、いま視覚と言っているものとは性質が違いそうです。

>僕自身は、五感のうちで視覚が最も知性と直結した感覚だと思っているので

と書かれています。自分も知性と直結した感覚器官は視覚だと捉えています。聴覚は、それと違う性質を持っているとも捉えています。
「光あれ!」と言葉により発せられていることを考えます。
(その原初の言葉を受け止める、それが聴覚だということではないんですがね。そんな肉肉しいもんじゃないだろなっ!)

で、やはり自分が思うのは

>ヌース理論が視覚を中心に組み立てられていても何の違和感もないし、そのことに特別に問題意識も持っていません。むしろ、問題なのは、見ることを単に「視覚」という言葉で片付けてしまうことの危険性です。

というくだり。自分もそのことに何も問題意識を持っていないです。とあっさりいっているのではないのですけど、言葉としたら、そういうことです。ややこしい。
視覚を中心に組み立てられ、その理論を自分が認識として理解できたら、聴覚における興味も、同時に解けるもんだとおもうんですね。
ヌースで、聴覚はどうよ?っていうのを、今自分が問うたら、それは、寿司屋で「肉料理はどうよ?」って話を持ち出すような違和感が…
それは、寿司料理を極めたら、獣肉で寿司も握れるかも知れない…シャリとあんまり合わなくともね。日本料理ってのは、世界に通じる食の技だと感じる!だから、まずは魚介を突き詰めろっ!ってことが違和感がないです。わたしは。
アラスカで食べた、スシロール、けっこうイケマシタ!

No.261 - 2008/06/04(Wed) 00:21:30

Re: またまた素朴な疑問。 / D I E F O R [九州] [ ] [ Home ] [ Mail ]
いえ、ですからぼくが問いたいのは極々単純なことなんです。
何も難しいことではなくて『YES/NO』で終わっちゃうような簡単な問いなんです。だから、素朴な疑問と書かせて頂いたのですが。

つまり、ヌースで言われている反転という概念が果たして目の不自由な方々に伝達可能なのかどうかというその一点なんですね。

伝達不可能だ、そのような方々には申し訳ないが切り捨て御免!ということであればそれはそれでいいんですよ。

しかし、とするとやはりヌースは数ある感覚器官の中で視覚における認識や反転を中心問題とするような学なんだなと、そうゆうことになります。

まあ、音楽が耳が不自由でない人のための芸術のように、ヌース理論は目が不自由でない人に限ったコスモロジーなんだなと。

ぼく個人は、聴覚や触覚における認識と反転の問題も、視覚同様に突き詰めると大変興味深いと思うのですが。聴覚に関しては、事実、フリーシークエンスやサンプリング・ミュージック以降の音楽家が最近問題とし始めてきているように思います。第三項音楽とか、あの辺りですかね。芸術としての音楽の可能性はこれから、そういった方向性にどんどん向かってゆくでしょうね。

音楽評論家の佐々木敦さん曰く『耳を聴く音楽』ですね。

佐々木敦さんの著書は音響芸術にとどまらず、あらゆる思想や文化に通底するような広範なテーマを取り扱っていらっしゃるのでオススメです。

って、脱線しました。申し訳ないです<(_ _)>

No.262 - 2008/06/04(Wed) 04:14:23

Re: またまた素朴な疑問。 / Naoko [関東] [20代]
目の見えない方にも、ヌース理論は伝達可能だと思います。

・・・って私は答える立場にないのは重々承知なのですが。

「自分」がいて「他者」がいて「世界」があって「物質」があって「空間」がある。
という認識のもと、人間として生きているすべての存在に、ヌースの反転概念は伝達できると思います。

というのも、ヌース理論の言う「反転」は、視覚だけの反転だとは私には思えないのです。

見るものと見られるものの反転って、既に、通常私たちが使う言葉の意味での「視覚」の域を超えていると思うのですが。。。

コウセンさんが、「見ることは、いること、と同意」だとおっしゃってましたが。「人間の周囲に世界が広がっている」という認識そのものの反転のことをヌースは扱っているわけですよね?
そのことを理解するのに、目が見える、見えないは、問題ではないように思います。

(聞くものと聞かれるもの、触れるものと触れられるもの等等の反転も、「私」と「世界」の反転という意味では、ヌースで既に語られている論の中に答えがあるような気もします。)

中途半端な私見で申し訳ありませんが・・・
ヘレン・ケラーにも伝達可能だと私は思います。

それにしても、知覚って一体なんなのでしょうね?

No.263 - 2008/06/04(Wed) 15:53:58

「見ること」って何だろう? / Φ=WHY? [ ]
そういや、シリウス・ファイルにこんなのがありましたね。

交信記録19891207「論理とは思形が作り出すものなのか。」「違います、感性が作ります。」「では、人間の意識活動において思形が果たす役割は何ですか。」「位置を、見るものによって変えさせるということです。」

交信記録19900908「人間の五感において視覚が最も次元が低いのでしょうが、その他の感覚についてはどのように考えればよいのですか。」「視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚の順となります。」

交信記録19920920「見ること自体が光と分かることが光の総体の意味なのですか。」「一つの次元を見ることが光の総体。光自体は中和の状態です。」「夜、モノが見えないのはなぜですか。」「光が内面を持っていないということであり、人間の意識に方向性が作り出されていないということ。表相の関与ができていないということです。」

交信記録19920904「核質の等化とは『モノを見る』ということですか。」「違います。モノを内面から見るということが核質の等化。位置の等化の対化です。」

交信記録19911003「精神核について教えて下さい。」「人間の精神核とは太陽。ヒトの精神核とは陽子。真実の人間の精神核とは光子。」

No.264 - 2008/06/04(Wed) 22:20:52

Re: またまた素朴な疑問。 / junjun [ ]
目が見える人も、見えない人にも共通の五感に左右されないモノと考えたら放射線ぐらいしか想いつかないな(笑)
 お互い目に見えないし、おまけに臭いもないし・・・
isotope? radioisotope? 人間自身からも放射線は出てるだろうし。。。

No.265 - 2008/06/04(Wed) 23:11:59

Re: またまた素朴な疑問。 / コーマ [関東] [40代]
失礼します。

ヘレン・ケラーはともあれ言語構造を理解しました。言語構造を理解したということは、例えば、数学を理解する可能性をも開いた、ということはできるのではないでしょうか?

聴覚障害者がビート、リズムを理解、というより端的に感知することができることは言うまでもないでしょう。あとは音の高低、音色、和音等の問題ですが・・・
ちなみに、
それぞれある一色だけに統一した部屋の中で、同じ音楽を聴いてもらったところ、半数の人たちがブルーの部屋の音楽が最もきれいだった、と答えたそうです。
また、アンプとスピーカーをつなぐケーブルのコーティングが黒のものを使用すると、音に深みが増し、白のものを使用すると、軽快な感じになる、といった報告があるそうです(確かNHKの報道番組でやってました)。

物事を教授する場面と、自ずと理解する(あるいは端的に感知する)場面とは別なのではないでしょうか?
私たちは何らかのメディアを介さずにメッセージを伝達することができません。
物事を教授する場合、まずもってマスに伝達するためのメディアが致し方なく優先されることになります。そのいの一番たるものが言語、そして視覚情報ということになるのでしょう。
しかし、他のメディアによる伝達・教授法は実際存在するし、また少なくとも可能性は否定し切れません(というか、可能性の問題はむしろ私たちの倫理の問題なのでしょう)。

さらに、どのメディアによった場合が「本人の理解にとって」最も能率的・効果的か?
と考えた場合、それはそもそもメディアによる問題じゃなく、時代時代の社会全体の意識構造のあり方の問題であり、最終的には本人の資質・努力の問題なのだ、ということになるのではないでしょうか?
例えば、ヘレン・ケラーは手の平に書いてもらったwaterからはじまって、後に数ヶ国語をマスターした、という話は有名ですが、英語教師をしている40代の私は、ここだけの話、
実は英会話すら怪しい、というようなことです。

以上、一般論でした(ずれてたら、ごめんなさい)。

No.266 - 2008/06/05(Thu) 10:07:59

Re: またまた素朴な疑問。 / Ricardo [関東] [30代] [ Mail ]
以前、夜の闇に浮かび上がる街頭と照らされたその周辺空間を見て、光=空間=見ること、というヌースの話がなんとなく自分の考え的にも合致してきつつあります。

そうした場合の「見る」とは世界空間の認識そのものであって、それは視覚だけを指すものではなく、極端に言えば五感すべてを含むものなのではないか、と漠然と思うようになっています。

Φさんの言うように、脳内の認識構造と「前」と「後ろ」の関係性もその関係性を反映したものかもしれませんし、「脳」を「種」と見立てると、そこからのびる神経網が、「種」から生えて地にのびていく「根」に思えてきます。
五感は「根」から物理世界に具現化しか器官ではないのかな?と思っています。

「光あれ!」で、「何か」に「意識」が「種植え」され、神経という根が生えることで肉体が形成されながら具体的な感覚器官も形成された・・・のかな、と。

No.268 - 2008/06/06(Fri) 12:47:58

自分=光速度? / Φ=WHY? [ ]
物理的な光速度限界を「自己」と呼ぶなら、それを「等身大」の位置としたとき、「人間」という自己の、新しい成長・発展の座標軸の「原点」が決まる。それこそが、「自分が自分でいること」。ところが、「等身大」の位置ではなく、過不足が発生すると、「時間」が生じてしまう。それは「内面的な空間(=闇)に落ち込む」ことを意味している。「人間」の「感覚」とはそういうものを指すではないでしょうか。そして、その「内面的な空間」こそ、ヌース理論では、「歪んだ空間」としての「電磁場」、つまり「光子」(ガンマ―線)が相互作用する場であると言っていたかと思います。つまり、人間の「認識の反転」へとつながる「感覚」のまず最初の現場とは、「光子」が相互作用する現場ということになるのだと思います。このレベルだと視覚とか聴覚とかそれが対象とする光や音が区別される以前の現場であり、その現場こそ、ある種の「ふちのある器」という構造を生み出していると思います。
No.270 - 2008/06/08(Sun) 06:19:33

Re: またまた素朴な疑問。 / Ricardo
こういう風に様々なアイディア?が発生してくる会話の連鎖って楽しいですね!

光の限界速度の等身大の自己基底と「ふちのある器」という発想はすごく興味をそそられます。

私の「具現化した感覚器官」と合わせると、より鮮明に構造が描ける感じがしました。



自己基底とまではいきませんが、意識感?と3次元感の感覚の話ですが。

街中を歩いている今この時に、特定のモノに焦点を合わせるのではなく、視界前方全体を感じている。
世界の中心とした頭部からのびた足先に地面があり、地面を歩く私、ではなく、私の足の先に地面があり。
自己の前方の軸がある、そんな感覚に浸っているとします。


ところが、何か物や人に焦点を合わせて物として意識しだした途端に、私は肉体を持ち3次元物理空間の中にぽつんと存在する人体としての存在感がぐぐっと強くなって、あっという間にそれに支配されます。


うまく表現できませんが、物理空間を見ている意識感と、物理空間に浸っている3次元感、とでも言うのでしょうか。

取り留めなくなってしまいますが、意識は個として確立する方向、光の淵からわざと時間と空間を作り出す方向に乗っている?為か、身体に悪いものほど美味いといわれる様な事物は、依存も含め肉体感覚を高めるものが多いのも頷ける気がします。
力の方向が合うことが、楽しい、気持ちいい、という感覚になっているのかもしれませんね。



まとまらない文章ですいません。

No.271 - 2008/06/09(Mon) 18:18:28

Re: またまた素朴な疑問。 / コーマ [ ]
「自分が自分であること」。私たちは通常「周囲の目を通して」いわゆるidentityを形成していくものなのでしょうね。「周囲の目」。例えば、親兄弟親戚の目、友達の目、学校の先生の目、気になる異性の目、あるいは試験等の抽象的な社会総体の目。

このような実に様々な「周囲の目」の、いわば結節点を探り出していく(というより、結節点が自ずと浮かび上がってくる?)過程がidentity確立の道程なのでしょうね。

そして人生の岐路において、想定外の方向から照射されてくる「視線」によって、しばしばこの「結節点」に亀裂が入ることがある。そしてこの亀裂の修復がうまくいかない場合に、identity crisisとかいって、多かれ少なかれ「精神的に病んでいる」とか言われる状態に陥ることになるのでしょうね。
 
しかしまあ、さすがに私のような中高年ともなると、大概はidentity確立のために云々、といった問題意識も次第に遠のいていき、大概は「肩書き」といわれる、実に様々な具体的・抽象的なIDカードを手渡されて、そのIDカード=商品タグの束をもって簡易な「自分が自分であることの証明」としている、といったストーリーに・・・・・嗚呼!

結局、「周囲の目」=「商品タグ」。どちらも社会における円滑な流通に資するための便利なアイテム、なのでしょうかね? 商品タグ的視線は、物の一側面だけをわかりやすく照射・表示してくれます。逆に「その物にはもっと多くの可能性が開かれているはずだ」などという、少なくともアバウトな段階の情報は、円滑な流通を阻害するものとしか認識されないのでしょうね。

私は、ヌースがこのような閉塞感を打破してくれることを、心より期待しております。

No.272 - 2008/06/12(Thu) 10:44:07
人間の生きる意味 / Φ=WHY? [ ]
人間には、自分が決めつけている「枠」というものがあって、そこから出られません。しかも、その「枠」を構成しているものは、「意識」的に決めつけていることだけではなくて、自分でも気がつかない間に決めつけている「無意識」的なものもあり、さらに、自分だけが原因とは思えない「社会」的なものが原因となっているものまであります。かなり大雑把に言ってしまえば、そうした決め付けの「枠」のことを「構造」とか「モダニズム」とか言うわけだけど、そうした「枠」を「モノ」(対象)と呼べば、それを決めつけている存在が「観測者」ということになります。

「人間型ゲシュタルト」は、この決めつけている主体と、決めつけられている客体とを「分離」する見方・考え方であり、主体−客体を分離せずに「統合」的に見る見方・考え方が「変換人型ゲシュタルト」なのだと思います。

もしそうだとすれば、人間の生死および人生の意味ってどういうことになるのだろうかと考えてみます。

決めつけようとする手元側に何かエネルギーのようなものがあって、目の前にあるモノへと凝縮化していくことが人生なのではないか、と。つまり、決めつけようとする「何か」こそ、精神側、スタート側にあるものであって、つまり、「決めつける」側にあって、その対象こそ、つまり「決めつけられる」側こそ、付帯質側、物質側、エンド側にあるものではないか、と。「決めつける」側にあった「エネルギー」は「決めつけられる」側の「質量」となるわけです。言い換えれば、「決めつける」側に「誕生」した何かは「決めつけられる」側において「死」ぬわけです。「決めつける」側に「発生」した何かは「決めつけられる」側において「消滅」するわけです。ある意味、「決めつける」側に「発散」している状態が「決めつけられる」側において「収縮」するわけです。

すると、拡大解釈すれば、「決めつける」側こそ、人間の「誕生」の地であり、「決めつけられる」側こそ、人間の「死」の地とも言えるのではないでしょうか。

ヌース理論の文脈からすると(厳密でなく、思いついたざっくばらんな感じでも結構ですから)、みなさんはどんなふうにお考えでしょうか?

No.234 - 2008/05/25(Sun) 11:53:15

Re: 人間の生きる意味 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
能動態と可能態のお話でしょうか?
Φさまのお話を聞いていると、ぼくの頭には哲学者サルトルの名が浮かびます。
Φさまがここで問われている問題とは、存在論あるいは実存主義の範疇にあるのではないかと。

ここで仰られている「決めつける/決めつけられる」とはハイデガーで言うところの「投企/被投」の関係にあるのではないでしょうか。

ぼくは学生時代に、サルトルのあのあまりに有名な言葉。

『人間は生まれながらにして自由の刑に処せられている』

に感銘を受けたクチですv(。・ω・。)♪

は、さておき。

ニーチェの『神は死んだ』以後に、“人間の生きる意味”について考えるのであれば実存主義は避けて通れないかと。

そういえば、澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』が面白かったですよ。Φさまは読まれましたか?

『人生には、目的なんかない』ではじまるこのテキストは誠に痛快でしたね。

実存主義風に言えば「人間の生きる意味などない!自ら価値を創造せよ!」となって、ハイデガー風に言えば「現存在が存在そのものへと還ること(存在における運動の逆射影=反転!)」になるのでしょうか。(あくまで“〜風”ですよ!)

No.237 - 2008/05/25(Sun) 15:30:25

Re: 人間の生きる意味 / ユル☆ [関東] [ ]
Φ=WHY?さん

たしかにおっしゃる通りだと思いました
そしてその事象(既存の事実)はあらゆる表現の仕方があるように思います

しかしオコットさんの顕現の目的は
脱「人間型ゲシュタルト」にあると思います

その具体的な方法の指針としてまず等化かなと思っています
(等化=二元性の統合)

「変換人型ゲシュタルト」に人類が進化していくことによって誕生、死やカルマ、過去世などが、進化していくほどに、意味をなさなくなってくると思われます

ですので、あまり既存のモノの表現方法にフォーカスするよりも見えていないモノを物質世界にいかに表現していくかの方が、重要性を大きく感じます

「変換人型ゲシュタルト」はおそらく神と同じ創造者であると思いますので、見えていないモノを物質世界にいかに表現していくか=創造とわたしは捕らえています

半田さんはグノーシス的限界である”体験のみによってしか真理を得られない ”ことに果敢に挑戦されていらっしゃる方ではないかと勝手に理解させていただいています

目的、本質を捉えていく能力開発は今の人類の課題ではないかと思われます

自然物は特性として合目的性を備えています
人間もエゴからの思考がはずれれば自ずと合目的性が発揮されていくのではないかと思われます

No.238 - 2008/05/25(Sun) 15:53:57

Re: 人間の生きる意味 / Φ=WHY? [ ]
DIFORさん、ユルさん、こんばんは。

存在論やサルトルの実存主義の範疇にある考え方というのは、結局、ヌース理論で言うところのψ7〜ψ8辺りの「元止揚」の枠組みの中に閉じ込められている「人間」の精神構造の機能の範疇にあるような気がします。「人間型ゲシュタルト」は、ψ8に閉じ込められて発展できず、「変換人型ゲシュタルト」はψ7を超えて発展していくものではないかと、私は考えています。

例えば、物体の運動には2通りのモノの見方があります。ひとつは、時空の中で物体が運動するといったモノの見方であり、ふつう私たちはこの見方をします。もうひとつは、物体はそのままでその背景である(局所的な)時空が運動すると考えるモノの見方で、素粒子物理学ではこの見方をするのがふつうのようです。

おそらく「人間型ゲシュタルト」とは、前者の見方に「磔」(はりつけ)にされている精神構造であり、後者の見方もふつうに感覚できて、前者でも後者でも同等に見ることができる精神構造が「変換人型ゲシュタルト」なのではないかと思っています。

ヌースの次元観察子ψ7〜ψ8というのは、とてもユニークな「境界」的な精神構造領域であり、「自然」(ピュシス)と「人為」(ノモス)の境界、あるいは、「個人」的な分野と「社会」的な分野の境界、「自然科学」と「人文科学」(社会科学も含む)の境界辺りを意味するのではないかと思います。

No.239 - 2008/05/25(Sun) 19:34:56

Re: 人間の生きる意味 / zanki [関東] [40代] [ Home ]
 量子力学の波束の収束のイメージとダブるお話ですね。

 で、生きているとはこういう状況なのだという意味で
「生きる意味」というタイトルにしたのなら判りますが、
その先の生きる目的、生きねばならならい理由という意
味での「生きる意味」はどうお考えですか?一般的には
そっちの生きる意味を人間は追い求めていると思います
が。

No.242 - 2008/05/26(Mon) 02:55:16

Re: 人間の生きる意味 / Φ=WHY? [ ]
zankiさんへ

一般的なレベルでの「生きる意味」というものは実は存在せず、基本的には個人個人がそれぞれに自分の「生きる意味」を与えているだけなのではないかと私は思います。

No.245 - 2008/05/27(Tue) 19:23:49

Re: 人間の生きる意味 / ユル☆ [関東] [ ]
Φ=WHYさん

見方は一般的には
「人間型ゲシュタルト」 ψ2
「変換人型ゲシュタルト」ψ3 で

おっしゃる境界はψ4〜ψ5 では?と思います
なぜそう思ったか説明するのには手間がかかりそうですが・・・

生きる意味は

生まれる前に綿密な計画を立ててここに来ていて、わからないように隠していたのでそれを解読していくのが生きる意味

っていうのがいまのところ一番しっくりきている仮説です(微笑)

No.246 - 2008/05/27(Tue) 20:08:42

Re: 人間の生きる意味 / Φ=WHY? [ ]
ユルさんへ。

私が、「人間型ゲシュタルト」はψ8に閉じ込められて発展できず、「変換人型ゲシュタルト」はψ7を超えて発展していくもの、としたのは「広義」の定義というか位置づけという感じで、「モノの見方」的な「狭義」の位置づけとしては、ユルさんがおっしゃる通り、ψ2が「人間型ゲシュタルト」(あるいはψ2,ψ*2(つまり、ψ4)と分離するようなモノの見方が「人間型ゲシュタルト」)、ψ3が「変換人型ゲシュタルト」だと思います。そういう意味では、「狭義」の「境界」的な意味合いは、ψ3〜ψ4とψ5〜ψ6(ψ3〜ψ4,ψ3*〜ψ*4)の間と言えるかもしれません。つまり、「自己がその内面に閉じ込められている状態」と「自己が他者との関係として自己を開いている状態」の差異ということになるでしょうか…。

人間の「生きる意味」というのは、既定値としては「無意味」と設定されていて、実際には、個人がそこに、目的、あるいは目的からくる目標設定値として、「特定の意味」を掲げ、全うしようとするものなのではないかと思います。

これを無理やり「ヌース理論」の枠組みに照らして、私なりに勝手に解釈させてもらえば、既定値の「無意味」と設定される構造が、ψ7〜ψ8の元止揚構造辺りであり、個人の枠組みを超えて、社会とか集団という枠組みから特定の意味を見い出せれば、ψ7〜ψ8にリアリティを持つ「特定の意味」ということになり、個人の枠組みを超えて、国家とか民族という枠組みから特定の意味を見い出せれば、ψ9〜ψ10にリアリティを持つ「特定の意味」ということになり、個人の枠組みを超えて、同時代の人間とかいう枠組みから特定の意味を見い出せれば、ψ11〜ψ12にリアリティを持つ「特定の意味」ということになるのではないかと考えます。ψ7〜ψ8以下の階層(ψ5〜ψ6,ψ3〜ψ4,ψ1〜ψ2)でリアリティを持つ「特定の意味」というのは、結局のところ、「個人」にとっては「意味のあること」であっても、社会とか集団以上における意味は「無意味」と言えるのではないかと思います。昨今のトンデモない輩たちの残虐な事件の多くはこのψ7〜ψ8以下の階層における個人の歪んだ意味設定がもたらしている悲劇と言えなくもないかもしれません。

No.247 - 2008/05/27(Tue) 23:10:55

Re: 人間の生きる意味 / ユル☆ [関東] [ ]

そうかもしれません よくわかりました

ありがとうございます☆

No.249 - 2008/05/28(Wed) 03:37:46

Re: 人間の生きる意味 / zanki [関東] [40代] [ Home ]
Φ=WHY?さんへ

>人間の「生きる意味」というのは、既定値としては「無意
>味」と設定されていて、実際には、個人がそこに、目的、
>あるいは目的からくる目標設定値として、「特定の意味」
>を掲げ、全うしようとするものなのではないかと思いま
>す。

 同感です。私のブログ記事「ムダは変?」で同じ事を書い
た記憶があります。ただ、残虐な事件=「歪んだ」というの
は簡単すぎる気がします。

ユル☆ さんへ。
>生まれる前に綿密な計画を立ててここに来ていて、

なんかエハラチックな感じですね。

No.251 - 2008/05/29(Thu) 00:12:26

Re: 人間の生きる意味 / ユル☆ [関東] [ ]
zanki さん

エハラチックですか?

特に傾倒していないですけど、あんなに有名な方と同じ思考だったとは光栄です 笑

No.255 - 2008/05/29(Thu) 20:49:55

Re: 人間の生きる意味 / Φ=WHY? [ ]
zankiさんのブログはこちらでしょうか?(⇒http://zanki.blog.so-net.ne.jp/

いくつも興味深い内容を書かれておられますね。

No.269 - 2008/06/08(Sun) 06:09:57
(No Subject) / Naoko [関東] [20代]
こんばんは!

私の場合は、そもそもミーハーに占いにハマッたことが、ヌースへの道の入り口だったような気がします。

当たると評判のところや、半年待ちの人気占い師や、オーラリーディングや、、、いろいろ行ってみて、占いってそもそ何なんだ? オーラってなに? 本でも買って調べてみよう! 
と思ってアマゾンで検索したところ、「人神」を発見しました。

評価が星5つで、すごくレビューが面白そうに書いてあったので、占いともオーラとも関係なさそうでしたが購入してしまいました。

同時期に買った本の中にはニューエイジ系、スピリチュアル系、タロットなどの占い系など、いろいろジャンルはあったんですが、読んでみたら群を抜いてヌースが面白かった。
・・・というよりほとんど衝撃的で、冗談抜きで寝食を忘れてぶっ通しで1冊読んでしまい、すぐに残りの二冊も注文しました。

で、これでもうヌースの読み物がなくなってしまった〜と悲しくてこちらのサイトにアクセスしてみたところ、半田さんのブログがこれまた面白くって!  
今日に至っております。

ATRIUMもほとんど見てるだけのことが多いのですが、みなさんの高度なやりとりがすごく面白いです。
どう口を挟んだらいいんだろうと躊躇することが多いのですが、DIEFORさんのトピックのおかげで書き込めました。

ありがとうございます。

No.225 - 2008/05/21(Wed) 22:42:59

(No Subject) / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
こんばんわ!v(。・ω・。)♪

これからもじゃんじゃん書き込んで下さいな☆
ここは談話室なのでどうぞお気軽に♪

Naokoさんは同年代なんですね!なんだかちょっぴり嬉しいです♪
共に頑張りましょー!(何を?笑)

No.226 - 2008/05/22(Thu) 00:14:08

ヌースに惹きつけられる魅力って何? / Φ=WHY? [ ]
そういや、ヌースって昔から女性ファンとか多いんですよね。だいたい、精神世界系は女性ファンが多く、ニューサイエンス系は男性ファンが多いような気がします。ヌースはどちらかと言えば、精神世界系よりニューサイエンス系に近い感じがするのですが、意外と女性ファンが多い。

いったいヌースの魅力はどこにあるのでしょうか?ふだんあまりこういった掲示板に書き込まないヌース・ファンの方々にも聞いてみたいものです。

No.228 - 2008/05/22(Thu) 11:08:52

(No Subject) / D I E F O R [九州] [ ] [ Home ] [ Mail ]
>Φ=WHY?さま

そうなんですよね。ヌース理論はかなりロジカルというか、幾何学的というか構造的なので(ごめんなさい。曖昧で。。。)一般的に女性受けはあまりよくないように思われるんですが、ところがどっこい案外女性ファンの方いらっしゃるんですよね。
女性限定のシンポジウムなんて開いてみるのも面白いかも。笑
男性と女性では観点が違いますからね。
確かに、女性ファンの方がヌース理論のどこに惹かれておられるのか興味ありますね(。・ω・。)

No.229 - 2008/05/23(Fri) 12:12:34

Re: / Naoko [関東] [ ]
わたし、別スレッド立ててしまってましたね・・・
ごめんなさい。

ヌースの魅力ですか。
とにかく「おもしろい!」とハマってしまったので、どこがポイントかあんまり考えませんでした・・
 
「人神」でもロジックの部分はたしかにとても難しくて、一読ではまったく歯が立たなかったのですが、それでも「これを理解したい!」と思わせる魅力は、もう最初の数ページからあったんですよね。

オコツトという存在の魅力もあるのかな。
クールで、淡々と厳しく、淡々と優しいというか。

あと、女性的な視点かどうかは分かりませんが、「人神」でのコウセンさんの立ち位置が、とても共感の持てるものだったことは大きいと思います。
チャネリングって、自分の潜在意識が作り出した妄想なんじゃないのか? とか、オリオンVSプレアデス・・・はいはいよくあるアレですね、みたいな冒頭のコウセンさんのオコツトに対する反応に共感が持てたというのはありますね。

DIEFORさん、私は20代の出口におりますが、一応同年代ということで!
共にがんばりましょう〜(?)

No.230 - 2008/05/23(Fri) 18:56:09

Re: はじめまして / たかこ [九州] [40代]
はじめまして、たかこと申します。

Naokoさんのおかげで始めてカキコする勇気がもてました。

ヌースの魅力について女性1ファンとして書いてみます。

ここの議論についていけてないのは確かなので
どこにも絡めませんでした。
何を言ってるのかどこが論争の焦点なのかもワカリマセンで。

ヌース理論も読んでいてもも遠く理解が及ばないところも
多いです。

が、多分私個人的な観点ですが
面白いと感じて夢中になったのは確かです。
今まで生きてきた中での疑問点や確信に
いちいち響いてきたので。

特に"思考としての愛"という一文に
トドメをさされたのを覚えております。

多分私の脳は、理論より感覚で感じているので
感じるものを言葉に置き換えたとたん
違うものになっちゃうので難しく
感じちゃうのか。

何かの地点まで一気にワープといいますか。
そこのワープ感を感じまして魅了されてます。

いまだ自己の中では
化石として発見された生き物は地上では存在してなかった
という話に困惑を感じて飲み込むのが
むずかしゅうございます。

40代ですが、よろしくお願いします。

No.231 - 2008/05/24(Sat) 11:16:44

(No Subject) / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
たかこさん、いらっしゃいませ!\(*^▽^*)/

> 多分私の脳は、理論より感覚で感じているので
> 感じるものを言葉に置き換えたとたん
> 違うものになっちゃうので難しく
> 感じちゃうのか。


この感じ、ぼくもすごくよく分かります!ぼくもヌース理論を感覚で感じ取りながらここまできちゃったクチなので(^▽^;)正直、ヌース理論の中身について何か語れと言われても語れません。ψ1からお勉強中です。。。

> いまだ自己の中では
> 化石として発見された生き物は地上では存在してなかった
> という話に困惑を感じて飲み込むのが
> むずかしゅうございます。


同感です。ぼくもむずかしゅうございます(笑)
出来ればここで、Kohsen氏にこの謎を解いて頂きたいです。(無理かな?)

No.232 - 2008/05/24(Sat) 15:22:05

Re: / kilala [ ]
こんにちは
自分のヌースとの出会いはこんな感じです↓


ちょっと前に自分の身に変な事が起こる

物事の感じ方?意識?みたいのが変わってしまう

偶然クリシュナムルティという人の本を読んだら
自分の日記か?というくらい内容が超スラスラ理解できて
おどろく

こういうのって、もっと科学的に?アプローチできるんじゃ
ないかな〜と、うっすらと思う

何かのキッカケで「意識の反転」という言葉が頭に浮かび、
そんな言葉無いよなーと思いながら検索したらヒットした

そこに載ってた図を見て、あれ・・これって・・・?っと
勝手にシンパシー?を感じる
解説をナナメ読みして、さらに何か感じる
そこにはヌース理論が何とか〜と書いてあった

ヌースのサイトから、「時間と別れるための〜」という
コラム?ブログ?みたいのに辿り着く

そのタイトルを見ただけで、キターーーー!!と、勝手に
内容を予想?予測?したような気になる
(長いし、難しそうなので内容は読まずに眺めただけ)

宇宙人?みたいのが登場するらしいので
ちょっと怪しい(すいませんw)と思いながらアマゾンに
「人類が神を〜」をオーダー

今日、本が到着しました!

思ったより厚い本だな〜と思いながらパラパラめくってたら
ボームの名前がいきなりあって、ボーム、キターーー!!と
気分が高揚する

そういえば昨日だれかがボームの暗在系?がなんとかって
言ってたな〜と思い出した

と、いうことで、本読んだらまた報告するかもしれません

P.S. D I E F O Rさんってスタッフなんですか?

No.233 - 2008/05/25(Sun) 10:43:32

Re: / ラ・ムー子 [関東] [ ]
書き込みが増えた!
なんだか嬉しいですね!

どこに絡めば分からないよって、同感です♪
なので、色んなところに絡んでみたラ・ムー子でした。

まさに絡みですから、絡まれた方々にはご迷惑だったな…
ごめんなさい。

女性からの書き込みが突然増えて、単純に嬉しいです♪
女性原理の発動を、世界は希求していると感じます。

反転のために。
女性は、目的を抱かずに、進んでもらえれば、男性は付随して、人類は反転をしていくだろうな、っていうのが自分の見解です。
全てを待ち合わせたものが女性だからですね。
シリウス革命で、「精子戦争」っていう本の存在を知り、
直ぐに読んでみたのです。
衝撃ですよ、人体は…。
オンリー1の卵子、無数の精子、これが神と人間の関係の反映で在ることが、ヌースによって明かされて、卵子という女性原理の反映から、精子という男性原理の反映の、真の理解に、認識の反転が起き始めました。

女性の方々には、エンタでヌースをお願いしちゃいます。
理論に絡もうが、理論でなくても、エンタですよ。
男性頭脳のコチコチが、チコチコっと閃きに反転します。

卵子は、全てを持ち合わせたモノ。
それがアナタガタですから。

あっそれと余計なこと?というか、今のスレッドに関係ないですが…
余り、ヌースとの出逢いまでの道筋に、神道系の方っていらしゃらないみたいですよね。
宗教ではない、日本的な神様観念とか、神示系の読み物とかを通過してきましたって方ですが。
で、もしいらしたら、自分の今凄くしゃべりたい事を一言。
日月神示に最も多く出てくる言葉なんですが、
「世界がグレンとひっくり返る」という言葉は、初めて読ませていただいた時に、衝撃的だったのですが、その言葉の意味する事を知りたくて、数年後に出会った、ヌースです。
そう、反転です。
裏返る。世界が、交代化。それが、ムー・アトランティスと現代のリンク(キアムス)だったとは…
その一言(グレン)だけ見ても、ヌース万歳!!って踊っちゃいます♪だって、既存の説(宗教の教説など)では、開祖の方は分かっていても、それを聞いている多くの人々には、???さっぱり???ですから。
それだけ、ヌースは、別、なんです。言葉で言い表せない。
「別のもの」といえば、かのノストラダムス詩集ですが、
ヌースだな〜って感じます。
全く別の世界認識が、いまこの掲示板、kohsenさんのブログを見ている方々、本を読んでいる方々、など等の意識に起き始めているって感じです(自覚のあるなしは関係が無いです)
世界がグレンと裏返り始めています。
(現在は保育園勤めなので…)子供をお世話させて頂いていると、子供たちは、この時代の空気をほんとにキャッチしているな〜と感じます。
閉塞感、無気力感、それらは、実のところ大人の意識の反映として、子供たちがスガタで語るものだと感じます。
しかし、一方では自覚してこの時代性に飛び込んできた意識たちですから(あっ我々もそうですよ〜笑)、当然に世界が反転するってことも、しっかり持ち合わせている意識だとも感じます。そんな認識をもって日々接してきたからだと思うのですが、小さな方々と異常に仲が良いです♪

全て女性が生んだのですよね、偉大なる偉人も聖人も(あの可愛い子供たちも!)
女性の方々に、エンタdeヌース、ホントお願いします!!
書き込みありがとうございます!

No.235 - 2008/05/25(Sun) 13:07:05

(No Subject) / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
はじめまして、kilalaさん(。・ω・。)♪

> P.S. D I E F O Rさんってスタッフなんですか?

はい。恥ずかしながら一応、NOOS ACADEMEIAのクリエイティブ・ディレクターを務めさせて頂いておりますσ(^_^;)

どうぞ、よろしゅう〜。

No.236 - 2008/05/25(Sun) 15:21:07

思考としての愛 / Φ=WHY? [ ]
ラ・ムー子さん、こんばんは。ちょっと話の方向がずれてしまうかもしれませんが…。

コウセンさんがよくおっしゃる「コーラ」(器)というのが、ひとつの精神的枠組みの象徴であり、言霊的な言い方で言えば、「まる・ちょん」の「まる」に相当するものではないかと思います。ラ・ムー子さんがおっしゃる「女性原理」というのは、この「まる」に関する原理だと思います。

私が思うに、この「まる」とは、ヌースではψ7〜ψ8までの元止揚が生み出す「素粒子空間」であり、これこそ「モノ」を生み出す「言霊」のことだと思います。実際には、これを制御している領域は、一段上のψ10の「感性」(真実の母)ではないかと思います。

ψ7〜ψ8以下において、ψ9〜ψ10という前世代の父母の精神に反映されて子供たちの意識が形作られるのだと考えれば、ψ9〜ψ10が持つ「閉塞性」がψ7〜ψ8という「世界」になって具現されるのかもしれません。

ちょうどこの領域の上次元はΩ9〜Ω10というDNAおよびRNAという「核酸」に対して、Ω7〜Ω8というリン酸、核酸塩基、五炭糖といった関連物質が相互作用する場に相当すると思います。それはまさしく、精子が卵子に受精する現場の内部空間において起きていることではないでしょうか。

ψ9が「思形」、ψ7が「愛」だとすれば、「思考としての愛」というのは、この辺りに絡んでくるのだと思います。

No.240 - 2008/05/25(Sun) 20:14:44

(No Subject) / zanki [関東] [40代] [ Home ]
 女性に人気の理由は、やはり予想通りのようですね。
ヌースは「論理」より「感性」にビビッと来るようです。
詩やアートに近いんでしょうね。

No.241 - 2008/05/26(Mon) 02:35:39

Re: / カーマ改めコーマ [関東] [40代]
コウセンさん、皆さん、お久しぶりです。あるいは、はじめまして。

僕はコウセンさんの文章の魅力の核心は、神話的思考にあるんじゃないかな?と思ってます。
神話的思考といってももちろん絵空事ということじゃなくて、いわば思考の下地みたいなもの。

コウセンさんの話は哲学、宗教、科学、数学等々多岐にわたるけど、
いつでも神話的思考の中から湧き出してきている。
それは、セイレンの歌声に耳傾けるな、とか、法華経の中の宝塔のような、とか、
ダイレクトに参照している場合だけじゃなく、
いつでも文章のここかしこにグツグツと音を立てて煮えたぎっている。
そんな感じがします。

扱いに手間のかかる諸刃の剣を与えられた男性がその剣に逆に振り回されてしまうのと違って
(絵空事と切って捨ててみたり、かの人類学者のように論理的に解剖し尽くしちゃったりせずに)、
女性はすんなりと神話的思考を享受できちゃうのかなあ・・・

どういった風の吹き回しか、うちのかみさんもちょっと前からヌース本を読んでるようです。
ちなみに、化石の話はやっぱり?のようで、困ったことに僕に質問してきます。
ここのところ、ずっと俗世の勉強に没頭している僕は思わず口走ってしまいました。
「わけわからん質問すんな! そんな本読むの止めろ!」 トホホな男性です。

No.254 - 2008/05/29(Thu) 12:46:48
おねがい / zanki [関東] [ ] [ Home ]
「七の機械」の説明で、

「水分子に作用させた場合、赤外線スペクトル値
(ギガレベル測定)が数パーセント増大するとい
 う研究結果が報告されている。」

「精製水を用いた微生物の培養実験では、「七の
 機械」による形態共鳴を持つものと持たないも
 のとでは、その生存能が数百倍から一千倍近く
 上がるというデータがあがっている。」

 と、ありますが、それぞれどこの検査機関による
ものなのか?またその、生の報告書などありました
ら、アップして欲しいと思います。

No.205 - 2008/05/12(Mon) 14:53:28

Re: おねがい / ラ・ムー子 [関東] [ ]
zankiさん

ラ・ムー子です。
zankiさんは、ヌースコーポレーションの製品って
お使いになったことは在りますか。

私は10年以上、製品の愛用者ってことになります。

ちょっと感じたのですが、復活のカフェネプで
最近発言の常連とお見受けされます皆様は、
ヌースの製品とか、全くか、殆ど手にしたことは
無いような感じがして、それって面白いな〜と。

どの発言を見ても、「スゴイよな〜」っていうのが
私の感想なんですが(つまり自分がかなり頭脳が終わっている…汗)。みなさん、よく頭脳が回転されるなと。

「理論を、自分が、どうやって「生きたもの」にするか?」
という意識が強い私なんかは、
ガンガン「物」を試すヤツなんで…(モノ好き)

前職では、自社開発(って言っても、直接は作らないで、
テストで意見などを出すまでですが)をしていたので、
「これ以上いいのが在ったら、それに切り替える!」
って程の突き詰め方を開発モットーとしていました。
それで、製品データについては、よく↑その質問をユーザー様から受けましたね。

大体は、製作サイド(製造元です)で、色んな機関、機材で
データを取るんですが…
実は、それってあんまり意味が無いんですよね。

どういう意味かっていえば、結局、データって本当ですか?
って質問に行き着くので、実際関わっている立場からは、
やること、やれることはやっているのですが、
「?」を言ってくる方(ユーザーさんです)に、納得して頂けることは、殆ど無いんですね。

もう一つの理由は、どんなにデータ的に「なるほど」って
数値で示されても、いざ自分たちがテストで使ってみると、
「?」ってことが多い。つまり「しっくりこない」。

製造元は、データ上でああするこうするって、改善案を持ってくるのですが、「いや、そうじゃない。」って気持ちで応対する。
実際に使ってみた感じから、答えを出す。
それの連続なんです。開発サイドからは。

だから、殆どの方に受け入れられない言葉「感覚」。
それが「モノを言う」。

それで、そういう仕事(一部です)に取り組んでいて、市販の製品を沢山試すんですよ。
で、ヌース理論に出会って、やはり試しました。
10年以上の継続製品は、「ヌースフィア(精製水)」、
「シャンプー」あたりですが、その他も使い続けている。

前職で、自分たちが「今のところ一番はこれ!」って
開発してきた。
しかし…ヌースの製品はそれを「超えている…」と、
どうしても思っていました。
否定できない感覚があった。「すごい!」

家族は、自分が前の職だったときは、それらを好んで
(義理ではなく)使っていましたが、
自分が仕事の同僚には「こっそり」とヌース製品を
使っていたので、家族はいつの間にかヌースを使い始めて
(勝手につかうな!笑)
こっちからは何も言ってないのに、
ヌースに切り替わってしまいました。感じる…のですね。

NCジェネレーターによる、ヌース加工の製品なのですが、
それを使ってきている立場からは、
ヌース理論というのは、理論思考と言っても、
kohsenさんが言われていたように、
「心で考える」ことと言える。そう感じます。

「心で考える」って言葉について、頭で考えられるのか?
たぶん、食い違ってくると予想されるんです。

>「精製水を用いた微生物の培養実験では、「七の
>機械」による形態共鳴を持つものと持たないも
>のとでは、その生存能が数百倍から一千倍近く
>上がるというデータがあがっている。」

っていえば、え〜と…製品のホームページだったかな。
ごらんになったことは?
みなさんなら、あるかな…

一番は、自分で検査機関に持ち込んだり、自分で検査すると
いいと思います!それって一番確実です。

でも、10年以上の経験から言えることは、
実験というのは、それを行う人間の意識による、ってこと。
水に言葉を見させて?凍らせて、結晶の成長を記録した、
あの写真集も、それを行う人間が「こうなる、こうなれ」と意識したように展開する。
当然否定的だと、否定したようになってくる。

当たり前ですよね!射影なんだから。
見ている世界、視面そのものが主体。

自分はいつも思うんですが、ヌース理論ってほんとに
フツウの人々にえらく役に立つやっちゃ!ってね。
理論を全く「知らない」ユーザーさんが、使用者の声で
(ヌース通信って冊子が出てる)、トンデモない「声」を
寄せてくれちゃってるから。

前職が、医学が手に負えない人の状態を担った立場だったから、如何に、病的になった人が「変わらないか」(いや、
所謂悪化するのか)身を切られるほど、経験してきたから、
ヌース製品の体験者の変化って、「ありえね〜」、
って感じなんですよ。
(いや、自分たちは、癌の消失とは、よく皆さんにご報告をいただいてましたけど…、来る人は、医者とかも多かったし、
治療師とか、ヒーラーとかもけっこう来てましたね。)

ヌース製品は、実はトンデモ(ない結果を出す!)です。
(あっ、でもユーザーの声ってのが、「本当かよ?」っていう、無限連鎖がこわいな…笑い)

ヌースはエンタ!なんで、使用者として製品に対しての
接し方も、実際にはエンタです(笑)
「おもしろそ〜じゃん!」で、10年以上やってます。
ものすごく重宝ですけどね。

No.207 - 2008/05/13(Tue) 01:35:10

Re: おねがい / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
ラ・ムー子さまの素晴らしいレスの後に、野暮だとは思いますが、業務事項なので。

>zankiさま

お問い合わせの件についてですが、精製水を用いた微生物の培養実験は、東邦大学にて行われたものです。水分子の赤外線スペクトル値の測定につきましては、企業が動いているため現段階では具体名を公表出来ません。誠に申し訳ございませんが、ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。

No.209 - 2008/05/13(Tue) 10:22:24

Re: おねがい / zanki [関東] [ ] [ Home ]
>ラ・ムー子さま

 いつも実体験に基くお話なので、楽しく読ませていただき
ました。氷の写真集とヌース製品の対比は、なるほどと思い
ました。

>D I E F O Rさま

 「企業が動いているため…」って、ビッグビジネスになり
そうなんですか?それじゃしょうがないですね。

 「東邦大学にて…」って、大昔のヌースの会議室かなにか
で生物系の話をヌース風に書いていた、たしか大森病院の
方がおられましたが、その人の実験ですか?で、せっかく
ならそのレポートをPFDか何かで見れたら嬉しいのですが。


 

No.212 - 2008/05/14(Wed) 00:51:21

Re: おねがい / kohsen [九州] [ ]
zankiさんへ、コウセンです。

>  「東邦大学にて…」って、大昔のヌースの会議室かなにか
> で生物系の話をヌース風に書いていた、たしか大森病院の
> 方がおられましたが、その人の実験ですか?で、せっかく
> ならそのレポートをPFDか何かで見れたら嬉しいのですが。


そうです。微生物に関する記載はO先生にやっていただいた実験に関するものです。詳しい数値等に関しては、確か「ヌース通信」の何号かに記載したことがあります。ご興味がおありであれば、会社の方にに資料請求されてみて下さい。

「微生物実験のデータが載った、ヌース通信お願いします」とおっしゃれば、すぐに届くと思います。

ラ・ムー子さんへ

ヌースアイテムのご愛顧、ありがとうございます。
残念ながら、科学的に明確と言えるデータがまだほとんどないので、アカデメイアの方ではほとんどヌースエネルギーの応用化については語ってはいませんが、このエネルギーに敏感に反応して、ヌースの活動を実質的に支えていただいている方にはいつも格別の感謝を感じています。

こうした未知の力を議論できる準拠枠のようなものを何とか作れるよう、精一杯頑張っていきたいと思っていますので、これからも応援、宜しくお願いします。

No.213 - 2008/05/16(Fri) 11:57:34

Re: おねがい / ラ・ムー子 [関東] [ ]
kohsenさま

下記お返事に感謝いたします。

> ラ・ムー子さんへ
>
> ヌースアイテムのご愛顧、ありがとうございます。
> 残念ながら、科学的に明確と言えるデータがまだほとんどないので、アカデメイアの方ではほとんどヌースエネルギーの応用化については語ってはいませんが、このエネルギーに敏感に反応して、ヌースの活動を実質的に支えていただいている方にはいつも格別の感謝を感じています。
>
> こうした未知の力を議論できる準拠枠のようなものを何とか作れるよう、精一杯頑張っていきたいと思っていますので、これからも応援、宜しくお願いします。


はい。分かりました!応援といいますか、いつも使わせていただきましてありがとうございます。これからも、ますますお世話になりますので、よろしくお願い致します。

既存の測定手段では、捉えられない。しかし「感じることは出来る」。
人間の肉体が、存在において最終的なものであるということを、実感します。
現状の科学の枠組みでは、明確なデータというものが示されるのか?そのあたり、自分としてはかなり??な状態です。

科学が、その境界に達するには、自分として思いますのは、科学が磁気についての研究をもっと突っ込むようにしないと、到達できないのでは?というのが根拠無き(笑)感想です。
「科学者こそ本来オカルティストであるはず…」とkohsenさんが本に書かれていました。
一流の科学者という方は、その「科学的」という枠組みを一歩超えられる方だと感じます。
かの、湯川博士が、神霊の大家の方の超常現象を実際に見た知り合いの人から、その様子をお聞きになって、「在りえる!」と一言断言されたというエピソード、最近ではつくば大学名誉教授の村上和男先生が、世界の存在の根拠は「サムシング・グレートである」とお話しされることなど、一流の思考者が気が付いている世界の領域。
人類全体にコンセンサスが取れるように、科学的世界観がじょじょに変わっていく…
その牽引力がヌースに在るものと(勝手に!)思っています。

現代の科学って、強烈な宗教の一つだろ!と、色々なところで話をぶち上げては気味悪がれる(笑)のですが、そういう意味での科学だと、ちょっと難しいかな〜って感じます。

「科学」って言葉に対して、また様々に概念をもって語っている状態だと思います。科学はNOSの力によって働かせられている…ということは、必然的にエントロピーな性格を持っているのだから、当たり前といえば当たり前?

じゃあそこに立ち上がるもの、間を取り持つものは…それが人間のカラダを媒体とした思考、それに変化を与えるものにより思考されることだと思っています。
ヌースの製品とは、「カラダに働きかける」&「モノに働きかける」という点において、驚愕なのですよね〜。
あっ、理論としてはそれは当たり前ですね…

いつもながら話にまとまりがないですね(笑)

科学的に明確なデータ…それが出現してくるには、
磁気、モノ+カラダ、それらの変化、ということかな〜!?
…なので、現在の法制度のなかでは、一般の者が何かやろうとすると、ほんと「ガンジガラメ!」なので、ここでは「カラダ」ということが関わってくることから、「ヌース的思考のお医者さん」に、自由に、MRIのスゴイ進んだヤツで、ヌース製品のビフォーアフターで、カラダを調べまくってみてもらうっていうのは、いいかな〜とか考えちゃったりします!

それにしても、アクアヌースをメグスリみたいに使用してなかったら、とっくに目が見えなくなってるかも!?です!

No.214 - 2008/05/17(Sat) 01:54:22

Re: おねがい / zanki [関東] [40代] [ Home ]
 半田さんレスありがとうございます。
 D I E F O Rさんのが最終回答と思って、半田さんの
レスを見落としていました。すみません。

>会社の方にに資料請求されてみて下さい。

 って、私が個人的に見てみたいというのもあるのです
が、生の報告書をネットでみれるようにすることで、実
験の手技やデータの解釈について、生物関係の読者など
から貴重な議論が起きたり、追試をしてみたいという研
究者が現れたりすれば、具体的な進展につながるのでは
ないかと思ったのです。
 ゆくゆくは医療への応用も視野にあるとのことですか
ら、もっと積極的な情報開示があっていいのではないで
しょうか?

No.243 - 2008/05/26(Mon) 03:12:22

Re: おねがい / kohsen [九州] [ ]

zankiさんへ

そうですね。zankiさんのお気持ちはよく分ります。
ただ、ヌース理論が提供してくる工学は企業サイドの動きもからんでいるので、僕自身は慎重に進めるざるを得ない状況です。まぁ、もっとも、今の所、大騒ぎするほどのデータも出ていませんけどね(^^)。

信頼のできる研究者の方々とのおつきあいはさせていただいていますので、その中の流れの中から地道に研究成果を上げていくつもりです。

No.244 - 2008/05/26(Mon) 15:16:14
参考書 / Ricardo [関東] [30代] [ Mail ]
こんなスレを立ち上げていいのかわかりませんが・・・


ヌース理論を読み解くのに参考になった本、参考になる類似・同類思想のオススメな本、反対的な位置づけだけど反面としてみると面白い本、初心者にもわかりやすい本、等々オススメの本があったら紹介してください。
初心者の勉学にご協力を!(笑)


書名:
著者名:
出版社:
オススメの理由:

みたいな形で書き込んでいただけると嬉しいです。
(当然、全部は読めませんが・・・)
みんなで共有できる情報にもなるといいなぁ、なんて思いました。


>kohsenさん
このサイトの方向性と合わないスレなら削除します。

No.190 - 2008/05/09(Fri) 17:02:23

Re: 参考書 / Φ=WHY? [ ]
少なくとも現時点での「ヌース理論」を読み解くには、科学関連では「素粒子物理学」の入門書、哲学・思想関連では「構造主義」や「ポスト構造主義」に関する入門書を読んでおく方がいいと思うのですが、正直言って、手頃な入門書がありません。

「わかる〜」などの図解雑学書は、最初のとっつきにはいいと思うのですが、その後の発展的な理解を促すところまではなかなか行かず、その方面の専門分野の入門書を読んだ途端に愕然となります(もちろん、それは私があまりアタマがよくない方だからで、他の人はそうではないかもしれませんが…)。

気持ち的には、雑学レベルの浅い知識より、少し専門的でも骨のある本を読む方がいいと感じています。

「素粒子物理学」については、リサ・ランドールさんの『ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く』から始めるのがいいかもしれません。その後で本格的に「素粒子物理学入門」などで、群論に基づく対称性の考え方を勉強するのがいいような気がします。

哲学・思想関連では、別冊宝島44『わかりたいあなたのための現代思想入門』がお薦めです。

ただし、これらを読んだからと言って、「ヌース理論」への近道というわけでは必ずしもなくて、既刊のヌース3部作『2013:人類が神を見る日』『2013:シリウス革命』『光の箱船−2013:超時空への旅−』を読んで、その言わんとするところを自分なりに、あーでもないこうでもないと類推しながら、自分なりの構築をする必要があるのではないかと思います。

「ヌース理論」はある意味(今現在はほとんど)誰も教えてくれませんし、誰かに教わる類いの学問でもないように思います。

だから自分なりに考えてわからないところと格闘し、自分自身でつかんでいくのです。コウセンさんに何でもかんでも聞いてわかるものでもありません。

ただ、私自身が経験したこととしては、通常の学問の多くが、というより、私たちの極めて常識的な考え方が「モノ」に磔にされ、そのことさえ気づいていないのに対し、ヌースは「モノ」と「モノ」の「間」あるいは「変換」に関する何かを問いかけているような気がします。その意味で、ポストモダン的な思想や、物理学における双対性の考え方が重要であるように思うわけです。

私は「ヌース理論」自体を薦めてもいませんし、けなしているつもりもありません。それぞれ自立的な自己として、どう接するかはその人次第ということです。

No.197 - 2008/05/09(Fri) 20:08:43

Re: 参考書 / Ricardo [ ] [ Mail ]
φさん、さっそくありがとうございます!

もちろん「新人神」「シリ革命」「光の箱舟」は持ってますし、読んでます。「光の箱舟」は途中で頓挫したまま・・・「シリ革」「新人神」は数度読み返しました。


「ワープする宇宙」も持ってますが、第2部で頓挫・・・
「マンガでわかる 超ヒモ理論」はサクッと概要を掴むためだけに購入。


先日のDIEFORさんとkohsenさんのスレの中で「現象学」の話が出たので、「現象学入門」(NHKブックス、竹田青嗣・著)を買って読みはじめたところです。
φさんは構造主義・ポスト構造主義を薦めされますが、竹田さんは「現象学入門」の中で、歴史上、現象学を独我主義として構造主義陣営が批判を繰り返して来ており、相対する思想の様に紹介していますが、どうなんでしょうか?


学生の頃からニューサイエンスに興味をもったこともあり、科学の枠組みの中から少し踏み出していくようなアプローチが好きなのかもしれません。
かといって科学に詳しいわけではないんです・・・勉強不足ですね・・・(>_<)

No.198 - 2008/05/10(Sat) 03:00:16

Re: 参考書 / Φ=WHY? [ ]
哲学は私もどちらかと言えば苦手な方なので、現象学→構造主義→ポスト構造主義の流れがそれなりにわかっていれば、ヌースを理解するためのバックボーンとしてはとりあえずいいんじゃないでしょうか。

後は素粒子物理学の入門部分なのですが、はっきり言って雑学を超えた専門的なものの中でわかりやすいものを探すのは容易でないです。

ただし、大雑把に言ってしまいますと、要は「統一理論」と呼ばれるものの歴史的な流れと、群論に基づく対称性の考え方を、ある程度理解すれば十分じゃないでしょうか。

つまり、宇宙には電磁気力・弱い力・強い力・重力があって、実はこれらは最初一つの力として統一されていて、その対称性が崩れていて、4つの力に分化されていったということです。これを説明するために、マクスウェル電磁気学→ワインバーグ=サラムの統一理論→大統一理論→超対称性大統一理論→超ひも理論+超重力理論→M理論、といった感じで発展してきています。リサ・ランドールさんの「ワープする宇宙」に書かれている内容は、これらについて、その内容を比較的わかりやすく紹介していて、その上で、現在の最新の研究である、超ひも理論と大いに関係の深い「Dブレーン」についてもできるだけ平易な言葉で触れています。

後は「ヌース理論」をどこまでわかりたいか、という程度の問題です。これらのアウトラインさえつかんでおけば、科学や哲学の言葉が登場してもある程度話ができると思います。

「ヌース理論」自体は、空間観察子(α)→次元観察子(ψ)→大系観察子(Ω)→脈性観察子(Φ)という発展構造がわかっていて、そのうち、次元観察子は

ψ1〜ψ2:時空の外面・内面(空間−時間)
ψ3〜ψ4:個人的自己の外面・内面(自己の外面・内面)
ψ5〜ψ6:対面的自己の外面・内面(自己−他者(単数))
ψ7〜ψ8:集団的自己の外面・内面(自己−他者(複数))⇔ドゥルーズ=ガタリの原始土地機械と対応
ψ9〜ψ10:国家・民族的自己の外面・内面⇔ドゥルーズ=ガタリの専制君主機械と対応
ψ11〜ψ12:同時代的自己の外面・内面⇔ドゥルーズ=ガタリの資本主義機械と対応
ψ13〜ψ14:観察精神⇔ドゥルーズ=ガタリの「器官なき充実身体」と対応(?)

という感じだとイメージだけでもつかんでおけば、どうにか話ができるんじゃないでしょうか。

DIEFORさんが「ヌース理論」が「エンターテインメント」と言われて腹立たしく感じたように、逆に、「ポスト構造主義」などの哲学や「素粒子物理学」などの科学が「十把ひとからげ」にされて、安易に「ヌース理論」の一部であるように思い込んでいる人たちがいることに、どうも私は少々アタマに来るようです。私の「人間型ゲシュタルト」としての習性でしょうか。

No.199 - 2008/05/10(Sat) 07:23:05

ちょっと反省。 / Φ=WHY? [ ]
ただし、ネットの掲示板上で、このような形でコメントとして長文を書くこと自体が、人によっては「威圧」的であり、自己流の知識をひけらかす「上から目線」の「専制君主」だと取られかねません(多くの人がそのような意識を持つことはおそらくドゥルーズ=ガタリが言うところの「専制君主機械」と関係があるのではないかと、おぼろげながら感じています)。

一方、こうしたネットの掲示板では、単発の短い文章を書くというのが、他の人に配慮していて「友好」的であるような印象を受けます。ところが、そうした「友好」的な文章では、何か価値のあるものを捉えたり、ちょっとした意見を交わしたりする機会とはなかなかなり得ないのです。文章を簡潔化する、ということはそれだけその方面の物事を熟知しているという証拠です。残念ながら、私はまだ「ヌース理論」をそこまで熟知していません(ちなみに、単発の短い文章を、まるで切り売りするかのように飛び交っているネット世界こそ、まさしく「資本主義機械」の申し子と言えそうです)。

No.200 - 2008/05/10(Sat) 07:41:31

Re: 参考書 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
竹田青嗣さんの解説は分かり易いですよね!ぼくも学生時代にお世話になった記憶があります。

そこで思い出したのですが同じく竹田青嗣さんが書かれた『現代思想の冒険』という本が現代思想の流れを大まかに掴むにあたってとても分かり易かった覚えがあります。いまは文庫化されているようです。

哲学思想に関して言えば、ぼく個人は前にも書いたようにヌース理論は現象学および存在論との相性がいいと感じますが、現場で実際によくKohsen氏の口から出てくる哲学者の名前は、プラトン・ライプニッツ・スピノザ・ベルクソン・ドゥルーズ=ガタリといったところでしょうか。

特にドゥルーズ=ガタリはもう絶対的ですね(笑

「アンチ・オイディプス」と「差異と反復」は必読!といわんばかりの気配です。(学生時代に「差異と反復」にアタックして撃沈しましたとKohsen氏に伝えると、「第四章から読め。」という誠に玄人なアドヴァイスを頂きました(笑)

これはぼくも読みましたが、ドゥルーズの入門書は宇野邦一さんの『ドゥルーズ 流動の哲学』が一番分かり易くていい(Kohsen談)ということですよ。

>Φ=WHYさま

どうやら長文を書かれていることを気にしていらっしゃるようですが(笑)
確かに、こうした場において長文を書くにあたっては相当気を使う必要があるとぼくも思います。
でなければ、それが専制君主であるとか暴力的である以前に、単純に印象を悪くされてしまうと思うんですよ。なんだ自己満足じゃないかとか、あいつはマスターベーションをやっているとかそうゆう風に受け取られてしまう。
それが個人のブログやホームページ上であれば、それでもいいのですが、掲示板となるとちょっと勝手が違いますよね。

せっかく書いた中身のある文章が、そうゆう目で簡単にスルーされてしまうような、勿体ないことに陥らないためにも、長文を書くに際しては、分かり易く要点をまとめることはもちろんのこと、言葉遣いから何から色々と気をつけなければならない点が多いのではないかと思います。
一番まずいというか心象が悪いのは、丁寧な説明もなしに専門用語を連発することでしょうか。知識をひけらかしているとしか一般的には受け取られませんからね。(これは長文に限りませんが)

でも、長文を書く際のリスクみたいなものは確かにありますよね。
気が抜けないというか。。。

ぼくも掲示板ではありませんが、あるところで昔、いわゆる「ご存知系」で専門用語を並べた文章をつらつらと書いて、「こっちはきみの知識自慢を聞きたいわけじゃない」と言われたことがあります。しかし同時に「本当に賢い人は難しいことも分かり易く書く」と言われ。確かにそうだなぁと。
そのとき、文章を分かり易く書こうとしないということは一種の怠慢であり、自分自身に対する甘えだったんだなと身に染みて感じた記憶があります。

って脱線しちゃいましたね。ごめんなさい<(_ _)>

No.202 - 2008/05/10(Sat) 12:23:45

Re: 参考書 / Ricardo [ ] [ Mail ]
自分の書棚に、ドゥルーズの「スピノザ 実践の哲学」がありました。
何を思って買ったのか・・・
1ページも読んでませんが(苦笑
しかもドゥルーズも知らずに買ってました。

とりあえず今の現象学入門を読んでから、「ドゥルーズ 流動の哲学」を読んでみようと思います。
「ワープする宇宙」も再チャレンジしようと思います。

No.208 - 2008/05/13(Tue) 01:42:27

Re: 参考書 / Ricardo
具体的や詳細な話をしたい場合に文章が長くなってしまうのは、意味範囲を限定させた記号としての言葉を駆使するからで、やむを得ないと思います。


文章の内容が威圧的なものにならないよう、わかりやすい様に書く工夫はもちろん必要でしょうし(工夫の跡が見られない様なら手前勝手だと言われるでしょう)、工夫した上で10人中10人全員が読みにくいというなら更なる工夫は必要でしょう。
しかし工夫の問題と、読んだ相手の受け止め方は別問題だと思います。
威圧的と受け止める人の、経験や思考の習慣の問題だと思いますよ。
読み易い工夫をした上でなら、受け流していいと思います。


Φさんが以前書いたように、文章で誰かに問う行為が自分自身に問うているということであれば、文章を読む人も読んだ文章から想起される自己の中の問いに対峙しているのかもしれなく、コミュニケーションとは相手を鏡としたそれぞれ自己との問答なのかもしれません。



ちなみに私はΦさんの文章は優しいと感じていますよ。
用語自体が与える難しい印象はぬぐえませんが、きちんと説明しようとされる意思は伝わってきます。

No.210 - 2008/05/13(Tue) 11:25:58

Re: 参考書 / D I E F O R [九州] [ ] [ Home ] [ Mail ]

簡単に言ってしまえば配慮ということですね。
これは、もちろん長文に限ったことではありませんが、持論を長文で書き連ねる場合、気を抜くと一方通行に陥り易いんですよね。

つまり、書いているうちに自分の中で徐々にテンションがあがってきちゃって周りが見えなくなってしまうということが引き起こされ易い側面が長文を書くにあたっては実際にあると思うんです。(ぼくも経験上、多々あります)そういった意味で、短文よりは神経質に配慮しなければならないかなと。

ちなみに、ぼくは別にΦさんを批判しているわけではありませんよ。
念のため。

No.211 - 2008/05/13(Tue) 13:51:46
意識が「見る」もの / Ricardo [関東] [30代] [ Mail ]
先日の投稿にも少し書きましたが、人間は肉体構造上、物質世界の実態を実態として「見れない」構造になっているのではないかと考えています。

1)電磁波としての光は、幅広い帯域幅を持ちますが、光それ自体に色をもっておらず、生体がその眼球で光を受信した際に、光を色別に識別する固有の視細胞が「この帯域の光は○色」の様に認識しているらしい。という事は、人間が見ている極彩色のこの世界は、見えている通りの姿をしていないのではないか?

2)同様に、視野にある物体を認識する為に、特定の形状だけを識別する視細胞が多数あるらしいが、極論っぽい言い方になってしまうかもしれませんが、人間の視野は、特定の形状を識別する視細胞に依存して視野の中を認識しており、視野の物質世界をその有り様、実態の通りには認識できていないのではないか?(視細胞の識別できる形状の組み合わせでしか認識出来ない?)

3)物質世界は、肉体も含めて全て、原子レベルで見た場合、物質の境界は「無く」、様々な原子分子が、その分布の濃度の違いで物質世界を構成しているように捉えられるのではないかと考えていますが、そうした場合、様々な物質や「私」や「あなた」も、ある特定の原子分子の集合体でしかなく(その集合を維持するなにがしかの力?はとりあえず横に置いておくとして)、皮膚等、物質の境界と思えていた部分も、グラデーションとまでは言わないまでも原子分子の交換が行われており、物質世界は原子の海に例えられるとしたなら、人間が見ている様々な物質が構成するこの物質世界は、人間の知覚の網の目の粗さ(原子分子が小さすぎて肉眼で見ることが出来ない)が作り出しているある種の幻覚?と見ることが出来るのではないか?


4)心理学上でも、人間は自分が「あるもの」の概念を認識として意識の中に持っていないものについては、視野に「あるもの」が入っていても「見えない」(認識できない)という実験もあったように思いますが、もしそうなら、視野に見える物質世界は人間の様々な概念・認識が創りあげている幻覚?と見ることが出来るのではないか?


正確な科学認識ではないかもしれませんが、人間肉体が世界を「見る」ことの前提に対しての疑問をあげてみましたが、以上のことからだけでも人間は物質世界を実態の通りに見てないのではないかと思えてきます。
ヌースで言うところの「『物』と『モノ自体』」とは違うかもしれませんが、似たものを感じました。


本当に人間はその肉眼においては世界をその通りに見れていないんだとすると、人間は、意識は、一体何を見ているのでしょうか?

ヌースでは人は前に面を見、後ろに鏡像を見ている(?)とありますが、その見ている世界すら見えている通りではないとするなら、面や鏡像とは何なのでしょうか?


ヌースの面や鏡像の話は私も興味深く、自分に取り込むべく勉強中ですが、見えている物質世界は全て人間型ゲシュタルトだと片付けられるものではないのではないかと思っています。
ある程度、物質世界の構造と人間型ゲシュタルトの構造と変換人型ゲシュタルトは入り組んでいるようにも思えます。

No.173 - 2008/05/08(Thu) 13:43:45

「見る」ということ / Φ=WHY? [ ]
「ヌース理論」的な観点という時、実はその背景として「素粒子物理学」的な観点と「ポスト構造主義哲学」的な観点を含んでいるため、哲学や科学を学ぶ者にとってはどこからが「ヌース理論」のオリジナルであるのかをつかみながら理解を進めるといったことがなかなか難しい側面があります。「ヌース理論」の位置づけを、学問までをも含んだ「広義のエンタメ」の一種として見るなら、おそらく問題はないのでしょうが、学問畑の人にとっては理解のための手続き的な側面も含めてどうも厄介な存在のようです。

保坂和志氏の『世界を肯定する哲学』にはこんなことが書かれています。

《宇宙の途方もなさと人間との関係について、少し言葉を換えてこう言うこともできる。
「本来、宇宙は人間のような、自分自身を語ってくれるようなものを必要となどしていない。宇宙はただビッグバンで誕生しビッグクランチで消滅し、人間はほんの一瞬そこに存在するにすぎない。
 宇宙に生命がいっさい存在しない何百億年という時間を『どう考えればいいのか』なんて、あまりに人間的すぎる疑問でしかなくて、まったく取るに足りない」と。
 この説明はとても明快だ。しかしここには「人間は遺伝子によって決められている」と似た思考の放棄が私には感じられる。「辞書式の解答の破綻による思考の放棄」といってもいいかもしれない。科学は一見とても明快で、こちらがそれ以上何も言い足すこともできないような印象を与えるけれど、それは錯覚でしかない。
 科学のディスクールが明快なのは、科学そのものが明快な基盤にのってしゃべるように構成されている(と同時に限界づけられている)からであって、「自然科学とは我々が現時点で持っている分析的な言葉で記述可能なものだけを対象とする思考の領域である」という意味のことを、ホーキングもハイゼンベルグもはっきり書いている。科学の明快さは答えにはならない。》

科学の言説(ディスクール)の射程距離は案外短い。しかもそれが成立するためには、予め定義と公理系を準備しなければならない。しかし、この不自由さゆえに、この法の下で成立する内容は厳密なものとなります。しかし、この法の下で統治される意味環境は、空間的な境界条件や時間的な初期条件においては、それを問うことすら意味をなし得なかったりします。「宇宙はなぜ発生したか」「生命はなぜ発生したか」「精神はなぜ発生したか」−−−−それは他の条件「場」からの転移のようにしては語れるけど、それ自体の絶対的発生としては語れません。

このある種の枠組みのようなものが、人間の意識あるいは精神を規定する構造のふちみたいなものではないかと思います。おそらく「ヌース理論」で言うところの「見る」とは、「外部からのこのふち(枠組み)へのアクセス」のことを指すのではないかと思っています。このアクセスこそ、広義の「視線」だと思います。つまり、「ヌース理論」で言うところの「見る」とは、人間が言う意味での「見る」も含むけれども、もっと広範囲の、いや、もっと抽象レベルの「アクセス」さえ含んでいるように思います。

そして、この「アクセス」を受け止める最も「基底」的な枠組みが、次元観察子ψ7〜ψ8の構造である「元止揚」なのではないかと、私は考えます。この位置は「ヌース理論」では「自己−他者(複数)」と関連付けられ、大系観察子Ω1(地球)〜Ω2(月)とも顕在化・潜在化という精神のアップ・ダウン的構造において深く関連付けられるようです。「ヒト」と呼ばれる領域だとも言います。個的な「人間」が(世間様人様によって)徹底的に「磔」(はりつけ)にされている場というところでしょうか。

No.175 - 2008/05/08(Thu) 18:06:04

Re: 意識が「見る」もの / Ricardo
「世界のその通り」が「モノ自体」だとしたとして、視野を面に押し潰し更に極小粒に畳み込むヌースの知覚アプローチを連想します。

すると、
原子の海があり、
光があたり、
物体が見え、
視野を知覚する、
という順番自体が実は逆で、
知覚する視野が在り、
知覚される物体が在り、
空間を光が創り、
その奥にモノ自体がある、
方が実態なんじゃないかと思えてくることがあります。


ヌース理論を読んでいると、この空間世界は「見ることが在り」から始まったのではないかと思うことがあります。
「見る」が「光」だとすると、まさに「光あれ」からの世界創成なのかな、と。


確かに「世界のその通り」へのアプローチは千差万別で、人間型ゲシュタルトの中では「世界のその通り」を見ることは有り得ないことだと思います。

私は漫画家の士郎政宗の作品が好きですが、頻繁に使用される「電脳化社会」という舞台設定は、誰ひとりとして世界を同一視し得ない点で、有り得ないんじゃないかと思います。
電脳でゴーストハックでもしようものなら発狂してしまうのではないかと・・・話が逸れました(苦笑)

No.177 - 2008/05/08(Thu) 23:54:35

視覚の弊害 / Φ=WHY? [ ]
「世界のその通り」というとき、人間は実は既にかなり「思考的な組み立て」をやっていて「モノ自体」というものが本当に存在し得るのだろうか、ということを思います。人間が考え得る末端の素粒子レベルでは、要するにすべての実在は「光子によるまだら模様」ということになるのでしょうけれど、それを「モノ自体」と呼んでいいか怪しいし、「モノ自体」というあたかも人間に都合のよい「意味的な存在」の原型のようなものを「ある」としてよいものかどうかやはり疑わしく思ってしまいます。結局のところ、それは「哲学」的存在でしかなく、つまり、物理的実在と呼べるようなものにはなり得ないのではないでしょうか。

いや、「哲学」的存在と呼ばずに、「数学」的存在と呼ぶなら、関数的な調理が行えるでしょうか。つまり、「数学」的アクセスが可能な素(す)の存在というわけです。「数学」的存在であるなら、数や関数、図形と呼べる存在があって、それらの集まりとしての集合を数学的な空間として扱い、それらに対して測定というものが定義できて、その変化について記述することができる存在だというわけです。

「数学」と聞いただけで怪訝な顔をされる人にはピンと来ないかもしれませんが、人間が考える「存在」というものはかなり「人間」寄りに都合のよい存在になっているような気がします。つまり、私たちがふだん自然に見ている世界観と何らかの形でだぶらせているのではないかということです。

科学は何とかその「人間」的なものを排除しようと努めてきたように思います。しかし、別の言い方からすれば、「人間」的なものを完全に撤廃すれば「人間」には意味をなし得ず、アクセスしようのない存在になってしまいます。逆に言えば、すべての実在は「人間」にとって意味をなし得る方向性の最も基礎的な「意味なし」的存在から始まって、私たちがさまざまな形でアクセスし得るような体系的存在となっている、とみなす方が有意義だということだと思います。「ヌース理論」において「人間」と呼んでいるものは、そのような体系全体を指しているだけなのではないかと最近思います。

視覚というものはこの「人間」的な方向性のひとつではないかと思います。ただし、人間はこの視覚というものを頼りすぎているきらいがあります。「ヌース理論」に対しても、この視覚偏重主義的きらいはちょっと警戒します。「ヌース理論」の文脈からすれば、実はこの視覚偏重主義的きらいこそが、人間をまさしく「人間」として、意識あるいは精神がが「元止揚」と呼ばれるある種の枠組みを持った井戸の中へと押し込められる構造の現象的側面なのではないかと思います。

この「視覚の呪縛」を祓うことこそ、「元止揚」からの脱却の道なのではないかと考えます。保坂和志氏の『世界を肯定する哲学』に「思考が視覚イメージを借りることによって徹底されなくなる」という文章がありますが、まさしく人間が磔にされているのはこの「視覚」によるものなのではないでしょうか。確かに私たちは視覚イメージがないとなかなか「わかった」気がしません。だからこそ私たちはすぐ「世界『観』」という言葉を使います。この弊害を乗り切っていく方向に、「元止揚」より上位の階層としての思形・感性、定質・性質といった「ヌース理論」独特の世界が現われてくるのかもしれませんね。

No.179 - 2008/05/09(Fri) 07:30:28

Re: 意識が「見る」もの / Ricardo
PCからは投稿記事を編集、削除出来るんですね。
すいません、昨夜知りました。
・・・がなかなかPCから書き込めないので、今日も投稿しっぱなしの携帯からです(苦笑)



「見る」こととは何なんでしょうね。
確かに肉体的視覚もそうだし、視覚自体を意識している、「見て」いることもそうなのでしょう。
もっと大きくは、Φさんの言うように、人間の枠組みの外からのアプローチもそうなのかもしれません。

ただ、そうかといって、「人間枠の中の意識が見ている知覚の中で見ている」物質世界をコンテンツだとして片付けてしまいたくはない気もします。
様々な映像コンテンツを映し出すテレビとそれを見ている私(意識)とに例えたとして、私(意識)が画面に張り付いて映像を見てコンテンツに埋没しようとしている様を人間型ゲシュタルトだとすると、コンテンツはあくまでコンテンツで、ヌース理論はテレビと私(意識)の関係及びどうして私がテレビの前にいるのか、を考察しているのだ、はいいんですが、コンテンツはテレビと私の関係性には関係無い、と片付けてしまうのは、何となく気が引けます。

実は、テレビの中にも「テレビを見ている私」と「テレビ」が映し出されていて、そのテレビの中のテレビの中にも同じ関係性が映し出されていて・・・入れ子構造になっているんじゃないかと思うので、「物質世界を見ている視覚」の関係性の中に何か見出だせるものがあるんじゃないかと思うわけです。


「視覚の呪縛」は私も気になるところです。
当初、私も視覚だけの知覚は有り得ないだろう、意識が「見ている」のは全感覚のハズだ、と思っていました。

ところが、先の投稿にも書いた、「光あれ、『見る』ことがまずあった世界創成」とも思ったりする中では、視覚以外の知覚は「見る」ことで出来た世界の中で派生的?に生まれた知覚なのでは?とも思えることも出て来ました。
ただし、以前どこかでどなたかが、盲目の人はヌース的にはどうなのか?と問うたように、視覚の無い場合の問題もあるのですが、バイオフォトン(生体光子)などもあるように、生体そのものの成り立ちにも「光」が関与しているんじゃないかという推測から、視覚以外の知覚にも「光」が関与しているのかもしれないという推測の上でですが、視覚以外の知覚ででも世界を認識出来るのではないかな、などと思ったりします。


No.181 - 2008/05/09(Fri) 09:38:05

視覚と思考 / Φ=WHY? [ ]
今の科学の説では確か、「視覚」は5億年以上も昔生命が獲得した機能であると聞きます。しかし、人間の大脳を使った高度な「思考」はまだまだ高々数万年、数百万円足らずの歴史しかないと聞きます。

「光あれ」ではありませんが、多くの宗教が絵画や彫刻に限らず、文章自体にもとてもビジュアルな表現を用いるのは、ひょっとしたら、「視覚」自体が「専制君主機械」的な「超コード」的統制を行なうために重要な戦術となるからかもしれません。つまり、みんな「視覚」にやられているのではないかということです。

素粒子自体およびその運動を構成する「仮想光子」は、私たちは勝手に「視覚」的存在であるかのように印象付けてしまいますが、本当はそうではなく、数学的「思考」的存在なのではないでしょうか。

私たちは日頃、「超越」的な視点で風景を捉えているように錯覚していますが、これは思考の産物です。むしろふだんの私たちの視覚は、カフカの小説のように、「内在」的な視点しか持ち得ません。ある角度から見たある方向の風景しかわからないわけです。

おそらく、この辺りの関係が今後、ψ11〜ψ12→ψ5〜ψ6(視覚)と、ψ9(思形)〜ψ10→ψ3〜ψ4(自我)という凝縮化の仕組みの中で表現されていくのではないでしょうか。

No.184 - 2008/05/09(Fri) 11:26:24

Re: 意識が「見る」もの / Ricardo [関東] [30代] [ Mail ]
「視る」ことがまさに人間型ゲシュタルトなのかもしれませんね。
ヌースでもΨ8以降?辺りから「見る」関係性を超えていますよね。
そういう意味では「光」「空間」「見る」ことは「世界」に含まれる範疇の話なのかも。


数学者に憧れはありますが、数学にまったく詳しくないので、「数学的」と言われるとちょっと弱いのですが・・・、イデア的と解釈していいんですかね?

No.188 - 2008/05/09(Fri) 15:50:05

存在? / Φ=WHY? [ ]
イデア的…というのはちょっと微妙ですね。「イデア」と呼んでしまうと、何だか人によってイメージが異なる「不確定性」な世界へと消えて行きそうで…。

例えば、複素数レベルで回転と呼ぶと、ふつうの人のイメージとしては具体的な描像ができませんが、数学上の座標空間においては何らかの数学的描像を持っています。だからと言って、「存在」していないとは言えないのです。

「存在」というとき、視覚イメージ=「物」の形相ばかりに囚われてしまうのは、やはり私たちの癖ではないでしょうか。

No.193 - 2008/05/09(Fri) 18:21:38

Re: 意識が「見る」もの / Ricardo
確かに、イメージは形相を伴いますね。
形の伴わないものをイメージするのは難しいかもしれません。



複素数レベルの回転・・・全くイメージ出来ません(*_*)


やはり数学的な描像力は必要ですかね?
「数学」からは「数『字』」しか浮かびません・・・

No.194 - 2008/05/09(Fri) 19:02:05

回転 / Φ=WHY? [ ]
アタマのいい方々は、論理的な構成方法だけで、さっと数学的状況が鮮やかに見えるようですが、私は数学者でもありませんし、あまりアタマのいい方ではないので、数学の中でも自分が知らない分野を理解しようとするには、その導入として「描像」的なものがないとちょっと辛いです。論理だけでグングン進める人には頭が下がります。

複素数レベルの回転と言っても、1次ユニタリー変換なら、ガウス座標平面上の単位円周上の回転なので、イメージしやすいです。数学の世界は、ひとつの描像さえわかってしまえば、その考え方を延長するだけです。ただし、その延長の際に注意を怠ると思わぬ落とし穴があったりします(歴史上なかなか気づかれなかった落とし穴だってありました)。

No.195 - 2008/05/09(Fri) 19:20:02
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