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「リアリティ」って何? / Φ=WHY? [ ]
ごく一般の人たち、ふつうの人たちにとっては、実生活ではほとんど役に立たない、意味を持たない、と思われがちなヌース理論は、いったいどこで意味をなし得るのだろうかということを考えたとき、一番意味を感じる場は「リアリティ」の問題ではないかと思います。

保坂和志氏の『世界を肯定する哲学』の第5章を読むと、冒頭にこんな文章があるので、引用してみます。

《「リアリティ」について考えようとすることはとても厄介で、すぐに堂々巡りに陥る危惧がある。
「リアリティ」について、辞書的に「××である」と定義することはほとんど何も意味がない。「リアリティ」とはそれを感じる「私」自身の認識の回路を巻き込む問題で、「私」自身の認識の回路が巻き込まれていないかぎり、人はその事態に対して「リアリティ」を感じることがない。
 しかも、私がいまこうして「リアリティ」について考えようとしているということは、たぶん私が「リアリティ」について考えることに託して、別の何かを考えようとしていることを意味している。それはたとえば、人間しか「リアリティ」ということを感じないということが何を意味しているのか、ということである。どれほど精密に人間に似せた機械が作られたとしても、その機械は人間のように「リアリティ」を源泉として考えたり、行動したりすることはないということが何を意味しているのか、というようなことだ。
 虫や魚や爬虫類はグレイゾーンに置いておくとして、哺乳類や鳥類となると「リアリティ」ではないにしても、その起源となるようなものを感じているのではないかと私は思う。そのように思うとき「リアリティ」は、進化の系に一貫して流れている「生きようとすること」と強く結び付いていると、私は感じているらしい。もちろん「リアリティ」それ自体は、人間に特有に起こることであって、そうであるかぎりは言語の問題・思考の問題が不可欠になるのだけれど、進化の系ということはつねに記憶しておく必要がある。人間の脳は進化によってこうなったものであって事前の設計図があったわけではないのだから、決してすべてが合理的に説明可能なわけではないという、そのことの重要性だ。
 あるいはまた、宇宙なり、自然なり、世界なりは、言語に先立つ。それらは言語に先立つのだから、言語によってすべてが記述可能であるという根拠は、言語の側にはない。人間もまた言語に先立つ。人間の思考は言語によって人間らしく完成されるけれど、人間は絶えず言語化しきれないものを知覚している。雲の形も風に揺れる木の形も厳密にはどれ一つとして同じものはなく、それらの一つ一つを人間は言語によって再現することはできない。しかし知覚することはできている。すべてを知覚しているのではないにしても、少なくとも言語によって再現できる範囲以上には知覚できている。
 とはいえ、「いや言語によって再現できる以上に人は雲の形を知覚できていないのだ」と反論する人に向かって私は証拠を提示することはできない。何故ならそれは私の言語をこえたものだから。言語をこえたものは言語によっては語られないのだから。私はただ「言語によって再現できる以上に知覚できていないと信じているあなたは貧しい人だ。あなたはあなた自身が持っている言語観を神経症的に守るために、自分が知覚しているものに対して知らないふりをしている」としか言うことができないけれど、そんな人と関わっている時間があったら、私には雲の形を見ている方がなにがしか利益があるだろう。少なくともその時間だけ私は、言語がすべてを記述できるという思い込みが誤りであることを確認することができるのだ。
「リアリティ」とはそのような言語と世界との関係を知る人間の内面のプロセスに起源を持つはずだ。
 一方に世界があり、もう一方に言語がある。しかしこの二者からだけでは「リアリティ」は生まれてこない。人間の脳は−−あるいは「人間の精神は」と言ってもいいが−−そのつどそのつど言語を駆動させなければならない。というか、脳が脳としての様相をその人自身に向けて現わすのは、言語を駆動させようとする限られた時間であって、「リアリティ」はそのときに沸き起こる。
 言語というシステムには構文のような標準化可能なモデルがあるけれど、一人一人の言語(思考)の駆動のさせ方には標準化できるモデルはない。というか、標準化することに意味がない。人はすべての言葉や概念を時間をかけて習得するようにできていて、人が使うすべての言葉や概念にはその人ごとの意味が層をなしている。
(中略)
 言葉や概念につねに経験がついて回ることは、前章で書いたように人間の脳が機械でなく、言語というシステムの透明な函数でもなく、まさに”肉体の一部”であることを意味している。言語は生きつづけるが肉体は死ぬ。
 世界は存在しつづける。言語も存在しつづける。しかし肉体は滅びる。「リアリティ」の源泉の一つはそこにある。》

ちょっと引用が長くなってしまいましたが、DIEFORさんとコウセンさんや他の人とのやり取りを読んでいて思ったのは、ヌース理論の今後の展開において、この「リアリティ」というものはどう語られていくのだろうかということでした。

ヌース理論における「リアリティ」っていったい何でしょうね?

No.164 - 2008/05/05(Mon) 12:51:29

Re: 「リアリティ」って何? / Φ=WHY? [ ]
「リアリティ」についての私自身の意見というか一人称の考えが述べられていなかったので、ちょっと補足です。

ヌースの外面・内面という言い回しが難しい原因として、自分というものを球状のモノに喩えた場合、私は「球の内部」を否定的なモノに捉え、「球の外部」(正確には「球の表面」)を肯定的なモノに捉えてしまうという癖があるからなのかもしれません。それは自分の外部(表面)は「見える」けれど、自分の内部は「見えない」という肉体に関する捉え方から来るとも言えます。

どうしてもごくふつうの人間的なモノの見方としては、短絡的に、ψ1〜ψ2(時空)、ψ3〜ψ4(自己の外面・内面)、ψ5〜ψ6(自己−他者(単数))、ψ7〜ψ8(自己−他者(複数))は否定的な「球の内部」に思え、ψ7〜ψ8(原始土地機械)、ψ9〜ψ10(専制君主機械)、ψ11〜ψ12(資本主義機械)、ψ13〜ψ14(器官なき身体)は肯定的な「球の外部」として捉えたくなります。

自分自身、一番「リアリティ」として感じるのは、この「球の内部」に閉じ込められていた自分が「球の外部」に出れたと思えるまさにその瞬間の「いまここ」であり、「実行」が起きた瞬間の「認識」そのものとなった自分自身です。それは永遠の一瞬で、次の瞬間には脆くも消失してしまいます。

ネット上の掲示板で他者とのやり取りが難しいのは、人によって、その人自身が知らず知らずに組み立てている認識の体系が異なるからだと思います。同じ言葉を使っていてもその言葉に付随する経験が異なるため、人の理解というか腑に落ち方も千差万別になります。

このように少し長めの文章を書くだけでも人は「暴力」的だと受け取ります。長い文章はそれだけ世界観を把握するのに時間を要するからです。自分の大切な人生のエネルギーとしての時間を割り当てる抵抗が生じるのはそういう意味では当然と言えるかもしれません。

そしてこうした長めの文章は投稿者の「内部」空間と思われますし、そこから何となく醸し出され漏れ出ていくものが「外部」空間に滲み出たものなのかもしれません。

こうした文章を投稿したとき、得てして何か反発が起きたときに、やたら「リアリティ」を感じるのは、「外部」へと漏れ出ていくその「欠けている点」にこそ、自分自身を否定されることの「怖れ」とともに一番の「実存」を感じるからなのかもしれません。

短い文章の浅瀬でバシャバシャとみんなと遊んでいるときにはほとんど感じなかった「怖さ」がここにあります。それはごくふつうの言葉で言うならば、「個人」が「社会」と接するとき、最初に「リアリティ」としての素肌をさらすのかもしれません。まあ、臆病な自我にとって、攻撃されるのも怖いし、無視されるのも怖い、というやつでしょうか。ただ、そのように心情を書いてしまうこともまた「甘え」だと言われてしまいます。他者の反応まで含めて、この発信した言葉の大地を回収する義務が投稿者に生じるということだと思います。

No.165 - 2008/05/05(Mon) 17:10:30

Re: 「リアリティ」って何? / ラ・ムー子 [関東] [ ]
Φ=WHY?さま

リアリティーですよね…
確かに、否定との遭遇…

>得てして何か反発が起きたときに、やたら「リアリティ」を感じるのは、「外部」へと漏れ出ていくその「欠けている点」にこそ、自分自身を否定されることの「怖れ」とともに一番の「実存」を感じるからなのかもしれません。

って、その瞬間かなと思います。

>ネット上の掲示板で他者とのやり取りが難しいのは、人によって、その人自身が知らず知らずに組み立てている認識の体系が異なるからだと思います。同じ言葉を使っていてもその言葉に付随する経験が異なるため、人の理解というか腑に落ち方も千差万別になります。

ほんと、Φ=WHY?さまの言うとおりですよね。
そのことを、思いの片隅に置いて書き込みしているつもりではあるのですが、kohsenさんの文を読ませて頂く時にしても、当然自分側における「それ」がありますので、なんとかして、色々な経験を動員してみたり、視点を変えたりとああだこうだとやって、言語を超えようとしてアタフタしている自分を日頃よく見ます(笑)

円心について、「ああそうか」と思った経験があります。
それが実は、古武道の体の動き、投げの中にあります。
そこから、人間(のからだ)とは、法則性の顕現であろう…とも思えた経験です。
無為自然(むいじねん)という境地への歩みが、武の道に在ったのは、当然至極だったのだなとも感じました。
あはっ…全然スレに沿ってない書き込みでしたね、すみません。

No.166 - 2008/05/05(Mon) 23:41:12

Re: 「リアリティ」って何? / Φ=WHY? [ ]
ラ・ムー子さん、こんにちは。コメント、ありがとうございます。

「自己に対する否定との遭遇」ってのは確かに、最初に遭遇する「リアリティ―」なんだけど、たぶん一番低いレベルなんじゃないかなと、感じています。ヌース的には「元止揚」に閉じ込められているってことになるのでしょうけど、デリダが言っている「みんな自分が話すのを聞いている」ってことになるのかな。

誰かとコミュニケーションをとったりするとき、みんな「他者の声」をきちんと聞いているつもりなんだけど、実際には自己の解釈の構造を通してしか聞くことができないわけで、その意味で結局は自分が解釈するようにしか他者の声は受け取れない、つまり、自分が聞いているその声はやはり自分でしかないというわけです。

でも、それでも、何とか必死で、自分である解釈の構造のひずみから漏れ聞こえてくる他者の声を聞きたくて聞きたくて、孤軍奮闘するわけです。そのためには、自分自身を超えなくてはいけない。今までこれでいいか、と胡坐(あぐら)をかいていた「自分の欠けている点」を超えて行かなくてはならない。ところが、この「自分の欠けている点」は徹底的に自分で否定したい自分なわけです。そして、それが一番自分の根幹をなすもの、自我の中核をなすものだったりするわけです。もう完全にどうにかして否定したい自分自身なわけで、つまり、本当に自分を否定していたのは他者ではなく、自分自身であったことと遭遇するわけです。

その「どうしても聞きたくない他者の声」こそまさに本当の自分自身をなす声であることと知って突破するとき、ヌースが言うところの「元止揚」が織りなす付帯質の構造にはまだ上位の構造があるんだ、ということを、「人間」の生身のレベルでようやく少しだけ垣間見ることができるのだと思います。でも、それはまだまだヌースが言うところの人間のレベル、いやスマルのレベルかもしれません。

そういったことは、気功でカラダの邪気(自分の濁った感覚・感情・考えなど)を浄化するときに、ふと垣間見ることもありますね。個人のカラダを構成しているのは、ひょっとしたら国家レベルの意識というか精神構造(ψ9〜ψ10)なのではないかと、最近よく思います。

No.167 - 2008/05/06(Tue) 09:16:43

Re: 「リアリティ」って何? / Φ=WHY? [ ]
「人間」という多細胞の統一体は、それ自身専制君主国家的だと思います。それは生理学的な意味合いからだけではなく、「自己の法」に基づいて外界からの反発情報を拒否するというその構造を、感情レベルや思考レベルにおいても持っているという点においてもそうだと思います。自己の意見に反対してくる他者の登場を拒絶したくなる、そのごくごく自然な態度は、「自己の法」という超コード(メタコード)に基づく体制の保全、つまり、その絶対的権力を有する法に基づいて「閉じている」証拠だと言えるかもしれません。そうした他者への拒絶反応は、一種のアレルギー反応のようなものであると思います。自己と非自己の境界線を規定するもの。そこでの争い。

私自身の自己反省として述べるのですが、「他人(ひと)にモノを聞く」ということもたいていの場合「自分が既に知っているその答えを承認して欲しい」というまさに「自分の声を自分で聞きたい」という欲望を満たす場合がほとんどです。そして、その場合、質問している当人は必死になっていて周りが見えない状態になっています。自分が自分という器の中に投げ入れられている存在になってしまっているということに気づいていません。自分を捉えているのは自分自身なのです。自分というその器自体が強力な権力構造そのものなのであって、自分の本当に手に入れたい「それ」を自分自身の手で排除する仕組みを作り出しているわけです。自分をモノ化してしまっているのは自分なのです。

自らが「問い自体」であるのに、他人に与えられた「答え」という他人からのコピー(シミュラークル)を、「極楽」と勘違いしているわけです。「あなたの問いの答えはあなた自身を反映する他人(ひと)の中にはありません。つまり、あなたの中を永遠にめぐる地獄の中にはありません。あなたの問いはあなた自身ですから他人(ひと)には聞けません」。それら問いにまつわる全体をまるごと有限化して自分で自分の足元(大地)においたとき初めて、新しい視界としての、本当には実在しない、可能性としてしか存在しないその天国を、限りなく自分自身の手で実現する第一歩にようやく立つことができるのです。こうした自らが自ら発したその「問い」のふちに立つこと、その過程の仕組みが、ヌースの次元観察子のψ7〜ψ8→ψ9〜ψ10→ψ11〜ψ12→ψ13〜ψ14の発展構造の中にあると、私は考えています。もちろん、私のこの発想はまだまだ「人間型ゲシュタルト」的発想を超えてしませんから、「変換人型ゲシュタルト」的にはもっと違った風景が見えてくるはずですが…。

No.168 - 2008/05/06(Tue) 10:49:47

Re: 「リアリティ」って何? / 夏羽 [ ] [ Home ] [ Mail ]
Φ=WHY?さん、こんにちは。

いつも、というか、コーセンさんのブログへおじゃまするときはいつもコメント興味深く拝見させていただいています。Φ=WHY?さんのブログへも時々お邪魔させていただいています、と言っても数学的知識が浅いので理解はできてないんですが(汗)。

リアリティーという言葉から私がまず感じたことは、私にとってすべてがリアルである、すべてにリアリティーがある、またはすべてが虚無である、ということです。

私は折り紙愛好家なので、世界をよく折り紙にたとえてしまう癖があります。本当はルールなんてなくても良いかもしれないけれど、多くの折り紙創作家にとっての折り紙は、不切り、不接着、そしてただ一枚の紙で(たいてい正方形)から、すべては山折と谷折りのみの繰り返し、組み合わせで、複雑な形を作り上げていきます。コウセンさんも存在とは繕いのないものと書いていらっしゃいましたよね。

出来上がった折り紙を見てこの折りにはリアリティーがあるけれども、この折りにはリアリティーがないというのは、いささか変な気がします。
存在というものがまったく切れ目のない、何一つ繕ったり、くっつけたりしていない、0と1、光と影、等々の二つの複雑な組み合わせでできている無限のものであるのならば、そこにここからここまでにはリアリティーがあり、あそこから向こうは皆リアリティーがないなどというのはちょっと滑稽じゃないでしょうか?

わたしにとってはすべてが、プラスチックのかけらも、機械も、アシモフのロボットシリーズに出てくる、地球を救ったドラマチックなロボットも(読みました?)、すべての想像の世界、鏡の中の世界でさえ、すべてがリアルであり、すべてが真実、またはすべてが虚無、という風に思われます。すべては存在している、またはすべては幻です。

形を持つものだけが実在しているというわけでもなく、私たちが何かを想像するとき、SF作家が傑作小説を書いたとき、その登場人物は私にとって私の友人や家族と同じようにリアリティーのある存在であると感じられます。

とはいえ、すべてにリアリティーがあるというと元も子もない、というか面白くない、ゲームが成立しない。人がここにリアリティーがありそこにはリアリティーがないと言うときには、必ず何らかの仮定、条件、または条約がその背後に潜んでいませんか?

鏡の中のイメージが偽者で、鏡の外の実体にリアリティーがあると言った場合、鏡の外の実態が本物であるという、仮定、または条件、条約が必ず存在しています。鏡の中の世界を実像の真似だと考えずに、実像に光と反射によるエフェクトをかけた、あるひとつの創造物であると考えるならば、鏡の中の世界は一般的に実像と言われているものと同様に実像であり、リアルであり、真実であると思うんです。

たとえば何かを嘘とし、別のものを真実だとした場合、そこにはやはり、何が真実で何が嘘だと言う仮定、条件、条約が存在している。そして人は自分の、もしくは社会的、道徳的、数学的、物理学的、芸術的・・・・リアリティーを求め、そしてそれをつかんだと一瞬錯覚するけれども、やはりそれは自分が求めている真実、リアリティーとは違うということにたぶん、潜在意識で気づき、つかんだものを手放してしまい、虚無感を感じるのかもしれない。

私にとって条件下におけるリアリティー、真実よりも、社会的、道徳的、数学的・・・・仮定、条件、条約、考え方を知るほうがもっと面白く、興味深いように感じます。

真実、リアリティー、無などという言葉で表現されているものは、もちろん人によってとらえ方がちがうだろうけれども、私にとってはまったく制限のない、無限の存在です。

さて、ここで言葉にテーマを変えます。ずっと言葉の表現には限界があるなと思っていたのですが、何故かこの保坂さんの文章を読んでいて、言葉にもすごい可能性がある、制限をかける必要はないのではないだろうかと感じ始めました。

感覚というものはすごいです!現在の地点でいえば、感覚は確かに言葉で表現されるものを超えているかもしれない、しかし、感覚にしても言葉にしても、なんら限界があるものではないので可能性は無限だと思うんです。果たして、宇宙なり、自然成り世界なりは言語に先立つ、のでしょうか?それらは同一線上にあるようにも考えられ、また、始めに言葉ありき、という主張も無視できないような・・・何か根拠があるような・・・。(私は無宗教、無神論者ですが、あしからず)。

感覚に関して言えば、私たちの潜在意識は人間の場合、潜在意識、無意識とうまくコンタクトがとれていない。それが言語に限界があると感じる原因のひとつかもしれません。潜在意識、無意識、その正体がはっきりしないため、何かすばらしいものとして、多くの答えを持っているものとして、感じられているのですが、知ってしまえば、潜在意識と同レベルのもので、ただ役割が違うだけという気もする。

シンボルを読み、シンボルと会話しているらしい、私の潜在意識、無意識を残念ながら私の健在意識は感じることができないので歯がゆいばかりです。とはいえ、まだ見ぬ彼らの為に自然をよく見るようにしています。そこには生物を最適化してくれるシンボルや数字がたくさんあるように思うんですが、どうでしょう。

ところで、ずいぶん前に見た、「ブレイン ストーム」という映画の中で、感覚をコピーする機械というのがでてきて、そしてそれでたとえば癌や心臓病で苦しんで死んだ人の感覚をコピーし、人にその感覚を機械によって体験させると、実際に人はその感覚によって死んでしまうという、ちょっと衝撃的なものでした。

ちょっと話がそれてしまいましたが、言葉の可能性についての話に戻ります。私は今まで色々美しい景色だとか、可愛い動物などを見てきてはおりますが、それらの中でどうしようもなく美しく、すばらしい景色として記憶の中に残っているのは「赤毛のアン」に登場する、プリンス・エドワード島のグリーン・ゲイブルスのある村です。文庫本で読んだので挿絵があったわけでもなく、その頃思春期の子供であったせいかも知れませんが、その中で表現されている風景はなんとも魅力的で、ずっとエドワード島に行くのが夢でした。今はあまり行きたくないなあ。確かに素敵な場所だとは思うけれど、私の中に言葉によって作り上げられたエドワード島よりも美しいはずがないとわかっているので、夢を壊したくない。

夢の風景の中にも、強烈な印象のものが結構あります。

だから、言葉が雲を表現するとき、ただその雲がどうこうであったと表現するのではなく、雲と、そして雲に感動した自分の感覚を表現することもできる。だからもちろん、雲そのものを言葉で描くことはできないけれども、言葉という芸術的表現手段を使って、自分自身の感動と雲から作り出された、新たな想像の世界を創造することは可能であり、そしてそれを読んだものに、空の雲に勝るとも劣らない感覚とイメージを与える事だって。決して不可能ではないのではないかと思い始めています。

もちろん、ある人は感動や絶望を言葉で現し、ある人は絵を描いて、または音にして表す、またはただ感覚に浸って酔いしれる、それでもそこには何かがきっと作り出されているように思います。

とにかく。想像力が作り上げるものは、実像(私にとってはどちらも実像なんですが)以上の影響力を持つ可能性を持ち、実像とまったく同じように、存在しているように感じます。だいたい、すべては想像によって作り出されたものであるらしいしね。人はただその想像の形によって真実と幻影に分けてしまっているというのも、おかしな話です。

言語の可能性について書きましたが、とはいえ、言語だけ磨いても意味がないとは思います。すべては相互にかかわっているのだから。

長文になってしまいました!
まとめて簡潔に書くという能力を持ってないため、普段は筆不精なのに書き出すと長いんですよね。今回Φ=WHY?さんが長文を書かれたので、一緒にというか、赤信号、みんなで渡れば怖くないというような・・・。

私はこのトピを印刷して3度読みましたが、確かに他人の文章を読みながら、自分の世界に浸っているといところがあります。しかし同時に自分ひとりで遊んでいても思いつかないことを他人の文章を読むことによって刺激され、想像をめぐらせるということはおおいにあり、結構楽しいです。

No.169 - 2008/05/07(Wed) 07:31:41

Re: 「リアリティ」って何? / Ricardo
言葉って記号学の範疇でも扱われたりしますよね?(テキトーなことを言っていたらごめんなさい。)

トール・ノーレットランダーシュが著書「ユーザーイリュージョン」の中でも書いてますが、コミュニケーションとしての言葉を体験や思考を凝縮して記号化したものとして捉えた場合、個としての「私」の膨大な人生体験を前提として「とある体験」や「とある思考」を数少ない「言葉」という記号に凝縮(シンボライズ)して相手に投げかけるわけですから、相当量の情報が切り捨てられ、言葉を拾った相手は、その記号である言葉を、自分の人生経験を前提にした解釈手法をもとに様々な推測に基づく情報を付加して理解するわけです。

どうやっても「私」の「想い」は相手に伝わらないばかりではなく、個としての人間同士はどうあがいても完全には理解しえない関係だということになります。

逆に、「言葉」が「とある体験」や「とある思考」の凝縮された記号であるならば、表記や表現方法は元の情報量とその「言葉」の情報量の差分だけの可能性を秘めてるとも言えると思います。
それはかなりの可能性に相当するものでしょう。

同「ユーザーイリュージョン」には、人間の肉体が外界より受け取る情報の22万分の1の情報しか意識には認識されない、との話もあります。
ある状況に存在して、かつ肉体が受信する情報量の22万分の1だけがワンシーンとして意識に上り、更にそのごく一部をシンボライズして言葉を抽出する。
言葉一つ一つの抽象化範囲はそれぞれ違う為、一つの事を表現する為に多くの言葉を、使えば使うほどに、そこで使われる言葉の説明を補う為に更にまた言葉を必要とし・・・いつまでも表現したいことを表現しえない無限ループに陥りるのではないかと思えてきます。

ところが、ある条件(前提条件を同一視出来るような)下の中では、最小限の言葉数で豊かな表現も可能だったりします。(日本人に川柳、変換人にシリウス言語、等)


そもそも物理的な人間肉体自体が物理的な世界の実像を実像として認識できない構造ではないかと考えていますが、もしそうなら個々の人間がそれぞれの色眼鏡で世界を見ている上に、個々人の人生体験という解釈土台をそれぞれにつくっているわけですから、人間同士の「わかり得なさ」は計り知れない、まさに「彼岸」だと思えてきます。



一方で、この物質世界を分子原子のミクロレベルで見ると、「私」や「物」と思っていたものも、明確な境界の無い、様々な原子分子の濃度の違いが形作る世界と見ることが出来るのではないかと思っていますが、そうであるなら、肉体の知覚網の受信の網の目の粗さが「物」と「物」を作り出しているに過ぎず、実は物理的にもこの物質世界は全て繋がっていると解釈出来そうです。

更に、
外界(意識)外界
という様に認識している意識と世界の関係構造も、裏返せば、
意識(外界)意識
と見ることで、
「物質世界の中に浮かぶ意識の泡」
を、
「意識の海に浮かぶ物質世界の泡」
と解釈出来たとすると、物質世界を「見て」いる「私」は意識の海の一部に過ぎず、全ての意識も繋がって(というより一体)おり、物質世界は意識の海の夢なのでは?とも思えてきます。



物質世界の中の更に奥深い人間型ゲシュタルトという名の穴に落ち込んだ意識においては、意識は極めて個別化され言葉は意識の抽出要素でしかないように思えますが、私の考えですが、意識の変換における「リアリティ」とは、意識が様々な認識制約を乗り越えていくその一歩目にもあるのではないかと思います。

とりわけ今の私の関心は、物理的な人間肉体は物質世界の実態をきちんと見ることが出来ていないこの有様の中で、果たして意識は何を見ているのか、本当に意識は何かを見ているのか、という点にありますが、これについてはまた別スレを立てようと思います。

No.170 - 2008/05/07(Wed) 21:43:29

Re: 「リアリティ」って何? / Ricardo [ Mail ]
携帯から入力した割りにはダラダラ長い文章になってしまいました。
すいません。

要は、「コミュニケーションにおいて人間相互間には深い溝があるよね」ってことが言いたかっただけですね。
無理矢理、最後にΦさんのリアリティの話に繋げようとしてますが、よくわからない文章になってしまってすいません。

(このサイトでは投稿後の編集、削除は出来ないんですかね?)


Φさんのおっしゃる、外界との接触面で現れる自己の否定的側面の話、同感です。


私は、神智学ではないですが、肉体は肉体としての意識を持っており、それは動物的生存欲の範囲以上の知能?を持っており、日常の生活の大半の意識範囲をカバーしていると考えていますが、その状態において、いわゆる精神の意識と肉体の意識の(それの善し悪しや差別化の価値判断はおいておいて)区別が出来ない状態や、様々な価値基準(固定概念等)を持ち込む癖が、様々な意識的混乱を招いているのではないかと思っています。


ヌース理論に限らないと思いますが、世界構造を説き明かそうとする理論を読む際は、様々な社会通念や固定概念は横に置いておいて、批判的にならない状態でいることを前提とした方がいいと思うんです。

リアリティとは、という話をする時に、個々人において見えているリアリティ自体に様々な個々の概念が巻き込まれているんだと思っていますが、ヌース理論はその極めて個人的な領域に踏み込まざるを得ないわけで、そこで批判的な概念が立ちはだかってしまうことも、理解を難しくしているんじゃないかな、と思っています。

盲目的に取り込むわけではなく、理解することと、自己に取り込むことは別と考えています。
自己に取り込む際になにがしかの価値基準が必要になるのかもしれませんが、固定概念や社会通念を取り除いた上で、判断の材料になるものというと、現時点の私にはわかりません。
どこからかの納得感に頼らざるを得ない状態です。


また何を言いたいのかわからない文章になってしまいました。
すいません・・・。

No.172 - 2008/05/08(Thu) 09:50:22

Re: 「リアリティ」って何? / Φ=WHY? [ ]
夏羽さん、Ricardoさん、こんにちは。

「リアリティ」というものを考える時、人それぞれに捉え方、考え方などが異なるのが面白いですね。ここはカフェなので、あまり深く考えすぎず、他者の言葉に触れて思いつくものを書いたり、微妙にずれていく差異をも楽しみながら、会話する感じでいいと思いますね。

「リアリティ」は確かに人によってずいぶん違っていて、例えば、「数学の問題を解く」という行為も、学校の先生や生徒にとっては「リアリティ」を感じても、ふだん数学を使わないような一般社会人にとってはさほど「リアリティ」を感じなかったりしますね。つまり、人それぞれ、場面などによっても「リアリティ」は異なるかもしれません。

ただ、何らかの形で「死」が関わっているとき、人は「リアリティ」を感じるのかもしれません。例えば、受験のとき、あと5分で制限時間が終了するといったとき、精神的にかなり追いつめられているときは、その意識状態自体がある種の「死」に瀕している、そんなとき、「リアリティ」を感じるのではないでしょうか?つまり、そこにはある法に基づく枠組みがあって、その意識空間というかそういったものが圧縮を受けるとき、リアリティ」を感じるのではないかと思うのです。

No.174 - 2008/05/08(Thu) 17:56:01

折り紙と折り方 / Φ=WHY? [ ]
夏羽さんの「折り紙」で思い出しました。以前、幾何学的なことを考えていたとき、ある種、この世は、「リアリティ」という「固有波」的な空間の折り紙と、「アクチュアリティ」という「搬送波」的な空間の折り紙があるんじゃないかって、考えたことがあります。簡単に言えば、折り紙で折鶴を折るときに、折鶴自体が折り上がっていくその折り紙と、その折っていく方向性、つまり、折り方自体を指示していくものの2種類ということです。この世は折られる「折り紙」と折っていく「折り方」がセットで存在しているということです。それが「折鶴」という存在、構造を生み出しているということです。
No.176 - 2008/05/08(Thu) 18:17:17

Re: 「リアリティ」って何? / Ricardo
微妙にずれていく差異をも楽しむ・・・とても素敵な表現だと思いました!


結局、やっぱり個々のゲシュタルト自体が違うのだから、差異は生じるもの。
ならそれ自体を楽しんだ方が「楽しい」ですよね!

私、文章が堅くなりがちなんですが、気楽に書こうと思います!

No.178 - 2008/05/09(Fri) 00:05:58

Re: 「リアリティ」って何? / Φ=WHY? [ ]
自分の「理解の土壌」が生成される「生身の現場」で起きることを、人間は「リアリティ」と呼ぶのかもしれませんね。そして、それまでの自分の既存の「理解の土壌」を「ヌース理論」では「元止揚」と呼ぶのかもしれませんね(ここではかなり狭い範囲の「元止揚」ですが)。
No.180 - 2008/05/09(Fri) 07:42:12

Re: 「リアリティ」って何? / 夏羽 [ ] [ Home ]
「リアリティ」という「固有波」的な空間の折り紙と、「アクチュアリティ」という「搬送波」的な空間の折り紙、山折りと谷折り、前と後ろ、見る人と見られる人、鏡像と実像、0と1、光と影、男と女、etc…. 常に二つ、このふたつとは一体何を意味しているのでしょうか。どんなに方向性を変えても、いくら表現方法、想像手段等・・・を変えても結局は0と1なのだということなのか、または0と1の多様性は永遠に続くということなのか。

数年前、ウンモ星人に傾倒している仏人の友達に触発(?)され、ネットでウンモを調べたことがあります。そのときは鏡についての問題が面白いなあ、と思った程度で、数ページ眺めただけで素通りしてしまったんですが、今回鏡のことがまた気になって、同じHPを訪問し、第一部基礎理論を印刷しました。(何かウンモを読むことの言い訳をしているみたいだな)
まだみんな読んでないんだけど、たとえば、「我々ウンモは、我々の外側に実体があり、それが我々の脳を刺激し、我々がBUAWAIGAAI (認知)と呼ぶところの一連の精神プロセスを起こすことが確かであることを知っています。」というような、ヌースを連想させることも書いてあったりして、とても面白いです。とはいえ、疑問に思われる部分もたくさんあります

彼らは空間も色も知覚の幻想である、というようなことを言っています。しかしそれは同時に、空間と色が存在しているということ、事実、リアルであるということではないかと私は思うのです。

ヌースでも書かれていたと思うんですが(間違っていたらすみません)、ひとつのモノがあった場合、それを見る人がいない限り、そのモノの形も色も認識されることはない。何故なら形や色というものは見られるモノの性質(?のようなもの・・・)と見るモノの性質の二つの要素があるとき初めて色と形として認識される。確かにそれは見るモノの心理的現象、幻想であると言うこともできるし、心理的現象=リアルと言ったとしても、さほど意味は変わらないと思う。

たとえばひとつの赤い(人の目から見た)りんごがあったとし、それを人間の目、または精神、心理的作用によって見た色と形、色覚異常(ある任意の人の視力を正常であると仮定した場合の)の人から見た色と形、動物の目から、昆虫、植物から見た色と形、等々・・・はそれぞれ一様ではない。多くの人は正常な視力(という仮定における)をもつ人間の目から見た色と形がリアルであり、それ以外は幻覚、または、現実が変化して見られていると考えるかも知れない。

しかし、色と形の認識というものがあくまで見るモノと見られるモノの間に起っている現象である限り、どの色と形がリアルで、どの色と形が間違っている、または幻覚だと区別することはまったく無意味だと思うのですが。

すべてを幻覚と呼ぶか、またはすべてをリアルだと呼ぶか、またはある認識の規定、条約によりリアルな任意の色と形を設定するか。

ただひとつのりんごをめぐって、その形と色の認識のされ方は見る人の性質(?)により無限に存在するだろう。いいかえれば無限に多様な現実が存在する。

これは三次元の世界におけるたとえであるけれども、多次元においても相似する関係があるのではないかと想像しています。何かひとつだけのリアリティーというもの、幻覚、または現実は存在しない(とは言いきれませんが、視点によってはそう見れるかもしれない)。それらは見るものと見られるもの、同じ人が見る場合においても、見方を変えるごとに、見られるものが変化する度、無限のリアリティー、幻想、現実が存在するのではないかと考えています。

Φ=WHY?さんと、Ricardoさんは、この点をどのように考えていらっしゃいますか?もし聞かせていただければ幸いです。

とはいえ、Φ=WHY?さんやRicardoさん、保坂さんが求めてやまないリアリティーを想像できないわけでもありません。

私の大好きな「いちご白書」という映画、(テーマソングがパティー・セント・メリーの「サーカスゲーム」、映画の中にはCSNYの曲がちりばめられて音楽もすごくいいんです)この中で学生運動に傾倒している超ミニスカートのヒロインがボート部の練習を休んで、デモに参加しない主人公に、”Movement is real!” と言って責めている部分が思い出されます。

Φ=WHY?さんや、Ricardoさんが求めているリアリティーはもっと、人間の本質的なもの、人間の存在に関するものであろうと、想像していますが。

この映画でヒロインが”Movement is real!” という背景には様々な設定と条件、条約、そして彼女自身の個人的な希望などが見え隠れしていることは明らかでしょう。

「リアリティー」という漠然とした言葉の捕らえ方は人それぞれ様々だろうと思います。私の「リアリティー」という言葉の概念があまりにも単純すぎるのかも知れません。

しかしながら、多くの人がリアリティーという言葉を使うとき、そこには何らかの前提、条件、希望等がそして何についてのリアリティーを求めているのか、なんに関するリアリティーなのかということが必ず存在しているように思えるんです。

心で感じているものをそのまま言葉で現すのは難しく、ただリアリティーと発するだけで、心の中にある意味を表現することはできないと思います。もちろん、日本には簡略な言葉で表現する、省略した言葉で心を伝える、もしくはすべてを言葉だけに頼らない心の伝え方の芸術のようなものがあるように思うのですが。

質問ばかりして申し訳ないのですが、Φ=WHY?さん、Ricardoさん、コーセンさんにとっての「リアリティー」とはどういう意味なのか、そしてそれはどういう環境、条件、設定におけるものなのか、もしくはまったく設定もなく、条件もなく、任意でもない、ひとつのリアリティーというものが存在するのかどうか、教えていただけたら、とても嬉しいです。

私は皆様の文章を読むと、皆様が求めている「リアリティー」とは存在の証明のようなものに思えます。または言葉にしては崩れてしまうような希望、勇気といったものにも感じます。

人の気持ちを勝手に決め付けているように感じられたとしたら、申し訳ないです。しかし、たとえばΦ=WHY?さん、(皆様という言葉はちょっと堅いんで)を見られるものとたとえ、私がΦ=WHY?さんを見るものと仮定した場合、りんごが私の中で赤いと認識されるように、Φ=WHY?さんのある部分を、以上のように私の中で認識されたというだけの話とも言えませんか。。

そしてΦ=WHY?さんの認識のされ方は無限に存在している。そしてΦ=WHY?さんの文章を認識するものは、Φ=WHY?さん以外であるという必然性はなく、Φ=WHY?さんが自身の文章を認識するということもできるわけです。

赤いりんご(人の目から見た)は赤いりんご自身を見るものになることもできる。見る人と見られる人は必ずしも別々に存在しなければならないとは、限らないのではないでしょうか。

そしてりんごがただひとつあり、そのりんごを見るものがいなかったとしても、やはりりんごはそこに存在している。

結局、点も線も縫い目も切り目も、接着部も存在しない、ただひとつのものの驚異的な綴り折りが存在というものではないかと想像しています。

ところでこれは、2歳半のときから折り紙を折っている折り紙大好き子供の息子が大ファンになって、折り図の本も取り寄せた神谷哲史さんのビデオです。
http://www.youtube.com/watch?v=9rCGrgJMd5g
ここで最後に出てくる竜神が特にすごいんです!

折り紙の世界と存在を比べてみると、点も線も縫い目も切り目も、接着部も存在しないだけでなく、同じものを二度仕様する、同じものは何一つ存在しないということも考えられてきます。

No.196 - 2008/05/09(Fri) 20:07:56

Re: 「リアリティ」って何? / Φ=WHY? [ ]
夏羽さん、こんにちは。

私は、本当の意味での「リアル」というのは、やはり「生存」と結びついていると考えたいです。ある「閉じた空間」(この空間とは、数学で言う「集合」程度の意味)において、その空間の「ふち」に達していないときは、その中での「流れ」あるいは「運動」というものも、さほど、リアル(現実)であるかバーチャル(仮想)であるかに疑問さえ持ちません。ところが、ふちに達した途端、その「流れ」や「運動」が危うくなったとき、突然「リアル」が重要性をもって立ち上がってきます。

人間なら「死」に直面したとき「生」を一番感じます。今の仕事を失うまさにその瞬間その仕事を感じ、「お金」がなくなるまさにその瞬間「生きる」ことの切実さを感じます。

そういう意味では「りんご」がりんごであるその「ある」を感じるのは、「りんご」が成立するその存在条件に手がかかったとき、と言えるかもしれません。

「ヌース理論」のψ7〜ψ8の元止揚には、まさに、こうした広義の「モノ」を規定する条件というか、生成・消滅の場というか、そういったところと深く関わっているように私は思います。象徴的には、存在を規定する見えない「臍の緒」のようなものかもしれません。

昨今の残虐な事件において、犯人たちの言動に「リアル」さを欠くのは、彼らにとって他者存在がリアルでなく、自己の内面の「バーチャル」のように扱ってしまっているからではないでしょうか。自己の「境界」を感じない、自分の自我領域を実感できない、というのは「存在」としてやはり問題なのだと思います。自己が分散して世界を呑み込むことと、意識が世界とひとつになることとは似て非なる両極面だと思います。

No.201 - 2008/05/10(Sat) 12:16:51

Re: 「リアリティ」って何? / Ricardo [ ] [ Mail ]
夏羽さん、youtube動画見ました。
ドラゴン、龍神、すごいですね!
あんなの見た事無いです。しかもそれが一枚の紙で出来ているなんて・・・
2次元平面での3次元的表現?にこれほどの可能性があるとは・・・驚嘆しました。



私が使っている「リアリティ」は、「私」と「物質/物理空間」との「接触面or点」のことかもしれません。
それは、「この空間に私が居る」=「存在感」でしょうね。
「生存感」とも言えるかも。
そういう意味では、私もφさん同様、死に関する状況感がリアルさを生みやすいのではないかとも思います。


他にも、φさんの言うような場面とは違いますが、私がリアリティを感じるのは、目に見える光景の奥行きや広がりに見入る時、とかですね。
たとえば、都内のビル群の中で空を見上げて、ビルの谷間の奥底にいる空間感覚、絶壁のように立ちはだかるビルの壁、その先に広がる空、そして空はこのビルの谷間を地形の小さな一部として包み込んでしまうように大きく広がっているだろうことを想像して、空間の広がりを感じる。
たとえば、近所の公園の高台から見下ろす公園の広い芝面、その奥に建つマンション数棟、キレイに整備されているので夜見るとジオラマの光景のようにも見えてくるその空間構成。

この光景が幻想でも、私ひとりにしか見えていないものでも、なんでもかまわないのですが、私にはこの空間構成が楽しくて(空間の中に私がいる、存在しているという前提で?私という意識が肉体を持って肉体を通して感じているという前提で?)空間の広がりにリアリティを感じます。
世界が在る、という感じと言ってもいいのかな?

そういう意味では「リアリティ」という言葉にも、自分の存在を感じるリアリティと、世界を感じるリアリティと、2種類あるんじゃないかと思います。しかもそれぞれどちらも個々に多様ではないかと。

No.203 - 2008/05/11(Sun) 12:16:41

「リアリティ」と「情動」 / Φ=WHY? [ ]
「主体=世界」関係(紐帯)としての「情動」こそが「リアル」を現出させるものかもしれませんね。つまり、Ricadoさんのおっしゃる、自分の存在を感じるリアリティと、世界を感じるリアリティは、その「情動」を直径とする球空間の両端の点のようなものであって、リアリティは実はその球空間全体なんじゃないかって、思います。自己の意識のカラダがその球空間自体を縁取っていて、その球空間への自己の存在密度がリアリティの度合いというわけです。そのリアリティとは何かと言えば、かなり広い意味での「情動」ではないかと思います。そして、それを本当は「現在」(プレゼンス)と呼ぶのかもしれません。
No.204 - 2008/05/11(Sun) 18:15:53
コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / 心(良心)=聖なる心(主イエス様) [ ] [ Mail ]

52の続きです

> > ちなみに オリオン→シリウス→プレアデスという流れは
> > 退化ではないですよね?
> はい、退化などではありません。進化の一環です。


○1
進化の一環とは どのようなこと どのような力
どのような働き でしょうか?

○2
○1と関連してオリオン→シリウス→オリオンの流れや力は

○観察精神や真実の人間という意識体が
人間、動物植物などの意識(霊魂)(赤ちゃん霊魂)
を生み出す力 
○観察精神や真実の人間という意識体が
人間、動物植物などの意識(霊魂)(赤ちゃん霊魂)
創造する力

重心の力 十字の力 ペンタグラム(五ぼう星)の力 ですか?


2つ質問してしまいましたが
○1と○2の内容は関連してるので切り離すことが
できません ご理解のほどお願いします。

No.96 - 2008/04/15(Tue) 00:22:26

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / 心(良心)=聖なる心(主イエス様) [ ] [ Mail ]
これらの質問に対して
(下の方に書かれてる38番以降の内容から現在まで)
わかる方 メールくれたら嬉しいです
なぜならその方が 自由自在に対話できるからです
しかし 皆様の時間を奪うような長期にわたるやりとり
メールや頻繁なメールはするつもりはありませんので
是非 わかる方 メールください お願い致します

No.97 - 2008/04/15(Tue) 00:23:33

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / zanki [関東] [40代] [ Home ]
こんばんわ、「心(良心)=聖なる心(主イエス様)」さん。
長いハンドルネームですね。文面から、老人ではない、
お若い方(中学生くらい?)と、勝手にイメージしまし
たがハズレでしょうか?
 それはさておき、進化、退化の件ですが、オリオンは
シリウスより絶対的に劣るというわけではないようです
よ。バネのように螺旋を描いて上昇していくというイメ
ージだという事が、ヌース本のどこかに書いてあったと
記憶しています。一周してオリオンに戻っても、一周前
のオリオンの真上に来ているという事。だから永遠に進
化が続くという表現が成り立つと。

No.98 - 2008/04/15(Tue) 22:52:17

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / 半田広宣 [九州] [50代] [ Mail ]

> > > ちなみに オリオン→シリウス→プレアデスという流れは
> > > 退化ではないですよね?
> > はい、退化などではありません。進化の一環です。


意識進化の運動もそのベースは双対的に進んでいくということですよ。
ヌース理論のキーワードでもある「双対性」についてゆっくり考えてみて下さい。
OCOT情報から察するに、自己が進化と反映の二つに分かれれば、他者側の進化も必然的に進化と反映という二つの方向に分かれます。それら両者の関係が捩じれ合って、新しい次元構造を構成していくことになります。

No.99 - 2008/04/18(Fri) 02:08:30

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / 心(良心)=聖なる心(主イエス様) [ ]
zankiさんへ

進化、退化の件ですが、オリオンは
シリウスより絶対的に劣るというわけではないようです

これは

進化、退化の件ですが、プレアデスは
シリウスより絶対的に劣るというわけではないようです

の間違いではありませんか?
オリオンはシリウスより進化してますよ


一周してオリオンに戻っても、一周前
のオリオンの真上に来ているという事。だから永遠に進
化が続くという表現が成り立つと。


についてですが 

一周してプレアデスに戻っても、一周前
のプレアデスの真上に来ているという事。だから永遠に進
化が続くという表現が成り立つと。

の間違いではありませんか?

そもそもヌース理論では戻るということがないのでは?
コウセン氏によれば プレアデス→シリウス→オリオン→
と永遠に進化のみ という話ですよ。。。



コウセン氏へ
時間がある時○2をお願いします
後 コウセン氏はなぜ進化には退化は決してなく
進化or停滞のみということがわかるのですか?
それらはオコットからの情報ですか?

No.108 - 2008/04/20(Sun) 00:03:25

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / zanki [関東] [ ]
失礼しました。10年近く前の記憶でデタラメでしたね。
No.110 - 2008/04/20(Sun) 22:53:47

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / 心(良心)=主イエス様 [ ]
コウセン氏へ
時間がある時○2をお願いします
後 コウセン氏はなぜ進化には退化は決してなく
進化or停滞のみということがわかるのですか?
それらはオコットからの情報ですか?

わたしのこと忘れてませんでしたか?
2週間以上も経ってますよ

No.162 - 2008/05/03(Sat) 16:07:56

あのー。 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]

横やりを入れて大変申し訳ないのですが。

ヌースは宗教ではなく学問なので、本も三冊出版されていることですし、自分で必死に勉強をされて答えを導きだしていった方が、 心(良心)=主イエス様さまのためにもなると思うのですが。

ぼくは自分なりの答えを見出そうとするそのプロセスがとても重要なんじゃないかと思います。それが仮に誤っていようともです。

心(良心)=主イエス様さまのやり取りを見ていると、「この式を微分したらどうなりますか?」「こうなります。」というような、お世辞にも 心(良心)=主イエス様さまの身になるとは思えないような学習法だと思います。

まず、 心(良心)=主イエス様さま自身で式を解かれてみてはいかがでしょうか?

余計なことかとは思いますが、少し気になりましたものであえてコメントさせて頂きました。気を悪くされないで下さいね。

No.163 - 2008/05/04(Sun) 00:36:36

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / 心(良心)=主イエス様 [ ]
>
> 横やりを入れて大変申し訳ないのですが。
>
> ヌースは宗教ではなく学問なので、本も三冊出版されていることですし、自分で必死に勉強をされて答えを導きだしていった方が、 心(良心)=主イエス様さまのためにもなると思うのですが。


いや だから○2で自分で考えた概念を書いてますが。。。
自分でも研究してますよ
悪い頭で必死に。。。


> ぼくは自分なりの答えを見出そうとするそのプロセスがとても重要なんじゃないかと思います。それが仮に誤っていようともです。

そうですね
>
> 心(良心)=主イエス様さまのやり取りを見ていると、「この式を微分したらどうなりますか?」「こうなります。」というような、お世辞にも 心(良心)=主イエス様さまの身になるとは思えないような学習法だと思います。


いや だから自分の考えも書いてますよ
読んでくださいよ

>
> まず、 心(良心)=主イエス様さま自身で式を解かれてみてはいかがでしょうか?


頑張ってますよ。。。
>
> 余計なことかとは思いますが、少し気になりましたものであえてコメントさせて頂きました。気を悪くされないで下さいね。


いいえ どういたしまして。。。
また わたしの質問に答えれるなら答えて欲しいです

No.171 - 2008/05/07(Wed) 21:55:36

Re: あのー。 / zanki [関東] [40代] [ Home ]
> ヌースは宗教ではなく学問なので、

 まだ学問じゃない、というかずっとエンタ路線でいくのか
も知れません。なのにエンタではなく学問だと思いたいから
こそ心(良心)=主イエス様さんは、しつこく食い下がるのだ
と思うのです。

>ぼくは自分なりの答えを見出そうとするそのプロセスがと
>ても重要なんじゃないかと思います。それが仮に誤ってい
>ようともです。

 勉強する事自体は楽しい事ですが、間違ってたら嫌でし
ょ。エンタなら楽しんでればいいけど、学問を習得するなら
答え合わせは必要ですから、心(良心)=主イエス様さんの
心境は当然と思います。

  ヌースでは中間テストとかしないしね。

 

No.182 - 2008/05/09(Fri) 10:21:22

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / 聖なる思考 [ ]
お節介かもしれませんが、ちょっと言わせてください。

「ヌース理論」はおそらく何かきちんとした「正解」があって「答え合わせ」ができるような、そんなレベルの代物ではないと思います。どうも今の日本人は学校教育のせいか誰でもそうした思考法が弱いようです。つまり、物事には「必ず(型にはまったような)正解がある」という考え方です。

心(良心)=主イエス様が求めている「正解」はたぶん心(良心)=主イエス様の「アタマ」の中もしくは「心」の中にしかないでしょう。

おそらく「ヌース理論」のベースにあるものは、特定の型にはまったものを嫌うものだと思います。そして、仮に、型をもつものだとしても、その型を超えていくことに主眼があるような類のものだと思います。

そういう意味では、自分を助けて欲しくてわかって欲しくてきちんとした正解を手に入れたい、まじめなタイプの人には、ひょっとしたらあまり向かないタイプのものかもしれないと思います。「ヌース理論」を理解するということは、そういうことさえも含んでしまうのではないでしょうか。

ふつうの人は、心(良心)=主イエス様のように、すべての存在は「順々に進化していく」ものと考えたがるのですが、そのこと思考法自体が自分自身をも束縛してしまうのだと思います。ヌースの言う「スマル」というのは、ある意味、そういう無限ループから抜け出せない思考法をも指しているように思います。それこそが人間の癖、心癖みたいなものではないでしょうか。そこでは、神様が現れようと誰が現れようと結局は「自己の幻影」でしかありません。

誰かに答えを求めるのではなく、自分自身でそのことに気づくことからやり直すというのが大事なのではないでしょうか。そういう意味で、心(良心)=主イエス様の求められる答えはあなた自身の外にはないし、他者ではなく、あなた自身の中にしかない、と思います。あなたご自身が質問しているその「問い」自体がどこの位置に立っているかを考えてみてください。そうすれば、おのずから、あなたの欲しい答えがあなたご自身の中から湧き上がってくると思います。もし浮かんで来ないのでしたら、もっともっと考えて考えて考え抜いてください。ただそれだけです。

No.183 - 2008/05/09(Fri) 11:04:40

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]

まさに聖なる思考さまのおっしゃる通りだと思います。
そういった意味で、ぼくも以前、思考の過程(プロセス)が重要なんじゃないかと書かせて頂いたのですが、どうも言葉足らずで伝わりにくかったようです。申し訳ありません。

>zankiさま

zankiさまはヌースをエンターテイメントに括ることに固執しておられるようですが、ヌースがまだ学問には至らないと思われるその理由を別スレッドでも構いませんので是非お聞かせ願えますか。非常に関心があります。

No.185 - 2008/05/09(Fri) 11:46:59

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / Ricardo [関東] [30代] [ Mail ]
シリウス革命のあとがき?には、OCOT情報に捉われない〜の様な記述があったかと思いますし、半田さん自信もヌース理論の構築途中だというような書き込みをしてた様な気もしますし、ご本人もエンタだ、とおっしゃってたような。
学問への昇華?はこれから?なのでしょうか。

間近でお話を伺っているDIEFORさんがどう聞いているのかはわかりませんが、傍目にはそう見えます。

逆に、半田さんの内心やヌース裏事情など、ご本人が打ち明けづらいことを情報漏洩(?!)してもらえると楽しそうですが(笑)


科学者でも哲学者でもなく、宗教家でもエンターテイナーでも無いパンピー(古っ)な私は、括りを超えるヌースは括りに括られないでいてほしいと思います。

No.186 - 2008/05/09(Fri) 14:56:27

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
ヌース理論が現在進行形の理論であることは確かだと思いますが。
ぼくは、あまりにエンタエンタだと軽々しく連発されることには抵抗を覚えますね。

ヌース理論にエンターテイメントの要素がないとはぼくも思いません。
しかし、おそらくKohsen氏がエンターテイメントだと言っているのは、新たな空間認識を促す思考のダイナミックなエンターテイメントであって、それは既存のエンターテイメントの文脈とは全く違った新たなエンターテイメントの領域のことを指しているのではないかと思います。

また、プロモーションという観点からも、いわゆる大文字の学問のように閉ざされるのではなく、多方面に影響を与えてゆこうとする意味でのエンターテイメント性を重要視されているのではないかと。

しかし、そのエンターテイメントを舞台裏で支えているヌース理論の骨格は(先述のような悪い意味ではなく)学問と呼べるんじゃないかとぼくは思います。

>Ricardoさま

裏情報の漏洩でしょ(笑)
僕としてはやりたいんですけど、Kohsen氏のガードが固いのですよ。。。

No.187 - 2008/05/09(Fri) 15:20:10

DIEFORさんへ・・・ / Φ=WHY? [ ]
DIEFORさん、こんにちは。

エンタメじゃなく例えば学問あるいは理論としての「ヌース」というものを本気で目指そうとすると、既存の数学・科学や哲学などのアプローチにあやかって、それなりに厳しい定義づけや公理系、もしくは、既存の学者たちの言説を再解釈して論理的に積み上げるなど、煩わしいけどある意味正当な手続きを取らないと、アカデミックな市民権を得るのはかなり困難だと思います。なぜなら、コウセンさんと全く同じレベルでなくても、ヌースに関してそれなりに議論できる人が多数出てくるような土壌を生み出せない限り、学問として成立させるのは厳しいのではないでしょうか。

もっと単純に言えば、例えば、ヌースに関して数学関連で語れる人はほとんどいないように感じます。では、哲学で語れる人はいるのでしょうか。少なくとも、このようなネット上の掲示板で書かれる人の中には残念ながら、そう多くは見当たりません。では、何についてなら、正当な議論ができるでしょうか。

私の個人的な期待としては、もっと本質的な意味でアカデミックになって欲しいとも思いますが、「情熱的なヌースの理解者」はさほど多くないような気がします。DIFORさんが怒るほどにはエンタエンタと言われて本気で怒る人は残念ながら少ないのではないでしょうか(個人的な本音としては、顔を真赤にして怒るほどの気概のあるヌース研究者がいることを望みますが…)。

某M大内でもどこでもいいのですが、コウセンさん以外の人が本気で自分たちの意志で分科会のようなものを作って立ち上がって来ない以上、擬似学問的エンタメの域を出ないと言われてもはやむを得ないのかもしれません。

No.189 - 2008/05/09(Fri) 16:40:41

Re: コウセン氏 皆様へ ヌース理論について / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]

>Φ=WHY?さま

Φ=WHY?さまのコメントは非常に分かり易く、親切丁寧で、非常に納得がゆきました。大変感謝いたします。

なるほど、一般的に〈学問〉と呼ばれるには、そういった社会的な手続きやコンセンサスが必要なのですね。ぼくのような若造にはそこらへんの社会的なシステムが分かっていなかったようです。お恥ずかしい限りです。

確かに、そういった意味では、Φ=WHY?さまのおっしゃる通り、まだヌース理論は〈学問〉となるまでには残念ながら至っていないと言わざるをえないとぼくも思います。

しかし、社会的にまだ〈学問〉として成立していないとしても、ヌース理論を「エンタエンタ」だと安易に呼びつけにすることは、個人的には如何なものかと思います。

まあ、個人の自由と言ってしまえばそれまでですが。。。

No.191 - 2008/05/09(Fri) 17:37:33

エンタ / Ricardo
「エンターテイメント」と言う言葉の持つ印象の問題もあるかもしれませんね。

もしかしたらここのみんなは、既存のエンタの文脈上ではない方の、枠組みをダイナミックに越えていく意味合いでの「エンタ」を言っているのかもしれませんが、私もですが、「エンタ」という言葉自体は軽いもののように聞こえてしまいますね。

意味合いはわかる気もしますが、私はエンタという言葉は使わないようにしています。



Φさんの学問設立入門講義(笑)、私も勉強になりました!



No.192 - 2008/05/09(Fri) 18:11:34
ところで。 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
つまらんことでスレッド立てちゃいますが。。。

現在、NOOS ACADEMEIAはネット上の運営団体に過ぎませんが、この先の未来、実際に建築物として校舎が建てられるようなスバラシイことになっちゃったとき、その建築物はどんな姿をしているのでしょうね。

個人的にはシンボリックで極めてシンプルな幾何学形態に何重もの線が走っているようなそんなイメージでしょうか。

ヌースが考える建築表現、しいては理想的な都市構想(規模がデカ過ぎ?笑)のアイデアに大いに関心があります。

そういえばヌースは建築空間のレベルや宇宙空間のレベルについては色々と語られている節がありますが、都市空間のレベルでは具体的にあまり空間論を聞いたことがないですね。

どうなんでしょうKohsen氏。
大いなる野望のほどは(笑)

No.157 - 2008/05/01(Thu) 17:54:36

Re: ところで。 / zanki [関東] [ ] [ Home ]
シュタイナーじゃないんだし、学校建てなくとも…。
それに物にとらわれないヌースであるべき、あって
ほしーなぁと。
 でもエンタだし、半田さん結構、モノ、好きだし。
あるかもなー、学校。

No.158 - 2008/05/01(Thu) 22:34:39

Re: ところで。 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
>zankiさま

Kohsen氏がもの好きかどうかは別として(笑)

学問だけにとどまらず芸術など多方面に影響を与えてゆこうという意味では、ヌースの運動はシュタイナーのモデルに近しいものを感じますよ。ぼくは。

それから、建築はzankiさまが言われるような意味での“もの”では決してありません。Kohsen氏が言うところの広大な“精神の海”を抱く生きられた存在です。いづれは私たちと同じ身体を創造しうる生命の種子です。
以上、自論に過ぎませんが、建築を愛するものとして、そこだけは、きっぱりと否定させて頂きたいと思います。

No.159 - 2008/05/02(Fri) 12:41:16

Re: ところで。 / kohsen [九州] [ ]
>そういえばヌースは建築空間のレベルや宇宙空間のレベルについては色々と語られている節がありますが、都市空間のレベルでは具体的にあまり空間論を聞いたことがないですね。どうなんでしょうKohsen氏。大いなる野望のほどは(笑)

現段階では全く絵空事の域を出ないのだけど、人間の意識の覚醒は、その投影力として反重力技術を出現させるはずだと考えています。ですから、建築のみならず都市空間も重力から解放されたコンセプトで設計されることになるはずです。

もともと建築の営みの中自体に、天空に向かってモノを積み上げるという重力に抗おうとする欲望が内在していますよね。これは建築が人間におけるイデアへの欲望を最も如実に反映している芸術活動だからだと思います。
その意味で、あらゆる建築のルーツは宗教建築であったし、残存する歴史的建築物の中でその極みと呼べるものはギザの三大ピラミッドと言えるのかもしれません。そして、それは建築史上最古のものにもなっている。。つまり、建築の営みにおいては始まりが最も偉大であった、ということになるわけです。

 建築がイデアの模倣である限り、建築はシュヴァレ・ド・ルービッチが言うように「人間の神殿」を復元する使命があるように思います。イデアの模倣から解放された真の建築は、それ自身が反重力的なものとして、法華経の『見宝塔本』に登場する宝塔のように中空に反質量空間としてそびえ立つことでしょう。

No.160 - 2008/05/02(Fri) 14:56:24

Re: ところで。 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
反重力ですか。いきなりブッ飛びましたね(笑

でも仮にそうなるときが来るとすれば、重力に抗うことによって歴史化されてきた建築の思考形態は大きな変革を余儀なくされるでしょうね。
それに、前後・左右・上下という建築における支配的な方向性も思想として変質せざるをえない。

大変興味深いことです。
まさに、希望としての建築ですね。

ぼくはまだ建築という学問(あるいは芸術・文化)は、ランプさえも発明出来ていない未開の領域だと思っています。建築の可能性はまだまだ存在するどころか、まだ始まったばかりだと思うのです。

掴み得ない空間。
『物自体』ならぬ『空間自体』(造語)をぼくは追っています。
部屋にいるときも、街を歩いているときも、ぼくは常にその掴み得ない空間、後ずさりし続ける空間に魅了され、それがいまのぼくにとって到達不可能であるゆえに日々、欲求不満を増大させているのです。誠に情けない。

ヌースがこの『空間自体』に触れる何らかのヒントを与えてくれるようなものではないかと、ぼくは直感しています。

No.161 - 2008/05/03(Sat) 10:16:31
素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
ぼくの所感では、ヌース理論は認識における空間の構造性やその差異については、多くを問題とされているように思うのですが、空間を取り扱うにあたって取り立てて重要な空間の“質的な差異”や、経験の一回性についてはあまり語られていない、というか問題とされていないような気がしています。

どうもヌース理論のフィギュレーションを見ていると、風も吹いていないようなまっさらな地平で、何の感情も持ち合わせていない主体同士が林檎を挟んで向かい合っている。そんな極めて抽象的な空間を思い浮かべてしまうんです。でも、現実的な空間の経験においてはそんなことは決してありえないと思うんですね。

1個の林檎を囲んだ空間を想像するにしても、例えば林檎が好きな人と嫌いな人では、林檎を認識したときの空間の経験には必ず違いが出てくるだろうし、同じ林檎を同じ場所から見るにしても、今日見る林檎と明日見る林檎では、空間の経験は質的に変化していると思うのです。

ぼくはこうした個々の固有な記憶や感情的側面を抜きに、空間の経験を本質的に掴むことは出来ないように思うのですがどうなのでしょうか。

No.120 - 2008/04/23(Wed) 10:26:36

Re: 素朴な疑問 / kohsen [九州] [50代]
 dieforくんがここで立てているヌースに対する問題提起は以前にも多くの人が立ててきたものだね。でも、僕はその度にセイレーンの歌声に耳を立てちゃいけない、って口を酸っぱくして言ってきた。人間個々の固有な記憶や感情的側面を抜きに、空間の経験を本質的に掴むことはできないとするdieforくんの考え方には大いに賛同するけども、記憶や感情に重きを置く前に、そうした意識的内容物が発生してきている原因をもう一歩突っ込んで考える必要があるように思う。記憶や感情は人間がオギャーとこの地上に生まれでて来て、後天的に派生してくるものだけど、ここで人間に経験されていく空間はつねに贈与された側の空間でしかないよね。つまり、presence=現前の場でしかない。自他という二人の人間が一つの林檎を巡って欲望の視線を交差させることができるのも、もとはと言えば、そこに林檎や知覚があるからだよね。その意味で言えば、林檎や知覚は人間が持った記憶や感情的側面のより本質的なルーツでもあると言えると思うんだ。でも、困ったことに、人間はその林檎がどうしてそこに在るのか、その由来を知らない。だから、当然、自分がどうしてその林檎を食べたいと思うのか、相手にも分けてあげなきゃと思うのか、はたまた相手から奪いたいと思うのか、という問題に関しても手がかりが全くつかめない。

 林檎の出自も分らないまま、記憶や感情を考慮して空間について思考したとしても、肝心の林檎の存在原因が見えないわけだから、人間がいくら記憶や感情に重きを置いて〈内在-外在〉を巡る空間の襞を思考しても、結局は基礎のない建築物でしかないんじゃないかと思うな。最近はあまり語る人もいなくなったけど、僕はやっぱりここに「モノ自体」という問題を再浮上させる必要があるように思うんだ。人間の知覚に浮上してくる「モノ」とは一体何なのかという問題。モノ自体について思考するということは、言い換えれば、表象の結果として、その付属物として発生してくる情動ではなく、表象のシステム自体を生み出す原因となった情動とは一体何なのかという問題について考えるということなんだね。ヌースの言葉で言えば、付帯質ではなく、精神を思考するということなんだけど。。

No.121 - 2008/04/23(Wed) 14:41:28

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
>Kohsen氏

いえ、いま一つ納得がゆきません。そもそも、知覚するということは記憶を抜きにして語ることは出来ないのではないでしょうか?ある林檎を知覚するということは、記憶することによって成立するものなのではないでしょうか?
ぼくには、記憶や感情的側面を追いやった林檎の知覚というものが、抽象的で想像的なものであるような気がしてなりません。現象学に反するように思います。

No.123 - 2008/04/23(Wed) 17:38:04

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [ ]
dieforさん

ラ・ムー子と申します。
書き込みを読ませていただきました。
自分など余りに頭が足りなくて、dieforさんの書いている

>空間の“質的な差異”や、経験の一回性・・・?
>空間の経験は質的に変化していると思う・・・?
>知覚するということは記憶を抜きにして語ることは出来ないのでは・・・?
>林檎を知覚するということは、記憶することによって成立するものなのでは・・・?
>現象学に反するように思います・・・?

のところですが、おしゃっているところのものが
よくわからないのですが・・・?

あの…現象学って、そんなに凄いんですか?
現象学がよくわからないのですが、
「それに反する」、という事をおしゃっているので、
私はてっきり、現象学ってさ、
そんなに絶対的?なものなんだ!?!?
…と思ってしまったのですが。

現象学って、そこまで自分自身の感情の起源とか、
知覚の成立原因とかを、明確にしている、
とっても人間の生に精通した学ということなのですか!

そんなものが既に確立しているんだったら、
ヌースでわいわいしているオレって、アフォ〜だな…
現象学を深く学んだら良いんですよね。

そしたら、ヌース理論なんかに色々と物申せるんですよね。
馬鹿だな俺は…今まで何やっていたんだろ。
そんなんだったら、みんな
現象学を学んだ方が良いのかな…

「自分の感情的側面の変化によって、
空間の経験は質的に変化すると思う…」

あの…その「変化する質」ってものは
原形の質も持たないで、
いつも見るたびに、見るものによって
変化するって考えたら良いのですかね。

あれ…それじゃ、
毎回真新しいってことなんじゃないの?

見るたびに、以前とは何の関係もないんだけど、
そっくりな知覚正面が投影されている、
と考えるのでよろしいのでしょうか?う〜ん…

>林檎を知覚するということは、
記憶することによって成立するものなのでは・・・?

ん・・・?
え〜と、これを読むと、記憶が先手ですよね、
そして、知覚に至ると。
んん〜???
いつ記憶しましたかね・・・
知覚以前でしたか。

「初めてお目にかかりますが、
貴方のことは記憶していますよ…」
ってことで良いのでしょうか?

あれれ…

どうも…「記憶によって知覚が成立する」ということは
自分でも、そうだよね〜って思うんですが、
その記憶ってものが、キオク違いなんではないのかな〜
(な〜んてね。)

己奥とか、既置く、とかが良いかな〜。
自分の中に既にあるものとか言う感じ?

そこ(己が奥深く…)に、感情や情動を超えて(っていうか
それらが成立するよりもっとマエに)
『風も吹いていないようなまっさらな地平で、
何の感情も持ち合わせていない主体同士が
林檎を挟んで向かい合っている。
そんな極めて抽象的な空間』

キオクっていうヤツは!
うう…なんか目がウルウルしてくるなぁ…この風景って。

人間が成立するマエのふるさとみたいな気がする…
存在が存在として、どうして存在するのか…
深すぎて、神様にもワカロウマイ。

人間からすりゃ、ともかくオレは存在した、っていう。
懐かしく、思い出すキオクがある。

何処とも、何時からとも、何故ともいえないよ〜
トモカ〜ク!
この風景って、
ジョウドウ…、カンジョウ…、?いやいやソレイゼン。

う〜ん、
存在世界の、このスバラシイ多様性を
一!
に畳み込んだ
種、
のようなものでしょうか…

ボクハ、タネヲミテモイマシタ。
「このうちゅうは、なんという、
たとえようもなき、げいじゅつなんでしょうか…」

その手のひらには、小さな黒い粒が在るだけです。
それを見て、彼女は泣きました。
「なんて存在とは、深い…深いのでしょうか…」

私には、決して無味乾燥な風景には見えませんでしたよ〜

それもそのはず…
「人間個々の固有な記憶や感情的側面を抜きに、
空間の経験を本質的に掴むことはできないとする
dieforくんの考え方には」Kohsenさんのみならず、
私も大いに賛同だからですよね。

私には、無味乾燥な風景には見えませんでしたよ〜!

No.124 - 2008/04/23(Wed) 22:48:56

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
>ラ・ムー子さま

コメントありがとうございます。少々、誤解があるようですので、補足させて頂きます。

まず、現象学という言葉を持ち出したのは、何もラ・ムー子さまの言われるように、現象学が絶対だとかそのように思っているからではなく、単に僕自身が、ヌース理論を存在論に始まる現象学の系譜の流れの中にあると思っている。という、ただそれだけの極主観的な問題です。 言葉足らずで申し訳ありませんでした。

それから、記憶と知覚の話についてですが、ぼくは単に知覚と記憶は切り離しがたい関係性にあるのではないか?ということを問いたかっただけで、記憶を先手に取った訳ではもちろんありません。書き方がまずかったようですね。これも、ごめんなさいです。

ラ・ムー子さまは、無味乾燥な風景には見えないとおっしゃいますが、ぼくはたまにそう感じることがあるんです。こと空間の問題に関しては、その構造ばかりにより過ぎると大事な部分を取りこぼしてしまうような気がしています。空間の経験という、その豊潤さを純粋に知覚の問題だけで抽象的に取り扱うのは、空間を問題とする上である種の重大な危険性を秘めていると思うんです。

ラ・ムー子さまは、経験の一回性というものがよく分からないとおっしゃいましたが、流れ行く雲が、また生きとし生ける生命が、刻一刻とその表情を変えてゆくように空間を経験するという軌跡もまた、常に生まれ変わり、開かれ、新たに発見されうるような、驚くべき神秘の出会いの連続であるとぼくはそう思っています。

>Kohsen氏

“表象のシステム自体を生み出す原因となった情動とは一体何なのか”という問題提起にはぼくも激しく同意するんです。しかし、Kohsen氏が、『物自体』と『表象』を二元的に捉えていらっしゃるところに疑問を感じます。林檎の知覚と、記憶や感情的側面とにしてもそうです。果たして、表象なき、その『物自体』とやらが本当に存在しうるのだろうか?と思うのです。林檎の知覚にしてもそうです。何の感情的側面をも付与しない、つまり何ら意味付けられないニュートラルな『林檎』とやらが存在しうるのだろうかと。もし、存在しえないのならば、ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし、その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれているように思います。どうも、知覚に対して、それと表裏一体となって付随するKohsen氏が副産物であるというところの感情的側面や表象が軽視され、ヌースではこちらがあまり問題とされていない(突っ込まれていない)ような気がして、そこに垣間見える二元論的観点に矛盾というか、理論としてある種の素っ気なさを感じてしまうのです。

No.125 - 2008/04/24(Thu) 10:53:32

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [ ]
D I E F O Rさん

ラ・ムー子です。
コメントに対するご返信、ありがとうございます。
自分はとっても楽しんでいます。
書き込みから、D I E F O Rさんが、活き活きとした存在と
感じられるからです。

それで…
直に話していても、誤解とかなにやらを生むことって
多いんですが、ちゃんとコトバを尽くして
返信して頂けるので、ああ、そうか…と感じてます。

それで、
それ、面白いな、と思ったのは

>ヌース理論を存在論に始まる現象学の系譜の流れの中にあると思っている

とおっしゃっていることでした。
え〜!っと思いましたよ。
こんな、出所がトンデモ(失礼…)なヌースに
そんな、位置づけを与えて見れる視点って…

チャネリングですよね、一応?(kohsenさん!)
「エンタだよっ!」って言ってることに対して
こんなに真剣に捉えられるとは…

「極主観的な問題」ですってことは
フツウのことなんで、ゼンゼンオッケーなんですが、
エンタ路線に対して、とっても「真剣」ですよね…
捉え方。

自分のようなヌースシンジャ!?だと
凄く説得力のカケラも無いんで、
いろいろ言うだけムダかも知れないんですがね…

エンタって言うのは、「これってあそびですから〜」
って、カンジですよね?間違ってます??

で、「マジ、面食らうし…」

おもちゃで遊んでいたところに、
「そんなおもちゃでは、いか〜んっ!」って…

僕はね、「一緒に遊びましょ♪」って言いたい。

どうしても「それはおかしい」「納得がいかない」
って…本当に沢山の人が言うんですよ、ヌースって。

いつも思うのね…
あの〜、そんなにマジで切り込んで来るって…?
そんなに、これの価値とか、意義とか、
マジで考えてくれちゃってる?

多くの人に思うこと。
「オレより熱心なシンジャかも」ってね。

D I E F O Rさんの場合では、

>ヌースではこちらがあまり問題とされていない(突っ込まれていない)ような気がして、そこに垣間見える二元論的観点に矛盾というか、理論としてある種の素っ気なさを感じてしまうのです。

ってことだから、とっても真剣にヌースに対し、
「感情的側面や表象が軽視」されないヌースに
なって欲しいって、言ってるのか???
とか、思うし。

それで

>流れ行く雲が、また生きとし生ける生命が、刻一刻とその表情を変えてゆくように空間を経験するという軌跡もまた、常に生まれ変わり、開かれ、新たに発見されうるような、驚くべき神秘の出会いの連続であるとぼくはそう思っています。

これって、本当にそうだよな〜って、思いました。
本当に、人間が経験する事それ自体が、
神秘の連続ですよね。

その、トテツモナイ感動を常にもたらす、この存在と認識。

そこに更に、自分がちょー感動するのは、

こんな神秘的感動的多様性を成立させている、
存在のシステムに関しての、永いながい関心の、
その先に…

多様性とはまるで似ても似つかない、
ちょー「イチナルもの」!

え〜!
感動、感動、また感動です。
こんな!!!(コトバで言えないような感動的)世界が
究極のしんぷるに、由来するの〜っ!?

もし
神秘的に感じるモノゴトを、成立させているコトガラが
それと瓜二つの多様性に在るんだとしたら、

あっ、そう…

と、それこそそんな多様性は、素っ気無いよな〜
多様性が多様性に、因るもの、なんてね〜。
あまりにベタだよ…

>その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれているように思います。

そうだよね〜。そう思うよ〜、自分もさ。
これも激しく同意です。

で、

>もし、存在しえないのならば、ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし

そりゃそうだよ。しえないんだったら。

が!

>副産物であるというところの感情的側面や表象

それを、そこまで真摯に愛して?
その立場を、
「絶対に同等!」という所に持ってくる、
それには、そんな存在はいきなり「×!」ですか〜!

>もし、存在しえないのならば

ってことにイキナリしてしまって、
それに同等のポジションを与えるまで、
感情的側面や表象の、かたを激しく持つってさ…?

このエンタ(ヌース)は、それ↑をクリアすれば、

存在、知覚、その経験と情動、それらの由来について

マジ、スカーっと納得させてくれるって
考えているのかな…?
真剣に、ヌースに激しく期待しているってことか…

それならば、エンタ路線♪なオレなんて
激しくD I E F O Rさんに対して失礼だな…。
ごめんなさい。

自分は、ヌースにはあんまり関心が無いんですよね。
存在、知覚、経験、情動感情。
それらを成立させている「ほにゃらら」を
激しくワカリタイ!!!
ってことだけで。

それを「看れる」視力強度を高めてくれる
「お助けのなにか」を大事にしたいんで。

自分が「なにか」を観て感じてみて、
「それじゃあ、視力は上がらないよっ」てなものには
激しく関心を持てないよ。
持続できませ〜ん。

そういう関心からなのか、
子供の時分から、
キリストさんのお話も、
お釈迦様のおはなしも、
日蓮さんのお話も、
出口さんのお話も、
中山みきさまのおはなしも(ウチ、親が天理教ね!)
老子さんのお話も、
世界の神話も、
哲学も…etc(←古っ)・・・

みな、人間に伝えんとしたところは同じやんけ〜
と、不遜に見て聞いてきましたからね。

でも、時代背景とか、人間の意識の進度とか、
いろいろあるからさ。

で、視力を強化する精度がとてつもなく高いよな〜
ってこと、それを大事にするので、
ヌースに出会ったときに
「うお〜っ!」って感じで、

今まで、これを進めていけば行けるって感じていたことと
相補的に、合致してくるヌースに、
勢いハマリマシタ!(エンタとしてね!)

で、エンタに興じ過ぎて、実動路線からオッコチタのよ!
そんなイイカゲンやろ〜の戯れ言なんだよね〜すべて…

戯れ言、長くて、ゴメンね…

No.128 - 2008/04/25(Fri) 00:25:37

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
>ラ・ムー子さま

いえいえ、ぼくもエンタメとして楽しんじゃってるクチですよ。“真剣”だなんて言われると逆に申し訳ないです。(^▽^;)

ぼくが空間の経験に神経質にならざるをえないのは、建築空間のことを考えてしまうからだと思います。(一応、専門は建築なので)

建築空間や都市空間の場合、それがどうデザインされているかよりも、どう経験されるかというアクチュアリティというか実存的空間のほうがもっとも重要とされます。

アーキテクトがどんなに完璧なデザイン・プログラムを描き起こしても、往々にして経験によってそこにエラーが引き起こされるというか、デザイン・プログラム(図面)の中で描かれた空間と、実際に経験される空間の間には大きなズレが生じるわけです。

ぼくはこのズレ(=プログラム・エラー)が非常に重要だと考えていて、そうなるとどうしても問題は、この“経験”という迷宮に入っていかざるをえないわけです。

ですから、これは単にぼく個人の単純な興味として、空間の知覚(これももちろん大いに興味深いのですが)ではなくて、空間の実存的な“経験”という範疇についてヌースがどう切り込んでいるのか見てみたいというだけなんです。

No.130 - 2008/04/25(Fri) 11:15:50

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [ ]
D I E F O Rさん

まいどです、ラ・ムー子です。
なるほど。他のスレのコメントを読み返したら、
多くD I E F O Rさんの書き込みがあって、
今まで読んでいたんだけど、それらがD I E F O Rさんだと
ワタシ繋がっていませんでしたね。失礼。

建築がご専門なんですね。

>デザイン・プログラム(図面)の中で描かれた空間と、実際に経験される空間の間には大きなズレが生じるわけです

それって、素人ながら、感じますね〜。
何故ああもズレがあるかな〜

>ぼくはこのズレ(=プログラム・エラー)が非常に重要だと考えていて、そうなるとどうしても問題は、この“経験”という迷宮に入っていかざるをえないわけです。

それでね〜…なるほど。

>空間の実存的な“経験”という範疇についてヌースがどう切り込んでいるのか見てみたいというだけなんです

ふふふ…そうだったのか。
ほら、D I E F O Rさん、建築って立場や視点が
第一だよね。当たり前か〜

これは、本当に今までも多く、人々に感じてきたこと
何ですけどね。
やはり我々は、第一に、
自分の関わっていることの立場や、
または都合っていう方も多いかなと思うんだけど
そういうそれぞれの視点に立って、
「これはどういうことなの?」
「あれはどうしてそうなるの?」
って事を聞いたり、
(たまに誹謗したり中傷したり…汗)
この人、忙しいよな〜って人、いますでしょ…

自分はコレコレをいまやっています○○といいますが
これって、何かの役に立ちますか〜?!
とかね。

宗教、いや信仰かな。それを、
「それで幸せになるんですか。」
「はい♪」
「じゃ、やります!」
って、感じでやる。(例えが軽すぎ…汗)みたいな。

信仰って言うのが、真理の探究だっ!
って思う自分なんかは、
ご利益目指して宗教に取り組んでるのとか見ると、
「オ〜マイガッ!!」
って天を仰いじゃう天邪鬼で。

kohsenさんが、商売を目的に、ヌース理論を自分で
立ち上げた、って捉える人間も、いるんだろーなー…

自分の持っている視点でしか、見ない、見えない、かも!
そういう人って、誰だって、オレのように
そう見てしかるべしだろっ、て思っちゃうんだろう。

でもね〜
子供の頃から、「お前はなに人だ?」「宇宙人だ!」って
問う人に応えていた立場からは、
「人間として、どうなのよ?」
という問いが基本だからな〜

社会的…職業とか、趣味とか、立場とか…の視点って処か
ら、他の人と語り合っても、何か違うんだよね。
(かんぜんに社会的不適合者ですね…汗)

直球で言っちゃうと
ヌースは、「切り込まない」と思うけどな。
「実存的な経験」を「最初」にはね。

1よりも5が先行している…

在りましたよね、このコトバ。
1、2は、顕在化を起こすまでは在るとも無いとも
言えない。
でも、過程的に、1、2となって3、4となるのは
こりゃ、ひっくり返しも出来ない順だ。
でも、1、2と進んできた意識は、
3,4とならないと顕在化が起きないし。

経験、情動。それによって、空間が意味を帯びてくる。

意味を帯びない以前のモノ、コトは
在るとも無いとも言えない存在(?)で…

経験的には、
そんなの、在るとも無いとも言えないよな。
1,2のコトなんかさ〜 それこそ、「ないだろっ!」
って。ふつうそう思うし。

>もし、存在しえないのならば

ってことになるんだろ〜。

見ること、見えることを成立させている
構造性について思考する
ヌースがそういうことに取り組んじゃってる以上
経験、情動を「最初」に語りえるかな〜
それ、ないだろっ!

僕が思うに
空間の経験と情動がどのようにして立ち上がってくるのか
の理解とは

>何の感情的側面をも付与しない、つまり何ら意味付けられないニュートラルな『林檎』とやらが存在しうるのだろうか

として語られるところの
1,2から開始して
それから3,4と意識のシステムを
トレースしていくことで
初めて、経験ということの成立、
記憶、情動の働きや意味
それらが自ずと見えてくる、見えてくる…
んじゃないかな〜っと。

3、4そして5は、最初には語れない。
だから…

>どうも、知覚に対して、それと表裏一体となって付随するKohsen氏が副産物であるというところの感情的側面や表象が軽視され、ヌースではこちらがあまり問題とされていない(突っ込まれていない)ような気がして

って、D I E F O Rさんの場合だと、
ヌースをそうみる視点ってもんがあるんかな。

自分なんかはさ、ヌースしていても、
「軽視している」って全然思いが出てこないし…

D I E F O Rさんの言うとおり、
この世界は本当に芳醇だと感じるよ〜、
しか〜し。
その芳醇さを、軽視しているようには見えてこない。

むしろ、
>そこに垣間見える二元論的観点に矛盾というか、理論としてある種の素っ気なさを感じてしまう

ところのモノである
経験に先行している、無味乾燥な物自体存在(1,2)
を、「先」に思考することから、
「必然的」に立ち上がってくる、
世界の芳醇さの理由…
それこそが、感動的だよな〜と感じちゃったり
するんだけどもな〜

前にも書いたけど、
世界の芳醇さの理由が
芳醇(複雑なモノコト)に因るんであれば
それこそなんも感動がないぜ〜ってね。

無味乾燥に感じられてしまう
シンプル過ぎっ!って感じの
先行して存在するところのモノジタイが
あらビックリ!
こんな芳醇な世界を成立させちゃってさ!!

これが実にダイナミックというか、
ミラクル!って感じでさ。

ヌース
それは、経験してみる。
成ってみる。
自己と他と言う対峙のなかで、
それ(ここではヌースね)を
思考してみても、
何も語ってはくれないだろう。
切り込んではくれないだろう。
芳醇な世界を見ること
それを成立させている仕組み、自体。
それ(ヌースのことね)に、自分が成ってみると
どのようにして、世界がこんなに芳醇なのか
僕たちにも見えてくるのではないだろうか…

(ちょっと詩的に書いてみました♪)←痴的!(笑)

No.133 - 2008/04/26(Sat) 01:58:14

Re: 素朴な疑問 / kohsen [九州] [ ]

> ですから、これは単にぼく個人の単純な興味として、空間の知覚(これももちろん大いに興味深いのですが)ではなくて、空間の実存的な“経験”という範疇についてヌースがどう切り込んでいるのか見てみたいというだけなんです。

dieforくんの言う「空間の実存的な経験」と現象学とはどういう関係にあるのですか。現象学といのはそうした経験さえも()に入れて、思考の起源に立つところから始まるメソッドではなかったけ?

No.141 - 2008/04/28(Mon) 14:58:57

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]

はい、ですから、ぼくはその“思考の起源”を追うことにも関心を多く抱いています。しかし、また別のベクトルとして、物質と記憶に絡む固有の空間(経験の一回性)をも同等に問いかけていかなければ、真に実存空間を思考していることにはならないと思うのです。

ぼくが以前、煙草を目の前に持って来た後に、ライターを目の前に持って来て「これはさっき(煙草)と同じ空間ですか?」と聞いたとき、Kohsen氏は「同じだ」と答えられましたよね。ぼくはそこに非常に大きな疑問を感じるんです。もちろん、同じだと言う解釈が間違っているとは思いませんし、そんなことを言うつもりはありません。それは片方で確かに「同じ」だとぼくも思います。しかし、ぼくの中ではもう片方で「同じではない」という感覚が大いにあって、実存空間を問うてゆく上では非常に重要なファクターなんじゃないかとぼくはそう感じるんです。「同じではない」という視座からも、何か体系的な理論が形作られうるのではないだろうか。ぼくはそうゆうところに非常にワクワクしているのです。

No.142 - 2008/04/28(Mon) 16:23:32

Re: 素朴な疑問 / kohsen [九州] [ ]
一方で、同じではない空間があり、方や同じ空間がある――もちろん、ヌース理論もこの両者の差異を十分に意識しているよ。dieforくんの言う「経験の一回性」、それを「此のもの性」や今、流行のクオリアと言い換えてもいいと思うのだけど、僕はこの微細な表象の魅惑に魅了されることが、まさにセイレーンの誘惑じゃないかと思っているのね。さもそこに甘美な思考の果実が実っているように香りがするのだけれども、一度そこに入り込んだら最期、二度と抜け出すことができないような迷宮が口を開けて待っていて、結局は「永遠に女であるもの」の捕囚となってしまうような気がする。dieforくんは女好きだからそれでもいいと思うけど、僕はその女を連れてどっか別のところに行きたいんだな。ライターや煙草などが存在する生活空間も確かに経験できる空間としての大事だけど、僕のようなタイプの人間は月や太陽や星々の空間もないとやってられない。それらもきっと実存と大きく関わり合っているはずだからね。真の現象学においてはそれらは同等に語られるべきじゃなかろうか。もちろん、真の建築においても。。
No.143 - 2008/04/28(Mon) 18:42:17

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
前にも同じことを書いたのですが、なぜ『物自体』と『表象』を二元論的に語られるのでしょうか?ヌースでは『表象』なき『物自体』とやらが存在するという考えなのでしょうか?

前回書いた内容をそのまま抜粋させて頂きますが、“ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし、その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれている”と考えています。

セイレーンのくだりを聞いていると、まるで『表象』を“悪”とするような、古典的な善悪二元論を感じずにはいられません。『生活空間』と『月や太陽や星々の空間』とにしてもそうです。そこをどうして二項対立させてしまうのでしょうか。『生活空間』にも『月や太陽や星々の空間』が内在しているのではないのでしょうか?(もちろんその逆も然りですが。)
どうもその辺りに偏りがあるような気がしてならないのです。

ぼくは甘美で実りあるように見える豊かな表象が、実は極めてシンプルな幾何学的構造性によって置き換えられるようなそんな気がしているのです。真の抽象が具象の中からしか引き出されてこないように、表象のシステムは、真に表象と向かい合うことによってしか炙り出されてこないのではないかとぼくは思います。

二重スパイのようにセイレーンの誘惑であると思っていたそのものが実は大きな罠だった。。。

なんちゃって。

No.145 - 2008/04/28(Mon) 20:53:45

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [関東] [ ]
kohsenさん

マック復活よかったですよ〜ホッとしました。
ブログが進まないことにがっくりの数日でしたから。

ところで、このスレの中で、dieforさんが

> 前にも同じことを書いたのですが、なぜ『物自体』と『表象』を二元論的に語られるのでしょうか?ヌースでは『表象』なき『物自体』とやらが存在するという考えなのでしょうか?

って言うことですけど、kohsenさんは、ヌースを
二元論的に語っちゃってるんですか?!
オイラは頭がイマイチなもので…
二元論的に語られているようには、何回読んでも
見えないのですが、彼のように頭が良い人に
二元論ですっ!て何回も繰り返されると、
えっ!そうなんですか?
とか直ぐに影響されちゃうんですよ。

> セイレーンのくだりを聞いていると、まるで『表象』を“悪”とするような、古典的な善悪二元論を感じずにはいられません。『生活空間』と『月や太陽や星々の空間』とにしてもそうです。そこをどうして二項対立させてしまうのでしょうか。『生活空間』にも『月や太陽や星々の空間』が内在しているのではないのでしょうか?(もちろんその逆も然りですが。)
> どうもその辺りに偏りがあるような気がしてならないのです。


なんて、繰り返されると…
どう見ても、オイラには、二元論的に語られている
ようには、どうやっても見えないのですが。

それは、自分のものの見方に、二元論的な見方が
薄まってるからかな〜♪、なんて能天気で良いんですかね?

kohsenさんの著作のなかでも、OCOTさん(?)から、
『善悪は変換人の次元では、無い。
それは人間型ゲシュタルトの次元だとそうなってしまう』
と言うことが書かれていたように思います。

スマルという次元も、人間が進化していくためには
必要、と書かれていたように思うので、
その、存在の構造性から見ると、
人間の次元で善悪と見れる事象が、
(そこの次元では、それが在ると踏まえつつも…)
上次元では善悪二元では無い、
とそのように感じているのですが。

違うのですかね。二元論で語っていらっしゃる??

表象・知覚を成立させている上位のシステム自体に
意識が交差し、それが顕在化すると、
下位では二元論的に見えていたものが、
そうでは無いと…、そうなるのではなかったのかな〜

と、ここまで書いていてハタと気づくワタシ…
こんなに「二元論や否や!?」に拘っているワタシって
やっぱり強烈なる二元論的次元意識の持ち主なのね…
トホホ。です。
タワクシのような二元論の意識には、
何でもかんでも二元論に見えてきますよ〜 
コマッタナ〜 ワタシったら…(汗)

kohsenさん、「聖火…」へのレス、真にありがとうございます。
中途半端のゴンゲ(笑)みたいなワタクシには
大変耳が痛い一言でしたよ〜
kohsenさんは骨太の方だと、初めて認識致しました。
チュウトハンパ道だけは極めようかな…冗談です(涙)

ブログ読ませて頂きます。

No.146 - 2008/04/29(Tue) 00:25:44

Re: 素朴な疑問 / Ricardo [関東] [30代] [ Mail ]
ちょっと違う視点になるかもしれませんが。
人間は視覚の肉体的構造上、物質の本質を見る事ができない構造になっているんじゃないかと、私は考えています。

光自体は様々な波長帯域がありますが、光自体に「色」は無く、生物がその光を感受した際に、どの波長は何色、の様に認識して知覚しているそうです。
まさに文字通り色眼鏡をかけて世界を見ている様です。

また、視細胞の中には特定の形状だけを認識する何種類かの視細胞があるそうで、これも感受した世界の光景の中において、特定の形状の組み合わせで視野の中に見えるモノを認識していることになります。
モノそのものではなく、擬似的に類似形状の組み合わせで認識している可能性があるということでは、モノ自体が見えていないともとれます。

同様に心理学上?も、意識上認識していないものは見えている世界の中にその姿があっても知覚できない実験結果もあるようです。

またソフトウェア考古学という分野を作ったジュリアン・ジェインズ(「神々の沈黙」)の、「比喩としての言語」の発達が世界の描写としての心理的比喩世界を人間の内面にも作り上げ人間の精神構造もそれに伴って変わってきたとする説も、人間の知覚を豊かにしてきたと見る見方の後押しとして解釈できます。

私としては、実際に見ているのに見えていない物質世界と主観との関係性をイデア論的に説こうとするヌース理論はなじみ易いように感じています。


DIEFORさんの言う建築デザインとその後の利用者におけるプログラムエラーについても、デザイナーの経験値たっぷりの主観と、利用者の経験値たっぷりの主観とが、まったく独立して確固たる「主観」として隔絶されていることの証明ではないかと思います。

kohsenさんは、表象とモノ自体を二項対立のようにとらえているようには、私は思いませんよ。
シリウス革命でも、いろいろな二つのものが精巧に織り込み合ってこの豊かな自然世界をつくりあっている、といったような記述もあったように思います。
ψとΩで表記されているヌース理論も、Ωの中にψが織り込まれ、ψの中にもΩが織り込まれている構造だとの解説もあったように思います。

確かに表象の豊かさは奥行き深いものを感じますが、もう少しDIEFORさんの考えも聞いてみたいところです。

横やり、すいません。

No.147 - 2008/04/29(Tue) 02:22:08

Re: 素朴な疑問 / 半田広宣 [九州] [50代] [ Mail ]
ラ・ムー子さん、Ricardoさん、ご意見ありがとうございます。ここはヌース理論の全体像を哲学の言葉で紹介するいい機会なので、このままdieforくんとの議論を続けさせていただきますね。

 現象学の話が出ていたので、まずは現象学の筋道で話してみるね。
 現象学的に実存の場と言った場合、それは内在的なものでも超越的なものでもないよね。まずは「現象するもの」が超越としてあり、次に「現象を見て取るもの」が内在としてあり、そして、そうした「現象するもの」と「現象を見て取るもの」とが、今度は「現象すること」そのものとして超越論的にある。dieforくんが問題としているのも、この「現象すること、現に今、こうして現象していること」における此のもの性のことだと思う。実際、フッサールはこの現象することそのものを超越論的自我(現象学的実存)と置いていたよね。で、この種の実存に立ち入るためには、内在における超越なんてものがどうして可能となるのかが問題とされなくちゃいけない。フッサールが構造分析で辛抱強く進めていった思考もそうした問題意識から出たものだったよね。実際、dieforくんが経験の一回性というときの、その経験とは内在が超越に触れることそのもののことを言っているんだよね。(ここでまた内在と超越という言葉を使用したことを二元論だと批判されちゃうかもしれないけど、現象学の文脈で話しているのでご容赦を)

 でね。この「経験の一回性」というやつなんだけど、これを問うことは、言葉を変えれば「今」の発生を問うことでもあると思うんだ。実存はいつ何時であれ「今」であるわけだから、結局のところ、経験の一回性というものは表象に共存している永遠のことを指して言っていると考えられる。西田の言う絶対矛盾的自己同一というやつだ。「今」の中では永遠と一瞬は区別不能なものとして同一化していて、このことは経験の一回性の背後に経験の全一性であるあたかも神のような存在が併存していることを示唆している。ヌースがいうプレアデスとオリオンだ。こう考えるとこれら二つのものの関係が単純な二元論なんかでは片付けられないことが分かるよね。と言って、これは一元論なんかでもない。敢えて言えば、グノーシス的一元論ってとこかな。

 言葉じゃ分かりにくいかもしれないので幾何学的比喩で簡単に説明してみるね。

経験の一回性と全一性の関係は、たとえば円環上に一点を打ったときに、その点を果たして一点と見るか二点と見るかという問題と似ている。一点と見る思考は円環が見えておらず、それは常に一回性の「一」の方を強調することになる。一方、円環全体を模索している思考は、この一点が円環の継ぎ目としての役割を果たすものでもあろうと思考している。端点と端点が同じ位置に重なっているわけだから、それは「二でもあるし一でもある」。さらに言えば、円環全体を射程に入れている思考はこの継ぎ目に対しても二通りの見方を用意している。それは端点と端点を最小距離として見るか、最大距離として見るかだ。僕がセイレーンの誘惑と呼んでいるのは、前者しか持っていない思考の方だ。さっきの言い方をすれば、内在と超越の関係性をその場でそのもの同士で一致させてしまうような思考。

>“ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし、その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれている”と考えています。

 たぶん、dieforくんと僕は同じことを言っているように思うのだけど、でも、ここでdieforくんに「同等に」と言わせているのは、この「内在と超越を、その場で、そのもの同士で、結んでいる思考」のように思えちゃうんだよね。もし、そうなら、ヌースの立ち位置からはやはりそれはセイレーンの誘惑の産物と言わざるを得ない。それが善いとか悪いとかを言っているのではなく、セイレーンが一体どうやって、表象そのものの中に入るというんだい?ってことなんだ。僕は「表象そのものの中に映し絵のように畳み込まれている」ところの当の実体は、ここで言っている最大距離の方だと思ってるから。

>ぼくは甘美で実りあるように見える豊かな表象が、実は極めてシンプルな幾何学的構造性によって置き換えられるようなそんな気がしているのです。真の抽象が具象の中からしか引き出されてこないように、表象のシステムは、真に表象と向かい合うことによってしか炙り出されてこないのではないかとぼくは思います。

これは全く同意見。まさにヌースがやりたいと思っていること。

No.148 - 2008/04/29(Tue) 03:50:50

Re: 素朴な疑問 / D I E F O R [九州] [20代] [ Home ] [ Mail ]
ラ・ムー子さま、Ricardoさま、そしてKohsen氏、それぞれ大変興味深い内容のコメントを頂き心より感謝申し上げます。

ぼくのような頭足らずでは、いまひとつ分からない部分もありましたが、Kohsen氏の円環における最小距離と最大距離のお話を聞いて、安易な二元論に囚われていたのはまさに自分自身であったと自覚しました。。。お恥ずかしい限りです。。。

どうも、経験の一回性に執着するあまりヌースが表象を邪見に扱っているというような穿った(誤った)見方をぼく自身がしていたようです。その中で、Kohsen氏にいささかご無礼なことを申し上げてしまったかもしれません。その点、どうかお許し下さい。

まだまだ勉強不足でいたらぬ点ばかりのぼくですが、これからも空間の問題について、些細なことでも納得しかねる部分や疑問に思うところがございましたらどんどん質問させて頂きたいと思っておりますゆえ、どうか末永くお付き合い頂けると幸いです。

なんてたって、空間はぼくのイデアの恋人なんです。笑
ぼくにとってあらゆる関心事は全て空間の問題に集約され、それは建築の問題として具現化してゆきます。
空間に秘められた暗号を紐解き、空間を再構成(建築)すること。それがぼくの生涯のテーマです。

No.149 - 2008/04/29(Tue) 12:26:07

Re: 素朴な疑問 / ふう [東海] [30代]
ずれレスかもしれませんが。

今日、外食をしているときに思ったのですが、私は、ある店が気に入ると、その店のメニューを全部食べないと気が済まないような衝動に襲われることがあります。

しかし、たとえそんなことをして、ある店のメニューを全部食べて、その店に関しては満足できたとしても、また別の店が気になったら、その店のメニューを全部食べたくなるのは必至で、結局、際限がないのです。

この、具体的経験の際限のなさが、セイレーンの誘惑かな、と、ふと思った次第です。

No.150 - 2008/04/29(Tue) 20:46:33

Re: 素朴な疑問 / ラ・ムー子 [関東] [ ]
D I E F O Rさん

今回の問いを発して頂いて感謝します。
kohsenさんの解説で、少なくとも自分の中での理解に
大変な進展あり!でした。

kohsenさん、ありがとうございます。
Ricardoさん、ありがとうございました。
ふうさんのコメントは、強度高めてくれました!

で、ハナから感じていたことなんですが…
D I E F O Rさんの、
言葉では言ってないけども言わんとしているところのモノが、
自分には、「同じ事を言っているように見えてた」ってことです。

>>“ぼくはその運動(表象のシステム=知覚)と、副産物としての表象は同等に扱われて然るべきだし、その運動の謎を紐解く鍵はまさに、表象そのものの中に映し絵のようにして畳み込まれている”と考えています。

>たぶん、dieforくんと僕は同じことを言っているように思うのだけど、

>>ぼくは甘美で実りあるように見える豊かな表象が、実は極めてシンプルな幾何学的構造性によって置き換えられるようなそんな気がしているのです。真の抽象が具象の中からしか引き出されてこないように、表象のシステムは、真に表象と向かい合うことによってしか炙り出されてこないのではないかとぼくは思います。

>これは全く同意見。まさにヌースがやりたいと思っていること。

って、kohsenさんが言われているように、
同じことを言わんとしているよな〜ってね、思っていました。

D I E F O Rさんと自分は、理論の理解では随分違いが…
マジ自分は頭脳が終わっている、というか始まってないし(汗)

建築が専門の理解のウサギさんと、
あそび人ののろのろカメ公。
ウサギさん、丸くて赤い果物を「これはりんごだ!」と。
カメ公は、「ナニ言っての!アップルでしょう…」とな。
そこに牛さんが登場、名をkonsenくんと言います(失礼!)
(そう、生協(PALシステム)の牛キャラ!ですね♪)
で、突然…パクッ!(果物を食べちゃった。)
(いえ、かみさまのお使いってことです、牛さんは…)

…そう、見て云々より、
食べたら、それら(りんごだアップルだ)が同じものって…
甘酸っぱい、しゃきしゃきした果物。

ウサギさんもカメ公も、同じ二元論に囚われの身です。
人間型ゲシュタルトくんとは、この際バイバイしましょうよ!
ご一緒させて下さいませ♪

追伸:kohsenさま、数々の失礼な発言をお詫びいたします。

D I E F O Rさんの
>どうも、経験の一回性に執着するあまりヌースが表象を邪見に扱っているというような穿った(誤った)見方をぼく自身がしていたようです。その中で、Kohsen氏にいささかご無礼なことを申し上げてしまったかもしれません。その点、どうかお許し下さい。

の発言には、武道を歩ませて頂いてきた者としては、
彼の後から、kohsen氏へお詫びを申し上げることになったことが、
大変恥ずかしく思います。
彼は、礼も義も持ち合わせた人物でした。
氏にも彼にも、皮肉ばかりいって、申し訳ありませんでした。

貴重な機会を頂きました。ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いもうしあげます。

No.151 - 2008/04/29(Tue) 22:34:43

Re: 素朴な疑問 / kohsen [九州] [ ]
ラ・ムー子さん、気にされることはありません。
文体はそのときどきの人の態(なり)ですから、いろいろと変化するのが当たり前です。ときに硬く、ときに柔らかく。ときに熱く、ときにクールに。ときに斜に構えて、ときに真正面を向いて。。七変化で行きましょう。

No.156 - 2008/05/01(Thu) 16:12:52
ちょうど / 白月 [関東] [40代] [ Mail ]
zankiさん

ちょうど一昨日にGREGG BRADEN さんという方のセミナーでウラジミール・
ポポニン博士の実験(人間のDNAが光子に直接影響を与えた現象)とハートマス研究所の実験(一定の感情がビーカー内のDNAに与えた影響)を紹介していました。
「引き寄せの法則」の作者が通訳をなさっていました。
少しは参考になるでしょうか・・・。

No.126 - 2008/04/24(Thu) 21:54:47

Re: ちょうど / zanki [関東] [40代] [ Home ]
 白月さんコメント本当に有難うございます。
マジで。

 でも、ココ、半田さんのブログなんで、私のブログ
においで頂きたく思います。幾分でもヌースがらみの
文面ならココでも良いかとは思いますが。

No.127 - 2008/04/24(Thu) 22:35:42

失礼しました。 / 白月 [関東] [ ]
zankiさん、半田さん、

失礼致しました。

心に浮かんだ最低限のことしか書かないので、いつも前後の説明がなく、
結果、ヌースの主旨からはずれております。
あと、返信や引用のシステムの基本自体がいまいちわかってないので、
この点、特に失礼致しております。ごめんなさい。

No.134 - 2008/04/26(Sat) 18:30:13

Re: ちょうど / kohsen [九州] [ ]
白月さん、ここは喫茶店ですから、あまり気にされることありませんよ。
No.140 - 2008/04/28(Mon) 14:52:20

Re: ちょうど / 白月 [関東] [ ]
kohsen 様

ありがとうございます。

でも、ここ、普通の喫茶店じゃなくて昔のジャズ喫茶の緊張感です。
(ヌースは70年代のMILESを聞いている時に私の中でイメージされている
世界を、理論で現していただいている感じです。)

またどうぞよろしくお願い致します。

No.152 - 2008/04/29(Tue) 23:33:14

Re: ちょうど / kohsen [九州] [50代]
Miles Davisかぁ。。。とても懐かしいです。僕が高校のときジャズ喫茶通いにハマって、当時、よく意味も分らないままリクエストを続けていたのが、Miles DavisのBitches Brewでした。あとライブ版で「アガルタ」てのもあったかな。。今、考えると、当時のマイルスって相当、来てたんですね。とにかく集まっているメンツがすごい。。Chick Corea、Wayne Shorter、John McLaughlin、etc…と、マイルス恐るべし。もう何十年も聴いていませんが、CDゲットしてみようかな。
No.153 - 2008/04/30(Wed) 17:18:04

Re: ちょうど / 白月 [関東] [ ]
kohsen 様

私はGET UP WITH IT がお気に入りでした。
ものすごく暑苦しい真夏の夜が、本当にクールになる、カオスになる、夜になる、光にのみこまれる、銀河や星が降り注ぐ、果てしのない地下に潜る、一つに集約されて、宇宙の隅々まで拡散する。まさに創造が起きている時の音。
「創造」を意図している音楽は今は聴きあたりません。
80年代以降の音楽家はみんな創造「的」止まりだなあと思えます。
最近でたThe Complete On The Corner Sessionsは良いらしいですが、
お高くて手がでません・・・。

kohsenさんがジャズ喫茶にはまっていたとは、なんか嬉しいです。
どうもありがとうございました!

No.154 - 2008/04/30(Wed) 21:56:50

Re: ちょうど / kohsen [九州] [ ]
GET UP WITH ITですか。
70年代ですね。
いずれにしろ、60年代後半から70年代半ばぐらいまでの音楽シーンはjazzもclassicもRockも、みんな活気がありましたね。全ジャンルが文字通りクロスオーバーして、一つのうねりを作り出していた感じがします。音楽で世界を変えてやる!!ってぐらいの活力がありましたね。今の音楽はよく知りませんが、やっぱり強度は落ちてるかな。。

No.155 - 2008/05/01(Thu) 16:02:10
祝・新サイト / zanki [関東] [40代] [ Home ]
 新サイト開設おめでとうございます。

 ところで、私事ですがこの度、甲状腺の悪性腫瘍
が発見されました。ヌース理論は、このような事態
に多少なりとも影響を及ぼすことのできる何かを持
ち合わせていますか?

No.93 - 2008/04/13(Sun) 21:57:49

Re: 祝・新サイト / シマ [関東] [30代] [ Mail ]
自分は半田さんじゃないですが、
理論じゃどうにもならないと思います。

http://www.nanasawasou.jp/

この七沢荘の社長さんが高レベルな気功術をマスターしているそうです。
ここで幾人も難病を直してもらったそうです。
アクセスしてみることをお勧めします!

No.94 - 2008/04/13(Sun) 22:30:05

Re: 祝・新サイト / zanki [関東] [40代] [ Home ]
 シマさん、速攻のレスありがとうございます。

 さっそくサイトをのぞいたら、なかなか面白そうな
温泉。しかも縄文気功というだけのことはあるオヤジ
さんの縄文チックなお顔。すごく行ってみたくなりま
した。しかもさほど遠くないし。

No.95 - 2008/04/13(Sun) 23:49:48

Re: 祝・新サイト / 半田広宣 [九州] [50代] [ Mail ]
zankiさん、こんにちは。
悪性の腫瘍ですか。。
それはご心配でしょうね。

ヌースの製品が腫瘍の治癒に役立った例はたくさんありますが、客観的にはっきりとした医学的データは残念ながらまだ出ていません。詳しいことは会社の方に電話して聞いてみて下さい。

No.100 - 2008/04/18(Fri) 02:16:08

Re: 祝・新サイト / zanki [ ]
半田さんレスありがとうございます。
 正直、お金や家族の事は心配ですが、
自分の生死に関しては何の心配もして
いません。むしろこの稀有な機会を何
かに役立てられないかとキョロキョロ
しています。

 ヌース製品ですが、「腫瘍をヌース
的に考察するとこうだから…、だから
ヌース製品が効果を示せる可能性があ
るよ。」というお話を聞きたかったの
ですが。

No.102 - 2008/04/18(Fri) 02:39:42

Re: 祝・新サイト / kohsen [九州] [50代]
>  ヌース製品ですが、「腫瘍をヌース
> 的に考察するとこうだから…、だから
> ヌース製品が効果を示せる可能性があ
> るよ。」というお話を聞きたかったの
> ですが。


ウラが何も取れていないので無責任な言い方しかできませんが、OCOT情報では、悪性腫瘍というのは中性子崩壊ととても深い関係にあるということでした。
中性子はヌースの言葉で言うと、ψ10の感性のカタチを意味しており、働きとしては自我の土台(感情を観察する位置のようなもの)となるものです。

感性は細胞レベルではRNAの活動とダイレクトに結びついており、感性が弱まるとRNAの情報伝搬に支障を来たし、細胞のホメオスタシスが低下するらしいのです。

感性は精神分析的には想像界的な領域に当たりますから、他者との情緒交換がうまくバランスを持って機能していないことが悪性腫瘍の本質的な原因だと考えられます。

人間の意識次元では感性=ψ10が先手に生まれ、そのあと思形=ψ9が形成されてきます。感性の力が迫害を受けてくるのは、これら両者の統合に入る位置においててのようです。

何かまたお聞きになりたいことがあれば、おっしゃって下さい。

No.103 - 2008/04/18(Fri) 12:56:43

Re: 祝・新サイト / zanki [ ]
興味深いレス有難うございます。

 極論すると、自身に問題ありと出ましたか。

 自覚の薄い自分の問題点を探るのはどうもめんどくさくて
後回しにしている事は否定できません。

 癌になったら外科ではなく、心療内科に行く時代がくるか
も知れませんね。

No.104 - 2008/04/18(Fri) 14:34:19

Re: 祝・新サイト / ラ・ムー子 [ ]
> 興味深いレス有難うございます。
>
>  極論すると、自身に問題ありと出ましたか。
>
>  自覚の薄い自分の問題点を探るのはどうもめんどくさくて
> 後回しにしている事は否定できません。
>
>  癌になったら外科ではなく、心療内科に行く時代がくるか
> も知れませんね。


zankiさんへ

それは既にそういう状態にあると思います。

私は以前「セラピスト」という肩書きで

癌の方と多く接してきましたが、

中には医者にかかりながら通う人

医者にはかかりたくないので通う人

様々でしたが

癌が縮んだり、消失したりする

そんな方も何十人も居ましたが

そうなる方と、そうならない方の

一番の違いは何だろう?という見方をしていけば

意識がどういう方向性に切り替わったか…

ということに行き着く、

そう経験してきて、自分では結論を出してます。

理論が人間の意識を変えることも度々見てきました

理論は認識を変え、認識は知覚(見方)を変える…

そういう意味で、ヌース理論を読み解くのも

お互いに、いいのではないかと思った次第です。


「世界には我と神しか居ない…」

子供の頃に、世界を見ていて理解するに至った…

そういう私の師(セラピストとしての)の言葉に、

ヌースの言わんとしている「等化」を感じました。

「世界は射影である」…ともお話しされていました。

ヒントは「量子力学の理論の中にある」、とも。

…相変わらず今日も、

人間型ゲシュタルトのままの自分ですが

認識が知覚を変える自己の変容を夢見て(笑)…

ヌース理論をまた繰り返し読んでいます。

No.107 - 2008/04/19(Sat) 23:42:21

Re: 祝・新サイト / zanki [関東] [40代]
ラ・ムー子さんはじめまして。

> 私は以前「セラピスト」という肩書きで

  一口にセラピストといっても色々ですが、精神科医
 ではないですよね。どのようなセラピスト?
  また、「以前」ということは、やめてしまわれた?
 せっかく意識と癌との関連を実感されたのになぜ?
 ヌースを読むよりその経験を重ねて、独自に探求され
 た方が面白い発見に辿り着けるのではないでしょうか。

> 意識がどういう方向性に切り替わったか…

  どう切り替えれば癌が消失するのですか?私は今、
 それを試してみる事ができるチャンスを得ているわけ
 ですから、是非とも知りたいですね。 

> そう経験してきて、自分では結論を出してます。

  その結論とは?


> そういう意味で、ヌース理論を読み解くのも

 ヌース理論そのものを読み解くのは、他ならぬ半田
 さん自身の仕事(使命?)なので、我々一般読者は
 読めば解かるという状態になってから読めばいいの
 では?勿論、途中の解読に参加して楽しむのもアリ
 でしょうが、まだまだ難解なままですから。  

No.109 - 2008/04/20(Sun) 22:30:37

Re: 祝・新サイト / ラ・ムー子 [ ]
zankiさんへ

お返事、ありがとうございます。

>   一口にセラピストといっても色々ですが、精神科医
>  ではないですよね。どのようなセラピスト?


ほんとに個人的な問題で(汗)、
言いたくないって項目なのですよ。
すみません、おゆるしを…

>   また、「以前」ということは、やめてしまわれた?

そうですね、やめている…不覚です。

>  せっかく意識と癌との関連を実感されたのになぜ?
>  ヌースを読むよりその経験を重ねて、独自に探求され
>  た方が面白い発見に辿り着けるのではないでしょうか。


続けることが、大変だったんですよね。私には。

「ヌースを読むより」って事ですが、
自分の中で感じるのは、「ヌース恐るべしっ!」
失礼(汗)…
ヌース理論が、それを目にする人間に働きかける
変容は、恐るべし、ですね。

ヌースとの出逢いは、その以前の役目(セラピスト)との、
最初の出逢いと、同じか
それ以上のインパクトがありました。
そのために、ヌース理論を、そのセラピストの
役割の最中に、持ち出すってのは…
「オマエ、イカン!!」ってなもんでして…。
自分でも、「それはやり方が違っちょるな〜」と…
段々、ヌースしてしまってきて、止めらんナイ(汗)
結果、一応組織ですからね…駄目ですよ…
このまま、ここに居られないってことで。

(そのほかにも色々事情がありましてね。汗)

>   どう切り替えれば癌が消失するのですか?私は今、
>  それを試してみる事ができるチャンスを得ているわけ
>  ですから、是非とも知りたいですね。 


エ〜それは
kohsenさんがお書きになっているように、
「…感性は…感情を観察する位置のようなもの)となるものです。
…感性は細胞レベルではRNAの活動とダイレクトに結びついており、感性が弱まるとRNAの情報伝搬に支障を来たし、細胞のホメオスタシスが低下するらしいのです。
感性は精神分析的には想像界的な領域に当たりますから、他者との情緒交換がうまくバランスを持って機能していないことが悪性腫瘍の本質的な原因…」

と書かれていますが、「他者との情緒交換がうまくバランスを持って機能」していないと、感性が弱まり、RNAの情報伝搬に支障を来たし、細胞のホメオスタシスが低下する、
そう読み解けます…
実に、ほんとにそうなんですよ。
癌が縮む方や、消失する方の意識の変容は
「他者との情緒交換がうまくバランスを持って機能」し始める変化であり、そういうことを目撃している、って事なのですね。
癌の存在自体は、位置がずれたその意識バランスを取る
為に、細胞組成が組み変わって、出現してくるもので、
平たく言うと「必要な」状態と言えるわけです。
他者との情緒交換がうまくないってことは、
あまり平たく言いたくないんですが、
アイツ嫌いやっ!とか?口もキキタクナイ!とか?
感情を自ら観察出来なくなって、暴走するままに…
とか、言えるかな…。
(個人的に、平たく言ってみたまでなので、
「他者との情緒交換がうまくバランスを持って機能」がうまいうまくないの解釈は、各々で、どうぞっ!(失礼)

>   その結論とは?

「意識がどういう方向性に切り替わったか…
ということに行き着く。」と言う結論ですよ。

自分としては、「どうしたら、上手くいくのか」という
考え方が殆ど無くてですね、
癌にかんして、変化と変化なし
(厳密に言えば、変化していないように見える変化ですよね)
が、どういう法則が背景にあったのか?という見方を
しているので、
「癌がどうやったろ消えますか?」という問いは、
実際本当に多く在ったのですが、
全てそこで話すことは、
「こういう意識、こういう概念をもって、こう行動したら
私たちはこうなり、
またああいう意識、ああいう概念で、ああ行動したら、
人間はみな、ああなって現れますよ…」
とお話ししてましたから。
その「法則」としてお伝えしていたところのものが
負荷、対化、等化、中和、負荷…
そのシステム、という感じで(これは個人的にですよ)
等化のチカラは、「善も悪も同じもの…」
という理解をウム、(それを「ちゅうしんを捉える」と…)
いうことで、進めていましたね。

>
> > そういう意味で、ヌース理論を読み解くのも
>
>  ヌース理論そのものを読み解くのは、他ならぬ半田
>  さん自身の仕事(使命?)なので、我々一般読者は
>  読めば解かるという状態になってから読めばいいの
>  では?勿論、途中の解読に参加して楽しむのもアリ
>  でしょうが、まだまだ難解なままですから。  


自分は「読み解く」という言葉を使いましたが…
自分の中での「読み解く」を読み解くと、
実体験を通じ、気づき始めたこと、
また師からの教え(殆ど理解できていませんけど…汗)
が、ことごとく、ヌース理論によって
トレースしていける(一致を見る)ことから、
それらを、実際に、
己の世界の、認識の変化から、知覚の変容へと
つなげていく作業のようなものでしょうか…
(それって、読み解くって言わないですか!?)

私は思うんです。
「ヌース理論ってものは、エンタだっ!!」って
いつもコウセンさんは叫ぶけど(失礼!)

「理論とはなんと生々しいものか…」

これは断じて、読み物なんかではないぞ〜(熱っ)と。

自分がヌースに感じるのは、
「その情報が、嘘か真か?」的な見なされ方とは
ブットンだまでに違っちゃってますから…
だから、解釈する対象では無くなってますね、マジで。

もう言わなくてもお分かりかと思うんですが、
自分はイワユル「ブットビ」なんですよ〜(汗)

よく他人からは「狂ってんじゃねーの?」とか…
(まあ、正気とは言えんな。)
エンタですからね。これは。

で、zankiさんに「お互いに」なんて、言ってしまいまして、ほんとうにごめんなさい。
主義に「巻き込みは厳禁」ですよね。
失礼しました。

訂正いたします。

ヌース、面白いですよ。
知覚正面としての人生の展開の陰と陽(二元性)を
等化(あ〜、なんだ、同じものジャン!)していく
ことにハマッてます。
で、(同じジャン!)という認識に至ると
病気、現象、等などが、一夜の間にも
変わって見えてくるから、
(所謂「チユ」「カイケツ」ってやつですね)
ヌースって面白いですね。

コウセンさん、
この理論は「生きてますよ〜!」
生命、存在の仕組みそのものですね!

zankiさん、お節介で、本当にごめんなさい。

No.112 - 2008/04/21(Mon) 00:41:33

Re: 祝・新サイト / zanki [関東] [40代]
 予想以上のいいレス来ちゃいましたね、半田さん!
こういう実感のこもった人の生で具体的な体験とヌース理論
のすり合わせをどんどんやっていって欲しいと思います。


 ラ・ムー子さん本当に丁寧な、そして貴重なレス有難うご
ざいました。楽しく、興味深く読ませて頂きました。他者に
対する配慮ある文面にむしろイラッとしてしまう自分に、こ
れが癌の原因かなと思ったりしました。
 
 しかし認識の変化が世界の変化?とすると、最近本屋で
百花繚乱の「引き寄せの法則」系の本は、ヌースと同じ事
を言っているのかも知れないと、ふと思いました。安っぽ
い流行と軽んじていましたが一読の価値はあるかも。
 

No.114 - 2008/04/21(Mon) 18:39:39

Re: 祝・新サイト / kohsen [九州] [50代]
ヌース理論に対する周囲の人たちの声というのは、その9割方がムズカシイ。。。難解。理解不能。そんなのばっかりですね。

僕自身、最近はそうした状況に慣れていたので、ラー・ムー子さんの意見をとてもうれしく思いました。

近々、大学で研究会を立ち上げる予定です。もちろん今までのエンタ路線を捨てるつもりはありませんが、本格的な骨太の理論構築も同時に進めて行くことになります。お楽しみに。

No.115 - 2008/04/21(Mon) 19:39:17

Re: 祝・新サイト / ラ・ムー子 [ ]
zankiさんへ

再びのレスを本当にありがとうございます。
はずかし〜です(汗)

私は思うのですが、ネットを長く使ってきて、
ここ数年は、ネットの空虚さがなんとも堪える感じが
していましたところ、カフェネプが再開して
zankiさん、そのほかの書き込みされる皆さんの
コトバを見ていたら、
生生しい感じが強く感じて、不思議というか
これもヌースかな〜っといった感じでして、
その中でも、今の今に、腫瘍を持っている状態で
発言をされるzankiさんに、
更に実を感じて、自分に火が付いたみたいです。
ここに「生」があるぞ〜!って言う感じ方です。
正直、お礼を言いたくて、
どうもありがとうございます。

それと、zankiさんの発言

楽しく、興味深く読ませて頂きました。他者に
> 対する配慮ある文面にむしろイラッとしてしまう自分に、こ
> れが癌の原因かなと思ったりしました。
>  

と書かれていますが、
この意識状態って、私のつたない経験から勝手申しますと、
感情を観察する意識の位置では?
と思っています。

>  しかし認識の変化が世界の変化?とすると、最近本屋で
> 百花繚乱の「引き寄せの法則」系の本は、ヌースと同じ事
> を言っているのかも知れないと、ふと思いました。安っぽ
> い流行と軽んじていましたが一読の価値はあるかも。
>  

安っぽい…同感でした!でした…と言いますのは、
「成功哲学」とか「思いが現実を変える」とか
昔?から多く在りますが、
私も「何じゃそんなもの、へっ!」って感じでした!
で、今は、そういう自分の見方はどうでもよくなって
その人々が、意識に顕在化が在ろうが無かろうが、
それを見る聞く関わる自分として、
そこに働いている法則(あれですね…ペンターブ)
がいかなものじゃ?ということに、意識が行く状態です。

以前、師がおっしゃっていたことの中に、師の師匠さんが
「修行者が、術の鍛錬に集中する姿を他人がみて、
「術の為の術など、程度が低い」などとぬかすのは、
笑止である。術を極めようと術の中に入っていくことも
出来ぬ者が、何を言うかと思う。」と、神霊が語るのだ、
とお話しされているから、
人間は、術の為の術で、それでいいのである。」と
言うことを、何度も聞かされました。
自分は、「高尚」を気取っていたので(汗)
鍛錬することが無くて、何も身につけられなくて
今となっては結構歯がゆい思いです。

思いは実現する系の本の内容も、
そこからエッセンスを抜き取ることは
意外に面白いものだな〜と、今は思っていたりします。

実現すること自体が中心では無いのですが、
(ってまだ高尚ぶってますね(冷汗)…)
それをトレースしていく先に、見えるナニモノか、
見たいですね〜、感じたいですね〜

zankiさん、理論の理解では自分はマジ「赤ん坊」です…
「ψってなに?」「記号の意味が解ら〜ん」って
感じでして(もう出逢いから10年以上なのに!(汗)
トホホ…ムズカシイヨッ!あっ言っちゃった!)
ですが、「生で具体的な体験とヌース理論のすり
合わせ」ってところで、楽しくてしょうがない!
おかげさまで、楽しさの程度がアップしてきてます。

kousenさん
レスを頂きまして、ありがとうございます。

>近々、大学で研究会を立ち上げる予定です。もちろん今ま>でのエンタ路線を捨てるつもりはありませんが、本格的な>骨太の理論構築も同時に進めて行くことになります。お楽>しみに。

ふふふ…自分は今、東京都調布市に住んでいるのです。
コウセンさんが、大学で教鞭を取られる?!
はいっ、行きますよ〜!(笑)
過去のセミナーには、何度出ようとしても、
出れない…の連続でした。
以前の、セラピストをしていたってことも在るのですが、
その時点では、「何か動かせないモノ」を感じていました。

どうも自分は「ふしぎちゃん」的なヤツみたいで、
霊能者とかヒーラーという方々が
やってきては、「貴方は実はコレコレで!」とか
「貴方はちょっと違うんです!」とか言われて、
それで図に乗りまして…
その後、トホホなヤツになったのですが。(アフォ〜)
いや、元々アフォ〜なヤツなんですが…
で、頭ではずっとこれ(セラピスト)をやろうと、
そう思うのですが、
全く違うトコロ(としかいいようが無いのですが…)
では、「変わらざるえないよ〜」って、感じでした。

それで、今はまるで違う生活になってしまったのですが、
どうも、自分の子供の頃からの時間の感覚は
「未来から過去に…」って感じの流れなので、
そこに行き着くから、今がこのように展開している、
そういう感じなんです。

いけなかったヌースセミナー。
これから始まるヌースの研究会。
自分は骨太とは言いがたいですが、
骨太な世界に飛び込んだ(玉砕した!)経験から、
(エンタ路線で)楽しませて頂きたく、
これから、よろしくお願い致します。

No.117 - 2008/04/21(Mon) 23:24:50

「大学で研究会」? / Φ=WHY? [ ]
コウセンさん、こんにちは。

「大学で研究会」って、某M大内で行われるのですか?

どんな形式でどんなふうに行われるんでしょうか?また、ヌース理論のどの辺りの範囲を扱われるのでしょうか?テキストは以前途中まで作成されたものとか使われるのでしょうか?

ちょっと興味津々です。

No.118 - 2008/04/22(Tue) 10:32:08

Re: 祝・新サイト / kohsen [九州] [50代]
Φさん、こんにちは。
研究会の活動内容はまだ具体的に詰めてはいないので、はっきりとは言えませんが、研究会の名称は「科学哲学・社会哲学研究会(仮称)」とし、現在、T学長に計画を進めていただいています。

研究題目は「人間の意識に関する基礎問題への科学哲学並びに社会哲学的研究」です。

活動計画としては、紀要の発行や、研究発表会、シンポジウム等を行なっていく予定です。

研究会への参加は一般からも広く募っていく予定ですので、Φさんも参加されたらいかがでしょう。まぁ、のんびりした活動になると思いますが、夏頃にはスタートできると思います。

No.119 - 2008/04/22(Tue) 17:42:41

Re: 祝・新サイト / Ricardo [関東] [30代] [ Mail ]
kohsenさん、某M大学での研究会、楽しみです!
私は関東の東なので、若干遠いですが、九州よりは遥かに近いので、是非参加したいです!
それ以外に都内でのレクチャーの予定は無いでしょうか?
ちなみに研究会やレクチャーって今までどの様な日程で実施されてましたか?
平日日中だと仕事があるので、参加したくても参加できませんので・・・。

No.129 - 2008/04/25(Fri) 09:25:23

Re: 祝・新サイト / kohsen [九州] [ ]
Ricardoさん、どうも。研究会は8月ぐらいから活動に入る予定ですが、最初は紀要の作成から入る予定です。こちらはお行儀よくやっていかないといけない場なので、慎重に進行させていくと思います(ヌースという言葉は出せないってことです)。

レクチャーの方はヌースアカデメイアでやる予定です。
東京レクチャー、秋ぐらいからかなぁ。。

>ちなみに研究会やレクチャーって今までどの様な日程で実施されてましたか?

だいたい土曜日か、日曜日です。月に一回ですね。

No.144 - 2008/04/28(Mon) 18:56:18
エンタメと聖火とオリンピック / ラ・ムー子 [関東] [40代]
kohsenさん

「エンタメと聖火とオリンピック」

聖火が大騒ぎですが…
世界中でこのようなことが起きるのを見ると
どういう意識の反映じゃい?
と探りを入れたくなりますよ(笑)

普通、街中を火をつけたまま走ったら
問答無用にサツのご厄介だったりしますが…

そんな聖火ですが、ニュースを見ていて、は〜っと
思ったことは、「市民って意外に参加したがるのね…」
ってコトでした。

ここ十数年、ヌースに関わって
エンタメという言い方が選ばれ、使われてみて、
今度はまた、その「エンタ路線」というコトバに、
人によって様々な受け止め方があることに
最近気づくのです…

それで、オリンピックと聖火ランナーの騒ぎに、
エンタに対する人々の受け止め方の相違を感じます。

(…オリンピックは多少見るのですが)
スポーツというのは好んで見たことがありません。
スポーツというもの、オリンピックと言うものは、
私の師がお話しされていたのは、
「幼稚な、国対抗の戦争ゲームである。」ってことでした。
それで、偽りの平和が保たれるという存在意義が
そこには在ると。

なるほど…戦争を基本に生きている人間次元ですと
バーチャルウォーがバランサーとして機能しているよな。

スポーツを観戦などしても、
(…負けた方は可愛そうに…)などと、善人ぶっている
自分ですが、楽しめたことがないというのは事実。

それで、文明国での「大人の」エンタというのは、
自分はそれを直に行うのではなく、
観戦して熱狂する…危険のない程度に片足突っ込んだ感じ。
それが、大人にとってのエンタだと。
私にはそのように見えている。

子供にとってのエンタは?
それは、「それになりきること」、と思いました。
見てるだけ、なんていうのは子供のエンタにはない。

聖火は、見てるだけかと思いきや…
何とか参加しようと躍起になっている。
言わば、仮想戦争の宣戦布告でしょうに…
「やりまっせ〜今から!あんたんとこと!センソウ!」

人類は、これから戦争に突入するんですね…
中国に起きていることは、人類(オレもや〜)の
意識に起きていることと同じ。

それで…
人類が大人のエンタでヌースを捉えていると?
ヌースの面白さ(エンタ)は、実のところさっぱり??…
ってコトになるかな〜、と自他共に心配しています。

ヌース理論でのお遊び(エンタ)は、子供のように…

(戦争も遊びの次元でお願いしたい。)
って言っても、自分に人間型ゲシュタルトがある限り
当然起きてくる。アイツをやっつけろ〜!

最新の書き込みのhirokoさんのように、
本当にお困りになっている方が、
藁をもすがる状態を経験して、
ヌースに縁が付いてきた、不思議。
過度の期待を持たせることは出来ないですが…

人間型ゲシュタルトがワタシから蒸発すると、
hirokoさんが、言葉の奥底で欲している状態に、
行き着くことになるんだろうな、と感じています。

人間の持つ苦悩こもごもを、
氷解させて(=人間型ゲシュタルトの解体)いくこと、
それがヌースセオリーだと、カクシンしてます。

ヌース理論は生きたものだと思うという私の主張?も、
子供になって遊んでみないことにはダメかな〜っと。
kohsenさん、もっと遊ばせて下さい。お手柔らかに…

No.136 - 2008/04/28(Mon) 00:48:47

Re: エンタメと聖火とオリンピック / kohsen [九州] [ ]
聖火ランナーがその国々の警察官に守られながら走る――子供の頃には想像もできなかった光景ですね。最近は、国家や政治のみならず、教育であれ、産業であれ、家族関係であれ、これまで社会の成り立ちを維持してきた人間自身のインフラストラクチャーの瓦解が至るところで起こっていますね。その煽りを食ってか、自我までもが己の存在をウソっぽく感じてきて、自身に対してもまたアイロニカルな没入を決め込んでいるフシがあります。。。メディアに踊らされない自分固有の価値観を心の最深部に作り上げることが人生の密度を高めるための唯一の方法であることは百も承知しているものの、これがまたほんとに難しい。中途半端に勉強して、中途半端にお金を稼いで、中途半端に不平不満を言って、中途半端に愛を貫いて、結局のところ、中途半端に死んで行く。とにかく一つだけでいいから、これだけは絶対に中途半端にはやらないぞ、というジャンルを持つといいのかな。僕の場合は、ヌースがそれに当たります。最近のエンタメは衝動に訴えかけるものが多くて、今ひとつ面白みに欠けますね。やっぱりエンタメは人の欲望に働きかけないとダメですね。その射程となる欲望の領域が深ければ深いほどエンタメは持続性を持ち、エバーグリーンとなります。真のエンタメというものはそう簡単には消費させてくれないわけです。ヌースを最近流行の一発芸にしないためにも、日々これ精進あるのみです(^^。
No.139 - 2008/04/28(Mon) 14:49:26
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