 | 私の父は私が生まれる前 既に戦死 母は幼い姉と私を裁縫一筋で育てました 超貧乏時代でしたね
高校進学の時、姉は私より優秀だったのに さっさと中学卒業して 「弟を大学へ進学させるべき」と粗末なわら半紙に 書いていました 見せられた私は家が超貧乏な事を悟り それまで勉強なんかで他人と競争するなんて アホかみたいな感覚でした その私が密かに猛勉強を始めるきっかけとなりました
しかし数学の先生と親しかったのですが 進学の相談で夜遅くまで話し合い 私は母だけなら兎も角 姉まで犠牲に大学へは 行きたくなかった心境を話しました
結局、早く就職して働くには技術を身に着けるのが早道 そして工業高校の弱電を選択した
これは結果的には今思うにまずかったカモ 先生から愛知県では全体で私は5番の成績だった事を 知らされました 好きだった数学の道を選んでおけば全く違う世界が 拡がっていったのにと後悔してます
大学卒の人間に対しては物凄い敵対心を持っていましたね こんな連中に俺は負けんぞとばかり突っ張っていた 若かりし頃の苦い思い出 ハハハ
今では全くありませんが・・・
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No.7096 - 2023/11/13(Mon) 10:43:27
| ☆ 戦後世代 / 冬子:管理人 [四国]  | | |  | 私はいわゆるベビーブーム世代です。幸い父は復員して来て(養子なので)母の両親と7人暮らしの貧しい方の一般庶民でした。 当時は女子はまだ大学に普通に行く時代では無かったので、高校時当然のように就職希望。ただ全く世間知らずの私は父のような銀行員になりたくて、別の大手銀行を受けてあっさり落ちました。
何で私が落とされるの?と腹を立て、じゃあ大学に行く!と、県立短大は受かりましたが、国立大希望。 当時の国立は年間授業料¥12,000(高校の半額)でしたから、地元ならと甘い父の許しをもらいました。その頃、甲府でしたが、初めて出来たばかりの予備校に入ったものの、ノウハウまるで合わず、自宅浪人。次に転勤で松山。予備校なんてまるで無かった時代で、自宅浪人2年目。
働きながら夜間大学を出た父にしてみれば、(弟2人も居たのに)大好きな娘の我がままを許してくれたんでしょう。ありがたかったです。
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No.7097 - 2023/11/14(Tue) 16:01:24 |
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