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記事No.17に関するスレッドです

天安門事件から18年 初の追悼式に潜む思惑 / 王進忠
天安門事件から18年 初の追悼式に潜む思惑北京は4日、民主化運動を武力鎮圧した天安門事件から18年を迎えた。中国当局は今年、事件後初めて遺族らに対する監視を緩和し現場でささやかな追悼式を許可した。五輪開催を来年に控え、胡錦濤政権の対外イメージを改善したい思惑が背景にあるようだ。(北京 矢板明夫)

 3日午後10時すぎ、雨があがった。北京の夜は蒸し暑い。市西部の地下鉄・木●(=木へんに犀)地(もくせいち)駅近くの植え込みのそばに、数人の老人たちが黙々と何枚かの遺影を飾って簡単な祭壇をつくり、花束、果物、ビールなどを手向けた。ろうそくに火を灯すと、抱き合いながら泣き崩れた。

 1989年6月3日夜、戒厳部隊はこの場所で学生と市民に向けて発砲し、多くの犠牲者が出た。元大学教師の丁子霖(ていしりん)さん(70)の高校生だった一人息子=当時(17)=も近くで背中から心臓を撃ち抜かれ死んだ。

 丁さんはこれまで約200人の犠牲者の遺族を自力で探し出し、遺族会「天安門の母」を発足させた。このため、当局から嫌がらせを受け続けた。厳しい監視下に置かれ、買い物にも自由に出かけられなかった。

 先月31日、公安機関の幹部が丁さん宅を訪ね、「これからは自宅周辺の見張りを撤収する。今年の記念日は息子さんを弔ってもよい」と告げられた。遺族による追悼式が初めて許可された。

 大学生だった長男=当時(20)=を亡くしたシンクタンク研究員の徐●(=王へんに玉)(じょかく)さん(68)の自宅周辺からも、毎年6月4日の前には必ず複数見かけた制服警官の姿が消えた。遺族たちは当局の対応の変化に戸惑いを隠せない。徐さんは追悼式に出かける際、身柄拘束を覚悟し、持病の糖尿病の薬1週間分をかばんにしのばせたという。

 追悼式への参加を直前に取りやめた遺族や花束を供えてすぐ立ち去る遺族の姿もあった。約40分の追悼式の間、30〜40メートル離れたところに、私服警官とみられる黒いズボン姿の男数人が会場の様子を眺め、時々、携帯電話で連絡を取っていた。
 追悼式が終わった後、徐さんは「(当局の拘束が)怖くてこられなかった人もたくさんいた。来年はもっと参加者が増えると思う」と語った。

 天安門事件当時、民主化運動にかかわり懲役刑に服した評論家の劉暁波氏(51)に対する当局の監視も最近、緩和されたという。劉氏は自宅で産経新聞の取材に「事件は国際社会の関心を集めている。当時の指導者はみな引退した今、締め付けをやわらげることで政権のイメージアップを図っている」と語った。

 しかし、貧富格差や腐敗問題に対する国民の不満が民主化運動の再燃につながることを恐れる現政権に、事件の再評価に踏み出す動きは見えない。再評価は必ず責任問題に発展し、共産党体制の正当性が問われかねないためだ。劉氏は「現政権の下で、再検証の動きは絶対にないだろう」と分析する。

 70年代に共産党政権を批判したとして約20年間投獄され中国民主化のシンボルになった魏京生氏(57)が2日、日本当局に入国を拒否されたことについて、劉氏は「時代の流れと逆行する判断だと思う。アジアの民主主義大国として日本からの応援を期待しているだけに残念でならない」と語った。
                   ◇
【用語解説】天安門事件
 1989年4月15日、急死した中国共産党の改革派指導者胡耀邦氏の追悼集会を契機に、北京の大学生らは市中心部の天安門広場でデモを繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開した。トウ小平氏ら指導部は運動を「動乱」と断じ、6月3日夜から4日未明にかけて、軍を動員して広場を制圧し、少なくとも数百人の死者が出た。事件後、学生らに同情的だった趙紫陽総書記が解任され、後任には江沢民氏が就いた。
天安門事件は風化したか 「中国復帰」に手を貸した日欧米
きょうは天安門事件の18周年。さすがに18回目ともなると、事件の印象がかなり色褪(あ)せてきて、日本はおろか、欧米のメディアもほとんど報道しなくなった。もう忘却の彼方(かなた)に追いやられるのは時間の問題だ。

 私は1989年4月から7月までの3カ月間、北京に滞在し、事件のきっかけになった学生の民主化運動の高まりから中国人民解放軍の出動、民主化運動の鎮圧、江沢民・新指導部の発足などの政治的収拾まで、ほぼ始めから終わりまで現場で見てきたので、天安門事件については人一倍感慨深いものがある。

 この時期になると、引き出しの奥にしまっていた宝物を取り出して眺めるようにして、「また6月4日がめぐってきた。あの民主化運動は何だったのだろうか」という思いに耽(ふけ)ってしまう。

 天安門広場に集結していた学生らをめがけて、軍が突入し、市民らと激しい衝突を繰り返した翌日の6月4日早朝、私は歩いて裏道を通り、衝突の現場となった北京市中心部に入った。この間、軍に石を投げつける数十人の市民や歩道橋に吊(つ)るされた兵士の黒こげ死体なども目撃した。

 「胡同(フートン)」と呼ばれる横丁を通って、民家の庭を突っ切ったときに、日本の自動車会社に勤務しているという中年男性に「日本の記者ですか」と呼び止められた。「そうです」と言うと、その男性は「罪もない学生に向かって銃を撃った。もう中国は終わりだ」とつぶやいていた。

 とはいえ、この男性が語ったように「中国は終わりだ」とはならなかったことは周知の通り。逆に、その後すさまじい高度成長を遂げて、経済大国の座に駆け上っている。

 時折、事件の「再評価」を期待する報道にもお目にかけるけれども、客観的にみて、そうならないに違いない。現在の中国指導部は天安門事件の受益者だからだ。逆に言えば、事件を再評価しても、何も得るものがないからだ。

 中国は事件直後、日本や欧米諸国による国際制裁で孤立したが、欧米に先駆けていち早く日本が制裁解除を打ち出すと、欧米も「右に倣(なら)え」で、制裁を解除し中国は国際社会に復帰した。

 「中国を孤立させれば、再び暴挙を繰り返しかねない。そうならないためにも、中国の国際社会復帰は必要だ」と当時叫ばれたが、実際のところ、各国とも中国市場を放置していれば、損をするのは自分の方だったからだ。天安門事件という暴挙を許したのは、制裁を科した日本や欧米諸国に他ならない。いまや事件に言及する欧米の指導者はだれもいない。

 かくして、天安門事件の思い出を後生大事に抱えているのは私のようなロートル記者ばかりというのが現実だ。(相馬勝)
活動家を拘束・軟禁 天安門事件18周年控え≪北京五輪へ締め付け強化≫

 【北京=野口東秀】中国の民主化運動を弾圧した1989年6月4日の天安門事件から18周年を迎えるのを前に、中国当局が民主・人権運動関係者への締め付けを強めている。事件で軍に銃撃されて左足を失った人権活動家の誕生会は、参加予定の活動家ら約100人が軟禁されるなどで中止となった。別の民主活動家は18日、欧州に渡航しようとして拘束された。当局者は北京五輪を前に、中国の「負のイメージ」が海外で広がることを懸念したという。

 人権活動家、斉志勇氏(51)の誕生会は15日午前10時、北京市内のレストラン「宏声」で、天安門事件当時の仲間や活動家、地方からの陳情者らを招いて開かれる予定だった。しかし、14日午後になって「外出できない」とのメールが斉氏の携帯に次々と届いた。斉氏によると、30〜50人がそれぞれの自宅で軟禁されたほか、レストランに着いた数十人も中に入ることを阻止された。

 斉氏の自宅玄関には4人の当局者が立ちふさがり、法的根拠も示さず、「あなたは自由に行動できない」と告げた。今も斉氏だけでなく、他の活動家も監視されているようだ。

 一方、民主活動家の胡佳氏(33)は18日朝、妻とともにフランスなど欧州5カ国を回るため北京市内の自宅を出ようとしたところ突然、拘束された。同日夕方には釈放されたが、自宅前には公安当局者が陣取っているという。

 胡氏は、欧州でこれまでの軟禁の様子などを撮影したビデオを公開する予定だった。当局者は「こういうものを海外で発表すれば中国のイメージを損なう」と告げたという。胡氏は、人権派元弁護士として有名な高智晟氏(42)を支援していたことでも知られる。

 斉氏は89年6月4日未明、学生が陣取る天安門広場近くの路地で、軍が発砲した2発の銃弾を足に受け、手当ての遅れなどから左足を切断した。

 斉氏も、高元弁護士の活動を支援している。しかし、一昨年には、自宅に押し入った身元不明の複数の男に暴行され、肋骨(ろっこつ)を折る大けがを負った。今も、拘束や軟禁が繰り返されているという。
安東 幹(あんどう かん)の主張 (一人新聞電子版)を転載

平成19年5月5日

日比谷図書館でセキュリティ産業新聞などを読む。

北朝鮮、中国、ロシアなどからどうやって機密情報を守るのかとか、

日本の安全保障に関する論文がある。

一般国民の知らないところで、警備員などは勉強して、

お国のためにがんばっている。

国民のみなさまのご支援を。



広告募集のお知らせ

このたび、安東 幹(あんどう かん)は、『今、中国の民主化をする時』(原稿用紙約300枚)を、ネット上で公表することにいたしました。昨今の紙の出版事情の悪化により、ネット上の出版に踏み切ったものです。

この論文の中には、安東さんも参加した昨年のベルリンでの「アジアと中国の民主化世界フォーラム」の様子が描かれているのはもちろんのこと、著名な民主活動家の薛偉さん、費良勇さん、盛雪さん、王万星さん、そして博大書店の社長からの、日本のみなさまへのメッセージが含まれています。

この本は、世界の独裁主義国家のリーダーである中国共産党を打倒し、世界に自由と民主主義を実現し、台湾の自由と民主主義を守り、さらに、日本の誇りある歴史と伝統と文化を守ろうというものです。

よろしければ、この本のインターネットのページへの広告をお願い致します。一口、1000円です。スペースは、一口で名刺ほどの大きさです。ただし、内容を、時に応じて変えることができます。掲載の順序は、口数の多いものが優先で、口数が同じ場合は先着順となります。

どうか、資金の乏しい安東さんを支え育てるためにも、ご寄付をお願い致します。




また、同時に『想像を絶する北朝鮮の人権弾圧』もネットにアップいたします。こちらの方への広告も募集いたします。

予定URL(現在も草稿が見れます)

中国民主化 http://www7b.biglobe.ne.jp/~kanando/book/chinademocratization.html

北朝鮮人権弾圧 http://www7b.biglobe.ne.jp/~kanando/book/nkhr.html

広告代金払い込み先(貴殿の連絡先を明記してください)

郵便振替 00120−8−354501 加入者名 安東幹

安東 幹さん実績

著作『日本共産党に強制収容所』日新報道

  『誰も書かなかった中国の人権抑圧』日新報道

論文「私たちが体験した共産党の強制収容所列島(兵本達吉氏との対談)」『正論』平成12年4月号

  「変な病名で邪魔者を隔離する中国政府の人権蹂躙」『正論』平成14年12月号

  「共産党系医療団体『民医連』の実態」『正論』平成15年3月号

  「独立へ一歩踏み出した中国、ウイグル民族の覚悟」『正論』平成17年4月号

  「中国の靖国攻撃を封じる最良の方法」『正論』平成18年9月号

  「日本で反日をあおる中国語新聞の捏造記事」『WiLL』平成18年11月号

  「共産党系医療集団『民医連』の実態とは」『月刊自由民主』平成15年4月号

  「日本の人権運動は狂っている」『自由』平成16年5月号

  「日本精神神経学会は日本共産党系精神科医をただちに除名せよ!!」『月刊日本』平成15年3月号

  「日本共産党に強制収容所」『月曜評論』平成15年9月号・10月号

  

テレビ出演 日本文化チャンネル桜 報道ワイド日本 平成17年3月21日

      日本文化チャンネル桜 報道ワイド日本 平成18年7月3日

      日本文化チャンネル桜 報道ワイド日本 平成19年2月

      日本文化チャンネル桜 防人の道    平成19年3月23日

また、安東さんは5月より連続して杉並区の地域センターなどで学習会開催いたします。第一回目は、5月26日(土)夜(産業商工会館)「共産主義の犯罪を考える。告発本「悲しみの収穫」スターリンのウクライナ大虐殺に触れて」、第二回6月30日(土)夜(阿佐ヶ谷地域区民センター「日本の保守派が女性を守る」、・・・以下毎月最終土曜日開催予定です。資料代など1000円です。よろしくお願い致します。

連絡先 安東 幹 〒166−0011 東京都杉並区梅里2−30−9

080−3396−2993 kanandoj@yahoo.co.jp

安東幹のホームページ

http://www.geocities.jp/kanandoj/

共産主義犠牲者博物館

http://www.geocities.jp/communismmuseum

中国人権インターネットセンター

http://www.geocities.jp/humanrightsinchinachina/

北朝鮮人権インターネットセンター

http://www.geocities.jp/humanrightsinnknknk

日本共産党退党センター

http://life.45.kg/jcp/index.html

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[社説]新世紀考 アジア 中国の民主化は不可避だ
 
 「千里の目を窮めん(きわめん)と欲して、更に上る一層の楼」という。高みに立てば、遠くを見通すことができる。アジアと日本の軌跡も、21世紀から振り返ると全体像が見える。
 19世紀、アジアは西欧列強の植民地となった。さいわい日本は、明治維新に成功して独立を保ち、近代化へと歩みだした。
 アヘン戦争以来、西欧列強によって半植民地状態となった中国から多くの若者が日本にきた。「国を救うには維新しかない。維新をするには外国に学ばなくてはならない。(略)中国人は、西欧に学んで成果を収めた日本人から学ぼうと思った」(毛沢東「人民民主専制を論ず」)。孫文ら革命家は日本に集まり、宮崎滔天ら日本人と親交を結んだ。
 だが20世紀に入ると、日本の近代化は、軍国主義へと向かった。
 中華民国の初代総統となった孫文は「中国革命は、もともと明治維新と一連のものであり、目的はアジアの復興である。それなのに日本はヨーロッパに追随して中国に危害を加えていいものでしょうか」(犬養毅あて書簡)と諫めた(いさめた)。中国と日本と、そして英国からの独立を目指すインドが手をつなぐべきだという「大アジア主義」を説いた。日本の指導者は耳を貸さず、泥沼の戦争に国民を引きずり込んで自滅した。
 20世紀半ば、日本は「主権在民」、すなわち民主主義を国是として再出発した。敗戦の結果だったが、日本はアジアで最も早く民主主義体制を整え、高度成長を達成した。
 アジア各地の植民地も次々に独立したが、民族主義の高揚の陰で政治は独裁的だった。しかし韓国、タイ、フィリピンなどから徐々に民主化の流れが起きた。
 台湾は、無血で民主化をなしとげたが、インドネシアは独裁体制を倒すために市民の血が流れた。形はさまざまだが、21世紀のアジアは独裁的政治から脱して、民主化と人権尊重へ向かう流れの上にある。
 なかでも、大きな試練が待ち受けているのが中国である。13億の人口と、アジア最大の陸軍と、アジア第2の経済力を持つ中国が、大きな混乱なしに民主化を進めることができるのかどうか。
 ソ連の共産党一党独裁体制は70年余りで崩壊した。中国も共産党支配体制はすでに50年余りを経た。
 1989年の天安門事件では、民主化運動を戦車で鎮圧し、危機を乗り切る一方で、市場主義経済を導入して大衆の欲望を解放した。その結果は、権力を握る共産党員がその毒に感染し、汚職がまん延した。権力の腐敗は、民主化を求める声をまた呼び覚ましている。
 インターネットの普及で、政府による情報統制が難しくなった。民主社会を体験した留学生が外国から帰国して社会の中核を占めるようになると、意識の変化はさらに早まる。政治改革をあまり急げば安定を失うかもしれない。押さえつければ不満が爆発するだろう。どちらにしても中国が混乱すれば、影響はアジア全体に及ぶ。
 中国が試練を乗りこえて民主化を進めれば、21世紀のアジアをリードするのは、日本、中国、インドである。孫文が提唱したこの3カ国の協力は、ますます重要になる。
 
 中国民主化闘争の歴史とこれから
民主中国陣線日本分部・趙南さんを招いて



5月31日、アジア連帯講座は、趙南さん(民主中国陣線副主席・日本分部主席)を招いて「中国民主化闘争の歴史とこれから」を開催した。35人が参加した。
 天安門事件9周年の今年は、中国民主化運動のリーダーだった王丹さんの病気療養を理由とした中国からアメリカへの仮釈放を始め、香港では中国への返還1周年を前に立法評議会選挙が行われるなど、中国民主化運動をめぐって注目すべき情勢となっている。
 さらに32年にも及んだインドネシア・スハルト独裁体制に対する民衆の民主化闘争の高揚はスハルトを退陣に追い込んだだけではなく、さらなる学生の急進的要求とともにアジアの指導部や構造改革を強制するIMF体制に対する反撃を用意していくだろう。その意味で、中国の指導部もこのような情勢下で、今後微妙な立場に追い込まれることは確かだ。

首を切られる労働者と政治弾圧
 まずアジア連帯講座事務局から、中国国内の状況について報告があった。97年2月、?ケ小平の死去にともない江沢民を中心とした新世代の指導部が確立。98年3月に朱鎔基首相は、中国における三大改革を主張し、その中のひとつとして「国有企業の改革」を主張した。しかし、現在の国有企業での状況は、1150万人にも及ぶ失業者を生み出し、今年はさらに350万人が工場から追い出されている。中国政府は、再就職や社会福祉政策を約束しているが、何ら対策が行われていないようである。98年2月から5月にかけても各地で労働者が決起している。
 また、78年民主の壁で活躍し、中国民主化の精神的支柱でもある魏京生氏、89年の中国民主化運動を闘った中心的指導者の王丹両氏に対する国外追放も、「人権外交」を看板にするアメリカと中国間の駆け引き材料として行われている。民主化運動の著名人に対しては国外追放によって国内での政治的影響力を断ち切ろうとし、無名の活動家は相変わらず獄中での生活を余儀なくされているという。このような状況の中で天安門事件9周年を迎えようとしている。

毛沢東支配との闘いから今日まで
 続いて趙南さんが、「中国民主化闘争の歴史とこれから」と題して報告した。趙南さんは、78年後半から始まった「北京の春」と呼ばれる民主化運動に参加し、82年にはその罪を問われ逮捕され労働収容所に送られた。釈放後、日本へ留学し、89年の民主化闘争を日本で闘った。そして90年には民主中国陣戦日本分部の代表となる。
 趙南さんは、中国民主化闘争の歴史はいくつかの段階に分けられると述べた。清朝政権の打倒と孫文の「共和国」樹立期、蒋介石の国民党指導部体制と国共合作、そして中国革命期、さらに毛沢東による「人民公社」運動と文革期を経て?ケ小平の「四つの近代化」路線と「北京の春」から89年につながる民主化運動の高まりまで。こうして中国近代史と政治・経済政策の流れの中で民主化闘争を浮き彫りにしていった。
 その中で毛沢東の理論が個人を全く否定した、民主的なメカニズムが存在しないものであり、経済的にも政治的にも宗教的な理想主義である、と批判した。趙南さんは、その上で?ケ小平体制は、「人民公社」運動で疲弊しきった農村を「請負制」にしたり、大幅に市場を導入することで改革を行なった意味で現実的であり、これを「中国の特色ある社会主義」と言うのではないかと述べた。しかし、そのために中国の労働者階級の経済的権利は極度に切り縮められ、労働組合の結成やストライキを行うことさえ全く禁じられている。
 趙南さんは、今後、労働者は、自らの経済的な権利を防衛するためにも、政治的民主化の要求をますます掲げていくだろうと述べた。
 また、現在の中国民主化運動について、「78年の『北京の春』から現代に至まで民主化運動は、連続性を持ち、かなり社会に浸透している。多くの人の意識のなかに民主化の要求が浸透する中で、国内外で進められている中国民主化のうねりは今後も大きくなるだろう」と述べた。その後、趙南さんへの質疑応答が行われ、今後の中国民主化運動を占う上で重要な討論となった。
 さらに、アジア連帯講座の仲間からは、香港で行なわれた立法評議会選挙について「返還」以降の問題点とともに報告があった。そして、香港トロツキスト組織である先駆社から今回の立法評議会選に立候補した林致良さんの政策やその結果について報告があった。さらに、昨年、「六・四」を記念して中国大使館に献花をしようとして不当にも弾圧された林國輝さんからも発言があり、集会参加者によってカンパが渡された。(S)


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趙南さんの講演から

 20世紀の中国民主運動を孫文の共和国の樹立から中国共産党による文化大革命にいたるまでを報告していただいたあとの趙南さんの発言は以下のとおり。


?ケ小平時代と清朝の洋務化運動

 毛沢東の後に出てきたのが?ケ小平でした。?ケ小平時代の幕開けです。?ケ小平は毛沢東に比べて実務的現実的な官僚です。毛が生きている時代に活躍したこともあり、その頃から経済を自由化し、人々の生活を考える実務的な官僚でした。?ケ小平は、毛沢東のような理想主義者ではないと思っています。彼自身は共産主義者であると言っていますが、「資本論を読んだことがない」と述べていました。
 ?ケ小平時代の最初は清朝の洋務化運動に対比できるのではないかと思われます。経済的には資本主義を導入しはじめましたが、その大前提として一党独裁を堅持することが重要であると考えていました。しかし、?ケ小平のような政治と経済を分ける考え方は清代末期に崩壊しています。経済的には西側資本を導入しましたが、文化・思想の導入は拒否しました。
 78年に?ケ小平が復活した頃は、混乱し貧困が全土にひろがっていました。貧しい状況の中で唯一の功績といえるものは、自由に経済活動ができるようにしたことでした。
 ?ケ小平が復活した頃、食料生産や工業生産が計画経済によって抑えられており、個人の要求や、やる気による生産活動がなされていませんでした。まず、?ケ小平は、農村の改革から手を付けはじめました。農民のやる気を起こすために請負制を導入して、中国では食料が豊富になりました。?ケ小平は毛沢東と違って個人の経済的権利を認めていたからです。
 それによって中国経済は相対的に発展を遂げたと私は思います。というのも、ひとつは?ケ小平の政策もありますが、一方で中国人民は非常に貧しかったからです。資本主義経済によって中国社会主義を作ったのではないかと言えるのではないかと思います。これが?ケ小平の言う、いわゆる「中国の特色ある社会主義」ではないかと思います。


改革開放と労働者の権利剥奪

中国の社会主義は政治面における独裁と経済面における一定の自由です。しかし、?ケ小平の経済と政治を切り離した政策は、非常に大きな問題をはらんでいました。というのも「改革・開放」経済が進む中で労働者の権利が保障されなくなっているからです。
 最近の新聞で、香港の投資家が中国に建設した工場での事件を扱っていました。それは、その工場で働く中国の労働者が物を盗んだのではないかと経営者が疑い、労働者に体罰を加え死亡させてしまったという事件です。
 経営者は警察の取り調べを受けた際に、警察が「香港でも労働者にこんなことをするのか」と聞いたところ、「香港労働者は物をとらない」と述べたといいます。中国の労働者は、ストライキなどを行なうことも全く保障されていない中で、経済的な権利によって自らの生活さえ守れないという状況です。
 中国の中で一部の人間が豊かになっていることは知っていると思いますが、その一部の人間とは中国官僚と非常に関係の深い人間です。この一部の人間が新たな資産階級となりつつあります。労働者は経済改革の犠牲になったといえます。
 中国では大量の「失業者」がいます(中国では「失業者」とは呼びません)。しかし、中国の労働者は自分たちで労働組合を結成する権利が保障されていません。多くの工場が倒産する中で労働者は街頭に放り出されますが、工場主や官僚に責任が及ぶということはありません。
 労働組合を結成する権利やデモをする権利をもつためにも政治的な権利を求めるべきです。というのも自らの政治的権利を守ることができなければ、経済的権利をも守ることができないからです。


78年「北京の春」から今日まで

 中国の民主化の要求は78年に起こりました。北京をはじめ中国各地で民主化の運動が起こりました。言論、出版の自由を求める運動です。いわゆる「北京の春」と呼ばれているものです。
 私はその運動に参加していました。中国の民衆の生活が向上するためには中国国内の政治改革を進め、民衆的なメカニズムを確立することが重要であると考えていました。「北京の春」に関わっていたのは文革時代に中学生だった世代が中心でした。
 「北京の春」の運動は政治的な運動以外のさまざまな分野から要求を掲げて登場するようになりました。「民主の壁」には芸術家なども多く存在し、「現代芸術をすすめよう」などという要求もありました。
 ?ケ小平は「四つの現代化」という要求を掲げたのですが、この運動の中で魏京生は五つ目の現代化として「政治の現代化」を掲げました。この要求は中国共産党の独裁体制にまで改革をというものになっていました。それに危機を感じた?ケ小平は、81年までに政治的な要求を掲げる出版物に弾圧を加えました。
 さまざまな出版物が弾圧の対象とされました。しかし、文学や芸術に掲げられた要求である現代化は受け入れられました。現在、中国の中で有名になった人々のなかには、78年の運動に参加している人がいます。78年のときには魏京生なども労働者として登場していました。学生などもいましたが、それほど多くはありませんでした。
 78年から90年にかけて多くの学生が民主化運動に参加するようになりました。89年には多くの学生が参加しましたが、学生以外のインテリが参加するということはありませんでした。
 現在の民主化運動の中で多くのインテリが参加しています。78年から現代に至るまでに、民主化の意識が多くの民衆に受け入れられるようになっています。多くの人の意識のなかに民主化が浸透する中で、政治的な要求を掲げる人々がこれから増えるのではないかと思います。これまで国内の民主化運動について語ってきたのですが、国外でも中国の民主化運動は闘われています。このような国内外での中国民主化の運動によって大きな改革ができるのではないかと思います。

中国人権民主化運動情報センター 寄付金激減し財政危機
2007年6月4日(月)15:25

 【北京=野口東秀】中国の民主化運動を弾圧した天安門事件が4日、18周年を迎えたが、民主化運動推進のため、盧四清氏(42)が1人で運営する香港の「中国人権民主化運動情報センター」が財政危機に瀕(ひん)している。

 盧氏は天安門事件当時、学生運動を組織したことなどで「反革命罪」で逮捕され、事件直後から1年間投獄された。1993年に再逮捕されたが仮釈放中に香港に脱出、同年3月に同センターを設立し、これまでに中国大陸での農民暴動、官僚汚職、生産現場での事故など中国当局が発表しない3750件もの情報を発信し続けてきた。


 盧氏によると、99年には年間13万ドル(約1580万円)以上に達した寄付が、2004年は5万ドルに減少。年間約10万ドル程度はセンターの維持費に必要だが、今年は5月末現在で、6000ドルしか集まっていない。寄付の半分は米国、約15%は日本からで、いずれも個人からのものだ。


 盧氏は香港で盗聴、尾行、無言電話に悩まされ、何度も引っ越しを余儀なくされ、いまも変わらないという。


 湖南省の故郷には父親(80)と母親(73)がいるが、14年間会っていない。「国内に戻れば拘束される可能性がある」ためだ。


 こうした苦境にあっても盧氏は同センターを閉鎖するつもりはない。「国内から命がけで民主化情報を電話してくる者に応えなければならない。1人だが続けていきたい」と語っている。








五十嵐文彦が運営委員を務める「アジアと中国の民主主義を考える会」(牧野聖修代表)は12月10日、東京・秋葉原で東京フォーラム「中国の民主化とアジア」を開催しました。これには各国から亡命中国人、内モンゴル人、チベット人、台湾人、脱北者支援の朝鮮人などの代表ら約70人が参加し、「世界の平和と安定、地球環境の保護の観点から、中国の民主化が不可欠だ」「日本は中国の民主化の向けてもっと積極的な態度をとるべきだ」との認識で一致をみました。
 会議の冒頭、牧野代表(前衆議院議員)は、「グローバリズムの弊害、貧困や環境問題を解決するためにはアジアの協力が大切だが、中国が民主化しなければ仲良くなれない。北朝鮮問題をはじめとするアジアの諸問題も、中国が民主化すれば話し合いで解決できる」と述べ、アジアの共同体をつくりたいとの理想を訴えました。次いで中国民主党化運動団体・民主中国陣線の費良勇主席が基調講演を行い、「中国人は民主化を望んでいる。中国が民主化すれば日中対立はなくなる。中国民主化は世界で最も価値あることの一つだ。このことに日本はもっと関心を持ってほしい」と主張しました。
 このあと、モンゴル、ウイグル、チベット、台湾、北朝鮮の代表が、少数民族の人権状況を中心に現状と要望を発表し、主な出席者の意見表明と質疑応答が行われました。この中で、チベット人のタシー・ギャッツオ氏は、「チベットの青海鉄道はチベット人の役に立っていない。チベット人は運営から一切排除され、建設に従事した漢人がそのままよい土地に居座っている。遊牧民が土地を追われ、柵の中でわずかの家畜しか飼えなくなっている」と近況を報告しました。
 最後に、チベット議連元事務局長の五十嵐文彦が締めくくりの挨拶に立ち、「中国が自国や漢民族の利益だけを考えていたのでは、世界が環境問題で破滅する。全地球的な視野が必要であり、中国政府がそのような視点に立つには民主化が欠かせない。中国が民主化すれば、30億人以上の人の平和と安全に大きな良い影響がある。日本はもっとこの問題に関心をもつべきだ」と強調し、満場の同意を得ました。








 東京フォーラムに先立ち、去る10月16日には中国民主化運動のリーダー・魏京生氏が初来日して、鳩山由紀夫民主党幹事長、牧野聖修・五十嵐文彦両前代議士らと国会内で会合しました。魏京生氏は1979年3月天安門事件で捕えられ、14年半の獄中生活を送り、1993年いったん釈放されたものの翌年再逮捕、さらに3年半の入獄を経験、アムネスティや欧米の世論の後押しによって1997年11月に仮釈放されて、現在米国に住んでいます。ノーベル平和賞の候補にも挙げられ、中国の「民主化闘士」と称されています。
 魏京生氏は、会合の中で「日本に来られてとてもうれしい。北東アジアの平和維持と人権問題を考える上で日本は重要な位置にある。アジアは世界の火薬庫になろうとしている。日本ががんばらなければ、誰がアジアで北朝鮮と中国の暴走を止められるか。民主主義を広めること、民主化の推進、人権の保護について日本が最重要な役割を果たすと信じている。私も皆さんと一緒に努力する」と挨拶するとともに、「胡錦濤政権は少数民族の人権問題について、江沢民政権とあまり変わりない政策だ。弾圧がとても強かった時期よりひどい時すらある。今の中国人は共産党を信じていないのが普通であり、民主主義を多くの国民が望んでいる」と述べ、中国が民主化する可能性は十分にあるとの認識を示しました。(写真は儀京生と握手する五十嵐文彦)


中国の体制変革 日本の側面支援カギに

国分 良成
慶応大学教授(現代中国論)


慶応大学東アジア研究所長。元朝日新聞アジアネットワーク委員。53歳


温家宝・中国首相は安倍首相の昨年10月の中国訪問を「氷を砕く旅」と表現し、今回の自らの訪日を「氷を溶かす旅」と表現した。まだお互いに疑心暗鬼だが、確かに氷は溶け出した。今回の訪日は、関係を前に進めた点で成功であったと評価できよう。

温首相訪日の目玉は国会での演説であった。圧巻は「国交正常化以来、日本政府と日本の指導者たちは何回も歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、そして被害国に対して深い反省とおわびを表明しました。中国政府と人民はこれを積極的に評価しています」と語った部分だ。

近年日本側に「何回謝罪すればいいのか」との不満が広がっていた。今後も実際の行動が重要だと中国側はクギを刺しているが、今回の表現で、日本の歴史問題への対応が基本的に正しかったことを中国側が公式に認めたことになる。

もう一つ注目すべきは、日中の戦略的互恵関係の具体的中身である。首脳会談後の共同プレス発表がこの点を明示している。第一は対話の促進で、首脳交流、経済・外交の高官対話、さらには中国海軍と海上自衛隊の艦船の相互訪問も合意された。第二は互恵関係の強化で、エネルギー、環境、農業、金融などでの協力、第三は国際分野で、国連改革、北朝鮮問題などでの協力がうたわれた。これとは別枠で東シナ海問題も取り上げられた。この海域をいかに「協力の海」に転換させるかが、戦略的関係の最初の試金石である。

  □  ■  □

近年、日中間の人の交流や文化接触は増大し、経済面でも相互依存が深まり、日本の経済再生が中国市場に依存する度合いも高まった。だがこの現実に甘えるかのように、過去何年にもわたって政治の世界では関係悪化を放置してきた。

日中両国で歴史問題が国内政治に絡みつき、身動きのとれない状態が続いた。世界では日中戦争が勃発(ぼっぱつ)するかのような報道までなされ、日中両国に問題解決能力はないとさえ言われ、米国、欧州各国、韓国などが調停役を買って出ようとすることもあった。

窮状を打開したのは安倍首相の電撃訪中であった。個人の思いより国益を優先させた外交は支持率を上昇させた。それまで中国は靖国参拝中止を首脳交流の条件にしていたが、胡錦濤主席も党内の不満を抑えこれに目をつぶって関係正常化を優先させた。関係改善は2人のリーダーの決断と信頼によるところが大きい。

これで日中関係は安泰なのであろうか。答えは否である。過去何年にもわたる関係の悪化は、両国の国民の相互イメージを深く傷つけたままである。首脳交流の復活だけですべてが変わるわけではない。関係改善への歩み寄りを快く感じない人々や政治勢力も根強い。現に、中国ではそれらを上から抑えている。

中国が民主化しない限り正常な関係は作れないとする主張がある。確かに中国はまだ民主体制ではない。私も長年中国の民主化を望む者であり、学者としてその可能性を探ってきた。しかし、だからと言って今の中国と交流ができないとは言えない。米欧各国も、近年では中国への人権や民主の要求を抑え、存在感の高まる現実の中国との関係強化に腐心している。

歴史をたどれば、日本は改革開放路線に踏み出したばかりの中国に、後戻りさせないよう経済援助を開始した。天安門事件で苦境に陥った中国を、孤立させないよう走り回ったのも日本であった。その後中国は市場経済路線に踏み込み、今日にいたる経済成長に突入した。日本は中国のWTO(世界貿易機関)加盟も促進した。つまり日本は体制民主化にこだわる欧米以上に、中国の体制変革を側面支援してきた。

だが、真の体制変革はこれからだ。容易な作業ではない。国際経済と一体化した中国の混乱を望む国はない。中国の安定的体制移行へ向け、日本の側面支援は今後が正念場となる。成功も失敗も含め、日本の先進的経験を中国は必要としている。ここにこそ、両国の戦略的互恵関係の場が多くあるように思える。

2007年 4月21日

反体制天文物理学者・方励之氏 中国出国、日本が協力



天安門事件後に中国を出国、米国に移住した反体制天文物理学者、方励之氏

秘密会談…円借款武器に交渉
 【北京=伊藤正】世界を震撼(しんかん)させた天安門事件(1989年6月)直後、中国の反体制天文物理学者、方励之博士夫妻が北京の米大使館に保護された事件は米中の政治対立に発展、難交渉が続いたが、1年後の90年6月25日、夫妻の英国への出国で解決した。中国側が突然、強硬姿勢を変えた背景に、円借款を武器にした日本の対中交渉があったことが、関係者の証言でこのほど明らかになった。


 当時、北京で中国との難交渉に当たったジェームズ・リリー駐中国米大使(肩書は当時、以下同)は、本紙ワシントン支局の取材に、円借款などの資金協力が解決のカードになったことを認め、「(対中折衝をした)橋本(恕)大使には大いに助けられた」と述べた。

 方励之夫妻が大学生の息子とともに米大使館に逃れたのは、天安門事件翌日の6月5日。中国は2日後、リリー大使を呼び、夫妻の身柄引き渡しを要求した。中国は夫妻を「反革命宣伝扇動罪」で指名手配、米大使館周辺を武装兵で固め、出入りを監視した。米側はスコウクロフト大統領補佐官を89年7月と12月に派遣するなどして打開を図るが、中国は国内法や国際法を盾に一歩も譲らない。

 「方氏は米学術界や人権団体と関係が深く、民主運動家として名高い(ため引き渡しはできない)。一方、中国は反革命犯を逮捕し、処刑さえできる合法的権利を有していた」(リリー氏)

 中国は「反方励之=反米キャンペーン」を展開、米側が身柄を引き渡す以外に解決策はないと主張した。米側の足元を見て、天安門事件後の対中制裁解除など、取引のカードにしたとも解された。

 リリー大使は、89年秋以降、橋本大使と頻繁に意見交換したが、方励之問題と制裁解除の関連もその一つだった。そのきっかけになったのは、72年の日中正常化当時、中国課長として中心的役割を担い、中国側の信頼が厚かった橋本氏と李鵬首相の秘密会談だ。

 橋本氏によると、会談は同年12月、2度目のスコウクロフト訪中が不調に終わった後で、李首相は対中円借款の歴史や意義について話し、「政府間の約束事であり、第3次円借款も必ず実行してほしい」と要請した。

 第3次円借款は88年に訪中した竹下登首相が約束し、90年から5年間に8100億円(約56億ドル)、89年末当時の中国の外貨準備高に匹敵する額だったが、89年7月の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁措置として凍結されていた。

 当時インフラ整備に懸命だった中国にとって、サミットで同時に凍結された世銀融資(約23億ドル)と合わせ、第3次円借款は死活的重要性を持っていた。橋本氏は「李首相は必死で、凍結は相当こたえていると感じた」という。

 海部俊樹政権は90年初め、政財界の強い圧力もあって対中制裁解除に動き、外務省は90年7月のヒューストン・サミットで前年の決議を修正する戦略目標を立てる。それには米国との共同歩調が必要であり、90年春、宮本雄二中国課長(現駐中国大使)を派遣、米側の動きを探った。

 だが宮本氏の報告は否定的だった。「米議会と世論の対中非難は強烈で政権内でも制裁解除は論外という空気だ。方励之問題への反発が強くその解決なしには難しい」

 外務省から打診された橋本大使は、旧知の朱良共産党対外連絡部長とひそかに会談を重ねた。橋本氏によると、対中折衝では「相手のメンツを考え」円借款にも方問題にも触れず、「われわれはヒューストン・サミットでの制裁解除に向け努力している。中国も適切な対応をしてほしい」と主張しただけという。「その意味を中国側は理解していた」(橋本氏)

 中国側が方氏夫妻の出国を認めたのは6月中旬で、リリー氏によると、「橋本大使と中国側の接触の1週間ほど後だったと思う」。

 中国は、方励之夫妻が米空軍機で出国した当日、「病気治療のため出国した」と発表。その2週間後のヒューストン・サミットで日米は共同歩調を取り、第3次円借款も世銀融資も凍結を解除された。方氏出国への日本の関与は日米中とも公表しなかった。

 方励之夫妻は半年後、米国に移住、現在はアリゾナ大学で教鞭(きょうべん)を執っている。事情を知らない方氏は米国移住後、日本の対中制裁解除を批判する発言をしている。



No.17 - 2007/06/23(Sat) 23:54:09