『北京の春』通巻169号総括
『北京の春』編集部 http://bjzc.org/jp/北京之春(U.S.A.)☆英文・中文−米国で出版されている中国民主運動情報月刊誌「北京之春」のホームページ。11月8日の時点で11月号までを閲覧できる。メニューには「北京之春」最新版のほかに▽バックナンバー▽縮刷版▽毛沢東私人医生回顧録▽両岸関係資料▽中国民主団結連盟史などがあり、関連のサイトへリンクするゲートウェイも用意されている。表示は英語とGBコード及びBig5コード中国語。
「中国のマンデラ」=王丙章博士の近況が伝わる カナダが安否を確認し、実弟が刑務所で面会 ****************************************
あの王丙章博士、監獄で拷問をうけてハンストを敢行していた 魏京生いらい、自由民主活動家の大物と言えば、“中国のマンデラ”ともいわれる同博士(59歳)だ。
王博士は「改革・開放」政策の実践により、第一回目の国費留学生としてカナダへ留学、医学博士号を取得し、82年にNYへ移住。そこで、戦後はじめての中国民主化運動を始めた。 機関誌『中国之春』のマニフェストは「自由、民主、法治、人権」の四つ。 現代の孫文が登場か、と騒がれた。 TIMEなどが特集を組み、世界的な注目を集めるや、電光石火のごとく、『中国之春』運動は世界の留学生仲間に伝播。世界40ヶ国以上に支部ができた(日本にも、もちろん秘密結社的支部が結成された)。
1983年夏に小生はNYで博士にインタビューしているが、「日本から来た最初のジャーナリストです」と言われた。 翌年も二回ほどあった(詳しくは拙著『中国の悲劇』参照)。
その後、『中国之春』は北京からのスパイが潜入して何回もの内部分裂などを経て、『北京之春』などが創刊され、王博士は「中国民主党」を結成して、主席に。
おりからの天安門事件で欧米に逃れたウーアルカイシらは、『中国之春』などを包括して「中国民主陣線」を結成した。魏京生も、数年後に米国へ亡命し、これらの運動の講師格に加わった。 ともかく最初の炬火をともしたのは王博士で、その後も危険をかえりみず中国大陸国内に「中国民主党」の支部を結成する活動を続けた。 そしてベトナムから江西省へ潜入したところを、待ちかまえた秘密警察に逮捕されてしまったのだった。
米国、カナダ政府は北京に対して王博士の釈放を強く要求してきた(日本政府はなにもしなかった)。述べたように一昨年、江西省チワン自治区で中国の秘密警察の策略により不当に逮捕されたが、広東省で裁判が開かれ、理由もなく「無期懲役」に処せられた。 爾来、二年ちかく消息を絶っていた。
このほど広東省の監獄に収監されていることがカナダ政府の度重なる要求により判明、カナダ在住の実弟、王丙武が中国へとんで30分の面会を許された。 獄中でハンストを決行し、拷問を受けていた事実がある、と実弟はカナダに帰国後に語っていると香港誌『動向』二月号がつたえた。
(注 王丙章の「丙」には火偏) ◎◎ ◎◎ ◎◎
一、カバーストーリ:反右派運動50周年記念
今年は毛沢東を指導者とする中国共産党が発動した反右派闘争50周年であるこの運動で、少なくとも50万人が右派とされ、何百万を超える家族が甚大な被害を受た。しかし、罪人である中国共産党は、被害者に対する正式な謝罪や賠償が一切ないだけではなく、この政治迫害が必要であったと主張し続けてきた。今年の初めごろから、本誌は反右派運動に関する記念文章を継続的に掲載してきた。本号においては、「反右派運動50周年記念」をカバーストーリとし、北京劉自立の「大公報記者の右派分子について」、山東尹福生の「災難」、ニュージーランド周素子の「右派情跡」および本誌編集長胡平の「反右派運動と言論自由」、上海朱長超の「?ケ小平反右派必要論批判」等を含む一連の記事を集中的に掲載することにした。 前三篇は叙述的な文章で、50年前に実際起こったストーリを記述した。北京の劉素子は「対公報」の歴史研究者で、この文章で当時「大公報」の20人が右派にされたことを記述した。この数字は編集部??経理部人員の十分の一を占めていて、彭子岡、楊剛、徐盈、曾敏之、蕭乾、徐鑄成など1949年前後の著名人をも含めていた。党に対して「心を打ち明けた」ことにより右派にされた人もいれば、いかなる言論もないのに、「雑家」であるゆえに右派にされた人もいるし、さらに、左傾を貫いてきた記者たちも右派にされ、CENSOREDした人もいる。尹福生の記事は自分の被害ストーリであり、山東大学医学院(後の青島医学院)であった作者が「大鳴大放」での発言により右派にされた。その後、労働教養所に送られ、1958年から1979年まで、20年余りの苦難の満ちた教養場人生を送った。周素子の記事は、中央美術学院華東校「赤専両全(政治思想が赤で専門知識も優れていること)」の教師??画家であった王流秋、元浙江美術学院教授??美術評論家朱金楼および元中央美術学院華東校初代院長??古参共産党員李家?體?3人の右派分子としての悲惨運命を記述した。後の二篇は論説的文章であり、朱長超の文章は主に?ケ小平のいわゆる「右派運動必要論」に対する批判である。反右派運動は、毛沢東が発動し、?ケ小平が具体的に指導する運動であった。この中華民族のエリート層を地獄に落とした運動について、?ケ小平は、全体的には必要であったが、ただ「ちょっと拡大化」したという観点を持つ。朱長超は、反右派運動が中華民族と国家にもたらした効果、後で名誉回復された右派の割合および名誉回復されなかった5人の言動に基づき、反右派運動の不必要性を論証した。?ケ小平は、1957年反右派運動中ですでに手に血が付き、文革初期にもまた大学に「工作組」を派遣し、「反動学生」を調べ上げ、1975年には雲南沙甸の回族同胞を弾圧した。89年の天安門広場での愛国学生に対する弾圧は、ある意味においては反右派運動の継続だといえる。彼の反右派運動に対する評価は、彼の一貫した思想スタイルに合致し、歴史事実を無視したでたらめであり、人間性の良識に欠けた横暴と頑固である。 胡平の記事は、反右派運動は「陰謀」か「陽謀」かという問題を分析した。当初毛沢東が開明姿勢を示し、緩やかな雰囲気を作り、共産党外の知識人を言い放題させる目的は、彼らの力を借りて党内の政敵を打倒しようという目的だった。それは文革とは非常に類似している。文革中の造反派を利用して走資派を打倒したことと非常に似ている。それゆえ、反右派運動は未遂の文革だと、胡平氏は主張している。しかし、文革中に現れた様々な異端思想と比べると、57年の右派言論に自由民主主義理念の内容がはるかに豊富であり、明白でり、純粋である。反右派運動は史上最大の文字獄である。この経験からわれわれが得るべき教訓と取るべき方法は言論自由の把握という原則である。言論自由原則には二つの特徴があると、胡平氏が主張している。言論自由の原則は共産党独裁制度の根幹を揺るがすものである。そして、言論自由の原則は共産党が表では認めているので、言論自由を主張することにより、共産党に対する根本的な挑戦にもなる。反右派運動50周年に際して、人々の言論自由原則への重視を再び喚起することが最もよい記念になる。 二、中国政治??経済現状についての評論
「中国政治情勢」欄に、広州経済学者鞏勝利氏の「吳敬?l市場経済新論について」、山東異見有識者楊?ェ興氏の「中国官僚権力の動揺」、上海作者馮正虎氏の「習近平氏は上海司法不正問題に注目すべきだ」および北京大学政府管理学院教授袁剛氏の「政治体制改革とイデオロギー再構築」等の記事を載せた。 鞏勝利氏の記事は、中国政府経済学者の吳敬?l氏が北京人民代表大会と政治協商会議に発表した、2006年前後中国経済についての論説を批判した。吳敬?l氏の「旧正月運賃値上げは自由市場の原理に合致する」、「不動産価格高騰へのコントロールは物価の上昇を招く」、「住宅退去補償は市場価格で計算すべきではない」、「民衆株投資現象は異常である」、「利息税廃止」等の論調を批判した。吳敬?l氏は、中国では未だに数多くの経済分野で独占と政府コントロールが主流で、政府高官が既得利益者であるという現状を無視し、政府雇用の一流学者としての良識が欠け、この貧しい国の国民の正義と公正を無視している。学者でありながら、上場企業の取締役や国会議員(人民代表、政治協商会議委員)でもあるという個人利益衝突のような「吳敬?l現象」は中国では普遍的である。 楊?ェ興氏の記事は「中国青年報」掲載記事への言及から始め、俞可平氏の「民主主義はいいものだ」という文章の引起こした議論のように、全国公安の公開スポークスマンとしての武和平氏も堂々と言論自由と世論監督について発言していることは、中国共産党上層部がこの問題を重視し始めていることを反映していると分析した。現実的な圧力により、中国共産党内部の理性派が、天安門事件以来の政策効果を反省し始め、一枚岩の官僚権力が動揺し始め、数多くの官僚が現代的思考で問題を考えるようになった。国内外の圧力により、中国共産党内部から健全な理性派が生み出し、民間人と一緒に中国民主化の偉大なる変革を完成する可能性は十分ある。もちろん、この変革の大前提は市民社会の成長と民間圧力の形成である。 馮正虎氏の文章は、憲法の規定する公民権を行使し、電子版「上海日系企業要覧(2001年版」を出版したことにより、3年間の投獄と40万元の罰金にされた事件に言及し、今日の上海法院は、無責任で法律に背く裁判官やその背後の汚職官僚に完全にコントロールされていると主張している。陳良宇氏はもう失脚し政治生命が終わった今、上海市委員会、上海政府と人民代表大会常務委員会は反省すべきである。上海の司法不公正問題はもはや上海の難題になり、経済問題よりも難しく、上海社会の「不調和」の主な要因になっている。中央政府から上海に派遣された2名の高官は中国トップクラスの法律専門家である。中国共産党上海市委員会新任書紀習近平氏は法学博士であり、中国共産党上海市新任紀委書記沈?コ咏氏は元中華人民共和国最高人民法院副院長である。この二人が上海の新局面を開けるかどうかを、上海市民は注目している。
三、中国民主化運動の新課題:難民運動
「理論探求」欄には、本誌マネージャー??中国民主連盟主席薛偉氏の「中国民主運動の新課題:難民問題」、北京劉自立氏の「社会主義破壊性理論」および浙江省傅国湧氏の「現代解釈システムからみる近代史」等の記事を載せた。 すでに自由を獲得した人なら、アメリカ女性詩人(艾瑪??拉薩姆)のように、まだ逆境に生きる人たちを一生懸命助けるべきであると、薛偉氏が主張している。20世紀は人類史上の難民の世紀であったが、21世紀の状況もそれほど楽観的ではない。難民の受入れについては、アメリカが世界各国の模範になっている。1989年に中国民主運動が弾圧された後、何百名の学生??労働者??知識人が海外に亡命し、もう18年の歳月が経過した。当初の難民、例えば民主運動家王若望氏などがアメリカで逝去し、中国からの難民は増える一方である。そのうち、中国政府と異見を持つ人もいれば、中国政府の主導する生活様式に不満を持つ人もいるし、中国の一人っ子政策に違反した人や宗教??法輪功の人たちもいる。自分の権利を守ろうとした人もいるし、ネット上で政府を批判した人もいる。これらの人々は海外に亡命し、政治的迫害から逃げようとしている。亡命する時期と具体的理由は様々であれ、彼らはみんなわれわれ民主運動の貴重な財産である。中国国民の福祉を最終目標とする海外民主運動組織は、彼らの存在と境遇に関心を持つべきである。海外民主運動は中国大陸からの難民に関心を持つべきである。 今は海外民主運動が後継者人数の減少と同時に、様々な新組織が誕生し、天安門事件記念活動を積極的に参画し、いろんな形のデモや集会を組織している。国内にいる維権活動や共産党抗議活動にも積極的に行っている。これらの活動は、海外における中国共産党の悪の本質を暴露し、国際社会に中国の現状を知らせるために重要な役割を果たしている。中国大使館??領事館前での抗議活動も中国共産党の海外駐在機関または中国共産党政権自体への長期的な政治および心理的な圧力である。今は「古い民主運動が新しい課題に直面している」といえるだろう。難民運動は海外民主化運動の新課題である。一党独裁に反対し民主主義を主張する全ての個人や団体はわれわれの同盟軍であるゆえに、相互協力と支持が大事で、分裂と孤立を防止すべきである。中国共産党独裁政権にとっては、民主運動のデモ参加者なら全員が「反革命」または「転覆」活動であり、リストに載る可能性がある。例え民主化運動から離れたとしても中国政府は容赦しない。「偽物」だと言っても、中国共産党から見れば「本物」である。それゆえ、アメリカ政府移民官はこれらの人たちの政治非難を認可したのである。その中に、国内にいたときは政治活動に参加しなかったが、海外に出ると正真正銘の民主運動参加者になった。こんな人たちをも受け入れるべきである。われわれは民主化運動を完全に純粋なものにする必要はないと薛偉氏が主張している。民主主義と自由を獲得するために、合法的移民や非合法的移民、政治難民や経済難民を問わずみんな平等である。常に一般民衆の利益に注目を払うのが民主化運動拡大の基礎である。民主運動家は観念を押し付ける人や啓蒙者ではない。民衆の奉仕者である。
四、祝楊建利氏自由再獲得
アメリカ21世紀基金主席、「議報」社長楊建利博士が、中国共産党当局に「不法入国罪」と「スパイ罪」で5年間投獄されたのち、4月27日に釈放された。ずっと楊建利氏と連絡を取ってきた本誌編集者亜衣が北京にいる楊建利氏夫妻と電話インタビューし、楊建利氏の近況を「世界日報」を通じて世間に知らせた。本誌本号には、アメリカ在中の楊建利氏のお姉さん楊建華氏の文章「楊建利の願い」と亜衣の「祝楊建利氏自由再獲得」を掲載し、裏表紙には楊建利氏婦人が提供した近況写真をも掲載した。 楊建華氏がアメリカにいる親族を代表し、中国にいる楊建利氏の家族と一緒に楊建利氏の出所を出迎え、2週間ぐらい弟のそばにいた。その後、楊建利氏は故郷山東省に帰り、家族30人ぐらいと、1年半前に逝去した父を祭った。父の最期を見届けできなかったことは一生の遺憾だと思う。それゆえ、海外に行く前に、ぜひ父のお墓参りをしたいと楊建利氏が決意していた。出所した楊建利氏は正常の生活に戻り、外部との連絡や記者会見を控えようと家族の要求に応じた。 亜衣の記事は、楊建利氏から海外友人たちへの感謝の言葉を伝えた。数学博士と政治経済および政府学博士である楊建利氏は海外民主運動家の優秀人物である。楊建利氏は民主制度における選挙の重要性を察し、数多くの選挙活動に参加した。1988年の中国国家教育委員会帰国留学生選挙からはじめ、1989年民主戦線、1993年中国民主連合戦線主席??副主席選挙に積極的参加した。楊建利氏1989年に帰国して民主運動に参加し、天安門事件の体験者でもある。楊建利氏の代表的な政治思想は、彼の著書「非暴力対抗と憲政改革」である。楊建利氏は中国維権運動の先駆者でもある。受刑者として刑務所にいたときも、数多くの文章と手紙を書き、自分の体験で中国共産党司法システムの尋問??取調??弁護における被疑者の人権侵害を暴露した。
五、厳家祺20年前の出来事 「歴史の証明」欄に、元中国社会科学院政治研究所所長厳家祺の文章「20年前の古い出来事」を掲載した。本誌5月号陳小雅の投稿「89年民主運動史3点訂正」の本人と関係ある部分について意見を表明した。陳小雅の文章は天安門事件虐殺の根本原因についての認識問題である。虐殺の根本原因は中国の独裁制度と?ケ小平の独断横暴の残忍性格にある。たしかに「89民主運動」の経験と教訓をよく考えるべきであるが、虐殺の根本原因を「89学生運動」または「89民主運動」の中に探すべきではない。当時厳家祺氏が主張した「非秩序更迭」問題は、いわゆる「倒?ケ保趙」とは関係ないし、「?ケ小平の趙紫陽に対するイメージ動揺」にも影響がない。1989年鮑彤氏が彼を「政治改革弁公室」への参加要請のいきさつおよび1987年中国共産党中央書記処研究室が、胡喬木、?ケ力群の示唆により、厳家祺氏を含む12人の「ブルジョア自由化言論抜粋」の件についても説明した。1989年趙紫陽言動に関する重要問題への陳小雅訂正はますます混乱になっていると、厳家祺氏が指摘した。 《北京之春》第35期 #06 1996年 4月号より―
[編者記] 1996年2月26日、チベットの宗教的指導者でありノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ十四世は、 チベット亡命政府の所在地インドのダラムサラにおいて、《北京之春》雑誌社社長 薛偉(シュエ・ウェイ)と会見し、 両者はきわめて親しく友好的な対談を行いました。ここにその録音を整理し、会談の概要を発表するものです。
真の友のように―ダライ・ラマとの対談録
薛 偉
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漢族とチベット族は友であるべきです
中庸の道でチベット問題を解決する
人類社会衆生のために幸福を求める
非暴力を貫く
信念を失わず、闘志を強く抱き
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【漢族とチベット族は友であるべきです】
薛 偉 :二年前ワシントンでお目にかかって以来、私は海外で民主化運動に関わって いる多くの活動家たちとしばしばチベット問題を討議してきました。チベッ ト人民の人権と自由を求める闘いも、ますます国際社会の注意を引いていま すね。最近、あなたの自伝を読ませていただきましたが、最後のページで語 られたお言葉を憶えています:「私はチベット人の友人たちに謝意を表しま す。チベット人が受けた苦難に対するあなたがたの共感と支持は私をいたく 感動させ、たゆむことなく自由と正義のために闘う勇気を私たちに与えてく れました。私たちが頼みとするのは武器ではなく、もっと強くて力のある真 理と決意なのです。私の感謝はすべてのチベット人を代表するものです。ど うか、この歴史上において存亡の危機にあるその時、チベットのことを忘れ ないでください。」今あなたに申し上げましょう。中国大陸から来た民主運 動家たちはチベットを忘れません。私たちは苦難を受けたチベットの人々を 深く心に留め、勝利はいずれあなたがたのものと信じています。本日ここに おいて、《北京之春》編集部と我が友人たちを代表し、あなたに敬意と祝福 を表します。
ダライ・ラマ :中国の友人にお会いできてとてもうれしく思っていますよ!歴史的に私たち はこのような深い関係をもちました。チベット問題は双方が友人として誠実 に相対してこそ解決できるものです。もし暴力に訴えるなら根本的な問題を 解決することはできません。漢族とチベット族は互いに友であるべきです。 チベット族は漢族の困難と苦しみをもっと思いやらなければなりませんし、 漢族もチベット族の心の声にもっと耳を傾け、その置かれている立場を思い やらなければなりません。互いに助け合い、絶えず交流を深めていくという 基礎の上に立てば、どんな問題であってもすべて解決できるのです。あなた にお会いできてほんとうにうれしい。時間を気になさらないで、何でも思い のままにおっしゃってください。
薛 偉 :本日は一人の記者としてだけでなく、一人の友人としてあなたに、 そして 自由を求めて解放のために闘っておられるチベットの戦士の皆さんにお会い しに参りました。中国共産党の一党独裁に抵抗する戦線において私たちは共 に戦う戦友です。 中国共産党政権はチベット人民を抑圧しているだけでな く、漢族、その他の少数民族まで圧迫しています。チベット人民が受けてい る苦難は、 大陸の他の民族も受けているものです。 しかし現段階におい て、チベット人民の苦しみは大陸のその他の民族に比べ甚だしいものがあり ます。私たちにはチベット人民の叫びと要求がよくわかります。いつの日か 漢族とチベット族が兄弟のように仲睦まじくつきあうその時を私たちは待ち 望んでいます。 そこで、あなたがご存知のチベットの現状と、チベットひいては中国全体の 前途についての分析と予測をうかがいたいのです。
ダライ・ラマ :これは大きなテーマですね。いちいち詳しくお話ししていたら時間が足りま せん。チベット亡命政府の広報部に資料がありますから、それをお読みにな って研究なさるとよろしいでしょう。 一般的に申し上げると、私が最も関心をよせ、また焦慮していることは、 チベット固有の宗教と文化のことです。 これらの文化はチベット人に充実 した精神生活と楽しみをもたらすことができ、 人々の個性もこうした文化 ゆえに善良でおとなしいのです。しかしながら、現在、 仏教を中心とする チベット文化はまさに滅亡の危機に瀕しているのです。 もう一つ私が焦慮しているのは教育のことです。 チベットは物資に乏しい ところです。この点においてはもう少し発展させなければなんりません。 しかし、大切なことはやはり人々の素質を高めること、それには教育水準を 高めなければならないのです。現在のチベットの教育程度はかなり低いもの で、文盲は至る所にいます。 共産党は学校をいくつも建て教育程度はたい そう発展したと言っていますが、実際、 考えてみると、その数と質は驚く ほどに貧しいものです。特に農牧地区はひどい。 昔のチベットでは学校は ごく僅かか或いはほとんどありませんでしたが、 幾千もの寺院があり、 それが文盲克服に大きな役割を果たしていました。しかし、共産党の侵攻後 寺院は消滅し、寺院に代わって文化教育を行う職能機構は設置されませんで した。その結果、文盲率は以前より上がったのではないでしょうか?私は、 現在のいわゆる“教育程度の高揚”に対して疑いをもっているのです。今や 多くの中国人はチベットへと移り、街々の至る所、 およそ条件のよい地区 すべてに居住しています。チベット人は、靴造りや縫製というような仕事ま でも彼らに奪い取られ困り果てているのです。 さらに環境保護の問題、これもまたひどく失望させられるものです。 以前 から森林伐採の現象は相当ひどかったのですが、 今では“改革開放” の スローガンのもとに個人的に大量に森林を伐採する者も多く現われ、 チベ ットの自然環境と生態保護に重大な影響を与えています。その上鉱物資源の 開発です。チベットにはもともと採掘できる百六十数種の鉱物があります。 比較的先進的な方法を用いれば自然生態に害を及ぼさずにすみますが、しか し今のところはそのような方法によってはおらず、 乱開発の現象は非常に 深刻なもので、チベット全域は甚大な被害を被っています。現実は私がお話 ししたこれらの状況をはるかに超えており、 まさに心配と焦慮の種なので す。私はここで強調しなければなりません。 私の言うところのチベットと は、共産党の区分による西藏自治区のみならず、甘粛、雲南、四川のかつて チベット三区に属していた地域をも包含するもので、 十の自治州と二つの 自治県を含んでいます。 これらの伝統的チベット区域は英語で Tibetと呼 ばれ、六百数万のチベット人民を擁しているのです。その現状を政治用語で 言うならば、すべて中国の植民地になってしまったということです。中国共 産党の目的は“掠奪”ただそれだけです。彼らは、チベットに対するきわめ て僅かな投資を宣伝することときたら非常に派手にやりますが、チベットか ら掠奪していった物については一言も口に出さないのです。政治上、“自治 州”或いは“自治区”、“自治県”と名付けられた地域があります。何であ ろうがお構いなしにすべて“自治”の名を付けていますが、実際のところ、 どこにチベット人の自治があるというのでしょう? 権限はすべて中国共産 党が派遣した人の手に握られているのです。胡燿邦はチベットに来たことが ありますが、彼が政権を担当していた頃、かつて次のような政策を決めたこ とがありました。 −チベット人に真正の権限を与え、彼らを主人公として 政治に参与させ、自らの郷土を管理させる−と。 胡燿邦が世を去って今に 至るまで状況は全く正反対です。チベット人民は一切の権限を失いました。 今やチベット問題は中国政府の国際関係と名誉に大きな困惑と損害をもたら し、中国はしばしばこの問題のために引っ込みがつかなくなっています。 チベット問題のために六百万香港人に中国の政策に対する不信を生じさせ、 台湾と大陸の統一もチベット問題ゆえに妨げられています。 未来の中国人 は、 必ずやチベットの民族文化の滅亡に遺憾と悔恨と傷みを覚えることで しょう。ナチス・ドイツのヒトラーのユダヤ人殲滅からすでに五十年が過ぎ たとはいえ、人々はいまだにその行いを厳しく非難しています。 もしもチベット民族が滅ぼされるようなことがあれば、共産党はそのために 長いこと汚名を負って世界の人々の譴責を受けることでしょう。今こそチベ ット問題の行き詰まりを打開しなければなりません。打開の方法を考え出さ なければなりません。 さもなければチベット人も中国人も苦しむことにな り、双方にとってなんの益にもならないのです。 チベットは歴史的に独立した国家です。 しかし、今チベットが独立すれば 中国は大きな土地を失うことになり、そのことを中国人に認めさせ同意させ ようとするのはかなり難しいことでしょう。チベット人の幸福という点から 考えて、もし中国人がほんとうにチベット人と互いに助け合い、互いに尊重 し合い、平等互恵ができるなら、いつの日か、独立するよりも中国人と共同 生活をするほうがもっと大きな利益をもたらすことができるとチベット人が 思うことがあるかもしれません。こうしたことはあり得ることなのです。 この点を踏まえて、七十年代から、チベット問題に関する解決に対して今ま で“中庸の道”を採ってきたのです。 現状は認めないが、チベット独立の 問題をも一切持ち出さず、チベット人に高度の自治、即ち相互の信頼と互助 の原則においてチベット人自らにチベットを治めさせる権限を与えるよう主 張してきました。 この中庸の道に基づけば、現段階のチベット問題は解決 可能なのであり、双方とも認め受け入れることができると私は深く信じてい ます。ここ数年、中国共産党はチベットにおいて非常に強硬で暴虐極まる手 段を採ってきました。ダライラマといえば、彼らはたちまち反動派の頭目で あるなどと言って、ひどく罵ります。 今またパンチェンの問題が出てきて いますが、共産党の態度は非常にかたくなで、 チベット人民に対して更に 人道にもとる行為を為しています。 しかしどのようなことがあっても私は 中庸の道を採り、相互信頼と相互利益の前提の下に、 チベット問題を話し 合いを通して解決するという初志に終始変ることはありません。
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【中庸の道でチベット問題を解決する】
薛 偉 :あなたの掲げる“中庸の道”は現実の大きな難題を解決しています。 海外 在住の民主化運動活動家や中国人留学生たちにおいて、彼らはチベット人民 が受けている苦難と人権を勝ち取ろうとする努力、民主を求める闘いに対し て非常に同情し支持している人たちですが、しかし大多数の人々はチベット の独立に対して疑いをもっているか、 或いは程度の違いこそあれ、反対の 態度を採っています。このことは決して我々が大方の方向でチベット人民の 闘いを支持することを妨げるものではありませんが、しかし確かにある程度 の困惑を引き起こすでしょう。私たちがまず考えなければならないのは統一 か独立かという問題ではなく、目下のところ当面の急務は努めて中国共産党 の強権統治を終わらせ、中国の社会制度を変革し、自由と人権、民主と法治 を実現させなければならないということです。このような前提があって始め て、どのような制度と政体を採択するか人民に考えてもらう機会と条件が揃 うのです。 あなたは度量の大きい方です。海外在住の民主化運動活動家たちの中で、 この数年来、チベットの未来を話し合ってきました。《北京之春》の于大海 、胡平、著名な政治評論家の厳家祺、曹長青、及び”民連”の主席の呉方城 、“民陣”主席の万潤南、そして“民連陣”主席の徐邦泰といった面々でで す。 私は彼らが出した意見から三つの原則をまとめました。 第一は“民主の原 則”です。すなわち、チベット人民は自らの将来と生活方式を決める権利を 有し、他の民族がそれにとってかわることはできず、彼らの民族自決の権利 を認めなければならないということです。第二は“平和の原則”です。それ は、統一であれ独立であれいかなる争いをも武力をもって解決するというこ とに反対し、武器を持たない人民を決して軍隊を用いて虐殺、弾圧してはな らないということです。第三は“移行”の原則です。もし統一か独立かをめ ぐって大きな不一致が生じた場合、すぐには解決できません。長期にわたる 話し合いを通して五年、十年後に、平等、和睦、相互信頼と利益を前提とし て、まずチベットに高度の自治を実現します。 つまりあなたのおっしゃる “中庸の道”です。人々は比較的長期にわたる理解と交流を通してよき友と なり、そこから互いに益を得ることで、統一か独立かの問題はそれほど重要 でなくなるでしょう。 もちろん、私はあなたよりもさらに強調しますが、 もしこのような長期に わたる移行過程の後、チベット人民が依然独立を希望し、 真の兄弟よりも よき隣人どうしである方がもっとよいと考えるなら、 チベット人民は人民 投票によって自らの前途を決定することができ、 中国の民主政府は必ず チベット人民の選択を尊重しなければなりません。 あなたは先程、もしチベットの民族と文化が滅亡の憂き目に遭えば、以後、 中国人は悔やむことになるだろうとおっしゃいましたが、私はそのような日 は絶対に来るはずがないと深く確信しています。中国共産党の統治者集団の 崩壊は更に目前に迫っているにちがいありません。中国には近い将来、必ず や民主政体が出現します。私たちはともにその日をこの眼で見ることができ るでしょう。
ダライ・ラマ :1994年、香港、台湾の法律専門家と大陸の民主化運動活動家の方々は、アメ リカで未来の連邦中国の民主憲法の研究を行われ、憲法草案を制定されたの でしたね。チベットの高度の自治権享受も明確に規定されました。
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【人類社会衆生のために幸福を求める】
薛 偉 :私はニューヨークにあって亡命したチベットの人々のことを知っています。 私たちはよく一緒にデモ行進や抗議行動、中国共産党に対する示威活動をす るのですが、チベット人の独立願望は非常に強く、みな団結し心を一つにし ています。こういった執念ともいうべき精神は、中国及び海外の人士たちに とても深い印象を与えています。
ダライ・ラマ :あなたに一つ寓話をお話しましょう。仏祖 釈迦牟尼がお生まれになって後 のこと、人相観を得意とするあるバラモンがおりました。彼は、釈迦牟尼が 将来人類を救済するお方となられるであろうことを観てとったのでしたが、 しかし彼自身は嘆いたのでした。 彼は言いました:「仏祖はその偉大なる 事業を成し遂げられるであろう。 だがその時わしはもう死んでしまってお る。」 そこで申し上げたいのです。チベットにもこういう可能性があるので はないでしょうか? つまり、 将来民主中国が出現するそのほんの少し前 に、チベットは息絶えてしまっているのでは?
薛 偉 :そのようなことはあろうはずがありません。私たちは決して嘆いてはならな いのです。今やチベット人民は自らの道徳と勇気そして不屈の抵抗の精神を もって、すでに国連を含む欧州議会と国際与論の全面的な支持と同情を得て います。 相当数の中国大陸の人士たちがチベット人民の苦しみと心の声を 十分に理解し、中国共産党のチベットにおける行為の真相を見分けて後に皆 が団結しともに立ち上がる、そんな民主的連邦中国が実現する日も遠からず やってくるでしょう。 去年、台湾を訪問した折り、こんな話をしました。 :「大陸に民主なくば 独立は不可能。大陸が民主化されれば独立する必要性もなくなる」と。 その時、民進党の方々が:「大陸に民主なくば統一は不可能。大陸が民主化 されれば統一の必要性もなくなる。」と反論されました。地球上のすべての 国々は将来、国家を超えた平等で自由な社会へと向っていくでしょう。もし 中国に自由で民主的な環境が出現すれば、チベットや台湾が独立への道を選 ぼうとすることは、客観的に見て歴史の潮流に相反することになるのではな いでしょうか?もちろん私は、“人々の幸福”というすべてに勝るこの原則 を終生変ることなく主張するでしょうが。
ダライ・ラマ :まさにあなたのおっしゃる通り、チベットの利益も中国が民主へと歩み行く 過程にかかっています。 中国の民主化運動に対しては、私はいかなる時も 非常に共感し支持しているのです。私は仏教徒であり、常に人類社会衆生の ために幸福を求めなければならないと説いています。 ただ中国が十二億の 人口を持つというだけでなく、彼らに幸福を得させるために、私は力の限り そのために生涯を捧げて尽くしたいと願っているのです。 ところであなたにお尋ねしたいのですが、近い将来、中国の前途にどのよう な変化と発展があるとお考えでしょうか?
薛 偉 :それはまさに、私が先ほど活仏にお尋ねした問題ですね。逆に私にお尋ねに なるとは。(笑)
ダライ・ラマ :チベットの問題についてあなたが私に尋ねられるように、中国の問題につい ては私があなたにうかがわなければなりません。(笑)
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【非暴力を貫く】
薛 偉 :中国とチベットの問題は不可分のものです。結局、現在のところ尚一つの版 図に属しているわけですから。実は中国においてまさに問題となっているの は、チベット問題でも、台湾、香港の問題でもなく中国共産党の問題である と私は考えているのです。 もし中共の専制統治が終われば、どんな問題も すべてすらすらと解決するでしょう。 中国共産党は禍のもと、中国のガン です。 目下、中国においては四種類の政治的な力が働いています。第一は中共統治 集団の力であり、それはすべての国家機関と富を掌握しています。 第二は 中国人民の力です。天安門“八九民主化運動”はすでに、時を得てその蓄え られた勢いを一気にはき出すという人民の巨大な潜在力を示したのです。 第三は台湾の力です。 土地は狭く人口こそ少ないが、 堅実でなかなかの やり手です。第四は海外及び香港マカオの中国民主化運動、そしてチベット の民主化運動を含む力です。これは国際世論の共感と支持を得て、中国国内 にもある程度の影響力をもっています。もし中共を除くこれら三種類の力が 機を得てしっかりと団結するなら、 第一の反動勢力、 即ち中国共産党の 統治を打ち破ることができるでしょう。しかし惜しいことに、様々な原因に よっていまだそこまでには至らず、中共一つが強大であるように見えます。 幸いなことは中国共産党は一枚岩ではなく、 その内部には闘争、 分裂が あり、いずれは瓦解するに違いありません。というのも中国共産党指導者の 権力というものは、神から授かったものでも君主から賜ったものでもなく、 いわんや民主選挙によるものではさらさらないからです。 それは暴力を以 って得た政権であり、“勝てば官軍、負ければ賊軍”という弱肉強食のジャ ングルの法則に則り、必然的に奪い合いの四分五裂状態を生み出し、政権は 始終確固たりえないのです。 ?ケ小平という偉大な家長が亡くなってから は、 江沢民はもはやかつての毛沢東が有していたような絶対権威を手にし 得ないでしょう。 いわゆるグループのリーダーというのは互いに対抗し合 っているということなのです。 “樹は静かなるを欲すれど風止まず”とは 歴史が証明していることです。 中国共産党には必ずや内部闘争が起り、 国内外の情勢の変化はまさに彼らの内部矛盾を激化させています。この矛盾 が表面化してきたら、私たちは“六四再評価”(1989年6月4日天安門広場で の軍による武力制圧は当局によって“暴動”に対するものと発表された)の スローガンを叫んで、?ケ小平氏にその責任を負ってもらいます。 中共の 内部闘争の一部も人民の力を借りてこそはじめて相手を打ち負かすことがで きるというものです。人民の支持を得れば、その人は必ず人民にお返ししな ければなりません。圧力のもとで譲歩政策を採り、政治において徐々に解放 と民主に向うというように。かつて胡燿邦、趙紫陽といった人たちがこのよ うな機会をもたらしたことがありました。 惜しむらくは中途にして早くも 舞台を去ってしまわれたことです。しかし人民はすでに血を流すという経験 をもって教訓を得ました。 先の三つの政治的な力が最終的にその力を合わ せれば、近い将来、再び天安門民主化運動が生まれ、 それはまさしく中国 共産党独裁政権の終わりを告げるものとなるでしょう。もちろん民主はそう 簡単にできるものではありません。ソ連、東欧ないしは台湾といったモデル のすべてが現れてくるでしょう。この十年以内に黎明の光を見ることができ るのではないかと私は思っています。穏やかに変化していく流れは妨げられ ないものなのです。 私にはもう一つ心の奥に秘めた問題がああります。あなたはガンジーのよう に非暴力主義を主張しておられますが、今のこの時代はガンジーの頃の背景 と相手とはまったく違います。 野蛮そのもののような共産党は民主制度の 英国とは違います。このような状況下にあって、あなたはどのようにチベッ ト問題における非暴力主義を勝ち取ることができるとおっしゃるのでしょう か?
ダライ・ラマ :ではお尋ねしますが、もし私がチベット人たちに呼びかけて、命懸けで血を 流すことをも辞さずに中国人と戦うようにしたら、あなたはここにいらっし ゃれるでしょうか?
薛 偉 :もしそれが中国共産党統治者に対するものであれば、私はここに来れます。 もちろんほとんどの中国人は来ないでしょうが。 それに一部の人々や国際 世論の同情を失うかもしれませんね。
ダライ・ラマ :(大きく笑い、その場にいた一人の台湾人ラマを指して) 彼は来ないです よ。人と人との間の問題はただ相互の対話を通して、相互に理解することに よってのみ解決されます。暴力は根本的な問題を解決できません。たとえば ボスニアとチェチェンですが、もし人々が承服しないなら問題を解決するこ とはかなり難しいのです。 中国とチベットの問題においては、ただ双方の 接触を通して話し合うという道があるのみで、外国の力や国際社会に頼った り、暴力に依っては解決できないものなのです。 ただ互いによく理解し共感と好感をもってこそ、深い溝も消え距離も縮まる のです。互いに殺戮と戦争をしていては、 行動と目的はかけ離れ、 両者 の距離はますます遠ざかるばかりでしょう。
薛 偉 :今のところ、共産党はあなたを無視して話し合おうともしないのに、どうや って?
ダライ・ラマ :再度申し上げるが、中国との話し合いの道は必ず開かれます。私はいつでも 中国人と話し合い、 チベットの問題を平和解決しようと望んでいるからで す。しかし中国側があくまでも話し合いを拒絶するなら、私にはもうどうし ようもないのです。そうなったら、もはや国際社会に呼びかけて、世論と多 くの人々の支持を取り付けるしかありません。 それと同時に、中国の人々 にチベット問題の真相を知ってもらい、私たちの立場をよく理解し支持して もらうように働きかけます。ただこうした非暴力の手段を用いてのみ、成功 を勝ち取ることができると私は信じています。もし破壊活動やテロ行動にう ったえるなら、これまでの一切の努力は水泡に帰するでしょう。 中国の問題は共産党の問題であるというあなたのご意見には私も同感です。 しかし、武装抵抗したり、暴力にうったえることで共産党を滅ぼすことがで きるでしょうか? チベット人にはそんな力はありません。 台湾でさえ軍隊や財力があっても共産党を打ち負かすすべがないのです。
薛 偉 :台湾といえば、 ちょっとお尋ねしたいのですが、 現在、中国においては 共産党と国民党の二つの政権があり、両者ともチベットは中国の領土である と高言しています。 しかしこの両政権は、独裁と民主という二種類の異な った政体に属しています。チベット亡命政府はこの両政権に対してそれぞれ どのような態度をとっているのでしょうか? 目下中共の武力による威嚇を受 けて危機感をつのらせている台湾について、また海峡両岸戦争勃発の可能性 についてあなたはどのようにお考えになられますか?
ダライ・ラマ :私たちは北京、台湾双方と連絡をとり続けています。北京との連絡は向こう から返事が来なくなり途絶えてしまいました。 現在、台湾の民主と自由の 発展には目覚しいものがあり、私はいずれまた台湾側と話し合うチャンスが 訪れると信じています。これは私の望みです。 チベットの地位問題に至っては、中共には中共の、台湾には台湾の言い分が あり、チベット人にもチベット人の言い分があります。このような不一致は さておいて、私たちはまずチベットが高度の自治を享受すべきであるという 点から話し合いを進めた方がいいでしょう。私たちが平等互恵の誠実な態度 を以ってするなら、この問題は話し合いのテーブルの上で解決できると私は 確信しています。 台湾の危機については、今や中共は武力で台湾を威嚇しており、状況はかな り深刻です。将来どのように展開するかは今のところまだわかりません。 台湾は、 経済発展と政治における民主と自由の進歩においてまさに中国大 陸の未来の民主制度への方向づけです。もし中国共産党によってつぶされる ようなことがあれば、それはとても悲しいことです。 まさに私が一貫して 主張しているように、 国と国、民族と民族の間で武力をもって争いを解決 することに、私は断固反対します。 中国共産党にはこの点をわかってもら いたいものです。
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【信念を失わず、闘志を強く抱き】
薛 偉 :海外に身を置く中国大陸の民主化運動活動家たちにご批判と望んでおられる ことをお話しいただけますか?
ダライ・ラマ :批判ですか…。互いに分かり合えれば、語り合うことで私はとても嬉しいの です。私は中国の友人に対して、民主化運動の人士であるなしに関わらず、 どんな人に対しても一貫して友好的な交わりを持ち続けています。私はいつ も彼らとチベット問題を語り、仏教のことなども話します。チベット人の闘 いもまた民主自由を勝ち取るものであり、基本的には私たちの目的は同じな のです。だから一切のチャンスを無駄にせず、彼らと互いに連絡をとりあい 互いに支え合うのです。これから先も、このようなつながりを持ち続けられ るよう私は望んでいます。 あなたがたに対して批判があるとすれば、一部の人たちは海外に出たばかり の頃は少なからぬ仕事をするのに、個人的境遇が少しばかりよくなると意志 と信念はしだいに萎えてしまいます。ある人たちの間では人事問題をめぐっ て互いに言い争い、公衆の事業と努力すべき目標をなおざりにしています。 1989年、 多くの大陸の民主化運動活動家たちが国外に到ってまだ数ヵ月の 頃、私は、ただ外国の支持に頼るばかりではいけない、自らの力に依らなけ れば、そうしてこそ成功を得られるのだと話したことがあります。私たちが 海外に亡命してすでに三十数年、あなたがたはようやく数年、私はあなたが たが決して三十年待つ必要はないと信じています。しかし最も大切な点は、 信念を失わず、闘志を萎えさせてはならないということ、これは非常に大切 なことです。 私たちは互いに友好的に協力していかなければなりません、同じ目標に向っ て努力奮闘するために。私は必ずしも一概に共産主義の学説に反対してはい ません。 半分仏教徒で、半分はマルクス主義者であると自称しているんで すよ!(笑) しかし共産党の専制と暴政には断固反対します。
薛 偉 :ほんとうにおっしゃる通りです。私たちは信念を持たなければ。未来はすべ て私たちの苦難と努力にかかっており、私たちは必ずや自由の精神を勝ち取 ることでしょう。いつかポタラ宮にあなたをお訪ねする日の来ることを私は 堅く信じています。
<完>
《北京之春》第68期−64(1999年 1月)より
チベット人は民族自決の権利を有する −自由アジア放送チベット部主任ンガポ・ジグメ氏単独インタビュー−
安 其(アン・チィ)
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ンガポ・ジグメ氏はその名前からも察せられるように、十七条協定調印で主役を演じ、ダライ・ラマ十四世のインド亡命後はチベットにおいて重要な役割を担ってきたンガポ・ンガワン・ジグメ氏の子息として中華人民共和国成立後の1951年ラサで生まれました。彼の成長期はまさに近代中国の激動の時代であり、荒れ狂う政治運動のさなか漢藏両民族の苦悩を身をもって体験してきたことは、彼をチベット問題解決において特別な使命を受けるに相応しい器につくりあげたとも言えるでしょう。 今回のインタビューでは中国の対チベット政策の変遷について詳しく語られている点がとくに興味深いものとなっています。
また、インタビュアーである安其氏の“其”は正しくは「王へんに其」と書きますがJISコードにないためこの字を充てました。ご了承ください。
【目 次】
序文 チベット問題が国際化した原因 中共の対チベット政策の変遷 ?ケ小平はチベットの“一国二制度”を阻み大禍を招いた 中央政府は金銭でチベット経済を歪めた 共産党に“邪悪な者とされたチベット” チベット人に自決の権利があることを認めよ チベット民族が公正な待遇を得られるように
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古今を通じて、それぞれの民族にはある時期にその歴史を代表するような人物が登場している。もし、共産党政権のチベットに対する残酷な統治がチベットの精神的指導者であるダライ・ラマを国外亡命へと追いやり、中共の天安門事件鎮圧によって国際社会の一層の関心と連帯を得て、伝統的に“神格化”されてきたダライ・ラマに現代文明の光栄が授けられたというなら、ンガポ・ジグメはこの光輪の下で重要な役割を担っている人物であろう。この歴史的使命感を担った現代のインテリは、宗教に対するが如き敬虔と、その機敏と叡智を以って自らに生命と智恵を与えてくれたチベット民族と漢民族との間で現代文明の火種を振り撒いているのである。
ンガポ・ジグメは1951年チベットのラサに生まれ、家庭の関係で幼少の頃からよい教育に恵まれてきた。1959年、小学校二年でラサから北京の民族学院付属小学校に転校し、64年には北京第四中学に進学する。“文革”期に出身家庭の影響で、68年内モンゴルの生産隊に入りその地に定住する。彼の人生経験はここに始まるのである。 1972年、第一期工農兵学生(訳注:文革期の労働者、農民、兵士出身の学生)として内モンゴル師範学院外国語学科に学び、卒業後、西藏師範学院、ラサ中学で教鞭をとった。78年に大学院受験者の募集が再開され、ンガポ・ジグメは北京の中央民族学院(訳注:現在の中央民族大学)大学院に合格し、専らチベット民族史研究に没頭する。82年、修士号を取得すると中央民族学院に残りチベット学研究所の助手研究員になった。1985年には国外留学し、相次いでインド、ネパール、フィリピン、香港等を訪れている。1987年、米国バージニア大学の政治外交学科に入学、国際政治と外交政策を専攻する。 1990年、ワシントンに本部を置く“国際チベット支援センター”で働くようになり、研究員と政治アナリストを勤めるかたわら、88年から《チベット論壇》の編集を長期にわたって兼任している。
長年にわたって国家と民族の移り変わりを目の当たりにしてきたことに加え、さらにチベットの歴史と中国の文化に対する深い理解は、ンガポ・ジグメに、愛してやまぬ漢藏両民族の間に開いてしまった隙間を埋め合わせ、中共がつくった深い裂け目に掛け橋を渡すという決心をさせたのであった。こうしてチベット高原の血統と現代文明との橋渡しをすることで、彼は当代まれに見る卓越した天与の才を顕わしたのである。即ち、彼の思考と見通しは多種多様な現行の政治に惑わされることなく、彼の憂慮は民族と国境を超え、政治的な実用目的をも超えて、“中国”を仮想敵とせず“民族”を盾としないで、チベットを様々な政治的争いの場から救い出そうと試みることで、少なくとも、いつも政治の騒々しさの裏で安易に軽視されているチベット人たちのほんとうの思いと彼らの切実な利益−これこそはチベット民族が存在している真の証明である−に人々の注意を向けることができるのである。このことから、彼は反逆者と言うより、むしろまず建設者なのである。 1996年、ンガポ・ジグメは米国の自由アジア放送チベット部主任となり、チベット向けの放送を担当している。ジャーナリストとして彼は初心に忠実であり、ダライ・ラマ政府とさえ一定の距離を保ち、ジャーナリズムの客観性独立性を守っている。
先日、わたしは一個人としてワシントンのンガポ・ジグメ氏を訪ね、お話を伺う機会を得た。
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−チベット問題が国際化した原因−
安 其: 近年、チベット問題はますます国際化の傾向を見せていますが、その原因はどこにあるのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: チベット問題の国際化は実は早くから始まっており、今世紀初めにはイギリスと帝政ロシアがチベットに介入していました。当時のいわゆる強権的国際政治の観点から言うなら、チベットというこの広大な高原に足場を築きさえすればアジア全域を押さえることができたのです。ロシア皇帝はチベットを支配しようとし、イギリス人はそれを阻もうとしました。その間、ロシアとイギリスが合意したこともありました。即ち、双方ともチベットに手出しせず、チベットの“宗主権”は大清帝国に帰するというものです。こういった大国間の奪い合いはすでに国際化していたのです。しかしこの国際化はその後の数十年、ある時は活発化しまたある時は停滞したりで、西洋はその後ますますチベットにかまけていられなくなり、第一次世界大戦後、彼らはなおさら自分たちのことで精一杯になりました。それで1920年〜30年代には彼らがチベット問題に介入することはまったくなかったのです。 第二次大戦期間中、連合軍はビルマから中国の戦場へと戦火を移しました。ビルマが日本に占領されて輸送ルートが断ち切られると、連合軍はチベットに道路をつくり戦争物資を輸送することを考えましたが、チベット政府はこれに応じませんでした。というのも当時チベットはかなり保守的で、外部世界からの働きかけに対しては誰であれひどく用心していたのです。とりわけ西洋諸国に対してはなおさらのことでした。当時チベット政府は中立を守ることが多く、大戦参加国のどこにも肩入れしなかったのは、もし道路をつくれば人がやってくるだろうし、そうなれば将来持ちこたえられなくなることを恐れたためでした。話し合いの結果、ついにチベット側は空路を開いて、援助物資を中国の戦場に運ぶことにことに同意しました。 50年代に中共がチベットに進軍し、59年、チベットに対する全面統治を行うようになって、チベットの最高指導者ダライ・ラマが国外へ逃れると、チベット問題は再び国際的な話題になりました。87年、チベットでは暴動が起こりましたが鎮圧され、89年には比較的大規模な抗議行動があり、これも当局によって軍事管制がしかれました。実は、60〜70年代にもチベットでは同様の抗議や暴動があったのですが、当時中国は外部に開かれておらず、内部でどれほどの騒ぎが起こっても外部には伝わらなかったのです。80年代の改革開放以後、多くの西洋人観光客がチベットを訪れ、テレビやビデオで紹介され、ニュースなどでも報道されるようになりました。こうしてチベットで起こったことがいち早く国際的に取り上げられるようになったのです。ここ数年で、国際世界ではチベット問題に対する関心がますます高まり、その最大のターニングポイントとなったのが89年の天安門事件でした。また、1959年にダライ・ラマが亡命してからそのあとに従って数十万人のチベット人が世界各地に散らばりましたが、チベットの宗教活動も世界各地で展開されるようになり、これが国際社会のチベット問題に対する理解を促したとも言えるでしょう。と同時にダライ・ラマ法王ご自身のイメージが世界中の多くの人々を引き付けていることも重要な原因の一つとなっています。
安 其: 現在の観点から、チベット問題の難しさはいったいどういうところにあるのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: チベット問題はきわめて複雑な問題です。総じて言えば、民族問題、宗教問題、文化の衝突の問題といった大きな問題であり、さらに何よりも政治問題であることです。この点において国際政治の影響も受けているのです。以前チベット人は伝統的にインドとある種の文化的関係もっていた外は、政治の上ではほとんど何の関係もありませんでした。西洋の植民地主義が盛んになってから、インドはイギリスの植民地となり、大英帝国の勢力範囲は拡大しつづけ、西洋の中国に対する門戸開放等の影響力は当時の清朝政府に大きな変化を引き起こしました。清朝は早くからチベットと一種の宗主国的な関係を維持していたので、チベットを完全に統治しようとしたわけではありませんでしたが、西洋列強が進出して清朝の為政者に大きな影響を及ぼすようになったため、チベットという地盤を安定化しておかないならこの地を押えることは困難になるだろうと考えたのです。チベット問題は単純な民族問題、或は他のいかなる問題でもなく、様々な矛盾といろいろな問題の絡み合いなのです。
安 其: ではチベット独立の訴えとはいったいどういうものなのですか? 政治的な表現に過ぎないのでしょうか、或いはほんとうに独立することを求めているのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: チベット独立の訴えもまた多様な意味を持っています。ある意味でははあなたのおっしゃるように一種の政治的な要求であり、またある意味では今の世界の民族独立という潮流でもあります。これもまた政治レベルにおける一種の要求です。さらにもう一つ、文化と民族の心理的なものからくる訴えがあります。 チベットのような民族は、昔からあの高原に暮らしてきたのであり、外界との接触があったにせよ外部の人間が入ってくるのもチベット高原に住んでいる者が他の土地へ降りていくのも非常に困難なことでした。基本的に自分たちで成り立っていくというタイプの社会だったわけです。しかもこのような広大な高原で自分たち独自のまったくユニークな−世界のどんな文明とも大きくかけ離れている−一連の文化、文明を育んだのです。チベット人は歴史上、中国ともしばしば密接に関わってきました。しかし中国の皇帝たちは今までチベットを支配したことはなく、モンゴル人もチベットを征服しようとしましたが、やって来るとまた去っていきました。ですからチベット人は古来より外部民族に完全に占領されたり統治されたことはなかったのです。中共がチベットを全面的に支配していることは、チベット民族にしてみればまったくたまらない気持ちなのです。
−中共の対チベット政策の変遷−
安 其: 中共がチベットを支配するようになって、チベットに対する政策はどのような発展過程を辿ったのでしょう?
ンガポ・ジグメ: 中共のチベット政策は幾度も変わりました。50年代初期、中共のチベット政策はかなり慎重なもので、毛沢東は当時、チベット問題に対してかなり注意を払い言行の程合いをわきまえていました。59年までは中共のチベットに対するあらゆる政策に毛沢東自ら関わっていたということです。当時、中共のチベット政策は順を追って一歩一歩進められ、きわめて注意深く行われていたのです。 現在ある人は、香港の一国二制度はチベットに適用できるのではないか、と言っています。実際、チベットは1950年から1959年までの間まさしく一国二制度でした。当時チベットは「祖国の懐に帰る」ということを受け入れ中国の統治を認め、中国政府もまたチベット地方政府を承認し、チベットは従来どおり現行の社会制度を維持し、現行の政府が引き続き政務を行い、ダライ・ラマ制度もそのまま引き継ぐことができたのです。もちろん中国政府も、チベットは一歩一歩民主改革を行わなければならない、と言いましたが、しかしそれはチベットの人民と上層の意思しだいで、彼らが改革を望まないなら遅らせてもよい、というものでした。そういうわけで、この時期チベットの改革はかなり安定したゆとりあるもので、一国二制度だったと言えるでしょう。59年以後、チベットでは“民主改革”が実行され、政策は年々左傾化していきました。これは当時の中国の情勢とも関係があります。57年の“反右派闘争”、58年の“大躍進”、59年には彭徳懐が党の左傾化路線に異議を唱えましたが、政府はさらに左傾化を強めました。この時、まだチベットにはダライ・ラマがいてチベット政府も機能していたので、多少は遠慮しないわけにもいかず、あまり行き過ぎたことはできませんでした。59年以後、ダライ・ラマが追われて亡命しチベット政府も解散すると、何はばかるところもなくなり手をつけ始めたのです。その結果、中国内地で推し進められていた地主追放と農地開放がチベットでも行われるようになり、チベット伝統の社会制度はすべて打ち砕かれ、これに続いてまた文化大革命等が起こったのです。 80年代初めには改革開放政策が開始されました。80年、チベット視察に訪れた胡燿邦はその現状のあまりのひどさを知って一連の新たな政策を打ち出しましたが、ある政策は実行されたものの手をつけてほどなく止めたものや実行されないものもありました。例えば、胡燿邦が対チベット政策として打ち出した“民力回復”政策は、税金を三年間免除し、その後の状況次第でなお必要とあればさらに免税を考慮するというものでした。さらに彼は、チベットに派遣されている85パーセントの漢族幹部を引き上げさせることを打ち出しました。彼らもチベットにとどまることを望んではおらず、大部分は追いやられて赴任していましたから、こうした政策は皆から歓迎されました。しかし胡燿邦の政策を投降主義だと感じる人々も多く、この政策が実行されて数年後には打ち止めになってしまいまいした。胡燿邦が失脚した時、この事もまた彼の対チベット政策の誤ちとなってしまったのです。
安 其: 胡燿邦はなぜ赴任してまもなくチベット視察を行ったのですか? チベット人の彼に対する印象はどんなものだったのでしょう?
ンガポ・ジグメ: チベット人は胡燿邦の非常に寛大で度量の広い人となりにかなり好印象をもっていました。もちろん胡燿邦のチベット視察の初めの頃は、彼が何をしに来たのか理解しようとしない人たちもいました。それまでにチベットでは小規模な暴動がいくつか起こっていたのです。79年からになりますが、当時中央政府はダライ・ラマ側と接触を保っており、?ケ小平はこう考えていました;ダライ・ラマは亡命して国外にありチベットの現状を知らない、チベットでは立ち上がった農奴たちがとっくに解放されたのだ、と。それで彼はダライ・ラマに帰還して現状を見るようにもちかけたのです。ダライ・ラマはすぐに代表団を派遣しました。代表団がまず甘粛省及び青海省のチベット区を訪れると、その一帯の幾千幾万のチベット人たちが拝謁しにやって来て彼らを歓迎しました。当時中央が派遣した同行者たちはみなこの事態に驚愕してさっそく中央に報告しました。代表団がすぐにラサへ向けて出発するために、中央は時を移さずチベット自治区の責任者に、「甘粛と青海ではこういう状況であったがそちらではどうか?事態を押さえきれるか?」と打電しました。自治区の責任者は「問題ありません、こちらの解放されたチベット人農奴たちの自覚は高く亡命した連中には目もくれませんから、彼らに対してどうということもないでしょう」と答えて、中央はようやく安心しました。しかし代表団がラサに到着するや自治区中が沸き立ったのです。当地のチベット人たちは代表団に拝謁するだけでなく、彼らに自分たちの苦境を訴えました。当時わたしは北京におり、こういった状況を耳にしてとても驚きました。こんなことが起こるなんてまったく想ってもみなかったからです。チベットが平定されてすでに二十年たっていたのにチベットの人心の向背という問題は未だ解決されておらず、チベットの民衆はなおダライ・ラマを待ち望み、その心はなおダライ・ラマに向けられていたのです。だからこそ胡燿邦の視察が行われたのです。
−?ケ小平はチベットの“一国二制度”を阻み大禍を招いた−
安 其: 先ほどのお話では、49年から59年にかけて相対的に中央の政策は寛容であったということですが、それではなぜ59年の“暴動”が起こったのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: この問題は実のところ非常に複雑なものです。59年の“暴動”はチベット自治区から始まったものではなく、まず四川省、雲南省それに甘粛省、青海省のチベット区から起こったものなのです。どうしてこれらの地域で発生したのでしょうか? これらの地域では53、54年から“民主改革”(訳注:封建的社会制度からの解放を意味し具体的には土地、婚姻制度等の改革、及び農奴解放を指す)が実行されました。 この問題においては当時中共指導部内に意見の相違があり、後に毛沢東も言っていることですが、チベット改革問題において毛沢東と李維漢は保守派であり、?ケ小平と李井泉は急進派でした。?ケ小平と李井泉は甘粛青海のチベット区に民主改革を推し進めようと極めて力を入れていましたが、毛沢東はむしろ慎重で、これらの地域にすぐに民主改革をすすめることにはけっして賛成していませんでした。第一に、これらの地域で民主改革を押し進めたならチベット自治区の安定に影響を及ぼしかねない。第二に、そうなれば中国のインドとの関係に影響が出る。50年代、中印関係は非常に良好で、インドの首相ネルーは中国に対してとても友好的で、この東洋の老大国が手を携えて共に西洋の植民地主義に反対するなら、全世界の帝国主義と植民地主義に対抗する新興勢力の代表になる、と考えていたのです。 ?ケ小平は後に香港に一国二制度を打ち出しますが、しかし50年代、彼はチベットの一国二制度に最も強く反対したのでした。この事は誰も取り上げていませんが根拠はあるのです。?ケ小平は当時、甘粛、青海、四川省のチベット区にまず民主改革を行うことを打ち出しました。民主改革が行われるや、それら地域の寺という寺はことごとく改革されました。寺はチベット人の伝統的な社会生活の中で非常に重要な役割を占めていました。寺は宗教的な中心であるばかりでなく、経済の中心でありまた交通の中心でもあったのです。寺はチベット人にとって精神的な導きを行うばかりでなく教育センターの役割も果たしており、人々はみな寺に来て教育を受けたのです。多くの寺は自分たちの土地と荘園を所有していましたから、これらの土地が改革でなくなってしまうとたくさんの住職たちが打撃を受けました。かくしてこれら地域で大規模な抵抗を引き起こすことになったのです。抵抗するや鎮圧され、鎮圧されればこんどは山にこもってゲリラ戦に出たのです。この地域のチベット人はみな、荒々しい気性で銃を帯び村と村で常にけんかの絶えないことで知られるカムパです。もちろん解放軍は彼らの敵う相手ではなく、すぐにチベット自治区方面へ逃れて行きました。
中国政府は十七条協定で、チベットでは民主改革は行わないと言っています。そのチベットとはチベット自治区を指しておりその他のチベット区域を含んでいません。しかしチベット人の伝統的概念においては、チベットといえばこれらのチベット区域も含んでいるのです。川向こうもこちら側も行政区域としては分けられますが、しかしみな一つの家族です。兄弟が川向こうにいてわたしたちがこちら側にいるとして、わたしが殴られたらもちろん川向こうに逃げます。みな同じ民族、宗教、文化、伝統習慣なのです。どうして向こう側に影響が及ばないことがありましょう。その後事態はますますひどくなり、57、58年になると、四川、雲南、甘粛、青海一帯で叛乱が起こり始め、鎮圧されるとチベット自治区に逃れたのです。おそらく数十万人にのぼる武装難民が自治区へ逃げ込んだでしょう。
安 其: 国際的な介入はどのように役立ったのでしょう?
ンガポ・ジグメ: 国際的な介入もありましたがまったく役に立ちませんでした。アメリカのCIAが訓練したという特殊部隊が空から潜入しましたが、ほぼ全員捕まってしまい何の効果もありませんでした。主なものはやはり内部で自然発生した叛乱で、しまいにはますます抑えきれなくなり、結果として59年の大禍を招いたのです。
安 其: 59年の鎮圧に関するデータで詳細な統計が出されたことがありますか?
ンガポ・ジグメ: いいえ、データは混乱したものです。チベットでは60年代に辺境のゲリラ隊が解放軍の軍用車から公文書を奪ったことがあり、そこに叛乱が平定されるまでの間、八十九万人を殺害したとあるそうです。わたしはその文書を見たことはありませんが彼らが出版した写真を見ました。中国側は終始この方面のいかなるデータも出していません。亡命政府が後に出した死亡者数では百万人、また百二十万人とも言っています。もちろんその数字には、中国の軍隊に殺害された人たちだけではなく非自然死、及び自然災害に遭ったり飢え死にした人と中共統治下で様々な原因によって亡くなった人たちも含まれています。人口比率から計算するとこの数字はあまりにも多すぎるので、わたしは今まで保留にしてきました。わたし個人としては、チベット全域−ウ、ツァン、カムのチベット三区を含めて、三、四十万人くらいであったろうと推測しています。
−中央政府は金銭でチベット経済を歪めた−
安 其: ある人は、?ケ小平は金でチベットの安定を買う政策を行った、と言っています。チベットには毎年十数億元もの大金がつぎ込まれていますからね。こういった情況はチベット人の意識変化を促しているのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: 80年代後期、とくに90年以後、?ケ小平の政治における周到な支配がかなり明確に顕れてきました。その一方で、物質面での優遇が図られました。たとえばチベット自治区の現在の財政収支は90パーセント以上が中央政府からの割当金です。つまり、政府の毎年の予算収支は税金を徴収してこれに充てるのではなく、直接中央から割り当てられたもので、中央がチベット自治区を養っているに等しいのです。80年代初期、グラウンド、ホテル、大型発電所等の数十項の大規模プロジェクトが実行され、中央は多額の資金をつぎ込み、チベットにとってその影響は確かに大きなものでした。しかし経済における投資が大規模化するにつれてチベットの経済は偏って発展してしまったのです。というのも、もともとの基礎の上に自ずと発展形成され自分たちで市場を有し生産するという健全なものではなく、中央からの資金援助をただあてにするだけのものだからです。もし中央の資金援助がなければチベット全域の経済は麻痺してしまい、多くの人が食べていかれなくなってしまいます。しかも、金銭援助というこの方法はただ一部分の人々を富ませるだけで、社会においてあらゆる人が平均的に利を得るというものではありません。とくに農牧民や辺境の農民はおいてけぼりのままです。同時に、中央が金銭的援助を行うようになって内地からのたくさんの移民を養う結果となり、経済的な利益の多くは彼らが得て、チベットの民衆がその恩恵にあずかることはあまりありません。チベットから来た人たちと話してわかったことですが、ほとんどの人からこうした答えが返ってきました。チベット経済の偏った発展は一部の人たちを拝金主義にし、経済の勢いは道徳を腐敗させ、チベット民族の文化さえもその影響を受けているのです。
安 其: 近代化や発展ということ自体がチベットの宗教や言語にある程度の影響を及ぼすのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: 近代化、商業化の影響は相当にひどいものです。もし共産党のこの方面における政策が適切なものであれば、チベットの宗教文化が受けた影響もそれほど大きくはなかったでしょう。チベット文化には保守的な部分もありますが、かなり開放的な一面もあるのです。チベット文化は包容力に富んでいるので外来文化を吸収しやすく、それら外から入ってくるものを自らの中に包み込む性質があるのです。仏教はまさに外来文化から採り入れ吸収してきたものです。共産党がこの点で保護政策をとっていたなら、近代化の影響は避けられなかったにしてもそれほど破壊的なものにはならなかったでしょう。
安 其: 共産党は90年代、チベットの多くの寺院を修復したのではありませんか?
ンガポ・ジグメ: わたしは85年以来帰国していません。《人民日報》によれば、共産党は90年代に千七百個所のお寺を修復し相当のお金を費やしたということです。しかし多くの人たちは共産党の宣伝を信じてはいません。というのも共産党はすべてを明らかにしてはいないからです。例えば、いくらいくらかけてポタラ宮を修復したと言いますが、どうして修復しなければならなかったかということには触れません。1959年の共産党による砲火でポタラ宮が破壊されたとは言わないのです。また文革中、毛沢東が深く洞窟を掘って食糧を貯め込んだ時、ポタラ宮の建つ丘の麓にも穴を掘り、建物の基礎をまるっきり壊してしまったのですが、このことについてもまったく触れていませんでした。
安 其: チベットの言語と文化の継承という問題について、多くのチベット人たちはみな心配しており、チベットという民族が歴史の上から消え去るのではないかと危惧しています。彼らの心配には根拠があるのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: あります。しかしチベットという民族はそんなに簡単には消え去らないと思います。というのも、チベットは非常に古くからある民族で、自らの文化、宗教を有し比較的保守的な一面もありますから、それほど簡単に完全消滅してしまうことはありえません。しかし、現在受けている影響は非常に大きなものです。チベットは数百万人、内地は十二億の人口、千分の一の比率から見ればチベット人を呑み尽くすこともできるでしょう。
安 其: 西側のメディアは、中共はチベットに対して植民地政策をとっていると言っています。この事についてどうお考えになりますか?
ンガポ・ジグメ: チベット自治区については、いまのところ内地からの大量の移民はありません。しかし、四川、雲南、甘粛、青海などのチベット区域ではすでに民族構成に大きな変化が顕れており、四十年前とはまるで違ってきています。例えば、青海には六つのチベット族自治州があり、二つの自治州では現在チベット人が85パーセントという大多数を占めています。もう二つはだいたいチベット人が65パーセント。のこる二ヶ所の自治州ではすでに漢人が大多数を占めており、そのうちの一つでは80パーセントが漢人です。中央の政策では今のところあからさまな植民地政策というものはありませんが、しかしこの五年間に内地の人間がかなりたくさんチベット自治区へ商売や仕事にやって来て、様々な特典に与っているのです。もちろんこういった人たちも多くはチベットに留まりたいどころか帰りたいのですが、帰りたくないと思っている人たちもたくさんいます。帰郷してもそれほどお金を稼げるわけではなし、チベットほど簡単に稼げるところは他にないのです。来たばかりの頃はおそらく不慣れであっても、住んでいるうちに慣れてきます。こういう人はこれからどんどん増えてくるでしょう。それに、チベットは長年にわたって入ってくる人ばかりで出て行く人はほとんどいませんでした。今のところはそれほど人は多くないようですし、発展の勢いもちょっと見ただけではわかりませんが、もしこのまま五十年も続けば、たぶんまったく様変わりしてしまうことでしょう。その時には問題も大きくなっています。
−共産党に“邪悪な者とされたチベット”−
安 其: 海外でチベット問題について話し合うとき、話題の的となるのは漢族とチベット族の衝突の問題です。聞くところでは、実際ほとんどの漢人は、宗教に対する畏敬という点からチベット人に対して感情の上では近いとはいえ、チベットのことを理解していません。漢藏両民族衝突は何に起因しているとお考えですか?
ンガポ・ジグメ: 実は歴史的伝統の上では、漢族とチベット族の間に何らの衝突もありませんでした。さらにチベット人は漢民族を非常に高度の文明をもっているということで終始敬服し尊敬していたのでした。吐蕃の王が文成公主(訳注:唐太宗の皇女)を娶ろうとしたのはまさに大唐帝国の文化、文明に憧れたからであり、文成公主を妻とすることが自分の光栄であると思ったからでした。それにチベット人は漢族の文化から多くのもの学んでいます。例えば、チベット人がやっている食堂ではその料理の多くが中華料理の応用ですし、チベットの野菜の名称はジャガイモとエンドウがチベット名である以外、白菜、大根、にら、芹菜等、90パーセントが漢族の名称をそのまま使っています。ですから、歴史的にはチベット人は漢民族に対してなんら本気で衝突するとか恨みを抱くといったことはありませんでした。 もちろん唐朝とチベットの間に最初の戦があったことも確かですが、それは仕掛けられればやり返すというというものでどちらにも責任があり、しかもチベット側の侵略性のほうがやや強かったのです。また仲の良かった時期も多くありました。明朝の頃などは、チベットのラマたちが我も我もと北京に上ったのです。なぜかと言えば、当時の明朝の皇帝は彼らにたくさんの贈り物をしたからです。それもわずかなものではありません。チベットのラマたちが満杯になった車を連ねて北京からチベットへ引いていくほどのものでした。それで彼らは特に喜んで北京の皇帝の元に挨拶に訪れたのです。そのため明の朝廷は、あまり来てもらっても困るので「年に一度だけ来朝すればよろしい」と指示を出したほどでした。 漢族とチベット族との衝突は清朝に始まったことです。清朝政府がチベットに派遣した駐藏大臣はチベットで兵を動かし、清朝末期にはチベットの辺境で土地改革を行い、チベット人たちの生活区域を完全に破壊して彼らに漢字の姓を押し付けたのです。満州族の清朝がもたらしたこのような民族間の衝突で、チベット人は、満州人であれ漢人であれどっちみちみな中国人なのだ、とみなすようになったのです。
安 其: どうして現在、民族間の対立がこんなにも激しいのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: 共産党の政策が民族対立を激化させたのだ、と言えるでしょう。国民党はチベット本土を統治したことはなく、辺境のチベット区に対しては現地の部落長を通して間接的に治めていました。共産党が入ってきてから、チベットはまったく完全に歴史上はじめて外部民族による統治を受けるようになったのです。共産党は大々的にチベットの民族文化を破壊し、ダライ・ラマと数十万人のチベット難民がインドへ逃れるという事態を引き起こしました。これはまったくチベットの歴史始まって以来の出来事でした。
安 其: ずっと伺いたいと思っていたのですが、共産党が宣伝しているチベットは、わたしたちが子どもの頃見た《農奴》という映画に描かれています。その映画の中で、地主が自分の農奴チャンパに残酷な仕打ちを加えているのですが、ほんとうにそんなことがあったのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: 共産党のチベットについての宣伝の中で、59年から始まったものの多くはみな偽りです。現在、アメリカは“中国を邪悪視している”と言う人がいますが、実は、共産党はとっくに“チベットを邪悪視”していたのです。最近、「中共は三十年間チベットを邪悪視してきた」と語った論文が出ましたが、まさにそのとおりです。かつて言われてきた生皮を剥がすとか、眼球や頭蓋骨を抉り出すとか、さらには子どもを寺の塀の隅に生き埋めにするとか、そんなことはまったくありません。生皮を剥がすとか眼球を抉るといったことは絶対になかったというわけではなく、百年に一度か二度はあったでしょうが、いずれの場合も私刑です。似たような私刑はどの社会にもあります。このように追求するなら、どんな社会、民族にもこういった残酷なことはあるものです。漢人はつい最近まで女の子の纏足、男の子の去勢ということを行っていました。共産党は、チベットを最も野蛮で未開で愚昧な暗黒社会としたのです。このような宣伝を内地の人たちが耳にしたらどうなるでしょうか? 今日に至るまで多くの漢人が、チベットといえばまず野蛮さ、残酷さを連想するのです。
−チベット人に自決の権利があることを認めよ−
安 其: チベット伝統の宗教制度をどう思われますか?
ンガポ・ジグメ: かつてのチベットの僧侶制度は政教一致制で、決してよい制度とは言えず、ヨーロッパ中世の情況によく似たものでした。こういった神権政治、政教一致制はおそらく歴史においてなんらかの効果を発揮したことがあるのかもしれません。しかしこんにちの世界においてはすでにあまりにも時代遅れで、改めなければならないものです。チベットの活仏転生制度も改変しなければならないものでしょう。この制度は多くの問題をはらんでいるからです。この点でダライ・ラマもいろいろお考えをお持ちのようで、もしかすると自分が最後のダライ・ラマとなるかもしれない、と語られ、これからのダライ・ラマをいったいどうするのか、必要なのか不要なのか、、ダライ・ラマ制度は選挙を通して選出する方法をとるべきで、人々が自ら決定すべきものではないか、ともおっしゃっておられます。さらに、チベット人の寺院建立にかける執念があります。たくさんの人がラマ僧や尼僧になりたがり、一生かかって蓄えた蓄財もみなお寺に寄進してしまうのです。そうすればよい来世に生まれ変われると信じているからです。こういう人たちはとくにかわいそうです。この蓄財を生活のために役立ててもいいし家を建ててもいいのに、どうして寺に寄進しないと気が済まないのでしょうか? こういった点で確かに大きな変革が必要なのです。もちろんすぐにできるということではありませんが、少しずつ変えていかなければなりません。宗教というものは人類が生まれて以来、人の思いの中にいつも存在してきたものです。マルクス主義を信じていようと科学を信奉していようと、心の飢え渇きというものが常にあるのです。
安 其: ダライ・ラマは早くから政教分離の問題に触れていますが、しかし彼一人で決められる問題ではないようですね。例えば、ダライ・ラマはチベットにおける高度の自治を主張していますが、チベットには独立を主張している人たちもいます。現在チベット人のダライ・ラマに対する連帯意識はどの程度のものとお考えですか?
ンガポ・ジグメ: チベット人のダライ・ラマに対する連帯意識は非常に高いもので、チベットでは広範囲にわたって人々の中で比類ない信望を集めています。しかしこの四十数年の間に、中共もまたチベットにおいて多くのチベット人を育ててきました。こういった人たちがどの程度ダライ・ラマに従っていくかということも問題です。ダライ・ラマがおっしゃっておられる問題、例えばダライ・ラマ制度をチベットの多くの人々に決定してもらう等々ということに至っては、彼らがそれを受け入れるかどうか、わたしにははっきりしたことは言えません。ダライ・ラマ制度は歴史の中で生まれ、歴史の中で受け継がれてきたもので、チベットの遺産なのです。ですから、このことはダライ・ラマ制度の問題というだけにとどまらず、チベット民族全体の歴史的遺産の問題でもあるのです。わたしたちがどのように受け止めるか、どのように受け継いでいくか、受け継いでいく課程において現代の各民族のそれぞれ異なった文化をいかに排除することなく新しいものを吸収し、旧来の伝統にある良いもの悪いものをはっきり見分けていくか、これはチベット民族が直面している非常に重大な課題です。この挑戦に応じられるかどうか、これは大きな試練です。
安 其: 民族自決という方法はチベット問題に適用できるのでしょうか?
ンガポ・ジグメ: 民族自決は民族問題を解決する上でとても重要な原則であり、民族抑圧を避けるには比較的理に適った解決方法です。この民族自決の権利があるからこそ、弱小民族は自らが当然有すべき権益を勝ち取り保持していくことができるのであって、宗主国であれ大きな勢力を持つ民族であれ、完全に意のままに弱小民族を抑圧することは不可能であり、小民族に対応してかなり慎重にその利益と権益を尊重するでしょう。さもなければ弱小民族は離れていってしまいます。民族自決というものは一種のバランスコントロールの方法なのです。民族自決が提起しているものはまさにこういった想定に基づくものであり、武力や強権に関わることなく民意を汲み取る方法で民族間の衝突を解決するということです。もちろん具体的に実行していくにあたって、民族自決といっても何を決めるのか?ということでそれぞれちがったやり方が出てくるでしょう。しかし一つの原則として、民族自決の原則はチベット問題にとっても適用できるものです。 チベット民族は、その歴史、伝統、民族文化、特徴からいって絶対に民族自決の権利を有しています。チベット人にこの権利があることをまず認めなければなりません。彼らがどんな決定をするかについては、また別の問題です。民族自決の権利を認めてから、未来の中国の指導者でもチベットの指導者でも、各方面の利害、中国の利益、チベットの利益を考慮しなければなりません。チベットが中国のもとに留まっても留まらなくても、いずれにしても話し合いはできます。わたしはまず基本的な連帯意識をもつべきであると思っているのです。
安 其: 海外の亡命政府や亡命チベット人たちはチベットの発展にとってどんな役割を果たすことができるでしょうか?
ンガポ・ジグメ: 海外の亡命活動は今までのチベットの伝統を引き継ぎつつ将来の発展への道を開いていくことができる、とわたしは考えています、即ち、彼らは伝統を継承し守っていくと同時に、外の世界からもよいものを学び取りさらにそれを普及させていく、というマスメディア的役割を果たすことができます。しかし真の主役はこういった海外のチベット人ではなく、その大部分がチベット内地に生活しているチベット人たちなのです。
−チベット民族が公正な待遇を得られるように−
安 其: この過程においてあなたご自身が果たされる役割とはどのようなことでしょうか?
ンガポ・ジグメ: わたしの仕事は、チベット民族が公正な待遇を得られるよう努力すること、チベットの権利を尊重するように働きかけることです。これまでの経歴と受けてきた教育によって、わたしにはチベットの歴史、チベット人の心の動きがよくわかると同時に、中国文化にも引かれ、それを心から愛しており、中華民族をとてもすばらしい民族だと思っています。たとえ彼らに多くの欠点があり多くの困難を経てきたにせよ、彼らは悠久の歴史をもつ民族であり、また将来性のある民族なのです。ある方面においてはもしかすると漢藏両民族間の交流を促進することができるのではないか、両民族の掛け橋となって相互のつながりをつけることに役立てるのではないかと思っています。
安 其: あなたは現在、チベット向けの放送を担当されていますが、その主な目的はなんですか?
ンガポ・ジグメ: チベットには報道の自由がなく情報もないので、それでわたしたちは正確で客観的公正な情報やニュースを提供しているのです。チベットではこの数年、情報取得という点である程度の進歩が見られましたが、実際にはなんらの報道の自由もありません。人々が外の世界を知ることはかなり制限されており、チベット内部のことについても報道規制があるため放送されることはめったにありません。わたしたちの放送を通して人々にイデオロギーで歪められたものではない正確で客観的公正な報道を提供していけたら、と望んでいます。
安 其: 情報はどうやって手に入れているのですか?
ンガポ・ジグメ: 大手通信社のニュースを含む各方面の情報がすべてそろっています。わたしたちのところには主にインドから来たチベット人レポーターが数名おります。チベット内地にレポーターのネットワークをつくりたいと思っていますが、難しいですね。電話さえうまくかからないことがあります。
安 其: ジャーナリストとして、西側で主流となっているチベット問題のとらえ方、扱い方をどのように評価されますか?
ンガポ・ジグメ: わたしの見たところでは、西側の主要な社会でチベット問題を話題にすることはさほど多くないようで、近年に至ってようやく増え始めた感があります。一般的にいえば、西側の主な社会では、チベットの自由、民族自決、自分たちの文化、伝統、宗教を保持していこうとする努力に対しておおよそ同情的です。もちろん西側社会のチベットについての理解の程度もまちまちで、具体的な状況についてはっきり理解しているとは言えません。
安 其: チベット問題について西側が言っていることと中国側の宣伝はいずれも真実を欠いている、と言う人もいますが、ほんとうでしょうか?
ンガポ・ジグメ: そういうことはあります。表面的なこともわりと多いですが。その他、亡命チベット人たちの宣伝工作もかなりのもので、西側の報道はどちらかといえば亡命チベット人側の宣伝に偏っています。というのも中共はあまり信望がないので、多くの人はその宣伝を信じていないのです。チベット亡命政府の宣伝もある面において多くの問題があるとわたしは考えています。西側の報道は本質的にはむしろより真実を追求していくことを目指しており、故意に事実を曲げて報道することはありません。しかし彼らも多くの規制を受けており、今のところ中共は、チベットにおける西側メディアの取材や調査をほとんど受け入れていません。西側のジャーナリトたちは中国大陸の他のほとんどの地域へ行けるのに、ただチベットへ行くことだけは規制されているのです。こうして西側メディアがチベットについて正確で全体的客観的な報道を行うことが制約されてしまうのです。
安 其: 先ごろチベットに関する映画《セブンイヤーズ・イン・チベット》が上映されて波紋を投じましたが、その中に宗教に関する細かい部分やンガポ・ンガワン・ジグメの描き方について真実を欠いている部分がありました。あなたはこの映画をどう思われますか?
ンガポ・ジグメ: これはあまりにもお粗末な宣伝映画です。あまりにも粗雑で嘘だらけです。史実に基づく映画ということですがそこに描かれている多くは架空のものです。フィクションとノンフィクションが入り乱れたひどくいいかげんなもので、その手法は卑劣で多くの状況が実際とは異なっており、ほとんど歴史的事実を無視しています。例えば、原作者のハーラーが解放軍のチベット侵攻を目の当たりにしどんなに残酷であったかなどと語っていますが、実は彼は解放軍を見たこともなく、解放軍がラサに侵攻する以前に彼はラサを離れているのです。彼の原作にもそんな内容はありません。原作と映画さえも違っているのです。
宮崎正弘の最近の論文から 最近書いた記事、論文のなかでも注目を集めたものを紹介します。
中国反日暴動の裏側 (講演速記録)
以下は05年4月26日に行われた「路の会」での宮崎の講演速記録の要旨をダイジェストしたものです。 民主化運動のアクテイヴたちが米国で発行する反体制雑誌。胡平氏はシナ最初の「民主」選挙に北京大学から立候補し敗れるも強力な印象を残した。その後米国へ亡命しこの雑誌の編集を引継ぎ、民主化運動を粘り強く続けている。 米国亡命知識人のコメント
アメリカに亡命した中国の知識人は05年四月の「反日暴動」を如何に分析したか。 「北京之春」を主宰する胡平が言う。 「中国共産党は抗日戦争の主体でもなければ八カ国連合軍の一員でもなかった」。そして胡平は以下のように続けた。 「強烈な劣等意識が過度の反日歴史改竄となっている。政治の暗黒、官僚の腐敗、困窮する農民、失業にあえぐ労働者、庶民は開発ブームにも乗れず、満足な家にも住めず、子供を学校にやることさえ出来ない。『反日』など一体、彼等となんの関係があるのか?」。 次に呉国光(趙紫陽のブレインだった)の発言。 「中国共産党が愛国を吹聴する資格などあろうか? マルクスは労働者に国境はない、と国際的共産主義を説いたように、共産党は外国製であり、しかも共産主義が中国においてすら破産した事実は明白である。これを庶民や青年の間に、特に強い民族的情緒や愛国主義なるものに訴えて誤魔化し、庶民を利用しようとしているが合理的でもない。彼らは共産党利益のために愛国とか民族の利益とかを利用できるものを手段化し、利用しているにすぎない。彼らの言う愛国は偽物である。選挙もなければ表現の自由ももたない中国の民衆はいずれ党の鼓吹する『愛国』にはなんらの価値がないことを知るべきである」。
反日デモの背景(1)
07年四月から五月にかけて中国に吹き荒れた”反日デモ”の背景を簡単に振り返ってみます。 江沢民が愛国教育を仕掛けた1993年から「反日教育」の過激化が始まったのですが、江沢民の父は江世俊で、その昔、江蘇省で日本の特務機関に協力をしていた。 江沢民本人は上海交通大学出身と言っていますが、その直前まで南京の中央大学で日本語を専攻していた。戦後、「抗日分子」とされた伯父さんの江上青の養子になって、うまうまと出自を誤魔化した。
江沢民が鼓吹した愛国教育キャンペーンにより、中国全土に203箇所、反日教育拠点を作った。 「反日記念館」の御三家が北京、瀋陽、南京にありますが、展示はと言えば、最初から「田中上奏文」で始まる。 最初から贋物なんです。展示してある写真は、先般、東中野修道教授らが編纂された『南京大虐殺 証拠写真を検証する』(草思社)で全てが疑わしいとされた写真ばかりが並んでいます。それを使って子供らを教育しているということは非常に恐ろしいんですけれども、大体見に来ているのは強制動員の公務員です。警察、軍隊、みんな一日だけ、参観日を作って、それから高校生、小学生が遠足で来ている。 参観風景を見ておりますと、みんなぺちゃくちゃお喋りばかり。まじめに展示を見ている人は殆どいないです。「このつまらない見学が終わったら、今日どこへ行って遊ぼうか」という話をしておりますので、どの程度に効果があるのかと非常に疑問です。 ともかく反日なる記念館の写真展示内容そのものは、シオンの議定書もどき謀略構造になっている。
反日デモの背景(2)
共産主義が限りなく行方不明になってから中国共産党が展開したのはナショナリズムの鼓吹。危険な小道具を持ち出してきて、これを梃子に政権の維持をやっている。 自分達だけが正しくて、日本が降参しなくてはいけないというイメージを情報操作で作りだしている。 文革世代は今回の反日デモを完全に冷笑している。また若い人が、何かの政治的キャンペーンの犠牲になるのではないか、もう一回揺れ返しがあるのではないか、というような恐れを抱きながら、距離を二歩も三歩もおいて冷淡に反日デモを見ていた。 二番目の特徴は奥の院の「権力抗争」が中軸にあって江沢民の「上海閥」と胡錦濤のいわば「共産主義青年団閥」との確執がまだ完全に終わっていない。 デモに参加した若い人たち、愛国教育を受けた人たち。過去十三年間に反日教育を受けた世代とは二十五歳以下。かれらは日本が悪いという洗脳で頭の中が染まっているんですが、全体がそうかというと、おそらく大半の若い中国人はこういうことに興味がないという傾向もはっきりしている。 少なくとも都会にいる中国の若者は、非常に多様化した価値観を持っている。それから中華風の伝統というものに対して、距離感がある。どちらかというと無国籍です。 DINKs(ダブルインカム、ノーキッド)。結婚はするけれども子供は作らないという夫婦が上海、北京その他の都会部には多い。 国家とか愛国とかはどうでもいい、自分が生きたいように生きればいいということを書いた小説『第三の路』がベストセラーになっております。最近、出現してきたのが「傍老族」。自分が老いてゆくのを傍観している。人生に対する積極性が何もないと、これはちょっと日本人と似ているんですけれど、こういう種族が出てきた。 ついで日本なみの「ニート」です。中国には千九百もの公立大学があります。それからプライベート及び、カレッジ、資格がもらえるカレッジを含めて三千三百の大学があります。 もうひとつは文学の頽廃現象です。 日本文学はほぼ全部翻訳されて出ています。村上春樹、吉本ばなな、山田詠美、あらゆる文学が出ておりますが、日本文豪というコーナーで紹介されているのは、かの渡辺淳一先生。04年の6月に上海に渡辺さんがサイン会に行ったところ数百人が列を作った。 若者達の特質は、「国を出たい」という静かな、しかし確かな動機がある。 そういう雰囲気の中で「反日」というのは何かなと考えますと、今の若い人たちは直接日本軍のことを知っているわけでもないし、いわば教科書という仮想空間の中で、知育されている通りのことを模範解答で、学校で書いているだけ。日本に対する憎しみというのは、殆ど無い。
携帯電話の空間における表現の自由
四億台以上の普及した携帯電話と一億台以上のインターネットが武器になって反日デモに動員された。それであれだけ若者が集まったという解説が幅を利かせておりますが、今のインターネットは完全に中国国家公安部中共版KGBの統制下にあります。毎日モニターしている公安が三万六千人、かれらが24時間モニターしている。 インターネットカフェは営業許可を取らないと営業できない。許可が取れないところは閉鎖されます。インターネットカフェには防犯カメラが備えつけられており、一日に何回か公安が検査に来る。経営者はいろいろな誓約書を出さなくてはならないし、もうひとつは外国にアクセスすると必ず罰則規定があるのです。ですからインターネット時代に、海外にアクセスが出来ないインターネットなんていうのはLAN(ローカル・エリア・ネットワーク)である。 他方、携帯電話こそが中国共産党にとって脅威です。 携帯電話も公安が盗聴しておりますけれど盗聴が出来ない携帯がある。アメリカのようにNSA(国家安全局)があってキーワードを選んで、モニターするがもはや携帯電話の会話による伝達を制御することは不可能な状況になっている。 同じ時期に折江省で農民暴動が起きて、参加したのは5万人です。炭坑ストはしょっちゅうですが、ほかには麻薬ルートで犯罪者達が携帯電話を使っているのです。それから脱北支援組織も携帯電話を使っている。数年前、中南海で突如、二万人座り込みをしたのは「法輪功」でした。やはり携帯電話を使っていた。こういう風に見てまいりますと、インターネットは制御できるけれども、携帯電話は次の段階では火之神「プロメテウス」になり得るのではないか。
反日デモはいかにして演出されたか
反日デモが如何に演出されたかという観点から経過を振り返ってみたいと思います。04年の「反日サッカー」以来、表面的には反日感情というのは沈静化していたが、完全に消えていたわけではありませんでした。 05年3月21日に、アナン国連事務総長が日本の常任理事国入りを歓迎するという発言がありました。そして日本の教科書検定があり、扶桑社の教科書が合格するということがあり、そういうところから、書き込みが急増した。 日本の国連常任理事国入りに反対署名を呼びかけたところ2200万人とか、3000万人とか集まってきたとか。書き込みの中には「日本にそんな資格はない」とか、「日本が常任理事国になれば必ず第三次世界大戦が起る」とか、こういう乱暴な意見が並んでいます。 いわゆる「愛国ネット」で、一番大きいのは「中国民間保釣連合会」、これは尖閣諸島に上陸した過激派です。もう一つの大手は「愛国者同盟網」で、これは去年、日本の新幹線導入反対で騒ぎました。 「国際先駆導報」という共産党の機関紙が誤報に基いてアサヒビール、三菱重工、いすゞ、味の素その他日本の企業を名指しで非難し、「つくる会」に資金援助しているというような記事が流され、アサヒビールに対する不買運動が起きた。しかし吉林省の長春だけで、他には広がらなかったんです。どうもライバルのビール会社がアサヒの排撃に使ったのではないか、というふうに思われる節もあります。 3月下旬に共産党は各大学、職場にオルグを.派遣して、反日デモへの参加要請をしております。要するに当局が動員指示を出していたのです。 たとえば上海の例ですが、集合場所は「人民英雄記念碑前」と「人民広場」に集合しなさい、集合時間午前八時と書いてある。コースは南京路へ向い、人民広場で合流し延安路から日本領事館へとなっています。 延安路は東京の昭和通りみたいなクルマ専用道路、ほとんど人通りがない。 周りにデパートも何にもない道です。本当は平行して走っている上海の銀座に匹敵する盛り場もある。そこには多国籍企業が山のようにあって、ここで暴動を起されると困る。その先には江沢民の豪邸がある。 これを巧妙に迂回させて日本領事館に向っていくというコースの演出があるのです。 注意事項には「飲料水など各自が用意すること、日本製品は携帯しないこと、貴重品も持参しないこと、排便をすませておくこと、そして、日本製のデジカメ、携帯、パソコン、ラジカセ、ウォークマンなどは誤解を与えてはいけないので携帯をするな。出席をとるので、筆記用具を持参しなさい。領事館前では投石はいけない、小泉のポスターや国旗を焼くために、ライターなどを持参しなさい。シュプレヒコールは「日本製品を買うな」「歴史教科書改竄抗議」「日本製品排斥、国産品愛用」「日本の国連常任理事国参加反対」「魚釣島を取戻そう」など決まっているんです。それ以上のことは言うなという意味です。 さらに細心の注意事項が追加で添付されておりまして、先ず一番「日本の右翼を刺戟するような破壊活動を慎みなさい」「付近の日本商店やレストランに投石するな」。「国旗を焼くときは自分の衣服に燃え移らないように気をつけよう」「警備の警察の指示にしたがいなさい」「上海の国際都市のイメージを保持するため、リーダーの指示に従って整然とデモ行進をしなさい」「以上を踏まえて広く友人に参加を呼びかけてください」というような指示書が『大紀元』(4月20日付け)によって暴露された。 4月10日、広州の領事館(花園ホテルのなかにある)や付近の日本料亭が襲撃を受けた。 深センでは「ジャスコ」に投石被害。それから蘇州に広がった。 北京の場合は上海と比べるとかなり整然としていた。勿論、暴力行為はありましたけれど、大使館前にはレンガがいつの間にか積み上げられて、生卵がケースで用意されて、帰りのバスも用意されて、北京では相当の失業者が加わっているというようなことが確認されております。 アモイでのデモを友人に確認したところ、やはり1万人くらいが参加して、自動車を二台燃やしたということです。 東莞では日本企業が二社、ストライキに遭遇しております。それから広州、珠海、南寧(江西省チワン自治区ですが)。李肇星外務大臣が「日本側に責任がある。だから謝罪しない」と言明、一方では町村外務大臣が謝罪をしたという一方的な報道を中国はした。 中国が勝ったイメージを捏造したわけですね。
何を”反日”ですり替えようとしたのか?
中国は「反日」で何をすり替えようとしたか? 社会不安、農民暴動、ストライキ、炭坑暴動、失業対策の無策・・・・。 国民がじつは一番敵視しているのは、中国共産党であって、亡命知識人達が指摘したように一般の民衆にとって「日本」は関係がない。 農村対策の遅れ、貧困地域のそのままの遅れ、都市戸籍の問題その他。都市へ出稼ぎに行って働くわけですが、戸籍の問題があって、月に例えば千元くれるという約束があって行ってもあんたは田舎の戸籍だから、賃金は半分だとか。スシ詰めの部屋に入れられ、場合によって頻繁に給与の不払い、現場監督が給料の持ち逃げをやる。だからおとなしい農民でも我慢できなくなって暴動がおきる。 さらに深刻な問題は、開発弊害。たとえば三峡ダムで立ち退いた農民が公式的には117万人とも140万人とも言われていますが、立ち退かされた多くには職もなければ移転した先に家も建てられない。 そのうち20万人くらがい流れこんだのが、重慶の萬州区というスラムだった。 04年10月18日に、この重慶で5万人の暴動が起きて、武装人民警察の発砲で数人が死んだ。同年10月27日には四川省漢源県で、共産党始まって以来という十五万人が参加した暴動がおきた。 これもダムの立ち退きを要求されている農民に補償金が1平米あたり日本円で数十円。これは死ぬか生きるかの問題で、それで農民達が立ち上がって、地方幹部に抗議をしたところ軍隊が導入されたのです。こういうことは、しょっちゅう起きている。 環境問題でもデモが起きています。 北京の反日デモのその日に折江省の東陽で化学工場、染物工場、製薬、化学肥料、農薬などの工場が廃液を全部垂れ流して操業していたため、たとえば妊婦が奇形児を産むとか、原因不明の病気になる。癌の発生率が異常に高い状況に陥った。 近くの農民が自警団を組織して、原料を搬入するトラックをストップさせる騒ぎに発展し、農民が封鎖線をはったため警官隊が三千人も導入された。 とにかくあちこちで本当の農民一揆を越したような状況が進展しています。 この矛盾をすり替える手段として「反日」を演出してきたけれども、いよいよ「反日」でもすり替えが効かなくなってきた。
経済繁栄も嘘の固まり
中国の銀行が抱える天文学的な不良債権、これを隠していますが、おおよそ日本円で90兆円くらいの不良債権がある。国有4大銀行だけの数字です(中国銀行、中国建設銀行、中国工商銀行、中国農業銀行)。 対GDP比で中国の不良債権は50パーセントあるだろうと米国などの多くの金融機関のシンクタンクが指摘していました。 不良債権処理に当たっては、日本と同様に債権買取会社を作って、そこに移管させる、帳簿上そういう操作をやってきました。 また中国はさかんに赤字国債を出しています。赤字国債と不良債権と全部合わせると、西側の専門シンクタンクが計算したところGDPの140パーセントぐらいになっているはずだという。 中国は大掛かりな詐欺を平気でやります。中国銀行と中国建設銀行を香港とニューヨークとシンガポールあたりで上場し、それで1千億ドルそこで集めて穴埋めをしようとした。そうしたところ事前審査でニューヨークは受付けられない、ということにあり、香港あたりに、上場を移行する。 一方、赤字を補填する為に、外貨準備高から03年に450億ドル、04年には追加で700億ドルを外貨準備から入れた。
あれだけ愛国を言っている党幹部の汚職と腐敗が全く絶えないという問題があります。非常に深刻です。党の最高幹部はどれだけの汚職をやってもつかまりませんけれども地方幹部がつかまっている。 社会的経済現象のみならず、基礎的な問題で環境汚染と水不足が深刻で、特に水に至っては四百数十の都市で飲料水がもはや飲めない。 辛うじて北京、天津あたりの水は飲めるけれども、ミネラルウォーターを家庭では使いなさいという通達が出ている。 黄河の下流流域では汚染された水を飲もうにも、水が来ていない。断水しておりますから、そうすると水の汚染と水不足により、とくに人間は水がないと生きていけませんから、過去十年間の改革開放のなかで、中国は農村から都市部に1億4千万人が移動したわけですが、今度は水不足で、就職ではなくて、水不足が原因で、長江方面に、向う5年か10年の間に1億数千万の民族移動が起る可能性があるのではないか。 胡錦濤政権はこの状況は一刻も早く静めなければならない状況に追いこまれた。 これまで共産党は自分達の悪政への抗議を回避する為に、反日を利用していたんですけれど、その反日が逆のブーメランとして、跳ね返ってきた。それが自分達に歯向かおうとしている。 その鋭い刃を回避するために、こんどは一転して反日デモを禁止し、活動家の拘束をし始める。そしてニコニコを薄ら笑いを浮かべて日本に近寄る。 歴史のイロニーというべきでしょう。 江沢民訪米
抗議デモの洗礼 シカゴで700人
中国の江沢民国家主席が10月24日に訪米したが、最初の訪問地シカゴでは、 市内を法輪功メンバー700人余りの米国人メンバーが中国国内での法輪功弾圧 を批判するデモ行進を行った。
米国下院議会は6月に「中国の国内外の法輪功弾圧」に抗議する議会決議を 可決している。
江沢民国家主席の訪米を前に、在米中国大使館や米国に先遣された国家公安部 は法輪功メンバーの自宅電話を盗聴。更に脅迫的なメッセージを留守番電話に吹 き込み、デモ参加予定者の心理を揺さぶったという。
江主席の訪米に抗議したのはチベットやウイグルの分離独立を願う「中国之春」 「北京之春」などの民主活動家が計画した。
(平成14年11月25日号)
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No.36 - 2007/07/09(Mon) 05:35:10
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