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王進忠(ジャーナリスト)

日本とアジア地域で活動するジャーナリスト。
1963年1月9日中国北京生まれ。
1987年に東京の和光大学研究生として来日。
『民主中国陣線』外交委員会アジア部主任。
『中国民主団結聨盟』(本部米国)副主席・日本分部主席。
「北京の春」雑誌東京支社長。
特定非営利法人ADP委員会(平和構築のための民主主義支援委員会)理事。
『アジアと中国の民主主義を考える会』運営委員。
「Radio Free Asia」【自由アジア放送】の特派員。
「独立中文筆会」の会員。
日本外国特派員協会の会員。

住所:〒192-0353東京都八王子市鹿島18-1-502室
TEL:042-689-6619  
FAX:042-689-6619
携帯:090-2179-9812  
E-mail:wjzjp@sea.plala.or.jp

王進忠 / 王進忠 [関東]
台湾総統選の馬英九勝利は中国にとって「いいニュース」だと伝えられているが、チベット、ウイグル問題などと合わせて考えると、実は「対中包囲網」になりかねない芽を孕んでいる。チベットに深い人脈を持ち、台湾総統選を現地取材した王進忠氏がレポートする。

 中国政府によるチベット弾圧がますます強まっている。

 現地からの情報によれば、新たに中国当局に拘束されたチベット人たちが、ラサと青海省西寧を結ぶ青蔵鉄道で強制移送されているというのだ。

「??囚人列車?≠フ行き先は、おそらく甘粛省、青海省などの『労改(=強制労働収容所)』だ。毛沢東の文化大革命時代にも大量のチベット僧が殺害されたり、労改に送り込まれたりした。当時から中国政府はラサの世界遺産ポタラ宮の周辺にいくつも労改をつくり、??反共分子?≠フチベット人を収容して、強制労働させてきた。今回はチベット人を一斉に拘束したため、収容できなくなって自治区外にも移送しているのだろう。これは第2次文革だ」(現地関係者)

 ラサの寺院では兵糧攻めに遭っているチベット僧の餓死者が出始めたとも言われる。

 中国は、これらの情報に対して政府声明以外にも、「海外メディアなどがチベット虐殺の??偽造ニュース?≠?流している。あくまで暴動鎮圧だ」と中国中央電視台のコメンテーターなどを使って反撃に出たが、チベット弾圧情報は中国の情報封鎖をかいくぐって漏れ伝わるごく一部であり、現地ではもっと甚大な被害が発生しているだろう。

 ただ、チベットも防戦一方ではない。ダライ・ラマは、4月中旬から6月まで、アメリカ、インド、ドイツ、イギリス、オーストリアなどを歴訪する。表向きは人権やチベット仏教に関する講演目的だが、むろん中国政府の弾圧の現状を世界にアピールする最大のパフォーマンスとなる。

 直下の北京五輪もあるが、中国がこれほどチベット問題に敏感になるのはウイグル、内モンゴルそして台湾の分離独立に繋がるからだ。事実、中国当局への反発はチベットからウイグルへ延焼し始めた。

 私が現地取材した台湾総統選でもチベット問題は選挙終盤で最大の焦点となった。

No.38 - 2008/06/10(Tue) 03:35:24
(No Subject) / 王進忠
胡錦濤国家主席、来日。
> 5月6日、日本青年館で集会・デモに参加しよう!
> 5月6日、中国の国家主席、胡錦濤が来日する予定。
> 胡錦濤は軍事を取り仕切る中国の重要人物。彼の訪日に合わせ、セーブ・チベット・ネットワークは、自由を求めたチベット市民を殺戮、拘束している中国政府に対し、抗議の集会・デモを実施します。
>
>
> ■ 日付/5月6日(火)
> ■ 集会地/日本青年館 (地下鉄銀座線 外苑前駅下車)
> ■ 集会開場/11:30am〜
> ■ 集会/12:30〜14:00
> ■ 行進/14:30〜 (雨天決行)
> *詳細が決まり次第「最新ニュース」でお知らせします。そちらをご覧ください。
>
> 注意/「非暴力」を信念とするセーブ・チベット・ネットワークは、平和的なアプローチでデモを行います。
> 〜デモ参加者の皆様へ〜
>
>
> 中国政府のチベット人への弾圧は終わったわけではなく、オリンピック開催を前に、ますます締め付けを厳しくしています。
> 今回のデモは、一刻も早く平穏な日常を取り戻すこと、また拘束された人々がすみやかに解放されることを願い、そして中国の武力弾圧と人権弾圧に抗議するために行います。
> 一滴の水がやがて大地を潤す大河の流れとなるように、一人一人の意思が集結すれば、大きな力になります。お友達にも呼びかけ、一人でも多くの参加を求めましょう。
>
> コキントウの来日に日本政府と日本の市民がどのように対応するか、世界の人々が注目していることも確かです。
> チベット問題は、局所的なことではなく、世界平和に関わるグローバルな問題です。アジアの大国、中国が武力よりも人権を大切にする平和国家へと変わらない限り、アジアの平和、世界の平和は達成できません。チベット問題は、人類一人一人の問題でもあるのです。
> 5月6日の集会・デモには、平和と民主主義を愛し、人権の大切さを知る多くの方々の参加をお待ちします。
>
>> 5月6日のデモについての情報をお知らせします。
>>
>> ■ 日付/5月6日(火)
>>
>> ■ 集会地/日本青年館(東京都新宿区霞ヶ丘町7ー1)
>>
>> 最寄り駅
>> ・地下鉄銀座線 外苑前駅3番出口より徒歩7分
>> ・地下鉄大江戸線 国立競技場駅A2出口より徒歩7分
>> ・JR 信濃町駅より 徒歩9分
>> ・JR 千駄ヶ谷駅より徒歩9分
>>
>> アクセス
>> http://www.nippon-seinenkan.or.jp/hotel/pdf/access.pdf
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>> ■ 集会開場/11:30am〜
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>> ■ 集会/12:30〜14:00
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>> ■ 行進/14:30〜 (雨天決行)
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>> あわせて、セーブ・チベット・ネットワークのホームページもご覧ください。
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>>

No.37 - 2008/04/19(Sat) 09:02:33
『北京の春』編集部 / 王進忠
『北京の春』通巻169号総括

『北京の春』編集部  http://bjzc.org/jp/北京之春(U.S.A.)☆英文・中文−米国で出版されている中国民主運動情報月刊誌「北京之春」のホームページ。11月8日の時点で11月号までを閲覧できる。メニューには「北京之春」最新版のほかに▽バックナンバー▽縮刷版▽毛沢東私人医生回顧録▽両岸関係資料▽中国民主団結連盟史などがあり、関連のサイトへリンクするゲートウェイも用意されている。表示は英語とGBコード及びBig5コード中国語。


「中国のマンデラ」=王丙章博士の近況が伝わる
   カナダが安否を確認し、実弟が刑務所で面会
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 あの王丙章博士、監獄で拷問をうけてハンストを敢行していた
 魏京生いらい、自由民主活動家の大物と言えば、“中国のマンデラ”ともいわれる同博士(59歳)だ。

 王博士は「改革・開放」政策の実践により、第一回目の国費留学生としてカナダへ留学、医学博士号を取得し、82年にNYへ移住。そこで、戦後はじめての中国民主化運動を始めた。
 機関誌『中国之春』のマニフェストは「自由、民主、法治、人権」の四つ。
 現代の孫文が登場か、と騒がれた。
TIMEなどが特集を組み、世界的な注目を集めるや、電光石火のごとく、『中国之春』運動は世界の留学生仲間に伝播。世界40ヶ国以上に支部ができた(日本にも、もちろん秘密結社的支部が結成された)。

 1983年夏に小生はNYで博士にインタビューしているが、「日本から来た最初のジャーナリストです」と言われた。
翌年も二回ほどあった(詳しくは拙著『中国の悲劇』参照)。

 その後、『中国之春』は北京からのスパイが潜入して何回もの内部分裂などを経て、『北京之春』などが創刊され、王博士は「中国民主党」を結成して、主席に。

 おりからの天安門事件で欧米に逃れたウーアルカイシらは、『中国之春』などを包括して「中国民主陣線」を結成した。魏京生も、数年後に米国へ亡命し、これらの運動の講師格に加わった。
 ともかく最初の炬火をともしたのは王博士で、その後も危険をかえりみず中国大陸国内に「中国民主党」の支部を結成する活動を続けた。
 そしてベトナムから江西省へ潜入したところを、待ちかまえた秘密警察に逮捕されてしまったのだった。

 米国、カナダ政府は北京に対して王博士の釈放を強く要求してきた(日本政府はなにもしなかった)。述べたように一昨年、江西省チワン自治区で中国の秘密警察の策略により不当に逮捕されたが、広東省で裁判が開かれ、理由もなく「無期懲役」に処せられた。
爾来、二年ちかく消息を絶っていた。

このほど広東省の監獄に収監されていることがカナダ政府の度重なる要求により判明、カナダ在住の実弟、王丙武が中国へとんで30分の面会を許された。
獄中でハンストを決行し、拷問を受けていた事実がある、と実弟はカナダに帰国後に語っていると香港誌『動向』二月号がつたえた。

 (注 王丙章の「丙」には火偏)
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一、カバーストーリ:反右派運動50周年記念

  今年は毛沢東を指導者とする中国共産党が発動した反右派闘争50周年であるこの運動で、少なくとも50万人が右派とされ、何百万を超える家族が甚大な被害を受た。しかし、罪人である中国共産党は、被害者に対する正式な謝罪や賠償が一切ないだけではなく、この政治迫害が必要であったと主張し続けてきた。今年の初めごろから、本誌は反右派運動に関する記念文章を継続的に掲載してきた。本号においては、「反右派運動50周年記念」をカバーストーリとし、北京劉自立の「大公報記者の右派分子について」、山東尹福生の「災難」、ニュージーランド周素子の「右派情跡」および本誌編集長胡平の「反右派運動と言論自由」、上海朱長超の「?ケ小平反右派必要論批判」等を含む一連の記事を集中的に掲載することにした。
  前三篇は叙述的な文章で、50年前に実際起こったストーリを記述した。北京の劉素子は「対公報」の歴史研究者で、この文章で当時「大公報」の20人が右派にされたことを記述した。この数字は編集部??経理部人員の十分の一を占めていて、彭子岡、楊剛、徐盈、曾敏之、蕭乾、徐鑄成など1949年前後の著名人をも含めていた。党に対して「心を打ち明けた」ことにより右派にされた人もいれば、いかなる言論もないのに、「雑家」であるゆえに右派にされた人もいるし、さらに、左傾を貫いてきた記者たちも右派にされ、CENSOREDした人もいる。尹福生の記事は自分の被害ストーリであり、山東大学医学院(後の青島医学院)であった作者が「大鳴大放」での発言により右派にされた。その後、労働教養所に送られ、1958年から1979年まで、20年余りの苦難の満ちた教養場人生を送った。周素子の記事は、中央美術学院華東校「赤専両全(政治思想が赤で専門知識も優れていること)」の教師??画家であった王流秋、元浙江美術学院教授??美術評論家朱金楼および元中央美術学院華東校初代院長??古参共産党員李家?體?3人の右派分子としての悲惨運命を記述した。後の二篇は論説的文章であり、朱長超の文章は主に?ケ小平のいわゆる「右派運動必要論」に対する批判である。反右派運動は、毛沢東が発動し、?ケ小平が具体的に指導する運動であった。この中華民族のエリート層を地獄に落とした運動について、?ケ小平は、全体的には必要であったが、ただ「ちょっと拡大化」したという観点を持つ。朱長超は、反右派運動が中華民族と国家にもたらした効果、後で名誉回復された右派の割合および名誉回復されなかった5人の言動に基づき、反右派運動の不必要性を論証した。?ケ小平は、1957年反右派運動中ですでに手に血が付き、文革初期にもまた大学に「工作組」を派遣し、「反動学生」を調べ上げ、1975年には雲南沙甸の回族同胞を弾圧した。89年の天安門広場での愛国学生に対する弾圧は、ある意味においては反右派運動の継続だといえる。彼の反右派運動に対する評価は、彼の一貫した思想スタイルに合致し、歴史事実を無視したでたらめであり、人間性の良識に欠けた横暴と頑固である。
  胡平の記事は、反右派運動は「陰謀」か「陽謀」かという問題を分析した。当初毛沢東が開明姿勢を示し、緩やかな雰囲気を作り、共産党外の知識人を言い放題させる目的は、彼らの力を借りて党内の政敵を打倒しようという目的だった。それは文革とは非常に類似している。文革中の造反派を利用して走資派を打倒したことと非常に似ている。それゆえ、反右派運動は未遂の文革だと、胡平氏は主張している。しかし、文革中に現れた様々な異端思想と比べると、57年の右派言論に自由民主主義理念の内容がはるかに豊富であり、明白でり、純粋である。反右派運動は史上最大の文字獄である。この経験からわれわれが得るべき教訓と取るべき方法は言論自由の把握という原則である。言論自由原則には二つの特徴があると、胡平氏が主張している。言論自由の原則は共産党独裁制度の根幹を揺るがすものである。そして、言論自由の原則は共産党が表では認めているので、言論自由を主張することにより、共産党に対する根本的な挑戦にもなる。反右派運動50周年に際して、人々の言論自由原則への重視を再び喚起することが最もよい記念になる。
 
二、中国政治??経済現状についての評論

 「中国政治情勢」欄に、広州経済学者鞏勝利氏の「吳敬?l市場経済新論について」、山東異見有識者楊?ェ興氏の「中国官僚権力の動揺」、上海作者馮正虎氏の「習近平氏は上海司法不正問題に注目すべきだ」および北京大学政府管理学院教授袁剛氏の「政治体制改革とイデオロギー再構築」等の記事を載せた。
 鞏勝利氏の記事は、中国政府経済学者の吳敬?l氏が北京人民代表大会と政治協商会議に発表した、2006年前後中国経済についての論説を批判した。吳敬?l氏の「旧正月運賃値上げは自由市場の原理に合致する」、「不動産価格高騰へのコントロールは物価の上昇を招く」、「住宅退去補償は市場価格で計算すべきではない」、「民衆株投資現象は異常である」、「利息税廃止」等の論調を批判した。吳敬?l氏は、中国では未だに数多くの経済分野で独占と政府コントロールが主流で、政府高官が既得利益者であるという現状を無視し、政府雇用の一流学者としての良識が欠け、この貧しい国の国民の正義と公正を無視している。学者でありながら、上場企業の取締役や国会議員(人民代表、政治協商会議委員)でもあるという個人利益衝突のような「吳敬?l現象」は中国では普遍的である。
 楊?ェ興氏の記事は「中国青年報」掲載記事への言及から始め、俞可平氏の「民主主義はいいものだ」という文章の引起こした議論のように、全国公安の公開スポークスマンとしての武和平氏も堂々と言論自由と世論監督について発言していることは、中国共産党上層部がこの問題を重視し始めていることを反映していると分析した。現実的な圧力により、中国共産党内部の理性派が、天安門事件以来の政策効果を反省し始め、一枚岩の官僚権力が動揺し始め、数多くの官僚が現代的思考で問題を考えるようになった。国内外の圧力により、中国共産党内部から健全な理性派が生み出し、民間人と一緒に中国民主化の偉大なる変革を完成する可能性は十分ある。もちろん、この変革の大前提は市民社会の成長と民間圧力の形成である。
 馮正虎氏の文章は、憲法の規定する公民権を行使し、電子版「上海日系企業要覧(2001年版」を出版したことにより、3年間の投獄と40万元の罰金にされた事件に言及し、今日の上海法院は、無責任で法律に背く裁判官やその背後の汚職官僚に完全にコントロールされていると主張している。陳良宇氏はもう失脚し政治生命が終わった今、上海市委員会、上海政府と人民代表大会常務委員会は反省すべきである。上海の司法不公正問題はもはや上海の難題になり、経済問題よりも難しく、上海社会の「不調和」の主な要因になっている。中央政府から上海に派遣された2名の高官は中国トップクラスの法律専門家である。中国共産党上海市委員会新任書紀習近平氏は法学博士であり、中国共産党上海市新任紀委書記沈?コ咏氏は元中華人民共和国最高人民法院副院長である。この二人が上海の新局面を開けるかどうかを、上海市民は注目している。

三、中国民主化運動の新課題:難民運動

 「理論探求」欄には、本誌マネージャー??中国民主連盟主席薛偉氏の「中国民主運動の新課題:難民問題」、北京劉自立氏の「社会主義破壊性理論」および浙江省傅国湧氏の「現代解釈システムからみる近代史」等の記事を載せた。
 すでに自由を獲得した人なら、アメリカ女性詩人(艾瑪??拉薩姆)のように、まだ逆境に生きる人たちを一生懸命助けるべきであると、薛偉氏が主張している。20世紀は人類史上の難民の世紀であったが、21世紀の状況もそれほど楽観的ではない。難民の受入れについては、アメリカが世界各国の模範になっている。1989年に中国民主運動が弾圧された後、何百名の学生??労働者??知識人が海外に亡命し、もう18年の歳月が経過した。当初の難民、例えば民主運動家王若望氏などがアメリカで逝去し、中国からの難民は増える一方である。そのうち、中国政府と異見を持つ人もいれば、中国政府の主導する生活様式に不満を持つ人もいるし、中国の一人っ子政策に違反した人や宗教??法輪功の人たちもいる。自分の権利を守ろうとした人もいるし、ネット上で政府を批判した人もいる。これらの人々は海外に亡命し、政治的迫害から逃げようとしている。亡命する時期と具体的理由は様々であれ、彼らはみんなわれわれ民主運動の貴重な財産である。中国国民の福祉を最終目標とする海外民主運動組織は、彼らの存在と境遇に関心を持つべきである。海外民主運動は中国大陸からの難民に関心を持つべきである。
 今は海外民主運動が後継者人数の減少と同時に、様々な新組織が誕生し、天安門事件記念活動を積極的に参画し、いろんな形のデモや集会を組織している。国内にいる維権活動や共産党抗議活動にも積極的に行っている。これらの活動は、海外における中国共産党の悪の本質を暴露し、国際社会に中国の現状を知らせるために重要な役割を果たしている。中国大使館??領事館前での抗議活動も中国共産党の海外駐在機関または中国共産党政権自体への長期的な政治および心理的な圧力である。今は「古い民主運動が新しい課題に直面している」といえるだろう。難民運動は海外民主化運動の新課題である。一党独裁に反対し民主主義を主張する全ての個人や団体はわれわれの同盟軍であるゆえに、相互協力と支持が大事で、分裂と孤立を防止すべきである。中国共産党独裁政権にとっては、民主運動のデモ参加者なら全員が「反革命」または「転覆」活動であり、リストに載る可能性がある。例え民主化運動から離れたとしても中国政府は容赦しない。「偽物」だと言っても、中国共産党から見れば「本物」である。それゆえ、アメリカ政府移民官はこれらの人たちの政治非難を認可したのである。その中に、国内にいたときは政治活動に参加しなかったが、海外に出ると正真正銘の民主運動参加者になった。こんな人たちをも受け入れるべきである。われわれは民主化運動を完全に純粋なものにする必要はないと薛偉氏が主張している。民主主義と自由を獲得するために、合法的移民や非合法的移民、政治難民や経済難民を問わずみんな平等である。常に一般民衆の利益に注目を払うのが民主化運動拡大の基礎である。民主運動家は観念を押し付ける人や啓蒙者ではない。民衆の奉仕者である。

四、祝楊建利氏自由再獲得

 アメリカ21世紀基金主席、「議報」社長楊建利博士が、中国共産党当局に「不法入国罪」と「スパイ罪」で5年間投獄されたのち、4月27日に釈放された。ずっと楊建利氏と連絡を取ってきた本誌編集者亜衣が北京にいる楊建利氏夫妻と電話インタビューし、楊建利氏の近況を「世界日報」を通じて世間に知らせた。本誌本号には、アメリカ在中の楊建利氏のお姉さん楊建華氏の文章「楊建利の願い」と亜衣の「祝楊建利氏自由再獲得」を掲載し、裏表紙には楊建利氏婦人が提供した近況写真をも掲載した。
 楊建華氏がアメリカにいる親族を代表し、中国にいる楊建利氏の家族と一緒に楊建利氏の出所を出迎え、2週間ぐらい弟のそばにいた。その後、楊建利氏は故郷山東省に帰り、家族30人ぐらいと、1年半前に逝去した父を祭った。父の最期を見届けできなかったことは一生の遺憾だと思う。それゆえ、海外に行く前に、ぜひ父のお墓参りをしたいと楊建利氏が決意していた。出所した楊建利氏は正常の生活に戻り、外部との連絡や記者会見を控えようと家族の要求に応じた。
 亜衣の記事は、楊建利氏から海外友人たちへの感謝の言葉を伝えた。数学博士と政治経済および政府学博士である楊建利氏は海外民主運動家の優秀人物である。楊建利氏は民主制度における選挙の重要性を察し、数多くの選挙活動に参加した。1988年の中国国家教育委員会帰国留学生選挙からはじめ、1989年民主戦線、1993年中国民主連合戦線主席??副主席選挙に積極的参加した。楊建利氏1989年に帰国して民主運動に参加し、天安門事件の体験者でもある。楊建利氏の代表的な政治思想は、彼の著書「非暴力対抗と憲政改革」である。楊建利氏は中国維権運動の先駆者でもある。受刑者として刑務所にいたときも、数多くの文章と手紙を書き、自分の体験で中国共産党司法システムの尋問??取調??弁護における被疑者の人権侵害を暴露した。

五、厳家祺20年前の出来事
  
  「歴史の証明」欄に、元中国社会科学院政治研究所所長厳家祺の文章「20年前の古い出来事」を掲載した。本誌5月号陳小雅の投稿「89年民主運動史3点訂正」の本人と関係ある部分について意見を表明した。陳小雅の文章は天安門事件虐殺の根本原因についての認識問題である。虐殺の根本原因は中国の独裁制度と?ケ小平の独断横暴の残忍性格にある。たしかに「89民主運動」の経験と教訓をよく考えるべきであるが、虐殺の根本原因を「89学生運動」または「89民主運動」の中に探すべきではない。当時厳家祺氏が主張した「非秩序更迭」問題は、いわゆる「倒?ケ保趙」とは関係ないし、「?ケ小平の趙紫陽に対するイメージ動揺」にも影響がない。1989年鮑彤氏が彼を「政治改革弁公室」への参加要請のいきさつおよび1987年中国共産党中央書記処研究室が、胡喬木、?ケ力群の示唆により、厳家祺氏を含む12人の「ブルジョア自由化言論抜粋」の件についても説明した。1989年趙紫陽言動に関する重要問題への陳小雅訂正はますます混乱になっていると、厳家祺氏が指摘した。

《北京之春》第35期 #06 1996年 4月号より― 

[編者記] 1996年2月26日、チベットの宗教的指導者でありノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ十四世は、
チベット亡命政府の所在地インドのダラムサラにおいて、《北京之春》雑誌社社長 薛偉(シュエ・ウェイ)と会見し、
両者はきわめて親しく友好的な対談を行いました。ここにその録音を整理し、会談の概要を発表するものです。


真の友のように―ダライ・ラマとの対談録

薛 偉
 




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漢族とチベット族は友であるべきです

中庸の道でチベット問題を解決する

人類社会衆生のために幸福を求める

非暴力を貫く

信念を失わず、闘志を強く抱き






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【漢族とチベット族は友であるべきです】
 



薛 偉 :二年前ワシントンでお目にかかって以来、私は海外で民主化運動に関わって
     いる多くの活動家たちとしばしばチベット問題を討議してきました。チベッ
     ト人民の人権と自由を求める闘いも、ますます国際社会の注意を引いていま
     すね。最近、あなたの自伝を読ませていただきましたが、最後のページで語
     られたお言葉を憶えています:「私はチベット人の友人たちに謝意を表しま
     す。チベット人が受けた苦難に対するあなたがたの共感と支持は私をいたく
     感動させ、たゆむことなく自由と正義のために闘う勇気を私たちに与えてく
     れました。私たちが頼みとするのは武器ではなく、もっと強くて力のある真
     理と決意なのです。私の感謝はすべてのチベット人を代表するものです。ど
     うか、この歴史上において存亡の危機にあるその時、チベットのことを忘れ
     ないでください。」今あなたに申し上げましょう。中国大陸から来た民主運
     動家たちはチベットを忘れません。私たちは苦難を受けたチベットの人々を
     深く心に留め、勝利はいずれあなたがたのものと信じています。本日ここに
     おいて、《北京之春》編集部と我が友人たちを代表し、あなたに敬意と祝福
     を表します。                            

ダライ・ラマ :中国の友人にお会いできてとてもうれしく思っていますよ!歴史的に私たち
     はこのような深い関係をもちました。チベット問題は双方が友人として誠実
     に相対してこそ解決できるものです。もし暴力に訴えるなら根本的な問題を
     解決することはできません。漢族とチベット族は互いに友であるべきです。
     チベット族は漢族の困難と苦しみをもっと思いやらなければなりませんし、
     漢族もチベット族の心の声にもっと耳を傾け、その置かれている立場を思い
     やらなければなりません。互いに助け合い、絶えず交流を深めていくという
     基礎の上に立てば、どんな問題であってもすべて解決できるのです。あなた
     にお会いできてほんとうにうれしい。時間を気になさらないで、何でも思い
     のままにおっしゃってください。                   

薛 偉 :本日は一人の記者としてだけでなく、一人の友人としてあなたに、 そして
     自由を求めて解放のために闘っておられるチベットの戦士の皆さんにお会い
     しに参りました。中国共産党の一党独裁に抵抗する戦線において私たちは共
     に戦う戦友です。 中国共産党政権はチベット人民を抑圧しているだけでな
     く、漢族、その他の少数民族まで圧迫しています。チベット人民が受けてい
     る苦難は、 大陸の他の民族も受けているものです。 しかし現段階におい
     て、チベット人民の苦しみは大陸のその他の民族に比べ甚だしいものがあり
     ます。私たちにはチベット人民の叫びと要求がよくわかります。いつの日か
     漢族とチベット族が兄弟のように仲睦まじくつきあうその時を私たちは待ち
     望んでいます。                           
     そこで、あなたがご存知のチベットの現状と、チベットひいては中国全体の
     前途についての分析と予測をうかがいたいのです。           

ダライ・ラマ :これは大きなテーマですね。いちいち詳しくお話ししていたら時間が足りま
     せん。チベット亡命政府の広報部に資料がありますから、それをお読みにな
     って研究なさるとよろしいでしょう。                 
     一般的に申し上げると、私が最も関心をよせ、また焦慮していることは、 
     チベット固有の宗教と文化のことです。 これらの文化はチベット人に充実
     した精神生活と楽しみをもたらすことができ、 人々の個性もこうした文化
     ゆえに善良でおとなしいのです。しかしながら、現在、 仏教を中心とする
     チベット文化はまさに滅亡の危機に瀕しているのです。         
     もう一つ私が焦慮しているのは教育のことです。 チベットは物資に乏しい
     ところです。この点においてはもう少し発展させなければなんりません。 
     しかし、大切なことはやはり人々の素質を高めること、それには教育水準を
     高めなければならないのです。現在のチベットの教育程度はかなり低いもの
     で、文盲は至る所にいます。 共産党は学校をいくつも建て教育程度はたい
     そう発展したと言っていますが、実際、 考えてみると、その数と質は驚く
     ほどに貧しいものです。特に農牧地区はひどい。 昔のチベットでは学校は
     ごく僅かか或いはほとんどありませんでしたが、 幾千もの寺院があり、 
     それが文盲克服に大きな役割を果たしていました。しかし、共産党の侵攻後
     寺院は消滅し、寺院に代わって文化教育を行う職能機構は設置されませんで
     した。その結果、文盲率は以前より上がったのではないでしょうか?私は、
     現在のいわゆる“教育程度の高揚”に対して疑いをもっているのです。今や
     多くの中国人はチベットへと移り、街々の至る所、 およそ条件のよい地区
     すべてに居住しています。チベット人は、靴造りや縫製というような仕事ま
     でも彼らに奪い取られ困り果てているのです。             
     さらに環境保護の問題、これもまたひどく失望させられるものです。 以前
     から森林伐採の現象は相当ひどかったのですが、 今では“改革開放” の
     スローガンのもとに個人的に大量に森林を伐採する者も多く現われ、 チベ
     ットの自然環境と生態保護に重大な影響を与えています。その上鉱物資源の
     開発です。チベットにはもともと採掘できる百六十数種の鉱物があります。
     比較的先進的な方法を用いれば自然生態に害を及ぼさずにすみますが、しか
     し今のところはそのような方法によってはおらず、 乱開発の現象は非常に
     深刻なもので、チベット全域は甚大な被害を被っています。現実は私がお話
     ししたこれらの状況をはるかに超えており、 まさに心配と焦慮の種なので
     す。私はここで強調しなければなりません。 私の言うところのチベットと
     は、共産党の区分による西藏自治区のみならず、甘粛、雲南、四川のかつて
     チベット三区に属していた地域をも包含するもので、 十の自治州と二つの
     自治県を含んでいます。 これらの伝統的チベット区域は英語で Tibetと呼
     ばれ、六百数万のチベット人民を擁しているのです。その現状を政治用語で
     言うならば、すべて中国の植民地になってしまったということです。中国共
     産党の目的は“掠奪”ただそれだけです。彼らは、チベットに対するきわめ
     て僅かな投資を宣伝することときたら非常に派手にやりますが、チベットか
     ら掠奪していった物については一言も口に出さないのです。政治上、“自治
     州”或いは“自治区”、“自治県”と名付けられた地域があります。何であ
     ろうがお構いなしにすべて“自治”の名を付けていますが、実際のところ、
     どこにチベット人の自治があるというのでしょう? 権限はすべて中国共産
     党が派遣した人の手に握られているのです。胡燿邦はチベットに来たことが
     ありますが、彼が政権を担当していた頃、かつて次のような政策を決めたこ
     とがありました。 −チベット人に真正の権限を与え、彼らを主人公として
     政治に参与させ、自らの郷土を管理させる−と。 胡燿邦が世を去って今に
     至るまで状況は全く正反対です。チベット人民は一切の権限を失いました。
     今やチベット問題は中国政府の国際関係と名誉に大きな困惑と損害をもたら
     し、中国はしばしばこの問題のために引っ込みがつかなくなっています。 
     チベット問題のために六百万香港人に中国の政策に対する不信を生じさせ、
     台湾と大陸の統一もチベット問題ゆえに妨げられています。 未来の中国人
     は、 必ずやチベットの民族文化の滅亡に遺憾と悔恨と傷みを覚えることで
     しょう。ナチス・ドイツのヒトラーのユダヤ人殲滅からすでに五十年が過ぎ
     たとはいえ、人々はいまだにその行いを厳しく非難しています。     
     もしもチベット民族が滅ぼされるようなことがあれば、共産党はそのために
     長いこと汚名を負って世界の人々の譴責を受けることでしょう。今こそチベ
     ット問題の行き詰まりを打開しなければなりません。打開の方法を考え出さ
     なければなりません。 さもなければチベット人も中国人も苦しむことにな
     り、双方にとってなんの益にもならないのです。            
     チベットは歴史的に独立した国家です。 しかし、今チベットが独立すれば
     中国は大きな土地を失うことになり、そのことを中国人に認めさせ同意させ
     ようとするのはかなり難しいことでしょう。チベット人の幸福という点から
     考えて、もし中国人がほんとうにチベット人と互いに助け合い、互いに尊重
     し合い、平等互恵ができるなら、いつの日か、独立するよりも中国人と共同
     生活をするほうがもっと大きな利益をもたらすことができるとチベット人が
     思うことがあるかもしれません。こうしたことはあり得ることなのです。 
     この点を踏まえて、七十年代から、チベット問題に関する解決に対して今ま
     で“中庸の道”を採ってきたのです。 現状は認めないが、チベット独立の
     問題をも一切持ち出さず、チベット人に高度の自治、即ち相互の信頼と互助
     の原則においてチベット人自らにチベットを治めさせる権限を与えるよう主
     張してきました。 この中庸の道に基づけば、現段階のチベット問題は解決
     可能なのであり、双方とも認め受け入れることができると私は深く信じてい
     ます。ここ数年、中国共産党はチベットにおいて非常に強硬で暴虐極まる手
     段を採ってきました。ダライラマといえば、彼らはたちまち反動派の頭目で
     あるなどと言って、ひどく罵ります。 今またパンチェンの問題が出てきて
     いますが、共産党の態度は非常にかたくなで、 チベット人民に対して更に
     人道にもとる行為を為しています。 しかしどのようなことがあっても私は
     中庸の道を採り、相互信頼と相互利益の前提の下に、 チベット問題を話し
     合いを通して解決するという初志に終始変ることはありません。     







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【中庸の道でチベット問題を解決する】
 



薛 偉 :あなたの掲げる“中庸の道”は現実の大きな難題を解決しています。 海外
     在住の民主化運動活動家や中国人留学生たちにおいて、彼らはチベット人民
     が受けている苦難と人権を勝ち取ろうとする努力、民主を求める闘いに対し
     て非常に同情し支持している人たちですが、しかし大多数の人々はチベット
     の独立に対して疑いをもっているか、 或いは程度の違いこそあれ、反対の
     態度を採っています。このことは決して我々が大方の方向でチベット人民の
     闘いを支持することを妨げるものではありませんが、しかし確かにある程度
     の困惑を引き起こすでしょう。私たちがまず考えなければならないのは統一
     か独立かという問題ではなく、目下のところ当面の急務は努めて中国共産党
     の強権統治を終わらせ、中国の社会制度を変革し、自由と人権、民主と法治
     を実現させなければならないということです。このような前提があって始め
     て、どのような制度と政体を採択するか人民に考えてもらう機会と条件が揃
     うのです。                             
     あなたは度量の大きい方です。海外在住の民主化運動活動家たちの中で、 
     この数年来、チベットの未来を話し合ってきました。《北京之春》の于大海
     、胡平、著名な政治評論家の厳家祺、曹長青、及び”民連”の主席の呉方城
     、“民陣”主席の万潤南、そして“民連陣”主席の徐邦泰といった面々でで
     す。                                
     私は彼らが出した意見から三つの原則をまとめました。 第一は“民主の原
     則”です。すなわち、チベット人民は自らの将来と生活方式を決める権利を
     有し、他の民族がそれにとってかわることはできず、彼らの民族自決の権利
     を認めなければならないということです。第二は“平和の原則”です。それ
     は、統一であれ独立であれいかなる争いをも武力をもって解決するというこ
     とに反対し、武器を持たない人民を決して軍隊を用いて虐殺、弾圧してはな
     らないということです。第三は“移行”の原則です。もし統一か独立かをめ
     ぐって大きな不一致が生じた場合、すぐには解決できません。長期にわたる
     話し合いを通して五年、十年後に、平等、和睦、相互信頼と利益を前提とし
     て、まずチベットに高度の自治を実現します。 つまりあなたのおっしゃる
     “中庸の道”です。人々は比較的長期にわたる理解と交流を通してよき友と
     なり、そこから互いに益を得ることで、統一か独立かの問題はそれほど重要
     でなくなるでしょう。                        
     もちろん、私はあなたよりもさらに強調しますが、 もしこのような長期に
     わたる移行過程の後、チベット人民が依然独立を希望し、 真の兄弟よりも
     よき隣人どうしである方がもっとよいと考えるなら、 チベット人民は人民
     投票によって自らの前途を決定することができ、  中国の民主政府は必ず
     チベット人民の選択を尊重しなければなりません。           
     あなたは先程、もしチベットの民族と文化が滅亡の憂き目に遭えば、以後、
     中国人は悔やむことになるだろうとおっしゃいましたが、私はそのような日
     は絶対に来るはずがないと深く確信しています。中国共産党の統治者集団の
     崩壊は更に目前に迫っているにちがいありません。中国には近い将来、必ず
     や民主政体が出現します。私たちはともにその日をこの眼で見ることができ
     るでしょう。                            

ダライ・ラマ :1994年、香港、台湾の法律専門家と大陸の民主化運動活動家の方々は、アメ
     リカで未来の連邦中国の民主憲法の研究を行われ、憲法草案を制定されたの
     でしたね。チベットの高度の自治権享受も明確に規定されました。    







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【人類社会衆生のために幸福を求める】
 


薛 偉 :私はニューヨークにあって亡命したチベットの人々のことを知っています。
     私たちはよく一緒にデモ行進や抗議行動、中国共産党に対する示威活動をす
     るのですが、チベット人の独立願望は非常に強く、みな団結し心を一つにし
     ています。こういった執念ともいうべき精神は、中国及び海外の人士たちに
     とても深い印象を与えています。                   

ダライ・ラマ :あなたに一つ寓話をお話しましょう。仏祖 釈迦牟尼がお生まれになって後
     のこと、人相観を得意とするあるバラモンがおりました。彼は、釈迦牟尼が
     将来人類を救済するお方となられるであろうことを観てとったのでしたが、
     しかし彼自身は嘆いたのでした。 彼は言いました:「仏祖はその偉大なる
     事業を成し遂げられるであろう。 だがその時わしはもう死んでしまってお
     る。」 そこで申し上げたいのです。チベットにもこういう可能性があるので
     はないでしょうか? つまり、 将来民主中国が出現するそのほんの少し前
     に、チベットは息絶えてしまっているのでは?             

薛 偉 :そのようなことはあろうはずがありません。私たちは決して嘆いてはならな
     いのです。今やチベット人民は自らの道徳と勇気そして不屈の抵抗の精神を
     もって、すでに国連を含む欧州議会と国際与論の全面的な支持と同情を得て
     います。 相当数の中国大陸の人士たちがチベット人民の苦しみと心の声を
     十分に理解し、中国共産党のチベットにおける行為の真相を見分けて後に皆
     が団結しともに立ち上がる、そんな民主的連邦中国が実現する日も遠からず
     やってくるでしょう。                        
     去年、台湾を訪問した折り、こんな話をしました。 :「大陸に民主なくば
     独立は不可能。大陸が民主化されれば独立する必要性もなくなる」と。  
     その時、民進党の方々が:「大陸に民主なくば統一は不可能。大陸が民主化
     されれば統一の必要性もなくなる。」と反論されました。地球上のすべての
     国々は将来、国家を超えた平等で自由な社会へと向っていくでしょう。もし
     中国に自由で民主的な環境が出現すれば、チベットや台湾が独立への道を選
     ぼうとすることは、客観的に見て歴史の潮流に相反することになるのではな
     いでしょうか?もちろん私は、“人々の幸福”というすべてに勝るこの原則
     を終生変ることなく主張するでしょうが。               

ダライ・ラマ :まさにあなたのおっしゃる通り、チベットの利益も中国が民主へと歩み行く
     過程にかかっています。 中国の民主化運動に対しては、私はいかなる時も
     非常に共感し支持しているのです。私は仏教徒であり、常に人類社会衆生の
     ために幸福を求めなければならないと説いています。 ただ中国が十二億の
     人口を持つというだけでなく、彼らに幸福を得させるために、私は力の限り
     そのために生涯を捧げて尽くしたいと願っているのです。        
     ところであなたにお尋ねしたいのですが、近い将来、中国の前途にどのよう
     な変化と発展があるとお考えでしょうか?               

薛 偉 :それはまさに、私が先ほど活仏にお尋ねした問題ですね。逆に私にお尋ねに
     なるとは。(笑)                          

ダライ・ラマ :チベットの問題についてあなたが私に尋ねられるように、中国の問題につい
     ては私があなたにうかがわなければなりません。(笑)         







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【非暴力を貫く】
 



薛 偉 :中国とチベットの問題は不可分のものです。結局、現在のところ尚一つの版
     図に属しているわけですから。実は中国においてまさに問題となっているの
     は、チベット問題でも、台湾、香港の問題でもなく中国共産党の問題である
     と私は考えているのです。 もし中共の専制統治が終われば、どんな問題も
     すべてすらすらと解決するでしょう。 中国共産党は禍のもと、中国のガン
     です。                               
     目下、中国においては四種類の政治的な力が働いています。第一は中共統治
     集団の力であり、それはすべての国家機関と富を掌握しています。 第二は
     中国人民の力です。天安門“八九民主化運動”はすでに、時を得てその蓄え
     られた勢いを一気にはき出すという人民の巨大な潜在力を示したのです。 
     第三は台湾の力です。 土地は狭く人口こそ少ないが、 堅実でなかなかの
     やり手です。第四は海外及び香港マカオの中国民主化運動、そしてチベット
     の民主化運動を含む力です。これは国際世論の共感と支持を得て、中国国内
     にもある程度の影響力をもっています。もし中共を除くこれら三種類の力が
     機を得てしっかりと団結するなら、 第一の反動勢力、 即ち中国共産党の
     統治を打ち破ることができるでしょう。しかし惜しいことに、様々な原因に
     よっていまだそこまでには至らず、中共一つが強大であるように見えます。
     幸いなことは中国共産党は一枚岩ではなく、 その内部には闘争、 分裂が
     あり、いずれは瓦解するに違いありません。というのも中国共産党指導者の
     権力というものは、神から授かったものでも君主から賜ったものでもなく、
     いわんや民主選挙によるものではさらさらないからです。 それは暴力を以
     って得た政権であり、“勝てば官軍、負ければ賊軍”という弱肉強食のジャ
     ングルの法則に則り、必然的に奪い合いの四分五裂状態を生み出し、政権は
     始終確固たりえないのです。 ?ケ小平という偉大な家長が亡くなってから
     は、 江沢民はもはやかつての毛沢東が有していたような絶対権威を手にし
     得ないでしょう。 いわゆるグループのリーダーというのは互いに対抗し合
     っているということなのです。 “樹は静かなるを欲すれど風止まず”とは
     歴史が証明していることです。 中国共産党には必ずや内部闘争が起り、 
     国内外の情勢の変化はまさに彼らの内部矛盾を激化させています。この矛盾
     が表面化してきたら、私たちは“六四再評価”(1989年6月4日天安門広場で
     の軍による武力制圧は当局によって“暴動”に対するものと発表された)の
    スローガンを叫んで、?ケ小平氏にその責任を負ってもらいます。 中共の
     内部闘争の一部も人民の力を借りてこそはじめて相手を打ち負かすことがで
     きるというものです。人民の支持を得れば、その人は必ず人民にお返ししな
     ければなりません。圧力のもとで譲歩政策を採り、政治において徐々に解放
     と民主に向うというように。かつて胡燿邦、趙紫陽といった人たちがこのよ
     うな機会をもたらしたことがありました。 惜しむらくは中途にして早くも
     舞台を去ってしまわれたことです。しかし人民はすでに血を流すという経験
     をもって教訓を得ました。 先の三つの政治的な力が最終的にその力を合わ
     せれば、近い将来、再び天安門民主化運動が生まれ、 それはまさしく中国
     共産党独裁政権の終わりを告げるものとなるでしょう。もちろん民主はそう
     簡単にできるものではありません。ソ連、東欧ないしは台湾といったモデル
     のすべてが現れてくるでしょう。この十年以内に黎明の光を見ることができ
     るのではないかと私は思っています。穏やかに変化していく流れは妨げられ
     ないものなのです。                         
     私にはもう一つ心の奥に秘めた問題がああります。あなたはガンジーのよう
     に非暴力主義を主張しておられますが、今のこの時代はガンジーの頃の背景
     と相手とはまったく違います。 野蛮そのもののような共産党は民主制度の
     英国とは違います。このような状況下にあって、あなたはどのようにチベッ
     ト問題における非暴力主義を勝ち取ることができるとおっしゃるのでしょう
     か?                                

ダライ・ラマ :ではお尋ねしますが、もし私がチベット人たちに呼びかけて、命懸けで血を
     流すことをも辞さずに中国人と戦うようにしたら、あなたはここにいらっし
     ゃれるでしょうか?                         

薛 偉 :もしそれが中国共産党統治者に対するものであれば、私はここに来れます。
     もちろんほとんどの中国人は来ないでしょうが。 それに一部の人々や国際
     世論の同情を失うかもしれませんね。                 

ダライ・ラマ :(大きく笑い、その場にいた一人の台湾人ラマを指して) 彼は来ないです
よ。人と人との間の問題はただ相互の対話を通して、相互に理解することに
よってのみ解決されます。暴力は根本的な問題を解決できません。たとえば
ボスニアとチェチェンですが、もし人々が承服しないなら問題を解決するこ
とはかなり難しいのです。 中国とチベットの問題においては、ただ双方の
     接触を通して話し合うという道があるのみで、外国の力や国際社会に頼った
     り、暴力に依っては解決できないものなのです。            
     ただ互いによく理解し共感と好感をもってこそ、深い溝も消え距離も縮まる
     のです。互いに殺戮と戦争をしていては、 行動と目的はかけ離れ、 両者
     の距離はますます遠ざかるばかりでしょう。              

薛 偉 :今のところ、共産党はあなたを無視して話し合おうともしないのに、どうや
     って?                               

ダライ・ラマ :再度申し上げるが、中国との話し合いの道は必ず開かれます。私はいつでも
     中国人と話し合い、 チベットの問題を平和解決しようと望んでいるからで
     す。しかし中国側があくまでも話し合いを拒絶するなら、私にはもうどうし
     ようもないのです。そうなったら、もはや国際社会に呼びかけて、世論と多
     くの人々の支持を取り付けるしかありません。 それと同時に、中国の人々
     にチベット問題の真相を知ってもらい、私たちの立場をよく理解し支持して
     もらうように働きかけます。ただこうした非暴力の手段を用いてのみ、成功
     を勝ち取ることができると私は信じています。もし破壊活動やテロ行動にう
     ったえるなら、これまでの一切の努力は水泡に帰するでしょう。     
     中国の問題は共産党の問題であるというあなたのご意見には私も同感です。
     しかし、武装抵抗したり、暴力にうったえることで共産党を滅ぼすことがで
     きるでしょうか? チベット人にはそんな力はありません。       
     台湾でさえ軍隊や財力があっても共産党を打ち負かすすべがないのです。 

薛 偉 :台湾といえば、 ちょっとお尋ねしたいのですが、 現在、中国においては
     共産党と国民党の二つの政権があり、両者ともチベットは中国の領土である
     と高言しています。 しかしこの両政権は、独裁と民主という二種類の異な
     った政体に属しています。チベット亡命政府はこの両政権に対してそれぞれ
     どのような態度をとっているのでしょうか? 目下中共の武力による威嚇を受
     けて危機感をつのらせている台湾について、また海峡両岸戦争勃発の可能性
     についてあなたはどのようにお考えになられますか?          

ダライ・ラマ :私たちは北京、台湾双方と連絡をとり続けています。北京との連絡は向こう
     から返事が来なくなり途絶えてしまいました。 現在、台湾の民主と自由の
     発展には目覚しいものがあり、私はいずれまた台湾側と話し合うチャンスが
     訪れると信じています。これは私の望みです。             
     チベットの地位問題に至っては、中共には中共の、台湾には台湾の言い分が
     あり、チベット人にもチベット人の言い分があります。このような不一致は
     さておいて、私たちはまずチベットが高度の自治を享受すべきであるという
     点から話し合いを進めた方がいいでしょう。私たちが平等互恵の誠実な態度
     を以ってするなら、この問題は話し合いのテーブルの上で解決できると私は
     確信しています。                          
     台湾の危機については、今や中共は武力で台湾を威嚇しており、状況はかな
     り深刻です。将来どのように展開するかは今のところまだわかりません。 
     台湾は、 経済発展と政治における民主と自由の進歩においてまさに中国大
     陸の未来の民主制度への方向づけです。もし中国共産党によってつぶされる
     ようなことがあれば、それはとても悲しいことです。 まさに私が一貫して
     主張しているように、 国と国、民族と民族の間で武力をもって争いを解決
     することに、私は断固反対します。 中国共産党にはこの点をわかってもら
     いたいものです。                          







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【信念を失わず、闘志を強く抱き】
 




薛 偉 :海外に身を置く中国大陸の民主化運動活動家たちにご批判と望んでおられる
     ことをお話しいただけますか?                    

ダライ・ラマ :批判ですか…。互いに分かり合えれば、語り合うことで私はとても嬉しいの
     です。私は中国の友人に対して、民主化運動の人士であるなしに関わらず、
     どんな人に対しても一貫して友好的な交わりを持ち続けています。私はいつ
     も彼らとチベット問題を語り、仏教のことなども話します。チベット人の闘
     いもまた民主自由を勝ち取るものであり、基本的には私たちの目的は同じな
     のです。だから一切のチャンスを無駄にせず、彼らと互いに連絡をとりあい
     互いに支え合うのです。これから先も、このようなつながりを持ち続けられ
     るよう私は望んでいます。                      
     あなたがたに対して批判があるとすれば、一部の人たちは海外に出たばかり
     の頃は少なからぬ仕事をするのに、個人的境遇が少しばかりよくなると意志
     と信念はしだいに萎えてしまいます。ある人たちの間では人事問題をめぐっ
     て互いに言い争い、公衆の事業と努力すべき目標をなおざりにしています。
     1989年、 多くの大陸の民主化運動活動家たちが国外に到ってまだ数ヵ月の
     頃、私は、ただ外国の支持に頼るばかりではいけない、自らの力に依らなけ
     れば、そうしてこそ成功を得られるのだと話したことがあります。私たちが
     海外に亡命してすでに三十数年、あなたがたはようやく数年、私はあなたが
     たが決して三十年待つ必要はないと信じています。しかし最も大切な点は、
     信念を失わず、闘志を萎えさせてはならないということ、これは非常に大切
     なことです。                            
     私たちは互いに友好的に協力していかなければなりません、同じ目標に向っ
     て努力奮闘するために。私は必ずしも一概に共産主義の学説に反対してはい
     ません。 半分仏教徒で、半分はマルクス主義者であると自称しているんで
     すよ!(笑) しかし共産党の専制と暴政には断固反対します。      

薛 偉 :ほんとうにおっしゃる通りです。私たちは信念を持たなければ。未来はすべ
     て私たちの苦難と努力にかかっており、私たちは必ずや自由の精神を勝ち取
     ることでしょう。いつかポタラ宮にあなたをお訪ねする日の来ることを私は
     堅く信じています。                         

<完>  

《北京之春》第68期−64(1999年 1月)より

チベット人は民族自決の権利を有する
−自由アジア放送チベット部主任ンガポ・ジグメ氏単独インタビュー−



安 其(アン・チィ)



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 ンガポ・ジグメ氏はその名前からも察せられるように、十七条協定調印で主役を演じ、ダライ・ラマ十四世のインド亡命後はチベットにおいて重要な役割を担ってきたンガポ・ンガワン・ジグメ氏の子息として中華人民共和国成立後の1951年ラサで生まれました。彼の成長期はまさに近代中国の激動の時代であり、荒れ狂う政治運動のさなか漢藏両民族の苦悩を身をもって体験してきたことは、彼をチベット問題解決において特別な使命を受けるに相応しい器につくりあげたとも言えるでしょう。
 今回のインタビューでは中国の対チベット政策の変遷について詳しく語られている点がとくに興味深いものとなっています。

 また、インタビュアーである安其氏の“其”は正しくは「王へんに其」と書きますがJISコードにないためこの字を充てました。ご了承ください。


【目 次】 

序文
チベット問題が国際化した原因
中共の対チベット政策の変遷
?ケ小平はチベットの“一国二制度”を阻み大禍を招いた
中央政府は金銭でチベット経済を歪めた
共産党に“邪悪な者とされたチベット”
チベット人に自決の権利があることを認めよ
チベット民族が公正な待遇を得られるように


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  古今を通じて、それぞれの民族にはある時期にその歴史を代表するような人物が登場している。もし、共産党政権のチベットに対する残酷な統治がチベットの精神的指導者であるダライ・ラマを国外亡命へと追いやり、中共の天安門事件鎮圧によって国際社会の一層の関心と連帯を得て、伝統的に“神格化”されてきたダライ・ラマに現代文明の光栄が授けられたというなら、ンガポ・ジグメはこの光輪の下で重要な役割を担っている人物であろう。この歴史的使命感を担った現代のインテリは、宗教に対するが如き敬虔と、その機敏と叡智を以って自らに生命と智恵を与えてくれたチベット民族と漢民族との間で現代文明の火種を振り撒いているのである。

 ンガポ・ジグメは1951年チベットのラサに生まれ、家庭の関係で幼少の頃からよい教育に恵まれてきた。1959年、小学校二年でラサから北京の民族学院付属小学校に転校し、64年には北京第四中学に進学する。“文革”期に出身家庭の影響で、68年内モンゴルの生産隊に入りその地に定住する。彼の人生経験はここに始まるのである。
  1972年、第一期工農兵学生(訳注:文革期の労働者、農民、兵士出身の学生)として内モンゴル師範学院外国語学科に学び、卒業後、西藏師範学院、ラサ中学で教鞭をとった。78年に大学院受験者の募集が再開され、ンガポ・ジグメは北京の中央民族学院(訳注:現在の中央民族大学)大学院に合格し、専らチベット民族史研究に没頭する。82年、修士号を取得すると中央民族学院に残りチベット学研究所の助手研究員になった。1985年には国外留学し、相次いでインド、ネパール、フィリピン、香港等を訪れている。1987年、米国バージニア大学の政治外交学科に入学、国際政治と外交政策を専攻する。
  1990年、ワシントンに本部を置く“国際チベット支援センター”で働くようになり、研究員と政治アナリストを勤めるかたわら、88年から《チベット論壇》の編集を長期にわたって兼任している。

 長年にわたって国家と民族の移り変わりを目の当たりにしてきたことに加え、さらにチベットの歴史と中国の文化に対する深い理解は、ンガポ・ジグメに、愛してやまぬ漢藏両民族の間に開いてしまった隙間を埋め合わせ、中共がつくった深い裂け目に掛け橋を渡すという決心をさせたのであった。こうしてチベット高原の血統と現代文明との橋渡しをすることで、彼は当代まれに見る卓越した天与の才を顕わしたのである。即ち、彼の思考と見通しは多種多様な現行の政治に惑わされることなく、彼の憂慮は民族と国境を超え、政治的な実用目的をも超えて、“中国”を仮想敵とせず“民族”を盾としないで、チベットを様々な政治的争いの場から救い出そうと試みることで、少なくとも、いつも政治の騒々しさの裏で安易に軽視されているチベット人たちのほんとうの思いと彼らの切実な利益−これこそはチベット民族が存在している真の証明である−に人々の注意を向けることができるのである。このことから、彼は反逆者と言うより、むしろまず建設者なのである。
  1996年、ンガポ・ジグメは米国の自由アジア放送チベット部主任となり、チベット向けの放送を担当している。ジャーナリストとして彼は初心に忠実であり、ダライ・ラマ政府とさえ一定の距離を保ち、ジャーナリズムの客観性独立性を守っている。

 先日、わたしは一個人としてワシントンのンガポ・ジグメ氏を訪ね、お話を伺う機会を得た。






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−チベット問題が国際化した原因−

安 其: 近年、チベット問題はますます国際化の傾向を見せていますが、その原因はどこにあるのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: チベット問題の国際化は実は早くから始まっており、今世紀初めにはイギリスと帝政ロシアがチベットに介入していました。当時のいわゆる強権的国際政治の観点から言うなら、チベットというこの広大な高原に足場を築きさえすればアジア全域を押さえることができたのです。ロシア皇帝はチベットを支配しようとし、イギリス人はそれを阻もうとしました。その間、ロシアとイギリスが合意したこともありました。即ち、双方ともチベットに手出しせず、チベットの“宗主権”は大清帝国に帰するというものです。こういった大国間の奪い合いはすでに国際化していたのです。しかしこの国際化はその後の数十年、ある時は活発化しまたある時は停滞したりで、西洋はその後ますますチベットにかまけていられなくなり、第一次世界大戦後、彼らはなおさら自分たちのことで精一杯になりました。それで1920年〜30年代には彼らがチベット問題に介入することはまったくなかったのです。
 第二次大戦期間中、連合軍はビルマから中国の戦場へと戦火を移しました。ビルマが日本に占領されて輸送ルートが断ち切られると、連合軍はチベットに道路をつくり戦争物資を輸送することを考えましたが、チベット政府はこれに応じませんでした。というのも当時チベットはかなり保守的で、外部世界からの働きかけに対しては誰であれひどく用心していたのです。とりわけ西洋諸国に対してはなおさらのことでした。当時チベット政府は中立を守ることが多く、大戦参加国のどこにも肩入れしなかったのは、もし道路をつくれば人がやってくるだろうし、そうなれば将来持ちこたえられなくなることを恐れたためでした。話し合いの結果、ついにチベット側は空路を開いて、援助物資を中国の戦場に運ぶことにことに同意しました。
  50年代に中共がチベットに進軍し、59年、チベットに対する全面統治を行うようになって、チベットの最高指導者ダライ・ラマが国外へ逃れると、チベット問題は再び国際的な話題になりました。87年、チベットでは暴動が起こりましたが鎮圧され、89年には比較的大規模な抗議行動があり、これも当局によって軍事管制がしかれました。実は、60〜70年代にもチベットでは同様の抗議や暴動があったのですが、当時中国は外部に開かれておらず、内部でどれほどの騒ぎが起こっても外部には伝わらなかったのです。80年代の改革開放以後、多くの西洋人観光客がチベットを訪れ、テレビやビデオで紹介され、ニュースなどでも報道されるようになりました。こうしてチベットで起こったことがいち早く国際的に取り上げられるようになったのです。ここ数年で、国際世界ではチベット問題に対する関心がますます高まり、その最大のターニングポイントとなったのが89年の天安門事件でした。また、1959年にダライ・ラマが亡命してからそのあとに従って数十万人のチベット人が世界各地に散らばりましたが、チベットの宗教活動も世界各地で展開されるようになり、これが国際社会のチベット問題に対する理解を促したとも言えるでしょう。と同時にダライ・ラマ法王ご自身のイメージが世界中の多くの人々を引き付けていることも重要な原因の一つとなっています。

安 其: 現在の観点から、チベット問題の難しさはいったいどういうところにあるのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: チベット問題はきわめて複雑な問題です。総じて言えば、民族問題、宗教問題、文化の衝突の問題といった大きな問題であり、さらに何よりも政治問題であることです。この点において国際政治の影響も受けているのです。以前チベット人は伝統的にインドとある種の文化的関係もっていた外は、政治の上ではほとんど何の関係もありませんでした。西洋の植民地主義が盛んになってから、インドはイギリスの植民地となり、大英帝国の勢力範囲は拡大しつづけ、西洋の中国に対する門戸開放等の影響力は当時の清朝政府に大きな変化を引き起こしました。清朝は早くからチベットと一種の宗主国的な関係を維持していたので、チベットを完全に統治しようとしたわけではありませんでしたが、西洋列強が進出して清朝の為政者に大きな影響を及ぼすようになったため、チベットという地盤を安定化しておかないならこの地を押えることは困難になるだろうと考えたのです。チベット問題は単純な民族問題、或は他のいかなる問題でもなく、様々な矛盾といろいろな問題の絡み合いなのです。

安 其: ではチベット独立の訴えとはいったいどういうものなのですか? 政治的な表現に過ぎないのでしょうか、或いはほんとうに独立することを求めているのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: チベット独立の訴えもまた多様な意味を持っています。ある意味でははあなたのおっしゃるように一種の政治的な要求であり、またある意味では今の世界の民族独立という潮流でもあります。これもまた政治レベルにおける一種の要求です。さらにもう一つ、文化と民族の心理的なものからくる訴えがあります。
 チベットのような民族は、昔からあの高原に暮らしてきたのであり、外界との接触があったにせよ外部の人間が入ってくるのもチベット高原に住んでいる者が他の土地へ降りていくのも非常に困難なことでした。基本的に自分たちで成り立っていくというタイプの社会だったわけです。しかもこのような広大な高原で自分たち独自のまったくユニークな−世界のどんな文明とも大きくかけ離れている−一連の文化、文明を育んだのです。チベット人は歴史上、中国ともしばしば密接に関わってきました。しかし中国の皇帝たちは今までチベットを支配したことはなく、モンゴル人もチベットを征服しようとしましたが、やって来るとまた去っていきました。ですからチベット人は古来より外部民族に完全に占領されたり統治されたことはなかったのです。中共がチベットを全面的に支配していることは、チベット民族にしてみればまったくたまらない気持ちなのです。


−中共の対チベット政策の変遷−

安 其: 中共がチベットを支配するようになって、チベットに対する政策はどのような発展過程を辿ったのでしょう?

ンガポ・ジグメ: 中共のチベット政策は幾度も変わりました。50年代初期、中共のチベット政策はかなり慎重なもので、毛沢東は当時、チベット問題に対してかなり注意を払い言行の程合いをわきまえていました。59年までは中共のチベットに対するあらゆる政策に毛沢東自ら関わっていたということです。当時、中共のチベット政策は順を追って一歩一歩進められ、きわめて注意深く行われていたのです。
 現在ある人は、香港の一国二制度はチベットに適用できるのではないか、と言っています。実際、チベットは1950年から1959年までの間まさしく一国二制度でした。当時チベットは「祖国の懐に帰る」ということを受け入れ中国の統治を認め、中国政府もまたチベット地方政府を承認し、チベットは従来どおり現行の社会制度を維持し、現行の政府が引き続き政務を行い、ダライ・ラマ制度もそのまま引き継ぐことができたのです。もちろん中国政府も、チベットは一歩一歩民主改革を行わなければならない、と言いましたが、しかしそれはチベットの人民と上層の意思しだいで、彼らが改革を望まないなら遅らせてもよい、というものでした。そういうわけで、この時期チベットの改革はかなり安定したゆとりあるもので、一国二制度だったと言えるでしょう。59年以後、チベットでは“民主改革”が実行され、政策は年々左傾化していきました。これは当時の中国の情勢とも関係があります。57年の“反右派闘争”、58年の“大躍進”、59年には彭徳懐が党の左傾化路線に異議を唱えましたが、政府はさらに左傾化を強めました。この時、まだチベットにはダライ・ラマがいてチベット政府も機能していたので、多少は遠慮しないわけにもいかず、あまり行き過ぎたことはできませんでした。59年以後、ダライ・ラマが追われて亡命しチベット政府も解散すると、何はばかるところもなくなり手をつけ始めたのです。その結果、中国内地で推し進められていた地主追放と農地開放がチベットでも行われるようになり、チベット伝統の社会制度はすべて打ち砕かれ、これに続いてまた文化大革命等が起こったのです。
  80年代初めには改革開放政策が開始されました。80年、チベット視察に訪れた胡燿邦はその現状のあまりのひどさを知って一連の新たな政策を打ち出しましたが、ある政策は実行されたものの手をつけてほどなく止めたものや実行されないものもありました。例えば、胡燿邦が対チベット政策として打ち出した“民力回復”政策は、税金を三年間免除し、その後の状況次第でなお必要とあればさらに免税を考慮するというものでした。さらに彼は、チベットに派遣されている85パーセントの漢族幹部を引き上げさせることを打ち出しました。彼らもチベットにとどまることを望んではおらず、大部分は追いやられて赴任していましたから、こうした政策は皆から歓迎されました。しかし胡燿邦の政策を投降主義だと感じる人々も多く、この政策が実行されて数年後には打ち止めになってしまいまいした。胡燿邦が失脚した時、この事もまた彼の対チベット政策の誤ちとなってしまったのです。

安 其: 胡燿邦はなぜ赴任してまもなくチベット視察を行ったのですか? チベット人の彼に対する印象はどんなものだったのでしょう?

ンガポ・ジグメ: チベット人は胡燿邦の非常に寛大で度量の広い人となりにかなり好印象をもっていました。もちろん胡燿邦のチベット視察の初めの頃は、彼が何をしに来たのか理解しようとしない人たちもいました。それまでにチベットでは小規模な暴動がいくつか起こっていたのです。79年からになりますが、当時中央政府はダライ・ラマ側と接触を保っており、?ケ小平はこう考えていました;ダライ・ラマは亡命して国外にありチベットの現状を知らない、チベットでは立ち上がった農奴たちがとっくに解放されたのだ、と。それで彼はダライ・ラマに帰還して現状を見るようにもちかけたのです。ダライ・ラマはすぐに代表団を派遣しました。代表団がまず甘粛省及び青海省のチベット区を訪れると、その一帯の幾千幾万のチベット人たちが拝謁しにやって来て彼らを歓迎しました。当時中央が派遣した同行者たちはみなこの事態に驚愕してさっそく中央に報告しました。代表団がすぐにラサへ向けて出発するために、中央は時を移さずチベット自治区の責任者に、「甘粛と青海ではこういう状況であったがそちらではどうか?事態を押さえきれるか?」と打電しました。自治区の責任者は「問題ありません、こちらの解放されたチベット人農奴たちの自覚は高く亡命した連中には目もくれませんから、彼らに対してどうということもないでしょう」と答えて、中央はようやく安心しました。しかし代表団がラサに到着するや自治区中が沸き立ったのです。当地のチベット人たちは代表団に拝謁するだけでなく、彼らに自分たちの苦境を訴えました。当時わたしは北京におり、こういった状況を耳にしてとても驚きました。こんなことが起こるなんてまったく想ってもみなかったからです。チベットが平定されてすでに二十年たっていたのにチベットの人心の向背という問題は未だ解決されておらず、チベットの民衆はなおダライ・ラマを待ち望み、その心はなおダライ・ラマに向けられていたのです。だからこそ胡燿邦の視察が行われたのです。


−?ケ小平はチベットの“一国二制度”を阻み大禍を招いた−

安 其: 先ほどのお話では、49年から59年にかけて相対的に中央の政策は寛容であったということですが、それではなぜ59年の“暴動”が起こったのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: この問題は実のところ非常に複雑なものです。59年の“暴動”はチベット自治区から始まったものではなく、まず四川省、雲南省それに甘粛省、青海省のチベット区から起こったものなのです。どうしてこれらの地域で発生したのでしょうか? これらの地域では53、54年から“民主改革”(訳注:封建的社会制度からの解放を意味し具体的には土地、婚姻制度等の改革、及び農奴解放を指す)が実行されました。
 この問題においては当時中共指導部内に意見の相違があり、後に毛沢東も言っていることですが、チベット改革問題において毛沢東と李維漢は保守派であり、?ケ小平と李井泉は急進派でした。?ケ小平と李井泉は甘粛青海のチベット区に民主改革を推し進めようと極めて力を入れていましたが、毛沢東はむしろ慎重で、これらの地域にすぐに民主改革をすすめることにはけっして賛成していませんでした。第一に、これらの地域で民主改革を押し進めたならチベット自治区の安定に影響を及ぼしかねない。第二に、そうなれば中国のインドとの関係に影響が出る。50年代、中印関係は非常に良好で、インドの首相ネルーは中国に対してとても友好的で、この東洋の老大国が手を携えて共に西洋の植民地主義に反対するなら、全世界の帝国主義と植民地主義に対抗する新興勢力の代表になる、と考えていたのです。
 ?ケ小平は後に香港に一国二制度を打ち出しますが、しかし50年代、彼はチベットの一国二制度に最も強く反対したのでした。この事は誰も取り上げていませんが根拠はあるのです。?ケ小平は当時、甘粛、青海、四川省のチベット区にまず民主改革を行うことを打ち出しました。民主改革が行われるや、それら地域の寺という寺はことごとく改革されました。寺はチベット人の伝統的な社会生活の中で非常に重要な役割を占めていました。寺は宗教的な中心であるばかりでなく、経済の中心でありまた交通の中心でもあったのです。寺はチベット人にとって精神的な導きを行うばかりでなく教育センターの役割も果たしており、人々はみな寺に来て教育を受けたのです。多くの寺は自分たちの土地と荘園を所有していましたから、これらの土地が改革でなくなってしまうとたくさんの住職たちが打撃を受けました。かくしてこれら地域で大規模な抵抗を引き起こすことになったのです。抵抗するや鎮圧され、鎮圧されればこんどは山にこもってゲリラ戦に出たのです。この地域のチベット人はみな、荒々しい気性で銃を帯び村と村で常にけんかの絶えないことで知られるカムパです。もちろん解放軍は彼らの敵う相手ではなく、すぐにチベット自治区方面へ逃れて行きました。

 中国政府は十七条協定で、チベットでは民主改革は行わないと言っています。そのチベットとはチベット自治区を指しておりその他のチベット区域を含んでいません。しかしチベット人の伝統的概念においては、チベットといえばこれらのチベット区域も含んでいるのです。川向こうもこちら側も行政区域としては分けられますが、しかしみな一つの家族です。兄弟が川向こうにいてわたしたちがこちら側にいるとして、わたしが殴られたらもちろん川向こうに逃げます。みな同じ民族、宗教、文化、伝統習慣なのです。どうして向こう側に影響が及ばないことがありましょう。その後事態はますますひどくなり、57、58年になると、四川、雲南、甘粛、青海一帯で叛乱が起こり始め、鎮圧されるとチベット自治区に逃れたのです。おそらく数十万人にのぼる武装難民が自治区へ逃げ込んだでしょう。

安 其: 国際的な介入はどのように役立ったのでしょう?

ンガポ・ジグメ: 国際的な介入もありましたがまったく役に立ちませんでした。アメリカのCIAが訓練したという特殊部隊が空から潜入しましたが、ほぼ全員捕まってしまい何の効果もありませんでした。主なものはやはり内部で自然発生した叛乱で、しまいにはますます抑えきれなくなり、結果として59年の大禍を招いたのです。

安 其: 59年の鎮圧に関するデータで詳細な統計が出されたことがありますか?

ンガポ・ジグメ: いいえ、データは混乱したものです。チベットでは60年代に辺境のゲリラ隊が解放軍の軍用車から公文書を奪ったことがあり、そこに叛乱が平定されるまでの間、八十九万人を殺害したとあるそうです。わたしはその文書を見たことはありませんが彼らが出版した写真を見ました。中国側は終始この方面のいかなるデータも出していません。亡命政府が後に出した死亡者数では百万人、また百二十万人とも言っています。もちろんその数字には、中国の軍隊に殺害された人たちだけではなく非自然死、及び自然災害に遭ったり飢え死にした人と中共統治下で様々な原因によって亡くなった人たちも含まれています。人口比率から計算するとこの数字はあまりにも多すぎるので、わたしは今まで保留にしてきました。わたし個人としては、チベット全域−ウ、ツァン、カムのチベット三区を含めて、三、四十万人くらいであったろうと推測しています。


−中央政府は金銭でチベット経済を歪めた−

安 其: ある人は、?ケ小平は金でチベットの安定を買う政策を行った、と言っています。チベットには毎年十数億元もの大金がつぎ込まれていますからね。こういった情況はチベット人の意識変化を促しているのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 80年代後期、とくに90年以後、?ケ小平の政治における周到な支配がかなり明確に顕れてきました。その一方で、物質面での優遇が図られました。たとえばチベット自治区の現在の財政収支は90パーセント以上が中央政府からの割当金です。つまり、政府の毎年の予算収支は税金を徴収してこれに充てるのではなく、直接中央から割り当てられたもので、中央がチベット自治区を養っているに等しいのです。80年代初期、グラウンド、ホテル、大型発電所等の数十項の大規模プロジェクトが実行され、中央は多額の資金をつぎ込み、チベットにとってその影響は確かに大きなものでした。しかし経済における投資が大規模化するにつれてチベットの経済は偏って発展してしまったのです。というのも、もともとの基礎の上に自ずと発展形成され自分たちで市場を有し生産するという健全なものではなく、中央からの資金援助をただあてにするだけのものだからです。もし中央の資金援助がなければチベット全域の経済は麻痺してしまい、多くの人が食べていかれなくなってしまいます。しかも、金銭援助というこの方法はただ一部分の人々を富ませるだけで、社会においてあらゆる人が平均的に利を得るというものではありません。とくに農牧民や辺境の農民はおいてけぼりのままです。同時に、中央が金銭的援助を行うようになって内地からのたくさんの移民を養う結果となり、経済的な利益の多くは彼らが得て、チベットの民衆がその恩恵にあずかることはあまりありません。チベットから来た人たちと話してわかったことですが、ほとんどの人からこうした答えが返ってきました。チベット経済の偏った発展は一部の人たちを拝金主義にし、経済の勢いは道徳を腐敗させ、チベット民族の文化さえもその影響を受けているのです。

安 其: 近代化や発展ということ自体がチベットの宗教や言語にある程度の影響を及ぼすのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 近代化、商業化の影響は相当にひどいものです。もし共産党のこの方面における政策が適切なものであれば、チベットの宗教文化が受けた影響もそれほど大きくはなかったでしょう。チベット文化には保守的な部分もありますが、かなり開放的な一面もあるのです。チベット文化は包容力に富んでいるので外来文化を吸収しやすく、それら外から入ってくるものを自らの中に包み込む性質があるのです。仏教はまさに外来文化から採り入れ吸収してきたものです。共産党がこの点で保護政策をとっていたなら、近代化の影響は避けられなかったにしてもそれほど破壊的なものにはならなかったでしょう。

安 其: 共産党は90年代、チベットの多くの寺院を修復したのではありませんか?

ンガポ・ジグメ: わたしは85年以来帰国していません。《人民日報》によれば、共産党は90年代に千七百個所のお寺を修復し相当のお金を費やしたということです。しかし多くの人たちは共産党の宣伝を信じてはいません。というのも共産党はすべてを明らかにしてはいないからです。例えば、いくらいくらかけてポタラ宮を修復したと言いますが、どうして修復しなければならなかったかということには触れません。1959年の共産党による砲火でポタラ宮が破壊されたとは言わないのです。また文革中、毛沢東が深く洞窟を掘って食糧を貯め込んだ時、ポタラ宮の建つ丘の麓にも穴を掘り、建物の基礎をまるっきり壊してしまったのですが、このことについてもまったく触れていませんでした。

安 其: チベットの言語と文化の継承という問題について、多くのチベット人たちはみな心配しており、チベットという民族が歴史の上から消え去るのではないかと危惧しています。彼らの心配には根拠があるのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: あります。しかしチベットという民族はそんなに簡単には消え去らないと思います。というのも、チベットは非常に古くからある民族で、自らの文化、宗教を有し比較的保守的な一面もありますから、それほど簡単に完全消滅してしまうことはありえません。しかし、現在受けている影響は非常に大きなものです。チベットは数百万人、内地は十二億の人口、千分の一の比率から見ればチベット人を呑み尽くすこともできるでしょう。

安 其: 西側のメディアは、中共はチベットに対して植民地政策をとっていると言っています。この事についてどうお考えになりますか?

ンガポ・ジグメ: チベット自治区については、いまのところ内地からの大量の移民はありません。しかし、四川、雲南、甘粛、青海などのチベット区域ではすでに民族構成に大きな変化が顕れており、四十年前とはまるで違ってきています。例えば、青海には六つのチベット族自治州があり、二つの自治州では現在チベット人が85パーセントという大多数を占めています。もう二つはだいたいチベット人が65パーセント。のこる二ヶ所の自治州ではすでに漢人が大多数を占めており、そのうちの一つでは80パーセントが漢人です。中央の政策では今のところあからさまな植民地政策というものはありませんが、しかしこの五年間に内地の人間がかなりたくさんチベット自治区へ商売や仕事にやって来て、様々な特典に与っているのです。もちろんこういった人たちも多くはチベットに留まりたいどころか帰りたいのですが、帰りたくないと思っている人たちもたくさんいます。帰郷してもそれほどお金を稼げるわけではなし、チベットほど簡単に稼げるところは他にないのです。来たばかりの頃はおそらく不慣れであっても、住んでいるうちに慣れてきます。こういう人はこれからどんどん増えてくるでしょう。それに、チベットは長年にわたって入ってくる人ばかりで出て行く人はほとんどいませんでした。今のところはそれほど人は多くないようですし、発展の勢いもちょっと見ただけではわかりませんが、もしこのまま五十年も続けば、たぶんまったく様変わりしてしまうことでしょう。その時には問題も大きくなっています。


−共産党に“邪悪な者とされたチベット”−

安 其: 海外でチベット問題について話し合うとき、話題の的となるのは漢族とチベット族の衝突の問題です。聞くところでは、実際ほとんどの漢人は、宗教に対する畏敬という点からチベット人に対して感情の上では近いとはいえ、チベットのことを理解していません。漢藏両民族衝突は何に起因しているとお考えですか?

ンガポ・ジグメ: 実は歴史的伝統の上では、漢族とチベット族の間に何らの衝突もありませんでした。さらにチベット人は漢民族を非常に高度の文明をもっているということで終始敬服し尊敬していたのでした。吐蕃の王が文成公主(訳注:唐太宗の皇女)を娶ろうとしたのはまさに大唐帝国の文化、文明に憧れたからであり、文成公主を妻とすることが自分の光栄であると思ったからでした。それにチベット人は漢族の文化から多くのもの学んでいます。例えば、チベット人がやっている食堂ではその料理の多くが中華料理の応用ですし、チベットの野菜の名称はジャガイモとエンドウがチベット名である以外、白菜、大根、にら、芹菜等、90パーセントが漢族の名称をそのまま使っています。ですから、歴史的にはチベット人は漢民族に対してなんら本気で衝突するとか恨みを抱くといったことはありませんでした。
 もちろん唐朝とチベットの間に最初の戦があったことも確かですが、それは仕掛けられればやり返すというというものでどちらにも責任があり、しかもチベット側の侵略性のほうがやや強かったのです。また仲の良かった時期も多くありました。明朝の頃などは、チベットのラマたちが我も我もと北京に上ったのです。なぜかと言えば、当時の明朝の皇帝は彼らにたくさんの贈り物をしたからです。それもわずかなものではありません。チベットのラマたちが満杯になった車を連ねて北京からチベットへ引いていくほどのものでした。それで彼らは特に喜んで北京の皇帝の元に挨拶に訪れたのです。そのため明の朝廷は、あまり来てもらっても困るので「年に一度だけ来朝すればよろしい」と指示を出したほどでした。
 漢族とチベット族との衝突は清朝に始まったことです。清朝政府がチベットに派遣した駐藏大臣はチベットで兵を動かし、清朝末期にはチベットの辺境で土地改革を行い、チベット人たちの生活区域を完全に破壊して彼らに漢字の姓を押し付けたのです。満州族の清朝がもたらしたこのような民族間の衝突で、チベット人は、満州人であれ漢人であれどっちみちみな中国人なのだ、とみなすようになったのです。

安 其: どうして現在、民族間の対立がこんなにも激しいのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 共産党の政策が民族対立を激化させたのだ、と言えるでしょう。国民党はチベット本土を統治したことはなく、辺境のチベット区に対しては現地の部落長を通して間接的に治めていました。共産党が入ってきてから、チベットはまったく完全に歴史上はじめて外部民族による統治を受けるようになったのです。共産党は大々的にチベットの民族文化を破壊し、ダライ・ラマと数十万人のチベット難民がインドへ逃れるという事態を引き起こしました。これはまったくチベットの歴史始まって以来の出来事でした。

安 其: ずっと伺いたいと思っていたのですが、共産党が宣伝しているチベットは、わたしたちが子どもの頃見た《農奴》という映画に描かれています。その映画の中で、地主が自分の農奴チャンパに残酷な仕打ちを加えているのですが、ほんとうにそんなことがあったのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 共産党のチベットについての宣伝の中で、59年から始まったものの多くはみな偽りです。現在、アメリカは“中国を邪悪視している”と言う人がいますが、実は、共産党はとっくに“チベットを邪悪視”していたのです。最近、「中共は三十年間チベットを邪悪視してきた」と語った論文が出ましたが、まさにそのとおりです。かつて言われてきた生皮を剥がすとか、眼球や頭蓋骨を抉り出すとか、さらには子どもを寺の塀の隅に生き埋めにするとか、そんなことはまったくありません。生皮を剥がすとか眼球を抉るといったことは絶対になかったというわけではなく、百年に一度か二度はあったでしょうが、いずれの場合も私刑です。似たような私刑はどの社会にもあります。このように追求するなら、どんな社会、民族にもこういった残酷なことはあるものです。漢人はつい最近まで女の子の纏足、男の子の去勢ということを行っていました。共産党は、チベットを最も野蛮で未開で愚昧な暗黒社会としたのです。このような宣伝を内地の人たちが耳にしたらどうなるでしょうか? 今日に至るまで多くの漢人が、チベットといえばまず野蛮さ、残酷さを連想するのです。


−チベット人に自決の権利があることを認めよ−

安 其: チベット伝統の宗教制度をどう思われますか?

ンガポ・ジグメ: かつてのチベットの僧侶制度は政教一致制で、決してよい制度とは言えず、ヨーロッパ中世の情況によく似たものでした。こういった神権政治、政教一致制はおそらく歴史においてなんらかの効果を発揮したことがあるのかもしれません。しかしこんにちの世界においてはすでにあまりにも時代遅れで、改めなければならないものです。チベットの活仏転生制度も改変しなければならないものでしょう。この制度は多くの問題をはらんでいるからです。この点でダライ・ラマもいろいろお考えをお持ちのようで、もしかすると自分が最後のダライ・ラマとなるかもしれない、と語られ、これからのダライ・ラマをいったいどうするのか、必要なのか不要なのか、、ダライ・ラマ制度は選挙を通して選出する方法をとるべきで、人々が自ら決定すべきものではないか、ともおっしゃっておられます。さらに、チベット人の寺院建立にかける執念があります。たくさんの人がラマ僧や尼僧になりたがり、一生かかって蓄えた蓄財もみなお寺に寄進してしまうのです。そうすればよい来世に生まれ変われると信じているからです。こういう人たちはとくにかわいそうです。この蓄財を生活のために役立ててもいいし家を建ててもいいのに、どうして寺に寄進しないと気が済まないのでしょうか? こういった点で確かに大きな変革が必要なのです。もちろんすぐにできるということではありませんが、少しずつ変えていかなければなりません。宗教というものは人類が生まれて以来、人の思いの中にいつも存在してきたものです。マルクス主義を信じていようと科学を信奉していようと、心の飢え渇きというものが常にあるのです。

安 其: ダライ・ラマは早くから政教分離の問題に触れていますが、しかし彼一人で決められる問題ではないようですね。例えば、ダライ・ラマはチベットにおける高度の自治を主張していますが、チベットには独立を主張している人たちもいます。現在チベット人のダライ・ラマに対する連帯意識はどの程度のものとお考えですか?

ンガポ・ジグメ: チベット人のダライ・ラマに対する連帯意識は非常に高いもので、チベットでは広範囲にわたって人々の中で比類ない信望を集めています。しかしこの四十数年の間に、中共もまたチベットにおいて多くのチベット人を育ててきました。こういった人たちがどの程度ダライ・ラマに従っていくかということも問題です。ダライ・ラマがおっしゃっておられる問題、例えばダライ・ラマ制度をチベットの多くの人々に決定してもらう等々ということに至っては、彼らがそれを受け入れるかどうか、わたしにははっきりしたことは言えません。ダライ・ラマ制度は歴史の中で生まれ、歴史の中で受け継がれてきたもので、チベットの遺産なのです。ですから、このことはダライ・ラマ制度の問題というだけにとどまらず、チベット民族全体の歴史的遺産の問題でもあるのです。わたしたちがどのように受け止めるか、どのように受け継いでいくか、受け継いでいく課程において現代の各民族のそれぞれ異なった文化をいかに排除することなく新しいものを吸収し、旧来の伝統にある良いもの悪いものをはっきり見分けていくか、これはチベット民族が直面している非常に重大な課題です。この挑戦に応じられるかどうか、これは大きな試練です。

安 其: 民族自決という方法はチベット問題に適用できるのでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 民族自決は民族問題を解決する上でとても重要な原則であり、民族抑圧を避けるには比較的理に適った解決方法です。この民族自決の権利があるからこそ、弱小民族は自らが当然有すべき権益を勝ち取り保持していくことができるのであって、宗主国であれ大きな勢力を持つ民族であれ、完全に意のままに弱小民族を抑圧することは不可能であり、小民族に対応してかなり慎重にその利益と権益を尊重するでしょう。さもなければ弱小民族は離れていってしまいます。民族自決というものは一種のバランスコントロールの方法なのです。民族自決が提起しているものはまさにこういった想定に基づくものであり、武力や強権に関わることなく民意を汲み取る方法で民族間の衝突を解決するということです。もちろん具体的に実行していくにあたって、民族自決といっても何を決めるのか?ということでそれぞれちがったやり方が出てくるでしょう。しかし一つの原則として、民族自決の原則はチベット問題にとっても適用できるものです。
 チベット民族は、その歴史、伝統、民族文化、特徴からいって絶対に民族自決の権利を有しています。チベット人にこの権利があることをまず認めなければなりません。彼らがどんな決定をするかについては、また別の問題です。民族自決の権利を認めてから、未来の中国の指導者でもチベットの指導者でも、各方面の利害、中国の利益、チベットの利益を考慮しなければなりません。チベットが中国のもとに留まっても留まらなくても、いずれにしても話し合いはできます。わたしはまず基本的な連帯意識をもつべきであると思っているのです。

安 其: 海外の亡命政府や亡命チベット人たちはチベットの発展にとってどんな役割を果たすことができるでしょうか?

ンガポ・ジグメ: 海外の亡命活動は今までのチベットの伝統を引き継ぎつつ将来の発展への道を開いていくことができる、とわたしは考えています、即ち、彼らは伝統を継承し守っていくと同時に、外の世界からもよいものを学び取りさらにそれを普及させていく、というマスメディア的役割を果たすことができます。しかし真の主役はこういった海外のチベット人ではなく、その大部分がチベット内地に生活しているチベット人たちなのです。


−チベット民族が公正な待遇を得られるように−

安 其: この過程においてあなたご自身が果たされる役割とはどのようなことでしょうか?

ンガポ・ジグメ: わたしの仕事は、チベット民族が公正な待遇を得られるよう努力すること、チベットの権利を尊重するように働きかけることです。これまでの経歴と受けてきた教育によって、わたしにはチベットの歴史、チベット人の心の動きがよくわかると同時に、中国文化にも引かれ、それを心から愛しており、中華民族をとてもすばらしい民族だと思っています。たとえ彼らに多くの欠点があり多くの困難を経てきたにせよ、彼らは悠久の歴史をもつ民族であり、また将来性のある民族なのです。ある方面においてはもしかすると漢藏両民族間の交流を促進することができるのではないか、両民族の掛け橋となって相互のつながりをつけることに役立てるのではないかと思っています。

安 其: あなたは現在、チベット向けの放送を担当されていますが、その主な目的はなんですか?

ンガポ・ジグメ: チベットには報道の自由がなく情報もないので、それでわたしたちは正確で客観的公正な情報やニュースを提供しているのです。チベットではこの数年、情報取得という点である程度の進歩が見られましたが、実際にはなんらの報道の自由もありません。人々が外の世界を知ることはかなり制限されており、チベット内部のことについても報道規制があるため放送されることはめったにありません。わたしたちの放送を通して人々にイデオロギーで歪められたものではない正確で客観的公正な報道を提供していけたら、と望んでいます。

安 其: 情報はどうやって手に入れているのですか?

ンガポ・ジグメ: 大手通信社のニュースを含む各方面の情報がすべてそろっています。わたしたちのところには主にインドから来たチベット人レポーターが数名おります。チベット内地にレポーターのネットワークをつくりたいと思っていますが、難しいですね。電話さえうまくかからないことがあります。

安 其: ジャーナリストとして、西側で主流となっているチベット問題のとらえ方、扱い方をどのように評価されますか?

ンガポ・ジグメ: わたしの見たところでは、西側の主要な社会でチベット問題を話題にすることはさほど多くないようで、近年に至ってようやく増え始めた感があります。一般的にいえば、西側の主な社会では、チベットの自由、民族自決、自分たちの文化、伝統、宗教を保持していこうとする努力に対しておおよそ同情的です。もちろん西側社会のチベットについての理解の程度もまちまちで、具体的な状況についてはっきり理解しているとは言えません。

安 其: チベット問題について西側が言っていることと中国側の宣伝はいずれも真実を欠いている、と言う人もいますが、ほんとうでしょうか?

ンガポ・ジグメ: そういうことはあります。表面的なこともわりと多いですが。その他、亡命チベット人たちの宣伝工作もかなりのもので、西側の報道はどちらかといえば亡命チベット人側の宣伝に偏っています。というのも中共はあまり信望がないので、多くの人はその宣伝を信じていないのです。チベット亡命政府の宣伝もある面において多くの問題があるとわたしは考えています。西側の報道は本質的にはむしろより真実を追求していくことを目指しており、故意に事実を曲げて報道することはありません。しかし彼らも多くの規制を受けており、今のところ中共は、チベットにおける西側メディアの取材や調査をほとんど受け入れていません。西側のジャーナリトたちは中国大陸の他のほとんどの地域へ行けるのに、ただチベットへ行くことだけは規制されているのです。こうして西側メディアがチベットについて正確で全体的客観的な報道を行うことが制約されてしまうのです。

安 其: 先ごろチベットに関する映画《セブンイヤーズ・イン・チベット》が上映されて波紋を投じましたが、その中に宗教に関する細かい部分やンガポ・ンガワン・ジグメの描き方について真実を欠いている部分がありました。あなたはこの映画をどう思われますか?

ンガポ・ジグメ: これはあまりにもお粗末な宣伝映画です。あまりにも粗雑で嘘だらけです。史実に基づく映画ということですがそこに描かれている多くは架空のものです。フィクションとノンフィクションが入り乱れたひどくいいかげんなもので、その手法は卑劣で多くの状況が実際とは異なっており、ほとんど歴史的事実を無視しています。例えば、原作者のハーラーが解放軍のチベット侵攻を目の当たりにしどんなに残酷であったかなどと語っていますが、実は彼は解放軍を見たこともなく、解放軍がラサに侵攻する以前に彼はラサを離れているのです。彼の原作にもそんな内容はありません。原作と映画さえも違っているのです。






宮崎正弘の最近の論文から
最近書いた記事、論文のなかでも注目を集めたものを紹介します。


中国反日暴動の裏側 (講演速記録)


 以下は05年4月26日に行われた「路の会」での宮崎の講演速記録の要旨をダイジェストしたものです。
民主化運動のアクテイヴたちが米国で発行する反体制雑誌。胡平氏はシナ最初の「民主」選挙に北京大学から立候補し敗れるも強力な印象を残した。その後米国へ亡命しこの雑誌の編集を引継ぎ、民主化運動を粘り強く続けている。

米国亡命知識人のコメント

 アメリカに亡命した中国の知識人は05年四月の「反日暴動」を如何に分析したか。
「北京之春」を主宰する胡平が言う。
 「中国共産党は抗日戦争の主体でもなければ八カ国連合軍の一員でもなかった」。そして胡平は以下のように続けた。
 「強烈な劣等意識が過度の反日歴史改竄となっている。政治の暗黒、官僚の腐敗、困窮する農民、失業にあえぐ労働者、庶民は開発ブームにも乗れず、満足な家にも住めず、子供を学校にやることさえ出来ない。『反日』など一体、彼等となんの関係があるのか?」。
  次に呉国光(趙紫陽のブレインだった)の発言。
 「中国共産党が愛国を吹聴する資格などあろうか? マルクスは労働者に国境はない、と国際的共産主義を説いたように、共産党は外国製であり、しかも共産主義が中国においてすら破産した事実は明白である。これを庶民や青年の間に、特に強い民族的情緒や愛国主義なるものに訴えて誤魔化し、庶民を利用しようとしているが合理的でもない。彼らは共産党利益のために愛国とか民族の利益とかを利用できるものを手段化し、利用しているにすぎない。彼らの言う愛国は偽物である。選挙もなければ表現の自由ももたない中国の民衆はいずれ党の鼓吹する『愛国』にはなんらの価値がないことを知るべきである」。

反日デモの背景(1)

 07年四月から五月にかけて中国に吹き荒れた”反日デモ”の背景を簡単に振り返ってみます。
 江沢民が愛国教育を仕掛けた1993年から「反日教育」の過激化が始まったのですが、江沢民の父は江世俊で、その昔、江蘇省で日本の特務機関に協力をしていた。
 江沢民本人は上海交通大学出身と言っていますが、その直前まで南京の中央大学で日本語を専攻していた。戦後、「抗日分子」とされた伯父さんの江上青の養子になって、うまうまと出自を誤魔化した。

 江沢民が鼓吹した愛国教育キャンペーンにより、中国全土に203箇所、反日教育拠点を作った。
「反日記念館」の御三家が北京、瀋陽、南京にありますが、展示はと言えば、最初から「田中上奏文」で始まる。
 最初から贋物なんです。展示してある写真は、先般、東中野修道教授らが編纂された『南京大虐殺 証拠写真を検証する』(草思社)で全てが疑わしいとされた写真ばかりが並んでいます。それを使って子供らを教育しているということは非常に恐ろしいんですけれども、大体見に来ているのは強制動員の公務員です。警察、軍隊、みんな一日だけ、参観日を作って、それから高校生、小学生が遠足で来ている。
  参観風景を見ておりますと、みんなぺちゃくちゃお喋りばかり。まじめに展示を見ている人は殆どいないです。「このつまらない見学が終わったら、今日どこへ行って遊ぼうか」という話をしておりますので、どの程度に効果があるのかと非常に疑問です。
 ともかく反日なる記念館の写真展示内容そのものは、シオンの議定書もどき謀略構造になっている。

反日デモの背景(2)

 共産主義が限りなく行方不明になってから中国共産党が展開したのはナショナリズムの鼓吹。危険な小道具を持ち出してきて、これを梃子に政権の維持をやっている。
 自分達だけが正しくて、日本が降参しなくてはいけないというイメージを情報操作で作りだしている。
文革世代は今回の反日デモを完全に冷笑している。また若い人が、何かの政治的キャンペーンの犠牲になるのではないか、もう一回揺れ返しがあるのではないか、というような恐れを抱きながら、距離を二歩も三歩もおいて冷淡に反日デモを見ていた。
  二番目の特徴は奥の院の「権力抗争」が中軸にあって江沢民の「上海閥」と胡錦濤のいわば「共産主義青年団閥」との確執がまだ完全に終わっていない。
 デモに参加した若い人たち、愛国教育を受けた人たち。過去十三年間に反日教育を受けた世代とは二十五歳以下。かれらは日本が悪いという洗脳で頭の中が染まっているんですが、全体がそうかというと、おそらく大半の若い中国人はこういうことに興味がないという傾向もはっきりしている。
  少なくとも都会にいる中国の若者は、非常に多様化した価値観を持っている。それから中華風の伝統というものに対して、距離感がある。どちらかというと無国籍です。
 DINKs(ダブルインカム、ノーキッド)。結婚はするけれども子供は作らないという夫婦が上海、北京その他の都会部には多い。
 国家とか愛国とかはどうでもいい、自分が生きたいように生きればいいということを書いた小説『第三の路』がベストセラーになっております。最近、出現してきたのが「傍老族」。自分が老いてゆくのを傍観している。人生に対する積極性が何もないと、これはちょっと日本人と似ているんですけれど、こういう種族が出てきた。
 ついで日本なみの「ニート」です。中国には千九百もの公立大学があります。それからプライベート及び、カレッジ、資格がもらえるカレッジを含めて三千三百の大学があります。
もうひとつは文学の頽廃現象です。
日本文学はほぼ全部翻訳されて出ています。村上春樹、吉本ばなな、山田詠美、あらゆる文学が出ておりますが、日本文豪というコーナーで紹介されているのは、かの渡辺淳一先生。04年の6月に上海に渡辺さんがサイン会に行ったところ数百人が列を作った。
 若者達の特質は、「国を出たい」という静かな、しかし確かな動機がある。
  そういう雰囲気の中で「反日」というのは何かなと考えますと、今の若い人たちは直接日本軍のことを知っているわけでもないし、いわば教科書という仮想空間の中で、知育されている通りのことを模範解答で、学校で書いているだけ。日本に対する憎しみというのは、殆ど無い。

携帯電話の空間における表現の自由

 四億台以上の普及した携帯電話と一億台以上のインターネットが武器になって反日デモに動員された。それであれだけ若者が集まったという解説が幅を利かせておりますが、今のインターネットは完全に中国国家公安部中共版KGBの統制下にあります。毎日モニターしている公安が三万六千人、かれらが24時間モニターしている。
 インターネットカフェは営業許可を取らないと営業できない。許可が取れないところは閉鎖されます。インターネットカフェには防犯カメラが備えつけられており、一日に何回か公安が検査に来る。経営者はいろいろな誓約書を出さなくてはならないし、もうひとつは外国にアクセスすると必ず罰則規定があるのです。ですからインターネット時代に、海外にアクセスが出来ないインターネットなんていうのはLAN(ローカル・エリア・ネットワーク)である。
 他方、携帯電話こそが中国共産党にとって脅威です。
 携帯電話も公安が盗聴しておりますけれど盗聴が出来ない携帯がある。アメリカのようにNSA(国家安全局)があってキーワードを選んで、モニターするがもはや携帯電話の会話による伝達を制御することは不可能な状況になっている。
同じ時期に折江省で農民暴動が起きて、参加したのは5万人です。炭坑ストはしょっちゅうですが、ほかには麻薬ルートで犯罪者達が携帯電話を使っているのです。それから脱北支援組織も携帯電話を使っている。数年前、中南海で突如、二万人座り込みをしたのは「法輪功」でした。やはり携帯電話を使っていた。こういう風に見てまいりますと、インターネットは制御できるけれども、携帯電話は次の段階では火之神「プロメテウス」になり得るのではないか。

反日デモはいかにして演出されたか

 反日デモが如何に演出されたかという観点から経過を振り返ってみたいと思います。04年の「反日サッカー」以来、表面的には反日感情というのは沈静化していたが、完全に消えていたわけではありませんでした。
 05年3月21日に、アナン国連事務総長が日本の常任理事国入りを歓迎するという発言がありました。そして日本の教科書検定があり、扶桑社の教科書が合格するということがあり、そういうところから、書き込みが急増した。
 日本の国連常任理事国入りに反対署名を呼びかけたところ2200万人とか、3000万人とか集まってきたとか。書き込みの中には「日本にそんな資格はない」とか、「日本が常任理事国になれば必ず第三次世界大戦が起る」とか、こういう乱暴な意見が並んでいます。
 いわゆる「愛国ネット」で、一番大きいのは「中国民間保釣連合会」、これは尖閣諸島に上陸した過激派です。もう一つの大手は「愛国者同盟網」で、これは去年、日本の新幹線導入反対で騒ぎました。
 「国際先駆導報」という共産党の機関紙が誤報に基いてアサヒビール、三菱重工、いすゞ、味の素その他日本の企業を名指しで非難し、「つくる会」に資金援助しているというような記事が流され、アサヒビールに対する不買運動が起きた。しかし吉林省の長春だけで、他には広がらなかったんです。どうもライバルのビール会社がアサヒの排撃に使ったのではないか、というふうに思われる節もあります。
 3月下旬に共産党は各大学、職場にオルグを.派遣して、反日デモへの参加要請をしております。要するに当局が動員指示を出していたのです。
 たとえば上海の例ですが、集合場所は「人民英雄記念碑前」と「人民広場」に集合しなさい、集合時間午前八時と書いてある。コースは南京路へ向い、人民広場で合流し延安路から日本領事館へとなっています。
 延安路は東京の昭和通りみたいなクルマ専用道路、ほとんど人通りがない。
 周りにデパートも何にもない道です。本当は平行して走っている上海の銀座に匹敵する盛り場もある。そこには多国籍企業が山のようにあって、ここで暴動を起されると困る。その先には江沢民の豪邸がある。
 これを巧妙に迂回させて日本領事館に向っていくというコースの演出があるのです。
 注意事項には「飲料水など各自が用意すること、日本製品は携帯しないこと、貴重品も持参しないこと、排便をすませておくこと、そして、日本製のデジカメ、携帯、パソコン、ラジカセ、ウォークマンなどは誤解を与えてはいけないので携帯をするな。出席をとるので、筆記用具を持参しなさい。領事館前では投石はいけない、小泉のポスターや国旗を焼くために、ライターなどを持参しなさい。シュプレヒコールは「日本製品を買うな」「歴史教科書改竄抗議」「日本製品排斥、国産品愛用」「日本の国連常任理事国参加反対」「魚釣島を取戻そう」など決まっているんです。それ以上のことは言うなという意味です。
 さらに細心の注意事項が追加で添付されておりまして、先ず一番「日本の右翼を刺戟するような破壊活動を慎みなさい」「付近の日本商店やレストランに投石するな」。「国旗を焼くときは自分の衣服に燃え移らないように気をつけよう」「警備の警察の指示にしたがいなさい」「上海の国際都市のイメージを保持するため、リーダーの指示に従って整然とデモ行進をしなさい」「以上を踏まえて広く友人に参加を呼びかけてください」というような指示書が『大紀元』(4月20日付け)によって暴露された。
 4月10日、広州の領事館(花園ホテルのなかにある)や付近の日本料亭が襲撃を受けた。
 深センでは「ジャスコ」に投石被害。それから蘇州に広がった。
 北京の場合は上海と比べるとかなり整然としていた。勿論、暴力行為はありましたけれど、大使館前にはレンガがいつの間にか積み上げられて、生卵がケースで用意されて、帰りのバスも用意されて、北京では相当の失業者が加わっているというようなことが確認されております。
 アモイでのデモを友人に確認したところ、やはり1万人くらいが参加して、自動車を二台燃やしたということです。
 東莞では日本企業が二社、ストライキに遭遇しております。それから広州、珠海、南寧(江西省チワン自治区ですが)。李肇星外務大臣が「日本側に責任がある。だから謝罪しない」と言明、一方では町村外務大臣が謝罪をしたという一方的な報道を中国はした。
 中国が勝ったイメージを捏造したわけですね。

何を”反日”ですり替えようとしたのか?

 中国は「反日」で何をすり替えようとしたか?
 社会不安、農民暴動、ストライキ、炭坑暴動、失業対策の無策・・・・。
 国民がじつは一番敵視しているのは、中国共産党であって、亡命知識人達が指摘したように一般の民衆にとって「日本」は関係がない。
 農村対策の遅れ、貧困地域のそのままの遅れ、都市戸籍の問題その他。都市へ出稼ぎに行って働くわけですが、戸籍の問題があって、月に例えば千元くれるという約束があって行ってもあんたは田舎の戸籍だから、賃金は半分だとか。スシ詰めの部屋に入れられ、場合によって頻繁に給与の不払い、現場監督が給料の持ち逃げをやる。だからおとなしい農民でも我慢できなくなって暴動がおきる。
 さらに深刻な問題は、開発弊害。たとえば三峡ダムで立ち退いた農民が公式的には117万人とも140万人とも言われていますが、立ち退かされた多くには職もなければ移転した先に家も建てられない。
 そのうち20万人くらがい流れこんだのが、重慶の萬州区というスラムだった。
 04年10月18日に、この重慶で5万人の暴動が起きて、武装人民警察の発砲で数人が死んだ。同年10月27日には四川省漢源県で、共産党始まって以来という十五万人が参加した暴動がおきた。
 これもダムの立ち退きを要求されている農民に補償金が1平米あたり日本円で数十円。これは死ぬか生きるかの問題で、それで農民達が立ち上がって、地方幹部に抗議をしたところ軍隊が導入されたのです。こういうことは、しょっちゅう起きている。
 環境問題でもデモが起きています。
 北京の反日デモのその日に折江省の東陽で化学工場、染物工場、製薬、化学肥料、農薬などの工場が廃液を全部垂れ流して操業していたため、たとえば妊婦が奇形児を産むとか、原因不明の病気になる。癌の発生率が異常に高い状況に陥った。
 近くの農民が自警団を組織して、原料を搬入するトラックをストップさせる騒ぎに発展し、農民が封鎖線をはったため警官隊が三千人も導入された。
 とにかくあちこちで本当の農民一揆を越したような状況が進展しています。
 この矛盾をすり替える手段として「反日」を演出してきたけれども、いよいよ「反日」でもすり替えが効かなくなってきた。

経済繁栄も嘘の固まり

 中国の銀行が抱える天文学的な不良債権、これを隠していますが、おおよそ日本円で90兆円くらいの不良債権がある。国有4大銀行だけの数字です(中国銀行、中国建設銀行、中国工商銀行、中国農業銀行)。
 対GDP比で中国の不良債権は50パーセントあるだろうと米国などの多くの金融機関のシンクタンクが指摘していました。
 不良債権処理に当たっては、日本と同様に債権買取会社を作って、そこに移管させる、帳簿上そういう操作をやってきました。
 また中国はさかんに赤字国債を出しています。赤字国債と不良債権と全部合わせると、西側の専門シンクタンクが計算したところGDPの140パーセントぐらいになっているはずだという。
 中国は大掛かりな詐欺を平気でやります。中国銀行と中国建設銀行を香港とニューヨークとシンガポールあたりで上場し、それで1千億ドルそこで集めて穴埋めをしようとした。そうしたところ事前審査でニューヨークは受付けられない、ということにあり、香港あたりに、上場を移行する。
 一方、赤字を補填する為に、外貨準備高から03年に450億ドル、04年には追加で700億ドルを外貨準備から入れた。

 あれだけ愛国を言っている党幹部の汚職と腐敗が全く絶えないという問題があります。非常に深刻です。党の最高幹部はどれだけの汚職をやってもつかまりませんけれども地方幹部がつかまっている。
 社会的経済現象のみならず、基礎的な問題で環境汚染と水不足が深刻で、特に水に至っては四百数十の都市で飲料水がもはや飲めない。
 辛うじて北京、天津あたりの水は飲めるけれども、ミネラルウォーターを家庭では使いなさいという通達が出ている。
 黄河の下流流域では汚染された水を飲もうにも、水が来ていない。断水しておりますから、そうすると水の汚染と水不足により、とくに人間は水がないと生きていけませんから、過去十年間の改革開放のなかで、中国は農村から都市部に1億4千万人が移動したわけですが、今度は水不足で、就職ではなくて、水不足が原因で、長江方面に、向う5年か10年の間に1億数千万の民族移動が起る可能性があるのではないか。
 胡錦濤政権はこの状況は一刻も早く静めなければならない状況に追いこまれた。
 これまで共産党は自分達の悪政への抗議を回避する為に、反日を利用していたんですけれど、その反日が逆のブーメランとして、跳ね返ってきた。それが自分達に歯向かおうとしている。
 その鋭い刃を回避するために、こんどは一転して反日デモを禁止し、活動家の拘束をし始める。そしてニコニコを薄ら笑いを浮かべて日本に近寄る。
 歴史のイロニーというべきでしょう。

江沢民訪米 

  抗議デモの洗礼 シカゴで700人




 中国の江沢民国家主席が10月24日に訪米したが、最初の訪問地シカゴでは、
市内を法輪功メンバー700人余りの米国人メンバーが中国国内での法輪功弾圧
を批判するデモ行進を行った。

 米国下院議会は6月に「中国の国内外の法輪功弾圧」に抗議する議会決議を
可決している。

 江沢民国家主席の訪米を前に、在米中国大使館や米国に先遣された国家公安部
は法輪功メンバーの自宅電話を盗聴。更に脅迫的なメッセージを留守番電話に吹
き込み、デモ参加予定者の心理を揺さぶったという。

 江主席の訪米に抗議したのはチベットやウイグルの分離独立を願う「中国之春」
「北京之春」などの民主活動家が計画した。




(平成14年11月25日号)




No.36 - 2007/07/09(Mon) 05:35:10
(自由アジアラジオ局) / 王進忠
ラジオ・フリー・アジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ラジオ・フリー・アジア、あるいは自由アジア放送(じゆうあじあほうそう、Radio Free Asia、RFA)は、1994年に米国議会が立法した「国際放送法」(International Broadcasting Act)に基づき、1996年に米国議会の出資によって設立された短波ラジオ放送局。放送局は民間の非営利法人が運営しているが、放送理事会(BBG)の管理下にある。なお、BBGは、「海外の聴衆者に正確・客観・公正的な、アメリカと世界のニュース及びにその関連情報を放送し、以て自由民主化事業を促進・強化させる」ことを職責としている。
RFAは9種類の言語を、短波ラジオとインターネットを通じて放送している。RFAは1996年9月29日にまず普通話から放送を開始した。普通話はRFAが最も念入りに番組サービスを提供している番組であり、1日12時間に渡って放送されている。他にも、RFAは広東語、ウイグル語、チベット語、朝鮮語、ベトナム語、ラオス語、クメール語、ビルマ語の番組を放送している。
RFAは、「国内メディアを通じて、完全で均衡のとれた報道へと定期的に接することができないアジアの聴衆者に対し、ニュースとその関連情報を放送する」こと、及びに「放送と聴衆者参加プログラムを通じて、RFAは多くの各アジア人民に欠乏している、ある事物に対する批評意見への見聞きを充足させる」ことを目指している。
比較参考:ボイス・オブ・アメリカ、ラジオ・フリー・ヨーロッパ、国際放送
[編集] 外部リンク
• RFA: Radio Free Asia(公式サイト、英語)
• RFA 中文网站(中国語)
• RFA 자유아시아방송 (韓国語)
[編集] 関連ニュース及びに情報
• Radio Free Asia, Legal Information Institute
• ClandestineRadio.com Updated news
• China Can't Stop Its Youth Learning About the Massacre, by Jennifer Chou, Director, RFA's Mandarin Service, June 2, 2004
• Broadcasting of Radio Free Asia and Voice of America is Pulled in Cambodia US Department of State Press Release
• In Support of Radio Free Asia Congresswoman Nancy Pelosi, July 23, 1996
• アメリカの「ラジオ戦争司令部」RFAの正体(North Korea Today)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2" より作成








2004/07/17 (産経新聞朝刊)



【緯度経度】ワシントン・古森義久 「自由ラジオ」聴く北の市民( 7/17)
________________________________________

 「出産が間近なのに北朝鮮から中国領へと脱出した二十四歳の女性にこの六月なかば、電話でインタビューして、北朝鮮住民の惨状や中国領内の北朝鮮難民の窮状を語ってもらいました。北朝鮮の政治体制の恐怖や経済状態の悲惨さがよくわかる体験談で、本人の身元がわからないよう内容の一部を修正して北朝鮮向けに放送しました」
 ワシントンに本部をおく米国政府系の放送局「ラジオ・フリー・アジア(自由アジア放送)」(RFA)の朝鮮部長ジェイフン・アン氏が北朝鮮向けラジオ放送にまつわる最近のエピソードを語ってくれた。
 RFAは米国議会によって一九九六年に設立され、北朝鮮、中国、ベトナムなど報道や言論の自由のないアジア諸国に向けて、その国の言葉でニュースを放送する。経費は米国政府から出るが、独立した民間機関の地位を与えられ、民間人が運営に当たる。北朝鮮出身の韓国系米人のアン氏もワシントン・ポストの記者だった。

 RFAは北朝鮮には毎晩四時間、朝鮮半島関連のテーマに絞って、報道、解説、インタビューなどを放送する。北朝鮮の公式マスコミが決して報じない日本人拉致問題も連日のように伝え、ここ一週間ほどは曽我ひとみさんの家族再会の話に集中しているという。
 アン部長が語った北朝鮮女性は咸鏡北道から中国の吉林省延吉付近へと逃避した難民で、その後、二週間ほどして、「無事に女の子を出産しました」という電話連絡があったという。だが、この種の連絡でもインタビューでもRFAは一体どうして北朝鮮の難民と電話で話せるのだろう。アン部長に問うと、驚くような答えが返ってきた。
 「米国や韓国の人道団体、宗教団体が中国領に逃げてきた北朝鮮難民たちに国際通話も可能な携帯電話を通話カード付きで大量に配っているのです」
 RFA側の電話番号をラジオで告知し、難民がそこにかけて、自分の電話番号を告げれば、すぐにRFA側からかけ直して、長時間の会話も可能になる。最近は北朝鮮の国境警備員の規律が緩み、買収されて、難民の出入りを大目にみるようになった。だから中国領に一度、逃げた難民が電話やラジオを持って北朝鮮にもどることも多くなったという。アン部長は国境警備の状況からみて「北朝鮮の厳重な政治治安統制に大きなヒビ割れが生じていることは間違いない」という。



 だが北朝鮮国内ではラジオで外国放送を聴くことはなお厳しい処罰の対象である。ラジオ受信機も国内の特定の放送しか聴けないように周波数が固定されている。それでもラジオを調整してRFAをこっそり聴く人が増えているという。RFAでは昨年、北からの亡命者と難民計二百人ほどを対象に調査したところ、そのうち四十人ほどが毎週必ずRFAを聴いていたと答え聴取者の数は確実に増加していると伝えたそうだ。
 RFAに手紙で「私はRFAを一年のうち三百五十日ほど聴いたが、その報道で将来への希望が初めて持てた」とか「RFAは暗い夜の明かりだと感じる」という感想を寄せる北朝鮮の人たちもいる。RFAへの手紙は中国領内の北朝鮮の聴取者から東京やソウルの郵便局の私書箱あてに送られてくる。私書箱のあて名もラジオで放送するのだという。
 北朝鮮当局にとっては朝鮮半島の出来事を自由なメディアの立場から報じるRFAは危険な政治プロパガンダとなる。だから受信妨害を組織的に続ける。それでも聴取者は増えているというのだ。この種のラジオ放送が閉鎖された独裁国家で意外と高い効用を発揮することには前例がある。米国は冷戦中にソ連や東欧の共産主義国家の国民向けにRFE(自由欧州放送)を流していたが、共産政権が倒れた後、国民がその放送で希望を抱き続けた、という証言が多数、寄せられた。



 RFAのダン・サザーランド副会長はクリスチャン・サイエンス・モニターやワシントン・ポストで長年、活躍した元新聞記者である。私もベトナム戦争時代に南ベトナムの戦場で顔を合わせて以来、知己を得ていた。
 「RFAは北朝鮮の一般国民の民主主義意識を確実に高めるとともに、エリート層も外部情報の収集手段として聴かざるを得ない状態となってきました。聴取者の確実な増加は北朝鮮内部の大きな変化の兆しだといえます」
 サザーランド副会長がいう変化とはやはり北朝鮮のカルト的独裁体制の揺らぎだろう。外部からはまったく一枚岩のようにみえてきた北朝鮮の体制もRFAという特殊な触手には変動を感じさせるようになった、ということである。


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ラジオ・フリー・アジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/05/16 10:56 UTC 版)
ラジオ・フリー・アジア、あるいは自由アジア放送(じゆうあじあほうそう、Radio Free Asia、RFA)は、1994年に米国議会が立法した「国際放送法」(International Broadcasting Act)に基づき、1996年に米国議会の出資によって設立された短波ラジオ放送局。放送局は民間の非営利法人が運営しているが、放送理事会(BBG)の管理下にある。なお、BBGは、「海外の聴衆者に正確・客観・公正的な、アメリカと世界のニュース及びにその関連情報を放送し、以て自由民主化事業を促進・強化させる」ことを職責としている。
RFAは9種類の言語を、短波ラジオとインターネットを通じて放送している。RFAは1996年9月29日にまず普通話から放送を開始した。普通話はRFAが最も念入りに番組サービスを提供している番組であり、1日12時間に渡って放送されている。他にも、RFAは広東語、ウイグル語、チベット語、朝鮮語、ベトナム語、ラオス語、クメール語、ビルマ語の番組を放送している。
RFAは、「国内メディアを通じて、完全で均衡のとれた報道へと定期的に接することができないアジアの聴衆者に対し、ニュースとその関連情報を放送する」こと、及びに「放送と聴衆者参加プログラムを通じて、RFAは多くの各アジア人民に欠乏している、ある事物に対する批評意見への見聞きを充足させる」ことを目指している。
比較参考:ボイス・オブ・アメリカ、ラジオ・フリー・ヨーロッパ、国際放送
外部リンク
• RFA: Radio Free Asia(公式サイト、英語)
• RFA 中文网站(中国語)
• RFA 자유아시아방송 (韓国語)
関連ニュース及びに情報
• Radio Free Asia, Legal Information Institute
• ClandestineRadio.com Updated news
• China Can't Stop Its Youth Learning About the Massacre, by Jennifer Chou, Director, RFA's Mandarin Service, June 2, 2004
• Broadcasting of Radio Free Asia and Voice of America is Pulled in Cambodia US Department of State Press Release
• In Support of Radio Free Asia Congresswoman Nancy Pelosi, July 23, 1996
• アメリカの「ラジオ戦争司令部」RFAの正体(North Korea Today)
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関連用語

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• ラジオ・フリー・ヨーロッパ 百科事典
• ボイス・オブ・アメリカ 百科事典
• 国際放送 百科事典
• プロパガンダ 百科事典


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拉致解決へ…ラジオ攻勢強化、対北放送開始

06/11 23:28
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トラックバックURL: http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/56561/TrackBack/

 拉致問題への対策の一環として、政府が7月から北朝鮮向けの短波ラジオ放送を開始することが11日、分かった。対北ラジオ放送をめぐっては、拉致被害者を調べている「特定失踪(しっそう)者問題調査会」が放送事業者の免許を受けて国内から短波放送を発信しているほか、韓国在住の脱北者が流している「自由北朝鮮放送」(金聖●(=王へんに文)代表)が6月末に情報収集の拠点として、東京に日本支局を開設する。ラジオによる“対北攻勢”が強化される。

 政府は北朝鮮向けラジオ事業関連費に1億3400万円を計上。独自に番組を制作し、第3国の放送施設に委託して流す方針。番組は日本語と朝鮮語で制作され毎日2回30分ずつ放送する。

 北朝鮮に残されている拉致被害者への励ましや外部情報の提供、日本の家族からの呼びかけなどを盛り込み、1週間ごとに番組内容を変えていくという。

 放送開始に向け、家族会メンバーによるメッセージの収録もすでに行われ、横田めぐみさん=拉致当時(13)=の父、滋さん(74)は「めぐみちゃん、全国の人が待っているから、元気でいてください」と呼びかけた。

 中山恭子首相補佐官(拉致問題担当)は「(ラジオ放送は)政府が当然進めるべき仕事だと思っている。色々なルートで北朝鮮に対し、日本の状況を伝えることがあっていい」と話す。

 2005年12月に韓国から放送を始めた「自由北朝鮮放送」は、取材や日本語版ホームページ開設のため支局設立の準備を進めており、常駐スタッフを置いて今月28日にオープンする。

■日本の情報も発信

 自由北朝鮮放送では拉致被害者の支援組織「救う会」の西岡力副会長が、拉致問題について語るコーナーが定期的に設けられており、支局開設で、日本発の情報を増やす計画だ。

 金代表は「家族会や政府関係者と会い、拉致問題を中心とする日本の動きをより多く伝え、北朝鮮の内部情報を日本に伝えたい」と話している。

 北朝鮮側は、特定失踪者問題調査会が放送している「しおかぜ」に対し、度々妨害電波を発信しており、対北放送の「効力」があることは実証済み。

 北朝鮮のラジオは特定の周波数しか受信できないように、チューニングがハンダ付けされているとされるが、住民らはこれを外したり、改造するなどして、米国の「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」やワシントンに本部を置く「自由アジア放送」などの海外放送を聴いているとされる。脱北者の約7割が海外放送を聴いていたとのデータもある。

 米国務省は、5月に発表した北朝鮮の人権状況に関する年次報告書で調査会の「しおかぜ」に言及。「レフコウィッツ大統領特使(人権問題担当)はこの活動の盛り上がりを歓迎し、支持している」と記している。


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菅義偉総務相は11日の参院予算委員会で、北朝鮮に拉致された可能性を排除できない
行方不明者を調べている「特定失踪(しっそう)者問題調査会」(荒木和博代表)が北朝鮮
向けに流している短波ラジオ放送「しおかぜ」を、政府として支援していく方針を明らかにした。
 「しおかぜ」は昨年10月から始まり、当初は特定失踪者や拉致被害者の氏名などを読み
上げるだけだったが、段階的に放送内容をリニューアル。ニュースのほか、家族の手紙を
読み上げたり、生の声のメッセージなども流している。

 午前5時半から同6時と、午後10時から同10時半までの毎日2回の放送は海外の電波
配信会社に委託。北朝鮮側は再三、妨害電波を流しており、周波数の変更などを余儀なく
されている。
 放送委託料や周波数の変更、諸経費など月額120−130万円がかかっているといい、
費用はすべてカンパでまかなわれている。

 総務省は、NHKが国際放送を行っている茨城県内の送信施設を「しおかぜ」の放送の
ため利用できるかどうかを検討。新たな周波数の確保が必要な場合は、国際電気通信連合
に働きかける考えを示した。近く調査会などから意見を聞くことにしている。
 荒木代表は「政府が(放送に)関心を持ってくれるのはありがたい。具体的な協力が
得られれば、拉致問題の解決には必ずプラスになる」と歓迎。「しおかぜ」担当の村尾
健児理事も「国内の送信施設を使えるのなら、コストの負担を大きく減らせる」と話している。

 北朝鮮では「しおかぜ」のほか、米国の「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」や米政府
系の「自由アジア放送」、ソウル在住の脱北者が運営する「自由北朝鮮放送」などが聴取でき、
脱北者の約7割がVOAなどの短波放送を聴いていたとの調査結果もある。
(後略)
■ソース(産経新聞・iza)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/22921/

】(自由アジアラジオ局の報道)広東省は1日、インターネット上の掲示板の
管理をさらに厳しく規制する新たな規定を発表した。新規定によると、掲示板に問題発言が
あった場合、ホームページの所有者と掲示板管理者の責任を問うこともできるという。

広東省が発表した「インターネット上の有害情報を取り締ることに関する通知」によると、ホー
ムページと掲示板に必ず責任者を置かなければならず、発表の内容は審査を経て、はじめ
てネットに出すことができる。また、発表の時間、ホームページのアドレスなどの情報を全部
記録しなければならない。万が一、有害情報が現れた場合、ホームページの所有者と掲示
板管理者は問責される場合がある。

さらに、ホームページや掲示板は、政府の承認を得ずに無断に新たなカテゴリーを増やして
はならず、使用者数も規定された範囲内でなければならない。

この規定が発表された後、多くのネット使用者は管理者の責任を追及するのは連座制であ
ると批判した。

この規定が発表される前、各大学の掲示板は既に中国政府に取り締られ、知名度の高い北
京大学の掲示板「一?糊塗」は既に閉鎖された。しかし、その後、インターネットの呼びかけに
より、反日デモが拡大した。五月の連休中、反日ネットとチャットルームが多数閉鎖されたと
いう。(自由アジアラジオ局)
http://www.epochtimes.jp/jp/2005/05/html/d21223.html

No.35 - 2007/07/09(Mon) 04:34:47
民主中国陣線 / 王進忠
1989年の六四天安門事件で海外に亡命した知識人、学生が結成した海外反体制派政治組織。
 厳家祺、ウルケシ、劉賓雁、蘇紹智、万潤南が、中国の共産党政権に理性、平和、非暴力で抵抗する組織の結成を世界に呼びかけ、1989年パリで結成。主席に厳家祺、副主席にウルケシ(ウアルカイシ)、秘書長に万潤南を選出。
 一党独裁の廃止と政治的多元化、市場経済の実現を主張する。天安門事件後の民陣の活動は世界に大きな反響を呼び、各国の留学生らが民陣支部を結成、日本分部(支部)も結成された。また、天安門事件後の中国政府の外交活動にも影響を与えた。
 その後、天安門事件の風化とともに活動は低迷。1993年には「中国民主団結聯盟」(民聯、北京の春の活動家らが結成)と合同し、「中国民主聯合陣線」(民聯陣)を創設したが、食い違いが露呈し運動は分裂した。

 現在、当初の熱気は薄れ、混迷は増しつつあるようにもみえる。2001年12月、ニューヨークでの反体制亡命作家・王若望の告別式では、各派が殴り合いまで演じて批判された。
 一方で、民陣を創立した厳家祺や劉賓雁らの知識人は、相変わらず活発に発言を続けている。(2003年5月12日作成) 天安門事件
ウルケシがやってきた

逆耳順耳、『蒼蒼』第三〇号〔九〇年二月一〇日発行〕

ウーアルカイシは吾爾開希の中国語音、ウイグル語ではウルケシ

天安門広場のアイドルがやってきた。たとえば『読売新聞』はこう報じた。

──中国の民主連合の世界的組織「中国民主連合」の日本支部結成大会が一六日午前、都内のホテルでパリの本部からウアルカイシ副議長らを迎えて開かれた。大会には在日中国人留学生ら約二百人が出席。今年六月の天安門事件の犠牲者の冥福を祈る黙祷を行った後、来賓らが支部の結成を祝福するあいさつを行った(一二月一六日『読売新聞』夕刊)。

『朝日新聞』はこう報じた。

──中国の天安門流血事件後、中国の民主化を目的にパリで組織された「中国民主戦線」(厳家其主席)の日本支部結成大会が一六日、東京都内のホテルで、在日中国人留学生、華僑ら約三百五十人が出席して開かれた(一二月一七日『朝日新聞』夕刊)。

『読売』の「中国民主連合」、『朝日』の「中国民主戦線」、いずれも「民主中国陣線」の日本語訳だが、さていずれに落ち着くでしょうか。数年後をみましょう。『読売』の「ウアルカイシ副議長」に対して『朝日』は「厳家其主席」の名を挙げる。これも対照的ですね。

さて私は友人の楊中美からこの会合への出席を招待されましたが、婉曲に断りました。研究の自由を守るためには、一切の政治組織に対して距離を保つ必要があると考えてのことです。この会合に出席して連帯の意志表明をしたら、この組織に対して批判的なコメントを発表しにくくなる。いわんや仮に、この組織がやがて権力を奪取して(今年の初夢です)などという場合、批判の自由を絶対的に留保したい私としては、距離を保たなければならないのです。

しかし、ある会合にはいそいそと出かけました。一二月一四日飯田橋の駅ビル・ラムラ一一階で開かれたこの会は「中国の民主化運動を考える会」であり、民主中国陣線のリーダーたちと自由に意見を交換できる会だからです。この会は友人の大里浩秋(神奈川大学助教授)が司会した、とてもよい雰囲気の会だった。なにしろ突然の開催ですし、留学生の救援活動を行っている有志たちを中心に、口コミ、耳コミで集まった人々だから、理解が深かった。質疑応答の内容は、一般マスコミのチャランポランとは違って、なかなか内容豊富でしたね。

私が紙に書いて提出した質問は、彼の名前である。吾爾開希はウイグル語でなんと呼ぶのか。「ウルケシ」と聞こえた(言語学者ならば、ここで国際音標文字で記すところですが、素人のナマ病法はやめておきましょう)。私はホッとした。『チャイナ・クライシス重要文献』はすべて「ウルケシ」で統一していたからである。日本のマスコミの圧倒的大部分が「ウアルカイシ」と書き続けていると、われわれ『クライシス』グループも時々不安になり、大勢に順応したくなったことも再三だ。何を隠そう、これを確かめることが目的の一つだった。結果は中程度の満足だ。

私はフル・ネームを知りたかったのだが、時間がなく、彼は例によって途中で(この意味が分かったら、あなたはもうかなりの天安門事件通です。彼は五月二二日早朝、六月四日早朝、救急入院しています)心臓病のため、退席してしまったので、再質問できなかったからである。ウルケシが退席してくれたお陰で、後はキレモノ万潤南(民主中国陣線秘書長、元四通集団公司董事長)と台湾関係の責任者黄偉成の話を聞いたが、これがかなり中身が濃かった。大里センセイ以下、この会の裏方さんたちに深く感謝!

姓は「ウーアル」、名は「カイシー」?

大マスコミのなかで、ウルケシと表記した一例は、『東京新聞』(一九八九年一二月一七日特報面)である。「ぼくの名前? ウーアルカイシというのは中国語読みで、ウイグル語ではウルケシ。どっちで呼ばれようと構わないけどね」とある。しかし、この記事は他の箇所はすべて「ウーアルカイシー」君である。

さすがにシルクロードの戦乱で鍛えられた遊牧民族の末裔、おおらかな態度ですね。とはいえ、ご本人が「構わない」から、どうでもよいことにはならない。コトは少数民族のアイデンティティに関わるからである。

『SPA!』(一九八九年一二月二七日号)における山口令子のインタビューでは「ウーアル」と略称されている。この表記の元祖がどこか知らないが、たまたま開いた『ドキュメント天安門』(新泉社)に寄せた加々美光行の解説にはこうある。「ウーアル・カイシーが民主運動は既に失敗したとして全面撤収を呼び掛けたが(以下略)」「恐らくウーアルは何らかの経路で(以下略)」(一五四頁)。ここでは姓が「ウーアル」、名は「カイシー」と観念されているのであろう。ウルケシの原音を普通話で吾爾開希と当て、それをウアルカイシと読み、ついでこれを姓と名と錯覚した経過がよく分かる。ところで当局の全国指名手配書にはこうある。「吾爾開希(本名=吾爾凱西)──男、一九六八年二月一七日生まれ。ウイグル族。新疆ウイグル族自治区伊寧県出身」。本名=吾爾凱西とあるが、どうせこれも当て字でしょう。「西に凱旋する」から「希望を開く」に変わったのは、どんないきさつからでしょう。民主化運動の希望を開くという意味では、まことにぴったりですが。

実際の彼は、まず北京に凱旋し、ついでパリそしてアメリカという「西に凱旋した」わけです。そういえば、一二月一〇日午前の10チャネル、田原総一朗の番組では「カイシさん」と略していましたが、これは単に長すぎるから半分にちょん切った感じでした。確かに「ウーアルカイシ」と七音では、忙しいテレビ向きじゃないですな。だからこそウイグル語でウルケシといくべきなのです。これならルはウに付属して、結局三音ですよ。

トンチンカンな田原総一朗インタビュー

それにしても田原総一朗のウルケシに対するインタビューはひどかったですなあ。まるでトンチンカンでした。取材不足、勉強不足の一語に尽きます。武力鎮圧直後の番組などでは、田原総一朗は真相に迫るいい切込みをしていると感心したこともあるのですが、今回のはとにかくひどかった。どうやらこんな思い込みから出発したらしい。

ご存じ天安門広場のジャンヌダルク柴玲はいまだに行方不明です。中国当局は依然逮捕状を出したまま。今回の万潤南発言でも「その後消息なし」とのことでした(北京に三〇も反体制組織があっても分からないのか、それとも分からないことにしているのか)。

無事にパリに逃れた幸せなウルケシと悲劇のヒロイン柴玲という構図です。彼らは天安門広場撤退をめぐって激論し、男は逃れ、女は残った、それはなぜか、といった調子でセマるわけ。実はウルケシは心臓病の発作を起こして、広場の武力鎮圧の始まる前に、救急車で病院に担ぎ込まれたのです。この間の経緯については武力鎮圧直前までハンストをやっていた(そして今は当局の監視つきの)シンガーソング・ライター侯徳健や、劉暁波(北京師範大学講師)が証言しています(『チャイナ・クライシス重要文献』第三巻)。

事態はこうでしたから「卑怯にも現場から逃亡する男」と「死を賭して広場に残った女」との愛憎といった三流週刊誌的発想では元々扱えない性質の問題なのでした。見当違いの質問にうまく答えられないウルケシが気の毒でしたね。

万潤南はおそらくテレビを通じて、もっと彼らのグループの主張を訴えたかったはずです。そのためにこそ多忙な時間を割いて、局まで出かけたのに、本人にとっても、視聴者にとっても残念なことでした。

ところでわがウルケシ君、さすがにアイドルだけあって、わがままというか、スキャンダルには事欠かないらしい。たとえば『瞭望』という北京の週刊誌に掲載された個人攻撃が『人民日報』(一二月三日)に転載されています。題して「ウルケシ、その人」。この記事内容についてコメントを求められて、彼はこう言い放った由。「天安門事件以後、まともな記者はペンを折ったので、『人民日報』のレベル・ダウンが甚だしい」と。なるほど、なるほど。しかし、二一歳の若造が突然あんなに有名になれば、平常心を失いがちなのは、当たり前。批判を肥料として大成してほしいもの。

少数民族の特権を利用して胴上げし、今度は逆に突き落とすやり方ではなくて、やはり二一歳の若者を育てることが必要でしょうね。老婆心です。ここで思い出すのは、デモの初期段階でのモンゴル族の北京大学学生デモ宣伝隊長のこと。彼はモンゴル族だと警察が逮捕しにくいという特権を利用して、大活躍したことはNHKで詳しく報道されたが、五四デモの前後から突然姿を消して、級友たちは「家族帝国主義に破れた」などと語っていた。ウイグル族やモンゴル族の青年に対して、このような特権があると考えられている事実はメダルの一面。メダルの反面には漢民族による少数民族の抑圧がある。話は飛ぶが、それを想起させた点で、ダライ・ラマに対するノーベル賞授与は重要であろう。顧みると、チベットの戒厳令は北京の戒厳令に直結していたのであった。

その後、楊中美からウルケシは姓でありフル・ネームは多莱特・吾爾開希トラィト・ウルケシだと聞いた。中国の靖国攻撃を封じる最良の方法(1)[AML 10907] 再送【転送歓迎】 12 月 10 日・フォーラム「中国の民主化とアジア」
KITAI Daisuke kitai at genjin.jp
2006年 12月 7日 (木) 19:12:11 JST

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記事の並び順: [ 日付 ] [ スレッド ] [ 件名 ] [ 著者 ] 厳家祺  げん・かき  Yan Jiaqi  1942--

 政治学者。江蘇省武進県生まれ。1964年中国科学技術大学卒。中国社会科学院哲学研究所に入所。78年の「幹部終身制廃止論」で注目される。
 1985年に新設の社会科学院政治学研究所の初代所長に就任。86年に趙紫陽総理が指導する中央政治体制改革弁公室入りした。
 同年、夫人の高皋との共著『文化大革命十年史』を刊行。文革という“異常な歴史”の総括の必要性を説いた。

天安門民主化運動を指導した政治学者

 1989年の民主化運動では、民主化要求の「五・一七宣言」を起草、?ケ小平を「愚昧な独裁者」と決めつけ、打倒を宣言。
 六四天安門事件以後、高皋とともにパリに亡命し、ウルケシ、劉賓雁、蘇紹智らと「民主化闘争宣言」を発表し、「民主中国陣線」を結成。第一主席に就任している。

 1994年に「中華連邦共和国憲法建議性草案」を連名で提案、中国の連邦制を主張するなど、活発な言論活動を続けている。
 コロンビア大学の客員研究員としてニューヨーク在住。邦訳に『中国への公開状』など。『文化大革命十年史』も邦訳されている。(2003年5月11日作成)

アムネスティ・インターナショナル日本支部
1999年6月1日


■■天安門事件10周年集会・デモのご案内■■


あの「天安門事件」から10年。 私たちは、忘れない…。

天安門事件との関連で、いまだ241人が獄中に
10周年を迎える事件の真相究明、犠牲者と家族への補償、囚人の釈放を!


 1999年6月4日は、あの天安門事件から10周年の祈念日です。アムネスティ・インタ
ーナショナル日本支部は、10年の節目となるこの機会に、事件との関連でいまだ獄中
にとわれている囚人たちの釈放、事件の真相究明と犠牲者とその家族への補償などを
求め、下記の要領にて都内・渋谷でデモンストレーション・集会を予定しています。
その他、大阪・岡山・徳島での集会、天安門事件当時の学生リーダー、王丹氏の呼び
かけによる世界規模の署名活動への協力、天安門事件から10年が経過した中国の人権
状況についての日本語版報告書の出版など、様々な活動を展開しております。

貴報道機関でも是非取り上げていただきたく、よろしくお願い申し上げます。




企画名称:「天安門事件10周年。私たちは忘れない…。〜すべての良心の囚人の釈
放を!〜」
主催: アムネスティ・インターナショナル日本支部
参加予定団体: アムネスティ・インターナショナル日本支部・民主中国陣線日本分
部・ダライ・ラマ法王日本代表部・ほか

月日: 1999年6月3日(木)
集合場所・時間: 18:30 渋谷宮下公園中央(渋谷駅徒歩1分)

プログラム:
第一部・デモンストレーション (19:00〜19:40)
第二部・宮下公園にて集会 (19:45〜20:30)

コース(予定):
宮下公園〜明治通り〜公園通り〜ハチ公前交差点〜宮下公園)

*ご注意: 雨天の場合、渋谷勤労福祉会館で午後7時より集会を行います。
(公園通り、パルコ斜め向い、TEL 03-3462-2511) 


● この件に関するお問い合わせは:
   アムネスティ・インターナショナル日本支部   担当: 森原 秀樹
〒169-0051 新宿西早稲田2-18-23 スカイエスタ2F 
   電話:03-3203-1050 ファックス:03-3232-6775 
E-mail: hideki_m@magical2.egg.or.jp

___________________________
【添付ニュースリリース】

アムネスティ・インターナショナル日本支部発表                
 
1999年 6月1日


天安門事件から10年。私たちは、忘れない…。
いまだ獄中に残されている241人の釈放求め、集会・デモを開催

10周年を迎える事件の真相究明、犠牲者と家族への補償、囚人の釈放を!
東京・大阪・岡山・徳島などで集会・デモを開催
天安門事件当時の学生リーダー、王丹氏の呼びかけによる世界規模の署名活動を展開
日本語版報告書も発表


国際的な人権擁護団体、アムネスティ・インターナショナル日本支部(以下、「ア
ムネスティ」と略)は、1989年の天安門事件から10周年を迎えるにあたり、10年前の
事件の犠牲者を追悼し、10年が経っても事件を忘れてはらならないと訴え、全国4都
市で集会やデモを開催する。1989年の天安門事件では数百人の非武装の市民が殺害さ
れ、数万人のデモ参加者が逮捕されているが、アムネスティの調査によれば、10年を
経てなお、少なくとも241名が釈放されずにいる。事件から10年の節目となる今回、
事件の真相究明、犠牲者とその家族への補償、89年の民主化運動にかかわったために
いまだに獄中にある人びとの釈放が求められることになる。

10周年前夜となる6月3日には、アムネスティの呼びかけにより、都内渋谷で集会と
デモンストレーションが予定されている。日本国内の人権擁護活動家はもちろんのこ
と、自国での迫害を逃れて活動する在日の中国人民主活動家たちも多数参加する予定
だ。

デモンストレーションで参加者は、犠牲者の追悼を意味する花やペンライト、プラ
カードなどを持ちながら歩き、10年が経っても事件の犠牲者は忘れられていないこと
を訴える。また、デモ終了後に予定されているリレーアピールでは、各参加グループ
が、中国国内では深刻な人権侵害が続いていること、事件の真相を究明し、犠牲者と
その家族に補償を行い、そして241名の囚人を釈放することが中国の人権状況改善の
一歩であるなど、天安門事件10周年にあたってのそれぞれの想いをアピールする。ア
ピールの最後には、1989年の抗議行動に関わって殺害されたり負傷したり投獄された
りした多くの人びとのために、これからも活動し続けるという誓いを表すべく、参加
グループによる「共同声明文」に各グループが署名する。また集会・デモにあたって
は、中国本土から、天安門事件当時の学生リーダー、王丹氏の母親である王凌雲さん
からのメッセージなども紹介される予定。

 また、アムネスティは天安門事件十周年に際し二つの報告書(日本語訳)を発表し
ている。報告書は、天安門事件に関係して今も囚人となっている241人のリストを含
み、中でも極めて不公正な裁判によって長期刑を科された10人の事例を取り上げてい
る。

 同時にアムネスティは、天安門事件当時の学生リーダー、王丹氏(1998年に病気治
療を名目に仮釈放、在米)に協力し、中国の人権状況の改善を求める世界規模の署名
活動を呼びかけている。集まった署名は、王丹氏から江沢民中国国家首席や、国連人
権高等弁務官、国連事務総長に手渡される予定。

 この他、各地での集会などの予定は、下記の通り。

■東京: 学習会「中国における民主活動家弾圧の法的側面」
(6月5日午後4時〜 アムネスティ東京事務所)
■大阪: ビデオ上映と集会
(6月5日午後1時30分〜 ドーンセンター視聴覚スタジオ)
■岡山: 天安門事件の証言、ビデオ上映、ライブ・ギターなど
(6月5日午後2時〜 オリエント美術館)
■徳島: ビデオ上映と集会
(6月6日午後3時〜 徳島県国際交流プラザTOPIA)

*上記催しについての問合せは、アムネスティ日本支部東京事務所まで
(03-3203-1050 担当:森原)

カナダ総理国会秘書:人権の唱道は貿易に損害を与えることはない(写真)



(明慧日本)カナダ外交事務と国際発展委員会人権担当主席、国会秘書のジェイソン・ケニー(Jason Kenney)氏は2006年11月21日に行われた記者会見の際に、基本的な人権や自由などの問題を言及することに関して、決して憂慮することはないと表明。「如何なる国、中国だけでなく、我々は基本的な人権が尊重されることを期待している」と話した。

 当日、カナダ国会外交委員会人権審議会は中国の人権問題に関して第3回の公聴会を開いた。4つの華人団体が招待され、公聴会で証言を行った。カナダ東部から13の北華人団体が国会の前に集まり、カナダ総理の対中関係の中での基本的価値観を堅持し、貿易のために中国の人権問題への批判を放棄しないことを支持した。


自由党国会議員Borys Wrzesnewskyj氏は各団体を支持



法輪功学習者はカナダ総理の人権を支持する立場を支持


 ジェイソン・ケニー氏はインタビューを受けたとき、基本的原則を堅持することにより、商業や貿易上において(カナダに対して)損害や貿易の縮小などの不利益をもたらすことには同意しがたいと表明した。「一部の人は、このこと(中国の人権問題を批判すること)は、カナダと中国の関係に損害をもたらしている。しかし、事実上、中国対カナダ輸出は増加する一途にあり、彼ら(中国)に何十億ドルの利益をもたらしている」と話した。このほか、ケニー氏は次のように話している。「極一部の少ない会社は中国と強い政治的関係を保持する必要があるかもしれないことを心配しているが、一般のカナダ企業は貿易を従事する会社は市場の法則に基づき、中国に対しても、如何なる国に対しても同様である」。

 カナダ国会外交委員会は従来の長年に続いた中国の人権問題を回避する慣例を破り、10月30日以来、1ヶ月足らずのうち、連続して中国の人権問題に関する公聴会を3回行った。アムネスティー・インターナショナル、チベット団体、法輪功、民主運動団体など非政府団体と中国の人権専門家の証言を聞き取った。

 21日、4つの非政府団体の体表は招待を受け、公聴会で証言を行った。彼らは、民主中国陣線副主席盛雪氏、カナダ法輪大法協会主席李迅氏、トロント中国民主運動を支持する連合会の主席関卓中氏、カナダペン・クラブ代表デビー・寇扎克氏である。

 カナダ法輪大法協会主席の李迅氏は人権委員会に「中国の弁護士の良心」と言われる高智晟弁護士の不幸な遭遇を紹介した。高弁護士は中国の人権を保護するため、特に、中国の政府のリーダーに法輪功への迫害を停止させる公開書簡を3回にわたって提出した理由で、不法に逮捕された。李氏の紹介の中で、高弁護士の公開書簡で記述した例を引用したと同時に、これらの例は、法輪功が過去7年において、中国で受けた迫害の中の僅かな例で、大量の野蛮な迫害はまだ報道されていないと話している。

 李氏はキルガー氏とマタス氏が7月に公表した独立調査報告書の結論を引用した。すなわち、(中共による)生体からの臓器狩り事件が大量に存在していることである。

 2006年11月24日

『私の家は山の向こう テレサ・テン十年目の真実』書評

北京公演は実現していたか
岡田充(共同通信編集委員)

 「これからの私の人生のテーマは中国と闘うこと」(94年10月24,仙台)。
この言葉をキーワードに、著者は「中国と台湾をめぐる現代史の『きしみ』が、一人の女性の精神形成に色濃く反映」という仮説を立て、基調をなしている。中台関係こそが、彼女の人生の裏面史であったことに、多くの取材と分析が割かれており興味深く読んだ。その上で、帯に書かれた「謎解き」についての私見と読後感を記した。付録のCDは天安門事件直前の香港での学生支援のコンサートでのライブ録音。涙の鼻声や、風の音が入り臨場感たっぷり。

 「国民党スパイ説」。きめ細かい取材を通じ、根拠のない、あるいは、おもしろおかしく話を作り上げたマスコミの虚報・虚説だったことを論証し、成功している。台湾、香港のみならず、日本のメディアも自戒しなければならない。

 「天安門事件とのつながり…」。胡耀邦、趙紫陽の改革開放路線が、一定の軌道に乗る中、北京青年報の記者「関鍵」が、テンにアプローチする経過はたいへん面白い。中国共産党の路線転換(開放から引き締めへの)の中で、翻弄された「阿Q」の姿がそこに見える。幹部の子弟の立場を利用しつつ、共産党の内部文書を持ちだそうとして彼が逮捕されたことを「甘かった」とみるのは、過酷だろうか。香港誌の「羅冰」は、日本記者も引用する面白い論文を書いていたことを思い出す。私自身も読んだ記憶があるからか。

 「本当の死因」。死因も喘息であることにあまり疑いは持たない。ただステファンとの生活の中で、彼女が「大麻」を吸っていても不思議ではない。それが彼女の精神状態や健康に影響を与えなかったかどうか。さらに「人生のテーマは中国と闘うこと」と述べながらも、ステファンと共に事実の逃避行をしていたのでは?。つまり歌手としての寿命、限界、年齢を自覚し、生活はあれ荒んでいったのではないか。例えば94年10月の仙台コンサートの際の「落ち込み」の理由は何か。ステファンとの争い。紅白出場に向けたキャンペーンが空回りし仕事はかなり不振。健康にも懸念など、いろいろな妄想が沸いてくる。

 「山の向こうにある中国」とは、彼女にとって何か。これが読後に沸いた最大の疑問だ。中国大陸出身の元国民党兵士の父の下で育った彼女の意識の中の「中国」とは何か?

 「中国の共産党の政権が出来てからもう40年。中国人民がとても大変な生活をしてしてきたか、みんな知っている」「中国には新しい希望も抱く。もっといい政府になったら、みんなもいい生活が出来る。民主的な中国になると思って(学生の民主化運動を)支援した」「(香港を離れた理由について)政府は信用できない。自分のいい生活をそのままにしていたら、大きな災難がくる」(弾圧を受けるの意味か?)(92年7月のインタビュー)。

 このインタビューを読む限り、「山の向こうにある」中国は、「民主化され経済的にも豊かな社会」のようにみえる。天安門3周年コンサート(パリ)をめぐる中国民主陣線との確執は、公演の方式やカネが原因とされる。インタビューでテンは「コンサートで中国の民衆にできることをしたいが、事件で学生が死んでいるから、コンサートでうたうのは悪いと思って」と答えているが、本当にそうか。別の原因はないのか?

 彼女が生きた時代の台湾の変化(国民党と反国民党の激しい対立。外省人と本省人の確執)に本書は、あまり触れていない。彼女にとっての「中国」は、台湾内部のアイデンティテーの相克と関係しているように思う。政治に強い関心があったとすれば、その部分に是非触れて欲しかった。ただ、彼女は香港など外地で生活していたため、台湾内部の政治的対立に直接絡むことはなかったのかもしれない。

 2000年の政権交代で、台湾独立傾向が強い民進党が政権をとったことについて、彼女はどう考えただろう。中国が経済大国への道を歩み始め、台湾の経済一体化が進むことをどう受け止めただろう?。やはり「共産党の独裁」「民主的な社会」ではないとして、大陸での公演を拒否するだろうか。それとも台湾内部の政治対立のなかで、彼女と立場の近い親民党や国民党と同一歩調をとり、北京でコンサートを開いていただろうか。
(了)  


天安門事件八周年、各地各様
◇北京

 共同通信の報道によると、事件が発生から8周年を迎えた天安門広場は、通常とほとんど変わらない警備態勢で、広場内の警備車両は1台だけ。しかし、8年前、学生らが拠点とし、乗り込んだ戦車が石段を踏み壊した人民英雄記念碑への献花などの行為には警備の目が光っていた。

 共同通信が中国筋の話を報道したところによると、警察当局は1日ごろ、事件当時に広場で知識人らの座り込みに参加、広場からの学生の平和撤退に向け人民解放軍と交渉した元北京大学講師、周舵氏ら数人の元活動家を北京市外へ退去させた。事件を記念しての行動を防ぐため毎年行われている1週間前後の「隔離措置」だという。

 また、複数の報道によると、6月4日、安徽省の活動家、沈良慶氏(34)が、事件に対する当局の謝罪、全政治犯の釈放などを求める公開書簡を全国人民代表大会常務委員会に送っていたことがわかった。ニューヨークにある人権擁護団体「中国人権」が同日、書簡の全文を明らかにした。  公開書簡は今月1日付で12項目書かれている。政治犯の釈放では魏京生、王丹氏らの名前を挙げたほか、方励之氏ら海外在住の活動家の帰国許可、国民投票による憲法改正、政治の多元化、自主労組結成の合法化などを要求している。沈氏は元同省検察院職員で、92年4月に反革命罪で逮捕され、仮釈放後の昨年12月、懲役1年5か月の判決を受けた。

◇東京

 日本の報道各社の4日の報道によると、4日午前10時半ごろ、東京都の中国大使館前路上で、「天安門事件8周年記念」を叫んで抗議行動をしていた中国の民主化グループ「民主中国陣線」のメンバー約10人が警察官ともみ合いになり、在日中国人2人が公務執行妨害容疑で現行犯逮捕された。調べに対し2人は黙秘しているという。  「民主中国陣線」は在日中国人で組織する中国の民主化グループで、この日は同大使館周辺で抗議活動を行った後、中野区で天安門事件の追悼集会を開いた。抗議活動には天安門事件の学生リーダーのウアルカイシ氏も参加していた。

◇香港

 複数の報道機関の報道したところによると、香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)が主催する、天安門事件の犠牲者を追悼する「ろうそく集会」が4日夜、香港銅鑼湾のビクトリア公園で開かれ、数万人の住民が参加した。毎年恒例の行事だが、香港返還前の最後の開催として広く注目されている。集会は「97年を超えて、(当局側の)挑戦に対抗しよう」をスローガンに掲げている。  午後8時から始まる集会では、支連会の司徒華主席があいさつした後、犠牲者への黙とう、合唱が続く。司徒華主席は「返還後も集会は続ける」と強調している。

 今年の会場には例年通り、「民主運動犠牲者記念碑」のほか、デンマークの彫刻家イエンス・ゲルショット氏の作品で、「恥辱の柱」と題された高さ約8メートルのモニュメントが据えられた。折り重なって苦しみにあえぐ人間のレリーフで、「老人が若者をCENSOREDことは許されない」という言葉が中国語と英語で刻まれている。

 集会後5日未明、警官隊との小競り合いの末、香港大学の構内に搬入された。香港市民愛国民主運動支援連合会は、集会後に記念碑をどこかの公園ないし大学に長期設置することを計画。各当局に許可を申請したが、「あまりに政治的過ぎる」などの理由でいずれも拒否されていた。その後、彫刻は構内に放置され、6日に大学当局者と学生会の代表が話し合った結果、大学側が常設に同意した。

 一方、朝日新聞の報道によると、天安門事件8周年を前に、香港返還後の初代行政長官となる董建華氏が、事件を忘れるべき時期にきた、という趣旨の発言をしたという。

◇ワシントン

 共同通信によると、ワシントンの中国大使館前の空き地で3日夜、天安門事件8周年記念前夜集会が開かれ、中国留学生団体や米国の人権擁護グループなど約200人が犠牲者を追悼するとともに、共産党による引き続く政治弾圧に抗議した。今年の集会にはチベット独立派やベトナムや香港の民主化運動グループも合流した。  中国大使館前の空き地は、8年前の天安門事件に抗議するワシントンの地元議会によって「ティエンアンメン・スクエアー(天安門広場)」と改名され、北京政府への抗議集会が度々開かれている。

民主化活動家趙南さんの難民申請を法務省が受理
 毎日新聞社の報道によると、中国の民主化運動の活動家趙南さんが9年にわた
って難民認定を求め続けている問題で、法務省は5月31日、3回目になる申請
書類を正式に受理した。1988年9月、留学生として来日した趙さんは、翌年
6月の天安門事件に伴い「帰国すれば迫害を受ける」などと政治難民を主張。今
月4日で事件から10年を迎えるが、趙さんは「私が難民なのは明らか」と訴え
ている。

 趙さんは78年に始まった民主化運動を主導。82年、公安当局に逮捕され、
労働改造農場で2年間過ごした経験をもつ。天安門事件の半年後、パリに本部を
置く「民主中国陣線」の日本支部を設立、主席として活動している。

 90年12月に1回目の難民申請したが、法務省は3カ月後、出入国管理及び
難民認定法に定める60日の申請期限を過ぎていたことを理由に不認定としたた
め91年6月、処分取り消しを求めて東京地裁に提訴。最高裁まで争ったが退け
られた。96年2月に申請した2回目も受理されたものの、審査結果が出ないま
まになっている。その後、97年12月に中国政府からパスポートの更新を拒否
されたため、昨年2月、3回目の申請をしていた。

 趙さんは現在、1年ごとに在留特別許可(特定活動)を受けて滞在している。



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日が近づいてきましたので、再送いたします。
是非お越しください。

【転送歓迎】
東京フォーラム「中国の民主化とアジア」

主催=アジアと中国の民主主義を考える会(代表:牧野聖修・前衆議院議員)
電話:090-3510-7606(日本語)、090-2179-9812(中国語)

アジア地域において、政治的にも経済的にも大きな影響力を持つ中国は、残念ながら
民主的な国家とは言えず、人権問題をはじめとする多くの問題を抱えています。
これらの問題に取り組む民主化活動家たちは、どのようなことを考え、中国をどのよ
うな国にしようとしているのでしょうか。中国が大きな影響力を持つ国であるだけ
に、民主化の行方もアジア地域に大きな影響を及ぼすものと考えられます。
そこで、中国民主化運動のリーダーである費良勇・民主中国陣線主席、薛偉・中国民
主団結連盟主席、そして台湾から世界の民主化を支援している蔡昌言・台湾民主基金
会副執行長の各氏が来日するのを機に、意見を交換したいと思います。
皆様のご参加をお待ち申し上げております。

日時=2006年12月10日(日)13時30分から18時20分まで
場所=TKP秋葉原ホール(東京都千代田区岩本町3-3-6 井門岩本町ビル7F)
アクセス:JR秋葉原駅・昭和通口徒歩5分、都営新宿線岩本町駅・A4徒歩1分、東京
メトロ日比谷線秋葉原駅・4番出口徒歩4分
地図:http://www.kashikaigishitsu.net/map/map-akihabaraho-ru.htm
会場費=1000円

基調講演=費良勇・民主中国陣線主席
発  言=蔡昌言・台湾民主基金会副執行長
     薛偉・中国民主団結連盟主席
     水谷尚子・中央大学講師
     岡田英弘・東京外国語大学名誉教授
     宮脇淳子・東京外国語大学講師    ほか

中国民主化運動が考えていることの紹介のみならず、ウイグル、チベット、台湾、北
朝鮮の各地域と中国民主化の関係について、それぞれ発言がある予定です。

以上

北井大輔
kitai at genjin.jp



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人権問題研究家 安東 幹
今こそ、保守勢力の出番

 中国を民主化すれば、靖国問題は解決する。中国を自由と民主主義を尊重する国に変えれば、中国政府は日本の内政に干渉しなくなり、首相をはじめとして日本人は自由に靖国神社に参拝できるようになる。靖国問題解決の切り札、それは中国の民主化である。

 中国が民主化すれば、解決に向かうのは靖国問題だけではない。歴史認識問題も、教科書問題も、領土問題も、日本の国連常任理事国入り問題も、ビジネス問題、投資家の保護の問題も、中国産の食品の安全問題も、中国発の公害・環境問題も、中国人の日本での犯罪の問題も、あらゆる問題がいい方向に向かう。

 日本政府と今の中国共産党の政府とは、絶対に仲良くなれない。しかし、民主中国政府と日本政府は、靖国問題などを解決し、仲良くなれる。

 フランスとドイツは、歴史上のたびかさなる両国間の戦争にもかかわらず、今年の五月に初の共同の歴史教科書を完成させた。これは、高校生向けの教科書で一九四五年の第二次世界大戦終結以降の現代史を扱った部分を両国の学者各五人が共同で作成したものである。フランスとドイツはどちらも自由と民主主義を尊重する国であったからこそ、この偉業をなしえたのである。

 早く中国も民主化して、靖国問題を解決し、真の日中親睦を成し遂げなければならない。

 イラクで民主化が進み、東南アジアで、中米で、中東で、世界中で圧制国家を民主化しようという努力が続いている中、中国の民主化の機運も高まっている。中国を民主化しようとして祖国を追われた中国民主化の闘士は、中国共産党に屈することなく勇敢な戦いを続け、中国国内でも中国の民主化を求める声が盛り上がっている。

 欧米諸国は中国政府に民主化を求め、日本でも今年の三月十三日付のアメリカの新聞であるウォール・ストリート・ジャーナルに麻生太郎外務大臣が「日本は民主的な中国を待望する」という文章を発表して話題となり、先日の日米首脳会談でも自由、人権、民主主義などが共同文書に盛り込まれ、中国の民主化が意識された。今、中国に対するキーワードは、人権ではなく、民主化である。

 中国の民主化にあたり、保守派の出番である。これまで中国の人権や圧制を批判する運動で、中国共産党と犬猿の仲であった日本共産党や左翼も活動していた。かつては日本共産党も中国の人権弾圧問題を機関紙で批判したりしていた。しかし、日本の左翼は中国共産党とよりを戻し、中国の人権批判を差し控えるようになった。そして、中国共産党と歩調をあわせて靖国神社を攻撃している。日本の左翼は、ついにその本性を現し、中国共産党に媚びている。

 今こそ、保守勢力の出番である。ここに来て、熱心に中国の民主化問題や自由の問題を取り上げるのは、産経新聞や『正論』であることがはっきりした。保守派のみなさん、中国の民主化に向けてがんばろう。

 実際、私は七月三日の日本文化チャンネル桜の報道ワイドにゲスト出演し、日本の保守派で中国の民主化を実現しようと主張したら、拓殖大学日本文化研究所の井尻千男所長より賛同のことばをいただいた。番組は日本文化チャンネル桜のインターネットのホームページでも閲覧できる。興味のある人はどうぞ。

 私が民主化ということばで、何を意味するのか確認しておきたい。民主化というのは、複数政党制の実現、報道・表現の自由の実現、結社の自由の実現、三権分立の実現、法の統治の実現などである。決して、中国共産党が進めている「民主主義」ではない。

続く
中国の靖国攻撃を封じる最良の方法(2)
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人権問題研究家 安東 幹
靖国は偉大な日本の歴史の象徴

 なぜ、中国が民主化されれば靖国問題が解決されるのか、根拠を述べたい。

 中国が民主化されるとは、中国共産党の一党独裁が終わるということである。現在の中国憲法は前文で中国共産党による国の指導を正当化する内容となっているが、中国が民主化されると憲法が改正され、特定の政党に政権を運営する権限が与えられるというようなことがなくなる。つまり、共産主義の考え方が国のイデオロギーとなることはなくなるのである。

 中国共産党の歴史観は唯物史観である。人類の歴史は、原始共産制から封建制、資本主義を経て共産主義社会へと発展する。資本主義の国より社会主義、共産主義の国の方が高い次元の国なのである。

 日本は資本主義の国である。戦前は帝国主義国であった。よって、中国共産党はマルクス主義の公式の歴史解釈に沿って、日本は帝国主義政策のもと中国への侵略戦争を行ったとするのである。

 靖国神社とは何であるか? 靖国の意義とは何であるか? 靖国神社は日本の偉大な歴史の象徴である。靖国神社は、明治維新から近代国家へという新しい時代の幕開けに、国のいしずえとなった人々の御霊を祀るために創建されたものである。列強の植民地となることなく、白人に屈することなく大国の地位を築き上げ、有色人種のチャンピオンとなり多くの民族の希望の星となった偉大な日本の歴史の象徴である。

 しかし、中国共産党は日本人が誇る偉大な歴史をとにかく否定したい。中国共産党は、マルクス主義に沿った歴史観、つまり、帝国主義であった日本は次々と戦争を起こしまわりの国を侵略していったという歴史観を世界に強要するのである。共産主義のほうが資本主義よりもすぐれていて、資本主義は戦争を繰り返す絶対悪であるというマルクス主義では、日本が韓国や台湾などを近代化するなどいいことをしたという事実を認めるわけにはいかない。だから、中国共産党は誇るべき偉大な日本の歴史の象徴としての靖国神社を攻撃するのである。よって、中国共産党の一党独裁がなくなり、民主的な歴史観が中国で教えられるようになれば、靖国問題は解決の方向に向かう。

 中国共産党は、日本にマルクス主義史観に沿った歴史観を押し付ける機会を着々とうかがっている。中国共産党の目的は靖国神社、英霊そのものの否定である。A級戦犯を分祀しても無宗教の新追悼施設を作っても、中国共産党は次なる要求を出して靖国神社を攻撃してくる。初めからきっぱりと中国共産党の不当な要求を内政干渉であると言って断ることが重要である。

 中国共産党が靖国神社を攻撃するのに、共産主義が無神論であるということがある。共産主義は神の存在を認めず、中国国内でも宗教を弾圧し、宗教施設を破壊している。中国共産党は民間信仰を迷信であるなどとして地方の神社などを破壊している。彼らは、神聖ということばの意味が理解できず、神社など要らないと思っているのである。だから、平気で靖国神社を攻撃するのである。中国共産党の崩壊後の民主中国政府は宗教に対する理解があり、靖国神社への理不尽な攻撃はしないであろう。

 共産主義者は真実を伝えない。事実を歪曲したり、目的のためなら手段を選ばなかったりする。「人類を解放し、地上の楽園を建設するため」なら何でも許されると思っているのであろう。中国全土に偽の展示物であふれた反日博物館を作り、日本軍と戦ってもいないのに中国共産党は戦時中に勇敢に日本軍と戦ったと主張し、例を挙げればきりがない。

 靖国神社問題でも同じである。大多数の中国人は中国共産党から靖国問題について嘘を教えられていて、A級戦犯しか祀られていないとか、お参りに来る人は軍服姿の人が多いとか吹き込まれている。

 しかし、民主中国政府はそのように国民に嘘を教えることはしない。靖国神社についても真実が教えられ、解決に向かうであろう。

 中国共産党がどれだけ真実を歪曲するかについては、日本政策研究センター発行の『ここがおかしい中国・韓国歴史教科書』などを読めばすぐにわかる。なお、中国共産党や反日勢力の偽宣伝に対して、先日、史実を世界に発信する会が発足した。南京事件の真実や靖国問題の真実を英語で世界に発信している。みんなで応援しよう。ホームページのアドレスは、http://hassin.sejp.net/である。

 中国共産党は、いまだ世界の共産主義化をあきらめていない。今の中国で共産主義思想を信じている人はいないなどという宣伝にだまされてはいけない。今の中国人は小さい時から共産主義をすりこまれていて、少なくとも共産主義は一番ましな考え方だと思っていない人はほとんどいないのである。経済改革開放について言えば西側から進んだ技術を盗むのが目的である。西側から先進技術を盗みつくした後、共産主義に戻る可能性が強い。

 毛沢東は世界の共産主義運動の指導者になるために、ライバルのソ連共産党と戦い、資本主義陣営の指導者であるアメリカと戦い、反米反ソであった。今、中国共産党は、とりあえずアジアの盟主となるために日本をたたいている。日本はたたけばお金も出すからありがたい。中国共産党はアジアの盟主となりアジアの共産主義化を目指すのであるから、日本やインドの国連常任理事国入りを認めるはずがない。日本に対しては靖国問題で激しい非難を浴びせてくる。

続く
中国の靖国攻撃を封じる最良の方法(3)
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人権問題研究家 安東 幹
中国は不安定な国

 中国共産党は共産主義政党である限り、あくまでもアジアの共産主義化、世界の共産主義化をめざす。中国共産党が政権をとっている限り、中国政府の靖国神社非難はとまらない。

 現在の中国では厳しい報道統制が行われている。ひんぱんにインターネットの統制やマスメディアの統制などのニュースが耳に入る。中国国民は自由に移動することができないので、真実を知ることができない。

 中国が民主化すると報道が自由になり移動が自由になり外国人と接するのも自由になる。インターネットも自由になり、中国人は国内外のサイトを自由に閲覧できるようになる。そうしたら、中国国民はいろいろな情報に接することができるようになる。靖国問題の真実を知ることもできるようになるであろう。そうしたら、靖国問題も解決するだろう。

 中国が民主化されると、国民に選挙権が与えられ、中国国民は初めて自分たちの代表を政府に選出することになる。国民は選挙において自分たちの利益を候補者の選択基準にするから、急速な軍備拡大をしたり、靖国神社で隣国を攻撃したりするような危険な政府を選ぶはずがない。民主中国政府が靖国問題を持ち出す可能性は少ない。

 一般的に独裁国家は危険である。政権を維持するために外部に敵を作る。ナタン・シャランスキーさんというシベリアの収容所に九年間収監された活動家の書いた『なぜ、民主主義を世界に広げるのか』という著書がある。第二期ブッシュ政権の根底にある自由拡大思想の原典であると言われている。著書の中には、非民主的体制は本来的に好戦的であり、内側から崩壊するのを防ぐために、恐怖社会は恒常的な対立状態を維持しなければならないという部分がある。そして、圧制国家はテロを支援するという。

 まさしく、今の中国にぴったりのことばである。中国共産党は政権にしがみつくために日本という敵を必要とし、靖国神社という悪者を必要とするのである。中国共産党が政権を維持する限り、反日も靖国攻撃もやめないであろう。中国を民主化しなければならない。

 中国共産党による独裁支配体制の終焉とは、独裁者の横暴を許す危険なシステムの終焉でもある。ユン・チアン著の話題作、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』にあるように共産主義体制は権力欲にこりかたまった人間に横暴を許す。恐怖政治を可能にする制度である共産主義を中国から駆逐し、三権が分立し多選が禁止され、マスコミによる政府のチェック機能がある民主中国を実現しなければならない。

 さらに中国は不安定な国である。六月二十五日の日本台湾医師連合で『中国がひた隠す毛沢東の真実』の翻訳者である廖建龍先生の講演にもあるように、中共は不安定な国であり、朝起きてみたら、あれ、中国がというようなことも起こりかねない。日本のような民主主義の国ではそのようなことは考えられない。

 われわれは冷戦時代、アメリカに基地を提供していたアフリカの独裁国がある日突然ソ連に基地を提供することにし、さらに再度アメリカに基地を提供したことを教訓にしなければならない。独裁国家は危険である。

 昨年、反日デモが中国に荒れ狂い、今年は静かであった。海外の反体制中国民主活動家は、今年の反日デモの沈静を評価するどころか、いっせいに、中国における国民統制の危険性を訴えた。靖国問題も同じである。突然、中国政府は靖国問題を持ち出さなくなるかもしれない。しかし、それは逆に中国共産党の恐ろしさを示すだけである。靖国問題の解決は中国が民主化されるまで不可能である。

 最後になったが、民主中国政府は中華思想を克服できる政府であることを述べたい。民主中国政府は価値観の多様性を認め、それぞれの民族の歴史を認め、中華思想の野望である日本を服従させようとすることはなくなるであろう。そして靖国神社を参拝する日本人の意思を尊重するであろう。

 

 中国の民主化をすると言っても中国共産党に代わる団体はあるのだろうか。心配無用。海外には民主中国陣線とか中国民主党とかたくさんの団体が活動している。

 私は今年の五月十四日から十九日までベルリンで開催された中国とアジアの民主化大会に参加してきた。著名な反体制民主活動家や弾圧されている宗教団体などが支援者とともに集まった。二百人近くの参加者で中国の民主化に向けて会場は熱気に包まれた。分裂していた中国民主化団体、さらにチベットやウイグル、モンゴル、ミャンマー、ベトナムの反体制派民族団体の代表までさまざまな団体が大同団結して中国の民主化を誓い合った意義は大きい。私は、中国共産党崩壊後の受け皿は存在していると断言したい。

 大会は毎年このようなフォーラムを開催することを確認した。来年の開催候補地としてアメリカと日本が手を挙げた。現在、政府が中国の民主化にお金を出して支援者もたくさんいるアメリカの方が優勢である。日本の保守派が総決起して、ぜひ、来年日本で大会を開催しようではないか。

 かつて日本は中国の父である孫文をはじめとする中国独立の活動家を支援し、朝鮮独立党のメンバーを応援した輝かしい歴史がある。今回、中国の民主化を目指す人たちをなんとしてでも応援していこうではないか。

続く

中国の靖国攻撃を封じる最良の方法(4)
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人権問題研究家 安東 幹
三人の識者に聞く

 今回、三人の方に、中国が民主化されれば靖国問題、日中問題は解決すると思うか、あなたは民主中国の重要人物になった時に靖国問題、歴史問題をどうするかなどについて質問し、つぎのようなコメントをいただいた。

 中国反体制民主活動家の中心人物として長年日本で活躍する王進忠さん(現在、民主中国陣線外交委員会アジア部主任)−−。

「今、日本の小泉首相がアメリカに行っているが、中国の民主化をもっと話題にするべきである。今の中国政府の人たちは選挙で選ばれた人たちではなくて共産党の人である。国民の代表ではないので、小泉首相や日本の政治家は相手にする必要はない。靖国問題、教科書問題など、中国が民主化しなければ解決しない。

 中国国民は、なぜ、小泉首相が靖国神社に参拝するのかわからない。報道の自由が保障されれば、中国国民は真実を知ることができて、靖国問題は解決する。中国国民の九九パーセント以上は靖国問題を理解していない。わからないうちに、政府のわずかな人間が、国民の代表ではない中国共産党の人間が首相の靖国神社参拝に反対している。

 民主中国では靖国問題を扱う議員は少ない。民主派の趙紫陽さんが総書記になった時などは日中関係は好転した。民主派が中国政府の要職に就いたときに日中関係が好転するのは歴史的な事実である。

 日本政府による中国の民主化支援を訴える。日本政府は中国の民主化を支援しなければ欧米政府に遅れる。アメリカは法律を制定し米国民主主義基金(NED)などを通じて中国民主化団体に金銭援助をしている。日本政府も援助をして欲しい。

 また、中国民主化運動のシンボルである魏京生氏が十月に訪日の予定である。多くの人に彼の話を聞いて欲しい」

 中国共産党によるチベット侵略に対して結成されたチベット民族の亡命政府であるダライ・ラマ法王日本代表部事務所のチョペ・ペルジョル・ツェリン代表−−。

「民主価値に基づく民主中国はアジアにとって重要。中国と日本の関係にとっても、中国に表現の自由、結社の自由、移動の自由などが認められれば、国民と国民のコンタクトは容易になり、特に自由な移動はお互いの理解に貢献する。

 私は中国が民主化されればチベット民族党の重要な役職につきます。中国が民主化されたら、チベットと中国問題は解決しやすくなるだろう。中国共産党は過去しか見ないが、われわれは未来を見るからだ。経済的な関係も発展するであろう。チベットと日本の関係も未来志向となる」

 中国の真実を伝える新聞である大紀元時報の共同創設者で、大紀元ニュースネットの記者、編集もつとめる在日中国人の張本真さん−−。

「民主主義の国では民族主義で扇動することはない。中国国民は独裁中国の下で真実を知らされていない。日本を訪れた中国人は、日本人の考え方をよくわかっている。日本人の謝罪を見ている。戦争の責任、日本人は認識している。それを正しく伝えなければならない。中国に言論の自由があれば、中国人は真実を知り、扇動されることはなくなる。今、中国人、靖国神社と聞いたら、すぐに興奮する。真実を知らない。

 日本と民主中国は必ず仲良くなれる。同じアジアで文化が同じ。共通の部分が多い。現状では、日本は伝統文化の継続を大事にしているのに対し、中国共産党は文化大革命などを起こして文化を破壊し、外来のヨーロッパの思想であるマルクス・レーニン主義を信奉し、日本と中国共産党は仲良くなれない。早く中国共産党を崩壊させなければならない。

 中国共産党の被害者は中国人、朝鮮人、日本人、台湾人である。共産主義を追い出せば、各民族はお互いに民俗信仰を尊重するようになる。それが民主の基本理念である」

 

 最後になったが、私は最近、中国共産党の日本の文化侵略に愕然となった。そこで、語学教育を通じた中国共産党の日本の文化侵略、日本の共産主義化を防ごうと、日本人のための日本人による中国共産党と戦うための中国語教室を開設しようと決意した。中国人に中国語を教えられて靖国問題などで知らず知らずのうちに洗脳されたくない方、興味のある方は連絡いただきたい。

No.34 - 2007/07/09(Mon) 01:15:34
「六四」天安門事件十八周年記念集会 / 王進忠
「六四」天安門事件十八周年記念集会

アムネスティ・インターナショナル日本、 茶井市明(ちゃい・いちあき)
 講演要旨

   一、 中国で天安門事件に遭遇したのが、アムネスティへの入会動機

 皆さん、こんにちは。今日[きょう]は、絶好の行楽日和[こうらくびより]
でしたが、ようこそ集会へいらっしゃいました。
 こういう良いお天気の日ですと、私は、1989年=平成元年、中国甘粛省にいた
ころを思い出します。あの年の4月、5月には、甘粛でも、学生や市民たちがたく
さん民主化デモに参加しました。その雰囲気は、とてもなごやかなものでして、
おととし[2005年]の反日暴動とは、全然違うものでした。
 しかし、この民主化デモは、6月4日、天安門事件で鎮圧され、多数の死者を出
しました。このことが、私がその後、アムネスティに入ることになった大きな理
由です。

   二、 アムネスティとはどういう人権団体か

 では、アムネスティとは、どんな団体でしょうか。アムネスティは、特に、国
家権力による一般市民への人権侵害を扱う団体です。
 その大きな特徴として、「良心の囚人」=世間で言う政治犯、の救済をめざす、
ということがあります。彼らは、犯罪を行なっていないのに、政府と思想が違う、
或いは思想が違うと見なされたため、逮捕・投獄されてしまった人たちです。こ
れは不当なことですから、彼らをただちに無条件で釈放しなさい、と、我々は当
局にうったえるわけです。

 また、特別な国家や政党を対象としない、という特徴もあります。今日は、天
安門集会なので、中国共産党に批判的な話題が多くなってしまいますが、批判そ
のものが目的なのではありません。「中国共産党だから悪い」のではなく、「中
国共産党のしていることが悪い」のです。だから、中国共産党も人権侵害という
行為をやめれば、それでいいわけです。
 これと関係しますが、政権の正当性も問いません。中国共産党は1949年の革命
でたくさんの中国人をCENSORED強引に政権を樹立したわけですが、そのことも特に
言いません。良心の囚人の釈放を求めて、手紙書きをする時も、相手方の肩書き
は、認めます。例えば、胡錦濤なら「国家主席」と書きます。
 それから、誤解のないよう民主化団体との違いも申しあげます。民主化という
のは、医療に譬えるなら、「治療」より「予防」に重点を置くものだと思います。
社会で人権侵害という「病気」が起こらないように、「体質」の改善を行なうこ
とだと思います。
 一方、我々は、「予防」より「治療」を行ないます。既に人権侵害が起こって
しまった場合には、これに対処するということも必要なわけです。

   三、 アムネスティが扱う具体的事例

 次に具体的にアムネスティが行なうことを申しあげます。
 たとえば、「良心の囚人」救援のための文書を発行します。その文書では、投
獄された人物の名前、事件の概要、嘆願書の宛て先、例文等を提供します。
 その事例は、あまりにも多過ぎて、今日のこの短い講演では言い切れません。
こういう講演会を毎週、この場で行なって、一年間説明しても、終わるかどうか
わかりません。
 今は、ごく一部を紹介いたします。

 たとえば、法輪功の梁文堅[りょうぶんけん、Liang Wenjian]さんたち。
[日本語訳]
http://www10.atwiki.jp/ai-kunitati/pages/26.html
 法輪功の思想や運動そのものについて、アムネスティは、どのような立場も取
りません。ただ、法輪功は、暴力や犯罪を伴うわけではないですから、それを行
なうのは本人の自由です。ですから、法輪功の人たちを投獄するのは不当であり、
私たちは彼らの釈放をうったえます。また、法輪功の人たちは、法輪功の思想を
放棄するよう獄中で拷問を受けるという情報がよく入ってきますが、もちろん、
拷問にも、私たちは反対します。

 それから、脱北者、つまり北朝鮮[朝鮮民主主義人民共和国]から主として中
国に逃げていく人たち、です。本国に強制送還されたら、人権侵害の恐れがある
場合、その人たちを本国に送還してはならない、というのは国際的な決まりです。
北朝鮮政府は、脱北者を投獄・拷問・処刑しますから、私たちは中国政府に、送
還するのはやめなさい、とうったえるわけです。不幸にして、送還されてしまっ
たら、今度は北朝鮮当局に、人権侵害をしないよう要求します。最近の例では、
北朝鮮の二軍人の事件があります。
[日本語訳]
http://www10.atwiki.jp/ai-kunitati/pages/20.html

 日本と直接関係するところでは、東大留学生のウイグル族、トフティ[拓和提、
Tohti]さんの事件があります。
[日本語訳]
http://www10.atwiki.jp/ai-kunitati/pages/24.html
 トフテイさんは、一時帰国して新疆の図書館で調べものをしていた時、図書館
員が立ち会って、合法的な文献の目録を見ていたにもかかわらず、「国家機密漏
洩」と「分離独立主義」で、懲役11年の刑を受け、今も刑務所の中にいます。ト
フテイさんに会った人は、みな「トフティさんは新疆独立に反対だった」と言っ
ています。
 このように、政府に反対していないのに、政府から「反対した」と見なされて、
投獄される人もいるわけです。

 また、アムネスティは、しばしば報告書も発行します。2006年には、北京オリ
ンピックに関する報告書を出しました。
[日本語訳]
http://www10.atwiki.jp/ai-kunitati/pages/27.html
http://www10.atwiki.jp/ai-kunitati/pages/28.html
 これは、中国政府から非難を浴びました。ということは、中国政府は、この報
告書を無視しているのではなく、気にしている、ということです。

   四、 アムネスティの六四天安門事件十八周年声明文

 アムネスティは、声明文もいろいろ出し、特に天安門事件については、毎年、
六月四日が近づくと、發行しています。今年もそうです。
[英語原文]
http://web.amnesty.org/library/Index/ENGASA170332007?open&of=ENG-CHN
基本的な思想は、これまでに出された声明と変わるものではなく、要約すると、
次のようになります。
 「事件の見直し」。中国共産党政府は、「悪い者たちが暴れたから取り締まっ
たのだ」と、弾圧を正当化していますが、一般の学生や市民が多数殺されたこの
事件について、そういう位置づけを見直すよう求めます。
 「釈放」。天安門事件にからみ、政治的理由で投獄された人たちを、釈放する
よう求めます。
 「補償」。事件で殺された人たちの遺族や、傷つけられた人たちに補償するよ
う求めます。
 「刑罰」。人々への殺傷を命令・実行したことは、犯罪ですから、法律に基づ
いて刑罰を与えるよう求めます。私怨による報復を求めるのではありません。

 もう少し、先を読んでいきましょう。

 天安門事件の時、四川省成都市で警察に殴り殺された当時十五歳の周国叢[し
ゅうこくそう、Zhou Guocong]君のお母さんに、2006年5月、当局からお金が支
払われました。しかし、それは、「生活苦を助ける」という名目であって、「補
償」ではありませんでした。

 中国の当局者は、オリンピックに先だって、「完全な報道の自由」を約束しま
した。しかし、この約束は守られていません。
 天安門事件で殺された学生の母親である学者の丁子霖[ていしりん、Ding
Zilin]さんは、同じ境遇の人たちと「天安門の母親」というグループを結成し
て、本を書きましたが、この本は出版を禁止されたのです。アムネスティは、ひ
きつづき彼女たちを支持していきます。

 中国当局による抑圧は、中国国内だけにとどまりません。天安門事件を描いた
映画『サマーパレス[頤和園=いわえん]』がセルビアで上映されようとした時、
中国政府はセルビア政府に圧力をかけて上映を中止させました。

 天安門事件関係で投獄されている良心の囚人は、必ずしも、1989年の事件の時
に捕らわれた人だけではありません。仮に、1989年に懲役18年の刑を受けたとす
れば、今年[2007年]には社会に出てくることになりますが、実際は、1989年の
後にも、新たな良心の囚人たちが生まれています。

 孔佑平[こうゆうへい、Kong Youping]さんは、2004年、インターネット上で、
天安門事件を見直すよう意見を述べたため、懲役15年の刑を受けました。ですか
ら、釈放されるのは2019年のことになります。
 1989年の時の学生指導者でもあった李建平[りけんぺい、Li Jianping]さんは、
ウェブ・サイト上で中国の政治を批判したため、2006年、懲役2年の刑を受けま
した。
 師濤[しとう、Shi Tao]さんは、天安門事件十五周年の2005年、ウェブ・サイ
トで中国共産党を批判したため、懲役10年の判決を受けました。

 アムネスティは、1989年の被害者救援活動をしている人たちへの弾圧にも反対
しています。
 例えば、胡佳[こか、Hu Jia]さん。この人は、河南省でエイズ患者たちを救
援していることでも有名です。そこの人々は、性行為が原因ではなく、売血の時
に器具が不潔だったため、エイズに感染してしまいました。胡佳さんは、天安門
事件の被害者たちのための活動もしようとしましたが、そのため、「自宅軟禁」
されてしまいました。
 斉志勇[せいしゆう、Qi Zhiyong]さんは、天安門事件で脚を撃たれて障害者
となり、その後は事件の他の被害者たちを応援する活動をしていますが、警察に
よって監視されています。

   五、 釈放された人たちもいる

 暗い話ばかりしてきたので、明るい話もしましょう。
 アムネスティは、これまで多くの良心の囚人の救済を訴えてきましたが、世界
中の人々が共鳴して釈放を求めたため、実際に釈放された人たちもいます。

 例えば、王万星[おうばんせい、Wang Wanxing]さん。この人は、天安門事件
の三年後の1992年に、天安門広場で事件を記念する行動を取ろうとしたところ、
「政治的偏執症」という実際には無い「病名」のもと、精神病院に入れられ、良
心の囚人となってしまいました。しかし、多くの人々が救援活動を行なったため、
釈放されました[2005年]。

 レビヤ・カデル[ラビア・カディル。Rebiya Kadeer]さん。ウイグルの女性実
業家で、かつては世界女性会議の中国代表でもありました。しかし、新疆の新聞
を米国に送ろうとしたところ、これが「国家機密漏洩」とされ、懲役8年の刑を
受けました。しかし、世界中の人々の救援活動により、釈放されました[2005年]


 最後に、私が尊敬する中国の歴史人物、朱子のことばを紹介いたします。
 [講演者補足: 厳密には、朱子自身ではなく、朱子の門人の発言のようであ
る。島田虔次『大学・中庸』朝日新聞社「傳第五章」参照]
 木を切ることは簡単ではありません。斧を一回入れても、少ししか切れません。
しかし、そういうふうに、一回、また一回と斧を入れていくと、ついには、大き
な木も倒れるのです。
 私たちも、少しずつ努力を積みかさねていきましょう。そうすれば、人権侵害
という大木は、必ず倒れます!
 ありがとうございました。

No.32 - 2007/07/05(Thu) 02:17:14
(No Subject) / 王進忠
王進忠さんプロフィール

1963年中国北京生まれ。1987年に和光大学の研究生として来日。以来、日本で中国民主化運動を続ける。1989年の天安門事件の際、民主化運動を支援する。「民主中国陣線本部」を設立し、現在は民主中国陣線外交委員会アジア部主任.『中国民主団結聨盟』副主席・日本分部主席・《北京之春》雑志社東京支社・社長・《新中国》雑志編集委員・『全球支援中國和亞洲民主化論壇』理事・『アジアと中国の民主主義を考える会』運営委員を務める。アメリカの自由アジアラジオの特約記者、作家、ジャーナリストとしても活躍中。

No.31 - 2007/06/24(Sun) 04:27:09
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