「あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れ始めた」(アランナ・コリン著 河出書房新社 2000円*税別)
2016年8月が初版の本で、一昨年に取り寄せたままになっていたのですが、数日前から読み始めています。
しっかりと読み込むつもりはなくて、ざっと読んでいるのですが、実に興味深いことが山ほど書かれています。 著者の視点は非常に斬新で、科学的手法によって明らかにされてきたことをていねいに紹介しています。(肝心かなめのところにはまだ意識が届いていないようですが、これは仕方ないでしょう)
Wikipediaにも、 「腸内細菌は 多数の雑多な菌種によって構成され、一人のヒトの腸内には100種から3000種類の 細菌が100兆個から1000兆個の腸内細菌が長さ約10mの腸内に生息しており、重量に すると約1.5-2kgに相当する。一般にヒトの細胞数は60-70兆個程度と言われており、 細胞の数ではその16倍に匹敵するだけの腸内細菌が存在することになる。ただし細菌 の細胞は、ヒトの細胞に比べてはるかに小さいため・・・」 と書かれています。
100〜3000種とか、100〜1000個というアバウト感が素晴らしい!(笑) 要するに、まだしっかりと把握されていないのでしょうから、さまざまなラインからの解明にはほど遠い現状なのだと思います。
今にして思えば、1992年に私が書いて出した小冊子に(タイトルも忘れましたが)、有機農業の経験から、「土壌微生物の状態が作物の健やかな生育を決定づけるように、人間も腸内微生物の状態が非常に重要だ。腸は体内のようでありながら口と肛門によって外部に開かれているのだから作物にとっての土と同じで、腸内の微生物の状態が人間の健やかさに大きな影響を与えている」というようなことを書き、発酵食プチ断食を勧めたことは我ながら凄いことだったと自画自賛したい気持ちです(笑)
その頃から私には経験的にも確信があったので、ようやく科学がそれに追いついてきたという気がしています。 最新の医学は人体や病に対する認識が根幹から変化(進化)してきているようですが、それでも私から言えば「まだまだ」です。
1個の細胞に数百〜数千も生息しているミトコンドリアも含めて、体内微生物であるという認識は絶対に必要ですが、医学はまだそこまでは行っていないようです。
腸内微生物たちが宿主(その人間)の肉体の状態を左右するだけでなく、精神や性格にも極めて大きな影響を及ぼしている(というよりも、ある面では決定づけている)ところまでは、研究・認識が進み始めているようです。
自己免疫疾患や精神疾患や、自閉症などの広汎性発達障害や性格の偏りや肥満やおそらくは認知症やガンなども、腸内微生物の状態によって、ある種の細菌が生成する毒素が脳などに害を及ぼしている可能性が非常に高いということが証明されつつあるのです。
腸内微生物が生成する酵素も、宿主の遺伝子のオン・オフのスイッチを入れますから、遺伝性や家族性の疾患なども、両親などから受け継いだ(感染した)ある種々の微生物の影響の場合も考えられるようです。
腸内細菌が人間(宿主)の遺伝子をコントロールしている」というのが最新の医学の見解です。
(腸内でのある種々の細菌感染による症状であるから、だから自己免疫疾患や精神疾患や広汎性発達障害や肥満や認知症やガンが、まるで伝染病のように広がり、増え続けているのです! しかもそれらの症状・新しい病は、社会や人々の暮らしぶりが昔ながらの状態で細菌感染による病が未だ蔓延している地域では増えていなくて、先進国といわゆる発展途上国に限定されて激増しているそうです。)
もちろんこれは極めて最先端の研究によってですから、一般の医師や医療機関の認識・見解や治療に関しては旧態依然としたままで、しかもさまざまな利権や権威と絡み合っているので、本来の方向に舵を切り直すことは容易ではないでしょう。
現状の医療を唯々諾々と信じていれば、50年も前の古いカレンダーに基づいて今年の自分の予定を立てるぐらいに頓珍漢なことになるのですよ(笑)
もちろん私は今の医学や医療を否定するつもりはありません。 しかし、現状の医学や医療がいかに権威を振りかざしているとしても、まだまだ発展途中なのですし、「どんな生命体も、だから当然のこと一人ひとりの人間も、いのちのつながりの中に存在して、相互に影響を与えながら生きている」という絶対の真実を見落としたままでは、幼児が大型ブルドーザーを運転して、しかもその業界を仕切っているようなものです。
すでに、今まで安全だとして普通に市販されてきた鎮痛剤や風邪薬に実は極めて深刻な副作用が“発見”されてきたりもしていますし、傷口の消毒などについても今までの常識はすでに覆っています。 医薬品だけではなく、農畜産物や食品や水道水や日用品にも大量に使われている化学薬品の、緩やかではあっても極めて広汎で深刻な害もこれから明らかになっていくはずです。
残念ながら、それらの害が予見されるという段階ではなく、それらはすでに私たち=私たちを構成している体内・体外の微生物相・生命系に極めて大きな不調和をもたらしていて、心身ともに健やかさを破壊されているという状況の中に人間は生きているのだということが明らかになっていくのです。
それにしても、自己免疫疾患や精神疾患や、自閉症などの広汎性発達障害や性格の偏りや肥満やおそらくは認知症やガンなども、腸内微生物の状態によって、ある種の細菌が生成する毒素が脳などに害を及ぼしている可能性が非常に高いということが証明されつつあるというのは、本当に凄いことです!
ある種々の腸内微生物が生産する毒素や、宿主(人間)の免疫活動の誤作動によって、その人の心身の健やかさが破壊されていくのです。
しかも、細菌・病原菌がどんどん抗生物質に耐性を獲得しつつあるのですから、近代医学・医療はすでに二重の意味で破綻しているのです。
さらに、抗生物質がふんだんに使用されている医療先進国から、新しい(未知の)感染症が幾つも発生しているのです。 。。。。。。。。。
腸内微生物の状態が精神や性格にまで強く影響しているとすれば、「自分」というものは一体どういう存在なのでしょう?
そう思いませんか?
頑なに「私は私だ」と思い込んでいても、実はそれは腸内微生物の状態によって作られているのであれば、自分も自我も実は本当の自分ではないということになってしまいます。 だって、ある種々の腸内微生物・細菌を除去・不活性化して、別の微生物を腸内に送り込むことで、体調だけでなく精神の状態や性格までもが一変するというのですから!
今では健康な人の糞便を薄めて、管で大腸に流し込み、腸内微生物相を入れ替えて難病を治すという“治療”も行われています。
そういう人為的な操作は、心身の状態に一時的には極めて大きな変化をもたらすのですが、その人に根付いている腸内微生物相はなかなか強靭で、しばらくすればまた元に戻ってしまうことが多いそうです。 (例えば、後発性の自閉症の子供に、ある種の細菌に卓効のある抗生剤を飲ませれば、劇的に自閉症の症状が消えたりもするのですが、しばらくすればまた元に戻り、またその抗生剤で劇的効果が出る。しかし、その抗生剤をいつまでも使い続けることはできないという問題に直面してしまう)
そして皮肉なことに、腸内微生物相の健やかなバランスを崩してしまう原因は、抗生剤や化学物質である場合が多いわけです。 しかし、特に乳幼児に関しては、重篤な感染症の時に抗生剤を投与しなければ死に至ることも少なくありません。(今のスタンダードな医療では)
抗生剤のお陰で、(特に先進国の)人間は感染症による死亡率や新生児死亡率を大きく下げることができてきたわけです。 しかしそれに並行して、さまざまな新しい病や症状が急速に広がり、今やその社会の存続を脅かすほどに蔓延しているのです。 。。。。。。。
『頑なに「私は私だ」と思い込んでいても、実はそれは腸内微生物の状態によって作られているのであれば、自分も自我も実は本当の自分ではないということになってしまいます。』 と書きました。
そこなんですよね。 自我の領域なんて、在るようで本当は無いに等しいのです。
「では、“本当の自分“とはどういうものなのか?」、ということです。
前置きが長くなりましたが、ようやく昨年末から呼び掛けているテーマにつながってきました。
つまり、「自我」というものは、確固として在るようで実はそうでもないということです。
卵と鶏の話のように、どちらが先か後かは分かりませんが、自分(や周囲の人)の想念が腸内微生物相やミトコンドリアに強く作用して彼らの勢力関係や相互のバランスや活動を規定しています。 (これはまだ最新の医学では認識されていないかもしれませんが、私のさまざまな経験上からも間違いない事実であり真実です。「ストレスが病の原因」ということはつまりそういうことですし)
そして、腸内微生物(や細胞内微生物であるミトコンドリア)などの状態によって、精神や性格までもが強く影響・規定されて、「自分」という存在として生きているのです。
それでもあなたは「今の自分の自我」を拠り所にして、そこに執着して生きていきますか?
そしてまた皮肉なことに、そういうあなたの状態も「腸内微生物たちによって作られている」のです。 (生きた微生物を練り込んだ食品をしばらくの期間食べ続けることによって、精神が明るくなった被験者が多かったという実験報告もあるそうです。(専門家による科学的手法による実験です)
少し荒っぽくなりますが先を急ぎます。
自分と他者・他の生命たちとの区分を強固にせず(つまり自我の壁を薄くして、自分を周囲や全体に開放し)、他者・他の生命たちと喜びの共生をしていこうとすることによって、本当の自分として健やかに生きていけるのだと思うのです。
このことはずっと以前からも繰り返し書いてきましたし、昨年末からの呼びかけのキモもまさにここにあるのです。
「他や周囲や全体と分離された自分なんて、本当はないんだよ!」ということです。 「いのちはひとつらなりの喜びの中に在ってこそ、自分も本当の自分として健やかに生きられるんだよ! だから『みんな大好き、ありがとう』なんだよ!」ということです。
私が言いたいこと、分かってもらえますよね?
でも、今の地上界を生きる“生身の人間”としては、さまざまに反感や嫌悪感や違和感や面白くなさを感じてしまうことが多々あります。 自分をそういう気持ちにさせる相手や、陰りの気持ちを抱く自分を否定しても、さらに陰りを深め広げることでしかありません。
特に昨年末から、自分の陰り=喜びではない気持ちを何らかの喜びの気持ちに切り替える作業をしつこく提案してきました。 上手く気持ち(意識)の焦点が合った人もいれば、微妙にズレている人やまだよく分かっていない人もおられます。
なので、年も改まったことですし、今回は少し違った切り口から提案します。
誰かに対して反感や嫌悪感や違和感や面白くなさを感じていない人はまずいないんじゃないかと思います。(誰かの中には、自分自身への否定的な思いも含みます)
そしてそれは誰かの存在に対して全面的に反感や嫌悪感や違和感や面白くなさを感じている場合もあるでしょうし、その人の一部(の言動)に対しての場合もあるでしょう。
おそらくはいくつもあるでしょうが、それを一つひとつ意識に上げて、そういう相手(の言動)に(意識の接点を作って・気持ちを合わせて)「みんな大好き。ありがとう!」と気持ちを込めて言ってみませんか?
相手や自分の現状などには関係なく、まさに無条件で、気持ちを込めてその言葉を向けるのです。 そこに敵ー味方や正ー誤・正−邪や損ー得や勝ちー敗けや好きー嫌いなどの二元相対の意識を持ち込まず、唯一絶対の喜びとして「みんな大好き。ありがとう!」と言うのです。
(これは歪んだ現状を容認したり従属することとは全く次元の違う意識のエネルギーです。自分の臆病さや無関心という偏狭な未熟さを正当化するために、唯一絶対の喜び=愛を持ち出すことはまさに本末転倒です)
もしも、どうしてもそういう言葉を向けることができないほどに自分の気持ちが陰っている場合は、そういう自分の気持ちを正当化するのではなく、そういう自分にこそ「みんな大好き。ありがとう!」と気持ちを込めて言ってあげましょう。
相手や誰かに対する批判でも、現状に対する否定ではなく、あくまでもより良い状態を願っていることを明確にして、できるだけ喜びの方法によることが大事です。(自分にも言い聞かせます・笑)
もちろんそう言ったからといって、すぐに自分の気持ちが喜びに切り替わらないことの方が多いのかもしれません。 だからこそ、誰かに対して自分の気持ちが陰った時にはいつも、すぐに「みんな大好き。ありがとう!」と言う習慣をつけることで切り替わっていくのです。 喜びベースに切り替わり、現実が喜びに変わっていくのです。
それを続けていけば、腸内微生物相の状態やミトコンドリアの働きも変わり、喜びによる共生の場が確立していくはずです。 そして、腸内微生物相やミトコンドリアの働きが喜びの共生に変わり始めれば、健やかな喜びに向かうエネルギーの相乗作用で宿主(自分)の心身にも奇跡のような喜びの現実がもたらされるのです。
病原菌や我よし(不調和)の傾向が強い細菌たちに負ける=全体が支配されるのではなく、 負けないために(今の自分を守るために)必死になって免疫機能を暴走させてしまうのでもなく、 つまり誰かの思い通りにされてしまうのでもなく、 誰かを自分の思い通りにしようとするのでもなく、 全てを祝福しながら大きな喜びの中で共生していくことを、喜びとして目指すのです。
敵の暴走による不調和でもなく、 味方の暴走による不調和でもなく、 敵も味方もなく、 全体として皆の喜びの共生の場を作ればいいのです。
その意識の方向性が確立してこそ、自分が自分の良き主(あるじ)になれるのです。 (棲み分けを含む)喜びの共生を喜びとしていれば、自ずと自分も含む皆の喜びに着地・調和されていくのです。
これは実は、地上的自我意識・我執の枠を超えて普遍意識につながることと全く同じ意味です。
この機会に、生きた微生物を豊富に含む食品を感謝しながらいただくことも、腸内微生物相が自ずと喜びの共生状態に移行するることを手助けするでしょう。
ということで、ちょっと目先を変えた提案をしてみました。 引き続き今までのテーマについても、その他のことも自由に書き込んでくださいね〜。 |
12/01/2018(金) 17:10:30
No.17625 飯沼正晴 |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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長い書き込みになったけど、これは流し読みじゃなくしっかり読んでね〜 読むのも大変でしょうが、書くのはもっと大変なんですから(笑)
上の投稿では、社会の仕組みやありようから受ける個々人のストレスには触れていませんが、社会からのストレスは化学物質などと同等かそれ以上に腸内微生物相の健やかなバランスを崩すでしょう。
いのちの喜び、喜びによるいのちのつながりではないものは全て、相互に絡み合いながら健やかな喜びの調和を破壊するのです。
それを踏まえて、だからこそ、という提案です。 |
12/01/2018(金) 17:12:36
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No.17626 ホープ |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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今回の書き込みは大変分かり易く、実践トライしやすい内容で、有難うございます。最近は自分の心意識などを言語に直して語ったり説明したりすることが少なくなってきて、行動で表現したいと思うようになっています。今迄は対立している相手にも、その人なりの事情や守ろうとする何かを持っているのだ、と思う事で(事実そうであるし)怒りや嫌悪感を薄くし、衝突も避けられておりましたが、今はそんな自分の感情コントロールではなく、それを超えたベースからなるもっと大きな摂理にストレートに繋がって表現しようと思っています。とてもうまく文章が書けません。また書き込みしようと思っています。
27日の定例会に出席させて頂ければと思っています。 |
13/01/2018(土) 16:24:17
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No.17627 やすこ |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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どうしても自分の心って何だろって考えしまうけど…自分の体が1つの生きたミトコンドリア、1つの生きた細胞が集まって出来てる!って考えたら・・変な気持ち。ほんと私って何?本当にいるの?って思ってしまいます。笑
ミトコンドリアを意識したら影響し合えるって凄いですね!自分の細胞なのだからダイレクト!に影響するんでしょうか。
前に、飯沼さんが掲示板に・・・。 ビオフェルミンや枯草菌、納豆菌、ヨーグルトを毎日摂っていて、その後「いのちはひとつらなり、みんな大好きありがとう」とお腹に向けてエネルギーを送っておられる。と書かれていました。
みんな大好きのみんなは、自分もミトコンドリアも入ってるんですね〜
(私も真似しようと探したけど、ヨーグルトもサプリもどれがいいのかわからなくて〜わかりやすいビオフェルミンだけは続けてのんでます。) |
13/01/2018(土) 21:33:53
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No.17628 のものも |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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ゾクゾク、わくわくしながら、じっくり(笑)読ませていただきました。
>『頑なに「私は私だ」と思い込んでいても、実はそれは腸内微生物の状態によって作られているのであれば、自分も自我も実は本当の自分ではないということになってしまいます。』
私もお腹にポンポンに向かって、「みんな大好き、ありがとう!」と言わずにはいられない、言ってます。
そして、他人のお腹ポンポンに向かっても言ってしまいます、言ってます、こっそりと(笑)
何回も読みますね〜〜 |
14/01/2018(日) 12:15:51
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No.17629 のものも |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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凄みわけとは、葛藤している最中は、こちら側も辛いです。 それで良いのだと思うし、それが切り捨ててない証拠なのだと思います。 敵、味方でなく 皆が幸せでありますように。
みんな大好き。ありがとう。 初めて聞いた時は、良い言葉くらいにしか聞こえませんでしたが、突き抜けた、飛び抜けた言葉だと今は思います。 |
14/01/2018(日) 14:58:12
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No.17630 飯沼正晴 |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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すみません。
今朝方から私、急に体調を崩したというか、変化に伴う排出が始まったというか・・・。
症状的には胃の不調と強烈な眠気などですが、心身ともにボーっとしたサナギ状態なので、掲示板のコメントは控えさせてもらいますね。
皆さんはどうぞ何でもお書きください。 もちろん読ませていただきます。
計らいなのか何なのか、発酵食品中心のプチ断食(?)を強いられているのかもしれません・・・。 |
15/01/2018(月) 15:47:32
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No.17631 さき |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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ぬまさん、大丈夫? お大事に!です。
いのちはひとつらなり。 ここ7〜8年、10年近く?ずっと言い続けてきたことですよね。 自分とは腸内微生物はじめ、細胞やミトコンドリアも含めた微生物たちの共生と共棲の集合体。いのちのかたまりなんだと思ったら「自分」「自分の肉体」というものに対する感覚が変りました。
我よしだけじゃ生きられなくてみんな持ちつ持たれつで存在しているわけだし。善玉菌も悪玉菌も日和見菌もみんな「いてくれてありがとう」だし。あんまり電子レンジを使わなくなったし。前にみんなでプチ断食をした時から、豆乳ヨーグルトはずっと作り続けて食べています。ビオフェルミンも飲んでます。 考えたら前よりお通じも快調だし、寒がりが直ったし、毎冬一度は寝込んでた風邪も引かなくなりました。
いのちはひとつらなり ttp://hitoturanari.iinaa.net/numa1.html ↑ この冊子をつくってからもう7年です 今や腸内フローラが随分注目されるようになりましたよね。 ぬまさん紹介の本も以前に借りて読んですごくよかったので、取り寄せて古い友人に送りましたよ。
肉体はいのちの集合体 みんな大好き。ありがとう、の思いが響きあっていきますように。 って思ってます。 |
15/01/2018(月) 17:58:40
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No.17632 やすこ |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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飯沼さん
大丈夫ですか?ゆっくり休んで、お大事になさって下さい。
いつもありがとうございます。
私は発酵食品にスイッチが入って〜この2日間ほどキムチを食べ過ぎ少しお腹が痛いです。笑
前に皆さんで断食されたんですね。発酵食のプチ断食ってとても興味があります。 |
15/01/2018(月) 18:40:14
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No.17633 のものも |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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実は私も、おとといお腹が痛く 昨日はお腹を壊し 今日は、胃が痛い1日です。 (今日の夕飯、お粥と漬物、明太子な感じです)
飯沼さん、やすこさん お腹繋がりじゃないですが(笑) お大事に〜〜! |
15/01/2018(月) 20:49:41
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No.17634 さき |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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おはようございます。 ぬまさん、のものもさん、やすこさん、お腹大丈夫ですか〜。
>敵の暴走による不調和でもなく、 >味方の暴走による不調和でもなく、 >敵も味方もなく、 >全体として皆の喜びの共生の場を作ればいいのです。
人間の体ってすごいですね。 共生と共棲のネットワーク、いのちの集合体として信じられないような緻密な全体としてのシステム、喜びの場をつくってるわけだから。
腸内微生物相はまさに100兆個ともいわれる微生物たちの共生の場で、そのモデルです。 「悪玉菌」や病原菌の「排除」じゃなく、全体としての「共棲」と「棲み分け」のなかで生きた固有のバランスを保っている。
腸内微生物相モデルを知ってから、色んな場面でこのモデルとシステムを考えるようになりました。 楽になりました。 みんなに自分の気持ちをわかって欲しい、共有したい、という思いがあって、そこでしんどくなることが多かったのですが、切り離すのではなく「棲み分け」って思えるようになりました。 棲み分けても大好きの気持ちが消えるわけじゃない、ってことも、そんな自分の気持ちに自信が持てるようにもなりました。
生まれ育った共同体を否定して完全に断絶し、暴走して自分を守らないと生きてこれなかったのですが、暴走する必要も自分を守る必要もなくなった、そんな感じです。 |
16/01/2018(火) 08:38:37
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No.17635 恵美子 |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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> つまり誰かの思い通りにされてしまうのでもなく、 > 誰かを自分の思い通りにしようとするのでもなく、 > 全てを祝福しながら大きな喜びの中で共生していくことを、喜びとして目指すのです。 > > 敵の暴走による不調和でもなく、 > 味方の暴走による不調和でもなく、 > 敵も味方もなく、 > 全体として皆の喜びの共生の場を作ればいいのです。
ぬまさん、落ち着きましたか〜 やすこさん、のものもさんもお大事に〜
随分、回り道をしてしまいましたが、いまなら↑この言葉がストンと腹に入ります。(今までは頭で分かったつ、も、り、だったか)
冬になると食べ始める”日曜市”の古漬けの漬物、とても臭くて?酸っぱいのですが、クセになる。 冬でも体があたたかなのはこのせいだと信じてるんですけどね。
新年、気持ちをあらたに、 みんなだいすきありがとう!
> ということで、ちょっと目先を変えた提案をしてみました。 > 引き続き今までのテーマについても、その他のことも自由に書き込んでくださいね〜。 |
16/01/2018(火) 09:39:58
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No.17636 飯沼正晴 |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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ホープさん、やすこさん、のものもさん、さきさん、恵美子さん、書き込みありがとうございます!
私の方は、胃の不具合はほぼ治まりましたが、排出の時に特有の泥のような眠気が続いています。 頭もボーっとしています。
今回は何がきっかけになったのかは思い当たらないのですが、やはり何らかの組み換えのようなので、自然に整うに任せようと思っています。
「みんな大好き、ありがとう」という意識で、油脂や畜肉は避けて、腸内微生物たちの餌になる食物繊維を摂るようにしています。
人間の腸内フローラは一時的には変化しても、すぐにまた元に戻ってしまうそうですが、これはあくまでも同じ環境下でのことだと思います。
そして腸内微生物たちにとっての環境とは、宿主の食餌内容と想念でしょう。 化学物質の摂取や肉食を減らし、分け隔てのない無条件の「みんな大好き、ありがとう」の想念で満たす(満たされる)ことで、腸内微生物も健やかな喜びの共生度を高めてくれるのだと思います。
エドガー・ケーシーがヒマシ療法を勧めていたのも、ヒマシ油によって腸内の微生物を洗い流して、腸内フローラの組み換えを促すためだったのかもしれないと思ったりもします。 組み換えがうまくいった人はガンなどの難病が劇的に治癒したということかもしれません。
アレルギーや自己免疫疾患の人は、腸内細菌の種類が少ないそうです。 乳幼児の頃からの抗生剤や化学薬品・化学物質の影響は想像以上に大きいのだと思います。 やむを得ずそういう環境に置かれていた子供(大人もですが)に対しては、さらに意識的に分け隔てのない無条件の「みんな大好き。ありがとう」の想念エネルギーで満たし、食物繊維も十分に摂取するようにしていくことも大事でしょう。(しかし、制限は分離と紙一重であり、制限のエネルギーそのものが健やかな喜びを妨げることになると思います)
(多分ですが、抗生物質の使用量は人間に対してよりも牛や豚や鶏などの畜産の方がはるかに大量に使われていて、しかも日本は世界最大の抗生物質使用国だったと思います。しかも、身の回りの微生物をバイ菌として忌み嫌い、徹底的に排除しようとする想念エネルギーはすさまじいものがあります。分離・排除の意識や想念・言動はまさに天に唾すること以外の何ものでもありません)
そして、腸内フローラの状態が肉体的な状態を規定するだけでなく、心や精神や性格にも大きく作用しているということをしっかりと認識しておきたいものです。 さらに言えば、その人自身やその人を取り巻く地上的現実をも規定しているのです。
親子の場合は言うまでもなく、何らかの人間関係の不調和を抱えている人は特に、分け隔てのない無条件の「みんな大好き。ありがとう」の想念で、(自分自身も相手もを含む)みんなを満たしていくことを実行していけばどうでしょうか?
分け隔てなく無条件のということは、そこには一切の理屈も自分なりの気持ちも入り込まないということです。
なかなか完全にそうはできないのが“生身の人間”ということなのでしょうが、そうはできない自分を正当化する理屈を盾にして逃げるのではなく、そういう不十分な自分に対しても、そういう不十分な自分に対してこそ、無条件の「みんな大好き。ありがとう」という想念を注ぎ込んであげればいいのです。
屁理屈かプライドかツッパリかは知りませんが、素直に分け隔てなく無条件に「みんな大好き。ありがとう」と思えない自分がいちばん寂しい存在なのです。 誰かや相手のせいにしても、何も状態は嬉しくならないものですし。 なったとしてもそれはまさに後追いしかできていない自分、誰かの進化のおこぼれにあずかる自分が浮き上げるだけの話です。
もともと自分なんてあるのかないのかすら分からず、どこで線引きできるかも分からないのですから、お粗末な自我意識で自分と他や全体を分けてしまうのではなく、表の顔・表の思いも裏の思い・裏の顔もなく、無条件に「みんな大好き。ありがとう」という喜びの想念で満たしていきましょう。
その喜びの場には喜びの現実が展開していくのです。 。。。。。
やすこさん、 私は枯草菌ではなくキトサンのサプリとビオフェルミンを飲んでいます。 キトサンは畑の作物と共生度の高い土壌微生物が好む餌で、土壌微生物の活動を活性化してくれます。 だったら人間の腸内微生物相も共生モードに整えてくれるだろう、という単純な思いからです。 枯草菌も土壌微生物には同じような働きがあるのですが、人間用の枯草菌のサプリがあるかどうかは知りません。 。。。。。
前半の書き込み、もう少し書き加えます。
分け隔てのない無条件の「みんな大好き。ありがとう」とは、「みんなひっくるめて大好き。ありがとう」ということです。 何事につけ、分離しないということです。
どの程度かはそれぞれにしても、「自分は○〇さんからこんなことを言われた。こんなことをされた」ということにこだわって、「その人に対して『大好き、ありがとう』とは到底言えない」という思いを捨てられない人も多いのでしょう。
そこの部分だけを分離して、そこに意識の焦点を合わせれば、それは無理もない話になります。 「そりゃあそうだよね」ということになるわけです。
でも、そう主張している人はその相手に対してや、全く別の人に対して、相手が傷つくようなこと、嫌な思いになるようなことを言ったことがないのか? 相手や誰かが傷つくようなことや嫌な思いになることをしたことがないのか? 言わなかった・言えなかった、しなかった・できなかったにしても、思ったこともないのか?
「私はそんなことを言ったこともなければしたこともない。思ったことすらない」と言える人がいれば、そのご尊顔を拝みたいものです(笑)
意図的であってもなくても、誰もが誰かを傷つけるようなことを言ったり、したりしてきたことは事実ではないでしょうか? (思うことはエネルギー的には、言ったこと・したことと同じです)
相手の痛みには無神経で、自分の痛みには神経質なことは、つまり自分と他を分離して、自分の側からのみ物事を見て主張することは、言い換えれば自己中(我よし)ということです。
いくら自分なりの屁理屈を並べ立てても、人間というものは多かれ少なかれ、それぞれが傷つけもし、傷つけられもしながらこの地上を生きているわけです。
それを(お互いに)自分に都合のいいように、自分の気持ちに沿って分離して、さらに自分の都合や気持ちを補強・増幅することはすなわち陰りの連鎖です。
そういう状態を手放せない人は、そういう不十分な自分に対してこそ、無条件の「みんな大好き。ありがとう」という想念を注ぎ込んであげればいいのです。
なぜなら、そういう人は心寂しい状態に置かれているに違いないからです。 しかしそれは誰かのせいではなく、自分自身が創り上げている現実であるのですが、そう思えるかどうかは別にして、そういう寂しい自分に対して、無条件の「みんな大好き。ありがとう」という想念を注ぎ込んであげればいいのです。
そしてそんな惨めな自分から解放されたいのであれば、屁理屈をこねて自分を正当化するのではなく、この際、誰もかれも、みんなひっくるめて「みんな大好き。ありがとう」という思いで、その言葉を発していけばいいのです。
自分の思い通りにならない人も、自分の思い通りにしてくれない人も、自分の思い通りにならないことの多い自分自身にさえも、「みんな大好き。ありがとう」という気持ちを注いでいけばいいのです。
地上的自我への囚われ・我執を薄くして、宇宙にあまねく満ちている喜び(だから自分のまわりや内にも満ちている喜び)につながり、その喜びに満たされて健やかに生きるとはそういうことです。 |
16/01/2018(火) 17:09:26
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No.17637 やすこ |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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微生物のお話。 そんな風に考えた事なかった〜‼と驚いて、まだその驚きが続いています。
何度読んでも色んな事と繋がって、読むたびに思う事が違います。
1度目は、ハッ!としてキムチを大量に食べてしまいました・・。
(のもちゃん、さきさん、恵美子さん、心配して下さってありがとうございます)
自分があるのか?ないのか?と考えると少しフワフワした宙を浮いたみたいな〜とっても面白い気持ちになりますね。自分の気持ちも人との関わりも少しチカラが抜けるというか。
上手く表現出来ませんが、「みんな大好きありがとう。」「絶対大丈夫」 の気持ちが少し膨らんだような気がします。
目先を変えるって、本当に面白いです!
飯沼さん 体調崩されてるのに、サプリの事教えて下さってありがとうございます。食物繊維もたっぷりとります。 |
16/01/2018(火) 22:44:27
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No.17638 飯沼正晴 |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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やすこさん、書き込みありがとう!
私はまだ眠気が残っていて、頭もボーっとしていますが、ほぼ回復というか調整完了間近だと思います。(マジか?・笑)
メールの返信が滞っていますが、ご容赦くださいね〜。
昨日の書き込みを読み返してみれば、なんだか過激な書き方になっていますね。 私が調整中ということで、これもご容赦ください。
定例会で使う脚本「夢の住処 Old Spirits Home」、完成版の印刷と製本ができました。
今日中に発送できると思います。 感想など、書きこんでもらえればありがたいです。
ストーリーは書き始めてすぐに全体のイメージが浮かびました。 脚本としての手直しはBさんとぶつかりながらでしたが、私にはとても楽しい作業でした。
Bさん、ありがとうございます! あとはよろしくお願いします!
テーマが決まれば、脚本(の原案)は書けると思います。 というか、物語を創るのはとても面白いので、もっと書いてみたい気がしています。 もちろん、お芝居もそれほど観たことのないド素人なので、手直ししてくれる人がいなければモノにはならないでしょうが。
ニライカナイ伝説を含んだ琉球・沖縄のことは、有史以前(伝説)と過去と現在と未来を重ねたスケールの脚本として書きたい気持ちが強くあります。 書けたとしてももう悠々塾でやることにはならないでしょうが、今年中か来年中に書くことを自分の楽しみにしておきたいと思います。 |
17/01/2018(水) 11:20:35
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No.17639 のものも |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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やすこさん、さきさん、恵美子さん
お腹が痛いのは治りました〜 単なる冷えかも(笑) それか、飯沼さんの書いた文章のせいかもー(笑)
>書けたとしてももう悠々塾でやることにはならないでしょうが、今年中か来年中に書くことを自分の楽しみにしておきたいと思います。
改めて聞くと寂しくなりますね。 定例会も、ワイワイ飲んだり、騒いだりとしてる事も、いつかは思い出となってしまうのでしょうね。 当たり前の毎日も、いつかは消えていくのだと思うと、人生は、はかないものですね。 みんなが仲良く生きたいものです。 |
17/01/2018(水) 18:52:07
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No.17640 飯沼正晴 |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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のものもさん、回復よかったですね〜!
>改めて聞くと寂しくなりますね。<
ご希望であれば、その脚本も悠々塾でやっても構いませんよ(笑)
>定例会も、ワイワイ飲んだり、騒いだりとしてる事も、いつかは思い出となってしまうのでしょうね。<
はい、そうなるでしょうね。 しかし、はかない思い出として消えていくのではなく、「あのワイワイガヤガヤ・和気藹々があればこそ、今の皆の(地上人類の)喜びの現実がある」という、その意義を再確認する懐かしい思い出として残ります。
もちろん、「表現力アップのための演劇基礎講座」もそうです。
昨年末からの提案やこのスレッドで提案していることに意義は、深く大きいと思っています。
地上人類というスケールがイメージできなくても、自分や自分の周囲の人たちの健やかな喜びを現実化していくために、本気になってもらいたいと思います。
今を喜べず、今を嘆き、先々に不安や怖れを抱いている人は少なくないでしょう。 今を喜べている人でも、何らかの陰り=喜びではない気持ちを抱いていない人はとても少ないでしょう。
自分自身の気持ちを喜びベースに切り替え、病原菌や腸内微生物さんたちから神という存在までをひとつらなりにして(つまり、みんなひっくるめて)、分け隔てなく無条件に「みんな大好き。ありがとう」という想念と言葉を向けていくことによって、自分の生命場のエネルギーも自分の関わる人や生命たちとの場のエネルギーも、根底から喜びに変わるのです。
私たちは程度の差はあっても自我に囚われた未熟な存在ですから、多少の好き・嫌いや快・不快はありますし、喜びベースになってもいくらかは残るものでしょう。
でも、それでも構わないから、そんな自分も隙も嫌いも快も不快も、陰りもみんなひっくるめて「いのちはひとつらなり。みんな大好き。ありがとう」なのです!
喜びベースとは、今の陰りを否定することではなく、さらなる喜びへと進もうとしていくこと。 今の現状に留まろうとしないこと。 その方向性です。
陰りを喜びに修復していくことであり、不調和を調和していくことです。 そして何よりもそれを自分の喜びとしていくことです。
今まで通りなど通用しない大きな節目、大きなスケールでも個々人のレベルでも瓦解・崩壊か喜びの再構築かの大きな節目を迎えつつある今、自分や皆の健やかな本当の幸せを願うのであれば、この心の切り換えの作業をどうか続けていっていただきたいと願わずにはいられません。
神の分け御霊を戴いた自分の魂を惰眠させたままでは、新しい喜びの地上界への風穴はあかないのです。 |
17/01/2018(水) 20:51:16
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No.17641 ゆりか |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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ヌマさんの屁理屈‼という言葉に 私の記憶を司る左脳 もしくは 海馬が反応しましたよ〜
20年前に霊界に帰った父から頂いた私への苦言の言葉の中で 一番多く使われたのが 『屁理屈をたれるな‼(たれる。。とは広島弁で だらだらと言い続ける。。という意味あいがある言葉です)』 だったのよね〜〜
いつの頃から 言われ続けていたのだろう? 多分 私が 自分の間違った言動を 父に指摘された時 『理屈 』というものを使い 始めて 両親に反論できるようになった頃やから 11才の頃かもしれんなぁ〜〜
自分ではちゃんとした理屈やと思って 私が正しいから、父は 私の言動を認めてくれるに違いない‼ という期待を抱きながら そういう言動をした時の自分の気持ちや言動を正直にっているのに いつも
『屁理屈をたれな‼自分の言ってることが 屁理屈なんが解らんのか‼屁理屈たれずに 素直に謝れ‼』
と言う苦言を返され 訳が解らんかったわ〜 納得がいかない私は 父に 説明を求めるけど 毎回同じ言葉が返ってくるじゃけん 悶々としは気持ちは晴れることもなく 長い間 私の心は曇り空やったわぁ〜〜
父からの答えは いつも決まって 『今のお前には 説明してもわからん‼自分で考えろ‼わしに答えを求めるな‼ いつかわかる時がくるわい‼』
じゃったよね〜〜
今でこそ この 父からの苦言が あったから 自分の心の中を自ら探りながら 答えを求めて生き続けてきた私の人生があるのやなぁ〜〜 と染み染み感じ 感謝の念で一杯なのですがねぇ〜〜
ヌマさん‼父との濃密な関わりを思い出させてくれて ありがとうね〜
えみちゃん‼私は ぶっちゃんからの苦言を拝聴する度に
『父とぶっちゃんはダブルなぁ〜〜』
と感じていましたわ〜 二人とも 人に対してのそこはかとない深〜い愛情と 信頼感を兼ねそなえた 素晴らしい男性だと思っていますわ〜〜 勿論 ヒロちゃんもですけどね〜〜❣ 定例会 一緒に行けたら 嬉しいわ〜❣ |
18/01/2018(木) 08:45:59
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No.17642 飯沼正晴 |
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Re: ちょっと目先を変えて、喜びベースへの切り換えを |
引用 |
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ゆりかさん、書き込みありがとう!
そうでしたかぁ。
自分を守るための言い訳に屁理屈をこねる場合もありますし、強い立場の者が自分を守るために「屁理屈を言うな!」と逃げる場合もありますね。
生命はひとつらなりで、個も全体もさらなる喜びに進んでいる(進化している)ということを、絶対の摂理として受け入れるならば、陰り=喜びではない気持ちに留まろうとするために用いる理由はすべて、自我意識=我執に囚われた自分の側からの理屈に過ぎませんから「屁理屈」です。
とはいえ、私はそういう屁理屈を言う人を否定しているわけではなく、今の地上の人間というものは(私を含めて)その程度の段階にあるのだと思っています。
ですからそれぞれに歪みをかかえているわけですが、歪んだ部分に何らかの根拠(真実性)を置いても真っすぐにはなりません。 そこで歪みの正当性を主張すればするほど歪みはひどくなってしまいます。
(例えば、針金が曲がっていることが分かる・認識できるのは、真っすぐな部分を見るからです。 極めて狭い視野で、曲がった箇所だけを見ていても、そこが曲がっているとは分からないわけです。 たとえ曲がっていることが分かっても、曲がった理由をいくら並べたてても真っすぐにはなりません。 曲がった箇所から離れた真っすぐなところから、その真っすぐさを伸ばしてくれば、自ずと曲がった箇所も真っすぐになるのですが。 そして喜びに進むという摂理には圧倒的な力があります。 何しろ宇宙を統べる絶対の摂理ですから。 針金とは違って、その気にさえなれば、気持ちのところでのコツさえつかめば楽々、真っすぐになっていくのです)
(もっと言えば、1本の針金ではなく、電気のコードでも構いません。 ビニールの被覆を剥がせば、何本もの曲がった銅の針金が縒り合されています。 1本1本の針金は曲がったままでも、それらが縒り合されて束になったコードとして真っすぐであることはできるわけです。 個別の歪み・曲がりに囚われないで、全体として真っすぐであろうとすればそれでいいのです。 私はどちらかといえば、その方が好きなタイプの人間のようです。 真面目なところもないわけじゃないけど、ストイックな生真面目さは苦手ですね・笑)
生命はひとつらなりで、個も全体もさらなる喜びに進んでいる(進化している)という絶対の摂理、つまり自分の気持ちを越えた真っすぐで大きな流れを意識の拠り所とすれば(真っすぐな大きな流れに同調すれば)、自ずと今の歪みに固執することもなくなり、半自動的に自分にも皆にも健やかな喜びの現実がもたらされるのです。
それだけの話だと思うのですが、私の言わんとしていることはうまく伝わっていないのでしょうかね? (あ、ゆりかさんにはいい感じで伝わっていると思っていますよ) |
18/01/2018(木) 12:05:41
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