☆☆ 愛は時空を超えて105 ☆☆
―― 霊界の克との対話 ――
飯沼)おーい、くぅ。
克子)はーい、まーたん、こんにちは。
飯)先月は、「我、真理を体得せり」という気分にもなったけど、その後はむしろ停滞気味で「あの霊的興奮はいずこへ?」という感じになってしまっている(笑) それでも、遠隔ヒーリングをしている時のエネルギー的実感に明らかに変化があったりするし、それなりに前進はできているのだと思うけどね。
克)はい、そのようですね。 何事もそうですが、決して一直線にというわけには行きません。 ましてや今回のエネルギー的変化や気づきは、そう簡単なものではないのです。 地上人類が有史以来、長きにわたって築き上げてきた巌(いわお)のような想念エネルギーの壁です。 そう簡単に打ち砕くことはできないというよりも、溶かせるはずもないのです。 まさに行きつ戻りつ、まるで押しては引き、引いては返す波が岩を削り取るように、エネルギー的作業を繰り返していくのです。
飯)そうなのかな? 今の僕の感覚で言えば、時間やエネルギー的な蓄積などとは別の次元で、もっと瞬間的かつ決定的な作用のような気がするのだけど・・・?
克)はい、確かにその通りです。 しかし、それが地上的な形になるにはさらにさらに反復継続が必要であるという意味です。 それはいわゆる「弛まぬ努力」というニュアンスとは少し違っているのですが・・・。 意識の密度の濃淡や緩急も含めて、何ものにも制約されず、目指すところに向かってあなたとして進んでいけばよろしいのです。
飯)はい。 いずれにしても、地上人生ではこれ以上の目標を見出すことはないと思っている。 僕は若い頃から枠に収まった思考が苦手だったのだが、それも含めてこの目標に向かうためのものだったのかもしれないと、今は思う。
克)あなたも分っているように、考え続けても分るものではありませんし、分ることとこのエネルギーを体現・使いこなしていくことは完全に同じでもありません。 (霊界では当然のことなのですから)、霊としての意識では実はすでに皆が分っていることでもあり、地上的意識だけでは分りようもありません。 意識とはエネルギーでもあり、であるならば、地上の人間の意識としては分からなくても(理解できなくても)、エネルギーとして使っていくことはできるはずですね。 言葉にすれば、なんだかとんち問答のようになってしまいますが・・・(笑)
飯)はい、そのあたりのことは僕も感じている。 理解できない人に対してもこの究極のヒーリングエネルギーは伝授(ダウンロード)もできるし、理解できていない人でも使っていくことができるはずだと思う。 たとえて言えば、それは原理を理解できていなくても自転車に乗れたり、鉄棒の逆上がりや蹴上がりができることと同じようなことだと思う。
逆に、頭だけで理解できたとしても実際にはそのエネルギーを使えない人もいるはずだ。 それもまた自転車や鉄棒と同じだと思う。
これは病気などの治癒エネルギーにも共通しているように思う。 つまり、あまり頭(だけ)で考えすぎる人は結局は回り道をするような気がする。 あるいは自分の思いで現状や成り行きをネガティブに規定する傾向の強い人も、想念が形になってしまうように思う。 もちろん、自分に都合よく思い込もうとする凝縮傾向のエネルギーも、治癒の妨げになる。
病が重篤であればある程、本当の意味でポジティブに解放されたエネルギーが必要になるのだが、これがなかなか難しいようだ。 おっと、少し話が逸れているね。
克)いえ、ある意味で重なっていることですよ。
ある意味において、一番無理なく病を治すには、病に意識を凝集しない、つまりこだわらないことです。 といって無関心を装うことは、放置よりも愚かなことです。 治るかどうかなど気にしないで、今までの生き方を振り返り、できる限り摂理に適った日々に切り替えていくことです。 逆から言えば、治るかどうかばかり気にしながら、人生の価値観や日々の生き方暮らし方は今まで通りでは、治りにくいということです。
しかし、多くの人たちはそういう状態であるのですから、あなた方はそういう人たちを治す・癒すためのエネルギーを獲得して使いこなしていかねばなりません。 すでにあなたはそのヒントを得ているようですから、ここでは伝える必要はなさそうですが。
そういうあなたですから、いつもお伝えしていることですがあなたの場合、日常を離れて瞑想や自由な思考に心を解き放つ機会を持つように心がけてください。 あなたの言う、「ヒーリング三昧」の期間はとても大事なのです。 もちろん日常も大切ですが、それもあなたとしての「ヒーリング三昧」の期間との兼ね合いです。
飯)要するに、「日常に埋没するな」ってこと?
克)そういう表現はしませんが、あらゆる意味においてあなたとして全的であろうとすることです。 可愛いお孫さんたちとの時間を楽しんでいる時に「地上における稀有な霊的チャレンジャー」の側面は見せられないでしょうから(笑) ふさわしい場所で意識的に時間を作って瞑想や自由な思考に耽ってください。
飯)はい、分りました。 今日は他にも伝えてくれることがありそうだね。
克)はい。 あなたも感じているように、地上界の状態はきわめて暗黒界に似た様相を呈しています。 そういう中で自分として日々をどう生きるのかが、まさに日々、問われているのだとお伝えしておきたいのです。 今までもお伝えしてきたことではありますが、今一度、改めて受け止めていただきたいのです。
飯)今の世界を牛耳る者たちの横暴が、さまざまなところで目立ち始めていると思う。 権力者や為政者の横暴・強欲は今に始まったことではないが、国民主権や民主主義などという建前上の仮面をかぶって、政治や情報操作のシステムを作り上げ、今や彼らのしたい放題の世になってしまっている。 規制緩和・自由競争・関税撤廃などと言えば聞こえはいいが、実際には弱肉強食の社会にしていくことだ。
質(たち)が悪いことに、あらゆる強欲や横暴がまるで社会を良くして人々のためになるような偽装のもとに断行され、世の中に建前ばかりの欺瞞がはびこってしまったことだ。 とんでもない殺戮行為を計画・実行し、他の者たちに濡れ衣を着せてさらなる大規模な殺戮行為を繰り返している。
その裏で、(地上的)富はごく一部の人たちに集められている。 クレディ・スイス銀行が公表した「グローバル・ウェルス・レポート」によれば、5000万ドル以上の富を有する人々は世界人口の0,7%だが、アメリカに圧倒的に多く、世界全体の富の41%を持っている。 1万ドル以下の富しか持たない人々は世界人口の68,7%であり、彼らの富は世界全体の3%に過ぎない。
アメリカの人口は3億2千万人ぐらいだが、アメリカのわずか400人の「最も豊かな人たち」は、富の所有において下半分の人たち全体を合わせたよりも多くの富を所有しているのだ。
アメリカ流生活保護といわれるフードスタンプ(月額100ドルの食糧支援カード)を受給している人は約5000万人に上るという。(詐欺的な不正受給が10%程度はあるというが) 人口の25%が食料支援を受けねばならない社会なのだ。 想像を絶する格差社会だ。
その一方でアメリカの国家財政は破綻の危機に瀕し、デフォルト〈債務不履行〉も現実味を帯びてきている。 地方財政はすでに破たんしている州もあり、これからさらに破綻が進むに違いない。 結局のところ、正義を詐称する戦争によって大勢の人を殺し、庶民や政府を踏み台にしてごく一部の裕福層が巨大な富を蓄えていくシステムになっているのだ。
日本もアメリカの属国として、(今のところ戦争はしていないが)同様の道を歩んでいる。 支配する側の者たちは言うまでもないが、虐げられ搾取されている側の人間の多くも、自分のことしか考えられなくなってしまっている。
野生の感覚を失い、「自分だけは生き残りたい」と迎合し、家畜のように餌をもらいながら自分の屠殺の順番を後回しにするために同じ境遇の者たちと小競り合いを続けているかのようだ。 下積みの多くの庶民も含めて、まさに暗黒界を形成しているかのようだ。
人間の側に社会を作り直していく気力も失せてしまったならば、おそらくは人間をはるかに超えた存在の働きかけによって、出直し・生き直しを求められるのだと思う。
僕は以前からずっと言っているのだが、生活の全てを今の金銭のみの価値観に埋没させてしまうのではなく、ごく一部でも自分たちの創意工夫によって生活物資を得ていくことを改めて実行していく時期だと思う。
今の世の中で流通しているほとんどすべての物は、利益を生み出すための商品として作られ、流通している。 だからお金を出せば買えるし、お金がなければ得ることはできない。
先日、北海道で有機農業を営むMさんが言っていたのだが、 「同じ野菜にしても『商品』として作られたものと、『食べ物』として作られたものでは、何かが違っている。もちろん味も違うのだが、そういうことだけでなく、やはり『本物かどうか』ということが大きいと思う。こういう世の中だからこそ、(価格の問題は確かに大きいのだが)、自分は『本物』を作り続けていきたい」 まさにそういうことなのだと思う。
同じ野菜でも、利益を上げるために作られ販売される「商品」としての野菜と、「食べ物」として栽培される野菜では、そこに含まれているエネルギーがまるで違うのだ。 「食べ物」として栽培される野菜が最終的にお金で購入されたとしても、やはり食べ物としてのエネルギーを有しているのだと思う。
そして人間は、元素や分子構造による物質よりも、実は(動機につながる)エネルギーに大きく作用されるのだと思う。 物質の部分は肉体という物質に作用するとしても、人間の心や精神の部分はそのものに含まれる(動機や目的の)エネルギーによって大きく影響されていくのだと思う。 これは食べ物に限らず、すべての物に言えることのはずだ。 すべての物はその物としてのエネルギー的価値を有しているのだから。
できる限り・できる範囲で、金銭に依拠しない生活の方法を自分の暮らしに組み込んでいくことを改めて提案したい。 手作りや手作りされた物を庶民同士がうまく交換していけるようなつながりや場がやはり重要なのだと思う。 本当の意味での「豊かさ」を取り戻すために、以前から言っているビジョンをまとめ、プロジェクトを実現させていきたい。
克)はい。 いろいろしなければならないことがあってあなたも大変ですが、しなければならないことはやはりしなければなりません。 まして今の地上世界は「瀬戸際」という表現がふさわしい状況です。 もうひと頑張りを期待しています。
飯)はいよ、そのつもりです!
(2013.10.26) |
26/10/2013(土) 16:55:16
No.11607 ホープ |
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この度の『愛は時空をこえて』を読み、病についての記述の部分は今の自分にとって本当にタイムリーな内容です。抱えている腰痛に於ても身体上の痛みというものについて考えさせられています。或いは病に対する意識の話は罹病者として大変興味あるところでした。確かに他の重要な事に意識を集中している時、痛みや病を忘れていることがあります。その最中には意識の中に痛みとして意識されてなく、意識の集中が緩むと痛みを感じてしまうー。ということのように思うのですが。そのあたりチラチラと感覚的にわかるような気がします。 後半の部分を読み改めて心に高揚するものが湧きます。『新世界秩序』の計画的動きが加速する一方、その舟から降りようとする人達も増えつつあり、受け皿というか依居するところの構築が急がれていると思います。今日の掲示板の『スイスでのベーシックインカム国民投票』はそのきっかけになるかも知れません。
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27/10/2013(日) 14:07:06
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No.11609 さき |
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ぬまさんの道筋があるのだと思いますが、 3年間は僕を信じてついてきてほしいと言った言葉を信じて スタンバイしている仲間、スタンバイの準備をしている仲間がいるのでよろしくお願いします。
>・・人間は、元素や分子構造による物質よりも、実は(動機につながる)エネルギーに大きく作用されるのだと思う。
同感です。 でもって、霊である人間は、愛に反応するのだと思います。 今月の悠々通信のはじめにとして書いたものです。 なんだか今回私的ですが、私にとってのスタンバイ(準備)です。
◆はじめに 注ぐこと、満たすこと、与えること、愛すること。 自分の存在に自信を持てなかった。自分の心を信じられなかった。 注いで欲しかった。満たして欲しかった。 与えて欲しかった。愛して欲しかった。 自分はそうされるに値する存在だと思いたかった。 確認したかった。実感したかった。 いつも心細かった。いつも不安だった。 心の不安を埋めるために自分をかりたてた。 確かなものが欲しかった。安心したかった。 たくさん遠まわりして、自分の心の影を追いかけた。 傷ついたし、傷つけた。 行き場のない気持ちに心がくもった。 自分にはなぜ与えられないのか、、と。 自分の身体にドロドロとした感情がまとわりついた。
地上ならではの感情にふりまわされ、出口を見失った心たち。 面倒で、攻撃的で、迷惑で、、、やっかいであり愛おしくもある心たち。 知ってるよ。 本当はただ愛されたかった、それだけなんだって。 注いで欲しかった。満たして欲しかった。 与えて欲しかった。愛して欲しかった。 ただそれを実感したかっただけなんだって。 もう遠まわりはやめるから、一緒に行こう。
自分の存在に自信が持てなかった。自分の心を信じられなかった。 注ぐこと、満たすこと、与えること、愛すること。 自分がそんな風に思うのもおこがましいと感じていた。 けど、その感じ方が違っていたのだと思う。影を追いかけるのはもうやめよう。 不完全な存在、、だけど愛することは喜び。 与えることは喜びなのだと、そう思う。 |
28/10/2013(月) 07:49:43
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