[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード


No.10172 みんと  
愛は時空を超えて93 引用
きんもくせいさん、お久しぶりです!
コメント拝見しました。

私も全くの同意見です。
目の前で苦しんでいる人がいたら助ける、手を差し伸べる。
基本ですよね。
そして、そのこと自体、一つの「縁」だと思います。

もし逆の立場で自分が苦しんでいるときに、他の誰かに親切にしてもらい、優しい言葉をかけてもらったらどんなに嬉しいかとおもうのです。希望も湧いてくるでしょう。
人の役に立ちたい、自分を役立てたい・・
誰でも同じ気持ちを持ってますよね。。

人の感情などとは別次元の公平公正な法則があるとしても
「全てを喜びとする」という摂理、法則が原点だと思います。


迷い苦しむ人を喜びに向かわせることが、スピリチュアルのそのものであり、無視する、放っておくことは逆に自分のカルマを作るのではないでしょうか?

18/10/2012(木) 13:01:12


No.10173  飯沼 E-mail
Re: 愛は時空を超えて93 引用
みなさん、ありがとうございます。
「愛は時空を超えて」のスレッドが長くなったので、この項に続けさせてもらいます。

>地上的に苦しんでいる人がいても、「それは摂理ゆえだから、ほっておいたらいいのだ」
と、スピリチュアルな知識をかじった人が言う人がいますが、<

そういう愚論を分かったような顔で垂れ流す人っているんですよね。
ちょっと考えれば分かりそうなものなのに、困ったものです。

全ては摂理の中ですから、地上的に苦しんでいる人も、摂理ゆえであるのは当然です。
しかし、だから放っておけばよいのなら、医療も社会福祉もボランティアも「余計なお世話」ということになります。

そういうことを言う人は、自分が苦しい状況になった時にも摂理として受け止めることができるのでしょうか?
もしも苦しい自分に手を差し伸べてくれる人がいたら、その人に向かって「摂理ゆえのことですから放っておいてください」と言うのでしょうか?

そもそも、スピをかじっているのであれば、「シルバーバーチの霊訓」ぐらいは知っているでしょうに・・・。

さっき十数冊の「シルバーバーチの霊訓」のなかから、たまたま手に取って開いたページから引用しておきます。

『私たち霊界の者は、縁あって皆さんのもとを訪れる人たちに霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく、皆さんを導き、勇気づけ、元気づけ、鼓舞する用意ができております。本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。

 地上には霊的進歩を計るものさしがありませんから、そうした協力関係の中で皆さんがどれほどの貢献をなさっているかがお分かりになりません。しかし、たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に真の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけあなたの全人生が無駄でなかったことになります。私たちはひたすら??人のために役立つこと?≠?心掛けております。』(シルバーバーチの霊訓 10)

18/10/2012(木) 14:13:06

No.10174  飯沼 E-mail
Re: 愛は時空を超えて93 引用
「愛は時空を超えて」で「異質なものの融合」についての私の考えや、「山が動く」というイエスの言葉を紹介しました。

昨夜、布団に入ってから、ふと、「トマスによる福音書」を思いだしました。

◆『トマスによる福音書』(トマスによるふくいんしょ)は、1945年にエジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書で、114の文からなるイエスの語録集である。本文中に使徒トマスによって書き記されたとあるので、この名がある。
なお、現行の新約聖書には含まれないという点では、外典である。
。。。

去年だったかに、アマゾンで取り寄せて、ざっと流し読みしただけでした。
今朝、探し出してパラパラと見ていったら、以下のようなイエスの言葉が記されていました。

◆トマスによる福音書106

『イエスが言った、「もしあなたがたが二つのものを一つとするならば、あなたがたは人の子らとなるであろう。そして、あなたがたが、「山よ、移れ」と言うならば、山は移るであろう』
。。。。。。。

この場合の「人の子」というイエスの言葉は、「メシア(救世主)」と解釈するべきだと思います。

18/10/2012(木) 14:34:26

No.10176  さき ホームページ
Re: 愛は時空を超えて93 引用
テーマになっている「異質なものの融合」
なんとなくつかめるのですが言葉にしにくいです。
読み直しててこの部分↓が心にとまりました。

>・・真理とはシンプルなものです。
>難しく考える必要もないのですし、難しく考えたからといって
>身に付くエネルギーではありません。
>その意味では、霊的喜びを主として地上的喜びを融合させれば、
>誰にでも発することのできるエネルギーなのです。

瞬時に「治す、直す」ことのできるエネルギー。
それは誰にでも発することのできるエネルギーなのでしょう。

人間ってのは霊的存在であるのですから。
それを知識としてではなく知ってしまえば簡単なことなんだと思います。
この場の皆さんはそれを身を以て知ってきたと思うから。
新しい地上の人間のあり方の先駆けとなってそれを示していく。
役割があるのかもしれませんね。


宗教ではないけれどある種宗教的な環境で生まれ育ちました。
「それでよろしいのです」
こういうフレーズは大嫌い!!!でした。
またよく使われるんですよね。
信じれば救われる、みたいなね。
こうした宗教的なフレーズが現状肯定、支配するものにとって都合のいいように使われることが我慢ならずに反発してきました。
私はあなた方の思いどおりにはならない、たとえ救われなくても、たとえ異端のレッテルを貼られて路上に倒れても、私はとことん地上の人間として生きたいと決めた時期があります。
(ちょっと若さ故の勢いもあったけど)
だって、実際に今も戦火のなかで倒れている人がいるのに、飽食の一方で貧困による飢えや病気で生きることを奪われている人たちがいるのに、
「それでよろしいのです」
なんて言えない、言いたくない。
まず人間としてやれることをやってからだろ、ってずっと思ってきました。
もちろん当時、人間は死んだら終わりだと思ってましたが。
それが悠々塾に出会って、、今ここにいることに意味があるのでしょうね。

皆さんそれぞれの道筋は違うけれど、
今ここにいること、つながっていることに意味があるんだと思います。
一緒にその意味を考えていきたいです。

19/10/2012(金) 10:03:55


No.10175 のぶよ  
がれき受け入れのことで 引用
がれき受け入れのことで書き込みさせてください。

原発のある福井県敦賀市と高浜町で震災ガレキ受け入れが行われようとしているそうです。何もしなければ高浜町では今月末に試験焼却が行われてしまうそうです。

「故郷を守ろう!がれきを考える会」で反対署名を集めておられます。
 ttp://future.jpn.org/fukui/garekistop/
ご賛同いただけたら協力よろしくお願いいたします。

また、「サステナわかさ」では、
「高浜町や岩手県へ電話しよう!」
と呼び掛けておられます。
出来ればご協力よろしくお願いいたします。
以下を参考にしてください。


■岩手県大槌町環境整備課 TEL 0193-42-8722

■環境省コールセンター
03−5610−5961(9:30〜18:15(土日祝日除く)

■高浜町役場:住民課
〒919-2292 福井県大飯郡高浜町宮崎71-7-1
TEL.0770−72−7703  FAX.0770−72−4100

■敦賀市役所:廃棄物対策課
〒914-8501 福井県敦賀市中央町2丁目1番1号
TEL0770−22−8185  FAX0770−22−6042



--------------高浜町役場へ--------------------------

【法律的な問題について】

 放射能汚染されたゴミは廃棄物処理法の適用除外になっていますが、高浜町はなんの法律で、瓦礫焼却を されるのか。根拠法はなんですか。

 昨年8月にできた、「瓦礫特措法」「放射能汚染特措法」は、国による憲法違反、法律違反、脱法行為の おそれがあることをご存知ですか。

 放射能汚染特措法で、環境省が広域処理による責任を免除されていることを知っていますか。
 
もしも、なにか問題(健康被害や環境被害)が起きた場合、責任は、受入れの手を挙げた自治体だという ことをご存知ですか。
 
日本弁護士連合会が、昨年9月に、広域処理について、法的問題があると指摘した声明があったことをご 存知ですか。
 
風評被害対策を国によって行われると以前聞きましたが、どのように実施されるのか具体的に教えて。
 
放射能汚染などによる人体や作物、環境への被害があった場合、国が補償するといわれていますが、国と 高浜町、そして搬出元の大槌町とで、文書により責任の所在を明らかにしたものを作ってください。
 
 
【受入れの必要性について】

広域処理は余力のある処理施設にお願いするとあるが、高浜町の焼却施設には余力はあるのか。
  
東京都は50万トンで、高浜は、700トン。すこしでも復興にとおっしゃるが、受入れのために余計な費用(説明会や放射能測定、処理場や焼却場の施設を改修)を使うなんて合理的でない。これでは復興財  源のムダ使いではないのか。
  
1日当たり3トンの量を、毎日東北から西日本まで輸送して、焼却するのですか?輸送方法と輸送費を概算でもいいので教えてください。また、大槌町で処理する場合と、高浜町で処理する場合の処理費用の差を教えてください。わからないのであれば、高浜町は、具体的な予算の検討もせずに広域処理を引き受けられるということですか。
  
広域処理の財源は、復興財源だということをご存知ですか?復興財源は、来年から国民の所得税と住民税に上乗せされます。それが、被災地の復興に役立つのであれば、私たちもいいと思うのですが、具体的な予算計画がない広域処理に使われることに対し、どう思われますか。

受入れにかかった総費用を情報公開請求すれば、公表していただけますよね。

毎日3トンずつ輸送すると聞いているが本当ですか。仮置き場はつくられないのですか。

搬出元の大槌町は現地処理を1日何トンされていますか?

現地処理の焼却場の放射能濃度はどのくらいですか。検出されていますか。

【放射能汚染について】

日本政府は、内部被爆について軽視していることをご存知ですか。

内部被爆の影響については、シーベルトの数値では量れないということをご存知ですか。  
放射能による健康被害は、因果関係の立証がむつかしい。なぜ国も高浜町もやっきになって、安全論を展開されているのですか。権威のある研究者のかたが多数危険性を訴えられているのだから、そういった声に耳をかたむけ慎重になるべきではないですか。

鎌仲ひとみ監督の「内部被曝を生き抜く」をご覧になられましたか。観てください。


【受入れ基準について】

 放射性セシウム濃度の受入れ基準は、なぜ濃度規制なのですか。総量規制にすべきではありませんか。
  
100ベクレル/kgという基準はどのように決められましたか。根拠を教えてください。

 原子炉等基本法では、セシウムについて100ベクレル/kg以下の場合の不燃物は再利用できるとあります  が、可燃物については、100ベクレル/kg以下でも厳重に保管されていることをご存知ですか。

 高浜町は、受入れ基準が100ベクレル/kgですから、最高で700トン×1000kg×100ベクレル/kg=7千万ベクレルの放射性物質を受けいれるのですね。さらに焼却すると約33倍に濃縮するので、23億1千万ベクレルの焼却灰が、高浜町不燃物処分地に埋め立てられてもいいということですね。

それを説明会で、住民に説明されましたか。されていないのであれば、それはなぜですか

埋め立て基準は、100ベクレル/kgですか。高浜町長は、8/31日(高浜)とおおい町の説明会で、「埋め立ての際の基準も100ベクレル/kgなので安全です」とおっしゃっていましたよね。

埋め立ての基準が8000ベクレル/kgだとすれば、その根拠を教えてください。また、がれきは一般ゴミと混ぜて燃やすのなら、いつの時点で濃度を測るのですか。混ぜて燃やしたら、がれき自体の濃度が測れませんよね。
  
高浜町は、環境省の「東日本大震災により生じた災害廃棄物処理に関する基準等」に準じていると、おっしゃいますが、それは法律ですか。おそらく法律ではなく、ただのガイドラインですよね。であれば、法的根拠はないと思うのですが、大丈夫なんですか。
  
もしもガイドラインの根拠に間違いがあって、その結果環境や人体に被害が及んだ場合、環境回復や補償などは高浜町がとられるのですか。

ガイドラインは環境省が独自に決めた方針であって、法的根拠はまったくないのではないですか。
100ベクレルくらいの濃度は空間線量では検出できないことを踏まえて、焼却場ではどうやって放射能濃度を計測するのですか。


【試験焼却について】
  試験焼却というのなら、まず一般環境に影響のない施設で行ってからするべきではないですか。
  試験焼却で、もしも放射能汚染された場合、その責任、補償は誰がとるのか。
  近隣の学校、保育所、住居に対して、試験焼却中の避難計画はありますか。
  実施日はいつですか。環境省は立ち会いますか。
【焼却場での処理について】
  高浜町清掃センターは、放射性廃棄物対応型の焼却場ですか。
  バグフィルターが有害物質を除去すると言われていますが、その根拠を調べられましたか。

高浜町清掃センターが採用しているバグフィルターのメーカーに問い合わせたら、「放射性物質は除去できない。」と言われましたが、確認されましたか。

バグフィルターの維持管理は、放射能防護されている職員が行われるのですか。
バグフィルターより手前の施設は、放射能汚染されると思うのですが、どのような対策
をされますか。職員やゴミを捨てにきた一般市民の被曝防護はどうお考えですか。
 
 説明会資料にて、「がれき搬出側で放射能濃度を測定しているから、受入れ時には必要ない」とありますが、受入れ側の責任として、測定は必要ではありませんか。
  
また、その際に空間線量では、瓦礫に含まれる放射性濃度は測れないので、適切な方法でもって測定してください。
  
瓦礫は、通常ゴミと混ぜて焼却すると言われていますが、放射性物質の希釈は国際的に禁止されていることを知っていますか。知らないなら調べてその結果を教えてください。
  
焼却場での放射線測定は、誰がどのようにされますか。一般職員も従事されるのであれば、特別な健康調査や、放射線に関わる研修などは実施されますか。されないのであれば、それはなぜですか。

職員は積算線量計を携帯することになるのですか。

栃木県の焼却場で勤務していた職員が連続して亡くなられたことをご存知ですか。また、放射能濃度が高く、進入禁止になっている焼却場があることをご存知ですか。
  
試験焼却前に、現況調査(各地点での放射能測定)の結果を公表してください。
  
  
【処分場での埋め立てについて】
  
処分場周辺の方は、受入れに反対されていると聞いていますが、住民の理解を得られていなくても焼却処分されるのですか。

環境省から、瓦礫の焼却灰は、飛散・流出を防ぐため、即日覆土するよう通達が出されていますが、実際に即日覆土されますか。
  
焼却灰が3mの高さになるまで、覆土(50?)しないと聞いたのですが、本当ですか。3mになるまでは野ざらしですか。

台風や大雨などで、処分場が浸水した場合の対策はどのようにお考えですか。

遮水シートが損傷していないか確認されますか。どのように確認できますか。

焼却場から処分場へは、どのように運搬されますか。灰はきちんと外部環境と隔離して運ばれますか。

高浜町は近々運搬車両を買い換えるとお聞きしましたが、それは広域処理に必要経費として補助金をもらって買われるのですか。
  
「環境省へ」
  
被災地(岩手県大槌町)は、広大な土地が手付かずのままだと聞いて言います。復興が遅れているのは、本当に震災瓦礫が処理できないからですか?

具体的に、どのように瓦礫が妨げになっているのか教えてください。

「舞鶴市役所、綾部市役所へ」
  高浜町とそれぞれの市が合同で住民説明会を開き、了解を得ることを要求する


【協力のお願い】

1.目的は、あくまでも「情報収集」と「職員への教育&職員の手を止める」こと。相手が間違ったことを言っていても、反論はしないで本音を引き出す。やり取りは証拠になります、できるだけメモしたり録音して残してください。

2.対立的な関係にならないように細心の注意を払う。情報を出し渋られると困る。ただし、質問の論点のすり替えをしてくることが多いと思うので、そこは「質問したことに答えてください。」と強く言おう。

3.職員に宿題を与える。また後日電話するきっかけにもなるし、職員も調べざるを得なくなる。→事実を知る。

4.相手の言ってることはわからなかったら、わかるように説明してもらう。

5.有益にならないようなことや、こちらを意見を批判するようなことを相手が話し出したら、すっと話題を変える。

6.必ず職員の名前を聞く。メモを取る。切るときは「またかけますね!」。

7.聞いたことはMLなどでシェアする。→公開質問状の材料に。

8.相手から、「どこの情報か」「インターネットは信用できない」などと言われたら、「そういった情報もきちんと調べられたのか。原発事故で多くのウソを付いてきた国の情報が正しいとなぜ言い切れるのか。住民の不安を解消するのは、行政の義務です。調べて返事をください。」と、さらっと言う。

9.ことさら「安全論」を主張してくると思うので、「危険性を訴える専門家の声があるのだから、住民の安心と安全を守る行政として、しっかり耳をかたむけ、それが正しいのか間違いなのか調べてください。」と言う。

18/10/2012(木) 20:32:53



No.10158 飯沼  E-mail
愛は時空を超えて 93  引用
     
      ☆☆ 愛は時空を超えて 93 ☆☆
   
           ――  霊界の克との対話  ――


飯沼)おーい、くぅ。


克子)はーい、まーたん、こんにちは。


飯)八戸では、往復の列車内の時間も含めて、お前に言われた「異質なものの融合」に意識を合わせようとしていたんだけど、どうも今一歩という気がしている。
とにかく、そこに意識を合わせると、その途端に眠り込んでしまうということが続いたので・・・。

克)はい、そのようでしたね(笑)
それだけそのエネルギーが大きいということです。
急激に眠り込んでしまうのは、そのエネルギーの強さについていけなかった、共鳴できていなかったということでした。

飯)うん、自分でもそうだと思った。
6泊もしたのに、毎日毎日そういうことが続くので、「八戸まで、自分は何をしに来たのだろう?」と思うぐらいだった。
帰りは八戸から盛岡まで「いわて銀河鉄道」という名前にやられて(笑)、その私鉄に乗って盛岡まで2時間もかかって行ったけど、実際には元JRの在来線の各駅停車で、ちょっとがっかりしながら、やはりほとんど眠っていた気がする。
それでも、関西とは少し違う、どこか牧歌的な風景が嬉しかったし、石川啄木の故郷の「しぶたみ(渋民)」の駅では目が覚めていた(笑)

盛岡からの新幹線は大宮で一度目が覚めたけど、あとはまたずっと眠りこけていた。
東京からも同じような感じだったのが、名古屋あたりで急に目が覚めて、今までとは全く違う手応えというか、エネルギー的な実感が押し寄せてきたんだ。
だけど、「異質なものの融合」という巨大なエネルギーにつながりかけたという気はするが、そういうエネルギーを「獲得」したというところまでは行きついていないと思う。
その意味では、今回の八戸行きは成果が少なかったのかもしれない・・・。

克)あなたがそんなふうに思うのも無理はありませんが、こちら側から言えば、決してそうではありませんでした。
今回の八戸行きにしても、こちら側からはさまざまな意味・目的があったのです。
それら全てをあなたに伝えているわけではなく、あなたが自主的に今までの自分の枠・制約を外してくれることが必要でした。
それらに関しても、決して十分であったとは言えないにしても、それなりに「成果」はあったと受け止めています。

飯)そう言ってもらえたら、気持ちが軽くなるよ(笑)

こんなことばかり言ってないで、そろそろ皆さんに向けての「報告」に移らなければいけないね。

克)はい、そうですね(笑)

飯)そうなんだけど、言葉にすればあまりにもシンプルで、今まで霊界から伝えられ続けてきたことなので、どう表現したらいいのか・・・。

いろいろ言わずに、とにかく書いていきます。

一言で言えば、「霊主体従の信念のもと、心の力を信じ切る。疑う余地もなく」ということになる。
やっぱりうまく表現できないな。

克)言葉では表現しきれないことを前提として、思うように書いてみればよろしいのですよ。

飯)わかった。
どこからどう書いていいのか分らないが、とにかく書いてみるよ。

お前が地上にいた頃、僕らに向けての指導霊さんからのメッセージをたくさん受信していた。
たいていは非常に厳しいもので、僕もお前もいつも不十分さを指摘されていた。
まあ、何かあった時に受信することがほとんどだったから、不十分さを指摘されるのは当然ではあるのだけどね。
最近ではもう読み返すこともなくなったが、今から15年ぐらい前にお前が受信したメッセージの一節がずっと引っかかっていたんだ。

それは僕に向けてのもので、「あなたはいずれ彼の人のように、『治りなさい』という短い言葉によって多くの病人を治していくことになるのだが、その前に・・・」という一節だった。
そこから僕に対する指摘というか、アドバイスが続いていたと思う。

「彼の人」が誰を指しているのかはすぐに分ったし、あまりにも自分と掛け離れたメッセージだったので、「どうせ、現実離れした理想を伝えて、僕を刺激しているんだろう」くらいに思って、僕は真に受けていなかった。
「治りなさい」という命令形の言葉にも違和感があって、そういう言葉や思念でヒーリングをしたことはほとんどなかったが、そんなメッセージがもたらされたことはずっと記憶に残っていた。

ところがこの数年間、「無条件の祝福と感謝」というエネルギーがヒーリングのメインになり、さらに最近は「それでよろしいのです」というある種の絶対的な肯定がベースになりつつある。
それは明らかに、「治りなさい」という命令形のエネルギーとは異質であり、相反するものだ。

無条件の祝福と感謝のエネルギーに馴染めば馴染むほど、「では、あのメッセージはいったい何だったのだろう・・・?」と、改めてあのメッセージで伝えられたことが僕の意識の表面に浮き上がってきていた。

八戸からの帰りの新幹線が名古屋を過ぎた頃、眠りから覚めた途端に、なんだか全部が一気につながったように思えた。
それは筋道に沿って考えて分かったことではなく、思念の塊(かたまり)がポンと弾けたような感じだったので、言葉にするのは難しいのだが・・・。

トラブルや悩みは言うまでもないが、病も何らかの不調和が肉体・精神に表現されたものだ。
その不調和は、今生に大きな原因がある場合もあるし、過去世のカルマが深く関係している場合もある。
何が不調和・不十分さになるかは、その人の地上人生でのテーマやその人の魂の学びの段階による。
つまり、一定のレベル以上の事案においては、決して同じ基準が適用されるわけではない。

だからこそ、善良で献身的に生きてきた人でも重い病になることも珍しくないし、強欲で自分勝手な人間が健康で長寿だったりもする。
同じ言動であっても、それぞれの人の人生のテーマや学びの段階によって、「不調和・不十分さ」として査定されたり、それなりの「進歩・向上」として評価の対象になったりもする。

繰り返すが、摂理にもあらゆる段階・次元があるので、どのレベルの摂理が適用されるかは、その人の人生のテーマと学びの段階による。

そこを十分に踏まえた上で言えば、病やトラブルなどはやはりその人にとっての不調和・不十分さの表れ、あるいは(過去世の)埋め合わせであり、摂理に適ったものであるといえる。
強欲で身勝手な人間は、人から本当には愛されないと思うが、それもまた摂理の表れなのかもしれない。

「人間の生命そのものであり本質である魂は、さまざまな要素における向上進化という絶対的な喜びを軸として、永遠に生き続ける」という真理をベースにして、人間の都合や気持ちなどには関わりなく、摂理は厳然と在るのだ。
摂理に照らして不十分であれば、トラブルに巻き込まれ、悩みに苛まれ、病に苦しむことも、向上進化の過程として、まさに摂理に適ったことなのだ。
その意味では、「それでよろしいのです」ということになる。

人としての道を踏み外し、気づこうともしない者たちもいずれ自分の言動に向き合うことになり、自分の責任において埋め合わせをさせていただくことになる。
そうして少し向上進歩することができる者たちもいるのだ。
そういう者たちによって踏みにじられている人々も、全く偶然にそういう目にあわされるのではなく、カルマの埋め合わせや何らかの霊的役割を担っているからであり、いずれは必ず苦しみを超える喜びによって癒される。
もちろん、そういう状況において、自分がどう心を遣い、どういう言葉を発し、どう行動していくかも、その人の人生のテーマであり、やはり摂理によって査定されるのだ。

そして、それがどうであれ、もっと大きなスケールの摂理の中では、「それでよろしいのです」ということになるのだ。

すべては神によって生かされているのだから、「存在する生命たちに、分け隔てなく無条件に、祝福と感謝の心を向ける」ということは、そういうことなのだ。

しかし、私たち人間は、肉体をまとって地上という限定的な次元に生きる存在でもある。
地上の人間として、健やかに寿命をまっとうしたいという願いもある。
愛する者が健やかに地上に長くいてほしいという切実な願いもあるのが当然だ。
地上の別れはいつもたらされるか分らないし、いつかは必ずやってくるものだと知ってはいても、やはり地上の人間としてのどうにもならない願いがある。
あるいは、人としての過ちを重ね続ける者に対して、「真っ当な道に立ち戻ってほしい。そして本人も周囲の人たちも幸せになってほしい」と強く願うのも当たり前のことなのだ。
それを無理に否定することは、決して健やかなことではないのだと思う。

それはしかし、地上の死を否定することではなく、病を否定することでもない。
過ちを犯している者を否定することでもないのだ。
否定してしまえば、喜びではなくなってしまう。
喜びでなくなれば、摂理や霊的法則と齟齬や摩擦などの不調和が生じ、喜びの融合ができなくなってしまうのだ。
摂理とは、あまねく喜びを顕現するための法則であるのだから。
たとえ地上に限定されているとしても、まともな願いは喜びを希求するものであり、喜びの範疇に入るエネルギーだ。

つまり、地上的な願いは「それでよろしいのです」ということと矛盾せず、次元は違っていても「喜び」として融合できるのだ。

しかし、その場合でも、より大きなスケール・より高次元の摂理が「主」であり、地上の願いはあくまでも「従」で、(エネルギー的に)「霊主体従」でなければ、主従が逆転して「喜び」にはならない。
そこだけをしっかり踏まえていれば、地上的な願いを縮めることなく、むしろ目一杯に主張しなければ大きな摂理と一体化できず、「融合」にはならない。

克)はい、続けてください。

飯)もうひとつのキーは、「心の力を信じ切る」ということ。
さっき、「霊主体従」という言葉を使ったが、それとはまた別の意味でもやはり「霊主体従」なのだ。
本来的には、心が物質や肉体に作用するのであって、あくまでも心が主であるのだ。
ところが今の世は、肉体や物質に心が支配されてしまっている。
いわば、「体主霊従」になってしまっている。
それでは本来の心の力は減じられてしまい、肉体や物質に作用する力も弱まってしまう。

あるいは、摂理に反した心(意識・考え)で肉体や物質を動かしてしまっている。
これでは肉体や物質(金銭を含む)の喜びにはならない。
つまり、喜びによる「異質なものの融合」は不可能である。

心(の力)によって、肉体や金銭を含む物質次元は現実化するのだ。
心が形になるのであり、その形も心によっていかようにも変化させることができるのだ。
心が先で、物質・肉体・形・結果は後からついてくるのだ。
その意味における「霊主体従」。
より高次のエネルギーが低次の存在に対して作用・影響することは当然のことなのだ。
心のエネルギーは必ず肉体を含む物質に作用する。

今の世の常識からすれば、なかなか信じ切れないかもしれないが、疑う余地もなく信じ切ることが何よりも重要だと思う。
それは地上に縛り付けられた理性を超えた「信仰」というものになるのかもしれない。

聖書(マタイによる福音書)より、イエスの言葉を引用しておきます。
。。。。。。。

イエスは言われた。
「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに,あなたがたに告げます。
もし,からし種ほどの信仰があったら,この山に,
『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。
どんなことでも,あなたがたにできないことはありません。」
。。。。。。。。。。。。

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、
自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。
夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。

弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、 「あれは幽霊だ。」 と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

すると、ペテロが答えて言った。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
 
イエスは、
「来なさい。」と言われた。
そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、
「主よ。助けてください。」
と言った。

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。
 「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
。。。。。。。。。。。。

飯)イエスが山を動かしたという記録はないし、僕が水の上を歩けるとも思わないが(笑)、このイエスの言葉はまさに真理なのだと思う。

心こそが全てを現実化するのだ。
心が、現実を作り上げていくのだ。
これは決して荒唐無稽は話ではない。
なぜならば、霊界では思念でさまざまな物を作り出しているのだから。
もちろんそれらは地上と同じ物質ではないが、霊界は意識(心)だけがあって、他には何もない世界ではない。
霊たちもその次元における体を持ち、しかもそれは変幻自在だという。

その原理を使いこなせれば、肉体や精神の病など、心の力で治せるのが当たり前なのだ。
まずは無条件でそれを信じ切ることだ。
もちろん、病には何らかの不調和という理由があるのだから、その不調和・不十分さも含めて「治りなさい・直りなさい」と願い、命じる。
治らなければ、それはまた「全ては佳きに計らわれます。それでよろしいのです」。
こういう言い方をすれば無責任に聞こえるかもしれないが、決してそうではない。
あくまでも、ベースは「それでよろしいのです」であり、それと地上的な願いを喜びで融合させるのだ。

否定だけでなく、あらゆる不安や恐れは、喜びによる融合を阻害してしまう。
たとえ現状がどういう状態であっても、その本人はもちろんのこと、ミトコンドリアや腸内微生物などを含めて、「すべては佳きに計らわれる(それでよろしいのです)」という霊的真理・霊的信念と、「分け隔てのない、無条件の祝福と感謝」という生命共通の喜びをベースに、「治りなさい・直りなさい」という地上的願いを融合させて、そのエネルギーを注ぐのだ。

それを一言で言えば、「霊主体従の信念のもと、心の力を信じ切る。疑う余地もなく」ということになるんだけど、こういう書き方で分ってもらえるかな・・・?

克)はい、お疲れさまでした。
私はもちろん分りますが、仲間の皆さんも理解できるのではないかと思いますよ。
ただし、こういうエネルギーは頭で理解しても、実際の力にはなりにくいものです。
心のすべてで獲得していくものですからね。

飯)内容としては、これでよかったのかな?

克)はい、もちろんです。
基本中の基本ですから(笑)

あなた自身がまだそこに意識がつながったばかりですし、実際の力にしていくにはまだまだ激しくスパークさせねばなりませんが、概ねのところではエネルギー的にもテーマをクリアしています。
これからもっともっと意識の枠を広げ、意識を組み替えて、今回の旅で到達できたものにあなた自身を馴染ませていってくださいね。

必要を感じたらまた一人になって、今の気づきを熟成させ、練り直し、さらに形にしていくようにしてください。

しかし、真理とはシンプルなものです。
難しく考える必要もないのですし、難しく考えたからといって身に付くエネルギーではありません。
その意味では、霊的喜びを主として地上的喜びを融合させれば、誰にでも発することのできるエネルギーなのです。
それは今の世では大きくかけ離れてしまっていますが、元はひとつのものでした。
必ず誰もが、そのエネルギーを獲得し、使いこなせるようになるのです。
なぜならば、「霊的喜びと地上的喜びの融合、霊的真理と地上界の意識・価値観・実際の融合」こそが、今回の地上界の浄化の命題であるからです。
誰が妨害しようとも、摂理は粛々と適用され、現実化していきます。

「すべては佳きに計らわれるのですから、それでよろしいのです」と分ってはいても、やはり地上の人々の喜びの中で地上界の浄化が進捗・成就することを、霊界側も願っているのです。
あなたやさきさんや悠々塾につながる仲間の皆さんには、自分たちが担っている役割をしっかりと認識し直し、大胆に橋頭堡を築いてくださるよう、お願いいたします。

飯)分りました。
冊子の原稿書きにはまだ手がついていないけど、たぶん今回はこのエネルギーを身につけることが必要だったのだと思う。
さらに馴染ませながら、原稿も書くからね。

克)はい、あなたがしなければならないこと、したいことが山積みですからね。


飯)はい、ありがとう。
一気に書いたから、うまく書き切れていないようにも思うけど、とにかく理屈じゃなくて、(融合の)エネルギーが伝わればいいんだけどね。

克)必要があれば、また補足・修正すればよいのですよ。
あなたも疲れてきたので、今回はここまでにいたしましょう。

飯)はい、ありがとう。
(2012・10・12)

12/10/2012(金) 23:05:56


No.10160  あきどん
Re:  93  引用
メッセージありがとうございます。
一通り読んでなんかすごい内容だなあと思いました。
ちゃんとまたじっくり読み返します。

14/10/2012(日) 22:04:48

No.10161  飯沼 E-mail
Re: 愛は時空を超えて 93  引用
☆あきどんさん、みなさん

長文、読んでくださってありがとうございます。

本文中でも書いたように、これは意識の塊がポンと弾けたものを、(一つのラインからですが)ようやく言語に「翻訳」したものです。
八戸から帰ってからも数日間はなかなか言葉にして表現することができませんでした。
その割には書き始めると一気に書いてしまったので、いろいろな面で不十分なところがあると思います。

疑問に感じたところや解らないところはどうぞ質問してください。
今回の文章の不十分な部分を埋めていく参考になりますし、新たなラインを展開するきっかけになるかもしれません。

今回気づいたことは、私自身、エネルギー的には絶対的なというか圧倒的な確信があり、エネルギー的な実感もあるのです。

このエネルギーをさらに確かなものにしていくとともに、何としても皆さんと共有していきたいと願っています。

そのためにどうか、なんなりとコメントして、ご協力をよろしくお願いします。

15/10/2012(月) 00:30:17

No.10162  あきどん
Re: 愛は時空を超えて 93  引用
質問か浮かびました。

「異質なものの融合」の、異質なものとは、
1「心」と、「物質」、
とか、 
2「高次元の摂理」と、「地上的な願い」 ですか?

2に関しては、
例えば、地上的に苦しんでいる人がいても、「それは摂理ゆえだから、ほっておいたらいいのだ」
と、スピリチュアルな知識をかじった人が言う人がいますが、
それは違うでしょうと違和感を持ちつつも、私は、そう言う人に、それはなぜなのか
上手く反論、説明できずにいました。
今も、上手くできないかもです。


>しかし、その場合でも、より大きなスケール・より高次元の摂理が「主」であり、地上の願いはあくまでも「従」で、(エネルギー的に)「霊主体従」でな>ければ、主従が逆転して「喜び」にはならない。
>そこだけをしっかり踏まえていれば、地上的な願いを縮めることなく、むしろ目一杯に主張しなければ大きな摂理と一体化できず、「融合」にはならない。

の、「むしろ目一杯に主張しなければ大きな摂理と一体化できず、「融合」にはならない。」
のは、なぜですか。
目一杯でないと喜びにならないからですか。

摂理は喜び、地上的な願いも喜び、
同じ喜びなら融合できるということですか?

16/10/2012(火) 10:38:42

No.10166  飯沼 E-mail
Re: 愛は時空を超えて 93  引用
はい。
今、テーマにしているのはそういうところだと思います。

神は無限のひとつの全き全体です。
次元が下がるにつれて、そこからあらゆるものがひとつではいられなくなり(分化せざるを得なくなり)、神という全き全体に内包されながら、さまざまに分化していくのだと思います。
分化の初期においては、(分化したもの同士に)類似性や共通性があるのでしょうが、究極近くまで分化していけば、「異質」なものとして認識するしかないまでになっていくのでしょう。

適当な喩(たとえ)かどうかは分かりませんが、地上の人間が誰かに抱く愛情というものも、それが祝福されない状況(←次元が下がるとはそういうことです)におかれた時に、元の愛情はさまざまに変化(分化)していき、究極近くにまで至れば、愛情とは異質な「憎悪」にまで変質してしまう場合があります。
(やはり喩が適切ではなかったように思いますが、イメージ的には参考になるかもしれないので消さないでおきます。)

心・意識と物質・金銭・肉体は、今の地上界では、まるで異質なもののように認識されています。
しかし、地上界が創造された目的は、「物質界という次元の世界を、神の御心に適った調和と喜びの世界にするため」です。
人間はそういう役割を担って、肉体をまとってこの地上に存在しているのです。

「高次元の摂理」と「地上的な願い」も元々は同じであったはずです。
地上界が創造された目的は、「物質界という次元の世界を、神の御心に適った調和と喜びの世界にするため」ですから、本来は同じであるのが当然なのです。
しかし、地上の人間が抱く様々なかげりによって、地上的な願いと摂理はいたるところで大きくかけ離れてしまっています。
私は、物質もその次元の意識を持って、進化の過程にあるのだと考えています。

なぜならば、生命であれ物質であれ、あらゆるものは神という全き全体の中に包摂されているからです。
その意味では、私たち人間の概念の「生命」ではありませんが、物質にも生命(意識)が宿っているのだと思っています。

そして、神の御心とは、一言で言えば「進化の喜び」なのだと思うのです。
地上に存在する生命体や物質が、何らかの意味でつながりながら健やかに進化していくことが、神の御心であると思います。
「いのちはひとつらなり」とはそういうことであるように思うのです。

神の御心に反する意識(エネルギー)を注がれる物質・金銭・肉体は、健やかな状態ではありません。
しかし、未熟さや過ちや停滞や退行を含めて、それもまた進化の一過程として全き神に包摂されているのです。
何がどういう状態であっても、全ては神の愛と祝福に包まれているのです。
つまり、神の側から言えば、地上のありようがどうであれ、地上の人間の状態がどうであれ、神の側からは全てと喜びの共鳴がなされているはずです。
「神は全き調和、神は完全」ということはそういうことのはずです。

しかし、地上の人間の側からはそうはいきません。
その次元の摂理に反したエネルギー(思念・言動)は、自らの不調和となり、病やトラブル・悩みとして表れてくるのです。
なぜそうなるかと言えば、神は「全ては進化の過程であり、人間のどんな病や苦しみも(その人の魂の)進化向上の一場面であり、やがては必ず喜びに変わる」ということを知っているのですが、限定的な意識しか持てない地上の人間はそうは思えない、それを知らないからです。

なので、神の御心である摂理を一方のベースにしながら、もう一方ではそれと共鳴できるエネルギーに変換した「地上的な願い」を共鳴・融合させることはできるのです。
病を例にとれば、「健やかに地上を生きる」というエネルギーであれば、共鳴・融合できるのです。
しかし、地上的な死を恐れたり、不安に思ったり、病の状態を否定したり、嘆いたり、先行きに怖れや不安を募らせていては、共鳴・融合の妨げになってしまいます。
それは病だけでなく、あらゆる状態にも言えることです。

金銭・物質に対しても同じです。
金銭や物質が不足していること、不足するかもしれないことに対して、怖れや不安を抱くのではなく、今与えられているものを喜び、金銭や物質が喜んでくれるような使い方をすればよいのです。
金銭や物質にも、その次元における意識・エネルギーがあるのですから、それと喜びを共鳴させ、喜びによって大きく融合すればよいのです。

何が彼らの喜びになるかは言うまでもなく、地上の不調和・格差を助長するために使われることは、金銭や物質にとっての喜びであるはずがありません。
もちろん、彼らと大きく共鳴・融合するには、私たち自身が金銭や物質を喜んでいくことが大前提です。

金銭や物質を否定したり、無関心であったり、あるいは喜びを縮めていたのでは、喜びの共鳴にはならず、大きく融合することなどできません。
(それは、たとえば自分の子供だけを大事にするのは親のエゴですが、自分の子供を大事にしないことも愚かなことであるのと同じです。)

どういう状態であれ、今生かされていることを喜ぶことで、より高次元のエネルギーと共鳴でき、より高次元のエネルギーがふんだんに注ぎ込まれ、実際に作用して、状況が喜びに変えられていくのです。
それは病でも同じですし、金銭・物質・悩み・トラブルにおいても同じです。

心・意識のエネルギーは、肉体や物質よりも高次元のものですから、両者が喜びで共鳴し、大きく融合すれば、心・意識が肉体や物質に作用するのです。
実際に作用しないはずがないのです。

>そこだけをしっかり踏まえていれば、地上的な願いを縮めることなく、むしろ目一杯に主張しなければ大きな摂理と一体化できず、「融合」にはならない。<
と書いたのはそういう意味です。

しかし、今の段階で地上の人々が上述したようなことに、実際に意識を切り替えていくのはまだまだ難しいでしょう。
死を恐れ、不安に思い、病を嘆き、悩みやトラブルに苛まれてしまうことが普通です。
だからこそ、これらの原理を理解し、その意識・エネルギーを身につけたヒーラーが必要なのです。
疑念が入り込む余地もなく信じ切り、揺るぎない、いわば信仰的信念を持てば、その人の心・意識のエネルギーは、必ず強烈に作用するはずです。
そうなれば地上のありようは根本から変わり、それこそが地上人類の進化でもあるのです。

人や動物や微生物・ミトコンドリアなどの生命にも、物質や金銭や肉体にも、「存在している全てのものに対する、分け隔てのない、無条件の祝福と感謝のエネルギー」をベースにしながら、「治りなさい・直りなさい」という強いエネルギーで、健やかな喜びへの道を開いてあげるのです。
歪みきった今の社会の対する関わり方も同じだと私は思っていますが、それは世の中を少しでも良くしていこうというさまざまな活動と何ら齟齬を生じるものではありません。

とは言え、もちろん何の作用も及ぼさなかったとしか思えないこともあるはずですが、それは「それでよろしいのです」。
どんなヒーラーであっても、地上の人間に適用される摂理の全てを適えることはできないのです。
注いだエネルギーがいつ喜びとして表れるかは、人間には分りません。
しかし、注いだエネルギーが無駄になることは絶対になく、いつかは必ず喜びとして表れるのですから、まさに「それでよろしいのです」。

>例えば、地上的に苦しんでいる人がいても、「それは摂理ゆえだから、ほっておいたらいいのだ」
と、スピリチュアルな知識をかじった人が言う人がいますが、
それは違うでしょうと違和感を持ちつつも、私は、そう言う人に、それはなぜなのか
上手く反論、説明できずにいました。<

これについては、また改めて書きますが、この掲示板の読者の皆さんへの宿題にしたいと思います。
できれば、今回の「愛は時空を超えて」や、私のこのコメントへの感想・意見。疑問点などと一緒に、考えを書いてくださいね。
。。。。。。。。。。

あ、入道さんの質問への回答は、この場ではちょっとできかねるので、ご容赦、ご理解願います。

17/10/2012(水) 14:49:12

No.10167  あきどん
Re: 愛は時空を超えて 93  引用
お返事ありがとうございます。
質問を書いたあと、実は最後の質問には自問自答して、自分なりに次のように思っていました^^;
いつか心でもエネルギーが感じられるといいなと思います。


もし、摂理だからと、困った人を助けもせずに、ただ起こるにまかせるとする。
それでも、人類にはいくらかの学びはあるでしょう。
でも、学びが進んだら人は自然と行動にうつるよね。
ならば、ほっとけばいいと言った人はその程度の学びしかまだない人ということになる。
だから、地上的に願ったり、行動に移したことそのものは、摂理に叶うことだ。
何の矛盾もない。
だから、摂理と地上的な願いは矛盾しない。同じものでもあるかもしれない。
その願いがまっとうで曇りのないものであれば(もちろん、不安や恐れ、不信がないものがいい)

17/10/2012(水) 16:05:30

No.10168  san
Re: 愛は時空を超えて 93  引用
やはり摂理とは極めてシンプルなもので
その各魂の学びの過程ですべてがもたらされているわけで
それを否定しないで素直に喜べば良いということ、ただそれだけ。
何故ならば魂は進化することを喜びとしている。
その度々に喜びというエネルギーを発するそれだけ
未来のことをとやかくいうのではなく今この瞬間を楽しむこと
喜びとして捉えることそれをずっと保ち続けることが未来になる。
いやもはやそのしてきたことは既に過去のことになっている。
永遠という名の今がずっと続いているだけにすぎない。
なのだから今この瞬間を目一杯喜べばいい、何故未来を恐れる必要があるのだ?今この瞬間恐れを発しているからその未来も恐れに変わるんだ。今というこの瞬間自分たちが放つエネルギーがどんどん積み重なって振り返れば過去というしてきたものが出来上がっているに過ぎないんだ。ホントはある意味「未来」っていう表現はない「今」が永遠に続いているだけにすぎない。そんなに未来を恐れるなら今を恐れないで喜びに変えれば済む話ってことですね。
すべては単純、「何して生きたいの?」それだけである。
これが究極の真実だと思っています。
ほっとけばいいという話については色々な解釈ができますね。
辛い境遇にあわれている、それがもし過去にその人が出した波動によりカルマの浄化として帰ってきたのであればそれは絶対その人に潜ってもらわないと困ります。何故ならその人が素直に浄化を受け止めないとその悪いエネルギーはまた宇宙を彷徨うことになる
そしてそれらが宇宙のすべての存在に悪い影響を及ぼしかねない
エネルギーは波動として感じ取ってしまうためすべての宇宙の者たちが悲しみのエネルギーなら悲しみを感じ取ってしまう。
だから必ずいつかそれを解消してもらわないといけないそれが魂の義務であり責任である。出したエネルギーは戻ってくるこれも摂理の基本だと思われます。大事なのは自分がその悪いエネルギーに影響を受け波動を低くしない、絶対なる安心、信頼を摂理にいつも置いていくことが非常に重要。カルマが残っているうちはまだ宇宙の魂の存在としては未熟、カルマを0にして自分が魂でありすべてから愛された存在だと認識できてそれを喜びとして表現された時が真の姿であり、あくまでそれが宇宙の一員としての基本なんだと思っています。そこまでこれてからやっと永遠の喜びを噛み締める本番であろう、目の前で倒れている人を見て手を貸した時その人は愛に満ちています。魂には色々と個性や能力が各々で違うでしょうし、それは能力に差があるのではなく一人ひとり役割が違うからそういう分担がされているだけにすぎない。競争とはそれらに差があるかのように見せて互いに競い合うそして優越感、劣等感を生んでしまう。自分の魂の感覚を信じてそういう低い波動に騙されないように注意しながら魂のほんとうの姿になっていくことが一人ひとりに求められているのだと思います。だから他人はサポート、気づきしか与えられません。それを現実にするのは自分たち一人ひとりであるのですからね。別に反論できなくてもいいのです。
その人達はいつか気づく日が来るんだからその人と魂に目覚めた人たちは波動が大きく違うので調和しませんし、いつしかその波動にあった場所にお互い分けられるかもしれません。それもまた進化の過程にしか過ぎないのです。もしそうなったとしても別にその波動の低い人達をかわいそうに思ったり人としておかしいと非難する必要もありません。彼らの生き方を尊重することも大事です。彼らに気を寄せているということはその悪い波動に影響を受けているという事に他ならない。すべてを喜びとして捉えるとはすべてを尊重し愛ある行動、意識をすることだなと俺なりに感じています。

17/10/2012(水) 19:22:37

No.10169  あきどん
Re: 愛は時空を超えて 93  引用
>ならば、ほっとけばいいと言った人はその程度の学びしかまだない人ということになる。

記入したあと自分でも傲慢な記入したなとは思いました。(独り言をそのまま記載して、しまった(><))
ここの1行は不要でしたね。
削除してください〜(頭の中で)

>彼らに気を寄せているということはその悪い波動に影響を受けているという事に他ならない。

そうですね。
私は、未熟者なので、それは違うでしょうと感じることにたいしては腹を立てますし、反論したいですね^^
気にならないようにはまだなれないですね。
実はこんな人が身内にいたりするので、よけい気になったかな。
でも、言いたいことを言わないことも多いので(そっちの方も多いかもな)、それも、かげりになると思う。
この人には、そのうち、直接対決で問答したいです。この人の真意もわかるかもしれないしね。
(でも、時々反発する身内がいることで色々、一緒に成長したり考える機会にもなり良かったとも思うのでした)

17/10/2012(水) 21:41:38

No.10171  きんもくせい
Re: 愛は時空を超えて 93  引用
>例えば、地上的に苦しんでいる人がいても、「それは摂理ゆえだから、ほっておいたらいいのだ」
と、スピリチュアルな知識をかじった人が言う人がいますが、
それは違うでしょうと違和感を持ちつつも、私は、そう言う人に、それはなぜなのか
上手く反論、説明できずにいました。<

絶対に揺るぎない摂理があって、だけど地上に生きている自分の気持ちとして苦しんでいる人をほおっておけない。
人として優しく正しく皆も自分も幸せでありたい。皆が調和の中で喜びを感じて暮らしてほしい。と願う。
その気持ちには何の曇りもなくてその気持ちに揺るぎないものがあるからこそ、ただそう思うだけ。願うだけ。
今、病にある人、不調和の中でもがいている人、全ての人にあらかじめ自らの意志で決めてきたカルマの解消のための今の地上人生があったとしても、
その人たちの苦しみをその人たちに関わる者として無視することはできない。
自分にできる物心両面で関わりたいと思う。

>何がどういう状態であっても、全ては神の愛と祝福に包まれているのです。

それならば尚更ですよね。

>適当な喩(たとえ)かどうかは分かりませんが、地上の人間が誰かに抱く愛情というものも、それが祝福されない状況(←次元が下がるとはそういうことです)におかれた時に、元の愛情はさまざまに変化(分化)していき、究極近くにまで至れば、愛情とは異質な「憎悪」にまで変質してしまう場合があります。
(やはり喩が適切ではなかったように思いますが、イメージ的には参考になるかもしれないので消さないでおきます。)

自分にも心当たりがあり、でも、やはり「憎悪」は愛情に変えたいのです。

難しいことはわかりませんが、今日、ある人と話していて思ったことをコメントさせていただきます。

17/10/2012(水) 23:41:06


No.10159 にぃ&ちぃ  E-mail
お誘い 引用
皆さん、こんにちは。
突然ですが、奈良県桜井市にある大神神社のご神体である三輪山に登ってみませんか?
ご参加下さる方は右上のメールマークもしくは『ちぃ』までご連絡下さい。
ご参加お待ちしています♪


【日程】
11月3日(土) 雨天中止

【集合場所・時間】
(1)我が家の車に乗って行って下さる方
JR尼崎駅・南出口ロータリーに10時集合

(2)現地集合される方
大神神社ニの鳥居前に11時30分集合
( ニの鳥居 → ttp://www.oomiwa.or.jp/frame/f03.html )
☆JR三輪駅より徒歩5分
☆近鉄・JR桜井駅(くっついてます)からはニの鳥居前までシャトルバスが出ています。
  桜井駅北口2番のりば11時05分発に乗車されて下さい。(所要時間20分)

【1日の流れ】
大神神社で集合後、昼食。(三輪そうめん)

大神神社の拝殿と狭井神社を参拝し、ご神水をいただきます。

標高476mのご神体である三輪山を登り、頂上で共鳴。
所要時間は約3時間。

近くの喫茶店で休憩、現地集合の方と解散(5時頃)

JR尼崎駅で解散、お時間のお許しになる方と近くの居酒屋へ。

☆動きやすい服装でいらして下さい☆


よろしくお願いします♪

14/10/2012(日) 15:24:04


No.10164  飯沼 E-mail
Re: お誘い 引用
参加します!

にぃ&ちぃさん、またまたお世話をかけますがよろしくお願いします。

三輪山は三輪神社のご神体で、神武さんが征服した大和の拠点だったのでしょう。
高島合宿のエネルギー的仕上げになるのかもしれませんね。

しかし、往復3時間の山道ですか・・・。

16/10/2012(火) 21:15:07

No.10165  ちぃ E-mail
Re: お誘い 引用
ヌマ、ありがとうございます!
よろしくお願いします。
車はまだ空きがありますので、悩まれている方は是非☆

>しかし、往復3時間の山道ですか・・・。
私たちが以前登拝した際は、ゆっくり登って、頂上で休憩をして往復2時間半でした。
(HPでは所要時間2時間となっていました)
階段状の山道で最後が急な斜面でワォ!!ですが、ご高齢の方々も登っておられて、運動不足の私でも筋肉痛にはなりませんでした^^

合宿のエネルギー的仕上げですか!
お天気に恵まれますように☆

16/10/2012(火) 22:33:18


No.10163 入道  
飯沼さん 教えて下さい。 引用
・克子さんの私へのメッセージ
 あの世とこの世を結び真実を伝える。
・自問自答すると…つぶやいた
 天空に目覚めよ、引く手もおじゃり、地を定めよ。益々わからん?
・自身の肉体のエネルギーは、意識すれば体から冷たい風のようなものが出
 ている等は自覚できる。
・最近ベランダに出るとヤマガラが8匹私の体に止まって遊ぶので攻撃的な
 エネルギーは少なくなったような気がする。
・頭では理解できるがエネルギー的な実感がない。どうしたら実感できます
 か?意識の塊がボンと弾けた。新たなラインの展開。無条件の愛。感謝。
 異質なものの融合。喜びの原点…

16/10/2012(火) 11:50:05



No.10152 しのしの  
姉のこと 引用
こんにちは。

仕事があまり忙しくないので、久しぶりに書きます。
(仕事中なので、短い文章ですみません。)
毎朝起きてすぐに、無条件の感謝の祝福のエネルギーを送るときに、姉にもエネルギーを送っていました。なかなか実感が得られなかったのですが、それでも毎朝送っていました。
私の言うことをなかなか聞いてもらえず、飯沼さんにカウンセリングをお願いしても、勝手にお金が目的だとくってかかられたりしました。
年月を経て本人もいろいろと考えることがったのでしょう。
先日、浄土真宗の女性の僧侶の方の法話に誘いました。
私はその方に、前もって姉のことを話していました。その方は快く姉に優しく接していただきました。その方が、姉に、私達の思いを伝えていただきました。
その後、毎日のようにかかっていた、怒りの電話がパタッとなくなりました。毎日のように怒りの声で電話がかかってきていたので、家族全員電話のベルが鳴ると、嫌な感じがするようになっていました。
やっと家族の姉への思いが通じたような感じがして、うれしかったです。これからも毎日姉にエネルギーを送っていきたいと思っています。

11/10/2012(木) 13:05:14


No.10153  飯沼 E-mail
Re: 姉のこと 引用
☆しのしのさん

お姉さんのこと、よかったですね!

>私の言うことをなかなか聞いてもらえず、飯沼さんにカウンセリングをお願いしても、勝手にお金が目的だとくってかかられたりしました。

そういえば何年も前に、直接ヒーリング・カウンセリングを受けるかどうかで、いろいろあったようでしたね。
結局はそういう理由で、お姉さんが拒否なさったので、私はお姉さんとはお会いしたことがないのですが。

あらゆることには「時期・時機」があるようです。
それは単に「期間」ということだけではなく、「内容としての状態」ということです。

我が身に降りかかってくることは、今生では何の覚えもないとしても、過去世をたどれば必ず原因・理由があるのです。
カルマとはそういうことです。

昨年でしたっけ、しのしのさんには全く何の落ち度も責任もないのに、ご家族のために多大なる負担を引き受けたことがありましたね。
しかも、そのことでしのしのさんは心をかげらせることなく、「こんな話、笑うしかない」と言いながらで、気持ちを引きずることもなくお姉さんの責任を肩代わりして、とても爽やかでした。

私はあの時に、しのしのさんの大きなカルマが解消されたのだと思いました。
それまでの期間は、心爽やかに多大なる負担を引き受けるための長い準備期間だったのだと思います。
そういう準備が整ったからこその、今回の嬉しい展開がもたらされたのです。

もちろん、カルマは一つだけではありませんから、これで全部OKかどうかは分かりませんが、大きなところは解消できたのではないかと思います。
しのしのさんは、個人的なところだけでなく、社会的なところでも貢献し、そこにも喜びを感じ始めているのですから、とてもいい流れに入っていると思います。

11/10/2012(木) 14:32:48

No.10157  しのしの
Re: 姉のこと 引用
飯沼さん、コメントありがとうございます。

9月に久しぶりに姉の顔を見たのですが、いろいろと悩みを抱えているにもかかわらず、顔が優しくなっていたので、びっくりしました。以前は般若のような顔をしていましたから・・・。     3日前に家に電話が掛かってきましたが、声が優しくなっていて、穏やかな感じに変わっていました。
姉も色々と問題を抱えていますが、それにもかかわらず良い様に変化があって、本当にうれしいです。

12/10/2012(金) 21:45:31


No.10154 飯沼  E-mail
中下大樹和尚が、福島で生で聞いた「福島で必死に生きる人々の生の声」をツイートしたというその内容がスゴイと話題 引用
◆ブログ「日々雑感」より転載します

ttp://hibi-zakkan.net/archives/18833049.html
。。。。。。。。。

中下大樹のブログ より転載
ttp://ameblo.jp/inochi-forum/entry-11371009393.html

〜ココから転載〜

反響の大きかったものを、ブログにも転載します。

ご興味のある方は、是非、ご覧ください。

-------------------------------------------------

福島市の仮設・80代の女性「除染なんて、私達が若いころ(戦時中)、強制的に竹やりを持たされて鬼畜米兵と言わされていたのと本質的には同じ。小手先だけの対応で、何の意味もないことは皆、分かっている。でもそれを声に出すと、非難される。同調圧力だよ」

----------------------------------------------------

南相馬市60代男性「自宅一軒、竹中工務店に560万円で除染を依頼し、現場の下請けはピンハネされまくって、70万円で作業をする。末端の作業員は日当約8千円。除染が終了したら仕事がなくなるから、皆、いい加減な仕事しかしない。それで雇用が確保され、経済が回る。それが除染ビジネスの実態」

----------------------------------------------------

いわき市仮設60代男性「原発で30年働いてきた。でも今は被曝して働けない体。人は目の前の現実が辛いと、現実逃避するんだ。将来の事なんて、意図的に考えないようにしている。酒を飲んでカラオケを歌って気晴らしをするけど、いい年したオヤジが何やっているんだろう?と思って、情けなくなる」

------------------------------------------------------

いわき市仮設60代男性「どうしたら原発が止められるかって?そんなこと簡単だ。もう一回どっかの原発が爆発して土地が汚染され、人が住めなくならないと原発を止めることは無理じゃないのか?アメリカ・財界・官僚が政治家に圧力をかけている構造も問題だがな」

--------------------------------------------------------

大熊出身・福島の仮設入っている70代Aさんが言う「冬に出稼ぎに行かずに、安定した暮らしを得る為、子供や孫と同じ場所でずっと暮らすために、俺たちは原発を受け入れた。豊かな暮らし、安定成長を求めて原発を受け入れた。そしてそこで俺はずっと働いてきた。それがこんな事になるなんて・・・・」

---------------------------------------------------------

いわき市仮設70代男性「被災者と言っても、状況は皆、違う。家族が死んだ・家族が生きている人、仕事を失った人・仕事がある人、家を流された人・家がある人、帰る場所がある人・帰る場所がない人、カネがある人・カネがない人・・。確かな事は、震災前からあった格差が今、露呈しているという事」

---------------------------------------------------------

南相馬市50代女性「私は最近、放射能より、人間の方が怖いと思う時がたくさんあります。ここ福島では、放射能の話をするだけで、圧力がかかる雰囲気が一部に蔓延しています。命がけで、放射能の問題を意図的に考えないようにしている人がいっぱいいる。一種の思考停止状態。それは自分を守るため?」

---------------------------------------------------------

福島の仮設・70代男性「原発でずっと働いてきた。しかし、危険な仕事は下請けに回していた。山谷や釜ヶ崎のような寄せ場から労働者が連れてこられていることを、俺達は知っていながら、見て見ぬふりをしていた。事故が起こった今、改めて考えると、俺も東電と一緒で、加害者なのかもしれない」

----------------------------------------------------------

福島・中通り60代男性「ラジオを聞いてひっくり返ったよ。放射能に負けない子供になろう!って福島県教育委員会がラジオで呼びかけているんだもの。中通りの住民は、被害者という意識が薄い。だから教育委員会は、県外に避難した人を非難するんだ。もうマスクをしている人も、ほとんどいないよ」

------------------------------------------------------------

南相馬市・20代女性「今まで原発の勉強とかしたことない。でも、東電の下請け会社で働いている旦那が被曝して、入院してから、やっと目が覚めた。311以降<誰かが何とかしてくれるだろう・安全だ>と、放射能を浴びまくっても他人事のように考えていた。無関心は身を滅ぼすことにやっと気がついた」

------------------------------------------------------------

いわき市仮設・40代女性「仮設で中高年の男性のCENSOREDが起きた。明日は我が身・・・。でも、生きていればいいことがあるなんて、口が裂けても子供達には言えない。明るい未来なんて、ここ福島では絶対にありえない。普通に生きて、当たり前に暮らせることが、こんなにも難しいことなんて思わなかった」

-----------------------------------------------------------

南相馬市・20代女性「友達の女の子が中絶をしたという話を聞くたびに、私も子供はムリって思ってしまう。旦那や姑は子供が欲しいみたいだけど、もう福島では子供を育てられない。線量計で自宅周辺を図ると、ビックリするよ。子供を産んでも、どうせ外で遊ばせられないから、子供も可哀想だよね」

------------------------------------------------------------

南相馬市・20代女性「原発事故以来、国・政治・東電は最悪と、ずっと他者を批判してきた。でも良く考えてみると、私は選挙に一度も行った事はないし、新聞も読まないし、テレビはお笑いだけしか見ないし。原発近くに住んでいながら原発の事なんて全く知ろうとも思わなかった。今思うと恥ずかしい」

------------------------------------------------------------

(大熊出身)会津若松仮設住宅・60代男性「さあ考えてみて。仕事もカネも産業も何もないただの田舎町が、原発を誘致することによって、莫大な恩恵が手に入るんだよ。目の前にニンジンをぶら下げられて、それを断れる人がどれだけいると思う?カネで動かない人間もいると思うけど、全体の中の一握りだろ」

------------------------------------------------------------

福島の仮設住宅・50代男性「仙台に行った。全国から建築関係者が集まり、復興バブルのような状態になっている。儲かってしょうがないって飲み屋で言っている経営者のような人がいたけど、心ではそう思っていても、言葉に出してほしくないね。だって、ここ東北では相当な数の人間が死んでいるんだよ。」

--------------------------------------------------------------

福島の仮設・50代男性「知人の男性が2名、ここ数カ月でCENSOREDしたよ。男は仕事や家族を失うと、本当に弱い。今まで名刺の肩書きだけで勝負してきたのに、311を機にゼロになってしまった。俺も今は無職。仮設の集会所でサロンとかをやっているけど、大の男が一人で参加できると思うか?」

------------------------------------------------------------

福島の仮設・20代女性「子どもがいるので被ばくについて勉強したいと思い、県内の講演会等に行くようにしている。しかし偉い先生の講演会は、「放射線量はほとんどゼロ」「内部被ばくなどない」「福島は大丈夫」ばかり。正確な情報が、手に入らない。それを声に出すと、さらに非難される」

------------------------------------------------------------

(大熊出身)会津の仮設・60代男性「もう覚悟はできている。瓦礫の処分場は、原発周辺の地域にするしかないだろ。だって、もう人が住めないんだから。除染なんかする金があるんだったら、原発周辺の土地を買い上げて、そこに瓦礫処分場を作ったらいい。地元住民は、誰も大熊に帰れると思っていないもの」

------------------------------------------------------------

南相馬市・50代男性「東電や国のやり方は最低だ。人を人とも思っていない。でも、俺も今までずっと東電にぶら下がり、国に依存して生きてきた。一番悪いのは、俺の主体性のない生き方だ。思考停止に陥り、今さえ良ければいい、自分さえ儲かればそれでいいと、臭いものには蓋をしてずっと生きてきた」

------------------------------------------------------------

福島の仮設・70代男性「若い世代にとっては、福島から逃げるのが一番の選択肢じゃないか?未来のある若者には、是非逃げてほしい。しかし、俺達のような年寄りは、今更逃げてもねぇ。生まれ育った故郷で死ぬまで暮らしたい。でも、それは自分で決めたこと。どうなっても覚悟を決めているよ」 


ttp://ameblo.jp/inochi-forum/ 

中下大樹さんTwitter
ttps://twitter.com/nakashitadaiki

12/10/2012(金) 10:30:42


No.10155  みんと
Re: 中下大樹和尚が、福島で生で聞いた「福島で必死に生きる人々の生の声」をツイートしたというその内容がスゴイと話題 引用
ほんとに言葉にならないというか・・・

・放射能に負けない子供になろう
・放射能より人が怖い
・もう一回他の原発が爆発しないと原発を止めることは無理
・正確な情報が入らないことを声に出すと更に非難される
・未来ある若者には是非にげてほしい

人への不信感、恐れ、あきらめ、そして後悔、

壮絶すぎてコメントできないです。

12/10/2012(金) 13:18:19

No.10156  飯沼 E-mail
Re: 中下大樹和尚が、福島で生で聞いた「福島で必死に生きる人々の生の声」をツイートしたというその内容がスゴイと話題 引用
★朝日新聞 福島版 「みつばち」欄より転載します

◆自主避難への理解

2012年10月10日

「こういう人たちが、県外で風評被害をまき散らしているんです」

県総合計画の見直しで、県が各地で開いている地域懇談会で出た発言だ。総合計画審議会委員の一人が、母子だけで自主避難している人についてそう言い放った。

「経済的にも余裕がある人たちです」「正しい知識をもってもらいたい」

二重生活の出費に耐えられる、という点では「余裕がある」かもしれない。だが、取材した限り、出費を切り詰め、ギリギリの生活を続けている家庭が大半だ。前向きに新天地で暮らす人たちがいる半面、「風評被害をまき散らす」どころか、いじめや嫌がらせを恐れ、「福島から来た」とも言えず、身を隠すように暮らし、福島を思って涙する。そんな人も多い。

県総合計画は来年度から8年間、復興計画も含めて県の施策の指針となる。この委員がどの程度、見直しにかかわるか知らないが、県は人選をもう少し考えた方がいい。(西村隆次)

ttp://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000131210090001

12/10/2012(金) 13:23:33


No.10149 にぃ  E-mail
関東定例会 引用
もう少しで関東定例会ですね!参加させて頂きます。
と言うことで、関西方面から参加してみたいという方がいましたら
先着2名様、車に空きが有ります。もしよかったらご連絡下さい!

あきらさん・ひとみさん又、お世話になります。

09/10/2012(火) 07:51:09


No.10150  あきら&ひとみ
Re: 関東定例会 引用
にぃさん、関東定例会のお誘いの呼びかけありがとうございます!
そして、遠くからきてくださるということでとても嬉しいです。
是非是非参加してください!
宜しくお願いします!

09/10/2012(火) 22:31:37

No.10151  飯沼 E-mail
Re: 関東定例会 引用
関東定例会、もうすぐですね。
あきら&ひとみさん、にぃ&ちぃさん、お世話になります。

7日に篠山に戻っています。

「異質なものの融合」、帰りの新幹線が名古屋を過ぎたあたりで急に、意味も分かり、エネルギー的にも実感があったのですが、まだ核心でスパークしてはいなくて、核心部の周囲をうろうろという感じでもどかしいです。

是川遺跡の土器のこと、考えを書いてくれた皆さん、ありがとうございます。
この列島では縄文時代といわれる時代が1万年以上も続き、戦乱の痕跡はなく、おそらくは分かちあうことを当たり前とし、与えあうことを喜びとしていたのではないかと思います。

今とはあまりにも価値観が掛け離れているので、なかなか想像できないかもしれませんが、用途不明の土器のことを考えるなどして、今の時代の価値観に縛りつけられている自分の意識を解き放つ機会にしてほしいと思いました。

もちろん私にもあのような土器の用途は分かりませんが、皆さんの書き込み、いろいろと参考になりました。
土佐の杯はとっても面白い発想のつながりのように思います。

「不完全な自分たち」という認識があのような土器にまで及んでいるとは考えにくいのですが、それを土偶にあてはめると土偶の謎が解けるような気がします。
これはまたの機会に書きたいと思います。

縄文という時代は実に不思議なことがいくつもあります。
例えば、東京都北区の中里貝塚は、主にカキとハマグリの殻が交互に積み上げられているそうです。(縄文時代はあの辺りが海岸線だったのですね)
交互に積み上げられているのはカキとハマグリの旬が違うからですが、中里貝塚は全長1キロメートルにもおよび、幅は40メートル、積み上げられた貝殻の高さが数メートルもある、驚異的な貝塚です。
その膨大さを想像してみてください!

「縄文の水産加工場」といわれているように、浅く広い穴を掘って、そこにカキ・ハマグリを入れたところに焼き石を入れて、蒸し焼きにし、乾燥して保存食にしていたようです。
もちろん、周囲の集落で消費できる量ではなく、「交易(物々交換)に使われていた」といわれていますが、私は「喜ばれるから乾燥ハマグリや乾燥カキをせっせと作って、与えていたのではないか?」と考えています。
交易に使っていたとすれば、とてつもなく大量のカキやハマグリに見合うだけの交換物が、中里貝塚の周囲の縄文遺跡から見つかっていないからです。

まあ、これもまたいずれ。

ところで、縄文時代には日本列島に馬はいなかったとされています。
馬は弥生時代になってから、モンゴル系の馬が渡来人によって持ち込まれたようです。

10/10/2012(水) 21:09:07


No.10148 まゆみ  
新しい喜びの地上界へ 引用
新しい喜びの地上界へ

8日です。

生命系について考え行動すること、
ゆったりと時間が流れただろう縄文時代に心を沿わせてみること、
それは新しい喜びの地上界につながるものだと思います。
「無条件の感謝と祝福のエネルギー」を注ぎ合う、
日常にこのエネルギーが溢れているのでしょうね。

これからも「新しい喜びの地上界へ」向けて、みなさんとエネルギーを共鳴させたいと思います。
みなさんよろしくお願いいたします。



福島原発、土、海、地球上の全ての生命に「無条件の感謝と祝福のエネルギー」と謝罪のエネルギーを。


今病気の中で苦しんでおられる方に、健やかな回復を願ってエネルギーを送りつづけたいと思います。

みなさんよろしくお願いいたします。

    * * *

共鳴させるエネルギー
「不調和から調和へ」

・この人の病が治りますように(全ての人の病が治りますように)
・この人の魂の意志が精神・肉体にまで行き渡りますように
・自らのかげりや闇を光に変えていこう
・自らの魂の意志が、精神・言動にまで行き渡りますように
・全ての人が魂の意志に従って生きられますように


      * * *

『 私たちひとりひとりは、この地上界を変えていこうと意志します。

それは自分の心の闇に光を通すことです。

目の前の人に手を差しのべることです。

遠く離れた人に祈りの心を向けることです。


この地上にある一切の「偏り・不調和」が一掃されることを願います。

そのために、ひとりひとりが今、自分にできることをしていきます。

人として正しく、人として優しく生きます。

自分も人も、皆が幸せになるように、

私たちひとりひとりが霊力の通路となります。 』



『 神の前に進み出で

 深く頭(こうべ)を垂れ 聖なる杯を受けなさい

 いついかなる時も 神の懐深く抱かれていることを
 
堅く堅く信じなさい

 それが不動の柱(霊力の通路)となる 』

      *




08/10/2012(月) 15:44:48



No.10135 飯沼  E-mail
八戸から 引用
10月1日に八戸に来て、もう4日が過ぎました。
2日は縄文是川遺跡の文化財センターに行きました。
東北北部から北海道南部には同系列の縄文遺跡がたくさんあって、今それを世界遺産に登録しようと運動しているそうです。

泊まっているのは、八戸駅から徒歩15分程度のところにある和風ビジネス旅館のような宿です。
食事は付いていないので、時間が制約されません。
食事は外食か、外出した時に買ってきています。
近くに飲食店がほとんどないので、連泊者にはちょっと不便ではあります。
駅の近くに漁師さんのグループが経営しているという海鮮居酒屋があって、そこは最高です!
宿に隣接して天然温泉の共同浴場があり、早朝5時から10時までの営業時間内であれば宿泊者はいつでも入れます。
私は巨体なので、ビジネスホテルの風呂が苦手で、この宿にしたのでした。

是川遺跡文化財センターは昨年だかにとても立派な建物になったそうです。
300点を超える展示品のすべてが国の重要文化財で、祈りと呼ばれている「合掌土偶」は国宝です。
是川遺跡からは土器や土偶だけでなく、木器なども出土していて、それらに彩色された漆塗りの美しさに魅入られました。
出土した瞬間はもっと色鮮やかだったそうですが、3000年の時を経て、今もその美しさは十分に感動的です。
機の皮を剥いでつなぎ合わせた容器や、細く裂いた竹で緻密に編みこんだ小さなカゴや、おそらくは世界最古の(弦)楽器だろうといわれている木製品にも漆の色が残っていました。
木製や石を薄く磨いた剣なども展示されています。
おそらくは大陸との交流によって、縄文人たちは剣というものを知っていたのです。
しかし縄文時代には戦乱というものがなかったといわれているので、彼らは人を殺めるためにその剣を使うことはなく、祭祀のみに使用していたのです。
ボランティアのガイドさんが、「この剣で一体何を断ち切ろうとしたのでしょうね」と言っていましたが、死者の地上への未練を断ち切るために使ったのではないかと、私は思いました。

たとえば、幼い子供を残して地上を離れた母親などは、やはり地上への未練が残る場合もあったのではないかと思うのです。
死後一定期間を過ぎても、地上にとどまっている魂に引導を渡すために使われたのではないかと思いました。
土器なども非常に細かく丁寧な細工や模様が施されていて、驚きの連続でした。
成型した壺や皿の粘土が乾く前に細い紐を転がして模様をつけているのですが、模様の向きからすれば右撚りの紐と左撚りの紐を使い分けていたのではないかと考えられているそうです。
(紐を動かす方向を逆にすればいいのですが、それでは説明のつかないことがあるそうです)
それらも、ガイドさんが「どうしてここまで精密な細工をしたのでしょうね」と言っておられましたが、私は思わず「神からの恵みを盛る器だから、できる限りの感謝を表現したのでしょう」と言ってしまいました。
狩猟につかっていた弓にも漆塗りが施されているのも、単に弓の耐久性を高めるだけでなく、やはり神からの恵みをいただくことへの深い感謝と喜びがあったのではないかと思うのです。

ガイドさんも私の話に興味を持ってくれたようで、いろいろ話しながら3時間以上かけてじっくり観てまわることができました。

その日の午後は、種差海岸というところに行きました。
ここは八戸出身の三田さんに勧められたので行ったのですが、太平洋の荒波が打ち寄せては砕ける岩礁海岸と、そこまで続く天然の芝生のなだらかな丘陵の対照的な様がが何とも美しく、ウミネコがたくさん遊んでいる光景に癒されました。
海辺の芝生に座って何時間も海を見ながら、「異質なものの融合」を意識して遠隔ヒーリングもさせていただきました。

長くなるので今日はここまでにしますが、一つ問題を出しておきます。
正解は誰にも分からないので、頭の体操、意識の体操として、一緒に考えてみてください。

是川遺跡の土器の中に、とても興味深いものがいくつもありました。
今の時代でいえば陶器の急須のようなものもあります。
急須のように筒口がついているのですが、その筒口の先が容器の高さの半分もないのです。
これでは、水などを入れてもすぐに筒口からあふれ出してしまい、非常に使い勝手が悪いはずです。

別の土器の器(壺や円柱形のものもあります)には、器の下のほうに小さな穴が開いているのです。
縄文人は、一輪挿しや花瓶の下のほう(底ではなく、底に近い高さの側面)に直径5ミリぐらいの穴を開けた容器を作っていたのです。
これでは液体を溜めておくこともできず、容器としての用をなしません。
こういう土器と筒口の短い急須のような器は同じ思想から作られたものだと思われます。
しかし、今もどうしてそんなものを作ったのか、何に使っていたのか、まったく分からないそうです。
縄文人はおそらく酒を造って飲んでいたであろうといわれています。

なぜ彼らはそんな急須や土器を作ったのか、それらを何に使っていたのか、一緒に考えてみませんか?

05/10/2012(金) 01:39:32


No.10136  それいゆ
Re: 八戸から 引用
八戸にはずいぶん沢山の遺跡、遺物があるのですね。

>頭の体操、意識の体操、、
というよりはイメージです。
私が生まれ育った津軽地方は漆塗りや木工細工、あけびの蔓を
編んだかご細工、そんなものが沢山あり、今も受け継がれています。

秋になると山(岩木山)にのぼり、きのこや山葡萄を採ってきて、
保存食にしていました。
山葡萄はぶどう酒、ワイン?
子供の私たちは、お酒になる前の葡萄ジュースを飲むことができました。それは美味でした。

器の下のほうに小さな穴があるのは、、
そこから熟成した葡萄汁がポタポタと滴り落ちる、、、
収穫の喜びを皆で祝ったのではないのかな。
そんな具合にはいきませんかね。

ワイン樽や醤油樽も下の方に穴がありますよね。
ま、栓がついてますが、、、、

ゆるやかな時間の中で、いいものができたことでしょう。

05/10/2012(金) 18:16:51

No.10137  ゆうき
Re: 八戸から 引用
不思議ですね。
僕はいくつか思い浮かびました。

常に足りない状態にある、急須や土器。
これらを作って、神様(大自然)にお願いしたのじゃないかな?って思いました。
「私たちはまだ足りていないので、どうぞお恵みを・・・」といった祭事に使ったのでは?とか

水は大切なのだとわからせる教材として使ったのではないかな?とか、

ほかには、自分たち人間は不完全なものをつくるまだ未熟な生き物だという事を神様にわかってもらい
自分たちの慢心を戒めているのではないか?とか、

あと、これは一番初めに思い浮かんだのですが、不完全なものも存在する(存在させる)ということ。
ちょっと説明が難しいのですが、完璧なものだけではなく、そういった穴のあいた土器にも愛情というか感謝をもって
作ったのだと思いました。(自分たちが不完全なのにこうして生かされているのは、神様(大自然)のおかげなので
不完全である土器を作り、神の愛を体現した・・・)

いろんなことが頭に浮かびます。
でもほんと生きる事を喜び、目一杯楽しみ、そして感謝しながら生きる生活だったんだろうなぁ、って想像しました。

05/10/2012(金) 20:17:44

No.10138  ひらり
Re: 八戸から 引用

ヌマさん、こんばんは。
ゆったりとした時間を過ごされてるんですね♪

>急須のように筒口がついているのですが、その筒口の先が容器の高さの半分もないのです。

足るを知る・・・自分だけが沢山欲するのじゃなく、皆が大切に分け合うその時必要な分だけで十分なのだと・・・。そんな感じがしました。

青森の旅、楽しんで一杯充電して帰ってきて下さいね♪

05/10/2012(金) 21:57:13

No.10139  みやっち&藍子 ホームページ E-mail
Re: 八戸から 引用
急須の方は、そこにお酒を入れて、急須の口からみんなで回し飲みに使ったんではないでしょうか。宴会などの遊びの一種で。

高知の友人からもらったオチョコには底に穴が開いていて、その穴を指でふさいで、飲みきらないと机の上にオチョコを置けないという物があったので、それを思い出しました。

花瓶の方は、茎の切り口にだけ水を上げればよいという考えから、その穴からお水がこぼれない程度に水を入れたのでしょうか。。

                        みやっち




きゅはじめ読んだときは、「足るを知る」的な考えで、物質的には少量の水でも、大きな急須に入れて、ありがたく頂くのかなーと思いました。

あと、雪国なので、積もった雪をその急須に入れて、徐々に溶けてゆく雪を飲料水としてその口から飲んでいたのかなーとか。

あとは、土瓶蒸しみたいに、具材重視の料理作るときに使ったとか???いろいろ、考えてみると楽しいですね。


花瓶などの小さな穴は、、、わかりませんー。実物見てみたいなあと思いました。

                        藍子

05/10/2012(金) 22:15:07

No.10140  みゆきん
Re: 八戸から 引用
土器について話している時、お兄さんが「穴があいているのでためることができない」といいました。
それで、ためることは意味がなくて、穴からでる水分は、自分にいただいたものを与えさせていただいて、そうすることですべてなくなるかといったらそうでなくて、また何かしら自分自身に与えられたり、いただいたりして、それをまた与えさせていただいて、、、ということなのか。。。
あと、足るを知る、ということなのか。。。
など考えました。

そして、
急須は、水やお酒を、その時必要な分だけ入れられるようにしてあるのだと思いました。
花瓶は、生ける草花に必要な最小限の水を入れられるようにしてあると思いました。
お水やお酒は、なくなったらまた必要な分だけいただきます。
草花のお水は、最小限の水量にすることでいつも新鮮なお水にできます。
無駄使いしなくてすみます。無駄にしなかった分、ほかの人たちに水やお酒がまわっていきます。
草花は新鮮なお水、うれしいと思います。
みんな共に生きている、という感じがしました。

急須や土器、みてみたいです。
種差海岸にも行ってみたいです。

05/10/2012(金) 22:49:44

No.10141  それいゆ
Re: 八戸から 引用
ゆうきくんのコメント読んでたらスイッチが切り替わり、補足、

それぞれに役割、使い道があるということ、、、
完成されたものという認識があったのでしょうか。

それと、ひとところに溜め込むことがないことの象徴。
ひらりさんの"足るを知る”にも通ずるのかな。

実際に見てみたいですね。

05/10/2012(金) 23:39:06

No.10142  それいゆ
Re: 八戸から 引用
ゆうきくんのコメントを読んでたらスイッチ入ったので補足。

それぞれに役割があるということ、、
そもそも完全、完成されたものという認識の仕方をしたかな。

それと、ひとところに溜め込まない、とどめない、、
ひらりさんの”足るを知る”に通ずるのかな、、

今夜の体操はこれまで、、

05/10/2012(金) 23:50:02

No.10143  飯沼 E-mail
Re: 八戸から 引用
いろいろな考えや想像が出てきて、面白く読ませてもらっています。

答えが分かっていることは調べればそれなりに分かるのですが、だれにも答えが分からないことを考えてみることも大事だと思っています。

まして、この列島に生きた私たちの祖先でありながら、おそらくは価値観も生活様式も今とは大きく違っていた縄文の人々の心のありようや考え方や実際の暮らしぶりを、用途不明の土器などからイメージすることは、私たちの意識の幅を広げることになるような気がします。

私が子供のころ、親父が「考古学はロマンだ。わずかな出土物(の意味)をつなぎ合わせて、その時代の人々の考え方や生活様式などの全体を解明していくのだから。しかしそれもまた、新たな出土物によって、大きく修正していかねばならない…」みたいなことを言っていたのが記憶に焼き付いているのですが、確かに親父が言ってた通りだと思います。

話を戻しますが、
急須のような土器の大きさは、土瓶蒸しの土瓶と同じぐらいか、それよりも少し大きい程度です。
筒口のない器の大きさはさまざまです。

一輪挿しとか花瓶とかと書きましたが、形や大きさをイメージしてもらうためで、下の部分に穴の開いた土器に花を活けていたわけではないように思います。

書き込みを読んで思い出したのですが、
筒口の短い急須のような土器や、下のほうに小さな穴の開いた一輪挿しや花瓶のような土器の中には、底が平らではないものもありました。

つまり、水や酒を入れても、底が丸く(尖って)いるのでどこかに置くこともできず、短い筒口の先や器の下部の小さな穴から漏れ出してしまうというシロモノです。

05/10/2012(金) 23:51:11

No.10144  さき ホームページ
Re: 八戸から 引用
ぬまさん、ゆったり八戸での時間を味わってるみたいですね。
是川遺跡はいつか私も行ってみたいです。
漆の技術はとても手のかかるものだと思います。
そんな技術や文化を花開かせていた縄文の人たち、
使いにくい急須も土器に穴があるのも意味あってでしょうね。
祭礼とかに使う象徴的なものかな。
他にも書かれていますが、わかちあうとか、循環するとか、とどまらないとか、それが喜びだって知ってたのかなと思います。
あるいは、穴のあいた土器はすごく実用的な意味があるのかなとか、、考え中です。
底のとがった土器は見たことあります。確かとがった部分を土に部分に埋めて立てとくためじゃなかったかな。
頭の体操、思わぬひらめき。
皆さん、思ったこと書いてみて下さい。

06/10/2012(土) 14:18:02

No.10145  まゆみ
Re: 八戸から 引用
いろいろ縄文時代のこと想像してみるのおもしろいですね。
ですが、私は何もイメージできず考えてて、みなさんの書き込みをみて、そうかも、そうかもという具合です。
イメージ膨らますために実物見てみたくなります。
是川遺跡にも行ってみたいです。

ゆったりとした時間が流れていただろう縄文。
土器などにしても、せっせと作らなくてもよかったでしょう。
創造する喜びいっぱいに、土器にきれいな模様をつけたり、土偶をつくったりしたのでしょう。

そう思うと実用的なことではないのかな、と思ったり…
いろいろイメージしているところです。

06/10/2012(土) 17:36:37

No.10146  あきどん
Re: 八戸から 引用
皆さんの発想が自分が思いもしなかったことを書かれていたりして、興味深かったです。
私が、はじめ思いついたのは、畑の土などに埋めて、そこに水を入れて、ちょっとずつ水を土に浸透させる入れ物です。
旅行で家を数日空け水をやれないとき、ペットボトルの下に穴をあけたり工夫したことがあったのでまず浮かびました。

それと、先の尖った焼き物の容器は、鹿児島の離島のお土産でもらったことあります。さきさんのおっしゃるように外で飲むとき、土に刺すそうです。

ヌマさん、旅行を楽しんでください。

06/10/2012(土) 23:33:29

No.10147  あきら&ひとみ
Re: 八戸から 引用
いろいろと考えてはいましたが、なかなか頭が回らないというか、思いつかないでいました。
みなさんの発想を聞いて、なるほど〜なるほど〜って。
あきらとも話しながら、考えていました。
急須は、筒口の先が低い位置にあるということなので、中身は沢山入れられない。
私の中では縄文の時代は、平等とか、わかちあい支えあいって
イメージがあるので、誰かが多くではなく、誰でも平等に飲み物を飲む為に出来ている土器かなぁって。
もう一つの方は、何に使うのかはわかりませんが、先が尖っているので地面に置けない。だからぶら下げてつかうものなのかなぁって。

う〜ん、難しい。
でもどんなものでも、自分の為にではなくみんなでとか平等にとかを考えながら作っていたのかなぁって思いました。

                ひとみ 
もう一つの方は馬で移動中に付けていた物かな?
                あきら

08/10/2012(月) 00:23:52

全3961件 [ ページ : << 1 ... 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 ... 397 >> ]

- HOME - お知らせ(3/8) - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - メール - 環境設定 -

Rocket Board Type-X Rocket BBS