きんもくせいさん、お久しぶりです! コメント拝見しました。
私も全くの同意見です。 目の前で苦しんでいる人がいたら助ける、手を差し伸べる。 基本ですよね。 そして、そのこと自体、一つの「縁」だと思います。
もし逆の立場で自分が苦しんでいるときに、他の誰かに親切にしてもらい、優しい言葉をかけてもらったらどんなに嬉しいかとおもうのです。希望も湧いてくるでしょう。 人の役に立ちたい、自分を役立てたい・・ 誰でも同じ気持ちを持ってますよね。。
人の感情などとは別次元の公平公正な法則があるとしても 「全てを喜びとする」という摂理、法則が原点だと思います。
迷い苦しむ人を喜びに向かわせることが、スピリチュアルのそのものであり、無視する、放っておくことは逆に自分のカルマを作るのではないでしょうか? |
18/10/2012(木) 13:01:12
No.10173 飯沼 |
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みなさん、ありがとうございます。 「愛は時空を超えて」のスレッドが長くなったので、この項に続けさせてもらいます。
>地上的に苦しんでいる人がいても、「それは摂理ゆえだから、ほっておいたらいいのだ」 と、スピリチュアルな知識をかじった人が言う人がいますが、<
そういう愚論を分かったような顔で垂れ流す人っているんですよね。 ちょっと考えれば分かりそうなものなのに、困ったものです。
全ては摂理の中ですから、地上的に苦しんでいる人も、摂理ゆえであるのは当然です。 しかし、だから放っておけばよいのなら、医療も社会福祉もボランティアも「余計なお世話」ということになります。
そういうことを言う人は、自分が苦しい状況になった時にも摂理として受け止めることができるのでしょうか? もしも苦しい自分に手を差し伸べてくれる人がいたら、その人に向かって「摂理ゆえのことですから放っておいてください」と言うのでしょうか?
そもそも、スピをかじっているのであれば、「シルバーバーチの霊訓」ぐらいは知っているでしょうに・・・。
さっき十数冊の「シルバーバーチの霊訓」のなかから、たまたま手に取って開いたページから引用しておきます。
『私たち霊界の者は、縁あって皆さんのもとを訪れる人たちに霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく、皆さんを導き、勇気づけ、元気づけ、鼓舞する用意ができております。本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。
地上には霊的進歩を計るものさしがありませんから、そうした協力関係の中で皆さんがどれほどの貢献をなさっているかがお分かりになりません。しかし、たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に真の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけあなたの全人生が無駄でなかったことになります。私たちはひたすら??人のために役立つこと?≠?心掛けております。』(シルバーバーチの霊訓 10) |
18/10/2012(木) 14:13:06
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No.10174 飯沼 |
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「愛は時空を超えて」で「異質なものの融合」についての私の考えや、「山が動く」というイエスの言葉を紹介しました。
昨夜、布団に入ってから、ふと、「トマスによる福音書」を思いだしました。
◆『トマスによる福音書』(トマスによるふくいんしょ)は、1945年にエジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書で、114の文からなるイエスの語録集である。本文中に使徒トマスによって書き記されたとあるので、この名がある。 なお、現行の新約聖書には含まれないという点では、外典である。 。。。
去年だったかに、アマゾンで取り寄せて、ざっと流し読みしただけでした。 今朝、探し出してパラパラと見ていったら、以下のようなイエスの言葉が記されていました。
◆トマスによる福音書106
『イエスが言った、「もしあなたがたが二つのものを一つとするならば、あなたがたは人の子らとなるであろう。そして、あなたがたが、「山よ、移れ」と言うならば、山は移るであろう』 。。。。。。。
この場合の「人の子」というイエスの言葉は、「メシア(救世主)」と解釈するべきだと思います。 |
18/10/2012(木) 14:34:26
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No.10176 さき |
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テーマになっている「異質なものの融合」 なんとなくつかめるのですが言葉にしにくいです。 読み直しててこの部分↓が心にとまりました。
>・・真理とはシンプルなものです。 >難しく考える必要もないのですし、難しく考えたからといって >身に付くエネルギーではありません。 >その意味では、霊的喜びを主として地上的喜びを融合させれば、 >誰にでも発することのできるエネルギーなのです。
瞬時に「治す、直す」ことのできるエネルギー。 それは誰にでも発することのできるエネルギーなのでしょう。
人間ってのは霊的存在であるのですから。 それを知識としてではなく知ってしまえば簡単なことなんだと思います。 この場の皆さんはそれを身を以て知ってきたと思うから。 新しい地上の人間のあり方の先駆けとなってそれを示していく。 役割があるのかもしれませんね。
宗教ではないけれどある種宗教的な環境で生まれ育ちました。 「それでよろしいのです」 こういうフレーズは大嫌い!!!でした。 またよく使われるんですよね。 信じれば救われる、みたいなね。 こうした宗教的なフレーズが現状肯定、支配するものにとって都合のいいように使われることが我慢ならずに反発してきました。 私はあなた方の思いどおりにはならない、たとえ救われなくても、たとえ異端のレッテルを貼られて路上に倒れても、私はとことん地上の人間として生きたいと決めた時期があります。 (ちょっと若さ故の勢いもあったけど) だって、実際に今も戦火のなかで倒れている人がいるのに、飽食の一方で貧困による飢えや病気で生きることを奪われている人たちがいるのに、 「それでよろしいのです」 なんて言えない、言いたくない。 まず人間としてやれることをやってからだろ、ってずっと思ってきました。 もちろん当時、人間は死んだら終わりだと思ってましたが。 それが悠々塾に出会って、、今ここにいることに意味があるのでしょうね。
皆さんそれぞれの道筋は違うけれど、 今ここにいること、つながっていることに意味があるんだと思います。 一緒にその意味を考えていきたいです。 |
19/10/2012(金) 10:03:55
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