きんちゃんのお父さんのことを整理しておきます。
私たちは昨日の朝に知ったのですが、お父さんは12日にした血液検査で腎臓の数値が悪化していたそうです。 お父さんはかなり長期の脱水傾向でしたし、4日から6日の夜まではほとんど全く水分補給していなかったので、腎臓不全になっていたのだと思います。 6日の夜からの点滴がなければ、意識を回復しないままに2〜3日以内に他界しておられたでしょうし、病院側はそういう段取りだったと思います。 医師の予測に反して尿がしっかり出ていたことは、完全に腎不全に陥ってはいなかった証拠であり、ギリギリのところで回復の可能性もあったのだと思います。 あと一歩のところで、こちら側が力を集中しきれなかったということでしょう。
きんちゃんは複雑な気持ちをたくさん抱えながらもよくやったと思います。 皆さんからの厚い応援があったからです。 それがなければ、きんちゃんは3日の夕方に東京に戻った時を最後に、お父さんと言葉を交わすことができないままに地上の別れを迎えていたでしょう。 本当にありがとうございます。
きんちゃんは今はさまざまな思いが複雑にのしかかってきているのかもしれませんが、やがて娘として立派にお父さんをお見送りできたことを受け入れることができると思います。 「何がどうであっても、きんちゃんが自分の不十分さを責めることは、肉体を離れたばかりのお父さんの喜びにはならないのだ」と言ってやりたいです。
今日がお通夜で明日がご葬儀とのことですが、私は行かずに失礼します。 ほかの依頼者さんとの兼ね合いもあり、個人的に親しくさせていただいていた人以外のご葬儀には失礼することにしています。 理由はそれだけではなく、人はいつ地上を去るか分からないということが前提です。 ですから重篤な状態の人であれ、そうではない病や悩みについてのヒーリングであれ、いつ地上を離れても大丈夫なようにヒーリングをさせていただいているつもりです。 なので、地上を離れた人は安心して霊界側にお任せできるのです。
依頼者が亡くなった時のことで、強烈な思い出があります。 私がヒーリングの活動を始めてすぐの頃のことです。 その人は何度かのガンの手術をしても予後が悪く、かなり衰弱した状態でした。 全く駆け出しヒーラーの私がかかわり始めてすぐに体調も良くなり、見違えるように元気になりました。 その時は「快気祝い」の宴にも招かれ、私自身が戸惑いながらも、ヒーラーとしての力を実感していました。 ところが、1年ぐらい経過した頃に再び衰弱し、やがて眠るように息を引き取られました。 私は非常に申し訳ない気持ちでお通夜に行き、手をついてご家族にお詫びせずにはいられませんでした。 まだスピリチュアリズムを知らないころのことです。
お通夜には大勢の人が来ていたので、部屋が手狭になり、私は先に失礼しようと思って外に出ました。 暗いなかで、外には何人もの人が待っていました。 私のことを知っている人たちもいて、私は捕らえられて晒し者にされる敗軍の将のような心境になってしまいました。 皆の横を通り過ぎて車を置いているところに行こうとした時に、1〜2メートルの深さのかなり大きな溝に落ちたのです。 暗くて溝があるのに気づかず、歩いていたままに転落して冷たい水の中に倒れこみ、略礼服もびしょびしょになっていました。 落ちた痛みよりも水の冷たさが身に染みて情けなさが込み上げてきたのですが、その時に「死を忌まわしいものと思うな!」という、強烈なインスピレーションが頭全部に響き渡りました。 その時は私が転落したのを見た人たちが驚いて「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれるのに軽く返事をしながら逃げるように車に乗って帰ったのですが、それから私は少しずつ「死」というものを忌まわしいものだと考えなくなっていきました。 それからスピリチュアリズムを知ったのです。
聖書の中の話で、イエスが最初の弟子(ペテロだったか?)に声を掛ける場面があります。 その弟子は漁師だったのですが、イエスに「あなたはこれから人間を獲る漁師になる」と言われ、「これから近親者の弔いに行かねばなりませんからその後にしてください」と言うのを受けて、イエスは「死者のことは死者に任せておけばよい」という意味のことを言います。 もしかしたら多少は私の記憶違いがあるかもしれませんが、確かこういう話が聖書にあると思います。
私は高校生の頃に新約聖書を読んで、「イエスのような人間にはなれないが、イエスの弟子にはなれるかもしれない」と思い、それからずっとそうなりたいと思ってきました。 聖書に登場するイエスの弟子たちは、驚くほどイエスの教えを理解できておらず、「あらあら」と思うほど人間的な弱さ・未熟さを満載しているので、「この程度なら自分もイエスの弟子になれるかも」と思ったのです。 だからかどうかは分かりませんが、ヒーリングをさせていただいた後、その人が他界しても「死者のことは死者(霊界)にお任せしておけば大丈夫だ」と思えるのです。 そういうこともあって、私はよほどのことがなければ、個人的に親しくお付き合いがあった人以外のお通夜やご葬儀には失礼させていただくことにしています。 。。。。。。。。。。。。。
聖書の話ですが、ちょっと調べたら、「人間を獲る漁師に」という話と「死者のことは死者に任せておきなさい」という話は別の弟子に対する別の場面のもののようですね。 |
16/11/2010(火) 18:28:08
No.7437 さき |
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今ごろお通夜でしょうか。。 昨日の夜、きんちゃんに送ったメール↓です。
★きんちゃん、お疲れさまでした。 お父さんにきんちゃんとの嬉しい時間を過ごしてもらえてよかったです。 きんちゃんとタバコにいくのを楽しみにしておられましたね。 いい人生だった。きんちゃんという娘がいてくれたからこそ、お父さんは心から生きててよかったと思われたことでしょう。 きんちゃんはお父さんの自慢の娘ですよ。 お父さんはこれからあちらの世界からずっときんちゃんを見守って下さいますよ。 お父さんの自慢の娘として生きていこうね。 きんちゃんがお父さんに、こんなぶうにしてあげたかった、という気持は、全部今のお父さんに届いていますよ。 お父さん嬉しいと思います。 大好きなお父さんと一緒に、お通夜、告別式を過ごして下さいね。頑張ったきんちゃんにねぎらいの気持ちを送ります。 私はヘルパー講座で明日から3日間、施設実習に行きます。お通夜にも告別式もいけませんがお父さんのご冥福を祈っています。 |
16/11/2010(火) 19:46:50
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No.7438 和也&久美 |
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きんちゃん、色んな気持ちのある中で本当によく頑張られたと思います。 お父さんが十分に満たされていたのは、きんちゃんが頑張ったからじゃないでしょうか。 どうか頑張った自分を労ってあげて欲しいです。 お父さんのご冥福をお祈りいたします。 |
16/11/2010(火) 22:43:49
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No.7439 飯沼 |
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☆NO.7436の補足です。
お父さんが息を引き取る前に口から吐いた茶色い水は700?tとかではなく、2〜3リットルもあったそうです。 胃には内容物はなかったはずですし、それが何であったのかは医師にも分からないそうです。 他界するその日の午後から急に胃が膨れてきて、茶色い水を吐き出したら元に戻ったそうです。 その場に居合わせた藍子の話では、茶色い水という感じで異臭も悪臭もなかったとのことでした。
点滴の水分はその日の朝まで順調に尿で出ていましたし、点滴の水分が急に胃に滞留するなどということは通常はありえません。 もしもそういうことがあったとしても、点滴で入れている水分よりもはるかに多かったのです。
克から伝えられているのは、「彼の今までの人生における“受け入れられなさ”を茶色い水という形にして排出した」ということでした。 もう少し付け加えれば、
「解消されるべき時期を迎えて、今までの人生における“受け入れられなさ”がエネルギー的に浮き上がり、エネルギーの塊として彼の胃に滞留していました。 それがある時期から彼が食べなくなった理由でもあります。 それは胃が思いのエネルギーで一杯になったことで食べられなくなったとも言えますし、彼が無意識の念の次元で『食べない』と決めたこととも同じ意味です。 いずれの意味からであっても、“受け入れられなさ”とは正反対の“強く求められること”で解消するものでした。 しかし、それは彼の娘が不十分であったということではありません。 彼の負い目と頑なさが胃に滞留したエネルギーを硬くしたのです。 それだけ彼の人生が過酷であったということです。 かげりの残骸を喜びに転換する直前に肉体の限界がきたのです。 大きな意味ではそれも彼の人生のプログラムに設定されていたといえます。
彼女にももちろん不十分な点はいくつもありましたが、複雑に屈折した父娘の経緯を越えて、彼女は父親によく尽くしました。 それでも自分が不十分だったと思うのであれば、これからの人生で人との関わりにおいて、自分から伝えようとし自分から求めていくことを心掛けていけばよろしいのです。
彼の願いは、『娘にずっと傍にいてほしい』という寂しい老人としてのものと、それと同じ強さで『娘が愛する男性と離れて暮らすべきではない。自分のことはいいから、彼と幸せになってほしい』という父親としてのものがありました。 相反する願いの葛藤はどうすることもできず、そこでは彼の場合、治癒に向かうのは非常に困難な条件がありました。 そういうなかで、大勢の人に『少しでも長く地上で生きてほしい』と願ってもらい、娘とありのままの心を交し合う濃密な時間を持てたことは、何よりの彼の喜びでした。 彼の娘が、彼との関わりに不十分さがあったとしてどんなに自分の不十分さを責め、気持ちを揺らしたとしても、彼は娘によって幸せに満たされた者として光の霊界に向かっています。 つまり、それでよかったのです。
今一歩のところで体は回復に至らず、しかし完全に浄化された意識で地上を離れるために、息を引き取る前に“茶色い水”という形にして排出したのです。 娘や周囲の人たちの愛念によって、胃に滞留した“受け入れられなさ”のエネルギーも重く暗いものではなくなっていたから、吐き出した“茶色い水”には悪臭も異臭もなかったのです。 “受け入れられなさ”を地上で完全に払拭することはできなかったにしても、浄化することはできたということです。 浄化したかげりのエネルギーの塊を洗い流して、彼は喜びのみの心で地上を離れたのです。 わずか数時間で彼の胃に溜まった大量の水がどこから入ってきたのかとか、それだけ大量の水が彼の体のどこにあったのかとかを、今の地上の科学や常識で考えても正しい答は得られません。
本当の意味での高次元の心のエネルギーを十分に注がれた時、肉体は今の常識をはるかに越えて機能するのです。 それを“不思議なこと”として捉えていては、高次元のエネルギーによる肉体の働き(治癒や機能の進化)をあなたがたのヒーリングの働きに定着させるのに長い期間を要してしまいます。
悠々塾がつながっている高次のエネルギーと、地上という物質界の願い(喜び)を融合させれば、水であれ何であれ物質などいかようにも使いこなせるのです。 使いこなすということは、エネルギーの粒子を集めて物質とすることも、物質を見えないエネルギーに分解することをも含むのです。 今の地上の低次元の科学を基準にするのではなく、地上人類が進化した暁には当たり前になるはずの科学・技術・医療・生活や心のありようを基準にしていくことが、新しい喜びと幸せへの突破口なのです。
高次元のエネルギーとは、決して難解な論理や法則をマスターすることではありません。 ましてや膨大な知識を詰め込むことなど不要です。 神に感謝するのと同じように、最も小さき生命である微生物たちに無条件の感謝を注ぐことでしっかりとつながることができるのです。 その心を自分の日々の暮らしや自分にもたらされる事柄にも澱みなく向けていくことです。 それが不十分な現状に甘んじることではなく、不正や差別や搾取や生命への冒涜を容認するものでないことは言うまでもありません。」 |
17/11/2010(水) 01:53:01
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No.7443 みやっち&藍子 |
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今日、きんちゃんのお父さんの告別式に家族で行かせていただきました。
お父さんのお顔がとても穏やかで、今にも目を開けそうで、幸せそうに見えました。
ほんとうにすべて浄化した後のようなスッキリした表情でした。
きんちゃん、せいじくん、あらためておつかれさまでした。 疲れが出ませんように。 |
17/11/2010(水) 22:58:52
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