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No.5888 飯沼 ホームページ E-mail
映画「空想の森」のお知らせ 引用

「空想の森」農ある暮らし〜重ねた時間と陽の匂い〜(監督・田代陽子  @ttp://www.soramori.net/)
というドキュメンタリー映画の上映会のお知らせです。

「空想の森」のサイトから引用してご紹介します。

ものがたり

1996年、北海道のほぼ真ん中に位置する新得町(しんとくちょう)で、小さな映画祭がありました。(SHINTOKU空想の森映画祭)映画祭に参加した田代陽子が、そこで初めてドキュメンタリー映画と出会いました。それからこの町で農業をして暮らしている人たちと出会っていきました。

新得共働学舎(社会に馴染めない人、障がいを持つ人、色んな人たちと共に生きていこうとする農場)で子育てをしながら野菜をつくっている山田聡美さん。彼女は共働学舎に来て13年目。結婚して娘も生まれ、これからの暮らし方を改めて考えていました。自分にとって共働学舎とは、野菜をつくることとは…。家族で独立しようか、思い悩む若い夫婦。
1970年代後半に、食べ物をつくって暮らしていこうと、京都から新得町に入植した宮下喜夫さん。3人の子供はそれぞれ独立し、妻の文代さんと2人で、極力機械を使わず、自分の体を使って日々畑で働いています。自分たちの暮らすスタイルを確立した夫婦。この2家族を軸に、食卓の風景、土の上で働く姿など、何気ない日常の中に、色々な感情がわきおこり、明日への希望が垣間見えてきます。
。。。。。。。。。。。。。。

映画の登場人物の宮下喜夫さんと奥さんの文代さんは、僕が神戸の福祉施設の職員だった頃の同僚です。
お互い、まだ20代前半だったこともあり、毎晩のように飲んで語り合っていました。
彼が北海道の新得町に入植した時は、正直なところ「いつまで続くんだろう?」と思ったものです。
宮下さんは「途中でケツをわって帰ってきたら、宮下もそれだけの男だったと思ってくれ」と言っていましたが・・・。
神戸での上映会、僕も行きたいのですが、まだちょっと分かりません。

京都シネマ 「空想の森」のモーニングショー。
7月18〜24日、午前10時から(1000円)

神戸アートビレッジセンター(KAVCシアター 60席)
7月25〜31日 10:30〜 (一日一回上映・28日火曜日は多分休館?)
チケット(当日券のみ)
一般1500円 大学生1300円 シニア1000円

22/07/2009(水) 13:38:54


No.5889  えみこ
Re: 映画「空想の森」のお知らせ 引用
会いたいなあ。

新得共同学舎、宮下夫妻、
共に縁のあった人たちです。

若い頃、よくお酒を飲んでは、語り合っていた人たち。
その後、何度か会いにいきましたが、
子育て真っ最中で、大変な時でした。
よく、乗り越えたなあ。
脱帽です。

焚きつけた?私達は挫折してしまったけれど、
あちこちで、みんな踏ん張ってた。

彼らの持つ力強さやしなやかさ、やさしさが
きっと勇気をくれる。

魅力にあふれた人たちの生きるさまを
是非見てほしい。

22/07/2009(水) 16:26:33


No.5884 飯沼 ホームページ E-mail
愛は時空を超えて 54  引用
☆☆ 愛は時空を超えて 54 ☆☆

          ――  霊界の克との対話  ――

飯沼) おーい、クゥ、こんにちは。

克子)はーい。まーたん、こんにちは。

飯) 念のエネルギーについて、お前からも何度も伝えてもらっているけど、やっぱりこれは地上の人間にとってなかなか手ごわいテーマのようだ。
定例会でも2度連続でテーマにして、念のエネルギーがかなり動き始めている人もいるし、停滞している人や、後一歩のところで逆戻りしている人もいるみたいだ。
しかし、念のエネルギーが、肉体や現実の現象に直接作用するのだから、ここは何としてもクリアしていかねばならないと思っている。

克) はい、そのとおりです。
何度もお伝えしているように、念のエネルギーは本人が意識できないところで歪めて使ってしまっている場合が多いのですし、まさに身に染み付いているものなので、実際にその歪みを健やかな喜びに切り替えていく作業は難しいのでしょうね。

飯) うん、そうなんだ。
本当はシンプルで簡単なはずなんだけどね・・・。

克) 「本来のもの」を軸とした理論的筋道で考えれば、どんなものでも歪みを修正するのは簡単なはずです。
でも、実際はそうしにくい癖をつけてしまっているのが、今の地上の人間なのですから、そんなふうに突き放したような言い方をするのはいかがなものでしょうね?
あなただって、自分の大きなテーマに向き合い、力を発揮しようとする時には、すぐに自信を失ったりもするのですから(笑)
あなたの場合も、過去世のカルマの影響を受けてそうなってしまうのです。
カルマは、何らかの形で今回の人生にも現れるものです。

あなたも幼い頃から、自分に自信を持てないようなことを、繰り返し経験することになっていました。
魂の意志、今回の人生の目的は、そういう負のエネルギーを越えて、自分本来の力を発揮していくことなのですが、それを誰よりもよく理解しているあなたでも、何度も何度も同じネガティブな気持ちが湧いてきて、その度ごとに仲間たちの応援によって少しずつ越えてくることができたのです。
現実を作り上げる実地のエネルギーですから、そう簡単にはいかないものですよ。

飯) はいはい、確かにおっしゃるとおりです(笑)
人のことは、「何でそこを変えられないんだろうか?」と思ってしまうけど、念の歪みの内容は人によって違っているんだからね。
自分にとっては容易いテーマでも、当事者には人生の全てを押し潰すほどの重さをもっているんだよね。
なかなか越えられなくて、投げやりになったり、意識を逸らそうとしたり、不快感を募らせたりしている人は、かつての僕自身というよりも、もう一人の自分であると思う。
テーマの内容の軽重を思うのではなく、その渦中にあって、身動きが取れなくなっている人の心を思っていきたい。

克) はい。
そういうことを言うようになったあなたも、苦労して成長したということですね(笑)

飯) そんなこと言って人をからかってばかりいると幽界に落ちるよ(笑)
助けに行ってやらないからね(笑)
いいから本題に入ろうか?

克) はい(笑)
人間は、霊としての(魂の)喜びを地上に顕現させることを目的とした存在です。
人間にとって最も高次のエネルギーを最も下位で表現し、つまり、魂の意志を地上で実際に形にして日々を生きることです。
それが全ての健やかさの元になるエネルギーです。

今の地上に生きている人間には、何らかの過去世の人生があります。
地上の歴史を見れば分かるように、過去世も決して喜びのみの人生ではありませんでした。
それぞれの人が、さまざまなことで心にかげりを抱いたままで地上を去っているのです。
地上を去った後もそれぞれがたどる経緯はあるのですが、やがては自分の地上人生を振り返ります。
そこで地上人生の全てを喜びとして捉えなおすことのできた人が、その人生では越えることのできなかったものを越えるために、そしてそれを貢献に生かしていくために、こうして再生しているのです。

今の人生の苦難がどんなに大きくても、あるいは自分なりの思いに囚われて動けない状態が続いているとしても、それら全ては今回の人生の過程として織り込まれているということなのです。
摂理・法則は完璧です。
どんな国のどんな親の下に生まれるのか、どんな家族構成、どんな家庭環境で育つのか、どんな能力を携え、どんな評価を受けながらどんな人たちと関わっていくのか、あるいはその逆も、全ては本人の同意の上でプログラムされているのです。

霊界で培った「全てが喜び」の心を、霊界と違って決して喜びのみではない地上で、実際に現していくのです。
それによって、地上も霊界の写し世となり、次元は異なっていても、霊界との共鳴が完成し、地上も喜びに輝く世界に進化するのです。

しかし、いくらこうして霊的知識を得たとしても、感情や念の次元にまで喜びを行き渡らせることができなければ、実際の言動に反映しないものですね。
魂の喜びを念の層にまで下ろして、実際の言動としていくまでには、たくさんの悩みや苦しみや葛藤を抱えて生きることになるのです。
念の歪みはそのまま具体化されますから、それによってさらに不調和が拡大するでしょう。
それがさらに念の歪みを増幅し、さらに不調和が大きくなるという、負の連鎖が続くことが多いものです。
そうなれば、本人はもちろん、周囲の人たちも、喜びの中で生きる日々とは掛け離れた、不快で重苦しい人生を送らねばなりません。

そして、過去世と同じか、それよりも深い不調和の中で今回の人生を終えてしまうことになれば、他界後に「自分は一体何のために地上に再生したのだろうか?」という深い悔いを残します。
そして、ふさわしい時期にふさわしい境遇を選んで、物質次元の世界に再生するのです。
その時には、今回の人生の負のカルマも加算されますから、今よりももっと喜びにくい状況がもたらされることになります。
それは大変お気の毒なことなのです。

もちろん、個人的な課題を抱え、喜びに逆行する念の使い方や不調和があったにしても、その人が実際に自分を人のために役立てる日々を送っていれば、他界後に評価され、大きくねぎらわれて感涙に咽(むせ)ぶことも珍しくありません。
カルマの埋め合わせとして、今回の人生ではどうして喜びとできないものを背負って、それでも自分を役立てていくというプログラムもあるのです。
大事なことは、動機と、実際にどう言動していくのかです。
そして、動機も実際の言動も、「人も自分も幸せに」というところで合致させていくことが、全ての人に共通の生きる意味であり、人生の目的です。

それが容易くないことは、守護霊様や指導霊の皆さんももちろんご存知です。
ですからすぐに「正解」を出せなくても、「正解」が分かってはいてもなかなか気持ちを切り替えられなくても、実際の言動として表現できなくても、それを論(あげつら)うような守護霊様や指導霊の皆さんではありません。
時には厳しいエネルギーを注いで、気づかせようとしなければならない場面もありますが、全ては深い愛情に基づいているのです。
人間の側が、現状はどうであれ、喜びを膨らませる方向で、「皆も自分も幸せに」を願ってくれていれば、霊界側が人間を見放すことなどありえないのです。
霊界側は、どんな時でも人間を見放したりはいたしません。

しかしながら、人間のほうがあきらめや怖れや攻撃や自己否定を強めたり、意図的に虚偽を多用したりしすぎれば、エネルギー的に接点を維持できなくなることはあります。
そういう場合でも、決して見棄てることなく、ふさわしい人間を配剤して気づきを促したり、「このままではいけない」と気づくように何らかの出来事を計らったりもします。
気づきや変化を促す計らいには,本人や家族の病も含まれているのです。
それももちろん、摂理・法則に基づいてのことです。
それでもやはり、本人次第ということになるのですが。

飯) うん。
それでも、人間の側が喜びに向かうのではなく、逆行することも珍しくないから、霊界側はご苦労が多いんだろうね。
なんとなく僕にも分かるような気がするよ。
まあ、そのことで霊界側が心をかげらせることはないはずだから、そこは人間と違って楽なんだろうけどね。
思うように指導効果が現れないからといって、指導する側が心をかげらせてしまったら、かげりの連鎖・共鳴が起こってしまうからね。

克) はい、もちろんそうです。
守護霊様や指導霊様たちにも情感はありますが、地上人生のみの基準で指導することはありませんしね。
霊界側は、直線的に完全・完璧を求めていくのではなく、その部分総体として喜びがかげりを凌駕していくことを重要視しています。
その意味では段階的であり、らせん状に喜びが広がっていくことでよいのです。
地上人類の進化向上、地上界の浄化というスケールにおいても、それは同じです。
極めて小さな範囲での完全や完璧を求めすぎることによって、逆に全体(総体)が喜べない状態に陥ってしまえば、本末転倒です。
調和が大事です。

飯) そうだね。
いくらカルマとはいっても、それはほとんどの人が記憶していないことなんだし、今の人生でどうしても喜びにできないことや受け入れ難いことってあるからね。

克) 確かにそうですね。
私の人生を振り返っても、それは思い当たります。

どうしても喜びに転換できない自分の生い立ちや境遇については、あなたがTさんに話したことでよいのです。
つまり、どうしても喜び以外の気持ちでしか捉えられないことを、無理やりに喜びにするわけにはいきません。
いくら霊的真理を学んでいたとしても、生身の地上の人間としての思いを無いものにはできないものです。
もちろん、さらに学びが進めば、今までは受け入れられなかったことでも、相手に対する理解や思いやりによって、喜びに変換できていくのですが、それとて一足飛びにできるものではありませんね。

本当は生身の人間としての思いに囚われているのに、いかにもそうではないように、自分はもうそれを越えたかのように振舞ったり、自分でそう思い込んでいくことは、決して健やかなことではありません。
念の層でのかげりのエネルギーが残っているのに、それを無いものにしてしまっては、別の形で不自然な形で現れたり、病や症状となって表れることが多いのです。
今からでも問題を解決して調和に向かわすことのできる事柄についてはそうしていくべきでしょう。
でも、時間の経過や相手の状態によっては、そうできないこともありますね。
ではどうすればよいのか?

あなたがたの今は、過去の経験によってあるといえます。
それゆえに、自分で自分を喜べないようなところもあるでしょうが、決してそれが全てではないはずです。
ならば、今の自分の喜べるところにしっかりと意識を当てて、「確かに今思っても嫌だったけれど、ああいう経験をしてきたから、今の自分がある。ああいう思いをたくさんしてきたから、今の自分がある」と、自分をねぎらい、納得させていくことです。
「ああいう経験をしてきたから、自分はこうなってしまった」という思い方もありますが、それよりも、少しでも喜びの視点を増やしていくことです。

とにかく、総体としての喜びを増大させることによって、心の磁場は変化していくのです。
そのエネルギーが、凝り固まって動けなくなっている心を動かしやすくしていくでしょう。
誰でもがいくつもの欠点やかげりを持っているものです。
でも、そればかり意識して、自己否定を強めたり、幸せになることをあきらめようとすることが、さらに自分を苦しくして不調和を拡大させていくのです。
欠点やかげりだけの人間など、地上に存在しているはずがありません。
ちゃんと見る気になれば、誰にも自分を喜べるところがあるはずです。
それは自分の苦しかった過去によって培われ、あるいは鍛えられてきた輝きでもあるのです。

自分の生い立ちや境遇を嘆くよりも、恨みに思うよりも、そのなかで自分が得たものを喜んでいくように、ということです。
そこから始めればよろしいのです。
喜びは必ず次の喜びにつながっていくのだと、信じていただきたいのです。

自分の境遇は、過去世の自分の言動の結果です。
それが霊的真実なのですから、まずは今の自分が変わっていくしか方法はないのです。
こういう言えば、「どうせ自分のせいなんだ」とさらに自分を責めたり、不機嫌になったりする人がいるかもしれませんね。
でも、それではいつまでたっても同じです。
自分も周囲ももっと幸せを実感できるように、念の使い方を喜びに切り替えようと努力してくださいね。

飯) 分かった。
次の定例会のテーマにしようと思う。

克) そうですね。
何度でも、あらゆる角度からアプローチしてくださいね。
何度も言いますが、念のエネルギーが全ての現実を作っていくのです。
「幸せになりたい」という願いは、全ての人間に共通のものでしょう。
その実現に向けて、あるいはもっと大きな貢献の役割を果たすためにも、少しずつでも前進していただきたいのです。
念のエネルギーは、「(自分の」存在」にまつわるところで練り上げられていくことが多いものです。
家族の中で自分の存在位置や扱われ方がどうだったのかによって、念の歪みも(健やかさも)形成されてきたと言えるでしょう。
それが身に染み付いているがゆえに、成長してからも歪んだ形で自分の存在を表現することを止められない場合が多いのです。
そこの次元を健やかにしていくことが、幸せを実感できる人生への第1歩になるでしょう。

飯) はいよ、ありがとうね。
僕らもその次元のエネルギーを強く鍛えて、役立てていきたいと思っている。

もうすぐ、お前がそちらに戻って4年が経つけど、お互い今の状態にすっかり安定してしまったね(笑)
僕もいつのまにか57歳になった。
でも、まだまだ地上でやらねばならないことがたくさんあると思っている。
これからもよろしく頼みますよ。

克) はい、もちろんです。
こういう形で一緒に働くために、あの時期に私は地上を離れたのですからね。
あなたもさきさんも、もっともっと「何がなんでも」という念のエネルギーを強く高めて、地上の働きに邁進してくださいね。
今を喜び、与えられたものの範囲で満たされることと、働きの上での貪欲さは別のものです。
地上界の状況はふたりとも十分に分かっているのですから、「何がなんでも自分がやるんだ!」という強い思いが求められているのです。

飯) はいよ。
さきさんにくれぐれも伝えておくわ(笑)
それじゃあ、またね!

克) はーい、まーたん、またね。
(2009・7.16)

16/07/2009(木) 23:23:38


No.5885  もこもこ
Re: 愛は時空を超えて 54  引用
飯沼さん、克子さん、胸に響く☆愛は時空を超えて☆をありがとうございました。たくさんの「愛」を感じました。
よく読んで・・・自分と向き合って、心で分かっていけるようになりたいなあと思います。

17/07/2009(金) 01:26:52

No.5887  さき
Re: 愛は時空を超えて 54  引用
長文の受信ありがとうございます。
ぬまさんと克子さんとの掛け合いに(笑)でした。

念は手ごわいですね。
けどその念こそがその人をつくっているんだよね。
地上の人間ってけなげで愛しいものだと感じます。
なんて上から目線で言ってたら幽界に落ちるかな。笑

どうすべきかわかっても、実際には念の次元が邪魔してしまうわけで、なかなかそうできない、そう思えないのが地上の人間で、そこを動かさないと意味がない。幸せにも喜びにもつながらない。
そこを動かすパワー、貪欲さ、不足してます。
どんな状況であれ、どんな自分であれ、少しでも今を喜べたら、流れが変わるのでしょうね。

17/07/2009(金) 23:32:41


No.5871 ホープ  
(No Subject) 引用
脳死の問題は臓器移植を前提に持ち上がった問題だと思うのです。
提供する側、される側、双方の本当に切実な気持ちが伝わって来て
心が痛みます。自分がその立場にあったならどうであろうかと。
「人として正しくあろう」という立場で考えましたが、結論解りません。ただ飯沼さんのコメントにあったように、これは政治が法制化するべき問題ではないし、そもそも「人の死」を他の法案と同じように賛否で決する事事態大変な違和感を感じるのです。
私はこのように自分の思考限界に至った時は、霊的摂理に照らして
判断する以外に無いのではと思っています。シルバーバーチの霊言集の中で”輸血””臓器移植”の質問に対して「医師の人命を救助しようとする崇高な動機は決して否定するものでは有りませんが、私はどうしても賛成する訳には参りません。何故ならそれは他人の幽質を移植する事になり後で厄介なことになるからです・・」と言うくだりを何回も読んだ事があります。人としての優しさと動機
をもってとことん突き詰めて行って、尚且つ答えが解らない問題に対しては、霊的摂理を基盤として判断する以外に無いと思うのです。

14/07/2009(火) 12:12:31


No.5872  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 引用
☆ホープさん

ご投稿ありがとうございます。
僕もホープさんと全く同じように思います。

>私はこのように自分の思考限界に至った時は、霊的摂理に照らして判断する以外に無いのではと思っています。

まさにそうだと思います。
これからもホープさんのご意見を投稿してくださいね。

☆K.Kさん

元スレッドが長くなったので、ここに返信しますね。

シルバーバーチの霊訓からの引用、ありがとうございます。
K.Kさんへの返信は、もしかしたらちょっと長くなりそうなので、後ほど改めて書きますね。
できるだけ今日中に返信したいと思いますが、あすになるかもしれません。

14/07/2009(火) 18:44:51

No.5873  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 引用
☆k.Kさん

改めて返信させていただきます。

同じスピリチュアリズムに学ぶ者として、忌憚なく私の考えを述べさせていただく失礼をお許しください。

前の投稿で、「私個人は臓器移植には反対です」と書きましたが、それはやはりシルバーバーチが伝えていることに納得しているからでした。
ですから、KKさんのご意見は、スピリチュアリズムの側からの見解としては、私にも全く異論はありません。
しかしながら、KKさんの文章から醸し出されている雰囲気には、私はかなりの違和感を感じてしまいました。
もちろん、シルバーバーチの霊訓からの引用部分ではなく、KKさんがお書きになった文章からです。

KKさんのご見解は、霊的真理からすれば、まさにそのとおりであると思います。
スピリチュアリズムの伝える「霊的真理」は、おそらくは間違いなく「真の霊的真理」であろうと、私も思っています。
でも、残念なことに、その「霊的真理」を「霊的真理」として受け入れている人々は、まだごく少数だと思います。
この掲示板の読者のどれほどの人が、心からそれを受け入れているのかも私は知りません。
そういう状況の中で、「霊的真理」を唯一絶対の指標にして論評することは、私には違和感があるのです。
スピリチュアリズムの伝える「霊的真理」はそれを真理として受け入れた者しか、「真理」として認識できないと思うのです。

相手側の立場に立てば、「霊的真理」が踏み絵になってしまうと思うのです。
それによって、逆に「霊的真理」に対しての拒絶感を抱かせる場合も少なくないでしょう。
スピリチュアリズムとは趣の異なる「霊的真理」を信じている人たちも大勢います。
思想・信条・宗教は人それぞれなのですし、私はそれでよいのだと思っています。
私はスピリチュアリズムを信じ、スピリチュアリズムに学び、スピリチュアリズムに基づいた人生を生きていきたいと思っていますが、それでも、スピリチュアリズムを唯一絶対であるかのようには扱いません。
それはスピリチュアリズムを他の宗教と同等に、相対化することになるだけですから。

もちろん、「霊的真理」は情報として、心を込めて伝えます。
でも、「霊的真理」で裁くかのようなことはしたくないのです。
それがスピリチュアリズムであっても、教条主義的な雰囲気を私は好みません。

KKさんのご意見をシルバーバーチが言うのなら、そのまま受け入れます。
しかし、臓器移植の当事者の方々も私たちも、もちろんKKさんも、地上に生きる生身の人間です。
決して地上的な事どもを卒業した存在ではありません。
もしもそういう段階に達しているのなら、すでに地上に留まる意味はなくなり、霊界に戻してもらえているでしょう。
確か、シルバーバーチもそういう意味のことを伝えていると思います。
シルバーバーチですら、「私はあくまで私の個人的見解を述べるだけですが」と非常に謙虚な姿勢で見解を述べています。
KKさんの文章からは、そういう謙虚さが感じ取れないことを残念に思いました。

>臓器移植自体は霊的摂理から外れた行為です。霊的事実に対する無知から生じたものなのです。

スピリチュアリズムを信条とする者として、私もそう思います。
しかし、臓器移植や脳死の問題に直面なさっている方々のほとんどは、「霊的真理」の知識を持たず、ホープさんのように「自分の思考限界に至った時は、霊的摂理に照らして判断する以外に無い」と思っておられるわけではないでしょう。
まさに、地上の人間として、ギリギリの局面に立たされているのです。
そういう状況に置かれている方々への、同じ地上の人間としての共感がなければ、いかに素晴らしい「霊的真理」であっても、伝わらないのではないかと私は思うのです。

そして、「霊的真理」を学んでいるからといって、地上的な葛藤と無縁なわけでもないと思うのです。
KKさんご自身は、臓器移植のことは、直接の当事者ではないから、「霊的真理」に照らしてきっぱりと言えるのかもしれませんが、では、他のことについて完全に「霊的真理」に適った日々を送っておられるのでしょうか?
そうではない部分があるから、今もこの地上に生きておられるのではないですか?
私は、「霊的真理」を学んだ方々が、まるで「分かった者」のように上から目線で物を言うことを好みません。
「霊的真理」は、悩める人たちを裁くために学ぶのではなく、そういう人たちに寄り添い、道を照らしていくためのものだと思っています。
同時に、「霊的真理」によって、自分を照らし、点検していくことによって、実際の学びは深まっていくのだと思います。

失礼を承知で書きましたが、決してKKさんを否定しているのではなく、私個人の感想・意見としてお読みください。
そして、よろしければ、今後も掲示板にご参加いただけますようお願いします。

14/07/2009(火) 23:27:49

No.5875  春が来る
Re: 引用
今回、焦点を絞るために、敢えて政治的、医学的なことにのみ言及したのですが、kkさんやホープさんが仰るように「死生観」を考える時、「霊的真理」を抜きにしては語れないのだと思います。

シルバーバーチの言う「動機」から見た場合、もちろん心から患者さんを救いたいという動機から臓器移植を推進しようという方々もおられると思います。

ある政治家の方が「ひとりでも多くの命を助けたい。」と言われていました。

確かに、その発言だけを聞くとすばらしい、と思えます。

しかし、以前であれば、一般医療と臓器移植の問題は別次元の話と一笑に付されたと思うのですが、現在の医療の危機的状況を見ると、「脳死・臓器移植」と「医療全体」との整合性を図ることも必要だと思います。

現在、経済的事情で保険証がない人の数は、子どもだけでも3万人を超え、病気になっても病院に行けない人が増え、受診が遅れて命を失うような無念の死も頻発しているような現状です。

病院は、というと小児科医や産科医は不足し、地域医療は、例えば銚子市民病院のように閉鎖になる病院も出てくるような状況です。幼児救急における日本の救命率は先進国で最悪です。

この様な問題はそのままにしておいて、こと「臓器移植法」だけは、十分な審議もされないまま性急に採決された、ということから見て、「ひとりでも多くの命を助けたい。」という臓器移植推進派の政治家や医療関係者の方々の「動機」には疑問を抱かざるを得ません。

それから、臓器移植を推進しようという方たちは、ご自分が「脳死」になった時、臓器を摘出される際に激痛を感じる可能性があっても、それを受け入れる覚悟をされているのだろうか、と思います。

ぬまさんのコメントにある、

>むしろ、脳死判定を受けた子どもから臓器を摘出して移植を受けることを希望している側は、自分の子供が脳死判定を受けたときには我が子の臓器を摘出して提供するつもりなのかどうかというような、倫理的な事柄だと思うのです。

についてですが、参考文献にあげた「生命観を問いなおす」の中に、公の場所では、いままでほとんど語られることがありませんでした、とことわられた上で、「臓器移植は、提供者の人類愛を活かす行為だとよく言われます。たしかに、そういう面はあります。しかし同時に、臓器を受ける側には、臓器をもらってまでも自分が生き延びたいというエゴイズムと、生への執着があるのです。それがあるからこそ、臓器移植のニーズが出てくるわけです。」と書かれてあります。
厳しい書き方だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私もそのように思うのです。

kkさんの、

>臓器移植の根底には、CENSOREDばすべて終わりであるという“唯物的思想”があります。その唯物思想が、肉体生命こそ最も大切であるという“肉体生命至上主義”をつくり出しています。そうした唯物生命観においては“死”は敗北であり、反対に少しでも肉体生命を永らえさせることは医学の勝利であるということになります。

というご意見に関して、”唯物的思想”ということで、思い当たる箇所をご紹介したいと思います。

「アメリカでは、死んだ人間の体をバラバラに分解して、それを心臓弁や骨や皮膚や細胞などのパーツごとに収拾し、使いやすいように加工して、医療の材料として売りさばく商売があります。臓器移植は、現在、多臓器同時移植の時代、すなわち取れる臓器は心臓、肝臓、肺、腎臓、膵臓など、全部とりだして使ってしまう時代に入っています。そして、臓器を取りだして残った身体についても、そのパーツをできるかぎり取りだして利用することができるのです。『禿鷹がむらがる』ように、使えるパーツはすべて使いきってしまおうという時代に入りつつあります。」

「脳死になった人間の身体のすべての部分をパーツとして再利用したり、脳死の人の身体を実験台にして利用しつくすような行為が、社会の基本システムとして組み込まれてゆくことには、断固として反対すべきです。その根拠はと言えば、人間の身体の「部品視」「物質視」を前提として運営される社会は、地球上の生きとし生けるすべての生命のあり方を大切にしてゆくことを、徹底して抑圧するような社会になるからです。」
           (以上、「生命観を問いなおす」より)

私は、上記の意見に賛同します。

以上の様なことから見て、私も臓器移植には反対です。
しかし、日本人が海外で臓器移植を受ける現実があります。とにかく、もっともっと必要な情報が提供された上で、慎重に、深く掘り下げられた議論がなされるべき重大な問題だ、と思うのです。

15/07/2009(水) 00:41:31

No.5877  飯沼 ホームページ E-mail
三田さんからのメールです 引用
☆三田さんからのメールを代理投稿します。
。。。。。。。。。。。

皆さんのお考えを読んで、私の感じた事を書きます。
今回の問題は、国が、政治家が臓器移植を可能にする為に
人の生死の判断基準を決定したと言う事ではないのでしょうか。

その事に対しては、私もひとくくりに判断や決定するべきものと
は思いませんし、できるものだとも思いません。

しかし、臓器移植だけで議論するならば、これもひとくくりに否定
出来ないのではないかと思います。

人間が臓器移植を否定してしまうのは、危険な気がします、もち
ろん肯定してしまうのも同じだと思います。

自分を他者の為に役立てたいと思う人がいて、これを受け取る
人がいるのならば、ここに不純な動機がなければ、これは「その
様に計られた」神の計らいと言える事も有るのではないかと思う
のです。

神はその様な計らいはしない、と言われると返す言葉はありませ
んが。

もしも、夫が事故で脳死状態、同時に子供が臓器移植しなけ
れば生きられないと言われたら、「2人とも死ぬ事は終わりでは
無く帰るべき所へ帰るのだから」と思い切れるでしょうか。

「夫の臓器を子供に移植すれば、子供だけでも助かる、夫も許
してくれる、いやそれを望んでいる」と思うのではないでしょうか。

だから、臓器移植の是非は状況によってそれぞれに考えを尽くさ
なければならない問題であり、それでも結論は出ないのではない
かと思います、でも考えなければならないのだと・・・・・・・・・。


15/07/2009(水) 18:31:21

No.5878  さき
Re: 引用
臓器移植法への疑問を感じながらどう表現したらいいものかとモヤモヤしていました。
うちの娘は一般的には「先天的重度重複障害」と言われる病気を抱えて生まれてきました。
何度も呼吸停止、蘇生措置を受けました。
私はそのたびに「戻ってきて!」「生きて!」と。。それしかありませんでした。
心臓が止まりそうな緊張の時間を、何度も何度も味わいました。
地上を離れる前日に、心肺停止になり人工呼吸器をつけました。
最後まで自発呼吸が戻ってくれると信じていました。

それは親のエゴかもしれない。
けど「生きて!」という思いは痛いほどわかります。
うちの娘には移植の問題はなかったですが、
「移植すれば助かる」と言われたら、どれほど心が揺れただろうと思います。

娘が5ヶ月で他界した時、主治医から解剖のお願いを受けました。
同じ病気のお子さんのためにも体のなかを見させてほしいと。
意図はわかっても、嫌でした。理屈抜きに受け入れられませんでした。
3か月で気管切開の手術を決断し受けさせた。
たくさんしんどい思い、痛い思いをしてきた娘をこれ以上傷つけるのは嫌だった。考えられなかった。

それは肉体への執着と言われるのかもしれません。
けど、それが、地上の人間の気持ちだと思うのです。
その気持ちを置いておいて、まるでないものかのようにして語られる「霊的真理」ほど、空虚なものはないと思います。
何と言われようとこの地上の人間として生きたいです。
この地上の人間の気持ちに寄り添って、その支えになりたいです。

「長期脳死」といわれる状態でがんばっている子どもたちがいます。
呼吸器をつけながらも、すくすく成長して、輝くような笑顔を見せてくれる子どもたちがいます。
子どもたちは時に今の医療の常識を超えて奇跡的な生命力を見せてくれます。
臓器移植法の論議のなかで、その子たちの存在がないものにされるようで、同じいのちが軽く扱われるようで、我慢ならない思いがありました。
法律が通ったことで、重度の子たちに対する治療や救命に悪影響がでなければいいのですが。。
心配です。

脳死判定をすることは救命をあきらめることです。
医師はその判断をどうやってするのでしょう。

「移植によって助かる」ということが大きくとりあげられる時、提供する側のいのちは忘れられ、軽んじられているような気がしてなりません。
そのなかで進められている臓器移植の推進という方向性に疑問を感じています。

移植=いいこと というイメージが先行するなかで、春が来るさんが書いて下さったような臓器移植に関する情報がどれほど伝えられているのだろうと思います。
(1990年、版大病院での脳死判定が刑事事件となり、裁判のなかで脳死が確定する90時間前に救命治療が中止され、脳蘇生の治療を放棄して臓器を保存する処置がされていた、という事実があります。)

>もしかすると、その人は移植をしなくとも生きていられたかもしれません。
>逆に、移植を受けられずに亡くなった人は、移植を受けても助からなかったかもしれません。

そのとおりだと思います。
移植しかない、移植すれば助かる、と言うこと自体が、臓器移植を推進したい人たちによってつくられた考えなのかもしれません。(国立循環器センターで2005年4月までに心臓移植を希望して登録した90例のうち、心機能が回復して10例が登録取り消しになった、というデータがあります。)

すべてのいのちが等しく大切にされること。
という視点で、この問題を考えていきたいと思います。

移植医療ということ自体が誰かのいのち(死ぬこと)のうえに成立する。それが人間の<生>を軽んじる(差別する)流れにあるなら、問題です。
この医療の流れは果たして私たちの(自分もみんなもの)幸せや喜びにつながるものなのか。
人間の幸せとは、死とは、人間に寄り添う医療とは。。
ひとりひとりの、それぞれの現実に寄り添いながら、一緒に考えていけたらと思います。

15/07/2009(水) 19:40:34

No.5879  春が来る
Re: 引用
私は、今回、人の死生観に関わる重大な問題が、臓器移植法の是非に必要だと思われる情報の提供もないまま、決められていく事に危機感を覚え投稿させていただきました。

もちろん、私が投稿したからといって、世の中の動きが変わるわけではないのですが、自分の気持ちとして看過できなかったのです。

いろいろなご意見があることは、もとより承知していますので、ここで結論が出ることを望んでいるわけではありません。今まで申し上げてきたような、様々な問題がある中での臓器移植には反対だ、ということなのですが、これは、あくまで私個人の意見です。

最も移植要件が緩和されるA案に決まりましたが、改正臓器移植法が成立した過程を見てみますと、「A案が過半数の支持を集めたのは、衆院解散・総選挙も絡んで政局の流動化が予想されることから、今国会での改正実現を優先する議員心理が働いたものとみられる。」(「朝日新聞」より)
ここからも、「動機」として「ひとりでも多くの人の命を救いたい」、という純粋さは感じられません。

>自分を他者の為に役立てたいと思う人がいて、これを受け取る
人がいるのならば、ここに不純な動機がなければ、これは「その
様に計られた」神の計らいと言える事も有るのではないかと思う
のです。

当事者、関係者の方々が、全て人類愛という動機に包まれている場合はあり得るのかもしれません。
私も、様々な問題点を知る前は、CENSOREDば自分の身体を提供しよう、と思っていました。

私は、医療従事者ではありませんから、医学的知識はありません。
しかし、例えば、「脳死状態」と「植物状態」の違いを言うことのできる方がどれだけいらっしゃるでしょうか?私もこの違いを言うことができませんでした。

2000年9月に「宗教法人大本」が街頭調査を行ったところ(対象者5172人)、脳死状態と植物状態の違いを説明できない人が全体で73.6%、ドナーカード保持者においても62.7%にのぼったということです。

脳死状態と植物状態の違いの把握が、脳死・臓器移植問題のイロハだとすると、この結果はこの問題全体に対する私たちの認識の程度を表わしているのではないでしょうか?

今のままでは、多くの人が脳死・臓器移植の問題点を知らないまま、当事者になる可能性があるのではないでしょうか?

人間の脳は大脳と小脳と脳幹からなっています。まず植物状態とは、これら脳全体のうち、大脳と小脳が機能停止した状態、もしくは機能が著しく低下した状態をいいます。

対して、脳死状態とは、大脳と小脳に加えて脳幹までもが機能停止した状態です。

公式には、脳幹機能の有無との関係で、寿命がくるまで生きていけるのが植物状態、遠からず確実に死ぬとされているのが脳死状態、という事になっています。
しかし、最初に書きましたように、「脳死」といわれている状態でもいろいろな「生きている」ような事例が報告され、ラザロ徴候には脊髄だけではなく、脳幹も関与している可能性があるのです。

まだまだ、現代の医学では解明されていないことが多く、そこでは、私たちは、もっと謙虚にならなければいけないのではないでしょうか?

「自分を他者の為に役立てたい」と思う人の中で、どれだけの人が、例えば、「激痛を感じている可能性がある」「『死体』が子どもを産むことがある」「脳死と判断されてから19年以上生きている人がいる」というようなことを知った上でそういう判断をされているのか疑問に思います。
今のままでは、この様な崇高な気持ちさえ「利用」される危うさがある、と思うのです。

>神はその様な計らいはしない、と言われると返す言葉はありませ
 んが。

私には「神さま」のことは分かりません。私には到底、理解し得ない「人智を超えた存在」だと思っています。
ですから、この様な表現には正直とまどいがあります。

>「夫の臓器を子供に移植すれば、子供だけでも助かる、夫も許
 してくれる、いやそれを望んでいる」と思うのではないでしょう か。

三田さまは、「脳死状態」とは意識も感覚もなく遠からず確実に死ぬことが保証された状態、と理解されているのだと思います。
そして、今、一般的に与えられている情報から、この様に理解されている方が大半なのではないか、と思います。

「死体移植で臓器を摘出するのは、たしかに心停止後ではあるが、移植の準備はまだ生きているうちから進められるということだ。
このことは、『死体移植が人の死を大前提とし、人の死をあたかも待ちうけるかのようだ』、ということだけを意味するのではない。移植手術を成功させるために、ドナーとなる患者にカテーテルという医療器具を差し込んで、生きているうちから有害な臓器保存液を投与し、患者の死期を早める可能性があるのだ(この点においては脳死・臓器移植でも同様である)。
しかも、死体移植では心停止は一応確認するものの、心停止後、ほどなく臓器摘出手術に入る場合が多く、その場合脳がまだ機能しているがいぜん性が高い、という重大問題を抱えている。
つまり、臓器摘出に際して、ドナーは激痛や恐怖にさいなまれながら臓器をとりだされている可能性があるのだ。」(「脳死・臓器移植の本当の話」より)

現在、行われている死体移植においてさえ、この様な問題があるのです。「激痛を感じている可能性がある」としても、ご主人の臓器移植を受け入れられるでしょうか?

本当に「人類愛」という動機で、臓器移植が行われるのであれば、まず、この様な情報が、臓器移植を受け入れるかどうかの判断材料として提供されるべきではないのでしょうか?

1994年の調査によれば、全米の臓器移植施設の実に約3分の1が、「脳死に至る以前に」モルヒネを投与して臓器を摘出できるという規定(プロトコル)をもっているということです。
この様な現場で、最後まで患者さんに対して出来る限りの治療が行われるでしょうか?

また、アメリカのテンプル大学では、開発中の埋め込み型人工心臓の人体実験のために、5人の脳死の人の身体が実験台として利用されました。
本人の「菩薩行」の承諾が得られていれば、何をしてもいい、ということではないと思いますが、今の流れの中では、この様な危険性をかかえている、と感じるのです。

「現代社会とは、個々人の行う善意の行為というものを、あらかじめ算出されたシステムの統計的なふるまいとして、冷酷によみかえてゆくような社会です。
たとえば、年に何十人かは移植の提供者があらわれるであろうということを、統計的にあらかじめ算出したうえで、その予測にもとづいてシステムを組み上げてゆくような社会なのです。
そのような社会システムの側から見たとき、個々の臓器の提供が、『善意』『菩薩行』にもとづいているかどうかなんてことは、全くどうでもよいことです。
予測どおりの数の提供者が出現することのみが、社会システムの側の唯一の関心事なのです。
『善意』や『菩薩行』にもとづいているからこそ承認したはずの社会行為が、単なる統計的なシステムのふるまいとして読みかえられて、社会システムのなかに工学的に組み込まれてゆく。こういう本質を、現代社会はもっています。」(「生命観を問いなおす」より」

私は、十分な審議もされないまま決まった改正臓器移植法が、このような現代の社会システムの中に組み込まれていくことを危惧します。そして今まで述べてきた様々な問題を考える時、恐ろしさを感じるのです。

私は、今回、脳死・臓器移植に関して知り得た問題点が、一般的に報道されないまま審議が進んでいくことに危機感を覚えました。
そして、その問題点が重大であると感じましたので、ひとりでも多くの方に知っていただきたくて投稿させていただきました。
しかし、「死生観」にかかわる大きな問題だけに、限られたスペースで、かつ、私のつたない文章で、どれ位お伝えすることができたか、はなはだ疑問に思います。
今回のことで、関心をもってくださった方は、先に上げました参考文献「脳死・臓器移植の本当の話」「生命観を問いなおす」をお読みいただければ幸いです。

16/07/2009(木) 01:53:52

No.5880  さき
Re: 引用
春が来るさん
情報ありがとうございます。私も紹介下さったような情報が、移植を受ける側、提供する側(ドナー登録時にも)双方に判断材料として提供される必要があると思います。

ただ、思ったことがあります。
また娘の話になりますが、気道が狭く呼吸が不安定でしたので生後3ヶ月の時に呼吸を確保するための気管切開の手術を受けることを決断しました。娘を失いたくなかった。出来ることはなんでもしたかった。私には「生きて!」しかなくて、待ったなしで医師から示された選択肢を選びました。
それが間違いと思ってませんし、実際に手術をしたおかげで呼吸は安定し、体重も増え、笑顔も増えて、娘との幸せな時間をプレゼントしてもらったと思っています。あの時点で手術という選択肢があったことに感謝しています。150万程の医療費も育成医療の制度に助けてもらいました。
ただ地球上には1錠の抗生剤がないために亡くなっていく子どもたちがいる。。そのことを私は知っています。神様から見たら自分はすごいエゴイストなのかもしれないと。それは神のみぞ知る、の心境です。

16/07/2009(木) 09:41:06

No.5881  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 引用
☆春が来るさん

臓器移植については、春が来るさんが提供してくれた情報等も含めて考えねばいけないことだと思います。
いずれにしても、国会での議決は内容も経緯も不十分であると思います。

しかしながら、臓器移植を受けた人がまるで罪を犯しているかのような印象を与えてしまうことはいかがなものかと感じます。
もちろん、春が来るさんにはそのような気持ちはないのでしょうが、臓器移植を「正義」の側面から論じ、反対の論調を強めているので、そういう印象を受ける人がいるのだと思います。
システムや背景の不正義について述べるのであれば、やはり臓器移植を受けた人の気持ちへの配慮は不可欠だと思うのです。
そこがとても気になりました。

少なくとも今回の国会決議は、脳死判定を義務付けるものではありませんし、脳死判定を受けた人に臓器の提供を強制するものでもありません。
「脳死=死」と法律で規定することの問題点は僕も強く感じていますし、この先の展開についての危惧も抱いていますが。

臓器移植は脳死判定された人からだけではなく、腎移植や角膜や皮膚移植なども行なわれています。
春が来るさんは、主に脳死判定をされたケースの臓器移植のことを述べておられるのですが、やはり、配慮に欠けている印象を受けました。
この掲示板は臓器移植を経験したご家族も読んでおられます。
その方々の気持ちを乱すことのないような配慮と共に、臓器移植の問題点を提示してもらえればありがたかったです。

特に、「臓器を受ける側には、臓器をもらってまでも自分が生き延びたいというエゴイズムと、生への執着があるのです。それがあるからこそ、臓器移植のニーズが出てくるわけです。」という引用に関しては、僕は強い違和感を持ちました。
僕は自分は臓器移植を受けることはありませんが、上のようなことを言う人の感性・感覚を疑います。
臓器をもらってまで生き延びようとする人や、自分の愛する家族が生き延びてほしいと願う人間の気持ちを、「エゴイズム・生への執着」と公言してよいとは思いません。

死亡した直後数時間以内人の角膜をもらって目が見えるようになる人がおられます。
その人たちに、「人の角膜をもらってまでも自分の目が見えるようになりたいエゴイスト」と言えるでしょうか?

そういう論旨で言えば、脳死は自呼吸ができず、人工呼吸器を装着せねばならない状態が前提ですから、「貧しい国の人々が受けることのできない高度医療を受けてまでも生き延びようとするエゴイスト」ということになってしまいます。
そればかりか、どんな医薬品もたくさんの動物の生命を奪う動物実験を経て作られています。
では、「薬を飲む人間は、罪もない動物を大量殺戮してまでも、自分が生き延びようとする、治ろうとするエゴイスト」と言わねばなりません。
もちろん、シルバーバーチも動物実験にも反対しています。
「霊的真理に反するから臓器移植は間違いだ」と断言する人は、自分は一切薬を飲まないのか、薬を飲む人に対してそう言えるのかということです。

霊的真理とは、地上の人間としての思いを否定するのではなく、それをありのままに受け入れて寄り添いながら、しかし越えていく方向性を示していくことによって人々に浸透していくのだと、僕は思っています。
(なかには四の五の言わずに本人がすぐに改めねばいけないこともありますが)

十分な調査も論議もしないで国会で議決した議員たちのお粗末さや、利権がらみで臓器移植を推進しようとしている人たちと、当事者として臓器移植に望みを託す患者さんたちの動機は、はっきり区別しておかねばならないと思うのです。

16/07/2009(木) 14:15:04

No.5882  春が来る
Re: 引用
今回の問題は「生命観」にかかわる重大な問題であり、ここで私の考えをお伝えすることに限界を感じましたので、出来れば、私が共感した本を読んでいただければと思い、前回、ご紹介しました。

でも、再び、私なりにではありますが、述べさせて頂きたいと思います。
また、長くなりますがご了承ください。

さきさん、どうして娘さんの気管切開の手術がエゴでしょう?
私はそのような意味のことはひとことも申し上げてきたつもりはありません。
私もさきさんと同じ立場に立てば、同じように手術を願ったと思います。また、私自身も生きる為にせいいっぱいのことをしたいし、して欲しいと思います。
私たちは与えられた命を最後までせいいっぱい生きなければいけないのだと思います。

一般的医療などで出来る限りのことをしてほしい、してあげたい、と願うのと、脳死・臓器移植の問題とは論点が違うと思うのです。

「脳死者」の側に立って見た場合、「脳死者」の方は、最後までせいいっぱい生きられないのです。
今まで、事例を挙げて述べてきましたように、私は「脳死者」の方は「生きている」と思っています。長期脳死の方の側に立てば、今後、社会的には「死んでいる」とみなされ、健康保険も受けられなくなるのではないか、というような切実な不安も出てきているのです。

臓器移植の為に、それまで「不可逆昏睡」だったのが「脳死」という言葉に変えられ、イメージとして「死んでいる」人のように捉えられがちです。しかし、「生きている」人だと思うのです。
脳死・臓器移植はその様な人たちの命を奪う行為によって成り立つのです。

医療現場における脳死・臓器移植の問題点については、今まで、与えられたスペースの中で、私なりに出来るだけ述べさせていただきました。

脳死・臓器移植の問題は、つきつめていくと現代文明のあり方まで見つめていかなければいけないのだと思います。
この点については、私のつたない文章よりも、「生命観を問いなおす」から引用させていただこうと思います。

【現代文明の底辺には、次のふたつがあると私は考えます。すなわち、

(1)もっと長く生きたい、もっと快適な生を送りたいという「生命の欲望」
(2)その欲望を精緻なかたちで満足させようとする社会システムと科学技術

  このふたつです。

このふたつがみごとに結びついたおかげで、私たちは長い寿命と、快適な生を手に入れることが可能になりました。しかしそれと同時に、私たちは環境破壊や、都市の荒廃などに見られるような現代の病理をも抱え込んでしまっています。
我々の文明を根本から規定している「生命の欲望」そのものが、環境破壊を生み出したのです。

自然の猛威や、災害や、野生動物などから身を守り、なるべく長く快適に生き延びたいという「生命の欲望」に、自然環境をコントロールする技術が結びつくとき、自然支配と環境破壊が立ち上がったのです。近代の科学技術と産業社会がそれに拍車をかけました。
ですから、環境破壊の原因のひとつは、人間の「生命」そのものの中にひそんでいるのです。

たしかに人間の「生命」には、他のあらゆる生命と共存し、生きとしいけるもの全体の環境のなかで生死を全うしようとする本性があります。

しかしこれと同時に、人間の「生命」には、自分たちが生き延びるためには他の生命を貪欲に利用し、犠牲にし、搾取してゆく本性があるのです。
この生命の本性こそが、人類を地球上で何百万年も生き延びさせ、そして文明へと導いていったのです。(この箇所は「霊的」視点から見れば、厳密に言うと違ってくると思うのですが・・・)
生命の本性がはらむ、この二面性を見逃してはなりません。

「自分がもっと生き延びたい。」それは、ほかならぬ私たちの「生命」の奥底から発せられる魂の叫び声です。そういう気持ちがあるからこそ、他人の臓器をもらってまでも生き延びたいという願望が出てくるのです。そして、そういう気持ちはみんながこころに抱え込んでいて、この点ではみんな同罪なのだから、その願望はできるだけ認めてゆこうとするところに、脳死・臓器移植を肯定する社会が立ちあらわれてくるのです。そういう「生命の欲望」を満足させるツールとして発展してきたのが、近代の科学技術でした。

科学技術は、私たちの生命の欲望をきわめて効果的に満足させることができます。
ですから、私たちはそれを、現代社会のなかに受け容れ、そのうえに立って快適な生と欲望の満足とを追求することができるのです。そして、その技術は、徹底した脳死の人の身体の利用にまで突き進んでゆくのです。】

今や、環境破壊は危機的な状況です。(Co2の問題ではなく、世界的に見て、森林破壊や海、河川の汚染、核実験、戦争によるものなど全て含めて)

今まで、私たちは欲望のままに「必要以上に」ほかの生きとし生けるものの生命を奪い生きてきました。
その行き着くところまで、行き着いた先が、まだ「生きている」他の人の命までをも奪おうとする脳死・臓器移植なのではないでしょうか?

「人間の生命がもっている、この果てしのない「生命の欲望」の本質を、どこまでも突き詰めてあぶりだしていくこと。
そして、その『生命の欲望』と関係のある科学技術と近代社会システムの姿を、クリアーに浮き彫りにしてゆくこと。この構造を、精密にあぶりだし、その光と影とを把握し切る為の努力が今、求められているのではないでしょうか?そのうえで、そういう現代文明の枠組みにとどまっていることのできない人間のもうひとつの本質というものを、どこまでも追求していくこと。そういう地道な作業こそが、今、求められているのだと思うのです。」

「生命観を問いなおす」の中で、筆者が言いたかったのは、上に書いたことで、現代文明への警鐘なのです。

私にも、もちろん欲望があり、未熟な人間です。
ですから、この様なことを書く事には勇気が要ります。
しかし、誰かが、「No」と言わなければ、問題提起しなければ、そのまま流されていく危険性を感じたのです。

飯沼さん、上記の内容を書いて、投稿をする前に飯沼さんの投稿を読みました。
続けて、述べさせていただきます。

>しかしながら、臓器移植を受けた人がまるで罪を犯しているかのような印象を与えてしまうことはいかがなものかと感じます。
もちろん、春が来るさんにはそのような気持ちはないのでしょうが、臓器移植を「正義」の側面から論じ、反対の論調を強めているので、そういう印象を受ける人がいるのだと思います。
システムや背景の不正義について述べるのであれば、やはり臓器移植を受けた人の気持ちへの配慮は不可欠だと思うのです。
そこがとても気になりました。

確かに、飯沼さんの仰るような配慮に欠ける面はあったのだと思います。
傷つき、ご気分を害された方には、心よりお詫び申し上げます。
私が参考文献とした2冊は、どちらも、今の偏った報道、または、報道されないことへの危機感から書かれたものです。
ですから、声をあげにくい「脳死者」の方の側に、より、寄り添って書かれた側面はあります。
ここしばらくの報道は、どちらかというと「改正臓器移植法」を通そうとするかのような意図を感じる「偏り」があると私は感じました。
ですから、私も「全体」としてみた時、「公平」になるように、よりドナーの方の側に立った面はあったと思います。

一般的に情報があまり流されていない中で、このような大きな問題を、初めから限られたスペースで書くことに限界を感じました。
どうしても、本などの様に深く掘り下げた、様々な視点からはお伝えしにくいのです。これも、ひとえに私の文才のなさからだと思いますが、このことが、最初に述べました私が「限界」を感じた理由です。

今回、もうひとつ私が感じたことは、どうしてもネット社会の情報は表面的で単純化されたものになりがちではないか?ということです。
もちろん、インターネットを否定するわけではありません。
私も、いろいろな情報を得る一つのツールとして利用しています。
しかし、この様な深く掘り下げなければいけない問題を扱うのには不向きではないか、と感じたのです。
ですから、最初は問題提起だけをするつもりで「事例」だけをあげました。
とても、ここには書ききれなかった様々な問題が、まだまだあります。

>特に、「臓器を受ける側には、臓器をもらってまでも自分が生き延びたいというエゴイズムと、生への執着があるのです。それがあるからこそ、臓器移植のニーズが出てくるわけです。」という引用に関しては、僕は強い違和感を持ちました。
僕は自分は臓器移植を受けることはありませんが、上のようなことを言う人の感性・感覚を疑います。
臓器をもらってまで生き延びようとする人や、自分の愛する家族が生き延びてほしいと願う人間の気持ちを、「エゴイズム・生への執着」と公言してよいとは思いません。

この場合、私も「エゴイズム」という単語を用いていることにためらいがありました。
時に言葉はとても荒いものだと思います。この文章に関して、私は、脳死・臓器移植の中でとらえました。その場合、言葉はきついのですが、一方では、脳死・臓器移植の為に失われる命があるとすれば、この単語が使われることも仕方がないように思ったのです。
先に筆者の一番いいたかった事をかきましたが、臓器移植法に大きな影響を与えた方として、脳死臨調の委員だった梅原猛さんがあげられます。
筆者は、梅原氏の脳死論のなかに、現代の科学技術文明と社会システムの只中に息づいている「煩悩」の姿を、積極的にとらえて見つめていこうとするまなざしが欠けていると感じ、それをあぶりだす為にこの様な表現になったのだと思うのです。

>死亡した人の角膜をもらって目が見えるようになる人がおられます。
その人たちに、「人の角膜をもらってまでも自分の目が見えるようになりたいエゴイスト」と言えるでしょうか?

私は、まったくその様なことを言うつもりはありません。
亡くなった方が自分の身体を役立てて欲しいと思われ、それにより目が見えるようになった方のことを否定、非難するつもりは毛頭ありません。

今回は、私は、臓器移植法の改正にともなって、脳死・臓器移植についての問題点をお伝えしたかったのです。
しかし、死体臓器移植にも問題はある、と思います。
病院によっては入院時にドナーカードの所持を確認するところがあるそうですが、そこでは患者さんの救命に全力を尽くすといった医療の大原則が脅かされることはないのでしょうか?
治療を遂行しながらも、移植のことが脳裏をよぎることは皆無なのでしょうか?

先日、朝日新聞の声欄に、お父様の生前のご希望により、ご遺体を献体された息子さんの投書が載っていました。
献体後、のどぼとけと少しの遺骨だけが返ってきたことに対して、献体のあり方を問う内容でした。

ドナーの方の尊厳が保たれることは、必要最低限のことだと思うのですが、それが、全てにおいてはなされていないように感じるのです。

>霊的真理とは、地上の人間としての思いを否定するのではなく、それをありのままに受け入れて寄り添いながら、しかし越えていく方向性を示していくことによって人々に浸透していくのだと、僕は思っています。

私もその様に思いますし、地上の人間としての思いを否定するつもりは全くありません。
今回の私の文章からその様に思われたのであれば残念に思いますし、それは、きっと私のいたらなさからくるものだと思い、今回のことを見つめなおそう、と思います。

>十分な調査も論議もしないで国会で議決した議員たちのお粗末さや、利権がらみで臓器移植を推進しようとしている人たちと、当事者として臓器移植に望みを託す患者さんたちの動機は、はっきり区別しておかねばならないと思うのです。

臓器移植を望む人の気持ちは切実であると思いますし、とても書くのに難しい面があることは承知していました。初めは書くつもりはなかったのですが、

>国会議員が多数決で決めるようなテーマではなく、むしろ、脳死判定を受けた子どもから臓器を摘出して移植を受けることを希望している側は、自分の子供が脳死判定を受けたときには我が子の臓器を摘出して提供するつもりなのかどうかというような、倫理的な事柄だと思うのです。

という飯沼さんのご意見がきっかけになって書いた、というところはあります。

最後になりましたが、私の文章により不快な思いをされた方に対してお詫びいたします。

私はまだまだ未熟な人間です。
この様に文章にする難しさもあります。

ただ、今回、ここに投稿した動機は、十分な情報も与えられず、性急に改正臓器移植法が決められていく中で、「脳死」の方を初めとする、人の尊厳を守りたいというものでした。

数々のいたらないところはあるかと思いますが、文章全体の意図するところをお汲みとりいただければ幸いです。

16/07/2009(木) 18:42:27

No.5883  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 引用
☆春が来るさん

>確かに、飯沼さんの仰るような配慮に欠ける面はあったのだと思います。

僕が伝えたかったのは、ここだけです。
春が来るさんの投稿の趣旨は十分に理解していますし、基本的に僕も同意見です。

16/07/2009(木) 20:57:40


No.5874 飯沼 ホームページ E-mail
今日は誕生日でした 引用

まだ、7月14日ですね。

今日は僕の誕生日でした。
57歳になりました。
大勢の皆さんからメール等をいただき、ありがとうございました。

あいにく今日は仕事に追われて、お礼の返信もできていません。
せっかくお祝いメールをもらったのに、失礼をお許しくださいね。

この歳になっても、誕生日を皆さんに祝ってもらえるのは、照れくさいけど嬉しく思います。

いつの間にかずいぶんな歳になったけど、自分的には若返りつつあるように感じています。
意欲も体力も充実した57歳の誕生日は、やはり嬉しいです。
ありがとうございます!

14/07/2009(火) 23:41:52


No.5876  あきどん
Re: 今日は誕生日でした 引用
飯沼さん、お誕生日おめでとうございます!

若返りつつあるように感じられるなんてすばらしいですね!
これからますます充実されたヌマさんでありますように。

15/07/2009(水) 16:18:03


No.5858 春が来る  
(No Subject) 引用
まず、政治的で、とても重い内容をここに投稿することをお許しください。

投稿すべきか迷っていたのですが、7月4日、朝日新聞に載った海堂尊(かいどうたける)氏の「脳死認めぬ社会は冷たい」の記事を読み、臓器移植法改正案の参院での採決を明日、13日に控えた今、それまでにどうしても書いておきたい気持ちになりました。

海堂尊氏は小説「チーム・バチスタの栄光」を書かれた方です。まず、上記の様な見出しで書かれると、冷静な議論が出来なくなる、と思います。

衆院で過半数の賛成票を集めたA案の根底には「脳死は人の死」という考え方があります。

これは、「死生観」にかかわる重大な問題だと思います。しかしこの様な改正案が、衆院でわずか8時間の審議時間、しかも、本会議でも議員が私語を交わしたり、居眠りをする姿が目立つという状態で可決されたのです。

ここしばらく、新聞やテレビの報道で臓器移植に関するものを注意して見てきたつもりですが、移植を待ついたいけな子供たちの映像に比べて、ドナー側の問題性をも勘案した番組は少ない、と思いました。

脳死状態とは、大脳、小脳に加えて脳幹までもが停止した状態で、それゆえ、脳死状態に陥った人は、意識も感覚も不明であり、しかもその多くは数日間のうちに心停止をきたすといわれています。

しかし、現在の厚労省の脳死判定基準で脳死と判定された脳死者は、本当に、意識も感覚もなく、遠からず確実に亡くなるのでしょうか?

例えば、厚労省基準で脳死と判定されたとしても、それだけではチェックできない脳の視床下部というところが機能しており、そこからオキシトシンという子宮収縮ホルモンが分泌されているので、妊婦は脳死状態に陥っても出産が可能なのです。「死体」が子どもを産むのです。

また、1990年12月15日に放映された「NHKスペシャルー脳死」の番組の中では両眼から角膜を摘出するシーンで脳死者のひたいには汗が無数の玉となって浮き上り、眼には涙があふれていたのです。

1999年2月に高知赤十字病院で繰り返し行われた臨床的脳死診断と法的脳死判定では、一度消失した脳波が蘇ったという事態があったそうです。さらには、脳死判定をすべて終えて脳死が法的に確定した後、臓器摘出のためにメスをいれると、それまで120だった血圧が150程度に急上昇し、麻酔を投与したというのです。

「脳死者」は言葉で意思表示が出来なかったにしても、臓器摘出時に意識や感覚が残っていて、激痛を感じている可能性があるのです。

アメリカやイギリスでは多くの場合、こうした可能性があるからこそ、モルヒネを投与して臓器を摘出しているという事のようです。

また、脳死者には、単なる脊髄反射としては片付けにくい、複雑で流動的な自発運動が数多く報告されているのです。

この運動はキリストによって死後4日目に復活させられたとされる人物ラザロの名をとって、「ラザロ徴候」と呼ばれるそうです。ラザロ徴候には脊髄だけではなく、脳幹も関与している可能性があり、日本でも事例が報告されています。

例えば、アメリカの28歳の男性の脳死者に身体の連続的な動きがみられたという報告があります。脳死判定から15時間経った後、手足の伸長運動に続いて、左足がベッドから自然に持ち上がり、両腕もおよそ45度まで上がり、そして、両手を合わせて祈るような動作をして、指を握りしめ、その後、両手は離れて胴体の横へと戻ったそうです。
こうした運動が自発的に4日間つづき、刺激を与えると5日間起こったと、アメリカのテンプル大学病院の医師が著名な医学雑誌に報告しています。

そして、「脳死者」は何も考えられないし、感じられないということは、現在の医学では断定できない。しかも、脳死者に意識や感覚が存在する可能性がある、という事なのです。

また、「脳死者」は遠からず確実に死ぬわけではなく、脳死判定から、少なくとも2003年春の時点でも存命中で、脳死判定から19.5年が経過し、23歳になっている”少年”もいるのです。

そもそも、「脳死」という名称が使われるようになったのは、1968年。それまでは「不可逆昏睡」という名称だったのです。

では、なぜ1968年なのか?1968年が、世界的な心臓移植ブームを迎えた年だったからです。

心臓移植は拍動停止後の心臓では成功しにくいのですが、拍動中の心臓を摘出すれば移植成功の可能性は生じるものの、移植医は殺人罪に問われかねません。そこで、心臓移植をつつがなく行うためには、是が非でも「不可逆昏睡」を人の死とすることが必要だったのです。

「パーソン論」という理論があります。一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを識別する根拠を構築した理論です。

パーソン論では、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのです。したがって、パーソン論からすると、自己意識や理性の源とされる大脳が機能停止した脳死や植物状態の者、もともと大脳の大部分が存在しない無脳児は、生物としてのヒトではあっても人格を持つ者ではない、という事なのです。

そしてそうである以上、この者たちに人間としての生存権はないという事なのです。こうして、脳死者や植物状態の患者や無脳児といった“人間もどき”からの臓器摘出には支障がないという事になります。

さらには、同じ論理で重度精神障害者・知的障害者や痴呆性老人も非人格対象者に加えれば、ドナーにすることが可能になります。
こうしてパーソン論にあっては、ドナーの対象範囲の拡大は肯定されるのです。

これは杞憂ではなく、アメリカやオーストラリアでは、移植臓器の不足を背景として、臓器提供者の範囲を脳死者からこの様な人々へ拡張しようとする議論が真剣にかわされてきているそうです。この様な流れを憂えます。

私は、この様に、意思表示が出来ない、弱い立場に置かれた人たちの、人としての尊厳を考える時、もっといろいろな角度から、深く慎重に議論されるべきだと思うのです。

あまり、この様な内容が報道されていないように思いましたので、思い切って投稿させていただきました。
読んでいただければ幸いです。

 [参考文献   「脳死・臓器移植の本当の話」 小松美彦著 、       「生命観を問いなおす」 森岡正博著 ]

                                                
                                                

12/07/2009(日) 20:49:06


No.5860  ひろこ
Re: 引用
私も同じ考えでいたんですが、それも分からないでいました。
コピーしてゆっくり読ませて頂きます。
いつも、有難うございます。

12/07/2009(日) 23:45:56

No.5862  さき
Re: 引用
春が来るさん、臓器移植法案についての投稿ありがとうです。
明日採決されるんですよね。
私もひとこと言いたいです。先日新聞に、この法案についての論議が載ってて、支持する作家さんがこう書いてた。
〜〜臓器移植は政治や政略ではない。人類共通のヒューマニズムの問題だ。心臓移植しか方法がないのに提供者がなく、死んでいく子どもがいる。・・・・日本人は肉体に執着しすぎる。〜〜

この場の皆さんはどう思われますか?

私は(移植を前提とする)脳死=人の死 とする今回の法案が安易に通っていくことに危機感を覚えます。
移植=「いいこと」として いのちが簡単に扱われていくことが怖いのです。移植を受ける側のいのちと同じく、臓器を提供する側も同じいのちです。その認識が欠落していると感じます。
(移植で救われた方を否定するものではないです。)

「脳死判定」は絶対ではありません。あいまいなものです。(特にこどもの場合は)。というか、脳死判定をするために、例えば自発呼吸の有無を確かめるため無呼吸テストでは、いったんその人の呼吸器をはずすわけです。そうして判定しようとする人がいて、脳死が決められるわけです。
愛する人の体温を感じながら、心臓の鼓動を感じながら「脳死」だから死だと言われても、受け入れるのは難しいです。脳死状態と言われてから1年以上生き続けたケースや、自発呼吸が戻ったケースもあります。
痛み刺激のある肉体に麻酔をして臓器を摘出する、という感覚にもついていけません。
といったことを、おいてけぼりにしたままで、臓器移植を進めるための法律が決まっていくことに危機感を覚えるのです。

冊子を取り寄せたので定例会に持っていきます。

13/07/2009(月) 00:35:36

No.5863  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 引用
心臓が動いていれば死んでいない=生きているというのが普通の感覚ではないでしょうか?

僕も、痛み刺激のある肉体に麻酔をして臓器を摘出する、という感覚にはついていけません。

確か、シルバーバーチは、「心臓が停止したあと、魂が肉体から離脱を完了するには一定の時間を要する」と伝えていたように思います。
「脳死」の状態で臓器を取り出すことは、魂のスムーズな移行の妨げになるということでしょう。

もちろん、本人の意志で、自分の臓器を提供することの動機はまさに地上最後の貢献ではあります。

しかし、特に、死の意味を十分に理解することなく地上を離れることになる子供さんの場合には、「脳死」の状態で臓器を摘出することはかなりの問題があると思います。

13/07/2009(月) 01:14:49

No.5864  えみこ
Re: 引用
今日のニュースは、昨日の都議選、そして解散〔早っ!!)

臓器移植法案?と思っていたら、テロップで流れました。

「脳死は人の死」 A案可決、というものでした。
どれだけの思いが込められていただろうか。

報じられる国会の方々、有識者と言われる方々の発言に
この改正案で何を守ろうとしているのだろうか、、腑に落ちない
ことが沢山ありました。

”子どもの移植に道を開いた”という。

写真付きで、移植が叶わず子どもさんを亡くされた両親の無念を
伝える記事があった。これからは助かるいのちがある、、、、と。
確かにそうかもしれない。

ドナー側の問題は片隅に少しだけあった。

この時、大事なことを置き忘れてやしないか、って思った。

心臓移植は心臓が機能していてこそなのだ。
それは揺るぎなく”生きている”ってこと。

”脳死の定義”をどこへおくの??また見直せばいい??

先日、”脳科学前線”を取り上げた番組をみた。
脳のメカニズムが少しずつ解明されてきている。
しかし、脳の奥深くで起こっていることには
遠く及ばない。

日本の移植法は”遅れている”と言われる。

日本人の持つ”死生観”をもっと大切にしては
いけないだろうか。

いろいろな角度から、熟慮し、方手落ちではなく、
人の心に寄り添った国づくりはできないものかと
つくづく思う。


> 私は、この様に、意思表示が出来ない、弱い立場に置かれた人たちの、人としての尊厳を考える時、もっといろいろな角度から、深く慎重に議論されるべきだと思うのです。

ほんと、そう思います。

> あまり、この様な内容が報道されていないように思いましたので、思い切って投稿させていただきました。

春さんの勇気に感謝!ありがとう。


                                                

13/07/2009(月) 14:29:20

No.5865  あきら&ひとみ
Re: 引用
臓器移植と脳死の問題は非常に難しいですね。

僕個人的な意見でしたら、脳死は死と認めません。
しかし、一方で移植をすれば助けられると強く願う方達のお気持ちも理解できます。
特にそれが幼い子供であればなおさらでしょう。

今の地上には、いろいろな考えの人たちが共存しています。
今、このような結果が出たからといって、それが必ずしも正解ではないと思います。(当たり前ですが)
その時代と人間の成長具合でよりベターな答えを求めているに過ぎないと思います。
そもそも死と言う意味さえも、人それぞれ受け取り方が違います。

A案が可決されたからと言って、家族の承諾がなければ臓器提供出来ないと、そこの幅で人それぞれ選択があるのは良かったと思います。
ただ、脳死=死というところには強く違和感を感じます。

14/07/2009(火) 00:19:52

No.5866  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 引用
僕ももう一度書きます。

そもそも、政治が人の死を定義することに対して非常に大きな違和感があります。
政治・政治家がそういうことを決める立場にあるはずがありません。
何を死とするかは、まずは社会通念が尊重されねばなりません。
社会通念とは、人々の感覚です。
人々の感覚が一律でなければ、できるだけどんな感覚の人をも排除・抑圧されないように調整するのが政治の役割です。

「パーソン論」は背筋が寒くなります。
絶対に同意できませんが、そういう考え方の人が存在していることも事実でしょう。

僕個人も臓器移植に反対です。
でも、こういう問題は、賛成・反対で議論する次元のことじゃないような気がしています。
あくまで個々人の感覚が尊重されるべき問題のように思います。
国会議員が多数決で決めるようなテーマではなく、むしろ、脳死判定を受けた子どもから臓器を摘出して移植を受けることを希望している側は、自分の子供が脳死判定を受けたときには我が子の臓器を摘出して提供するつもりなのかどうかというような、倫理的な事柄だと思うのです。

もちろん、臓器移植に違和感があれば、それを表現して知らせていくことは必要ですし、とても意味のあることです。
表現しなければ伝わらないのですし、他の人に考える材料を提供することも大事です。

臓器の提供を待ち望む子供さんがいて、脳死状態になれば自分(我が子)の臓器を提供したいと思っている側の人がいれば、政治がそれを禁じるべきではないでしょう。
双方の自由意志でよいのです。
ただし、脳死判定をされた患者の家族に、移植を承諾させるような圧力はいかなる意味でも微塵もかけてはならないことを徹底しなければいけませんね。
純粋に自由意志が尊重されねばなりません。

しかし、法律で脳死=死と規定してしまえば、医療全体や脳死状態にある人の家族に大きく影響を与えてしまうことは間違いありません。
脳死と判定された人への医療措置や看護は、死者に対してしていることになるのですから、これは大変なことです。
おそらくは医療現場で矛盾が噴出するでしょう。
こういう当たり前の議論すらせずに、可決してしまう国会こそが思考停止状態だと思います。
まともに考えれば、今の国会では臓器移植の場合のみ脳死を死とするという修正A案を暫定的に採択して、今後も議論を深めて将来的に見直す余地を残すしかなかったはずです。

14/07/2009(火) 01:34:14

No.5868  春が来る
Re: 引用
ひろこさん、さきさん、ぬまさん、えみこさん、あきら&ひとみさん、コメントありがとうございました。

今回、一般的にはいろいろなご意見があるのを承知で投稿しました。ましてや我が子を救いたいと臓器移植を待っておられるご両親のお気持ちを考えると、この様な意見はとても言い難いものでした。
少し補足させていただきたいと思います。

きょうの参院の採決の結果は、えみこさんが速報!してくださっているように、A案に決まりました。

現行法では脳死は本人に臓器提供の意思がある場合のみ「人の死」であったのが、A案では(家族に判定拒否権を認めながらも)脳死は「人の死」になります。

臓器提供も、今までは、15歳未満は禁止だったのが、法成立1年後には0歳から解禁になります。

現行法では、本人の臓器提供の意思表示が必要でしたが、A案では本人の意思表示がなくても臓器提供できるようになりました。

しかし、今までも、例えばドナーカードを持つ場合などに、どれだけ臓器移植に関して、必要な情報が提供されてきたか疑問に思います。

その上、いまだに、脳死判定基準も明確になっていないなど、とても重大な問題なのに十分な審議がつくされたとは言えないと思うのです。

心肺停止状態で生まれた西村帆花(ほのか)ちゃんは、現在1歳7カ月です。長期「脳死」の状態ですが、身長は50?pから90?pに伸び、髪も伸び、歯もはえてきたそうです。
ご両親が懸命に看病をされている姿がテレビに映り、お母さんが、『声もその時々で違います。お風呂に入る時は、気持ち良さそうに 「はぁ〜」。うんちをしたい時は、「ひ〜」。具合が悪い時は悲痛な声をあげます。前はそんな事はなかったのに・・・』と言われていました。
帆花ちゃんは、ご両親の気持ちに答えようと、必死に生きようとしているように、私には感じられました。
お母さんは、「本当に死んでいるのかな?」と思うと・・・
後日、朝日新聞にもお母さんの西村理佐さんの「『脳死は人の死』と法律で決められた時、帆花が社会的に死んでいるとみなされないだろうか?」と、不安に思われるコメントが載っていました。

長くなりますので、最後にひとつだけ・・・

マスメディアが移植手術の成功の場面だけを大きく取り上げ、その後追い報道はあまりされないのですが、移植を受けたレシピエントには移植臓器をめぐる問題の他に、免疫抑制剤による副作用や感染症の危険性がたえずつきまとうということです。

「移植の延命効果」についてですが、「臓器移植以外に生きる方法はない」。こう宣告された人が移植に臨み、幸運にも”死の淵”から生還できれば、この時、私たちは、この人が生きていられるのは移植のおかげだと信じて疑わないのではないでしょうか?

でも、もしかすると、その人は移植をしなくとも生きていられたかもしれません。
逆に、移植を受けられずに亡くなった人は、移植を受けても助からなかったかもしれません。

この様な検証は、生身の人間が時間を逆行して人生をやり直すことなどできないのですから、無理だと思われてきたのですが、統計調査によって確立的な解答を出した論文が1991年、アメリカのスティーブンソン博士らにより公表されています。

この論文の分析対象は心臓移植に限られているのですが、その分析結果は目を見張るものです。

全体として、移植を待つ期間が長くなればなるほど、おそらく内科的治療が功を奏して、待機患者の1年生存率は上がるのですが、9ヵ月後で88%に達しています。
この数値は、心臓移植をうけたレシピエントの1年生存率と同じです。ということは、1年生存率を指標にした場合、9か月待機すると心臓移植の延命効果はゼロになるのです。つまり、9か月待機した人は、その時点で移植を受けようと受けまいとどちらでもいいことになります。
9か月以降では待機患者と、すでに心臓移植を受けた人の1年生存率は逆転し、待機日数が9か月を超えた場合は、移植手術を受けずに内科治療に専念した方が生きながらえられる確率が高くなる、ということなのです。

この論文は、アメリカの医学博士らによって執筆され、掲載に際しても厳正な審査を経たものです。
データの点でも待機患者の術前管理の点でも、当時と今とでは違いがあるかもしれません。ならば、全ての臓器に関して、時代に相応した統計分析が実施され、その結果が公開されるべきだと思います。

こうした情報は、患者が移植手術を受けるか否かを判断する上で不可欠なものですし、私たちが脳死・臓器移植の必要性自体を検証するための必須条件だと思うからです。

14/07/2009(火) 01:46:42

No.5869  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 引用
☆春が来るさん

貴重な情報、ありがとうございます!

春が来るさんの投稿がなければ、ニュースでは知っていても、「自分には関係ない事柄」としてやり過ごしてしまうところでした。
他の皆さんも、僕と同じような人も多いんじゃないかと思います。
これからも情報の提供をよろしくお願いしますね。

「移植の延命効果」についてのデーターも衝撃的ですね。
抗がん剤の効果にしても、あるいは癌検診の効果にしても、実効性を疑わざるを得ないデーターも少なくないようです。
地球温暖化の原因が二酸化炭素という説は間違いだという主張に、世界で3万人の科学者が署名しているそうです。
アメリカのNASAですら、二酸化炭素説を否定しています。
二酸化炭素説は、政治的理由と利権がらみで作られた「定説」のようですね。
地球は寒冷化に向かい、小氷河期が近づいているとの説も根強くあります。
実際、太陽の活動は弱まったままで、黒点数も少ないまま推移しているようです。

どうやら僕ら庶民は、とんでもなく意図的な大嘘に騙され続け、人生そのものもお金もからめ取られてきたのだと思います。

14/07/2009(火) 10:20:22

No.5870  kk
Re: 引用
毎回毎回、人様の幸せを希う大勢の悠々塾に集う真摯な皆様方に心から敬意を表し嬉しく思います。

現在の地球人の進化レベルは下から2番目だそうです。神の分霊である人を殺し正義だと平気でうそぶいている地上人も大勢です。霊的真理も全くと言っていいほど浸透しておりません。政治・経済も唯物的思想に染まり切っています。しかし幸いなことに私達は(霊的真理)スピリチュア的な生き方を知っています。そこで霊的な立場から臓器移植について考えてみませんか。

臓器移植自体は霊的摂理から外れた行為です。霊的事実に対する無知から生じたものなのです。

臓器移植の根底には、CENSOREDばすべて終わりであるという“唯物的思想”があります。その唯物思想が、肉体生命こそ最も大切であるという“肉体生命至上主義”をつくり出しています。そうした唯物生命観においては“死”は敗北であり、反対に少しでも肉体生命を永らえさせることは医学の勝利であるということになります。

それに対しスピリチュアリズムでは、肉体はどこまでも“霊”の地上における道具にすぎないと考えます。そして肉体生命に価値をおくことはありません。死は何としても避けるべき悪ではなく、それどころか霊本来の世界へ帰って行く喜ばしい時であると、正反対のとらえ方をします。

臓器移植のような不自然な手段を講じて肉体生命を永らえさせる必要は全くありません。人間にとって、わずかばかりの肉体生命の延長が重要なのではなく、魂の成長をなすことこそが重要なのです。臓器移植は、私達にとって無意味で不必要なものなのです。

世間では“脳死”が人間の死であるかどうかが大きな問題となりましたが、スピリチュアリズムの観点から見れば、実はそうしたことは取るに足りないことです。脳死であろうがなかろうが臓器移植はすべきではない、ということなのです。

「臓器移植」についての、シルバーバーチの言葉を見てみましょう。

――霊的観点から見て臓器移植をどう思われますか。

「何事も動機が大切です。移植が純粋に生命を永らえさせるためである場合が確かにあります。が、実験を重ねていくうちに実験そのものの興味が先行して肝心の目的を忘れている場合があります……。

私は臓器の移植には賛成できません。また輸血も賛成できません。私の考えでは――私はあくまで私の個人的見解を述べるだけですが――肉体的生命の維持ということが唯一の目的であってはならないと思います。心に宿す考えが正しければ行為も正しく、したがって肉体も正常となります。

問題の解決は臓器の移植ではありません。本当の解決は各自が神の意図(摂理)にのっとった生き方をすることです。」

『シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社) p.127

――現段階では臓器移植はかならず失敗に終わると考えてよろしいでしょうか。

「実験そのものは成功するケースもあると思います。ただ私が気が


かりなのは、実験そのものが霊的にみて間違った方向へ進みつつあることです。その方向は人間の幸福のために献身すべき人が選ぶべき道ではないということです。現段階のやり方では健康は得られません。健康とは調和状態のことです。今の医学者のやっていることは一時的な部分品の継ぎ合わせにすぎません……。

人間という存在は身体と精神と霊の三位一体として創造されているのです。その三つは不可分のものです。置きかえはきかないのです。
地上は無知だらけです。死を恐ろしい怪物のように思って避けようとしています。死を恐怖心をもって迎えていますが、死も自然の摂理の一環にすぎません。」

『シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社) p.128
 記事は「心の道場ニューズレター5号」から一部訂正し掲載しました
  心臓移植についての記事でしたが勝手に「臓器移植」にしてし  まいました。お詫びします。

14/07/2009(火) 12:03:47


No.5849 まゆみ  
キューバの本を読んで 引用
200万都市が有機野菜で自給できるわけ
〔都市農業大国キューバ・リポート〕 
   吉田太郎 著

本の厚み約3cm405ページ 読みました〜!!感動です。

200万都市といえば、日本では大阪が約260万、名古屋が約217万なのでだいたいの想像はつくと思います。
その市域の4割が農地となり、有機野菜の自給を達成したのです。

キューバは1991年ソ連圏の崩壊と、アメリカの経済封鎖の強化というダブルパンチで、石油、食料、農薬、化学肥料をはじめ、トラックから、石鹸のような日常品にいたるまで、何もかもが途絶するという非常事態に直面してしまいます。
国民のほとんどが栄養不足になり失明者が続出しました。
でも餓死者はひとりもでなかったのです。
絶望的な状況の中でも、食料が平等に分配され、子どもや女性、老人など社会的な弱者を守ったのです。

そんな厳しい状況から


風車が回る有機農場を牛が耕し、

車を捨てた市民が自転車で町中を駆け抜ける。

乗合馬車が行きかい、ゴミ収集の馬車が活躍する。

輸入できなくなった医薬品を都市菜園のハーブが補い

ソーラーパネルやバイオガスといった自然エネルギーが市民生活を支える。


これらのことを10年で達成したのです!!




今のキューバが楽園かどうかは人それぞれの価値観で違うと思います。
そして実際の生活状況はどうなのか・・・
亡命する人とかいるというニュースを聞くと厳しい部分もあるのかなって思います。

でもこの危機的な状況からキューバの人々が選択した
環境と調和した社会!!
これはすごいことなんではないでしょうか!!!


指導者カストロは自らベジタリアンとなったって書いてありました。
もともとキューバの人たちはあまり野菜を食べなかったそうです。
なので野菜の食べ方から教える必要があったと。
各地域にコミュニティーがたくさん存在し、普及活動や医療などの徹底がされた。
大臣や医師の給料より農業者の方がいい。
農産物の一定の割合を地区の小学校、ディケアセンター、老人ホームなどに寄付する。

などなど
興味深いことがたくさん書いてありました。




誰も飢えることなく!
もし、自分さえよければ…、自分の家族さえよければ…という思いが全体にあったとしたら実現しなかったでしょう。
少ない食糧を皆で分かち合い、助け合う気持ちがあったから可能だったんだとおもいます。
そしてその分かち合い、助け合う心こそが、一番大切なことだと改めて思いました。


石油や原発に頼らなくても人類は生きていけるのです。
それも誰も飢えることなく!!


この本に江戸時代の生活が書かれていました。

自然資源を枯渇させないバイオマス産業社会が実現されていて、ありとあらゆるものがリサイクルされるゼロミッション社会だったと書かれています。

魚河岸から出る魚のくずは肥料となるので貴重品。
薪炭をエネルギー源としていたので毎日おびただしい量の灰が出る、それを「灰買人」と呼ばれる人々が灰を回収し、「灰屋」は巨富を築いた。
糞尿を肥料として使っていたので、商品として売買されていて、長屋の居住人たちは大家に糞尿を売ることで、家賃は支払わずにすんでいた。
などなど
興味深い話がたくさん書いてありました。

もちろん江戸時代の生活にもどれる訳もありません。

でも
資源はいつか枯渇するということは分かっています。
金融危機は広がり、お金の価値はなくなるかもしれません。
食料危機はいつ訪れるかわからないのです。

人類が選択しなければならないのは、自然と共存する生活です。
分かち合い、助け合けあう生活です。

それは夢物語ではない、ということをキューバは教えてくれたのです。
江戸の生活が教えてくれているのです。



今からでも始められることはたくさんあります。

できることからやっていきたいと思いました。


09/07/2009(木) 14:00:27


No.5851  飯沼 ホームページ E-mail
Re: キューバの本を読んで 引用
キューバの紹介、ありがとう!

キューバはお金のない国で、人々の収入額もとても低い。
でも、「医療も教育もタダ。公共交通機関も激安で、タクシーの初乗りは日本円にして49円、バスは1円程度です。食料費も安く、
月2000円もあれば、ラクに暮らしていけます」ということのようです。
食料については、必要量の半分ぐらいは「配給所」でもらえるみたいですね。

キューバは日本のような競争社会じゃないので、分かちあいや支えあいが自然に定着しているようです。
でも、やはり外貨がないから、いろんな問題もあるようですが、とにかく人々が暮らしていけているのは事実です。


今の世界恐慌は表向きは小康状態に見せていますが、遠からず次が来ると言われています。
アメリカドルが破綻するのはほぼ確実なようです。(最近、ドルがまた安くなっていますね)
そうなれば、外貨のほとんどをドルで保有している日本にとっては、ソ連崩壊後のキューバと同じような状況になる可能性が高いのです。
日本は石油も天然ガスも肥料の原料も輸入で、食料自給率40%ですから、決して他人事ではありません。
その時、日本に暮らす人々がどのような行動をとるかで、その後の社会が決まるのです。

今から一定の準備をし、心構えを持ち、創意工夫と分かちあい・支えあいによって、未曾有の危機を乗り越え、新しい理念による社会を築いていきたいものです。
ドルが崩壊すれば、しばらくの間はおそらくは大きな混乱状態に陥るでしょうから、一定期間分の基本的な食料は備蓄しておいた方がよいと、僕は思います。
新しい社会を作っていく側の人間が、その日の自分の食料を得ることに奔走していたのでは、十分な働きはできませんから。
お金を貯えていても、ほとんど役に立たないハイパーインフレになると言われています。

話が逸れますが、アメリカで最大の人口を抱えるカリフォルニア州が経済危機で、非常事態宣言が出されました。
7月の28日には州の職員への給料や生活保護費等の福祉費の支給ができない状態になるそうです。
場合によれば大混乱になる可能性もあるのでしょう。
「“陰の政府”直属の軍隊」といわれるFEMAも出動することになっているそうです。
カリフォルニア州の人口は3700万人、ロサンゼルスの人口は約400万人です。
貧しい人々は今よりもさらに大変な生活を強いられるでしょう。
そういうことはあまり報道されないかもしれませんが、今後に注目しなければなりません。
カリフォルニアの場合は、州の経済破綻によるカネ不足ですから、ドルの破綻後のアメリカや日本に起きる状態とは違っています。
カリフォルニアの状態とは比べものにならないほどの大混乱が起きる可能性が高いのです。
。。。。。。。。

「有機農業が国を変えた」 吉田太郎 (コモンズ)は、250ページぐらいの本です。
ちょっと違う角度からの本もあるのですが、さきさんに貸しているので、今ちょっとタイトルが分かりません。

10/07/2009(金) 01:57:10

No.5852  さき
Re: キューバの本を読んで 引用
まゆみさん、紹介ありがとうございます。
ぬまさんに貸してもらった本は「小さな国の大きな奇跡」です。
キューバの挑戦は興味深いです。医療においても伝統的自然医療が積極的に取り入れられています。

ということとは別に、印象に残った記述があります。
1994年に経済難や経済格差の拡大によって、大規模な暴動が起きた。1万人近い群衆が外国人観光用のホテルの前に集まり、外貨を稼ぐホテルに押し入ろうとした。警官隊が暴動を抑えようとするなか、カストロは国民には絶対に危害を加えないように命令を下すと、自ら暴動の起きているホテルに駆けつけて玄関に立ちふさがり、群衆に向かって叫んだ。
「このような事態になったのは、ずべて私に責任がある。この事態に対処するよう我々政府は全力で取り組む。それでもこのホテルを襲撃するというなら、今この私を倒してから行くがいい。」その言葉に群衆は静まり返って、、状況が逆転した。それ以降暴動は起きていないと書いてありました。

外国人観光客が来るわけだし、様々に物資や情報も入ってくる。生活の苦しさや格差がなくなったわけでもない。。海外移住した家族からの送金に家計を支えられる人も多い。正規の所得では苦しく庶民はたくましく非公認のサイドビジネスで暮らしを支える。。
混乱して当然のところで、ひとびとの心をつなぐリーダーの存在と、困難のなかでもたくましく生きる庶民の存在。それがあってこそやってこれたのだと思ったのでした。(日本はどうなんだ、と思ってしまった。)

10/07/2009(金) 11:44:28

No.5853  飯沼 ホームページ E-mail
Re: キューバの本を読んで 引用
フィデル・カストロは、かっこいいですね。
何よりも私利私欲がない。
権力の亡者でもない。
元々は共産主義者でも社会主義者でもなく、かなり裕福な家に生まれ、当時のキューバ政府やアメリカ企業に搾取・抑圧されていたキューバ民衆の解放のために、数十人で反乱を起こした人ですからね。
革命後のキューバに対するアメリカの敵対行為が、カストロを社会主義者にしたようです。
最初の反乱メンバーは当時の政府軍によってほとんど殺され、わずか十数人しか残らなかったそうです。

フィデル・カストロから政権を引き継いだ、ウラル・カストロも、革命初期からのメンバーです。
カストロの家族は、ウラル氏以外は、政府の要職にはおらず、ほとんど無名のままキューバで普通に生活しているそうです。

親子代々に政権を移譲するどこかの国とは全く違っています。
こう書けば、皆さん、北朝鮮のことを思い浮かべるでしょうね。
もちろんそうなのですが、では、地盤・看板・鞄(カネ)を親子代々が引き継いでいる世襲議員が10人だか11人だかもいる内閣の日本って国はどうなんでしょうね。

そういう国ですから、ドル破綻後に混乱の時期に、フィデル・カストロのように自分の命を懸けるようなリーダーは、日本にはいないでしょう。
アメリカはもっとシビアで、FEMA(フィーマ)という軍事組織が、大統領よりも大きな権限を発揮して、民衆を押さえつけ、すでに建設済みの収容所に送り込んで殺害していくのではないかともいわれています。
FEMAは1979年に設立され、「連邦緊急事態管理庁」という名称で、大災害の発生時に住民の救助や物資援助などを行うとのことですが、実際の役割はそんなものではなさそうです。

「FEMA Concentration Camps 」をグーグル地図で検索したら、何百ものフェーマキャンプの場所が出てきます。
未確認情報ですが、実際にはそのほとんどは2万人単位の(空の)収容所だということです。
アメリカには、2万人規模の収容者が500以上も作られているそうです。

「FEMA=陰の政府」については、ネットに情報がたくさんありますが、中には信頼性に乏しいと思われるものも少なくありません。
田中宇(さかい)さんは、信頼できる情報の発信者だと思います。
ttp://tanakanews.com/c0304fema.htm
.....

話が逸れっぱなしですが、もしもドルが破綻し、ハイパーインフレが始まっても、日本には米は十分にあり、基本的な野菜も自給できます。
要は、「カネがなければ生きていけない」という刷り込みから解放されることです。
「分かち合って、皆が生きていけるように」という気持ちで行動すれば、誰も飢え死にすることはないのです。
そういう思いが確立すれば、「人はパンのみによって生きるものではない」ということが、実際に現実化され、地上人類は次のステップに移るのでしょう。

不安に囚われることなく、混乱に備えての必要な準備は怠りなくということです。

10/07/2009(金) 15:20:47

No.5859  かわぐちまさこ
Re: キューバの本を読んで 引用
まゆみさあん。書き込み嬉しかったです。農業、医療、教育、福祉どれも、今 庶民の希望の星の国がキューバなんですよね。
アメリカの医療問題をテーマにした、マイケルムーア監督の「SIKKO」とゆう映画でも、庶民はまともな医療を受けられないアメリカと対比して、貧しい人でも無料で十分な医療を受けられるキューバが、アメリカと対比して登場していました。
それから、チェゲバラの生き方にも感銘を受けました。
なにより、循環型社会を現実化している、今の
キューバは本当に希望です。というか、多くの国がキューバのようにならなければ、もうこの地球全体は持ちこたえられないと思うのです。
この間庶民の幸せ度を様々な角度からのランキングをラジオでやっていました。一位はやはり南米のコスタリカ。軍隊を一切もたない国です。キューバももちろん10位以内に入っていました。ちなみに日本は百位代でした。

12/07/2009(日) 22:51:47

No.5861  ひろこ
Re: キューバの本を読んで 引用
時給・自足・助け合い出来るように準備が必要ですね。
今の私には、無理ですがこれから考えて行かなければと思います。

12/07/2009(日) 23:48:17


No.5855 Glass Age  
真摯な姿勢に感動しました 引用
飯沼さま、立川さま

7月6日(月)のカウンセリング&ヒーリングでお世話になった者です。本当にありがとうございました。
私自身に関すること、妻との関係、仕事のことなどなどについてとても的確な指摘とアドバイスをいただいたと思います。
少々私について過大な評価をしていただいたように感じて気恥ずかしかったですが・・・。
現在、仕事を休んでいますが、今後、どういう方向で復帰するかの方向性が固まったように思います。

立川さんからご案内をいただいた、「ドネーションシップわかちあい」の活動も大変すばらしく、できたら近いうちに参加したいと考えています。
定例会にも参加したい気持ちがあります。土日は家族との関係で出掛けにくいですが、いつか機会をつくりたいと思います。

「日々をスピリチュアルに」創刊号を早速読ませていただきました。すばらしかったです!
ひとりひとりの文章がどれも本当にすばらしいと感じました。
こんなに「スピリチュアル」について真摯にまじめに取り組んでおられる方々は、今の日本では希少だと思います。
スピリチュアルと言っても、本当に質の悪いものが多く、その中から本物を見つけ出すのは至難の業のように感じることが多々あります。悠々塾の活動は間違いなくそんな希少な本物のひとつだと思います。

この掲示板でも、皆さん、自分の辛さや弱さを正直にさらけだしながら、本当にまじめに書き込んでおられるようですね。感心するとともにすがすがしさを感じます。

本当にどうもありがとうございました。

10/07/2009(金) 22:10:42


No.5856  さき
Re: 真摯な姿勢に感動しました 引用
Glass Ageさん、投稿ありがとうございます。
この時代にあって真摯に“いかに生きるのか”を追及する、Glass Ageさんのような方がおられることに希望と勇気をいただきました。出会えてうれしかったです。
Glass Ageさんのこれからを応援しています。

ドネーションシップわかちあいにも共感いただいて嬉しいです。
ぜひご参加くださいね。(お待ちしてまーす。)

11/07/2009(土) 08:03:01

No.5857  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 真摯な姿勢に感動しました 引用

Glass Ageさん、ご投稿、ありがとうございます。
悠々塾のことをこのように評価してくださり、とても嬉しく思います。

「日々をスピリチュアルに」は、執筆者の人生と生きる心が、共感と共に伝わってくる、とても味わい深い本になったと思います。
こういう仲間たちと一緒に、この地上を生きていけることって、とても幸せなことだと思っています。

Glass Ageさんと今の時期に出会ったことも、決して偶然ではなく、導きと計らいによるものだと思います。
これから地上は激しく動いていくはずです。
霊的真理を知った者として、心豊かに心楽しく、地上に生まれてきた目的を達成できますように。

「ドネーションシップ わかちあい」へのご参加、心よりお待ちいたします!
またお会いしましょうね。

11/07/2009(土) 09:21:29


No.5854 飯沼 ホームページ E-mail
お知らせです 引用

☆☆ 2009年8月の直接ヒーリングのお知らせ ☆☆

☆京都
8月1日(土)  午後1時〜2時半   3時〜4時半
8月2日(日)  午後1時〜2時半   3時〜4時半
8月3日(月)  午後1時〜2時半   3時〜4時半
8月4日(火)  午後1時〜2時半   3時〜4時半
8月5日(水)  午後1時〜2時半   3時〜4時半

☆篠山での日程は未定です。
篠山での直接ヒーリングをご希望の方はお問い合わせ下さい。
☆遠隔ヒーリングは随時お申し込みください。
☆詳しくは当サイト表紙上部の「ヒーリングお申し込み」をご覧ください。
☆なお、7月の直接ヒーリングのご予約受付は終了しました。
☆予約日以外での直接ヒーリングをご希望の方は、別途ご連絡ください。
(急を要する方に限らせていただきます)
。。。。。。。。。。。。。。。

■7月定例会  
日時 7月25日(土曜日)
第1部 「癒しの講座」 お話とヒーリングの実習
       
午後2時から5時
参加費・1200円
        
第2部 「懇親会」 

午後5時半ごろからお時間の許す限り (ISSINミニライブあり)    
参加費・1500円
    
☆☆☆最寄駅はJR福知山線篠山口駅です。
地図の必要な方はお知らせください。
(079−594−5094)

10/07/2009(金) 21:27:33



No.5829 飯沼 ホームページ E-mail
ABさん(仮名イニシャル)から、こんなメールが届きました。 引用
目が覚めている時
起きている時
意識のある時
こわくて仕方ない


優しくない人のキモチ
意地の悪さ
お気の毒であわれな状態、かわいそうだとわかってはいても、やっぱりこわい


この意地の悪い世の中であと数十年も、たった一人で生きていくこと…

裏切られることへの恐怖…誰も信じることのできない不安…

今すぐにでも切れてしまいそうな自分自身のキモチを支え続けること…

…孤独…
自ら設定したプログラムとはいえ、やっぱりこわい


こんな地上、一日も早く離れたい〜

05/07/2009(日) 10:47:35


No.5830  飯沼 ホームページ E-mail
Re: ABさん(仮名イニシャル)から、こんなメールが届きました。 引用
今の世の中、人間関係、同じような気持ちで生きておられる人が少なくないのだと思います。
皆さんからのメッセージをお願いします。

05/07/2009(日) 12:18:28

No.5833  あきら&ひとみ
Re: ABさん(仮名イニシャル)から、こんなメールが届きました。 引用
はじめまして、こんばんは。

これまで、とてもお辛い経験をされてきたのだと思います。
しかし、これまでABさんを支えてくれていた方達はきっといたと思いますし、これからも間違いなくそうだと思います。
一度、定例会に参加されてはどうでしょうか?
きっと良い仲間達にめぐり合えると思いますよ。
知らない人たちの中に入っていくことはとても勇気がいると思います。
もし参加されて、どうしても自分には合わないと感じれば、帰るというのもありだと思いますし、ここまでお気持ちが滅入っておられるなら、なるようになると勇気を出されることも手だと思います。

そうぞ元気を出してくださいね。
裏切られることは怖いことですが、自分が信じる立場にいればきっと信じられる仲間に出会えると思います。

05/07/2009(日) 23:04:12

No.5834  きん
Re: ABさん(仮名イニシャル)から、こんなメールが届きました。 引用
ABさん、こんばんは。
はじめまして。

ABさんと重なる部分がたくさんあります。
私はABさんのように頑張ってないです…。

こんな私ではありますが…
ABさんに応援の気持ちと、
決して一人ではないんだということを
伝えたいと思いました。

>目が覚めている時
>起きている時
>意識のある時
>こわくて仕方ない

ABさんが今まで色んなことで傷つき、今もなお
しんどい思いで過ごしながらも、
葛藤しながらも、ABさんは陰らず、他を恨まずというか…
憎みきれずというか…
頑張ってその日その日を生きているのを感じました。

ABさんの心の輝きがきらめいてるように思いました。

意地悪する気の毒な人の心の中はきっと、
ある意味、困っている人で、心が荒んでるのかもしれません。
どうすることもできない自分の思いを
そう表現せざるを得ない状況にいるんかもしれません、、

だからといって、自分に被害があると迷惑な話ですよね。
それも全て自分で決めてきた『設定』としてることすら
我が身を疑い、信じられない…と思うものだと思います。
それに、生身の人間が自分で設定してきたと実感として
思えることなんて到底ないことだと思います。

でも、こうして悠々塾の掲示板でABさんとこうして出会ったのも
何かの縁だと思います。
>地上を離れたい…
私も今日同じように叫びました。

まだまだABさんには感じたことのない
大きな感動や、嬉しいことがいっぱいあると、
私は思います。そう信じてます。
そして、ABさんが魂の意思に従って生きて
ABさんがABさんらしく喜びの中で日々を過ごしてるのを
イメージしながら祈りたいと思います。
ABさんもどうか強く思ってほしいと思います。

出会うことがないとしても、私はABさんのことを応援します。
ABさんを思いだしたら、祈ります。
一緒に支え合いながら、人生を真っ当して行きましょう。
ABさんのためにも私も光のほうを向き治して生きていきます。

きっと大丈夫。

05/07/2009(日) 23:36:11

No.5835  ひろこ
Re: ABさん(仮名イニシャル)から、こんなメールが届きました。 引用
> 目が覚めている時
> 起きている時
> 意識のある時
> こわくて仕方ない


私も、こわくてこわくて仕方がなかったです。
寝ている時だけ怖い意識がなかったです。
それも、眠る薬を飲まなくては寝れなかったです。

ABさんひとりで頑張って来られたんですね。
本当によく頑張って来られたと思います。

わたしも、次の人生でやり直すからもう今生は終わりにしたい
と何度思ったでしょう。

でもそれを思いとどまったのは、
今生での課題をリタイヤしたら次の人生で
もっと大きな課題がある。
今以上の苦しみは嫌だ・・・絶対に嫌だ・・・
それを考えて少しずつ乗り越えてきました。

少しずつ、少しずつこの場所で支えられていってください。

06/07/2009(月) 00:22:47

No.5844  飯沼 ホームページ E-mail
Re: ABさん(仮名イニシャル)から、こんなメールが届きました。 引用
霊的法則から言えば、人間は死後、まずは自分の地上時代の心そのままの境涯に移行するのです。
「こんな地上、一日も早く離れたい」と思っていれば、死は決して解放などではなく、地上よりもはるかに重苦しい孤独な世界に行くことになってしまいます。
周りに人がいても言葉も交わすことがなく、彼らが意地悪をするわけでもなく、裏切るわけでもないのに、自分ひとりがうずくまって「意地悪な世界が嫌だ。裏切られるのが怖い」と、思い続ける世界に行くことになるかもしれません。

地上での生は数十年かもしれませんが、死後の世界には時間がないので、「この状態は実は自分自身が作り出しているのだ」と気づき、自分がそういう心の境涯から抜け出そうと思うまで、ただただそういう状態が続くのです。
そんな死後の境涯で生き続けねばならないから、まだ地上のほうがはるかにマシなような気がします。
もちろん、地上にいる間に、心の囚われを薄くして、軽やかな心で調和や貢献に生きるようになるために、僕らは生まれてきているのですから、死後、暗い世界に行って、何とかそこを抜け出しても、またいずれ今と同じような境遇の地上人生を選び、再びチャレンジするのです。

人間ってやつは厄介で面倒なところがあるものです。
出会い、関わることになった人のことも、そういう目で見れば、たくさんの嫌なところは目に付くでしょう。
でも、その人の全部が嫌なところだけの人に、僕はまだ会ったことがありません。

人の気持ちの中には優しくない面も確かにあるのでしょう。
でも、全部が優しくない人っているのかなあ?
自分は、人から「優しい」と思われている人間かどうかも分かりませんね。
だって、自分にだって優しくないところはあるんですから、自分のそういうところを見た人は「あの人は優しくない」と思うのでしょう。
もしかしたら、そこだけを見て、そういう人間だと思われ続けているかもしれないですね。

意地悪は確かに嫌なものです。
でも、自分には意地悪な気持ちって全然ないのだろうか?
「意地悪」と思われるようなことをしたことはないのだろうか?
「そう思われたことはあったかもしれないけど、自分はそういうつもりじゃなかった」ということもあると思うのです。
じゃあ、意地悪だとしか思えない誰かも、「自分じゃそういうつもりじゃない」のかもしれませんね。
そういう表現でしか、自分の存在を示せないだけなのかもしれない。
幼い頃からの境遇の傷に囚われたままの状態に留まっていることの方が今のその人には心地よいのかもしれない。

裏切られるのは確かに嫌だけど、じゃあ、自分は今まで一度も人を裏切ったことがないのかどうか・・・?
自分はそういうつもりじゃなくても、そう思われたことがないのかどうか?
自分の過ちや落ち度には自分で説明がつくかもしれません。
じゃあ、他の人にもその人なりの事情や気持ちがあるということでいいんじゃないですかね?

人がどうであれ、自分は自分として生きたいものです。
人に嬉しい影響を与えることは人にも自分にも喜びですが、「人が〜だから自分は〜になってしまう」という思い方はどうなんでしょう?
これは一般論ですが、自分の現状を人のせいのように思っている人ほど、自分のことが見れていないことが多いように感じます。
自分の気持ちや思いは時には相手にぶつけた方が、お互いの健やかさにつながるケースはよくあります。
でもそれは自分を被害者のようにして正当化し、自分自身の心のくもりから目をそらせるということではなく、相手に気づきの機会を提供し、自分の心の澱を排出して、自分が自分として生きていくためのものです。

人のことが怖くて信じられなくて、一人ぼっちで孤独なんだったら、せめて自分で自分のことを好きになってあげないと、自分が可哀想すぎませんか?
自分が自分のことを好きになっていけば、自然と人のことも好きになっていくようですよ。

では、自分が自分を好きになっていくにはどうすればいいのか、ですね。
それは、「自分が本当になりたいと思っている自分になろうとしていくこと」です。
自分が本当になりたい自分とは、自分の魂が希求する自分です。
愛や慈しみや感謝や許しや理解や思いやりや正義や素直さや楽しさ・・・等々に満ちた心の自分です。
少しずつでも、できるところからでいいのです。

そして、そう思っていてもなかなか自分で好きになれる自分になっていけなければ、誰か他の人のことも「あの人もなかなか本当の自分になっていくのが難しいんだな。自分もそうだから、そこはお互い様だな」と、思ってあげることだと思います。

その繰り返しの中で、人を見る目が変わってきますよ。
人を見る目が変わるということは、実は自分自身が変わるということでもあるのです。

そこさえ踏まえていれば、時には愚痴を言うのもいいし、自己嫌悪や人嫌いの気持ちが湧いてきても大きな問題にはならないと思います。
人間なんて未熟なものだから、ガス抜きも必要ですし、甘えられる人に甘えることもOKなんだと思います。

06/07/2009(月) 22:41:07

No.5847  えみこ
Re: ABさん(仮名イニシャル)から、こんなメールが届きました。 引用
ABさん、はじめまして、

ABさんの心に湧きあがる気持ちって、
きっと、そこらへんを歩いている人々の中にも
あるんだと思うの。

心のなかにあるのを知りながら、しらんふりしたり、
ないことにしてみたりね。
そうやって、目の前のことをこなすだけの生活で
”よし”にしてる。
いつかどこかで、行き詰まるんだけど、、、、

ABさんは自分と真面目に向き合ってる。
真面目に生きてきた自分を労い、
ぼんやりとまわりをながめてみたらいい。

案外、捨てたもんじゃない!と思ってる。

それに、独りじゃないよ。


ここでめぐりあえてよかった。
ABさん、独りじゃないってきっと思える。
短い時間だけど、あなたと向き合ってました。

もう随分生きてきました。
”苦しみ”の時間のほうが長かったのかなああ、、、
それでも、私はこの地上で、生きてることが嬉しい。

ABさん、又、来て下さいね。

07/07/2009(火) 17:42:08

No.5848  えみこ
Re: ABさん(仮名イニシャル)から、こんなメールが届きました。 引用
ABさん、おはようございます。

夕べは眠れましたか?

今もずっと、不安で、こわくて、孤独で、
一日も早くこの世を離れたい、ですか?

人の気持ちは変化し続けています。

昨日と同じ場所にはいないはず。

どうあれ、物事は前へ動いていくんだと思います。

人は人との関わりのなかで、成長していくものだし、
そのことの喜びが、この世に生きるってことのように
思うんです。

一人でどうしようもないのでしたら、
ここで、つながってみてはどうですか。
7月は悠々塾の定例会もありますし、
悠々塾に電話を入れて、湧いてくる気持ちを
聞いてもらうのもいいですよ。

私自身もどれだけ支えてもらったことか。


今日、この一日がABさんにとって
かけがいのない一日になりますように!

08/07/2009(水) 05:37:44


No.5831 たかはし  
直接ヒーリング 引用
昨日、直接ヒーリングを受けた者です。
疑問に思うことをメールにて送信したのですが、お返事が返って来ないような気がしましたのでここにて失礼致します。

やはり、私の気持ちを母親に伝えなければ私の今後の人生は今よりももっと悲惨になると、言うようなことを昨日、話されたことが頭から離れずにいます。
なんだか、こわいことです。

手紙は、いろいろと自分の気持ちを書き記してみて最後に手紙という形でまとめようかと思っています。

正直、昨日のヒーリングで感じたことは、
あまりに私の相談内容が幼稚すぎて、飯沼さんはあきれられたのではないかと、そして、立川さんはなんだか、怒っているような印象を受けました。
私の思い違いでしょうか。

ヒーリングのさいに、立川さんが、熱さを感じやけに咳込んでいたのも気になります。ヒーリングの効果ですが、気持ち的にはまたもとに戻ってしまったような・・・疲れ感があります。

温かい、自信に繋がるようなそんな気持ちを期待していたのですが甘かったです。

05/07/2009(日) 18:40:47


No.5832  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 直接ヒーリング 引用
☆たかはしさま

こんばんは。
今、パソコンを開いて、昨夜にいただいていたメールの内容とかなり雰囲気が違っているので驚いているところです。
昨日、「喉が軽くなった」とおっしゃり、ヒーリングが終わってお帰りになる時には、「定例会に参加することはできますか?」とのことでしたので、ヒーリングも肯定的に受け止めていただけたものとばかり思っていました。

昨夜11時前にメールが届いていたようですが、私が読めたのはもう少し遅い時刻でした。
その後も緊急性のある電話の相談や遠隔ヒーリングがあり、今日の午前中も電話の相談、午後からは直接ヒーリングなどでたかはしさんからのメールに返信はできていません。
こちらの事情かもしれませんが、これはご理解をいただきたいところです。
他の皆さんにもすぐに返信できないことが多い状態です。

ご投稿の内容についてのお返事は控えますが、立川は怒ってなどいませんでしたし、私も呆れてなどいませんでした。

いずれにしても、とりあえずはヒーリングがお役に立てなかったようで、申し訳ありませんでした。

05/07/2009(日) 19:16:43

No.5836  たかはし
Re: 直接ヒーリング 引用
メールでも記しましたが、もとに戻ってしまっているということです。
喉の調子は変わらずで、今日、病院の方へお薬をいただきに行きます。
それよりも、メールにも記しましたし、上記にも書いたとおり、疑問に思うことが頭から離れないということです。これは、帰宅してからあたらめて浮上してきた疑問ですの記しました。

つまりは、母親のことを解決しないと、私の人生はいまよろももっと悪くなるという飯沼さん言われたことです。その後、一人で生きて行ってもいいけれど、私が母親を大好きだというエネルギーを感じとったので、そう言ったのだという返答でした。
でも、解決をせずに一人で生きて行ったとしたら、今よりももっと私の人生は困難になるということですよね。それがこわいと思ったのです。

今は、お忙しいということですので、また、時間がとれましたらメールにて、この掲示版でも結構ですのでご返答をお願い致します。

06/07/2009(月) 07:13:07

No.5837  飯沼 ホームページ E-mail
Re: 直接ヒーリング 引用
☆たかはしさん

メールではなく、掲示板に重ねて投稿をいただいたので、ここでお答えすることにします。
掲示板の場合、他の読者にも一定の状況を理解していただく必要があるので、やや踏み込んで書かねばなりませんが、それはご容赦くださいね。

たかはしさんは40代後半の立派な独身女性です。
そして、幼い頃からお母さんから「虐待(に近い扱い)を受けてきた」と、思っておられます。
ご高齢のお母さんは独身のご長男や叔母さんと一緒にかなり裕福に暮らしておられ、たかはしさんは実家を出てから数十年が経過しています。
お母さんはずっと、「自分は老後の費用は潤沢に持っているので、子どもの世話になどなるつもりはない」と言われていたとのことでした。
たかはしさんと、お母さんの関係性は良好ではなく、電話でも会話が成立しない状態とのことでした。
そのお母さんが、最近、かなり強い口調で、「実家に帰ってくるように」と言い、その件と、たかはしさんの「性格」についてのご相談でした。

私は、お母さんが長女であるたかはしさんに辛く当たったのは、お母さんご自身が幼い頃から肉親の愛情に満たされることなく育ってきたので、結婚した夫から「自分を唯一絶対の存在として愛されたい」という欲求が強く、夫が娘を可愛がる様子に嫉妬したことが大きな理由であると感じました。
お母さんには、複雑な思いはあったにしても、高橋さんに対する愛情は実は十分にあったことをお伝えしました。
それにはたかはしさんも同意しておられましたね。

そして、たかはしさん自身も、幼い頃からずっと反発しながらもお母さんのことが大好きで、求め続けてきたのではないかとお伝えしました。
私がそう言った途端に、たかはしさんは「そうだったのかもしれない。そうだったと思います」と涙を流しました。

そして私は、たかはしさんが長年にわたって、さまざまな人間関係のトラブルを生じ、職場を幾つも変えねばならない状況を作り上げてきた元は、実は「(無意識のところでの念のエネルギーによって)不安定な人生を作ることによって、お母さんとのつながりを維持していきたい」ということだったと思うと、お伝えしました。
それまでの母娘の関係性や、お母さんの見せておられる態度から、もしもたかはしさんが安定した人生を構築すれば、住んでいるところも離れているのですから、お母さんとはもっと疎遠になる可能性が高かったからです。

そして、「お母さんが『戻ってきなさい』と高圧的に言っても、それに従わなければならないということではない。お母さんが今さらどう言っても、自分の人生なんだから自分で決めればいいのです」と、お伝えしました。
しかし、たかはしさん自身も実はお母さんのことが大好きなのだから、『今までいろいろなことはあったけれど、自分はやっぱりお母さんのことが大好きだよ』と、本心を伝えることをお勧めしました。
「電話では言葉の行き違いでまたトラブルになる可能性があるので、できれば手紙がいいと思います」と。
その上で、実家に戻ることを考えたほうが、お互いに新たな嬉しい気持ちで関わり直せると思ったのです。
「しかし、それを義務のように思うのではなく、今まで言えなかった自分の本心を伝えることを喜んでそうすることが大事です」ともお伝えしました。

幼い頃の境遇から、80歳を過ぎても固く自分を守り、意地を張って強くしか見せられなかったお母さんの人生の終盤に、「肉親から無条件で愛されている喜び」を味わわせてあげてれば、お母さんは救われ、お母さんの人生は祝福されるという意味のことをお伝えしましたね。

そして、「喉の不調の原因は、お母さんへの愛情という本心を言葉にできていないことです」ともお伝えしました。

>やはり、私の気持ちを母親に伝えなければ私の今後の人生は今よりももっと悲惨になると、言うようなことを昨日、話されたことが頭から離れずにいます。

については、高橋さんは実際そうしようとすれば、お母さんに手紙で愛情を伝えることにかなりの抵抗感や違和感が強くなるかもしれないと思い、「お母さんのためだけではなく、高橋さんの幸せにもつながることなのですよ。なぜなら、今までのあなたの人生のトラブルや苦しさは、実はお母さんとの絆を維持していくために(無意識に)あなたが作ってきたものでもあるのですから。お母さんに本心を伝えることができれば、あなた本来の“しっかりしているけど可愛い”あるいは“可愛いけどしっかりしている”という面がおおらかに表現されていくでしょう。逆に、お母さんに本心を伝えないままいけば、段々にトラブルや苦しさが募るという可能性が高いと思います(実家に戻らざるを得なくなる)」という意味で、後押しのつもりで付け加えたのですが、うまく真意が伝わらなかったようで、お詫びいたします。
お母さんはご壮健だとのことですが、それでもかなりのご高齢なので、「早く形にしてあげた方がいい」という、私の思いが強すぎたようです。

たかはしさんにしてみれば、人生のほとんどの期間、抱え続けてきたお母さんとの確執であるのですから、一朝一夕に解消できなくても無理はありません。
今回のヒーリングで、お母さんへの愛情を涙と共に認められたことの方が、すごいことだと思っています。
私も立川も、そんなたかはしさんの素直さが嬉しかったのですよ。
それで、「いろんな悩みや問題を抱えておられるにせよ、定例会に参加すればいい仲間になっていく人なのだろうな」と思いました。

お母さんの地上人生にそれほど長い年月が残されていないのは事実でしょうが、しかし、高橋さんに残っている受け入れられない思いもまた事実です。
そういうなかで、「どう心を動かし、実際にどう動いていくか」が、人間の人生のテーマなのでしょうね。
たかはしさんご自身やお母さんが人生の喜びを実感される日のために、応援する気持ちに変わりはありません。
もちろん、求められてもいないのに、これ以上出しゃばることもいたしませんが。

大急ぎで書き、読み返すこともなく投稿しますので、また違和感を持たせてしまう表現があるかもしれませんが、できればご容赦いただきたくお願いいたします。
。。。。。。。。

☆ABさん

ABさんのメールに、私も返信したいのですが、なかなか時間が取れなくて、掲示板の参加者の皆さんからの応援をお願いしました。
私もできるだけ早く返信しますね。

06/07/2009(月) 10:18:16

No.5839  kk
Re: 直接ヒーリング 引用
高橋様の辛さ苦しさ等思うと胸が痛くなります。良くぞ今日まで頑張ってこられました(合掌)。言葉もありません・・・・。

私初めて投稿します。私の人生が高橋様に少しでも励みになればと思って書きます。
 
 私は両親から祝福されて生まれてこなかった。だから生きる価値はないと決めつけ、死ばかり考えて生きてきました。不幸の連続でした。とうとうCENSOREDを決意し”死の世界を”垣間見ました。

しかし高橋様の素晴らしいことは「母が好きだ」ってことです。
どんなことがあっても「好き」になればいいのです。母は母私は私だから。

私の人生を変えたある本の一節です
「世に”恩を忘るな”と言うことがやかましく言われるのは、本を忘れるな、という意味である。食物も、衣服も、一本のマッチも、わが力で出来たのではない。大衆の積み重なった幾百千乗の恩の中に生きているのが私である。この事を思うと、世の為に尽くさずにはおられぬ。人の為に働かずにはおられない。
そうした中で、最も大切な、我が命の元は両親である。この事に思い至れば、親を尊敬し、大切にし、日夜孝養を尽すのは、親が偉いからではない、強いからではない。世の中にただ一人の私の親であるからである。私の命の根元であり、むしろ私自身の命である親だからである・・・・・
 本当に父を敬し、母を愛する純情の子でなければ、世に残るような大業を成し遂げることはできない。いや世の常の事でも、親を大切にせぬような子は、何一つ満足にはできない。親を通して己の生命の根元に遡れば、そこに神仏にかえる」。・・・・・

という一節です。我が人生はそんな苦難の末に霊界と繋がり人間界で最高の霊的真理と出合いました。

この地上には人間が最高の位置にいます。私達は皆神の子です。神の子が”破滅”する筈がありません。
 苦難には必ず原因があります。その原因を少しづつ取り除けばいいのです。己の人生です。どっちを選ぶかは己が決めるのです。自分の楽な道よりも、神が喜ぶ路を選べばいいのです。

06/07/2009(月) 13:46:39

No.5840  たかはし
Re: 直接ヒーリング 引用
よく理解できました。ありがとうございます。
直接ヒーリングを受けて帰宅後、やはり、昔のことなどを思っているうちに、きっと自分が母親になったなら理解できた部分もあるかもしれない、
だけれど、母は私とは不仲でも父や兄や小学校の教師として周囲から尊重され子供から愛されてきたではないか、私はそんなものはなかった、母は私を虐待し、私は母を困らせたかもしれないけれど、私以外の場所では充分、世間からも尊重されそれなりにも愛されてきたではないか。と、思うとなぜ、私が家族の誰からも救いの手を差し伸べられなかった、私が、母親を救わなければ(この言い方は傲慢でした)ならないのかと悶々としました。
私だって無条件に愛されたかったのだから・・・。

だけれど、この問題を解かない限り、私の今後の人生が困難に悲惨になるのだとしたら、とてもこわいことだと思ったのです。

実際、高校時代から短大時代、そして働き出してからもずっと私を見てきた友人からは、本当の私のいいところが良さが出ていない。とはよく言われていました。
それは、きっと、ヒーリングで飯沼さんと立川さんから教えていただいた「しっかりして可愛い」私なのかもしれません。

実は直接ヒーリングでは言えなかった誰にも言えそうにない問題もひとつあります。
とにかく、あの日の私の説明は支離滅裂でお二人が困った顔をしているようにも感じていました。

喉の件ですが、今日、総合病院に行きましたら前回、検診してもらった先生とは別の先生が担当となり、アトピー咳嗽とははっきりとは言えないという解答を早口でまくしたてられ、お薬も風邪薬に出すという咳止めを出すというので、ムカムカして受診料だけ払って薬はもらわずに帰ってました。

「いろんな悩みや問題を抱えておられるにせよ、定例会に参加すればいい仲間になっていく人なのだろうな」とは、ありがとうございます。そんな温かな優しい言葉をかけてもらうと涙が出る程うれしいというのはやはり私はさびしく飢えていたのだと思います。この世は荒れ地です。

KKさん、はじめまして、気にかけていただいて本当にありがとうございます。
周囲を見渡してみると家族との仲が良く、子が両親を好きで「尊敬する人は誰ですか」と聞いて「両親」だと答える子供や、母や父の恩返しをしたい、と答える人をすごくうらやましく思っていました。
そう言える人たちの人生は希望に満ちたものに感じます。きっと、土台がしっかりしているので忍耐力もあり乗り越えて行けるのでしょう。感謝できることはすごいことだと思います。
神の子が破滅する筈は、ないと、私も思います。神の子だから、それを私たちもいただいて来てるのでしょう?そう思っているから生きてこれたような気もしています。

他にも飯沼さんからの返信を待っていらっしゃる方がいるというのに、我がままを言って申し訳ありませんでした。お忙しいところをありがとうございました。

06/07/2009(月) 17:48:14

No.5842  ひろこ
Re: 直接ヒーリング 引用
たかはしさんへ
本当に一人で頑張って来られた事に
感動しました。書かせてくださいね。

「しっかりして可愛い」たかはしさんに
そして、たかはしさんが喜びで生きられますように
お祈りしています。

> 実は直接ヒーリングでは言えなかった誰にも言えそうにない問題もひとつあります。
問題もいつか楽になりますように!

>家族との仲が良く、子が両親を好きで「尊敬する人は誰ですか」>と聞いて「両親」だと答える子供
最初から仲がいい親子は又違う課題がある事もありますが
家族との課題が大きい人が多いと思います。

辛いときは母が亡くなれば私の人生はやり直せると
思っていましたが今は年老いた両親に幸せな気持ちで
終わりを過ごしてもらいたい、自分も幸せな気持ちで
見送りたいと思っています。
愛おしく思います。

悠々塾の仲間に触れ合ったら、きっと安心出来ることが
あると思います。たかはしさんの事応援しています。

06/07/2009(月) 19:31:18

No.5843  はる
Re: 直接ヒーリング 引用
たかはしさんののどの不調、私の症状とはタイプは違いますが、つらい気持ちわかります。
私の場合、口の中でくちゅぷちゅと泡をつくり、つぶすといった一連の行動をほぼ一日中やっていて、つぶれた泡が気管や鼻口に入って咳き込むといった症状です。無意識でやっている行動で、やめようとしても勝手にやっているのですから、とてもつらいです。
原因は父との確執で、父に対して十分な愛情で接してあげればいいのですが、心からとはいえず形だけの表現になっています。
私はDVの家庭で育ち、母への虐待をずっと目にしてきました。だからって父を許さないといった感情はありません。むしろ、父の育った環境、戦争そして母のぐうたらな性格を考えるとかっとなるのはしかたがなかったと思っています。父は何事も一所懸命にする人で、学業は優秀だったこともあって、私達(弟)兄弟は成績優秀でいい大学を出てないと認めないといった言動を常に浴びせられ続けられました。弟はずっと反発を続けてきてついに縁をきりました。たぶん死ぬまで会うことがないでしょう。会ったら父をぶんなぐるという感情を抑えることができないと弟は言っています。私は父に認められたいといくつもの大学を卒業し、職業も選んできました。しかし、結婚で失敗した汚点を許そうとしません。これでもかと努力を重ねてきても父に認めれる言葉をかけてもらえることはできないのです。
父に愛情をこめて、もっと接することができたらといつも思っています。でも背負い込んだ過去の様々な思いや無意識下の感情、自分を卑下した感情は拭い去ることができません。
ヒーリングを受けたあともなお苦しみつづけるものとして、たかはしさんのつらい気持ちがわかるような気がしたので、思いきって投稿しました。つらいきもちが解消できるように祈ります。

06/07/2009(月) 19:37:22

No.5845  たかはし
Re: 直接ヒーリング 引用
就寝前に、掲示版に来てみると温かなメッセージが届いていて、もうここは伝言板ヒーリングと言っていいのではないでしょうか。

ひろこさん、ありがとうございます。
本当にいつか、楽になる日が来ることを・・と、思います。

>辛いときは母が亡くなれば私の人生はやり直せると思っていましたが
私の場合はもし母との問題が解決しないまま母が他界したとして、母は私をずっと恨んだままあの世で私を見ているのでは、と思ったりしてこわくなったりもします。ということは私にも母を困らせた、やましい、という心が充分にあるのだと思います。
あの世とこの世のことを考えると不思議な気持ちになります。
穏やかで幸せな気持ちであの世に帰って行くことは大切なことなのでしょう。


はるさん、ありがとうございます。
身体がどこかで察知して教えてくれているのだと思ってはいますが、やはり、周囲の人が解ってくれていないとつらい状況になってしまうことがありますよね。
一生懸命努力したにもかかわらず、認めてもらえない、それが親ともなれば気持ちの持って行き場がなく苦しまれたことと思います。
弟さんの反発し続けてきたという気持ちすごく解ります。私は何度も家出をし、小学校の頃から家を出ることしか考えてなかったようにも思います(高校からは寮生活でした)。
思い切って投稿していただいてうれしいです。

誤字脱字の多い文章の書き込みで読みづらかったと思いますが、読んでいただいてメッセージまでいただいてありがとうございました。

また、参加させていただくかもしれませんがよろしくお願い致します。

06/07/2009(月) 23:04:50

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