☆「天地悠々」72号から転載
[03/09/30]
伊勢参拝について、メッセージを受信してみました。
伊勢に参ることの意味
―前提―
コントロールによってエネルギーの方向性と範囲・対象が規定されることにより「形」が定まる。凝集、収斂(しゅうれん)するというのが「支配」の仕組み。
霊界における神と個霊との関係性は、絶対的な信頼と帰依。神からの絶対的な守護。 この関係性を地上で顕現したのが「支配」。
違うのは、地上においては力(武力・権力)によるコントロールであって、この違いは根源的な違いだった。なぜならそこに「愛」が欠けていたから。
―あなた方のこれまでは―
形や力よりも愛・信頼・摂理という本質に重点をおき、それに沿って生きようとしてきた。 形や力に依らず、形にとらわれないあり方を求めようともしてきた。
しかし、地上においては「形」を伴ってこそ安定状態を得られ、実感と確信を得られる。
この点が霊界との違いである。地上は喜びを形で表現する次元なのだから。
地上では、形を伴わなければ喜びとなりにくい。 それは「力」にはなりにくいという意味でもある。
本質は普遍のものとして、常に存在する。 けれども「形」として表すことができなければ「顕現」には至らない。
―これからは―
地上に生きる人々を現実に幸せにしていくために必要な「形」あるいは「顕現」。
これまで培ってきた本質に添う力を形にしていくことで、本質と形は融合し、普遍的な喜びを実現できる。 法則を具体化すること。摂理を顕現すること。全体にとっての喜びを個の上にももたらしていくこと。
各々が求める安定状態のなかでの幸せ・喜び。 実感できる喜び。 物と心、形と本質をつなぐため、どちらの波動にも共鳴しなければならない。
極めて地上的・地上で作用するエネルギー(力や形に重点があり、収斂・凝集の方向をさすエネルギー)に共鳴するための参拝。
地上を霊界の写し世にするには、闇に光をあまねく届かせなくてはならない。(そのためには光と闇の分断を解かねばならない。本来ひとつのものだったのだから。)
今までは伊勢のエネルギーが持つ、形を成す(権威を示す)という側面ばかりが人々に受け入れられ、求められ、崇められてきた(全てではないが)。
これからはその形をもとにして、地上的な喜びと霊的(本質的)な喜びをひとつに融合していかねばならない。 愛と摂理に貫かれた仕組みへの移行、変化、再構築、ということである。
Q)比較的最近のことではあるが、霊界側からの指導により私たちも「形を成す」ことを意識してきましたが。
A)本質・普遍・摂理・心…に重心がある者と、形・力(地上的な)…に重心がある者とでは、その違いは決定的であり、あなた方はその点に違和感を持ってきた。 自分たちも「形を成す」のだと思えても、「ああはなりたくない」と思ってしまう。 象徴的な者たちとの関わりが続いたのは、彼らの持つ地上的なエネルギーに触れるためでもあった。
伊勢はその意味では、“おおもと”であるから、これまでのことを踏まえて改めて共鳴の意志を高めてもらいたい。
Q)これから伊勢神宮に参拝する人たちは、どのような気持ちで祈念することが望ましいのか。
A)自分の幸せを願うのは結構なことである。しかし、「自分も皆もともに幸せに」と願うことである。同時に、常に見守られていることへの感謝を。
[03/10/06]
今回の伊勢神宮参拝について(メッセージ)
ひとつは、「破魔」のエネルギーの通路となるため。 本来的にはないはずのものをあるべき姿に転ずるためには、それを消し去るのではなく、エネルギーの方向を反転させるべきである。 ないはずのものである「闇」を反転させるならば、共鳴し飲み込まれるのではなく、共鳴して接点を作り飲み込む側にならなくてはいけない。 あなた方はこれを意識しなければならなかった。 エネルギーを注ぐ際に、それぞれの人の心の闇を拓いてその闇を包み込み、光に反転させるために。 否定し、消し去るのではなく、本来のものに戻すために。
もうひとつは、地上次元への更なる共鳴を強めるため。 物質的・肉体的・具体的・感情的な次元、形を以って表現される喜びとかげりの次元への共鳴と作用を高めるため。 地上の人が求める喜びを、あなた方はもっと提供していけるようにならなくてはいけないのであるし、それを思いながら、どうしても苦手意識や違和感を拭えずにいたから。
Q)このメッセージを読んだ人たちに向けて
A)・自分のなかにある心のかげりを否定しないでください。 それは、本来の光の心が暗転してしまったのですから。 もう一度転じて、光に戻すべきものなのですから。
・自分の幸せを大いに求めてください。 そして同じくらい皆の幸せを願ってください。 |
15/09/2008(月) 16:51:05
No.4350 飯沼 |
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[03/10/07]
「魔(心の闇)」について メッセージです。
闇もかげりも、本来の霊界にはないものです。 愛に連なるさまざまな心を光とするならば、それぞれの心と対極にある心が闇です。 光の心は神の御心に近づく方向性を持ちますが、闇の心は神の御心から遠ざかる方向性を持ちます。
“かげり”は、光の方を志向しつつもそれに向かえないという矛盾をはらむ心です。 しかし、“闇”は違うのです。光から遠ざかる意志を含むのです。 これは「幽界と暗黒界の違い」と同じです。 心の“かげり”によって形づくられた幽界は、人間の心の弱さ、哀しさ、未熟さによって成り立つものです。 しかし暗黒界は、自ら“かげり”の心に生きることを意志した者が織りなす世界です。
自分の困難や試練を嘆き、悲しむのはかげりです。しかし、他の者も同じような目に遭うことを願ってしまえば、そこには闇が生じます。 うまくいかない自分を思い人を妬んでしまうのはかげりです。しかし、その人を陥れたり、失敗のための画策をすれば、そこに闇が生じます。 気持ちのうえで人を嫌い、疎んじ、否定するのはかげりです。しかし、何かしらの形(言動)でその人を傷つけ、否定してしまえば、それは闇の心が為せるわざ、となります。 不平不満を持つのはかげりです。だからと言って誰かに与えられているもの、誰かが手にしているものを奪うこと、失わせることは闇の心の表れです。 その人が求めているもの(こと)を知りながら与えないのはかげりですが、逆のものを向けるのは闇です。
けれども、“かげり”も“闇”も、もとは光なのです。裏返しです。だからこそ、光に還ることができるのです。
闇を否定してみても、それを消し去ることはできません。 あなた方が心のかげりを持つ以上、そのかげりはいつ闇にまで深まっていくか分からないからです。 しかし、その闇を拓く力はあります。闇もかげりも全てを包んで慈しむ心です。
《神の御心は全てに対する祝福。かげりも闇も祝福のなかで存在を許されている。しかし、存在を許されている状態(段階)にとどまることは法則に反する。なぜならば全ては進化・向上の道を歩むからである。ということは、存在が許される状態(段階)からの変化・移行はいずれその時期を迎える。 地上人類が作り出してしまったかげりも闇も、本来的には人類自らが光に転ずべきものである。ゆえに、かげりと闇を、否定・嫌悪・無視するところを越え、“あるもの”として受け入れる段階を経、解消(昇華)するところまで進まなくてはならない。それが地上人類のカルマ解消であり、地球の次元の移行となる。》
[03/10/08]
「魔(心の闇)」について 補足のメッセージです。
人の心の闇を“あるもの”として受け入れるとは、それを見聞きし、触れたとしても、自らの内にかげりを抱かずにいられる状態を指します。 しかしそれだけでは、闇を光に昇華させるにはいた至りません。
闇を抱える人を思いやることができるか。 闇を抱える人を慈しむことができるか。 愛すること、大切にすること、尊重することができるか。
心を揺らさないという段階の次にくるべきものは、このいずれかの思いを向けることができる、という心のありようです。 そう思える人はその時点で、見せられた闇を包み込んだことになります。 そう思えた人にとってはすでに“闇”ではないからです。 (その時点で思いやりの対象、慈しみの対象、愛する対象、大切にする対象、尊重の対象だからです。) これが昇華ということです。
自分の心の闇を昇華させていくには、同様に、まずは自らの内なる闇の心をあるがままに見、“あるもの”として認識することです。 闇を抱える自分は誰からも愛されていないのだろうか、と自らに問うのです。 答えは誰に対しても同じです。
「あなたを慈しむ存在、あなたを愛する存在、尊重し大切にしてくれる存在がいる。それは神であり、霊界から見守る数多くの霊たちである」(「そして、あなたと共に生きている人たちである」)
どんな闇を抱える自分であっても、限りない祝福を神から注がれて今を生きている。 闇の心を含む自分の存在全てが、神に抱かれている。 これが事実です。 いくら否定しても、この真実は微塵の揺らぎもありません。 それを信じ、喜び、感謝できた時、こうして生きる自分を喜べた時、闇の心には、光へ向かう方向のエネルギーが賦与されます。 これが昇華です。 |
15/09/2008(月) 16:54:19
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No.4351 飯沼 |
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☆一応、注釈しておきます。
>闇を抱える人を思いやることができるか。 >闇を抱える人を慈しむことができるか。 >愛すること、大切にすること、尊重することができるか。
といっても、闇に支配されたり、迎合したり、加担することではないのは言うまでもありません。 あくまでも摂理に沿った、本来の光に反転させるためのものです。 光に向かう方向性と意志を曖昧にすることは、すなわち闇を助長することだと私は思います。 |
15/09/2008(月) 17:30:01
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