アメリカの投資銀行のリーマンブラザーズが破綻した。 アメリカはもちろん、日本や世界の金融不安はさらに高まるだろう。
アメリカ政府の財務長官は「モラルハザード(倫理崩壊)を招く」として、リーマンブラザーズの救済に公的資金(つまりは税金)を投入することを拒否し続けた。 かつて日本政府が銀行に多額の公的資金を投入したのに比べ、これは一見、「公平」のようにも見える。 しかし、実は今年の3月に投資銀行のベアースターンズがJPモルガンチェースに救済合併されるときには、300億ドル(3兆円以上)の公的資金をJPモルガンチェースに援助している。 アメリカ当局はこの先も、1000〜2000億ドル(10〜20兆円以上)の公的資金を金融会社の救済にあてる予定だと言われている。
日本の年間予算は一般会計が約83兆円だから、いかに多額な公的資金が投入されるということがわかる。 日本でも1998年の金融不安の時には、総額30兆円の公的資金(税金・国債)が金融機関に提供(投入)された。 莫大な税金が投じられてから10年、大多数の人々の暮らしはさらに苦しくなっている。 何かおかしいと、私は思う。
ちなみに日本の国家予算は2重構造になっている。 国会で内容を審議される「一般会計」83兆円とは別に、「特別会計」といわれる予算が単純総額で368兆円(実質は178兆円)あり、この内容の不透明性が指摘されている。 やはり、何かおかしいと思わないだろうか?
話を戻すが、アメリカ合衆国という国家を牛耳る人たちのやっていることは、まさに「???」だ。 またまた話が逸れてしまうが、アメリカは石油利権を得るためにフセインに虚偽の言い掛かりをつけてイラク戦争を始めたといわれている。 しかしつい最近、イラク政府はイラクの有望な油田の採掘権を中国やロシアにも開放した。 9.11事件にしても、陰謀と言うにはあまりにも杜撰であり、「外部からのテロではありえない証拠」が山のように残されている。 まあ歴史を見れば、今までの戦争や侵略もそうではあったのだが、それにしてもボロが見えすぎているような気がする。 何かがおかしいと、私は思う。 まあ、今はそれを言いたいのではないからこれ以上はそこには踏み込まないでおこう。 と言いながらもうひとつだけ。 南米の国ボリビアでは、選挙で先住民系のモラレス大統領が選出されている。 それはアメリカの企業にとっては都合が悪い。 ボリビアを植民地にしていたのはスペインだが、アメリカは今まで南米を思い通りに搾取し続けてきて、その結果、反米・非親米政権が選挙によって次々に誕生している。 ところが、そのボリビアでアメリカが陰で糸を引いた反政府暴動が発生しているそうだ。 9月10日、モラレス大統領は、ボリビア駐在米国大使がボリビア政府の転覆を謀ったとして、同大使の国外退去を命じたのだ。
今度こそ話を戻そう。 リーマンブラザーズの倒産によって、アメリカの金融不安は加速するのだろう。 それ以前から中国の株価も暴落している。 当然、日本もそれらの影響を被って、金融不安・経済不安が高まるだろう。 外資系の保険会社の倒産も噂されている。 経済パニックに陥る可能性もある。 世界経済が崩壊するかもしれない。
今ですら多くの庶民はかなり厳しい暮らしを強いられている。 その一方で、テレビなどでは、いわゆる「勝ち組や中流」を基準とした商品の広告が繰り返されている。 しかし、そういう暮らしに手の届かない人々は実際には非常に多いのだし、これからはさらに「貧困者」が増えていくのだろう。 それはおそらくは誰が総理大臣になっても、どの政党が政権を握っても、大きくは変わらないのじゃないかと思う。 今の政治家や官僚に、ワーキングプアと呼ばれる人たちの生活の実情や生活実感が理解できるとは思えないし、理解する気があるとも思えない。 そういう中で、世界や日本の経済はさらに破綻・混乱に向かっている。
では、私たち庶民はどのように日々の暮らしを守っていけるのだろう?
まずは、中流を基準とした生活様式から、こちら側の意志で脱却することだと思う。 さまざまな物を手に入れるにはお金がかかる。 そして、欲しいものを買えることが「豊かな暮らし」だと、私たちは思い込まされてきた。 高級品志向も憧れめいて刷り込まれているのだろう。
しかし実際には近い将来、この国に暮らす人々は、日々の食物にすら不足する時代を迎える可能性は十分にあるのだ。 それは世界的に見れば、決してとんでもないことではない。 世界の多くの人々は今も十分に食べることさえできていないのだし、飢餓状態に置かれている人々が何億人もいるのだ。 いわゆる「先進国」に暮らす大部分の人々と、「貧しい国」に暮らすごく一部の人々だけが、「お金による(ある程度の)豊かな暮らし」を享受してきたに過ぎない。 それは、お金による(ある程度)豊かな暮らしを享受している人々から、ごく一部の者たちが莫大なお金をからめ取る目的のもとに作られたシステムだったのかもしれないのだ。 欧米(特にアメリカ)型の経済や社会は、まさに金が金を生むシステムだったように思う。 私たちは、それにうまく乗せられていたのだ。
経済グローバリズムは、金が人を喰う社会を作り上げてしまう。 そして、今の社会は実際にそうなっているのだ。 金融不安がさらに高まれば、「金融システムの維持」の名目で、またまた税金が投じられる可能性は高い。 その一方で庶民の貧困は広がり、2007年にワーキングプア人口は1000万人を超えて、今も増え続けている。 これは全労働者の25%にあたる。 日本のCENSORED者は年間3万人を超えているが、そのうちの2万人以上は働いている人たちだという。
ワーキングプアとは、働いても生活保護支給額以下の賃金しか得られない人々のことだ。 生活保護受給世帯は150万と言われている。 生活に困窮しても、受給申請が窓口で受けつけてすらもらえないケースが非常に多く、生活保護を必要としている人々は、実際にはさらに膨大な数になっているはずだ。 1000万人のワーキングプアの人たちも、生活保護費との差額を受給する権利があるのだ。 日本はつい先日まで、「戦後最長の好景気」が続いていた。 その一方で、圧倒的多数の人々の暮らしは厳しさを増し続けた。 働いても生活保護費以下の収入しかない人が1000万人もいて、最低生活を保障しているはずの生活保護は申請すらさせてもらえない実情だ。 何だかおかしいと思わないだろうか?
国民の最低生活を保障することは、憲法25条の「生存権」によって、政府の責任であり義務なのだ。 国や地方自治体の財政が厳しいからといって、国民や住民の最低生活すら切り捨てるのは、本末転倒なのだ。
☆日本国憲法 第25条 すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する。 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
こういう現状に対して、意見を述べればキリがないので、今はふたつだけ提案をしたい。
生活保護を受給する必要があっても、窓口で受けつけてもらえないような状況は、即刻解消しなければならない。 そうはいっても政府や行政はなかなか動かないのだし、受給申請に行く個人はやはり立場的に弱い。 弁護士が同行すれば、窓口の対応が変わったという話はよくあることのようだ。 ならば、生活保護受給をサポートするNPOなどに、弁護士名の入った「生活保護の支給要請書」を委託し、弁護士の支援を背景に申請できるような態勢をとることはできるはず。 行政は、とにかく申請を受けつけて、適正に審査するのが当然なのだから。 これなら弁護士もあまり手間を取らないだろう。 それでも、窓口で却下するなら、典型的なケースで皆が支援して(判例獲得のための)裁判を起こせばよい。 困窮している同胞がせめて最低限の生活ができるように協力するのは、私たちにとって当たり前のことではないだろうか? 生活保護を受けることを恥だなどと思うことはない。 本来税金とは、そういうところに十分に使われるべきものだし、それは「困った時はお互いさま」のひとつの形なのだ。
もうひとつは、私たち自身が、お金を軸とした暮らしからできるだけ脱却していくことだろう。 企業はあの手この手で、人々の購買意欲を増進しようとする。 物を買うこと・お金を使うことが、「豊かで、いい暮らし」であるかのように、私たちは思い込まされてきた。 「豊かで、いい暮らし」を手に入れるためには、より多くのお金を稼がなくてはならない。 そしていつの間にか、全てにお金がモノを言い、お金が全ての世の中に成り果ててしまっている。 金のためなら何でもしてしまう企業や人間が増えすぎている。
しかし、実際はお金で生身の人間が豊かになどなれるはずがないのだ。 私たちは、自分らしく、自分として、家族や仲間や仕事上の関わりを持つ人たちと接してこそ、幸せを実感できるのではないだろうか?
長くなったので先を急ぐ。
これから始まる金融不安・経済危機を、私たちは庶民の知恵とつながりで泰然と迎え撃ち、そこから新しい社会のありようを広げていく機会にしていけばどうだろう?
金にならないものは切り捨てるという価値観の結果、この国の農業も漁業も林業も崩壊してしまっている。 その結果として、この国に金がなくなれば庶民が飢える時代が近づいてきているのだ。 特に沿岸漁業や近郊農業を切り捨てて金に換えたことは、大都市住民にとって大きな不都合が振りかかるかもしれない。
まずは食生活を変えていくことだ。 肉食を減らし、国産野菜と「大衆魚」といわれる近海魚を中心にしていくことだ。 「地産地消」を軸にしていく暮らし。
衣料品や生活用品なども、できるだけ使い回しをしていけば、それだけお金への依存度は下がる。 新たにお金を使わせるための広告に乗せられるのはもうやめよう。 お金を出して便利さや快適さを買うのではなく、ひとりひとりの創意工夫によって、お金に支配されない暮らしを目指していけばどうだろう? もちろん、最低限のお金は必要だ。 けれども、意識的にお金を軸にした暮らしから脱却していこうとすれば、かなりの部分でそれは可能ではないだろうか?
これは質素倹約というイメージではなく、お金を節約するためでもなく、私たち庶民が本当の意味で豊かに生きるためのポジティブな方法なのだと思う。 もちろん、個人の趣味や嗜好品を否定するのとは全く違う話だ。 自由を制限する方向性ではなく、本当の意味での自由を広げていく発想であり、方向性なのだ。 テレビやCMで見せられる「豊かで、いい暮らし」を基準にして、そのために心をすり減らし、身体を壊すような暮らし方には、こちらから決別してやろうよ。
繰り返して言えば、これはお金を使わないために心を縮める暮らし方ではなく、庶民が庶民として心も体も健やかに、豊かに暮らしていくことなのだ。 自律的な暮らしや、そのための創意工夫は実は楽しいことだと私は思う。 私たち庶民は、縄文の頃から長きにわたって、そうやって暮らしてきたのだ。 (私などが言わなくても、すでにそういう暮らしをなさっている皆さんには釈迦に説法でお許しください)
かつての日本には「ハレ(晴れ)の日」と「ケ(褻)の日」があった。 「ハレ(晴れ)の日」は特別な日であり、「ケ(褻)の日」は普段の日常のことだ。 それはおそらくは縄文の人々から受け継がれてきたものだと思われる。 私たちもハレの日は、(できる範囲で)与えられた喜び・そうできる喜びをおおらかに楽しめばよいのだと思う。 それぞれの価値観や人との関わりによって、どのような時がハレの日にあたるのかはさまざまでよいのだから。 とにかく大事なことは、お金に依拠する部分をできる分野から、できるだけ減らしていくということ。 心を縮めて我慢するのではなく、創意工夫やひと手間かけることによって、暮らしの内実を豊かにしていくということ。 そして、誇りをもって、そのような自律的な暮らし方を喜びとして伝え、広げていくことだと思う。
何度も言うが、それは貧乏臭く惨めな暮らしなどではない。 お金の節約というラインからしか見ないのは、まだお金を基準にしているということだ。 お金は基準ではなく、指標のひとつに過ぎないという価値観が重要なのだ。 いつの間にかお金に支配されてしまった私たち庶民の暮らしや社会を、もう一度、本当の意味で豊かにしていくことなのだ。 絡めとられ、奪い取らて久しい、にんげんとしての誇りと自由を取り戻していくことなのだ。 物質やお金を追い求め(あるいは追い回されて)、心を固くしてあくせく生きるのではなく、本当の自分らしく、本当の自分たちらしく自由に柔らかに、地に足をつけて豊かに生きていくことなのだ。 そういう暮らしでお金が余れば、ハレの日に使うなり、(世界の)誰かのために役立てればよいだけのことだ。
金融危機を理由にして、おそらくはまた庶民に不安を与え、恫喝し、さらに庶民を締め上げるような仕組みにしようとしている者たちがいるように、私は感じている。 全てが裏で仕組まれているのではないかという気がしている。 そうでなくても、今の世界や世の中は庶民にとって、十分に生きにくくなってしまっている。 ならば、今こそ私たち庶民としての価値観を再構築し、それに基づいた暮らしを取り戻していこう。 それはどこからでもすぐに始められ、きっと「皆も自分も幸せに生きられる社会」につながっていくのだから。
「それでは経済が後退して、人々の暮らしがさらに混乱する」という意見もあるだろう。 しかし、地球環境からしても、資源問題からしても、このままでは破滅するしかない。 お金を中心にした価値観や生き方や仕事のしかたが、皆を豊かに幸せにすることはできないという事実を、私たちはすでに経験したのだ。 皆を幸せにできないどころか、自分自身の心と体も健やかに生きることさえ非常に困難になってきてはいないか。 つい先日までの「戦後最長の好景気」のなかで、中小の企業や商店は倒産し続けた。 会社は潰れなくても、利益を伸ばしても、従業員は使い捨てのようにリストラされ、あるいは劣悪な労働条件を強いられている。 滑り台から突き落とされる罰ゲームを怖れて、にんげんどうしのつながりを断ち切って、まさに椅子取りゲームの椅子にしがみつくしかないような生き方をさせられているのだ。 「これ以上の経済の混乱は避けねばならない」というアピールそのものがfake(まやかし)なのだ。
私たちはお金に魂を売り渡すような生き方はしない。 私たちは、にんげんは、人から何かを奪わなくては生きられないような存在ではない。 人を傷つけるのではなく、お互いが癒しあい、高めあって生きることができるのだ。 にんげんとしての豊かな心をさらに広げながら、にんげんどうしが心を通わせあい、手を取り合って生きることができるのだ。 もう騙されない。 もう誤魔化されない。 もう彼らの思い通りにはならない。 私たちは私たちとして、にんげんとして生きていこう。 にんげんとしての自律的な日々の暮らし方によって、私たちは「明日のくに」の住人になっていくのだ。 |
16/09/2008(火) 21:52:15
| No.4358 さき |
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| Re: 金融不安を越えて自律的な暮らしを始めよう |
引用 |
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ぬまさん♪ 読んでたら心が弾んできました。(ぬまの意欲がこもってる!?)
私は経済社会の専門家じゃないから難しいことはわからないけど、やっぱり今の世の中何かおかしいと思いますもん。 先日ぬまから貸してもらった「金融権力」(本山美彦・岩波新書)を読んで、あたらめて「お金がお金を生むシステム」がどれほど巨大に膨れあがっているのか。そのシステム→実体のない<虚構世界>が、いかにいのちや暮らしにかかわる<現実世界>を好き放題に食い物にして操っているのかってことに、寒気がしました。
お金を持つこと、消費することが<幸せ>なんて誰が決めたんでしょうね。 それを否定するつもりはないけど、そこに人と人との心の通いあいや、生きた関係、人間やいのちに根ざした暮らし、労働や文化があってこそ、それが幸せや喜びになるんだと思うんです。 お金のために庶民どうし、弱い者どうしが、互いに足をひっぱりあって殺しあうような関係はごめんです。 そんな関係を強いるお金のシステムから自由になろうよって言いたいです。 いのちや暮らしをないがしろにするシステムにとりこまれるのはやめようよ、そこから降りようよって言いたいです。
>今こそ私たち庶民としての価値観を再構築し、それに基づいた暮らしを取り戻していこう。 それはどこからでもすぐに始められ、きっと「皆も自分も幸せに生きられる社会」につながっていくのだから。< ↑↑ 同感です。 この地上に幸せと喜びあふれること。そっちに向かっていくこと。 そのために、ホントに大切なものは何なのかってこと。 それを伝えてるのがスピリチュアリズムなんだと思います。 それを胸張って伝えていきたいです。 |
17/09/2008(水) 00:06:18
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| No.4359 飯沼 |
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| Re: 金融不安を越えて自律的な暮らしを始めよう |
引用 |
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>読んでたら心が弾んできました。(ぬまの意欲がこもってる!?)
ほい、ありがとさん。 なぜか急に書いてしまいました。
「金融権力」は、注文してやっと届いたと思ったら、僕が読む前にさきさんが持って帰ってしまったのでしたね。 僕も読みたいです。 僕も経済とかはよく分からないけど・・・。 |
17/09/2008(水) 00:51:36
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| No.4360 あきどん |
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| Re: 金融不安を越えて自律的な暮らしを始めよう |
引用 |
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飯沼さんがおっしゃったこと、そうだ、そうだと思いました。
長いこと、人は、心を置き去りにして、お金を中心としたやり方に振り回されてきたのですね。本来の人の喜びを履き違えて、今、人々は何か違うと気がつき苦しんでいる。 このやり方では、社会にひずみが生じてどうしようもなくなりつつある。 お金を中心にしないで、心を中心にした生き方、工夫した生活、その方が本来の人の喜びを感じられ人生を楽しめること。私も工夫して生活をもっとお金から心を中心にしたものへシフトして喜びを感じて生きていきたいです。 お勧めの本を私も読みたくなりました。 |
17/09/2008(水) 16:52:48
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| No.4361 ひろこ |
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| Re: 金融不安を越えて自律的な暮らしを始めよう |
引用 |
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今日、会社の人とプレゼンで偶然にも 「ハレ(晴れ)の日」と「ケ(褻)の日」の話をしていました。 夜にも娘と自律的な暮らしの話をしていたので掲示板を見て不思議に思った次第です。 |
18/09/2008(木) 01:33:49
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