縄文展に行ってきました。 縄文の人々の自由を感じました。その場では分からなかったのだけど帰ってから夫と話しながら、縄文展で感じてたのは自由なのだと思いました。闇雲な自由ではない本来の自由、おのずからなる秩序に裏打ちされた真の自由。縄文の人たちの、何の壁も制約もきめつけも圧迫もない、自由なおおらかな喜びや感謝、躍動が伝わってくるようでした。 火焔型土器の複雑な緻密なアンバランスな難解な模様、一面からみると右が低いようなのに反対からみると左が上がっているようで、一周してみると絶妙な安定感さえ感じれる。 炎の跡がある、この土器で実際に縄文の人々は食べ物の煮炊きをしていたらしい。この土器をどんなふうに縄文の人たちは使っていたのだろう、家の中で家族で囲んでいたのだろうか。神への感謝、食べ物をいただけることへの感謝の気持ちを表したくて、こんなにもきれいな器を作り、何の惜し気も躊躇いもなく火にかけ食べ物の煮炊きに使ったのだろうか。感謝の気持ちをもつことさえも自由なのだとおもった。 今の私の心の貧しさ不自由さを思いました。日常の些細なことを決めることさえもどうでもいいたくさんのことを思い悩んでしまいなかなか動けない。食事のときに「いただきます」「ごちそうさま」と言ってるけど、心からの自由な感謝の気持ちで言ってはいなかった、と思った。 心が自由でないと、心から感謝の気持ちを持つことも、心から喜ぶことも、心から・・・、どんな気持ちも本当には思えないのだと思った。心が不自由だと喜びさえも心からのものでなく形だけの頭でわかっているだけの喜びになってしまっている、そう思った。 縄文の人たちは、何の衒いも壁も迷いも躊躇いも疑いもなく、自由におおらかに心を表現していたのだと思った。その縄文の人たちの心がこの土器に残光となって表れていると思った。 私の心の不自由さ囚われの源はどこにあるのだろうと思った。そこから外れて本当の自由な心になりたいと思いました。何物にもとらわれない本来の自由な心、私が私でありたい、私らしくありたいと思いました。 私だって幸せに違いないと思いました。食べる物があり、住むところがあり、着る物があり、愛する人と一緒にいられる、感謝することが一日に何度もある、これを幸せと心から思えていなかった、これまでの心の不自由さを思いました。 縄文の人たちの自由に触れられて、嬉しくてしかたありません。 飯沼さん、縄文展のお知らせをして下さり、ありがとうございました。 夫は縄文展で力強さを感じたそうです。人それぞれに感じ方はあるのでしょうね。それぞれの感じ方を楽しめばいいのだと思いました。 とても良かったので皆さんぜひ見に行ってみてください。 |
29/04/2008(火) 00:16:33
No.3721 まゆみ |
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のぶよさんの書き込みを読んで本当にそうだなぁって思いました。 おおらかな喜びの自由がそこにあったのでしょうね。 縄文の人達のような心でいたいものです。
>縄文の人たちの自由に触れられて、嬉しくてしかたありません。
のぶよさんのにこにこ顔が浮かんできて私もうれしくなりました。
(もう一度縄文展行ってみたくなりました。) |
29/04/2008(火) 07:45:00
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