2007年5月定例会に向けてのメッセージ
こんにちは。 克子です。
霊界に生きる私たちはもちろんのこと、地上に生きる皆さん方も同じ「神の子」です。 地上よりも霊界の方がはるかに神の存在とご意志を実感できるのですが、それでも神そのものが「分かる」わけではありません。 今の地上界は、まるで太陽の光を遮るスモッグのように、人間のかげりの想念に覆われています。 神の光は霊界とは比べ物にならないほどに僅かにしか届いてはいないのです。 そういうなかにあって神を実感するのは非常に困難なことですし、いずれにしても神の全てを分かる人間などひとりもいないのです。 それでも皆さん方が「神の子」であることに変わりはありませんし、神の存在を信じていない人であってもそれは同じです。
人間は地球という星に神のご意思を顕現させるために生きているのです。 それは、地上の人間にとっては神を信じるかどうかよりも、神の御心にかなった生き方をするかどうかの方が重要であるということでもあります。 神の御心をあえて言葉にするならば、「偏りのない喜び」ということになるのでしょうか。
もちろん大いなる神は全てであり、その全ては喜びなのですが、それはあくまでも神と共鳴している次元においての話です。 地上界のように、限られた年月の人生しか生きない次元の世界では、「全てが喜び」ということにはなりません。 地上での人生が全てではなく、全てが地上にいる間に喜びに変わるとは限らないからです。 いずれにしても、本来の霊界に戻る時には全てが喜びとして理解できるのですし、心からの納得もできるのです。
しかし、地上において「人も自分も幸せに」と願い、その喜びが実現されることを目指し続けることは非常に大事なことです。 自分として、その意志と意欲・欲求があるからこそ「生きている」と言えるのです。
それはスケールの大きな役割を担っている人であっても、ごく普通の人としての幸せを実現させ、その喜びを実感することを人生のテーマとして生まれてきている人であっても同じです。 「何を自分の喜びとするか」はその人の人生のテーマに沿っているのですから、人によってまちまちです。 同じ意味で、「人の幸せ」ということの内容もまたまちまちです。 何を自分の喜びとするか、人にどんな喜びをもたらそうとするかは、その人の魂の学びの段階を反映しているとも言えるのです。
そうは言っても、今その人が見せている姿が、その人の魂の学びの段階をそのまま表しているとは限りません。 どんな学びの段階の人であっても、全ての魂は神の分け御霊を戴いているのです。 すなわち全ての人間は神の子なのです。 だからといって、全ての人間が地上において自らの魂にふさわしい言動ができるかと言えば、残念ながらそうではありません。 そこにはそれぞれの今回の人生のシナリオがあるからです。
特に人に対する関わりにおいては、何度かその人の魂に向けて働きかけて、それでもその人が動かないのであれば「まだ時期が来ていないのだ」と受け入れるしかありません。 その人と関わることがある種の執着になって、自分本来の働きや生き方ができなくなることは決して好ましいことではないのです。 もちろん、自分の人生を懸けてその人の目覚めを促していくことが自分の人生のテーマである場合も少なくはありません。
そういう場合はまさにそれが魂の欲求であるのですから(「魂の欲求」という言葉は別にして)、それなりの実感があるものです。 一定期間そういう関わりをした後で相手が目覚める場合もありますし、「深く関わっていくことがお互いの幸せにはつながらないのだ。これ以上、心を重ねようとすることはお互いの喜びにはならないのだ」と納得できる場合もあります。 そのどちらもが自分の魂の意志に沿ったことなのです。 つまり、それでよろしいのです。
今日はそのことをお伝えすることがひとつ。 もうひとつは、皆さん方が「自分の常識」としていることを打ち破り、本来の自分としての人生を生きていけるようにエネルギー的な作業をしていただきたいのです。 「常識を打ち破る」といっても、今回は地上界全体を覆っている歪んだ常識のことではありません。 それともつながってはいますが、むしろ皆さん方がひとりの人間として、自分の中で「神の子としての自分にふさわしくない常識」としてしまっていることです。 自分のなかに形作られている「喜びにはつながらない思い込み。(自己)規定」のことです。
以下略 |
26/05/2007(土) 10:38:13
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