☆☆ 愛は時空を越えて 27 ☆☆
―― 霊界の克との対話 ――
飯沼) おぅい、クゥ、こんばんは。
克子) はぁい、まーたん、こんばんは。 お元気ですか(笑)
飯) 先月、お前から言われたテーマを意識して青森に行ってきたけど、それについて改めて伝えてくれるかい? 自分としては、不十分ながらもお前から提示されたエネルギーへの接点は持てたんじゃないかと思うんだけど。 あれ以降、遠隔ヒーリングをしたら、特に腕に筋肉痛が残るようになった。 毎回ではないけどね。 別に力仕事をしているわけでもないから、やっぱりヒーリングエネルギーを送ることと関係しているんだと思う。
克) そうですね。 筋肉痛などは確かにそれとの関わりがありますが、いくつかの要素が絡み合っているので、ここではその解説は省きますね。 それよりも、前回私から伝えたことを再度確認してください。
『それらを越えて、さらに今、あなたに求められていることがあります。 常識(すなわち、人間の想念・意念の集積。思い方の習慣です)の枠を打ち破っていくエネルギーの獲得です。 理性が最も通用しにくい分野に直接影響を与えていくエネルギーの獲得です。 あなたの場合、理性が納得しなければ本気になって動けないという傾向がありますね。 しかし、逆に理性が納得して、それが今どうしても必要であると思えれば、自分でも想像のつかない力が出るのです。 「人間の思いが事実・現実を作り上げている」という事実から、どのような展開が成り立つのか、あなたの理性で十分に吟味してください。 今の世の常識を理性で洗いなおして、地上的現象からも法則を見出し、常識に束縛されない本来の理性を駆使して、真理と事実に基づいた常識をあなたの中に確立するのです。 それを信念として、今の世の常識やひとりひとりの人間の想念の澱の凝縮である頑なさを溶かしてゆくのです。』
はい。 そういうエネルギーにつながりかけていることは間違いありませんね。 でもね、それはこちらから見ていると、まだ端緒が開けた程度にすぎないのですよ。 厳しいことを言ってごめんね。 でも、それが事実ですし、あなたはもっともっとそのエネルギーを使いこなせるようになっていかねばならないのです。 そのエネルギーを使っていこうとするあなた自身の意欲にもずいぶんムラがあるしね。 意念が上滑りになってしまう時もよくありますね。
動かしていく対象のエネルギーの大きさや重さに見合っただけのエネルギーを発揮できていないから、あなたの肉体にダメージを受けたりもするのです。 それは決して健やかなことではないし、それどころかあなたの肉体を傷め、地上生命を縮める(突然停止する)ことにもなりかねません。 中途半端は非常に危険です。 だから軽く見ないで、そこを越えていくためにもっともっと集中してちょうだいね。 先に霊界に戻ってしまった私が言うのは申し訳ないけど、あなたにはまだまだ地上で働いてもらわなければなりません。 私が一足先にこちらに戻ったのも、こちらからあなたの働きを援助していくためでもあったのです。 だからここを正念場と認識して、そのエネルギーの獲得と定着に努めてくださいね。
そのためにはあなたが納得できるまで、何度でも日常を離れた空間でそこに集中することが必要です。 あなたとしては費用のことや諸々のことが気になるのでしょうが、今あなたが挑んでいるテーマはそんな次元やスケールのものではないのです。 あなた(のオーラ)は今、歪んだ世の常識の強大なエネルギーと新しい世から吹き上げてくる力強いエネルギーに満ちた風に挟まれて、強烈なストレスに曝されています。 その圧力は一人の生身の人間が受けきれるものではなく、このまま流れを作り出せなければあなた自身の身が危険です。 あなたと同じものを見ることのできる人は少なく、その意味では孤独も道連れではありますが、今の仲間たちを信じ、これから参加してくるであろう仲間たちを信じて、小さな喜びを大きく喜んでいってください。 あなたに提示されたテーマを、くれぐれも小さく処理してしまわないで、何度でも挑んでくださいね。
こういう時に私が地上で働きを共にし、あなたをいたわってあげられないことを本当に申し訳なく思います。 あなたも承知しているように、これも私たちがかつての人生で作ってしまったカルマの贖(あがな)いなのです。
飯) うん、分かった。 自分なりにはかなり変化があると思っているんだけどね。 でも、確かに言われるとおりなんだと思う。
克) そう遠くない将来、(それは5年以内とか10年、20年とかの幅はあるにしても)地上界は大きな変わり目を迎えるでしょう。 それは今までさまざまな形をとって、霊界側からの警告と導きとして伝え続けてきたことでもあります。 それはすでに始まっているとも言えるのです。
これから地上の人たちは、二通りに分かれていくでしょう。 こちら側が分けるのではなく、ひとりひとりがどちら側に属するのかを自ら選んでいくのです。 誤解を怖れずに言えば、新しい地上界にふさわしく輝く者たちの側に属するのか、我よしの古い地上界と共に滅びていく側に残るのか、です。
飯) 新約聖書に出てくる、「羊と山羊」の譬(たとえ)のように?
克) そうとも言えますね。 今の地上の人間で、完全に幸せに満たされている人はほとんど全くいないのです。 ほとんどの人が何らかの困難や悩みや苦しさを抱えています。 もしもそういうものが一切なく、全てにおいて満たされている人がいたとすれば、その人は自分よりもはるかに苦しい状態の人々が多数存在していることに心を向けねばなりません。 同じ人間なのに、一方では飢えに苦しんでいる人々がいることを知りながら自分が満たされていることを本当に喜べるのかどうかです。
もちろん、今の自分を喜んでいくということは大切なことです。 しかし、本当に自分が満たされているならば、極めて劣悪な生活を強いられている人々に心が向いていくものなのです。 「人の喜びを喜んでいく、人の幸せを願っていく」ということは、人にもたらされた喜びを自分も喜ぶというだけでなく、「今とても苦しい人が少しでも幸せだと思えるように、自分も何かしていきたい」と思い、実際にそうしていくことなのです。
今とても苦しい状態の人々のことを見て見ぬフリをして、「私はこんなにも幸せです」と言い続けるとすれば、その人は利己主義者です。
でも、今の地上の人はほとんどが何らかの苦しさを抱えています。 それは地上が魂を磨くトレーニングの場であるからですね。 大事なことは、「自分も苦しい中でどうしていくか」なのです。 地上人生というものは、実はその問いの答えを出すためにあるのです。
自分の苦しさに沈み込んでいってしまう人も少なくありません。 自分よりももっと苦しい人々のことなどお構いなしに、自分が楽に、自分が幸せになっていくことばかりを求める人たちもいます。 地上人生は「自分がたくさんの感動を経験するためにある」「自分が人に感動を与えるためのもの」という考え方は間違いではないにしても、そこに留まっているのはやはり自己中心主義なのです。
こんなふうに考えてみてください。 自分にふたりの子供がいるとします。 上の子供と自分はお腹いっぱい食べて、仲良く暮らしていますが、やはり人間同士ですから時には揉め事もあります。 下の子供はいつもお腹をすかせていて栄養失調になっています。 そういう状態で、自分はもっと幸せになりたいからと、上の子供とどうすればもっと仲良くしていけるかばかりを考えて、下の子供のことに無関心であればどうでしょう?
そのために何冊もの本を読み、「霊的真理」のお勉強をし、「下の子供はそういう境遇を選んで生まれてきたのだ」「飢えている子供がいるからお腹いっぱい食べられることの幸せが分かるのだ。つまり、闇があるから光が分かるのだ。だから霊的真理を学んだ自分は、飢えている子供に感謝すればよいのだ」などと考えるとすれば、その人は外向きはいかににこやかであったとしても、身勝手で冷血で利己主義の見本のような親ですね。
霊的真理をかじった人のほとんどは分かったかのように、「宇宙はひとつ。地上人類は同胞」という言葉を発します。 地上人類が同胞であることは確かですが、ならば自分たちの同胞が飢えに苦しんでいる状態を知って、どうして放置しておけるのでしょうか? その人たちをそのまま放置した上に築こうとしている自分の幸せは、どんな幸せなのでしょう? 幸せを築いていく基礎が、土台が間違っているとは思わないのでしょうか?
私は改めて皆さん方に申し上げます。 人生の苦難にある人は、(それが自らの自由意志によって選んでいる場合以外は)、速やかに救済されるべきなのです。
その人たちの魂は、飢えに苦しみ踏みにじられる人生を選んで生まれてきたのではありません。 同胞である人々が援助の手を差し延べ、共に幸せになっていくためにそういう苦しい役割を引き受けて生まれているのです。 その人たちの苦しい現状を知った人たちは、今が苦しい人たちに援助の手を差し延べるために今の境遇が与えられているのです。 見て見ぬフリをしたり、知っても無関心であったり、まして自分勝手な霊的解釈をして納得・放置するためなどではないのです。
今まで人類にもたらされた全ての“まともな”啓示は、「分かちあいと支えあい」を訓えの中心にしています。 にも拘らず、ずる賢い人間が現れてはいつもその訓えを歪め、剽窃(ひょうせつ)し、自分(たち)の欲望を満たし、正当化してきました。
霊(人間も霊的存在です)とサービス(提供すること)はコインの裏表であり、切り離すことはできないものなのです。 ならばいかなる理由をつけようとも、飢えに苦しむ同胞に手を差し延べないことは明らかに霊的過ちです。 その過ちを確信を持って行うのであれば、それはまさに罪なのです。 人間もまた霊的存在なのですし、もしもそれを受け入れないにしても人間としてあるべき姿と照らしてみれば誰にでも分かることなのです。
最も苦しい人々に比べて多少なりとも持っている人があえて手を差し延べようとしないのであれば、その人たちの持っている物は失われていくでしょう。 それは世界的に地球規模で失われていくかもしれません。 そうなれば大混乱です。 しかし、地上に生きている間に自分の過ちの報いを受けることができる人はまだ幸せなのです。 地上では巧妙な言い訳が通用しても、地上を離れれば動機を基準にして全てが明るみに照らし出されるのです。 地上で多くの財を蓄えたまま他界する人の方が、普通の人間よりもはるかにお気の毒なことになるのです。
多少なりとも余裕のある人はその人として、たくさんの財を蓄えている人はそれに見合うだけの貢献の責任があるということです。 貧しくはあっても何とか生活することのできる幸せも、たくさんの財を手に入れる「成功」も、全ては導きと計らいがあればこそなのです。 そしてそれらの導きや計らいは、「飢えに苦しむ同胞がいることを知って、その状態のあなたはどうするのか?」を問うているのです。
自分が苦しいからといって、自分よりも苦しい状態の人に手を差し延べないのであれば、自分の苦しさについての訴えが聞き届けられないことに不満を言えるでしょうか? 病や空腹で道端に倒れた人が、さらに踏みつけられているのに知らん顔をしていた人が、自分が足を踏まれたからといって誰に文句が言えるでしょう? 少なくとも、神や霊界に対してそれは言えるはずもないことではないでしょうか?
皆さん方のほとんどは、さほど余裕のない暮らしか苦しい暮らしを強いられています。 繰り返しますが、「そこで自分がどうしていくのか」が問われているのです。
そこで自分を守ることを最優先にせずに、分かちあい支えあうことが世界の常識になれば、地上界は物質的にも心のところでも、自分を含めた皆が豊かに暮らしていくことができるのです。 それが地上界の浄化の後半から準備されている、神の恩恵です。 人間の霊性進化の結果、人間の想像を超えた現象がもたらされるでしょう。 分かちあうことによって平等に貧しくなっていくのではなく、皆が豊かになっていくのです。 もちろん豊かさの基準は今とは違ってくるのですが、全ての人が物心両面において豊かに満たされて、地上に生きる喜びを実感できるのです。 今の人間には想像もできない未来が準備されているのです。
自分を守るとは金銭や物質に関してのみのことではありません。 心や気持ちにおいてもそれは同じなのです。 自分のかげりや健やかでない気持ちを守ろうとしたままであれば、やはり段々に苦しくなっていくのです。 そこに関してはその人の魂の意志(今生で果たす役割)や学びの段階・目的と重なっているので一概には言えませんが、自分の思いの蓄積から解放されてくれば、誰もが輝きを発していくので自ずと分かるはずです。 物心両面においての、全ての皆さんの変化(解放)・切り替えを強く促さずにはいられません。
さまざまなところで「そこで自分がどうしていくのか?」が問われていくでしょう。 この通信を読んだこともまさにその問いかけです。 皆さんがた自身が、自分や家族の未来を選び、地上人類の未来を選び取る機会なのです。 皆さん方の善意や良心を形にすることは、苦しい状況に置き去りにされている人々の役に立つだけでなく、皆さん方自身を救うことなのです。
飯) ふぅー、お疲れさま。 言葉に紐解いていくのがまどろっこしいくらいのエネルギーだったね。 「ドネーションシップ」のこととも関連しているんだろうけど、これから大事なことなんだと思う。 実際のところ、金銭についてだけでなく、それぞれの人の今までの蓄積された思いのエネルギーというものはとても大きいんだよね。 お前が言うように今までも今も地上界は本来の霊界ではなく、幽界や暗黒界の影響下に置かれているんだと思う。 地上に生きている人のほとんどもね。 幽界や暗黒界や今の地上界でしか通用しない「常識」がまかり通っている。 その間違った常識の壁を打ち破っていくために、僕もそれにふさわしいエネルギーを獲得していきたいと思うよ。 まだまだそのスケールでのエネルギーを獲得も発揮もできていない。
今はまだ切り替えることができないでいる人たちも、いつかは必ず気がついて新しい流れに参加してくれると、僕は信じているよ。 だって、どう考えても今の世はこのままでいいはずがないんだし、いいも悪いも行き詰ってしまっているのだから。 それにどんな人間にも光とかげり・闇はあるものだからね。 自分にもある光と闇を受け入れながら、でも変えていきながら、進んでいきたいと思っている。 動けない人たちに僕の心をかげらせるのではなく、皆が喜びのなかで本来の人としての心を発揮していけるように、道を切り拓いていくつもりだ。
「個を癒し、全体を癒す」という僕の人生の目的を成し遂げるべく、楽しみながら全力を尽くすよ。 「お前は安心してそちらで見てればいい」と言いたいところだが、実際はこの段階でもうきついのは確かだから、応援してくれな。 だけど僕は、自分が孤独だなんて思いたくもないし、思ってもいないよ。 お前や皆がいてくれるからね。 僕らしく、立派に働き抜いて、胸を張ってそちらに戻るから、まあ見てなさい、手伝いなさいって。 いや、手伝ってちょうだいね(笑) こんなに楽しくってやりがいのある仕事を与えてもらって光栄だと思ってるよ。 人が嗤おうが、自分が途中で倒れようがお構いなしだ。 「個も全体も癒すヒーラー(ってことは、つまり・・・)」になってみせるよ(笑)
克) はいはい、まーたん、その調子。 いつもその元気でいてくれればいいんですけどね。 ほんとにね(笑) とにかく今は少しずつ形にしながらも、エネルギー的に凌駕することでこれからの流れを作っていく段階です。 何しろ相手は歴史的全体にはびこる幽界的エネルギーの集積だから、あなたとしても相手に不足はないでしょう?
ひとつヒントをあげるわね、愛する私の○○○○さま(笑) 「酒は喜びの象徴、そして何が喜びとなるかはその人次第の八通り」
飯) なるほど。 「喜びからは正義よりも硬い調和の喜びの雲湧きいずる剣(つるぎ)」ということか。 全ての不調和を解く方程式だね。 数学は苦手だけど、その方程式は改めて肝に銘じておくよ(笑) ありがとうね。 まだまだこれからだよ。 どうせ地上を離れても永遠に生きるんだから、まあ楽しみながらやるよ(笑)
克) ふふふ、あなたがそう言う時は真正面に構えて真剣なのよね(笑) 働きを成し遂げるためにも、今まで私が伝えたことをもう一度思い起こしてね。 じゃあね、まーたん。 いつも一緒に働きながら、傍にいてあなたのことをいたわっているからね。
飯) おう、すっかり元気になったよ。 ありがとうね。 じゃあ、またな。
(2007・3・18) |
18/03/2007(日) 23:25:53
No.1873 飯沼 |
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■マタイによる福音書 第25章
人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左におくであろう。 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう。 『わたしの父に祝福された人たちよ。さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてきてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう。 『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう。 『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
それから、左にいる人々にも言うであろう。 『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、私が空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、私を訪ねてくれなかったからである』。
そのとき、かれらもまた答えて言うであろう。 『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
そのとき、彼は答えて言うであろう。 『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。 |
18/03/2007(日) 23:35:20
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No.1895 キリコ |
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ベールの彼方の生活 第2巻4章1 (高級霊のメッセージ)
心しなければならないのは、常に「動機」を崇高に保ち、自分のためでなく他人の幸せを求めることである。我々(高級霊・守護霊)にとっても、己れ自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩が最も援助しやすいものである。我々は施すことによって授かる。人間も同じである。イエスも述べた如く、動機の大半は施すことであらねばならない。そこにより大きな祝福への道があり、しかもそこに例外というものはないのである。
イエスの言葉を思い出すが良い。「私はこの生命を捨てるにやぶさかではない。が私はそれを私の子羊のために捨てるのである」と述べ、その言葉どおりに、そして、いささかの迷いもなく、潔く生命を捨てられた。 が、捨てると同時に更に栄光ある生命をもって蘇られた。ひたすら同胞への愛に動かされていたからである。 貴殿も「我」を捨てることである。 そうすれば、施すことの中にも喜びを味わうことであろう。 これを完全に遂行することは確かに至難の業である。 が、 それが本来の正しい道であり、ぜひ、歩まねばならぬ道なのである。 それを主イエスが身をもって示されたのである。花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐまた補充し、そうした営みの中で日々、成熟へ近づく。 心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻ってくる。また、優しき言葉はやがて優しき行為となりて帰ってくる。 かくて愛は相乗効果によって一層大きくなり、その愛とともに喜びと安らぎとが訪れる。
また施すことに喜びを感じる者、 その喜び故に施しをする者は、 天界へむけて黄金の矢を放つにも似て、 その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、 それを投げた者が(死後)それを拾いに訪れたとき、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう。 |
25/03/2007(日) 17:38:07
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