久しぶりの登場です。 ご心配とご迷惑をおかけしました。
うちは、ぬまやまゆみさん、藍ちゃんや有希くんからお金を盗っりました。東京でもやってた。何万円も・・・。 それが『癖』になっちゃってた。
うちは今まで、どんなことがあっても、自分が大切でした。 相手がどんなに嫌な思いをしても『自分自分』やった。 自分でも何でそこまで大切なんか分からんのやけど… それに、嘘ばっかの人生でした。 本間のことは言えへんのに、嘘はポーン!って簡単に言えた。 悪いことをしても、謝れへんかった。 謝ったとしても、ずっと黙りこんで時間がたってからやった。 しかも、自分の力だけじゃなく人の力をかりて。 誰かが色々言うてくれて、それに乗っかって謝ってた。 結局、自分は何ひとつ成長してへんかった。むしろ悪化の一方… ほんで、人間としてやったアカンことを何回も繰り返した。 みんなを裏切り続けた。 こんだけそろったら最悪や… ぬまに『出て行け』って言われるくらい。 そんな自分はキライやし嫌や。でも、変わりたいと思う。 もっとまともな人間になりたい…これからなっていきたい。 2007年の抱負は、『日進月歩』日々成長したい。 ほんで、
に→人間らしく っ→強い意志 し→信頼される人に ん→んまれ変わる(生まれ変わる) げ→元気ハツラツ っ→強い心 ぽ→ぽっぽー(あほ)
でいきます! 自分なりに全力でいくんで、どうかこれからもよろしくお願いします。 |
31/12/2006(日) 13:51:03
| No.1413 ゆうき |
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自分の事を少しだけ書く
僕の財布からお金がなくなっているのに気付いたのは 2月末の定例会の帰り道、大阪の京橋駅に着いてからだった。 財布の中身が空っぽになっていた。 僕はその時すぐに、ねねの仕業だ、と直感した。 しかし、そんなはずはない、ねねがそんな事をするはずない、と 簡単に誰かのせいにしてしまう自分の考えを責め、財布をいつどこで使ったのかを思い返した。何度も何度も繰り返し繰り返し。 僕はイコカなので駅で切符を買わない。 定例会に行く時は慌てていたので、途中売店でパンを買った時に落としたのだろう、と思う事にしていた。 そのほうが僕には都合が良かった。ねねを疑うのは気が進まなかった。しかし、どこかでその思いは拭えずにいつも僕の胸にあった。 ねねの顔を見るたび、もしかしたらねねがお金を盗ったのかもしれない、と思った。 僕はそんな自分が嫌で、何度も否定した。 ねねはそんな事をするコじゃない、ねねはいいコで素直なコだ、と 僕はねねに疑いの目を向けている自分の心の狭さを恥じた。
藍子の件があるまでは。
ねね。 悠々塾に集まる人はみんないい人だ。心優しい人ばかりだ。 みんな自分の至らなさやかげりを光に変えて、貢献していきたい、と思っている人たちだ。
そして誰もがねねを応援してくれている。 ねねがねねらしく成長するのをみんな願っている。
もしも、もしもだよ。 もしもまた誰かの財布に手を掛けようと思った時には 僕らの顔を思い出して欲しい。 お母さん(克子さん)の顔も同時に思い出して欲しい。
僕はもう誰も疑いたくない。 もうねねを疑うような真似はしたくない。
ねね。 信じてるからな。
ちゃんと言ってくれて良かったよ。 来年はいい年にしような。 |
31/12/2006(日) 16:12:14
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| No.1414 飯沼 |
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ねねのことについてはこの場で多くを語りませんが、あの子はスイッチが入ると限りなく闇に引きずり込まれていく弱さを持っています。 そこでは善悪の感覚すらマヒしてしまう深い闇です。 しかし、私はあの子の心を信じて、これからも闇を光に、輝きをさらに大きく輝かせるために一緒に生きていくつもりです。 深い闇とは別に、普段の輝きは嘘ではありません。 あの子自身がどんなに私から厳しく叱られてもここで暮らしていきたいと思っているようです。 「信じるべきは人の心」と霊団から訓えてもらっている通りに私は関わっていきます。 どうぞ偏見を持たずに、これからもよろしくお願いいたします。
今はみやっちを含めた家族と一緒に楽しく大晦日の夜を過ごしています。 |
31/12/2006(日) 20:05:48
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| No.1415 さいこ |
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| ねねちゃん、ちゃんと言えて良かったね。私も自分の事が大事です。自分を守るために、人を傷つけきたと思います。でも、これからは怖れずに人の心を信じていきたいと思います。来年は、少しでも笑える年になれたらいいなぁと思います。皆で、楽しい年越し向かえられてよかったね(*^_^*) |
31/12/2006(日) 20:41:28
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| No.1418 鉄 |
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あけおめ!!! ねねが、反省文&意志表明!俺も暴露するけど、 はっきり言って実は俺、小学2年で万引きに手を染めた もうやめようと思ったけど本当は母や父に黙って中1から犯っていた無賃乗車もした。ムカツクやつら片っ端から殴った。 ねねと同じで父から金パクッた。 正直これ見た俺のこと知ってる人はがっかりすると思うね でもみんな俺のこと(いい子やの)とかゆーけど俺そんないい奴じゃないんだよ。 みんな悪りぃな だからねねわそんなに悪くはないんだな俺からくらべればな(泣)
んで話戻るけど俺父から金とったのは1万円だった それに父がないってきずいたでも母が絶対鉄朗はそんなことしないってかばってくれたの見てやめようと思った それから金は盗らなくなった。 後タバコも小2がはじまりすぐやめたけど だけど中2で吸っていたやけど母にばれてやめた 今は高校で付き合いで肺にいれずふかしている。たまーにね笑 まだ2あるけどもう書くのめんどいからやめるわ!! こんな俺でよければいつものように関わって頂戴な!!
じゃ良いお年を!!
俺のハートは黒く染まっちまったな 字も黒いしな笑 |
02/01/2007(火) 00:14:26
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| No.1421 飯沼 |
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「自らのかげりや闇を光に変えるために」
○かげりや闇を光に変えるために、どのようにしたらいいのかを提示します。
まずは自らを振り返ること、自らの心を見ることです。それは、「今までの自分」を見るだけでなく、事あるごと(特に厳しい状況に置かれた時、人との関係性に悩む時など)に繰り返ししていく作業です。 正直に見ることができたならば、自ずと答えが分かります。なぜなら、「答え」とは「あるべき姿」であり「どうすべきか」だからです。 分かった答えは、本当はすでに知っていたはずのものです。それに沿えなかったこそ、かげりになり、闇を作ってしまったのです。 そこに目がいったならば、次の段階――言動に反映させる――に移れます。
○ここでは、自らを振り返る時の視点を伝えます。
1.「自分」についての認識
・自らが抱いている(抱いてきた)「かげり」を自覚できているか。 ・「かげり」・・・「喜び」ではない思い、気持ち。 悲しみ、苦しさ、辛さ、寂しさ、孤独感、疎外感、自己否定、 自己嫌悪、萎縮、負い目、引け目、後悔、自責、恨み、 妬み、ひがみ、劣等感、羨み、欲、ずるさ、二面性(陰口など)、軽蔑、 差別、排他、攻撃、憎悪、許し難さ、惨め、 自分勝手、傲慢、自慢、正当化、保身、無関心、無気力、 無視、横暴、尊大、思い込み、拒絶、頑固、優柔不断、 責任放棄(逃げ)・・・。
・「かげり」とは、地上に生きる人間ならば誰でも抱いてしまうもの。その深さや多さに違いはあっても。よって、「かげり」を抱いた自分を否定することはない。嫌悪すべきでもない。恥ずかしいことでもない。大事なのは、抱いたかげりをありのまま見ること、あるものとして認めること。 これは、自らの「かげり」を、自らの意志により明らかにする作業である。 この時点で、「かげり」は意志の光で照らされる。
・自覚したくない、見たくない、認めたくない、という思い(抵抗感)もまた誰のなかにもある。 抵抗感に負け、ないものにしてしまってはいないか。本当は気づいているのに、気づかぬふりをしてはいないか。また、かげりなどとうに越え、解消できていることにしてはいないか。
・自らのかげりを自覚して(自覚できて)、どうするのか。 仕方ない、とあきらめていないか。 変わるのは無理、と決めつけてはいないか。 最も避けるべきは「人のせい」にすること、「状況のせい」にすること。 かげりに向き合った結果、さらにかげりを深めたり、別のかげりを作り出してしまっては元も子もない。
・かげりを自覚して、どうするのか。 そのかげりと対象の心の要素を思うことである。喜びに変えたい、と願うことである。 かげりを抱いてしまった自分を振り返り、それは自らの魂の意志に逆行するものだった、としっかり認識して頂きたい。 なぜならば、魂は常に休むことなく喜びの方向を目指すものであるから。誰ひとり例外はない。 そのうえで、どういう自分でありたいかを思ったらよろしい。 もちろん、すぐにそうできるものではない。同じ間違いを繰り返し、同じかげりを抱いてしまうこともある。 しかし、「こうありたい」とそのたびごとに意志し直すなかで、間違いに早く気づくようになるのであるし、変わっていけるのである。
2.自分と自分以外の人との間では…。
・「かげり」は自らのなかで生ずるものだけではなく、人との関係のなかでも生ずる。 主に「比較」にその根本がある。
・「誰に対しても愛情、好意、喜びだけで関わることのできる者」は地上にはいない。 比較において心をかげらせる。 相手の言動に違和感を持つ。 相手の理不尽、自己中心的な言動に心をかげらせる。 相手に対して、自分なりに(一方的に)かげりを抱く。 思い通りにならない、同じでない者を認められない。 そのほか、先に挙げた「かげり」を対象となる人に向ける、あるいは向けられることで自らもかげりを抱く。
・「自分も生身の人間だから、愛情と喜びだけで関われない」というところに正直になることは必要。 しかし、そこでとどまってしまっては、かげりを肯定し正当化して終ってしまう。 まして「相手が○○だから」と相手のせいにしてはならない。
・「かげり」を抱いた相手に対して、自分にできることは何かを考える。 それは「本当はこうすべきだった」と分かっていること(しかし“自分の気持ち”がそれを阻んだ)。 あるいは「本当はこうしてあげたい」「本当はこうして欲しい」を素直に出せなかっただけ。または「こうして欲しくない、されたくない」と思っていたこと。 この場合、公正公平な目で見ることが必要である。どうしても自分寄りの見方で物事を見てしまいがちである。 相手がなぜそう言ったのか、なぜそうした(しなかった)のかを分かるには、相手の立場で相手の身になって思ってみなくてはならない。 あなた方が“自分の気持ち”を大事にするのと同様に、相手にも“自分の気持ち”がある。たとえそれが一方的であれ、自分なりであれ、それがその時の「相手の気持ち」なのである。
自分の側には落ち度はなかったのか。 自らの動機には何のかげりもなかったのか。 自分には悪気がなくとも、結果的に喜びでないものを相手にもたらして(向けて、抱かせて)しまったのではないか。
このように自らを振り返ってみるように。
・自らに非がある、落ち度があった、無配慮だったと気づいたのなら詫びることである。直接それを伝えられない状況(相手の他界・連絡先不明など)なら祈ることである。 「こうすべきだった」と気づいた内容を実際にしていくことである。
・誰かに対して愛情や喜び以外の思い(かげり)を抱く自分は、“後ろめたい”ものである。そのかげりを見るのは、嫌な自分を晒すことのようにあなた方は感じ、避けようとし、逃げようとする。 さまざまな自分への言い訳、あるいは相手への言い訳を探そうともする。 「かげり」を知りながら、それにとどまろうとするならば、かげりの容認と正当化という意志を働かせたことになる。 これは闇だと言える。 「かげり」を知ったうえで、そういう自分を守るために、嘘をつき、真実を歪め、誰かのせいにし、さらに人を非難攻撃したならば、闇を作り出していることになる。 「かげり」を認めまいとして、自己顕示や自己肯定を強めれば、闇を広げることになる。
○自らの「かげり」を素直に認めることが、意志の光でかげりを照らす。「かげり」を覆い隠そうとすることは、闇の暗さに自ら沈んでいくことである。 今回あなた方に分かって頂きたいのは、「自らのなかにある“かげり”と、かげりを重ねてしまった“闇”、かげりを言動(形)にしてしまった“闇”を正面から見ること。 あるものをある、として認めていくこと、そしてそれを変えていこうと意志すること」である。 |
02/01/2007(火) 16:51:16
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| No.1424 飯沼 |
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☆偽り・欺き・隠し事
そのことが、いかに自分と相手の心と魂を傷つけるものか。 人としての正しさに立ち返るべき時なのです。
偽り、欺き、隠し事を抱えている人は大勢います。しかしそれを“悩み”として持つあなたは、本当は何が正しいか、どうするべきかを知っているということです。ただそこでは、「真実に向き合えない自分」の方が強いために、抱えているものを明らかにするわけにはいかないのです。 偽り、欺き、隠し事を抱え込んでいたとしても、それはいつか必ず明らかになることです。(たとえ地上にいる間にそうならなかったとしても、真実の世界である“霊界”においては隠しおおすことなどできません。)本来、地上で作ってしまったかげりは地上で解消すべきなのです。偽り、欺き、隠し事があれば真実を明らかにすることがその解消であり、加えて、心から詫びることが求められます。持ち続けた“かげり”を明らかにするだけでなく、それに自らが向き合い、“光”に変えていくことの一歩目が詫びることなのです。それは過ちを認めるということであり、至らなかったことを知るということだからです。そのことがいかに人の心を傷つけたことなのかを知れば、そういう自分を詫びずにはいられないということなのです。
地上にいる間にそれができず、霊界において自らの偽り、欺き、隠し事に向き合う時は、それは苦しいものです。心そのもので生きる世界であるからこそ、その「かげりを抱いていた自分」を見ることは情けなく恥ずかしく、「どうして真実を明らかにしなかったのか」という思いや「申し訳なさ」で一杯になります。つまり、地上で隠し通せば終わりではなく、地上を去ってからは、地上よりもさらに強烈な真実の光に照らされるということなのです。だからこそ、いつかは必ず明らかになる、と伝えているのです。地上で真実と向き合い、過ちを埋め合わせていくことこそ、喜びにつながることであり、「かげりを光に変えた」ということになるのです。霊界に戻ってから、「どうして自分はそうしなかったのか」と思うことほど苦しいことはありません。あなた方は真実で関わり合って喜び合うために共に地上にいるのです。偽り、欺き、隠し事のうえに本当の喜びや幸せは築けませんし、もたらされません。それを何より分かっているのはあなた自身の心です。ずっと安心できず、ずっと心に重いものが存在するからです。 それを解消するために勇気を出すのです。真実を明らかにし、心から詫びることで、相手は分かってくれるはず。もしもその時、分かってもらえなかったとしても、それはいつか必ず分かるもの。それだけでなく、真実を明らかにすることでそれまで重ね続けた“かげり”の連鎖のひとつが断ち切られるようになる、ということなのです。少なくとも偽ることや欺くこと、隠し事をすることの罪を重ねなくなるのです。相手に対しても自分の心に対しても。 たとえどんな言葉を向けられてもそれは受けとめるしかありません。分かりながら偽り、欺き、隠し事を抱き続けたことは埋め合わせをしなければならないからです。自分のしてきたことを振り返れば納得はいくはず。しかしそれもいつまでも続くものではありません。そのことにあなたが心をかげらさず、常に“真実”を見続けること、それが大切なのです。
あなたが偽り、欺き、隠し事を持ちながら、そのことにあまり心を悩ませずにいるのだとすれば、それはまず、そのこと自体が問題です。何が人として正しいことなのか、人はどうするべきなのかという目がくもっているからです。 本当は見えるはずのことが見えていない、というのは大変なことです。すべきでないことを「すべきでない」と分からなければ、同じことを何度も繰り返し、また、さらに過ちは重ねられていくことでしょう。 あなたがもし逆の立場だったらどうか、ということを考えてみてください。本当のことを知らされず、嘘によってだまされ、大切なことを隠されたままだとしたら・・・。自分のまわりに「本当のこと」などなく、相手の都合や相手の気持ちで話が変わっていったら・・・。一体、何が本当で何が嘘なのかも分からないなかで生きなければならないとしたら・・・・。 今のあなたにとって大事なのは真実よりもその時々の自分の都合や自分の気持ちなのです。それに関わる人に対して自分がどういうことをしているのかも分からないほど。「自分がされていやなことは相手にもしない」「自分がしてもらって嬉しいことを、相手にもしていく」これは人との関わりの基本です。ここに偽り、欺き、隠し事、そして真実をあてはめることもできます。
それでも、どうしても偽り、欺き、隠し事に対して「人として正しくないこと」との認識をもつこともできないとすれば、せめて心には留めておいてください。きっと、実感させてもらえる時がきますし、そういう出来事があります。それを実感させてもらえて初めてあなたは気づくでしょう。このメッセージにつながったということ自体がその機会の始まりなのですから。そこから、「偽り、欺き、隠し事」を持つ自分に向き合い始めることになります。
もしもあなたが地上にいる間にそういった機会を逃してしまえば、それは地上を去ってからも続くことになります。 偽り、欺き、隠し事を「人として正しくないこと」と思えなければ、「真実」の世界である本来の霊界に向かうことはできません。自分の都合と感情とでそれを繰り返す者どうしのかげりが共鳴して作り出す世界へと引き寄せられていきます。そこには真実はないのですから、互いの嘘やかけひきのみで形づくられた世界です。ですから自分の都合や感情をそれぞれが通そうとするために、逆にそれがかなわないのです。だまし合い、さぐり合いが果てなく続くのみです。そこに救いはありません。真実の光の届かない暗いところで、繰り広げられる人との関わりは、何の喜びともつながらない世界です。 また、自分の偽り、欺き、隠し事に気づきながらも、どうしても自分の都合と感情を優先させることを手放せなかった者は、同様に、偽り、欺き、隠し事を繰り返さざるを得ない世界へと引き寄せられていきます。さまざまな状況が次々と向けられ、その場その場で偽ることをせざるを得ない世界です。そこにも真実はありません。偽りを知りつつそれを繰り返す自分を見続けるのです。自分の愚かさや、情けなさに嫌気がさしつつもやめさせてもらえない、そういう世界です。「本当は自分はこうではなかった。ここから抜け出したい。もうこんなことはやめたい」と心の限り叫ぶまで、それは続きます。 このふたつの世界では要するに“地獄”ということです。舌を抜かれるのではなく、ずっと偽り、欺き、隠し事という暗い世界で果てなくそれを繰り返す、ということなのです。その苦しさをあなた方に想像することはできないでしょう。なぜなら、あなたのまわりには本当のことや真実を大切にする人がいるからです。その人たちの正直さや素直さという光があるからこそ今のあなたはまだ救われているのです。そして本来人は皆、真実に生きるべき者たちなのです。それは「人の心、人の魂そのものが真実という光の方を向き、それを求めるものなのである」という法則があるからであり、それはまた、霊界という魂の世界が、真実という光のなかに存在するからであり、「真実」そのものが「法則」だからなのです。
いつかは必ず、ということは、たとえ今そうではなくともいずれそうなるということです。今、分かってもらえなくとも、今、伝わらなくとも、今、そうならなくとも、ということです。 たとえ“地獄”にいる人にもいずれは救いはあります。魂は本来、光の方を向き光を求めるものという法則があるからです。 しかし、初めに伝えてあるように、地上での過ちは地上にて解消するに越したことはありません。いずれそうなる、というのは今から逃げるための理由ではないのです。あくまでも“望み”や“希望”がなくなることはない、救いは必ずあるということなのです。 地上に今を生きるあなた方が、“今”を喜びとするために、真実を手にし、真実によって関わるようになりますように。 |
02/01/2007(火) 18:22:41
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