こんばんは。掲示板に投稿するのは本当に久しぶりになります☆ 以前は「ハナ」で投稿させていただいたことのある花です。
えっと、『血尿』について一般的な意味はどういう意味があるのか、解る範囲で良いので教えていただけないでしょうか?また、そういう症状をかかえている人にどういった心で祈れば良いのでしょうか?
飯沼さん、先日は娘のヒ−リングありがとうございました。最近はメールで近況報告?!してるんですが、今回母親が血尿がでたというもんですから。。。忙しい時にすみませんが、よろしくお願いします。☆ |
03/07/2006(月) 23:46:44
| No.380 飯沼 |
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☆花さん
こんにちは。 血尿についての受信はした記憶がありませんので、分かりかねます。 そういうことについての受信は、今の私ではできませんので、なんともお答ええできません。 すみませんね。
まずは病院に行って、検査を受けてくださいね。 |
04/07/2006(火) 18:00:07
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| No.382 花 |
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> > ☆花さん > > こんにちは。 > 血尿についての受信はした記憶がありませんので、分かりかねます。 そうですか。。わかりました。
> そういうことについての受信は、今の私ではできませんので、なんともお答ええできません。 > すみませんね。 > いえいえ、逆にお手数おかけしました。もしかして、以前そういうのも受信されていたかなあと思って書いただけなので。
> まずは病院に行って、検査を受けてくださいね。
定期的に検査はしているみたいです。その時には今のところ異常はないみたいです(←多分。血尿だと聞かされてこういう肝心なところを聞かない私も私ですね 汗。でも、何も言わないってことは多分検査では異常は出てないと思います。。)
ありがとうございました。 |
04/07/2006(火) 18:33:20
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| No.395 飯沼 |
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腎臓・・・この臓器は、機能のうえからみれば、血液中の老廃物を漉し取り、尿とし、浄化された血液を再び体内へ送り出す役割を担っている。
心にも、日々、さまざまな澱は生ずるのであって、それはできるだけ早く解消されるべきものである。その澱をためてしまうことで、心の健やかさをくもらせ、さらにそれが肉体へと反映するからだ。しかし、心の働きが、生じた澱を変換しようと作用するものだとしても、なかにはそうできないこともある。 それが「やり場のない気持ち」である。言い換えれば、自分の気持ちの苦しさ・重さの持って行き場がないということである。何かで発散し、気持ちを切り換えようとしてもそれができない場合や、そういった自分の気持ちを聞いてくれる(分かろうとしてくれる)人のいない場合、そういった気持ちを抱えていることすら気づいてはもらえない状況にある場合などがそうである。
こういった「やり場のない気持ち」は、受け取ってくれるところがないだけに、自分のなかに抱えたまま、持ち続けるほか術はなく、外へは出せない(排出できない)ということになる。本来ならば、心の澱は物質的には尿のなかに溶け込ませる形で排出されるのであるが、「持って行き場がない」という場合、その作用(排出)を肉体に起こさせるわけにはいかなくなる。このことが、腎臓の機能に障害をもたらすのである。
このことから考えると、腎臓に何らかの症状(病)を持つ者にとっては、自分の苦しい気持ちを受け止めてくれる人の存在が大きな意味を持つことになるということが分かるであろう。本来ならば、それは家族(夫や妻、両親、子供)もしくは友人知人がその役を果たしてくれるはずなのであるが、大抵の場合、そうではなかったからこそ、外へ出せずに抱え込み、症状(病)へと結びついていったのである。 しかしいつも伝えているように、このことは、まわりの者のせいでその人が病を得たという意味ではない。本人とそのまわりの者との関わり方として、目指すべき姿が、その人の心の苦しさ、辛さ、寂しさに気づき、それを受けとめ、満たしていくというものだからこそなのである。従って、すぐにそういう関わり方が、お互いにできるかというと、なかなか難しいはずである。しかしそこでは、症状(病)を得た本人は、「どうせ分かってはもらえない」というあきらめを、初めから持つことなく、それを越えて「だけどやはり分かってほしかった」という自分の正直な気持ちに従って、まわりの者に自らの心を開いていこうとしてほしい。 まわりの者にしてみれば、今まで感じてはいなかったその人の思いを知らされても、なかなかそこにすぐには共感しにくいかもしれない。だが、それを感じさせないほどその人が、苦しさ、辛さ、寂しさを、自分の内に抱いていたことについては、分かっていこうとしなければならない。そして、それらのことに気づかないままに、今まで来てしまったことについては、その人へ詫びる気持ちと、言葉とを向けてほしい。
共に暮らしを営むうえで、あるいは家族という縁をつないでいるうえでは、“喜びの共鳴”“喜びを分かち合うこと”が大きなテーマである。しかし同時に相手の心のかげり(苦しさ、辛さ、寂しさ)に思いやりの心を向けていくこともまた、大切なことなのである。
持って行き場のなかった心を、受け取ってもらえ、自分の内に抱え続けなくてもいいのだという安心と喜びが、心のおりを出してもいいのだという信号として腎臓へ向けて発せられれば、その機能は回復へ向うのである。
膀胱・・・膀胱とは尿を一時ためておくところ。腎臓を通して作られた尿を、一定量とどめておくところである。
この臓器が象徴する心の要素のひとつが、“躊躇(ちゅうちょ)”である。それは、自分の気持ちを言葉にして表し相手に伝えることへのためらいであったり、具体的な行動を起こすことへの抵抗感であったり、気持ちや言葉・行為を向けられた時の違和感であったりする。それらを感じ、それによって心の負担が大きくなった時、心が傷ついた時、さらには、そういう気持ちを抱くことそのものが、もともとのその人の心の傾向に合わない時などには、膀胱への症状として肉体に反映されるのである。
もうひとつの心の要素は“緊張”ということ。これは、人前で何かを言い、何かをする場合のことだけではなく、もっと広い範囲の心の状態を指す。人からどう見られるかということで心を張り詰めている場合(こう見られたい、こう見られたくない、の両方のパターンがある)、失敗や批判を恐れている場合、人への警戒心が強い場合…。いずれにおいても、ありのままの自分を見られることへの恐れや抵抗感がもとになっている。しかし、心はこういった張り詰めた状態が心地よいはずはなく、むしろその状態を早く解除したいと望む。その状態が生み出す心のおりを持ち続けることを避けたい、早く出してしまいたい。それが膀胱への信号として作用し、症状を引き起こすことになるのである。
この臓器に関しての心の要素(ふたつの傾向)に共通するキーワードは、ありのままということである。ありのままの自分、ありのままのその人(関わる相手)、ありのままの現実。それらを受け取ること(見ること)、表現すること、知ること、それを喜びとできるかどうか、である。そうではない自分、そうであってほしくないその人(関わる相手)、そうであってほしくない現実といったものに対して、そのまま受け入れ、あるいは表現できることが、心の動きをスムーズにすることになるのである。躊躇や抵抗感、違和感によって、心が動きを止めることや、緊張によって心を硬い状態に維持することがエネルギーの循環を滞らせ、また、生ずる心のおりの排出に異常をきたすことになるのである。
この臓器に反映された症状(病)を癒していこうとするならば、どうしても求められるのは「心を柔らかく」ということであり、「ありのままの自分で」ということである。まわりの者がその手助けをしていこうとするのであれば、その人が安心できるような心の環境を整えることをして頂きたい。その人の持つ緊張の要因は、人によってさまざまであり、心を硬くせざるを得ない事情は、まわりの者にならよくわかるはず。それに関してその人が、それ以上心のおりを生じさせないようにするための手段を講じてあげてほしいのである。
多かれ少なかれ、ほとんどの人はありのままの自分ではいられない苦しさを持っている。しかし、関わり合いのなかで、人の心への信頼が芽生えれば、少しずつ本当の自分を解放していけるのである。本来の心でつながり合うことは、関わる者どうしどちらにとっても嬉しいことのはず。互いの心に対する信頼を確かなものとして築き直すこと、それがこの臓器に症状を持つ人と、その人に関わる者たちの間のテーマなのだと言えるのである。
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06/07/2006(木) 21:50:37
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| No.397 花 |
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こんばんは。読ませていただきました。。 以前克子さんに母親のヒ−リングをお願いしていただいたメッセージと重ねて読んで胸にグッときました。 実は昨日の朝方見た夢があるんですけど、これで納得です。全て繋がった感じでスッキリしました(笑) これからどうして行くかを問われているような気がします(なんかエラソーですね 汗) 考えてみても、やっぱり私から皆に向けて関わっていくしかないなあって思います。 「あきらめ」ではなく、「喜び」に向かっていけるように自分に出来る範囲で頑張りまあス(^Θ^) |
07/07/2006(金) 00:08:34
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