おはようございます。 定例会お疲れ様でした。 定例会では、 自分の気持ちとして、いろいろあったが、魂に導かれてここまで来れた、というようなことを話したようですが、思うようには話せてなくて(汗) 書こうと思ってもうまく言葉にならず・・・ 学んできたことを整理しながら・・・
誰もが皆、魂の意志をもってこの地上にきてる。 その魂の意志は一人一人違ってるけど、向上進化するためということは一緒。 意識はエネルギー。 それぞれの意識(思い)が混ざり合って、影響しあって、共鳴して、この地上に現実を創ってる。 かげりの気持ちが深まれば他のかげりと共鳴し増幅する。 喜びの気持ちが広がれば他の喜びと共鳴し増幅する。 偶然はなく起こることには意味があり、全て向上進化のための計らいである。 学びに終わりはなく、永遠に続く。 次々と課題が提示され、試される。 自分の気持ちをどっちに向けるか試される。
魂の意志はゆるがない。ゆらぐのは「自分の気持ち」。 魂の意志に沿った「自分の気持ち」であるなら、心は落ち着き喜びのはず。
なので、 自分の気持ちが、うれしい方へ、喜びの方へと向いていけるように日々努力するしかない。 わかっていても、 まだまだな「自分の気持ち」で悩み陰らせることは多い。
考えすぎて何がなんだか分からなくなってきました。 誰もが魂に動かされ、魂に導かれている、 「自分の気持ち」がどうであれ、魂に生かされてここにいる。 そう実感してます。
まとまりませんが、投稿します。 |
04/06/2026(木) 08:46:40
| No.43844 やすこ |
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自分の意志で自分の陰りを光へ。これが自分にとっても全体にとっても何より嬉しいこと。自分も皆んなも幸せという事。自分の喜びと皆んなの喜びが一緒になった。
どんな時も、たとえば自分の時間があまりなくても、心の作業は出来るから、役立てる事があるなと思った今朝。それってとても嬉しいなと思いました。
火曜日の飯沼さんの>そういう場合は「人として」という大きなスケールよりも、もう少し具体性のある自分の立場や役割を軸に意識をめぐらせてみればいいかもしれません。<
自分の気持ちや感情はあるけど、雛形の自分としてはこちらを選択したい。そんな自分でいたい。という理由で言動した事がある。 そのあと、無理をした、と後悔したか? それはした事がない。 思い切るチカラになった、なりたい自分に近づけた!良かった!と思いました。
母として、妻として、学ぶ仲間として、雛形の一員として…
なりたい自分、こうありたい自分。というのは憧れだけじゃなく、自分でなっていく。
メモですが、朝そんな事を思ったので投稿します。 |
04/06/2026(木) 10:56:37
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| No.43845 飯沼正晴 |
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「自分としての気持ち・自分なりの気持ち」ということについて、それを良くないもの・悪いものとして否定してはいけません。
それは誰にでもあるものですから、それを否定すれば自己否定の無限ループに陥ってしまいます。
そもそも乳児期は「快・不快」の感覚が意識の大部分を占めています。 幼児期は「快・不快」に加えて、「自分の気持ち」が意識の大部分を占めるようになってきます。 「自分の気持ち」が軸になっていれば、他者の気持ちや皆(全体)のことはなかなか意識できません。 多少はそれが意識できるようになっても、「自分の気持ち」を最優先にする段階です。
「事実」についても「自分の気持ち」というフィルターを通して見るので、客観的な事実とはかけ離れた自分に都合の良い事実認識になりがちです。 自分の気持ちや自分の都合で、ウソも平気でつくことになるのでしょう。
それはとても未熟な段階ですが、それを否定すれば、幼い我が子を否定することと同じになって、その後の心の成長が阻害されてしまいます。
否定ではなく、あくまでも向上進化です。 頭脳も成長・向上進化していくのと同じように、心も成長・向上進化していくのです。
今の地上の人間の多くは、カルマに基づくさまざまな理由で陰りや歪みが「自分の気持ち」に組み込まれ、年齢を重ねても陰りや歪みを含んだ「自分の気持ち」を心に根付かせたまま、幼児レベルで思考・言動している状態です。
幼児であれば、この子の成長過程の一段階として見ることができるのですが、オバハンになってもジイさんになってもそういう状態、そういう段階に留まって平然としている者も少なくないようです。 そんな段階の人間がいくら瞑想しても、そんなものは時間つぶしの迷走にすぎず、何の役にも立たないことを私たちは目の当たりにさせてもらいました。
「自分としての気持ち」というものは、死後は「人として・霊として」の意識・心に昇華して本来の霊界に戻るのですから、「自分としての気持ち」を軸にして、それを最優先にしている人間は死後の作業が大変になるのです。
死後、さまざまな提示・導きを受けても「自分としての気持ち」を手放せない者は幽界や暗黒界に堕ちていくことになるのです。 「自分としての気持ち」を手放せない自分を否定しても、それもまた「自分としての気持ち・自分なりの気持ち」であって、やはり本来の霊界に戻ることはできません。
私たちは「自分としての気持ち・自分なりの気持ち」が自分にもあることを受け入れて、それを「人として・霊として」という喜びに昇華・向上進化させていこうとしています。
地上に生きている間にそうできれば、完全にはできなくてもその方向性を確立して、そこに向かう心の作業を続けていけば、霊界と同調するエネルギー場を形成することになって、霊界と同様の喜びが現実化していくことになるのです。
霊界と同様の喜びですから、自分(たち)限定の歪んだ喜びではなく、健やかなる喜びを周囲に、皆に提供していくことができるのです。
行きつ戻りつであっても、倦まず弛まず、日々この心の作業を続けていきましょう! |
04/06/2026(木) 11:34:53
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| No.43846 飯沼正晴 |
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後先になりましたが、まゆみさん、やすこさん、書き込みありがとう!
昨日、「自分としての気持ち」への拘泥・埋没から脱却するために、その時その時で「〜〜として」という自分の立場や役割を軸に据えることを提案しました。
その時に、「悠々塾で学ぶ者として」というのを書こうと思ったのですが、なんだかおこがましくて(笑)
でも、私は何かある度に自分としての気持ちはもちろん湧いてくるのですが、それを在るものとして受け入れながら、「悠々塾の主宰者として、悠々塾で共に学ぶ者として」という軸で思考・対応するように心がけてはきました。 まあ、それも不十分な部分があったのでしょうが。
その一方で、昨年からは特に「自分としての気持ち」を昇華しきれなくて、心に滞留している部分があるのだろうと思います。 私は裏切りという言葉が好きではないのですが、利害や都合でつながっている場合であれば、裏切りはそのつながりの中にすでに含まれていると思っています。
でも、心でつながっている場合、心を裏切るというのはあり得ないと思ってきました。(恋愛というのは自分としての自由な心・気持ちでしか成り立たないと思うので、それは例外にあたると思いますが) 意見の相違などで袂を分かつことは裏切りではなく、変化に類するものです。 たとえそういうことになったとしても、心をつないだ相手に対して心の裏切りができるということが、私には分からないのかもしれません。 心の裏切りとは相手の意向に背くことなどではなく、相手の心に対する礼儀を踏みにじり、相手の心そのものを冒涜することだと思っています。
克からは、暗黒界からそういう強烈な攻撃・妨害を受けていると伝えられています。 それが体調不良の最大の原因になっているのでしょう。 自分の未熟さでもありますが、私にも「自分としての気持ち」は当然あるのだから仕方がない面もあるのでしょうね。
ぽんたさんみたいに、私もどこかで「〇〇のバカ野郎!」って叫んでみようかな(笑) |
04/06/2026(木) 12:03:54
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| No.43847 ぽんた |
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はい、「〇〇の馬鹿野郎!」は、あの頃の苦しかった心を大掃除してくれたんだろうなと思ってます。笑
みなさんそうだと思いますが、悠々塾で学ぶことで、結構私も痛い目にあってきました。思い出すと色々あります。でも、その振り返りを言語化するのはなんだか苦手です。痛みもつらさも苦しみも、過ぎ去るとケロッと忘れてしまうみたいです。 でも、確かに乗り越えたからこその変われた自分がいて、それは悠々塾の学びのおかげだとわかっています。だから「学べてない」わけではないと思いたいのですが…
これからも痛い目にあうかもしれません。喜んでもたらされよう…って思えたらいいけど、できたらもう勘弁してもらいたいのがやっぱり本音、自分としての気持ち。 でもどんな時も、悠々塾で学ばせていただいてる者として、その誇りを失わない自分でい続けることをこれからも意思したいです。そしてもちろん、雛形の一員として風穴を開けたいです。 だから心の作業を続けます。
絵を描きたい衝動は、私の魂の意思が変換したものだったんですね。そうだったのかと喜びで心が洗われた気持ちになりました。勇気を持てました!
それで、それもこれも、その喜びも、「自分としての気持ち」だと思うのですが、 質問です。
> 陰りであれ喜びであれ、気持ち・感情という領域は霊性から見れば自分なりで幼児的なものになるのです。 <
陰りだけでなく、こうした喜びもいつか、昇華されていく感情なのですか? |
04/06/2026(木) 20:16:21
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