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記事No.1547に関するスレッドです

No.1542 支援ボランティアと栗駒登山かえってきました 投稿者: 進藤 2011/08/24(水) 00:11 引用 - -

 第4次支援隊は、19日10時京都駅を出発。20日の11時30分大型観光バスからマイクロバスに乗り換え石巻市に入りました。市内は瓦礫の山で人が生活をしていた痕跡は見当たりませんでした。古い家は根こそぎ、新しい家は外形を残しながらも住める状態ではありません。そんな情景がどこまでも続きます。言葉もありませんでした。21日は朝から雨、瓦礫撤去作業は海岸線から4キロ内陸に入った地域の田んぼの瓦礫撤去作業に入りました。ここの地域は道路の電信柱の4〜5?bまで水没したそうです。瓦礫をひとつひとつ取り除く作業、40人の人海戦術は大きな力でした。塩害、ヘドロがたまった田んぼも5か月がたち雑草がおおい茂っていました。
 宮城労山の会長さん、役員の方々も被災されておられましたが京都の私たちを歓迎してくださり、状況を一人でも多くの方に伝えてほしいとおっしゃっておられました。詳しくはしょいこで報告させていただきます。23日の朝8時に現地を出発して京都駅に8時40分到着し元気に帰ってきました。東北は本当に遠かったです。牧村さんが現地の写真を投稿てくれます。

rsponse No.1543 Re: 支援ボランティアと栗駒登山かえってきました 返信者:浜村 投稿日:2011/08/24(水) 07:33
 79人の子供たちが亡くなられたの大川小学校、雄勝(おがつ)、女川漁港などのなまなましい被災地を目の前にして涙が出てしまいました。
 瓦礫撤去の田んぼ、本当に田んぼだったとは思えませんでした。幼児のパンツを手に取るとき、この子供のことを考えると…。
 ぜひ、ボランテイアに参加してください。

rsponse No.1544 石巻市 返信者:牧村 投稿日:2011/08/25(木) 00:20
初日、宿泊先の水沼構造改革センターに荷物を置き、石巻港に向かう。港に向かうにつれ津波の高さが増し、2階まで津波に襲われ空洞になった無残な家屋と、流された住居の基礎部が残っているだけ、言葉がありませんでした。

rsponse No.1545 石巻港近くの日和山公園から 返信者:牧村 投稿日:2011/08/25(木) 00:33
被災から約4ヶ月間で流された地にも草が生えていますが、根っこを潮水で現れた木々は枯れて赤くなっています。道路は一番にガレキ撤去されたそうですが、人々が生活されていた石巻市の本の姿は想像つかない状態です。

rsponse No.1546 女川港 返信者:牧村 投稿日:2011/08/25(木) 00:43
日本有数の漁港で牡蠣やホタテの養殖が盛んであった女川港、30メートルあまりの津波が猛烈な勢いで港を襲ったとのこと、岸壁は崩れて建物が根こそぎ押し倒されていました。

rsponse No.1547 撤去作業 返信者:牧村 投稿日:2011/08/25(木) 00:53
2日目雨、がれきの撤去作業をしました。河口から4キロの地域のこの場所でさえ、地上4〜5メートルの津波が襲ったとのことです。田んぼの土の上には10?pほどの泥が積もり、家屋の板壁や生活用品が粉々になり延々と散らばっていました。それを拾い集めリヤカーで運びました。まだまだまだまだ支援の人手がいります。

rsponse No.1548 石巻市雄勝町船戸地区 返信者:牧村 投稿日:2011/08/25(木) 01:39
この町はリアス式海岸の入り江で、一気に襲ってきたとのこと…、
どんなにか恐ろしく、深い悲しみでしょうか…
被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げ哀悼の意を捧げます。宮城労山の方々は、この実情を伝えてほしい、是非東北の山にもきてほしいと言われました。支援への思いを引き続き形にできればと思います。