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記事No.1052に関するスレッドです

せつなさ / potanpotan
心の深くに響いているもの。

やわらかな白い光のエネルギー。

「それはなぜ?」と問いかけをするような・・
せつないような・・熱くもなくて冷たくもなくて
淡々とそこに沸いて・・広がっている。

だから。気がつけば「それはなぜ?」と・・
世界に問いかけをするのかな。

心は水面に似ていて。
波紋にゆれ、振動し・・

動きに振動が生ずれば・・この水面に振動が広がる

「これが世界」「このようなものが世界」
そんなふうに世界を決めてしまうのは一体誰なのか
その誰かさんはどこを向いていて・・
今度は何を決めつけているんだろう。
いつも・・
遠くを見ていて、どこに行きたいというのだろう。

No.1050 - 2008/09/03(Wed) 21:40:58

Re: せつなさ / ubik0101

青い鳥の、名前はルンルン。

hatoを子供だと思っていて、
わたしをみつけると、一所懸命ごはんをくれようとします。

ときどきは、恋人だと思っていて、
ほっぺにちゅ、てしてくれます。

いつでもどこでもくっついてきて
いつでもどこでも、ルンルン。

ウインドベルの、ひもを上から下まで、
ちゅー、て上手に滑りながら、
にこにこ、している、ルンルン。

もしかして、人に生まれてきたなら、
ぜーったい。
消防士です。

No.1052 - 2008/09/04(Thu) 00:07:23

Re: せつなさ / ubik0101
たとえば愛を知らないなら、
愛を空想するでしょう。

ほかの人を知らないなら、
ほかの人を空想するでしょう。

この世界を知らないなら、
この世界を空想するでしょう。

それなのに、それを見て聞いて思考して、事実、
それを現実に知ってると思うでしょう。

そして。それを知ってると、思いたいために
その空想を生起させる、幾千万の捏造された理由が必要でしょう。

そんな自分を知らない誰かは、
そんなことをしてる自分を空想するでしょう。捏造するでしょう。

たとえば愛を知ってるなら、
愛を空想する必要はないでしょう。

ほかの人を知ってるなら、
ほかの人を空想する必要はないでしょう。

この世界を知ってるなら、
この世界を空想する必要はないでしょう。知らない、でしょう。

それには理由を捏造する必要がないでしょう。
それは、それがなぜ、そうなのか?

そう問うとしても、
そう問うことも、知らない、の。問いでしょう。

そんな自分を知る、知らない。どう言っても間違いでもありでもない
誰かは、自分を空想し、理由を探し捏造する、必要がないでしょう。

そんな、ただの誰かは、なにかを空想することにも、しないことにも、
そんな意識にも、静寂にも依存しないでしょう。

No.1053 - 2008/09/04(Thu) 10:38:00

Re: せつなさ / potanpotan
>
> 青い鳥の、名前はルンルン。



か・・かわいい。。
一生懸命ごはんを運んでくれるんですか?
なんてゆう愛情深さ・・^^。

私も小さいころとてもお世話になった猫がいました。
私のママになって私を育ててくれた猫がいました。

それに、真剣に恋をした犬がいました。
はじめてバレンタインのチョコをあげたのはその犬でした(今考えれば。飼い主さんは迷惑だっただろう)。

真剣に恋をした樹木もあって・・風にざわめく茂みに・・胸がときめいて・・絶対両想いだと思いました。

心が通い合ったコフキコガネがいました。

私の手に自分の小さな手を乗せてくれたヤモリがいました。

私の手の中で眠ってくれた子雀がいました。

どの生き物が好きというより、種族問わずときどき
ピンとお互いが感じあう・・相性のよい固体がいるなあ
と思います。

No.1054 - 2008/09/04(Thu) 19:46:54

Re: せつなさ / potanpotan
> たとえば愛を知らないなら、
> 愛を空想するでしょう。
>
> ほかの人を知らないなら、
> ほかの人を空想するでしょう。
>
> この世界を知らないなら、
> この世界を空想するでしょう。


「空想」とはそもそもなんでしょう。

ある音の連なりを聴いて・・ある景色が見える。
これは空想でしょうか。

ある音の響きに胸がいっぱいになる。
これは空想でしょうか。

ある言葉をもとに、言葉が連鎖してゆく。
これが空想でしょうか。

ある言葉を聴いて、記憶が浮かんで、涙が出る。
これは空想でしょうか。

空想とリアルって何が違うのでしょうか。
体の感覚が伴うかどうかでしょうか。
矛盾のないことでしょうか。

> それなのに、それを見て聞いて思考して、事実、
> それを現実に知ってると思うでしょう。


知るも知らないも・・どう言ってもよい
でも、「知っている」ってなにを言うのでしょうか。

「そういうものがあるらしい。」
存在を認識したときでしょうか。
そう。それは確かに「知っている」んだよね。
でも具体的には「知らない」んだよね。

「こういうことでこういうものなんかな」
存在をイメージして、自分のスケールに合わせて検討してみることでしょうか。
そう。それは確かに「知っている」だよね。
でも本当にそれを「知っている」かな。
それを・・ある人はこういうふうに感じているよ。
こういうふうに見ている人がいるよ・・
「ああそうなんだ。知らなかった」
「でもさあ。もう知った」

さあ。知ったってなんでしょう。

頭の範疇を超えて。現象することでしょうか。
愛を語る。
それが語られることなしに、
誰かの心を解きほぐしていることでしょうか。
それが語られることなしに
世界に響いて作用していることでしょう。

「知っている人」に出会った瞬間から作用がはじまる。
「知る」とも知らずに、知ってゆくプロセスがはじまる。

言葉のやりとりは
「予感」を感じさせたり、こういうことか。ああいうことか・・検討が生じるけれども。
自分の世界で都合よく切り取りができてしまうからなかなか難しい。

全力で人と関係する中で、私に起きる作用。あなたに起きる作用と変化。
それが・・人と人の。存在と存在の共鳴関係で生じる変化と現象。それが。「知っている」
そのものかなと。
私は感じます。

No.1055 - 2008/09/04(Thu) 20:34:01

Re: せつなさ / ubik0101
それが空想にしても、 事実にしても、それらの融合にしても。それは知覚されています。そして、なぜ美しい空想は楽しく、醜い空想は苦痛なのでしょう。どちらにしても、

そうでない、ありとあらゆることにしても、それに依存し、執着し、それに巻き込まれるなら、問題といえば問題ではないでしょうか。それは、

その人が倒錯してるということです。そして。たとえ人が、倒錯を自覚できなくて、いわゆる創造的に、この世界や空想を活発に生きても、倒錯してるなら倒錯です。そして、

たとえ美しい、また、そうでない空想によって音楽や小説や絵画を作るとしても。空想しても作らないにしても。空想によらないで作るにしても。空想によらないで作らないにしても。事実がどう動くにしても、動かないにしても。また、

ひとつの詩さえ書けなくても、また百億の音を繋げても人が・・・倒錯してないなら、倒錯していません。そんな、

その空想や事実を知覚する
その主体が、いる、または、いない
どちらも倒錯で、あり得ます。
どちらも倒錯でなく、あり得ます。

ただ人が倒錯してないなら倒錯してないというだけです。空想しても、しないでも、事実を知覚しても、しないでも、倒錯してないのです。たとえば、

技術者が、技術に依存、執着しないで、どうして技術者と言えるでしょう。そして、たとえ執着しても・・・それは倒錯でも、そうでなくもあり得るでしょう。そんな意味で、

たとえば、欲望が機能してても、しなくても、自我が運動してても、しなくても、構いません。そんな、その人は、倒錯してないかもしれません。そうであれば欲望や自我は、却って機能する必要がありません。そして、

どうであれ、空想にしても、事実にしても、美しいとしても醜いとしても、苦しいとしても楽しいとしても、そうでないとしても。なにかが知覚されてる、思考されてる。ということではないでしょうか。その、

たとえば、苦しさはなぜ、苦しさなのでしょう。楽しさは、なぜ楽しさなのでしょう。なぜそうなのか誰が知ってるでしょう。それで、

その、知らないことは、何の基準にも、根拠にもなり得ないのではないでしょうか。誰も、倒錯できないのではないでしょうか。知ってることがなんであるか知らず、知らないことが、なんだかも知りません。

No.1056 - 2008/09/05(Fri) 20:17:20