続・思考の機能
>どちらにしても、人が迷ってるのです。思考が迷ってるわけでも、迷わせてるわけでもありません。思考は自ら矛盾にも、自らの範疇にないことにも、気がつくことだってできるのです。 思考は巧妙に人を騙す、というより、人の巧妙な迷いのあり方を理解できる。とも言えます。
と、いう投稿No.1101からの続きです。
たとえば。慈しみと憎しみは、おなじこと。善と悪は。暴力と非暴力は。おなじこと。と、いう思考があります。それは自我の機能としての、思考の運動なので、そのような対になった思考は、その自我の範疇にあることだ。ということです。
そこで、問題は、そういう思考だ、と見なされることがあります。しかし違います。また、思考は過去のものだから、思考は事実、現実、ではないと、見なされることがあります。しかし違います。
それは。なにかの状態、たとえば自我が機能してる人があり、また過去に捕らわれた人があり、そのようであることを、『たまたま』表してるのが、たとえばそのような思考です。
というのも、対になった思考をしてないときでも、過去からの影響を自覚してないときでも、その人は捕らわれてるなら、そういう自我や、過去に捕らわれてる形態なのです。 そう思考をしてても、それに捕らわれてないなら、捕らわれてないのです。
それで、そういうことから自分は解放されてないのに、解放されてると思い込みたいなら・・・たとえば対になった思考に責任を負わせて、それが機能してないから・・・過去のことを思考せず、いまに、現実を生きてるから・・・それに縛られてない。などと、思わざるを得ないでしょう。
ところで今日は、hatoさんと一緒に、多摩センターに行きました。ちいさな植物園があって、ローズマリーを「お持ちください」。だったので、魚の香草焼きにと、貰って。新芽の部分は、赤玉土に、挿し木してみました。根がでたら、タイムなどと、ハーブの寄せ植えにしようと思っています。
続きます。
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No.1134 - 2008/10/11(Sat) 20:18:34
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