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記事No.1167に関するスレッドです

(No Subject) / ubik0101
続々・思考の機能

>このように思考するということは、思考しないということは、それに捕らわれていても、解放されていても可能です。つまり、その人の状態には、無関係です。ゆえに思考は正確に機能します。

と、いう投稿No.1135からの続きです。

たとえば。嘘をつかないということは、嘘をついてはいけないという信念、規範、観念があって、嘘をつかないのかもしれません。それは、いくらでも世間にある、たくさんの信念の一つを選択したのだとして、その人は、なぜそれを選択したのでしょう。 そういう性向が、その人に、選択する前にも、あったのかもしれません。つまり、自発的な、それかもしれません。

どちらにしても、まずは、その人が捕らわれた有り様があるだけです。その有り様でなく、起きてる思考だけに注目して。その信念、規範、観念・・・いわゆる軋轢、苦痛などを起こす心理的思考としてそれは現れるとしても・・・その思考は教育とか宣伝によってもたらされた過去のものだからと決めつけるとかして・・・その思考をなくすだけでは、またその思考がないだけでは、知覚できる表面だけを問題にしてるだけで、その囚われから解放されることは困難でしょう。 問題は、思考ではなく、その人の有り様です。

そうでなく、この表面だけを問題にしてる問題を避けるために、たとえば「思考とは思考者」だ。とかいう思考が必要になるかもしれません。ここは、その思考の発見者、また再発見者は、それなりの経緯においての、もっと深い了解があるはずです。しかし追従者は、その未熟な有り様において、どんな思考であっても受け入れるなら、その思考に支配され、思考ばかりを検討し観察し、苦労することになるでしょう。

ところで、今日は、鮭のムニエル、ペペロンチーノ、野菜のオニオンクリーム煮添え弁当です。これから洗濯して、ちょい散歩です。そのあと続きます。

No.1159 - 2008/10/20(Mon) 09:49:36

Re: / ubik0101
ところで繰り返します。たとえば嘘をつかないという、その信念、規範、観念を否定するだけでは、不完全です。たとえば、それでは、自分は状況によっては、嘘をついてもいい、ということを隠し持つことになるかもしれません。そして、そうでなくあろうとするなら、なにかを否定するということは、いつまでも、なんでも否定し続けることを要するでしょう。

そのようにして。また嘘をついてもいいという信念、規範、観念も否定しなくてはならないでしょう。それは、いかなる信念、規範、観念も持たないでありたいということです。それはその人のあり方が飛躍、変容したことと、たとえば、そういう信念、規範、観念があろうとなかろうと倒錯せず、嘘をつかないことと、そっくりでしょう。それで、たしかに嘘をつくことは、ないかもしれません。けど、馬と鹿のように、つまり動物のように、結局は、嘘も言えないとしても、真実も話せないでしょう。

そんな状態では、思考を観察、検討することに執着し、やはり、いかなる、信念、規範、観念も持たないという信念、規範、観念に捕らわれているでしょう。そうならば。おなじように素直、誠実であろうとしても、不素直、不誠実であろうとしなくても、誠実、素直ではないでしょう。ならばやはり、その人は、その人の思考に縛られているのです。そしてそうであることを自分に知られないように自分を操作、矯正するのです。

なにかを否定すると言うことは、否定し続ける・・・それは逃げる、守る、自我の機能ですが・・・だけではなく、そうしてることも否定しなければ、偏っています。また、なにかの思考を、ほかの人とか一般的なことに適応するだけでなく、それを自分に適応しなければ、いわゆる思考に同一化してる状態であり、思考に支配されたままでしょう。このように思考は、その人の有り様に無関係なゆえに、その人の有り様を正確に顕します。

ところで写真は、渡し船から見た、 江ノ島の裏磯です。

No.1160 - 2008/10/20(Mon) 12:43:42

Re: / ルー
あー、今日のお弁当はうまそう〜
No.1161 - 2008/10/20(Mon) 14:21:01

Re: / ubik0101
そーなんです。いつも美味しく作りたいのです。そう思わないで、美味しくできることはないと思います。

ところで。信念、規範、観念などの起源を、思考、あるいは過去に求めるのは、明らかに誤りです。

その人が、「いま」迷ってる状態にあることを、そのような思考が露わにしてるだけです。

ということを思考しつつ、これからhatoさんの実家に行って夕食を作ります。

No.1162 - 2008/10/20(Mon) 15:54:01

Re: / hato

いま、帰ってきました。
これから、温かい白湯をいただきます。

うーと、ubik弁当。
人参の甘みがやさしくて、おいしかったです。
いつも内容充実、ぎゅーっと詰まって、
おなかまんぷく、ありがとう、です。まる。

No.1163 - 2008/10/20(Mon) 23:27:00

Re: / しむじゃ
嘘をつかないという信念、規範、観念と、嘘を付いた自分、もしくは嘘を付くまいとする自分とのギャップに苦しむ、その苦痛は思考から起きるのでしょうか?苦痛が問題です。
No.1164 - 2008/10/22(Wed) 18:35:36

Re: / hato

こんばんは。

それは明らかに、状態の苦痛であって、思考はただその状態によって、強調されているのだと思います。
その苦痛から深く、的確に学ぶことによって、人は人を、自分自身を、見い出す、こともできるかもしれません。
的確に、というのは、そうでしかならないこと、ともいえます。

こうして、わたしも学ばせて頂くことができます。
ubik0101さんが、いま、すこし飲んでよっぱらって、いるので、あしたきちんとお返事しますね。

No.1165 - 2008/10/22(Wed) 22:30:20

Re: / しむじゃ
こんばんは。

以前にも「お酒はほどほどに」っていうhatoさんの書き込みがありましたね。ubik0101さんはお酒好きの様ですね、僕もお酒好き、黒糖焼酎大好きです。

No.1166 - 2008/10/23(Thu) 00:22:54

Re: / ubik0101
そういえば、一度だけ、沖縄の離島あたりの黒砂糖からつくられた焼酎を貰ったことがあります。それは、とてもまろやかで爽やかで深く、印象に残っています。この頃は、お湯割り、真露に梅干しです。

ところで、嘘をついてはいけないという 信念、規範、観念が人にあるとします。それでも、ほかの人が嘘をついてるのを見るとか、自分が嘘をつきそうになる、嘘をつかされそうになる時や、それを思考、空想する時にしか、その信念、規範、観念とのギャップは、問題にならないかもしれません。

つまり問題になってない時には、信念、規範、観念はあっても意識されません。問題も生起しません。それで、問題になる時だけの信念、規範、観念、またそのいわゆる心理的な思考の運動だけを問題にすること。それを分析したり観察したりすること。また、その心理的な思考がないことに気づくこと。は、表面だけの問題です。

あれこれ心理的な思考の運動があって、それが知覚されてる「状態」。だけではなく心理的な思考の運動が生起してないときでも、人がそのような「形態」にあることが問題ではないでしょうか。どちらの場合も苦痛が生起すると思います。でも、「形態」の場合は、苦痛の理由が特定できないと思います。ただ胸が痛むと思います。

>その苦痛は思考から起きるのでしょうか?

ではなく、苦痛が、そういう問題のある人の有り様を教えてるのではないでしょうか。その問題は、単に嘘をついてはいけないという信念、規範、観念とか、それによる軋轢とか苦痛とかだけの範疇にあることではないでしょう。もっと広範囲というか深い原因、たとえば無知とか欲望とか自我の問題とか、があるのかもしれません。

とりあえず、それは解決されてる、あるいは解決が進行中だとして。嘘をついてはいけないという信念、規範、観念が苦痛をもたらすなら。その信念、規範、観念を完全に守ること、確立すること。信念、規範、観念の否定でも肯定でもなく完成。それが信念、規範、観念からの解放であり・・・なぜならそれを守ろうとする・守れないということが心理的思考の運動なので・・・それが楽をもたらせると思います。

そして、嘘とは。人の、行動、発言、思考が、たがいに矛盾することではないでしょうか。つねに真摯に、明晰であれば。それは矛盾できず問題は生起のしようがないのではないでしょうか。

ところで。その辺りを散歩してたら、月桂樹(ローレル)がありました。それですこし葉を摘んで、乾燥中です。トマトパスタなどに、ぴったりのハーブです。

No.1167 - 2008/10/23(Thu) 11:22:10

Re: / hato

はい、
一日おき、上記焼酎とー、、
日付が変わりましたけど、今日は赤ラベルの「歩いてるジョニー」??、てのを頂いておりました。

そこで、しかし彼は、「長崎ではー、もーっと、飲んでいたんだ。いまは3ぶんの1だよ、」て言っております。

いいことじゃ、ないの。ねっ?

そこで。
ルンルンも、お酒もけっこういけそうだけど、
今日はこちらで我慢して頂きました。

No.1168 - 2008/10/24(Fri) 00:19:13

Re: / ルー
> そこで、しかし彼は、「長崎ではー、もーっと、飲んでいたんだ。いまは3ぶんの1だよ、」て言っております。
>
> いいことじゃ、ないの。ねっ?


お手柄、お手柄。

No.1169 - 2008/10/24(Fri) 14:01:41

Re: / しむじゃ
悟りがあろうが、なかろうが、ある体験があったとか、ないとか、そうした事を置いておいて、
>
> そして、嘘とは。人の、行動、発言、思考が、たがいに矛盾することではないでしょうか。つねに真摯に、明晰であれば。それは矛盾できず問題は生起のしようがないのではないでしょうか。


矛盾なく生きていければそれでいい気がします。それだけが望みです。

No.1170 - 2008/10/25(Sat) 23:49:03

Re: / ubik0101
いつでも、どこでも目が覚めていれば。人は自分がしてる行動はそのままに感じることができます。発言は、そのままに自分に聞こえます。思考は、そのままに知覚できます。

そうなってることを、とても神秘とも、秘密とも、不思議とも感じます。まったく。真摯で明晰であって。なにも自分に隠すことはできないのです。そうであって、そこに矛盾、嘘が生じることを知りません。

それで、矛盾が生じるというのは。真摯に明晰に、自分の行動を見てないこと、自分の発言を聞いてないこと、自分の思考を知覚してないことによってではないでしょうか。おおまかに言って、その原因としては、人が愚かだからではないでしょうか。

たとえば行動、発言、思考が矛盾しても。ほかの人には、そういう自分の嘘は判らないということで、自分にも隠していれるほど愚かであれる場合ではないでしょうか。

また、いわゆる精神的なことで、自分が見たこと確認したことでないことを発言すること、その発言と自分の有り様との違いがある場合ではないでしょうか。その人が、その人ではなく、ほかの人の間に隠れて行動、発言、思考してるのではないでしょうか。

あと。矛盾があっても、馬と鹿になってしまえば、それに気がつかないで、矛盾がないと思ったりする場合もあります。その意味でも、やはり真摯で明晰なことは必要と思います。

ま。世間には、嘘をつく人はいるかもしれません。でも、ただ、そういう人がいるというだけです。そのことは嘘をつかない人には関係ないのです。そこには、嘘をつく人と、つかない人の分離があります。そうであって、当然です。

ところで探せばあるもので、山椒の木の苗がたくさん見つかりました。とりあえず、素焼きの鉢を買って三本、植えました。

No.1171 - 2008/10/26(Sun) 23:24:40

Re: / hato

ほんとうに。
探せばあるもので、手のひらに乗るほど小さな、
可愛い山椒も、みつけました。

なんだかちょっと不思議で、
嬉しい発見です。

No.1172 - 2008/10/26(Sun) 23:35:34

Re: / ルー
うん。
No.1173 - 2008/10/27(Mon) 09:05:46

Re: / hato

仕事からの帰り道、

細い、ちょっとした、林道を通ります。
そこで、たくさんのどんぐりや、
秋色の落ち葉を踏みしめながら
夕暮れどきの階段を上っていくと、
右手に、小さいけどなかなか元気な山椒の小木があって、
ひんやりとした空気と、その山椒の葉の香りを楽しみます。

すると、ubik0101さんの待ってる部屋がすぐそこです。

山椒。
えーと。

この部屋に、すでにー、5本。
近くに住む、母の家に、2本。
す、すでに。7本。に、なってしまいました。

今日、きのう一緒に見つけた小さな小さな山椒の苗と、
親木についてた種(たぶん)を、ubik0101さんがとってきてくれました。
種は、欲しい方がおられたら、お送りしようといってます。

No.1174 - 2008/10/27(Mon) 23:44:58

Re: / hato

手のひらに乗るくらいの、山椒の苗です。

No.1175 - 2008/10/27(Mon) 23:48:18

Re: / しむじゃ
知覚するのは思考ですか?思考を知覚するのは思考なんですか?その思考は誰ですか?

思考を思考したり、思考しないってことを思考したり、そんな思考を繰り返していると、あるとき、落とし穴にはまったように、スポッと何もない空間に落ちることがあります。

No.1178 - 2008/10/29(Wed) 17:18:11

Re: / hato
なにか鳥や樹や海を知覚する。また。怒り、喜び、苦痛、平穏を知覚する。また。なにか思考を知覚する、その主体は、知覚されません。それで、主体が、ない。と言われたりすることもあります。

とくに思考について注目するなら。その思考されてることだけで、ほかの思考されてない思考も、また、それを知覚してる自分も、知覚されません。それで、思考は思考者、と言われたりもします。

どちらも、そう言えば言えるだけです。その主体が知覚されないからといって、その主体が、ない、というわけではありません。また、それだけが、ある。という意味で、「思考を知覚するのは思考」でもありません。

ともかく。知覚してる主体が知覚されないということを示してるだけです。思考が知覚されるのですが、それも、Aさん、Bさん、Cさんに関係なく知覚されるので、つまり思考は、知覚する誰かには無関係に知覚されるので、そうなのかもしれません。

ここで。知覚できることは、ある。知覚できないことは、ない、と見なしてしまう愚かさを、学ぶことができます。また、ある、ない、とは、どういうことか?ということを思考することもできるでしょう。

「 スポッと何もない空間に落ちる」。これは、「何も」が示す意味が、不明ですが、無思考ということなのでしょうか。それならば、思考は、それを止めようと意図しても、止まります。

あるいは。なにも思考してない、その主体も、ない、ということなのでしょうか。なんにしても、なにかが知覚される、されないに関わらず、そうしてることによって、その主体の、あるない、は決められないように思います。また、あるない、その意味は解りません。

それでも、自我は、ない。自己は、ある。けど、どちらも知覚できない、自覚できない。のが実情です。

No.1179 - 2008/10/30(Thu) 00:05:26