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記事No.1187に関するスレッドです

(No Subject) / ubik0101
続々々々・思考の機能

ところで、たとえば偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・そのことは、とある行動、発言、思考に、名前をつけて、そう呼んでるのでしょうが・・・それを観察すること、あるいは、それを理解すること、それが自己を知ることでしょうか。そうではないと思います。

それは、もしも、たとえば偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・などを理解できたと思うにしても、偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・などの理解ではないでしょうか。それは自己の理解とは言えないのではないでしょうか。

ここで、たとえば偽善を理解した、としてみます。それから解放された、としてみます。では、嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・また、幾多の名前の付けられない行動、発言、思考などは、偽善の理解で理解されるでしょうか。それからの解放なのでしょうか。 そうではないなら、永遠に迷い続けることができるのではないでしょうか。

続きます。

ゆうまずめ(魚が釣れる日没前の時間帯)の江ノ島の裏磯です。かなりの人が、寄せては返す波に足を洗われながら、釣りをしています。

No.1187 - 2008/11/06(Thu) 12:05:26

Re: / ubik0101
ところで。思考は、知覚されるのは、その思考だけです。たとえば偽善の思考は、偽善の思考だけです。たとえば傲慢。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・の思考とは、なんか関係ありそうだけど、思考されてはいません。

それを思考するには人は、今度は、たとえば傲慢の思考をせねばなりません。そのようにその知覚される思考は、人を集中させます。それしか見えないのです。概念と概念との関係は、度外視される傾向があります。

とりあえず・・・たとえば偽善の思考は、それしか見えません。それで、それを思考することは、『自己を知ることでは、ない、とは思わ、ない』のです。

もちろん嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・も同様です。それで人が愚かなら、そのような思考は自己を知ることだと暗黙に、『思わ、ない、でも、ない』、のです。しかし、その奇妙さに気が付くのも思考です。鳩のように素直に、蛇のように賢く、正確に思考せねばなりません。

とりあえず、思考は、その思考だけです。ここで問題が発生してることもあります。もし人が、自己を知りたいなら、自己を知ろうとしなければなりません。そうでなくて、どうして知ることができるのでしょう。

けど。たとえば何かを知ろうとして知ったのは、事実それを知ったのではない、という思考もあります。

続きます。

そのあたりを歩いて、蕗を見つけました。すこし摘んで、すじを取り、塩茹でにして、だし汁に浸けて、冷蔵庫で数時間。煮浸しで頂いてみました。なかなかhatoさんと、母にも好評です。ほうれん草、ゴボウ、人参、インゲン、オクラそのほかの野菜でも煮浸しは、お勧めです。

No.1188 - 2008/11/09(Sun) 09:54:46

Re: / hato

すっかり、冬の気配になりました。
ここずっと、結婚ご報告の葉書を作っていて、一昨日ようやく、出しました。

もう、11月も半ば。
海の景色が、冬らしい薄灰色です。
きのうは雨の中で釣りをしました。
とても寒かったけれど、なんでしょう、釣りもいいな、と思いました。

竿一本で、がんばるのだ。

(ほんとは、ubikおにぎりを食べに行ってるhato、ともいえます)

海タナゴ、カワハギ、念仏ダイなどのなかで、
香草焼きで頂くと、やっぱりちょっと意外ですけど、念仏ダイが美味、と我が家では評判です。

No.1189 - 2008/11/10(Mon) 23:08:54

Re: / ubik0101
しかし、それは、その人が、実際に確認したことなのでしょうか。自己を知ろうとして知った、けど、それは自己ではなかった。神を知ろうとして知ったら、それは空想の神だった。愛、自由、幸福・・・ありのまま。素直。真実。真摯。叡智・・・についても同様です。

それを規範とも、あるべき姿と呼ぶにしても、それを求めて得たとして、空想されたそれ、を見るでしょうか。まったく人は、それを知らないで求めているというのに。そうなのでしょうか。

それら総てについて自分で確認し・・・それは不可能でしょうが・・・さらにそれから解放されてるのでないなら、そう思考する人が・・・また思考しなくても・・・そんな空想をしてるしかないことを示しはしないでしょうか。そして、その人が得てない、その有り様だというだけです。

また。自己、神、愛。ありのまま。素直。真実。真摯。叡智・・・それを実現してない人が、それを思考すると、その思考がその人に理解を望んで、思考に執着することを望みます。 そして、それを思考しなくても、その人は、そのような有り様ではないでしょうか。このように思考は、その人の有り様を現すように、正確に機能します。

また、たとえば。自己、神、愛。素直。真実。真摯。叡智・・・を知ろうとして知ったのは、事実それを知ったのではないならば。偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・を知ろうとして知ったのなら、偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・を、知ったのではない。空想の理解ではないか。と検討すべきです。

続きます。

No.1190 - 2008/11/11(Tue) 09:39:32

Re: / ubik0101
そのように検討しないなら、それは自己、神、愛、自由、幸福、素直。真実。真摯。叡智・・・を自分で勝手に、規範、あるべき姿、規範、目標、伝統、権威だと名前を付けて・・・そんな空想をして・・・それを自分で勝手に否定してることに気付いてない、マッチポンプ(自作自演)、だというだけです。

また。自我とか欲望とかが機能してる人の有り様を既知と呼び、そうでない有り様を未知と呼んで区別し、既知からの自由を提唱したりするのも同様です。

そういうことは、人を鍛えるための、取り替え可能な負荷・・・触媒・・・なだけではないでしょうか。それは、規範、あるべき姿、規範、目標、伝統、権威の追求、肯定と、変わりありません。それは人が、それを実際に生きるなら、真摯に思考すれば、そのことに気が付かざるを得ないのです。

なにかを判断するなら、それを、ほかにことに適応して、一般化しなくてななりません。また、その思考してる自分の有り様にも、それを適応せねばなりません。そのように適応してないという前提においてしか、たとえば知ろうとして知ったのは、事実を知ったのではない、とかいう思考は正当性を持たないでしょう。

これは、あることと反対のことは同じこと、という思考も同じではないでしょうか。たとえば既知と未知が同じことであれば、それを区別不可能です。その人の有り様が、それを区別する思考として現れる。だけです。

続きます。

このあたりを歩いてて、あちこちに百合の花そっくりの花が咲いてる木が見つかりました。

No.1191 - 2008/11/13(Thu) 11:57:32

Re: / ubik0101
たとえば、暴力と非暴力は違います。しかし。暴力と非暴力を同じと言うのは、そう言う人が、そういう有り様で。それが、そういう思考として現れて、その思考に依存、執着してるということでもあります。

そして、現実に、ほかの人が暴力に反対して非暴力を主張しても無駄だった、世界には現実に、暴力がある。暴力と非暴力は、おなじこと。と言うかも知れません。

これは心理的な問題と、現実の問題は違うということでしょうか。そうではありません。そこで問題にされてる、ほかの人も暴力に、依存、執着させられてるというだけです。それは自作自演の空想です。投影です。たとえば偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨み・・・。も同じことではないでしょうか。

そして、ほかの人も、おなじような空想をしてる。また、ほかの人のことは判らない。そんなところに隠れて、たとえば、あることと反対のことは同じこと、たとえば暴力と非暴力は、慈しみと憎しみは同じこと、という思考は自己保存したくて、人を空想に埋没させてるだけです。

ところで。ある思考は、その思考しか示しません。また、そうする人の有り様とは無関係に関係します。そのために、ある人の、思考と思考。また、ある人の行動と、発言と、思考が矛盾することも可能になっています。つまり人が、真摯ではないと思っていなくても、嘘をつくことが可能になっています。

そういう矛盾に気が付くには、なにか判断したら、ほかのことにも適応してみる。また、それを自分の有り様に適応する。なぜ、これは、こうなのか、を問う。ことが有効です。それをしないのなら、愚かな人でありたいのでしかないでしょう。

まず自分のことを解決するのが先決です。そして解決した人は、偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨み・・・それを肯定しても否定しても、それを肯定も否定もなく観察しようとしても、無意味なことを了解してるのです。

続きます。

No.1192 - 2008/11/16(Sun) 12:20:55

Re: / hato
ここのところ少し、ハードでしたので、
たっぷり眠って回復しました。

今日は午後から、この小さな部屋で
実家の母とアフタヌーンティです。

なんでも手作り上手、の母が作ってくれる、
クリスマスリースが冬の楽しみのひとつです。

hatoはちょこっとお掃除。
ubik0101さんの、美味しいサンドイッチを頂きました。

No.1194 - 2008/11/16(Sun) 21:12:58

Re: / ubik0101
なんであれ問題は思考ではありません。その人の有り様です。どう思考しても、しなくても、たとえば暴力と、暴力のない人は、分離があります。嘘をつく人と、事実を話す人は、分離があります。成長しなかった人と、成長した人は、分離があります。当たり前です。これが、この世界で起こることです。

そして思考は、その人の有り様を現します。しかし。たとえば、偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨みを思考しないで、それが解決されている。ということがあります。それは、そういうことを思考し、理解したからではありません。それは、その人が、飛躍、変容、成長、した、というだけのことです。これが、この世界で起こることです。

ここでも問題は、思考ではありません。その人の有り様です。それを思考が正確に露わにするというだけです。また、 偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨みを理解しなくても、それに縛られることはない人は、それに縛られることはないことを知っています。

ところで。熱い寒いなどの感覚にしても、嬉しい悲しいなどの感情にしても、なにかの思考にしても、それが、知覚されてるだけです。それを知覚してる、主体は知覚されません。それで、感覚、感情、思考に、同一化すれば、それを見てる自分は一応、いないのです。それはそのまま非同一化です。しかし、それも、その人の有り様がそうなので、それを世界が露わにしてるだけではないでしょうか。

そして。これは、なぜ、こうなのでしょう?たとえば、この感覚は、この感情は、この思考は、なぜ、この感覚、この感情、この思考なのでしょう?これを問うだけでも、また世界を、なにも知らない、に至るのではないでしょうか。

No.1195 - 2008/11/19(Wed) 11:32:30

Re: / しむじゃ
> 感覚、感情、思考に、同一化すれば、それを見てる自分は一応、いないのです。それはそのまま非同一化です。しかし、それも、その人の有り様がそうなので、それを世界が露わにしてるだけではないでしょうか。

覚醒した人、そんな人も、その有り様を世界がそのように露わにしているだけ、ということでしょうか。

> これを問うだけでも、また世界を、なにも知らない、に至るのではないでしょうか。

「なにも知らない」を知るに至るということですか。

No.1200 - 2008/11/19(Wed) 23:59:25

Re: / ubik0101
> 覚醒した人、そんな人も、その有り様を世界がそのように露わにしているだけ、ということでしょうか。

しむじゃさんの投稿の意図が掴めてないかもしれませんが、返信してみます。 どんな感覚、感情、思考も現れては去っていくだけです。同一化は、そのまま非同一化。そのようにして、人はこの世界の範疇、日常で、とくに問題が知覚されなければ、無我っぽい状態にあります。しかし、それを見ている自分は虚構・・・自我・・・ということを了解できず、自分が自分と思う自分が、ある、と感じてるのだと、思います。

それで無我っぽいというのではなく、自分が自分と思う自分は、ない、ことを了解するなら、愛、自己、実在を了解します。それは、この世界の範疇にありません。なのに世界の範疇にないことを世界の範疇にある意識が対象にするなら、愛は執着として、自己は自我として、実在は神として、つまり空想として姿を現します。それは、世界の範疇にないことを実感、自覚しようとしたい運動とも言えます。

くり返しますが、それ、おもに自己を実感、自覚したい、という働きが、欲望、自我の機能です。なにかをしたいのだけど、できない。したくないけど、させられる、とかは、それから派生した運動とも言えます。 そしてそのような運動が不要になるほど完成したら・・・愛、自己、実在は、まったく無自覚に了解されます。すると、この日常が真理、不思議です。

>「なにも知らない」を知るに至るということですか。

「なにも知らない」を知る。としても、その、知る、も何かを、知らない、のです。そして、知らない、ということも、なにかを知らない。のです。それで料理をしたり、植木の世話をしたり、魚釣りをしたり、投稿したり、です。

たとえば怒り、悲しみ、さらに自我、欲望も、知らない・・・未知なことです。それから解放されて、なお、それを拒否する、避ける、必要はありません。それを拒否する、避けるなら、その人には、いわゆる分離があるのではないでしょうか。しかし自我は、その分離がないという、真似もできます。この何でもありゆえに、人は学ぶことができるのだと思います。

No.1203 - 2008/11/20(Thu) 15:51:36