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記事No.1337に関するスレッドです

ちょっと質問 / ばん
今日、あれこれ考えながら運転していたのですが、頭は運転とまったく関係無い事考えながらでも運転できてしまう。
前にうびさんが言っていた水を飲みに言って帰ってきてからどうして今、水を飲んだのだろうと重なって・・・

本当の自分って何も思考とか関係なく、直感的にものごとを決めて行動している主体の事なのかなと思いました、どうなんでしょうか?

自我は不安になる、怒る、喜ぶ、考える・・・いろんな事して自分が主体だよと架空の主体と同一化しようとしているのかなと思ったりしています。

でも、何も考えないで直感で決めたとしても、無意識層の中にある観念とかに左右されているよななんて思ったり・・・

何を聞きたいのかわからなくなってきました、えーと最近やっているのは何も考えないと言う事です、じゃない考えが浮かぶけどそれ執着しない、「執着しない」にも執着しない結局そのときそのときの直感で決めるというのをやってます、
皆さんはどのようにしてに選択を決定していますか?

No.1325 - 2009/01/27(Tue) 15:29:44

Re: ちょっと質問 / hato
> 皆さんはどのようにしてに選択を決定していますか?

ばんさん、こんばんは。
選択、のほうについて考えてみました。

なにかを選ぶとき、たとえばごく日常で、ミカンを選ぶ、と強調していうときには、ミカン以外の総てがある、を前提にしていると思います。
そのとき、自分が選ぶ、と思える状態にある、とも言えるかも知れません。
或いは、何かを選びたいのに選べないかのように見えるときには、何かに執着している状態を学ぶ、その運動性にある、とも言えるかも知れません。
一方でものごとは、ただそうである、ともいえると思います。そのときにはとくに、選択する、ということに注意が向いていないかも知れません。

どのようにして、て難しいですね、状況によりますけれど、
大雑把にいえば、たいていは雰囲気て感じです。(なんてことでしょう。)
考えても考えていなくてもいいかな、の感じです。

先日、ubik0101さん懐かしの横浜みなとみらいに行ってきました。
画像は左から、パシフィコ横浜、大観覧車、日本丸です。

No.1326 - 2009/01/27(Tue) 23:46:54

Re: ちょっと質問 / ばん
えーと自分で選択しているようにみえて、自分で選択していることはないよってことですか、人生は流れてるだけなのかなと最近思えてなんか罪悪感とか不安は減ったのだけど、無気力になってしまってます。

横浜みなとみらい、初めて知りました。
こういう、夜景にライトアップ系にとても弱いです。ワクワクしてきます。行ってみたいなー
ワクワクするってことは無気力ではないですね、支離滅裂です

No.1327 - 2009/01/28(Wed) 08:39:54

Re: ちょっと質問 / ubik0101
なにかを見ようとして眼は見てるわけではないけど、たとえば走る自動車は自動的に見えています。なにかを聞こうとして耳は聞いてるわけではないけれど、たとえば小鳥の声が勝手に聞こえています。

でなければ、まず世界は・・・自分に先立って・・・ある、と感じられることもないと思います。そして、なにかの思考も、走る自動車や小鳥の鳴き声と同じように。それを知覚(感覚)しようとしてなくても、知覚されてる。見えてる。という感じです。

そして、また。なにかを見ようと意図しても、なにかを聞こうと意図しても、なにかを思考しようと意図しても、そうできたりします。その双方向の衝突点に、照明としての意識があたっています。これで、知覚にとってはですが、対象が確かに、ある、それを意図して対象にしてる自分も、ある、のでなければ、あまりに奇妙。と感じられる構造になるようです。

と、いっても、ある。ということ、そのことは、どういうことなのか意識にとっては、うー、解らない。です。それで、なんとなく相対的に、ない、と対応させたりして、解ったつもりで、なにかが、ある、ない、と思考したりしてるのでしょう。

もともと、ある、ない、の定義がなければ、なにかが、たとえば時間が、空間が、世界が、自分が、ある、ない、と言っても、あんまり意味はないと思います。 そうでなく、ただ、ある、のは実在です。それは説明としてはですが、それ自身に原因があり、ほかとの関係を、とくに必要としないので、なにかに関係することで機能する意識にとっては、対象にできません。知覚できません。その実在を実感するのが、あの体験でもあります。

ところで。この世界のもの、ことは、なにかに関係しあって生起・消滅していると見ると、それ自身に原因がある実在ではありません。それで、世界は・・・現象界と呼ばれたりもしますが・・・意識の対象であり、知覚できることです。

そんな現象、もの、ことは、どんなことも、たとえば走る車、鳴く鳥、意識などは、ある、でも、ない、でも、どちらでもない、でも、どちらでもある、でも、どう言っても誤りです。それを、ある、に偏って見て、そのことで自分を自分で確認したいのが、自我の機能とも言えます。

そんな、ある、ない・・・どう言っても誤りの世界。そこで。ただ、自我は、ない、空っぽ、です。その了解が、自我の役目の完成です。それは、たとえば恨みや妬み、怒り悲しみ、葛藤のない生、知覚からの直接行動が、主な目的ではありません。それは副作用です。それだけなら、馬と鹿、動物です。あくまで、自己を知る。自己を得る。自己になる。それが自我の完成です。

そんな自己「ほんとうの自分」も、意識の対象ではありません。知覚できません。それを自覚したいなら空想になる。その意味では、実在と同様です。と、それでも、一応ですが、ある、ない・・・どう言っても誤りの世界の機構は、ある、に偏りたい、そういう自我の機能だけに偏らずに、機能しています。その有り様が、

>本当の自分って何も思考とか関係なく、直感的にものごとを決めて行動している主体の事なのかなと思いました、どうなんでしょうか?

と、感じられるのかな、と思いました。この世界に生きながら、そのまま世界を越えてる(変な言い方)不可逆。(とくに楽しく豊かな人生を実現しようという意味ではなく)泥沼に咲く蓮の花、(弟子が師を越えるという意味ではなく)藍は青より出でて青より青し、ではないでしょうか。

>えーと最近やっているのは何も考えないと言う事です、じゃない考えが浮かぶけどそれ執着しない、「執着しない」にも執着しない結局そのときそのときの直感で決めるというのをやってます、

もしかして、それは禅の言葉では、「非思量」に関係するかも知れません。検索してみました。言葉が難しすぎますが、

http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%C8%F3%BB%D7%CE%CC

No.1328 - 2009/01/28(Wed) 13:08:15

Re: ちょっと質問 / ubik0101
> 横浜みなとみらい、初めて知りました。
> こういう、夜景にライトアップ系にとても弱いです。ワクワクしてきます。行ってみたいなー


うん。仕事もあるでしょうが、ばんさんが神奈川あたりにでも来たときは、案内します。横浜みなとみらいは、昔、会社が終わった夕方、コンパクトロッドとルアーを持って、スズキ釣りに、週3回ほど電車で通った港です。

No.1329 - 2009/01/28(Wed) 19:56:37

Re: ちょっと質問 / hato

様々な状態を生きて生きて学んで、
そして尚、未知ながらの道を生きるのだと思います。
言葉にすることはなかなか考えさせられます。

未知から外れるとき、人は前提に捉えられ、
前提に捉えられたとき、人はその不思議を離れるのかも知れません。

> こういう、夜景にライトアップ系にとても弱いです。ワクワクしてきます。行ってみたいなー

行ってみたいなー、て
なんか嬉しくなります。

No.1330 - 2009/01/28(Wed) 23:44:16

Re: ちょっと質問 / のり
こんにちは。
自我の正体は世間なのでしょうか?
自我とか心とかマインドという泥沼から蓮の花を咲かせていくのでしょうか?
四向四果とかいう先人の言葉に出会いました。捉われる必要はないのでしょうけど、結構思い当たる部分があります。
ウビさんの自我の生起・消滅の経験。詳しくお聞きしたことがありませんが、私達にも分かるようにご説明願えないでしょうか。経験者はたくさんいるのでしょうけど、私達に簡単に分かるように説明できる人が居りません(イエス様もお釈迦様も)
一辺に3つも4つもごめんなさい。
何か、話しかけたい気がしました。

あの経験以来この“私”が消えて行ってます。

では、

No.1331 - 2009/01/30(Fri) 09:00:55

Re: ちょっと質問 / ubik0101
ばんさん。

>皆さんはどのようにしてに選択を決定していますか?

しばらく、このことについて思い当たることがないかと探っていたのですが。とくに選択は、問題になってないと思いました。たとえば、hatoさんと一緒になることも、長崎に住むか、神奈川に住むか、とくに問題にはなりませんでした。 それで、どうしてそうなのか、と探ってみました。

そうありたいという目標がある有り様だから・・・というわけで、それを肯定したり・否定したりするというわけではなく・・・常に素直で真摯な日常だから・・・そのことが意識されることもない・・・もちろん意識しても問題なしですが・・・のだと思います。

たとえば、ちょっと楽をしたいからという理由でゴミを、そのへんに捨てたりしない。その場にあわせて、思ってもないことを言ったりしない・・・常に自分の行動、発言、思考を、素直に真摯に見てる・・・それは、ほかのこととか自分とのズレ、ブレが生じないので、自分が自分と思う自分が生じないから、と思います。

No.1332 - 2009/01/30(Fri) 12:45:47

Re: ちょっと質問 / ubik0101

のりさん。

こんにちは。どうしてるかな。と、hatoさんも、よく、のりさんを話題にしています。

>自我の正体は世間なのでしょうか?

ない、が自我の正体です。虚構です。それが、ある、振りをしているだけです。その自我の機能を成立させるための機構が、世間、でもあり得てる。と思います。 たぶん、自我の内容は、なんでも構いません。ただの、取り替え可能な負荷なだけです。

>自我とか心とかマインドという泥沼から蓮の花を咲かせていくのでしょうか?

そうだと思います。もともと、ない、自我が、それだけの力を持っているのです。もともと、ない、自我を、なくせ、という禅とか世間の提唱は、とても面白いです。その、ない、が実現されるなら、総てが現前します。

>四向四果とかいう先人の言葉に出会いました。捉われる必要はないのでしょうけど、結構思い当たる部分があります。

それは、はじめて聞いた言葉です。四向四果。検索してみます。

>ウビさんの自我の生起・消滅の経験。詳しくお聞きしたことがありませんが、私達にも分かるようにご説明願えないでしょうか。

たぶん、ものごころがつくと言うことが、人生での自我の生起でしょうが、やはり無明が原因だと思います。自我の完成、または消滅は、なにかを誰かに言われたということでも、棒で打たれたということでも、瞑想したわけでもなく、ただそれは起こった、です。おなじことの繰り返しになると思いますが、出来事としては、ほかの掲示板に投稿したことがあります。ルーさんとの対話です。

・・・・・・・・・・・・・・

62.ubik0101 投稿日:2007/02/26 13:34

>>58

> 前に「歓喜」と仰っていたので、光が差し込んだ感じだったのでしょうか。

それが起きたとき、ふつうに歩いていました。いきなり、その変化の始まりを自覚しました。そして自分が変化しながら、その変化している過程を見ていました。それは意識が、無意識と連続する過程でした。その連続した意識、それが光輝に満ちています。

そして変化が完成したとき、完成したという自覚がありました。もう、すでに歓喜状態にありました。いわば自分の中が明るいのです。そしてなんて輝く世界の美しさでしょう。

でも、それに驚きませんでした。なぜって、総ての感情も燃えていたので、驚く、という一部の感情だけが働いていたわけではないからです。怒りも悲しみも楽しさも。そして同じように相反する思考、たとえば善悪、まあ葛藤が、総べて明るく燃えていました。濃霧の中で生活していたことを知りました。

そして最初に見たのが、自我の仕組みです。とても簡単です。たとえば人が怒ります。それは自分が怒ってると、思っています。でも逆でした。怒るから、自分がある、と思うのです。それは虚構でした。

しかし、その虚構(からっぽ)を見ているのは、自我ではありません。それを自己、と呼ぶしかありませんでした。それまで否定の道を歩いて失ってきた総てが見えました。その自己は愛に満ちています。それは実在からの放射でした。それは人が感じる感じないには無関係に世界に溢れています。

そして自己は、自我の否定でも肯定でもなく、完成が無我です。欲望の否定でも肯定でもなく、完成が無欲です。無知の否定でもなく肯定でもなく、完成が智恵です。そんな状態にありました。無思考ではなく、全思考と言ったほうが正確です。

そんな状態で、そこで良い特質が与えられたのを知りました。それはたとえば偽善者だった人が、完成したら、対立関係のない、ただ善い人になる。逆に言えば、偽善は、善い人になるためにあります。そこでまた。依存関係を見ました。仏陀のいう縁起とは違っていました…あとでヨーガスートラに「勢いよく回転する独楽は、止まって見える」とあるのを見つけました。そうです。止まって見えるように工夫して止まってはなりません。倒れるだけです。とりあえずは、こんなところで。

・・・・・・・・・・・

No.1333 - 2009/01/30(Fri) 13:07:32

Re: ちょっと質問 / のり
うびさん、hatoさん、こんにちは。
 暫く思考と思考の間を追及してみます、と言いましたように研究してました。思考を止めますと、ドンドン自分の範疇が拡がって、輝きみたいなのも感じられ面白い変化が見られます。眼球を止めても、全て光になります。不思議です。

 ウビさん、ちゃんとお仕事してますか。世間は大変です。お仕事しなくちゃだめですよ。 
 ウビさんは阿羅漢かな?四向四果→
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html
 “自我がない”は、ある、ないの定義によりますが、
人は世間から毎日毎日訓練を受け“ありそう”と洗脳されてます。
もの心のつく自我生起の時から、世間は人に意識のベールを降ろし
喜怒哀楽、善悪、損得、勝ち負け、好き嫌い、、全ての価値観を刷り込んでいる気がします。
 ウビさんは歩いていて体験されたのですね。ウビさんの脳漿を搾り出すような深い深い思考はどこか瞑想に似ている気がします。

 お仕事しないとダメですよ(夫婦喧嘩の種になったりして)!ごめんなさい。
閲覧者さん大悟されたのでしょうか。あやかりたいです。

No.1334 - 2009/01/30(Fri) 14:41:21

Re: ちょっと質問 / ubik0101
げっ。じ、実は、思考してないんです。ただ、そうなのを、そうだと見てるだけなんです。

のりさんは凄いって、言ってましたが、そう自分も思いますが・・・図書館閲覧者さんは、うん。そう、だと思います。いろんな体験をしても、その感じる自己も感じる必要もなかった、のだと思います。

そうですね。仕事。これからhatoさんと、道の仲間と、待ち合わせして、カラオケです。

No.1335 - 2009/01/30(Fri) 16:37:12

Re: ちょっと質問 / ばん
>
> げっ。じ、実は、思考してないんです。ただ、そうなのを、そうだと見てるだけなんです。
>
>常に自分の行動、発言、思考を、素直に真摯に見てる・・


とありますが、これって行動、発言、思考を「している」でなくて「見ている」「見ている」って重要ですか、

行動、発言、思考は自分がしているのでないってことですか

行動、発言、思考は起きていることでそれをしている主体がなくてはと言う事で架空の主体である自我があると思い込むと言う事ですか

No.1336 - 2009/01/31(Sat) 12:58:25

Re: ちょっと質問 / ubik0101
>とありますが、これって行動、発言、思考を「している」でなくて「見ている」「見ている」って重要ですか、

と、いうわけではありません。自分の行動が、そのまま自分に感じられます。発言が、そのまま自分に聞こえます。思考が、そのまま自分に知覚されます。・・・それは神秘ですが・・・「している」ことは「見ている」ことです。そんな人は、常に素直で真摯です。

「ただ、そうなのを、そうだと見てるだけなんです。」、ということは、たとえば箱根に行ったら、なんとか湖の海賊船(映像)が知覚されます。そのように、思考するのではなく、そうなのを、そうだと見てる、という意味です。

>行動、発言、思考は自分がしているのでないってことですか

この自分がなんであるかはともかく、この自分がしてることです。とくに主体なく見る。ことを提唱してるのではありません。

>行動、発言、思考は起きていることでそれをしている主体がなくてはと言う事で架空の主体である自我があると思い込むと言う事ですか

たしかに行動、発言、思考は、起きていること、として、それを対象にして、客観視するなら、却って、それを見てる自分が仮定されると思います。

ともかく自我とは。自覚する必要もない自己を、自覚したいということが、自我として現れるのだと思います。つまり、自我は、俺は、ある。俺は、ある。なのですが、それは奇妙にも正しのです。自覚しなくても、自己は、ある、のです。

No.1337 - 2009/01/31(Sat) 14:57:33

Re: ちょっと質問 / ばん
あー頭が混乱しています。考えすぎてしまってます。
> と、いうわけではありません。自分の行動が、そのまま自分に感じられます。発言が、そのまま自分に聞こえます。思考が、そのまま自分に知覚されます。・・・それは神秘ですが・・・「している」ことは「見ている」ことです。そんな人は、常に素直で真摯です。
>
> 「ただ、そうなのを、そうだと見てるだけなんです。」、ということは、たとえば箱根に行ったら、なんとか湖の海賊船(映像)が知覚されます。そのように、思考するのではなく、そうなのを、そうだと見てる、という意味です。

これみんなそうなんじゃないかなーと思えるんですが、たぶん、感覚的に違うことなのかなー
> >行動、発言、思考は自分がしているのでないってことですか
>
> この自分がなんであるかはともかく、この自分がしてることです。とくに主体なく見る。ことを提唱してるのではありません。
>
> >行動、発言、思考は起きていることでそれをしている主体がなくてはと言う事で架空の主体である自我があると思い込むと言う事ですか
>
> たしかに行動、発言、思考は、起きていること、として、それを対象にして、客観視するなら、却って、それを見てる自分が仮定されると思います。

客観的に自分を見ないで、考えないでその場、その場の直感で決めることですか
> ともかく自我とは。自覚する必要もない自己を、自覚したいということが、自我として現れるのだと思います。つまり、自我は、俺は、ある。俺は、ある。なのですが、それは奇妙にも正しのです。自覚しなくても、自己は、ある、のです。

自分が求めているのはどんな事にも動揺しない落ち着きと安心感なんですがそういう風になるにはどうしたらいいのでしょう。

どうも、考えすぎてしまいます。こういう病気なのかな、1つの事が気になって、そのことに執着してしまって、考えないようにしてもなんか気持ち悪くて答えを得たくて、また考えてしまって、考えてどうこうなるものではないのかもしれないです。
あー休憩しまーす。

No.1338 - 2009/01/31(Sat) 16:01:46

Re: ちょっと質問 / ubik0101
そうですね。とりあえず、ほかの人の言ってることは、すっかり忘れたところで。リフレッシュしたところで。なにか思いが現れたら、それを見ていく・・・のがいいように思います。

>客観的に自分を見ないで、考えないでその場、その場の直感で決めることですか

そういう意味での、客観的に見る、ということは、もともと無理があります。まず、客観的に見ない、ということさえ・・・その場の直感で決める、ということさえ・・・意図する必要ありません。ただ自然のまま、で充分です。

>自分が求めているのはどんな事にも動揺しない落ち着きと安心感なんですがそういう風になるにはどうしたらいいのでしょう。

それは、考えたことに引きずられないこと、です。なにか考えたことは、それが消えるまま放置して・・・それさえ意図的に行う必要もなく・・・それで終了です。このような投稿も、見たら忘れる。です。

ことさら考えたことを意図して現実に適応する必要も、現実からなにかを捉えて考える必要も、ない、です。

No.1339 - 2009/01/31(Sat) 20:37:23

Re: ちょっと質問 / hato
> うびさん、hatoさん、こんにちは。
>  暫く思考と思考の間を追及してみます、と言いましたよ>うに研究してました。思考を止めますと、ドンドン自分の>範疇が拡がって、輝きみたいなのも感じられ面白い変化が見られます。眼球を止めても、全て光になります。不思議です。


のりさん、こんにちは。

きのうはカラオケで気持ちよく歌いました。
今日は、母方の祖母の法事でした。
母方の苗字に雪、がつくのですが、
関係もないけれど、ここのところ、
好雪片々別處に落ちず、
を思い出していました。
のりさんと話すときに、なぜか雪がよく出てきます。

No.1340 - 2009/01/31(Sat) 23:28:58

ちょっと休憩 / 大阪
みなさん、こんにちは。

個人的な話ですが、最近東京に引っ越しました。

それで先月うびさんと久しぶりに、hatoさんと初めてお会いして、一昨日はカラオケに行きました。

hatoさんは本当にお上手でした。まるでCDを聴いてるみたいでした。
「翼をください」をリクエストしたら後で、「"翼の折れたANGEL"って誰の曲でしたっけ?」と言われたのが、とても面白かったです。

うびさんには強引にでも、一曲歌ってもらうべきでした。

ということで、そろそろ新規投稿にでもしましょうか。

No.1341 - 2009/02/01(Sun) 13:30:27

Re: ちょっと質問 / hato

> それで先月うびさんと久しぶりに、hatoさんと初めてお会いして、一昨日はカラオケに行きました。

先日は楽しいひとときでした。どうも、ありがとう。
大阪さんはすこし照れながら、とても素直な声で歌って下さって、素敵でした。

> 「翼をください」をリクエストしたら後で、「"翼の折れたANGEL"って誰の曲でしたっけ?」と言われたのが、とても面白かったです。

その人のアルバムを、確かすこし前にubik0101さんが家でかけていて、その後実家でテレビを見ていたら、たまたま「翼の・・」がCMで流れていてふと面白かったので、つい思い出したみたいです。

> うびさんには強引にでも、一曲歌ってもらうべきでした。

どうでしょう、いつか、そのうちに・・(笑)

No.1342 - 2009/02/01(Sun) 21:31:59

Re: ちょっと質問 / のり
ガハハハハ。ウビさんは、人の話し、なんも聞いてないでカラオケ行ってるし!
閲覧者さんにも会われたのですね。
私の場合はカラオケはどんちゃん騒ぎになります。

> そして最初に見たのが、自我の仕組みです。とても簡単です。たとえば人が怒ります。それは自分が怒ってると、思っています。でも逆でした。怒るから、自分がある、と思うのです。それは虚構でした。

なるほど、
感覚は自分の存在をかけて対象を求めて求めて求め続ける。
そして対象が得られると安心し、依存し始める。それは喜びでも怒りでも悲しみでもなんでも良い。感じられる対象があれば良い。
次に、対象がある事が主体を求める、これが何度も繰り返されると自我とか心があると思われる。内側からは感覚、外側からは世間がこれを強化していく。
(ウビさん的には感覚器官でしょうが展開が複雑になりますので感覚と書かせて頂きました)
<我、思う故に、自我在り。>でしょうか。
自我、心で見れば御覧の通り世間はメチャクチャ、何でもありです。
それを空(くう)から見れば、全て自然、道(タオ)の流れ、という事でしょうか。

hatoさん
こんにちは。
え〜、すみません。とてもとてもその風流、博識な世界に届きません。
<>好雪片々別處に落ちず>
私も全さんのように訳分からず、直接聞いてしまいます。それをいきなり叩くなんて!
とても、降る雪にも、暖かい土にも、この宇宙にも成れる悟った人とは思えません。
禅、ってどうしてそんなに難しいのでしょう。
イエス様もお釈迦様も禅もウビさんも、、、、
気づいてもらうまで、内緒なのでしょうか。
そういえば、お口(くち)が×なのでウサ子ちゃんは内緒のシンボルのようです。

すみません、私のコメントはかなり遅くなります。

No.1343 - 2009/02/04(Wed) 18:01:04