のりさん。
>ガハハハハ。ウビさんは、人の話し、なんも聞いてないでカラオケ行ってるし! >閲覧者さんにも会われたのですね。 >私の場合はカラオケはどんちゃん騒ぎになります。
のりさんって、のりのりの、のりさん?って。思ってしまいました。たぶん、きっと大受けするんでしょうが、自分は驚くほどの音痴です。図書館閲覧者さんは、長崎で3回ほど。いろいろ学ばせてもらっています。
>> そして最初に見たのが、自我の仕組みです。とても簡単です。たとえば人が怒ります。それは自分が怒ってると、思っています。でも逆でした。怒るから、自分がある、と思うのです。それは虚構でした。
>なるほど、 >感覚は自分の存在をかけて対象を求めて求めて求め続ける。 >そして対象が得られると安心し、依存し始める。それは喜びでも怒りでも悲しみでもなんでも良い。感じられる対象があれば良い。
そうです。たとえば、数学の方程式のような科学的なことでも、車の運転などの実用的なことでも、感覚でも、感情でも、思考でも、人間関係でも。対象(微妙な言い方)は、なんでもいい、です。そんな自我の機能は、取り替え可能な・・・サッカーでも登山でも水泳でも身体を鍛えられるように・・・人を鍛えるための負荷なだけだからです。そうだからこそ、人はそれから解放され得ます。
そうではなく、 なにか特定の、それしかない、ならば、それから解放されることはないと思われます。また。特定の、それしかない、ならば。そうでないことは、自我ではない・・・たとえば知覚されてる、悩んでる、苦痛を感じる、嫉妬は自我で、そこで知覚されてない、たとえば偽善は、傲慢は、卑下は、散歩は、美しい自然は、あるとあらゆることは、自我ではないということですが、そうではありません。それなら、自我とその解放は選択の問題です。けど。そうではありません。 自我が機能してると思いもしないでも、自我なら、自我です。
ここで。自我にしても、なんにしても、ない、ことを了解するには。すくなくても世界の総てを経験しなければ、ない、ことを見ることは不可能、と考えられます。でも。そんなことをしたら、変化を続ける世界の続く限り迷うことになります。実際は、その人の問題を、なりふりかまわない血と汗と涙の探求をすること、だけです。なにか対象ではなく、なにかを対象にしてる、その人の・・・なにかに依存してる、執着してる、倒錯してる、未熟な・・・有り様が、問題だからです。
続きます。
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No.1345 - 2009/02/05(Thu) 12:34:34
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