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記事No.1345に関するスレッドです

(No Subject) / ubik0101
のりさん。

>ガハハハハ。ウビさんは、人の話し、なんも聞いてないでカラオケ行ってるし!
>閲覧者さんにも会われたのですね。
>私の場合はカラオケはどんちゃん騒ぎになります。


のりさんって、のりのりの、のりさん?って。思ってしまいました。たぶん、きっと大受けするんでしょうが、自分は驚くほどの音痴です。図書館閲覧者さんは、長崎で3回ほど。いろいろ学ばせてもらっています。

>> そして最初に見たのが、自我の仕組みです。とても簡単です。たとえば人が怒ります。それは自分が怒ってると、思っています。でも逆でした。怒るから、自分がある、と思うのです。それは虚構でした。

>なるほど、
>感覚は自分の存在をかけて対象を求めて求めて求め続ける。
>そして対象が得られると安心し、依存し始める。それは喜びでも怒りでも悲しみでもなんでも良い。感じられる対象があれば良い。


そうです。たとえば、数学の方程式のような科学的なことでも、車の運転などの実用的なことでも、感覚でも、感情でも、思考でも、人間関係でも。対象(微妙な言い方)は、なんでもいい、です。そんな自我の機能は、取り替え可能な・・・サッカーでも登山でも水泳でも身体を鍛えられるように・・・人を鍛えるための負荷なだけだからです。そうだからこそ、人はそれから解放され得ます。

そうではなく、 なにか特定の、それしかない、ならば、それから解放されることはないと思われます。また。特定の、それしかない、ならば。そうでないことは、自我ではない・・・たとえば知覚されてる、悩んでる、苦痛を感じる、嫉妬は自我で、そこで知覚されてない、たとえば偽善は、傲慢は、卑下は、散歩は、美しい自然は、あるとあらゆることは、自我ではないということですが、そうではありません。それなら、自我とその解放は選択の問題です。けど。そうではありません。 自我が機能してると思いもしないでも、自我なら、自我です。

ここで。自我にしても、なんにしても、ない、ことを了解するには。すくなくても世界の総てを経験しなければ、ない、ことを見ることは不可能、と考えられます。でも。そんなことをしたら、変化を続ける世界の続く限り迷うことになります。実際は、その人の問題を、なりふりかまわない血と汗と涙の探求をすること、だけです。なにか対象ではなく、なにかを対象にしてる、その人の・・・なにかに依存してる、執着してる、倒錯してる、未熟な・・・有り様が、問題だからです。

続きます。

No.1345 - 2009/02/05(Thu) 12:34:34

Re: / ubik0101
また、世界中を探しても、特定の、なにかとしての、探してる自己は、見つかりません。もし見つかったら、なにか特定のことが自己で、ほかのことは自己ではない、ということになります。そうではありません。また、自分が自分を対象にする、ということになりますが、そうではありません。それでも、それを、そうだと思いこむ、そのことさえ、その人の成長の経緯になり得ます。その経緯にならない世界の有り様など、あり得ないのです。迷いがあれば、解放は、必然です。

そして自我が、ない、を見たら、世界中を探し回ったことと、等価です。それに自我が、ない、その了解は、単なる、執着しない、依存しない、倒錯しない、たとえばスムーズな人間関係を実現するためだけにあるのではありません。どんなことでもない自己。これを、誰にも経験して欲しい、それで、ない、自我を、なくせ、という無理を承知の提唱が行われてきたのだと思います。

そして、どんな経緯でも、自我が、ない、と了解されるなら、たとえば、数学の方程式のような科学的なことでも、車の運転などの実用的なことでも、感覚でも、感情でも、思考でも、人間関係でも。それは自我ではない、です。知らない、未知、です。実際にそうなのですが、心理的思考、過去などの、既知と言われることも、未知、です。

そして、 そうならば、自我の機能は、とくに問題になるというのでもありません。それは、言い方によっては、世界や自分と分離してでも、なにか問題をクローズアップして集中して、その解決にあたる、ということです。たとえば、いわゆる心理的思考とは、ここにないことさえ、あるとして、あれこれ空想の翼を広げて、シュミレーションして、負荷を高める運動です。それに使われるのではなく、それを使う、という言い方もできはします。

続きます。

No.1346 - 2009/02/05(Thu) 12:46:41

Re: / ubik0101
>次に、対象がある事が主体を求める、これが何度も繰り返されると自我とか心があると思われる。内側からは感覚、外側からは世間がこれを強化していく。
>(ウビさん的には感覚器官でしょうが展開が複雑になりますので感覚と書かせて頂きました)
><我、思う故に、自我在り。>でしょうか。


<思う故に、自我在り。>とは、自我が、ない、ことを了解したときに。自我があるなら、そう機能すると、了解されることです。

>自我、心で見れば御覧の通り世間はメチャクチャ、何でもありです。
>それを空(くう)から見れば、全て自然、道(タオ)の流れ、という事でしょうか。


うーん。空とか道とか、を思うことなくても。くり返しますが、迷うなら、解放は必然です。そしてそれは、たとえば世間とかの、特定のことからの解放だけではない、です。

No.1347 - 2009/02/05(Thu) 13:27:44

Re: / のり
<迷いがあれば、いつかは解放は、必然,でしょうか。>
そのいつかが気になります。
何千年も待ちたくなくてできるだけ早く解放されたいでしょう。
この時、その自我が推進力です。自我の中では時間があります。
中庸:今の私には自我のこの世界とアノ空間世界の真ん中が中庸。
両方眺められて、どちらにも両方に居られる状態、それが今感じる中庸です。

最近思う事
もの心がついてから、ずっとず〜っと何かに抵抗してきた気がします。
もう抵抗しなくていいんだよ、安らぎの中に居ていいんだよ、と言われている感じがします。はい、解放と言われますと解放かもしれません。

<既知と言われることも、未知>
これが難解です。知る事が定義できず、未知。知れば固定観念になる。
部分は全体を凌駕できない。 難解です。

No.1348 - 2009/02/05(Thu) 17:52:36

Re: / hato

> 好雪片々別處に落ちず

とても、美しいと思います。
それをただ、思い出していたのです。

> とても、降る雪にも、暖かい土にも、この宇宙にも成れる悟った人とは思えません。

それは、ちょっとほっと、するかな、の感じです。

> 気づいてもらうまで、内緒なのでしょうか。
> そういえば、お口(くち)が×なのでウサ子ちゃんは内緒のシンボルのようです。


禅、てよく知らないのです。
世間のこと、そんなに知りません。

たぶん、とくに隠されていることはないと思います。
いつも人は、自分の状態、その有り様が、ただ問題なのだと思います。

No.1350 - 2009/02/05(Thu) 20:03:14

Re: / のり
> > 好雪片々別處に落ちず
> とても、美しいと思います。
> それをただ、思い出していたのです。>
> > とても、降る雪にも、暖かい土にも、この宇宙にも成れる悟った人とは思えません。
>
> それは、ちょっとほっと、するかな、の感じです。
> 禅、てよく知らないのです。
> 世間のこと、そんなに知りません。


Hatoさん、なんかいいですね!のどかな感じです。
きっとそういう風に変わっているのでしょうね。
私も意識が破裂してから別の風に変わった人です
(ずっと前からかもしれません)。
私が居ないと何にでもなれる気がしました。

全ての苦の原因はたった一つの概念から来る気がしました。
それを子供の時から教育すれば楽なのにな!と思いました。
でも、社会がひっくり返るから内緒なのかな?
やはり導かれる人生を淡々と生きる。
 有様:目に見えるモノ、感覚で感じるモノ、例えば電話ボックス。
見えているけど、その反射光を受け、頭が勝手に距離計算をし、そこにある、と感じさせている。実は全ての風景も同じ、頭の中で勝手に距離計算をし再生しているだけ?全ては自分の中の再生画?
なんて思った時期がありました。

No.1351 - 2009/02/06(Fri) 10:40:58

Re: / ubik0101
><既知と言われることも、未知>
>これが難解です。知る事が定義できず、未知。知れば固定観念になる。
>部分は全体を凌駕できない。 難解です。


なんてことはないです。これは、こうでなくてもいいいのに、こうだ。ということが、不思議、の定義です。これ、とは、青い空も樹も海も魚も、感覚器官も、暑い寒いも甘い辛いも、楽しい悲しいも怒りも、思考も、愛も、実在も。です。そして「知れば固定観念になる」も。ありとあらゆることと、ありとありえないこと、森羅万象。それが、なぜ、そう、なのか?まったく知らないけど、そう、です。

はじめは、この世界を十全に生きるなら、それが未知ということだ。で、説明できると思っていました。また意識には、知る、という機能はなく、ただ、知ると思うことができるだけ。と感じていました。また。人は、知ってると思ってることに依存し、知らないことには、依存できない、と。でも、そういう説明も失って。未知でないことなど、ないのです。 たとえば世界が見える、そのこと、そのまま、それが未知です。 見る主体と、対象に分離してるとしても、それも未知です。

>中庸:今の私には自我のこの世界とアノ空間世界の真ん中が中庸。
>両方眺められて、どちらにも両方に居られる状態、それが今感じる中庸です。


そ、それは凄っ。自分は、たとえば、空(くう)とか、道(タオ)とか、なんにも感じてない、ただの日常です。冬の空気。木漏れ日。呼吸。なにかを始めるとしたら、そこからしか、やりようがありません。この世界しかないとも、ほかの世界があるとも、ないでもないとも、関知してもない。そこ。 または。あらゆる意味を孕んでいるので、なにか特定の意味だけが現象するわけではないから、まったく無意味、未意味な、そこ。で、たとえば思考の生起の様子を探ります。

><迷いがあれば、いつかは解放は、必然,でしょうか。>
>そのいつかが気になります。


もしかして、解放されたら、必然、なのかもしれません。ところで、なにも世界に依存しないといっても、なぜ、空腹になったら、ご飯を食べるのだろう?なんて考えたりです。

No.1352 - 2009/02/06(Fri) 12:49:53

Re: / のり
ごめんなさい。
<それが今感じる中庸です。>
は、今、思う中庸の概念って感じです。
それを得ているわけでは全然ありません。
勝手に思っている定義みたなものです。

No.1353 - 2009/02/06(Fri) 13:40:06

Re: / ubik0101
まあ、自分も、この世界は、解きほぐれつつある実在かな、なんて勝手に思ったりします。
No.1354 - 2009/02/06(Fri) 15:19:04

Re: / hato

> Hatoさん、なんかいいですね!のどかな感じです。
> きっとそういう風に変わっているのでしょうね。
> 私も意識が破裂してから別の風に変わった人です
> (ずっと前からかもしれません)。


人の成長の過程で、それはふと、起きているかもしれません。
その変容。

> 私が居ないと何にでもなれる気がしました。
> 全ての苦の原因はたった一つの概念から来る気がしました。
> それを子供の時から教育すれば楽なのにな!と思いました。
> でも、社会がひっくり返るから内緒なのかな?
> やはり導かれる人生を淡々と生きる。


のりさんは、とても精神性が美しい人なのだと思います。

成長の過程。
ただそのように、なっているようだ、としか、いえません。道すじ、ともいえるかと思います。
その意味で、自分の変化より以前に知識として知らないほうがよいこと、があるのだと思います。

その、なんともいえないところ。
そこ、とか、ここ、といえないことを了解されているところ。
それは、ある、ない、を含みつつ、ともいえずも明らかにそれらを超えており、
言葉で表現することに倦怠、躊躇をおぼえます。
けれども、言葉は方法であることを了解しています。

好雪方々別處に落ちず

そこ、からは、
機能はただ機能として見られており、
生に振り回されても振り回されず、
機能がはたらくことによって、あたかも生起するかの自我は、あろうがなかろうが、
とくに問題にならないかも知れません。

ただここでは、すでにその変化を過ぎていたとしても、
その状態への理解が徹底されている、ことが不可欠であると思います。
そのとき、機能から起きる様相の仕組みを、生きながら学ぶことができるといえます。

生きること。生。

それは人それぞれの経緯によって表現されることであり、
他でもない自分の道のり、その果実。それが大切だと思います。

そして尚、
いつでもどこでも、すべてはただ、起きていると思います。


>  有様:全ては自分の中の再生画?
> なんて思った時期がありました。



世界の仕組みに生きて、人とはなにか。を知る、ということが重要なのだと、思います。
こうして、さまざま学ぶことができます。

ありがとうございます。

No.1356 - 2009/02/07(Sat) 15:58:37

Re: / のり
> 人の成長の過程で、それはふと、起きているかもしれません。> その変容。

そお。ある時、突然、“あれ?何やってるんだろ、俺?
一人で興奮して。。。”です。
>
> のりさんは、とても精神性が美しい人なのだと思います。

ひえ〜、勘弁して下さい。
hatoさんの風流の風で粉々に溶けてしまいそうです。
私は単純、直球一本です。
>
> 成長の過程。
> ただそのように、なっているようだ、としか、いえません。道すじ、ともいえるかと思います。
> その意味で、自分の変化より以前に知識として知らないほうがよいこと、があるのだと思います。

なるほど、でも、もっと単純に解り合えたらいいのに!
>
> その、なんともいえないところ。
> そこ、とか、ここ、といえないことを了解されているところ。> それは、ある、ない、を含みつつ、ともいえずも明らかにそれらを超えており、> 言葉で表現することに倦怠、躊躇をおぼえます。

どうして?倦怠、躊躇?ウビさんなら表現できるんじゃないでしょうか?ウビさんしかできないんじゃないでしょうか?
私が居ないと他人も居ない、部分もないから全体でも表現できない。
明らかにそれらを超えたところのモノ。

>> 機能がはたらくことによって、あたかも生起するかの自我は、あろうがなかろうが、> とくに問題にならないかも知れません。
そう、問題はない。でも他人の問題、世間の問題があるかもしれません。

知るとは、知る主体と対象に分離している事?それも未知?
分離不可能、知る事は不可能?

No.1373 - 2009/02/10(Tue) 09:03:48

Re: / hato

> ひえ〜、勘弁して下さい。
> hatoさんの風流の風で粉々に溶けてしまいそうです。
> 私は単純、直球一本です。


のりさん、こんばんは。

風流てー。あんまり言われたことないから、こちらこそ、こっぱずかしです。
けっこうまだ若いんです。(どなたか笑っちゃ、いけません)
直球一本、かっこいいです。

> なるほど、でも、もっと単純に解り合えたらいいのに!


それは、のりさんの原動力、ではないでしょうか?


> どうして?倦怠、躊躇?ウビさんなら表現できるんじゃないでしょうか?ウビさんしかできないんじゃないでしょうか?
> 私が居ないと他人も居ない、部分もないから全体でも表現できない。
> 明らかにそれらを超えたところのモノ。



のりさんにとって、すでにそのように表現されているわけですから、まったくよいのではないでしょうか。
そこを皆、生きています。
それは、ただ当たり前のこと、なのだと思います。


> そう、問題はない。でも他人の問題、世間の問題があるかもしれません。


皆それぞれ不思議の真っ只中です。
と彼にして恋人にして夫にしてダーリンのubik0101さんが言っているみたいです。
そして尚、世界が問題と感じるなら、
のりさんにとってそれは原動力、なのかな、と思います。

ご存じの通り、
もしその、なんでもないそこ、にとどまるなら、
それが世間、世界にできる最良(という言い方があるとして)の最たるところです。

一方で、人が成長過程での変容を経て、理解を経て始めて語れる言葉があると思います。
言葉は方法です。
その人の表現で、充分によいと思います。
同じことを、人の数だけ違うように表現できることは不思議です。
それはときには、浅い了解、理解、未熟な表現から始まるかも知れません。自分にとってもトレーニングです。
けれど、言葉にする人がいて、それを聞く人がいます。
そんなふうに、思います。

> 知るとは、知る主体と対象に分離している事?それも未知?
> 分離不可能、知る事は不可能?


見ていることはそのまま、知ることでもあります。
そして、その事態のすべてが未知です。

No.1376 - 2009/02/11(Wed) 00:11:09