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記事No.1349に関するスレッドです

自我=自意識かな / ばん
自我って、自意識と同じですか。
なんか自意識で考えるとピンときました。
あの体験で自己は空っぽと感じた。
空っぽで何とも言い表す事できないものなのに、自意識があるような気がする。それは、架空の自分をつくりだしていてそれを元に自意識をつくりだしている。だから、自意識=自我は虚構ですか?

No.1344 - 2009/02/05(Thu) 09:02:22

Re: 自我=自意識かな / ubik0101
ばんさんの、あの体験こそ、たとえば自我を研究するにあたって、ばんさんが参照できる無比の基準です。

>あの体験で自己は空っぽと感じた。

その、からっぽの自分を、自分が、空っぽであると思いもしないで。あまりに当たり前に、ある、ことを前提にしていることにさえ気がつかないでも、それは自我だった。その見られた仕組み、それが自我は虚構、という表現です。

>空っぽで何とも言い表す事できないものなのに、自意識があるような気がする。それは、架空の自分をつくりだしていてそれを元に自意識をつくりだしている。だから、自意識=自我は虚構ですか?

んーと。自意識と言う言葉の意味がわかりませんが・・・

たとえば。ほかの人が、自分を自意識過剰と思ってると思ってる、まさに自分は、そんな自意識過剰。なんにしても、ほかの人という事実に重ねたその他人がする思考を空想して、その思考から自分の有り様を見たり考えたりして、それに依存、倒錯させられるなら、自我が機能してることを現してるのでしょう。

そうでなく。ふつうの自分の日常の意識のことでしょうか。 あるいは、ほかの人ではない、自分、という意味でしょうか。それなら、とくに自我とは思いません。たとえ自我だと思うとしても、この不思議の世界の機能ではないでしょうか。

たとえば空っぽ体験した人も、その経緯が違って当たり前です。それを、どう活用するかも、しないかも、その人に任されてあります。また空っぽ体験、しなかった人と、違って当たり前です。

No.1349 - 2009/02/05(Thu) 17:57:41

Re: 自我=自意識かな / ばん
人と話す時、
1(恥ずかしさを感じる自分)
2(その恥ずかしがっているのを恥ずかしがっちゃだめだと否定している自分)
3(話に夢中で自分がいる感覚がない自分)

1,2,3と自分が感じられるのですが、1のありのままに恥ずかしい認めているのが本当の自分でしょうか、それとも3の様に全く自分を感じられないのが、本当の自分でしょうか?
それとも全然、見当違いのことか、なんだかよくわからなくて、なにを手探りにしていいのかわかりません、

No.1355 - 2009/02/07(Sat) 15:49:50

Re: 自我=自意識かな / ubik0101
うーんと。「自我」と、「ほんとうの自分」それを、おなじ場(フィールド)で、扱ってる。たとえにもならないのですが、海を泳ぐ魚と、空を飛ぶ鳥よりも違うことを、地上で扱ってる。そこに問題がありそうです。

なんと表現するとしても、「自我」と「ほんとうの自分」、そこには飛躍、断絶があります。そのことを日常の意識は理解が困難です。そこで、それを、自分の意識に教える必要があります。それが、学ぶことです。たとえば空っぽ体験は、学ぶことの終わりではなく、始まりです。

それが進んで、たとえば自我や無我は。迷いや悟りは。どーでもいい。区別の必要はない。感情や思考は、ただ現れては消えるだけ。になるのですが、そこを、飛ばして結論を求めてるのかもしれません。

また。ばんさんが・・・ほかの人に聞くのではなく・・・素直に真摯に、つまり正確に・・・こうだ、と了解する、それが絶対なのですが・・・ubik0101なら、こうするかもしれない、という話をします。

まず「ほんとうの自分」は、「空っぽで何とも言い表す事できないもの」なら、それから始めたら、どうでしょう。それって、なんであれ、あれやこれや、として判断・定義・自覚できるなら変ではないでしょうか。

また。1,2,3この、どれもが、ほんとうの自分ではありません。として考えてみます。1,2,3どれもが、ほんとうの自分です。として考えてみます。 さらに喜びは、悲しさは、1,2,3・・・という思考は、どうなんでしょう。

そして。たとえば、恥ずかしさは、喜びは、悲しさは、1,2,3・・・の思考は、自分ならではの、感情、思考なのでしょうか。それとも誰の、というわけでもない、世界の機能なんでしょうか。

また。自我は、自分ならではの機能なんでしょうか。それとも誰の、というわけでもない、世界の機能なんでしょうか。

No.1357 - 2009/02/07(Sat) 23:04:57

一人ごと・・・ / peer
「人と話す時」に限定しているときは
人と自分を比べているように思います。
しかし〜「恥ずかしい」という感情は。
本来、自分の命に値するだけの人生を
自分が生きているかどうか・・・
折角ある命を完全燃焼できているか?

と自問自答して「恥ずかしい」かどうか。
なのではないか、と思うのですが・・・。

No.1358 - 2009/02/07(Sat) 23:52:01

Re: 自我=自意識かな / ばん
本当の自分て、もしかして、無理やり名前をつけると「意識」ですか

あの体験の事をよく思い出してみたのですが、視線恐怖症(人から監視されている感覚)でそれを紛らわす為に本に集中していた、たまたま読んでいたその本の中に思考は自分ではないて書いてあってそのことが頭に残っていて本を読み終わって大爆発して空っぽを感じた。
そのとき視線(感覚)と人に見られているという(思考)に「意識」が自己同一化していたのが瞬間はずれたので空っぽに感じたのかなと思いました。

もしそうだとしたら
でも普段の生活で本当の自分あり続けることなど出来るだろうかという疑問が・・・あと寝てる時、やっぱり違いますか?

No.1377 - 2009/02/11(Wed) 13:56:22

Re: 自我=自意識かな / ubik0101
>本当の自分て、もしかして、無理やり名前をつけると「意識」ですか

ネットで見つけたりしても、飛ばし読みしかしてませんが、意識とか、純粋意識とか、宇宙意識とか、神とか、名前をつける人は、いると思います。また、自分とは世界だ、とか。心とは日月星辰だ。と言う人もいはします。 それで、納得できるなら、それでいいと思います。でも、自分としては、

まず、自己とか、心とかを、なにかとして、言葉としてでも認めて、それを、ほかのことで説明するのなら、それを好みません。て、いうか、関心がありません。て、いうか、奇妙だと思います。というのも、意識とは、純粋意識とは、宇宙意識とは、神とは、世界とは、日月星辰とかは、なんだ?と質問して、それに同義語反復でなく、答えられるのでしょうか。また、なぜ、

そういうことが、そうなってるか、答えられるのでしょうか。そんな意味では、どんな思考も判断も誤りではないでしょうか。それは大切なことではないでしょうか。「ほんとうの自分」 は「ほんとうの自分」ではないでしょうか。そういえば数日前、エーテル体、を検索してて、無相の自己、という表現を見つけました。それは、ともかく、それが、

>たまたま読んでいたその本の中に思考は自分ではないて書いてあってそのことが頭に残っていて本を読み終わって大爆発して空っぽを感じた。
>そのとき視線(感覚)と人に見られているという(思考)に「意識」が自己同一化していたの>が瞬間はずれたので空っぽに感じたのかなと思いました。


という、ばんさんの体験ではないでしょうか。それは自己同一化が外れたのかもしれません。また、「たまたま読んでいたその本の中に思考は自分ではないて書いてあってそのこと」に、同一化したのかもしれません。人が自己同一を問題にするのは、なにかに同一化したくて、また、したくなくて・・・そんな、どっちつかずの運動に巻き込まれてる。そんなことが、問題。ということもあります。そしてそのことが、どうであるかは関係なく、それは、ばんさんに起きたのです。ところで、

>でも普段の生活で本当の自分あり続けることなど出来るだろうかという疑問が・・・あと寝てる時、やっぱり違いますか?

これは、普段の生活の自分と、ほんとうの自分を、区別している。その有り様に問題があります。ただ、その区別が問題にならなくなる。そのためには。この日常を、いつも素直に真摯に、つまり正確に、学ぶことが必要です。この日常が、とても大切なんです。それこそ神秘、真理でもあります。また。あの体験を人為的に起こすことは、無理と思います。わりと自分は、寝てるとき、思考してることがあります。

そういえば、羞恥心。それを自分は、弱さの表現、と認識したことがあるのを思い出しました。

No.1378 - 2009/02/11(Wed) 23:15:06