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記事No.1360に関するスレッドです
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自己
/ ルー
引用
昨日、ふと、いつも思っている「自分」とは違う、もう一周り大きな感じの「自分」を感じました。
その大きい方の自分が、いつもの自分を見ている、という感じでした。
いつもの自分というのは、「この世で動かされている自分」という感じで、それを見ている自分というのは、もっと神様と一体化しているような自分という感じです。
それを、うびさんが「自己」と呼んでいるものかな、と思ったのですが。
No.1359 - 2009/02/08(Sun) 09:01:00
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Re: 自己
/ ubik0101
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うーん。自己って、自覚できないんです。たとえば歩いても座っても、暑さ寒さを感じても、悲しんでも怒っても。思考しても。どんなことをしてもしなくても。そうしてる自己・・・行為してる行為者・・・を自覚できない、ということで安定ではない安定(変な言い方)しています。それが、世界の機能、です。
けど。その人が未熟で、どんなことをしてもしなくても自覚できない自己でないなら、自己を自覚したくて。なにかに拘る、依存する、倒錯する、ことによって。そこには歪み、無理があるので・・・そうしてる、行為してる行為者・・・仮の中心、自我が、自己の代わりに仮定、設定されます。それは自覚され得ます。それを自覚しない、という自我もあり得ます。その意味で、自我は、徹底的に自己の代用をします。それも、世界の機能、です。
それでも、自己を自覚してしまう体験が起こります。それは自我の、ない、ことを了解した、「自己」が、実在(神)から見られるのです。愛、歓喜です。ありとあらゆる感覚や感情や思考の活動状態で、概念ではなく事実として中道なんですが、その体験は、極端な偏りとも言えます。それでも、それは人によって違うと思います。また、その解釈は、その人の経緯に左右されます。
で、ルーさんの感じたことは、一致してるところもあるように思います。また、なにかの投影かもしれません。しかし、それは、なんでもいい。できることはそうしかないと言えばそうなんですが、それを素直に真摯に、つまり正確に理解する。ということだと思います。
No.1360 - 2009/02/08(Sun) 13:19:53
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Re: 自己
/ ルー
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そうなんですか。
私は、特に、どうでもいいのですが。
自分と自分を見る自分が、はっきりと分離しているのを感じたのは初めてだったので、これを自己と呼んでいるのかな?と思ったのですが。
べつに何でもかまいません。
ふと、その時に、うびさんが自己と呼んでいるのを思い出したのです。
そして、その後に、やっぱり、うびさんが自己と呼んでいるものは、もっと自分色のないものではないか、と思って、自分で否定しました。
けれど、やっぱり、自己も自分色があるのではないかと思い直しました。
私が真摯であり素直であるのは、いつものことです。
No.1361 - 2009/02/08(Sun) 14:09:55
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Re: 自己
/ ubik0101
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まあ、あれですよ。思いつくだけですが、エーテル体とか、アストラル体とか、そいうことかな、なんて。peerさんが詳しい感じが、ふと、しました。しました(残響)。
No.1362 - 2009/02/08(Sun) 18:09:32
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Re: 自己
/ ルー
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うへー、そうなんですか。
思いもよりませんでした。
No.1363 - 2009/02/08(Sun) 21:35:49
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Re: 自己
/ ルー
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自分と自分を見る自分がはっきりと分離しているのを感じたと言っても、幽体離脱とは違います。
意識の中でのことです。
体は関係ありません。
大きい方と感じた自分は、あまり「自分」という意識は薄い感じでした。
見られている方の自分は、いつもこの世で生きていろいろと考えをめぐらせている自分という感じでした。
これは。
この大きい方の自分は、自分じゃない、のかも知れません。
しかし、私の意識の中で起きたこと。
No.1364 - 2009/02/09(Mon) 08:50:31
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Re: 自己
/ ルー
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あー、でも、エーテル体とかいうものなのかも知れないなー、とも思います。
うびさんの言う「自己」というものは、もっと違う感じのものですか?
No.1365 - 2009/02/09(Mon) 08:53:12
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Re: 自己
/ ルー
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あ、もう上に説明してありますね。
No.1366 - 2009/02/09(Mon) 09:00:00
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Re: 自己
/ ルー
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そのエーテル体のようなものにも自分色はあるのか?というのが知りたいところです。
うびさんの言う「自己」というものは、「自我は、ない」というのは私は了解していますが、自分色はあるのですか?
人間全員に共通するものであり、自分色はないのか?
自分色がなく、物質としてのエーテルのようにただの物質であるのか、それとも、自分色の入ったそれぞれの人によって違う性質のものであるのか、というのが知りたいところです。
No.1367 - 2009/02/09(Mon) 09:05:11
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Re: 自己
/ ルー
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自我のないことを了解した「自己」を神様に見られることが、愛であり歓喜なのですか。
神様は、自我のある私達のことも愛してくださっているでしょう。
自我にふりまわされる愚かな人間でさえ、神様は愛してくれていると思います。
No.1368 - 2009/02/09(Mon) 09:18:15
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Re: 自己
/ ルー
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ひりくつはさておき。
うびさんは、自分が脱げた時に、愛、歓喜、神の実在を感じたと、そういうことですか。
そういう意味では、私が、この世であれこれと考えをめぐらせている自分が見えたという体験と似通っています。
私の場合、特に、愛とか歓喜とか神の実在を感じたのではなくて、俯瞰?というのですか、「自分というものの小ささ」というか、「この世における自分の輪郭」を感じました。
それは、私がどのようにあろうが、この世にとって大したことではない、という感覚です。
それを手に入れたのです。
うびさんとは、かなり違います。
それは、その体験をする前の状態(愛や自分についての思いなどに関する)が違うからだと思います。
No.1369 - 2009/02/09(Mon) 09:27:34
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Re: 自己
/ ubik0101
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>うびさんの言う「自己」というものは、「自我は、ない」というのは私は了解していますが、自分色はあるのですか?
>人間全員に共通するものであり、自分色はないのか?
まあ、なんですよ。ただの実感ですけど。 とりあえず 人類に共通するのは、物質、感覚器官、感覚、感情、思考・・・つまり人の構成要素・・・世界・・・です。それは増えも減りもしません。また、小さい大きいで計れる、ことではありません。それは誰のこと、ものでもなく、自分色など皆無です。
そして、自己は、その範疇にありません。たとえば「ひとつ」の範囲にはありません。 けど。たとえば世界という「ひとつ」の泥沼から、赤い、白い、青い蓮華の花が咲きます。「ひとつ」のピアノから、モーツアルト、バッハ、モンクが咲きます。でも、それ自身にとっては自己は、とくに比べようがなく、当たり前ですが自分色はありません。
>それは、私がどのようにあろうが、この世にとって大したことではない、という感覚です。
うーんと。すべての人が、世界の有り様を作りかえ続けています。映像は、四十雀です。
No.1370 - 2009/02/09(Mon) 12:10:58
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Re: 自己
/ ルー
引用
誰でも同じなら、自分が生きている意味がないじゃないか、と思うんです。
No.1371 - 2009/02/09(Mon) 18:15:43
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Re: 自己
/ ルー
引用
私なんて死んでもいいじゃないか。
生きていなくてもいいじゃないか、と思うんです。
同じ、ならね。
自分色がない、ならね。
ですから、私は、自分色はあると思うんです。
生きて、自分色を発揮していくべきだと思うんです。
No.1372 - 2009/02/09(Mon) 18:18:41
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Re: 自己
/ ubik0101
引用
なぜか、人には、性別とか、家族とか、年齢とか、国とか、言葉とか、違いがあるように生まれてると思います。それだけで、ほかの人と違うわけで。個性があるといえるのでしょうか。そうだとして、それは、世界には個性がなく、そのことは、総ての可能性が眠ってるから、そういうことが、あり得てるのではないでしょうか。 でなくては、
その人が、また、ほかの人と。なにか、おなじことを好きだったり、嫌いだったり、どっちでもあったり、どっちでもなかったり、無関心だったり、何でもあり得ることはできないのではないでしょうか。そこで人が、なにかをすることによって、たとえば誰かに朝「おはよう」と言うだけでも。また、「おはよう」と言わないだけでも、常に世界を作り変え続けています。 そのように、
たとえばマザーテレサのことは、マザーテレサに任されてるでしょう。ルーさんのことは、ルーさんに任されてるでしょう。ubik0101のことは、ubik0101に任されてるでしょう。なにか才能・適性があるとしても、なかなか思い通りにならないとしても、それで、どうするかも、それぞれに任されてるでしょう。 なにかが、絶対に決まってるわけではありません。 それは、個性とも呼べると思います。 でも、
そういう世界の枠組みというか・・・なんであれ人が、そうできるように世界ができてるから、そうできるだけ・・・これは自分にとっては絶対不自由でしたが・・・なら、個性も、そう。つまり個性などない、と思うことができます。そういうことが嫌だとしても、それも、そう、できるようにできてるから、できるだけです。それで、
まあ、ほかにもあるかもしれませんが、個性が、ある、ない、ということも、まんべんなく見れば、そこから学んでしまえば、問題にならないのではないかと思います。 また 、
それはそれとして。ある人が、とても個性的な人だとして、自分のことを、とても個性的な人だと、思ってもいいのですが、ことさら思う必要はありません。まさに、これ、まさに、これ、なのに。そう思ったら奇妙。という・・・これは知覚の問題ですが・・・自分が自分だと、思っても良いのですが、思う必要はないように、です。
ジャガイモ、マッシュルーム、茄子、人参、豚肉などの、マヨネーズ味噌重ね焼きと、真鱈のムニエル、野菜の塩茹で。彼女にして恋人にして妻にしてハニー。今日の、hatoさんの弁当です。
No.1374 - 2009/02/10(Tue) 11:18:39
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Re: 自己
/ ルー
引用
自己にも、その人の持ち味があるのではないでしょうか。
ということでした。
弁当の写真を載せるのも、とても持ち味が出ていますね。
No.1375 - 2009/02/10(Tue) 16:25:51