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記事No.1411に関するスレッドです

自我の機能 / ubik0101
このごろヒヨドリが1羽、ベランダの向かいの樹の枝で一日中、見張ってて(画像)、メジロや四十雀が近づくたびに、勢いよく飛びかかっては追い払うようになりました。たぶん、ヒヨドリにとっては、エサ台に置いてあるバナナは美味で、それを守ってるのでしょう。

そういえば、ヒヨドリより大きい2羽のキジバトがベランダの手摺に止まったのですが、それさえ追い払ってしまいました。今朝は雨なのに、もう樹の枝に止まって、見張っています。

ところで。なにかを定義するということは、そう定義している、その人の有り様を顕わにするのではないでしょうか。そうだから、ほかの人が、自分と違う言葉で話してても、ほかの人の有り様が、察せられる。理解できる。のではないでしょうか。

とくに、自我が、ない。虚構だということは、なんと呼ぶにしても、自己でなくては見ることはできません。そんな自我から、さまざま学ぶことができると思います。

続きます。

No.1411 - 2009/02/20(Fri) 08:24:26

Re: 自我の機能 / ルー
そうですね。
以前「ルーさんの空っぽ体験」とおっしゃっていたことも、うびさんが思うそれと私の実際とは、ズレがあると思います。うびさんの「自己」と呼んでおられるものも、私にはどうしてもピッタリと重なるものにはあたらないのでしょう。
そのうえで、いろいろと話しているのだと思います。

何にしても、その人のあり方が顕になるというのは、そうだと思います。

No.1412 - 2009/02/20(Fri) 09:45:02

Re: 自我の機能 / ルー
「自我の中身をともなったもの」を自我というのか、「自分と他を分ける機能」だけを自我と呼ぶのか、という問題もあると思います。
うびさんは、「自分と他を分ける機能」のことを自我と呼んでいるのですか?その機能が働くには、中身があってはじめて分けることができるので、機能だけを取り出すのは難しいですが。

そして、また「自我がない」ということについてですが。
非我というのは、自我でないものという意味ですから、自我というものも自我として別に存在するということはあると思います。
「自我がない」というのは、「すべてが自分」であるということ、または、「すべてが自然」として存在しているということのような、「自分と他を区別していない」という意味ですか?
そこで気になるのは、自分に対する愛着はないのか?ということです。

そして、必要なときには、自分と他を区別する機能を取り出してくることもできる、ということですか?
すなわち、自我がない時と、必要なので自我がある時(自我の機能を使う時)とがあるということですか。

私は、「自我がない」のなら、必要なときにも出してくることはできない、と思っていました。
まず、自我がないなら、自我が必要になる場面もないだろうと思っていました。

あれですか、自我の機能はあるが、普段は気にしていない、ということですか。
それを「自我がない」というには、ちょっと違うように思うので、何か特別な状態なのだと思います。

面倒なら、返事しなくていいです。

No.1413 - 2009/02/20(Fri) 10:34:47

Re: 自我の機能 / ubik0101
とりあえず、自我とは、自己の代理、執事です。自己がいない間だけ、その主人の代わりを務めます。それは主人である自己に会ったこともなく、それで自分が主人でないなどとも思いもせず、つまり自分が主人だという当然すぎて疑う必要があるとは思いもしない既得権を前提にして、暮らしています。それは仮の自己という意味での、自我です。と定義することもできます。 自分が自我だとも思っても思っていなくても、自我です。

それは、ふつうに努力したり、怠惰だったりしながら働いたり、ほかの人と仲良くしたり争ったりして、日常生活を送っています。しかしその自我は、倒錯しています。たとえば・・・その自分の・・・感覚や感情や思考に依存・執着して、家や車や地位を望んだり、それから離れて自分を探求・哲学・観察することもあるでしょう。

けど。そのなにか行動、発言、思考することによって、そうしている自分があると感じて。それに埋没して、つまり自分の感覚や感情や思考に迷ってるほど愚かで、そのことにも気がつかない傾向にあります。

と、このように自我を見なすと。たとえば自分の感覚や感情や思考に依存・執着から解放された、倒錯してない、愚かさが叡智に転換された、 自己。それは・・・アートマンとか真我とかと呼べるのかもしれません・・・が意識される傾向にあります。ただこれは、人において、自我と自己に分離、分裂がある場合があります。ならば、その人の総てが自己というわけではありません。それは、その人にとって違和感があります。

ちょっと贅沢な。牡蠣の卵焼き、ゴボウの肉巻き、茹で野菜と、ブリの照り焼き、卵黄の味噌漬け弁当です。

続きます。

No.1414 - 2009/02/20(Fri) 10:44:41

Re: 自我の機能 / ubik0101
>「自我の中身をともなったもの」を自我というのか、「自分と他を分ける機能」だけを自我と呼ぶのか、という問題もあると思います。
>うびさんは、「自分と他を分ける機能」のことを自我と呼んでいるのですか?その機能が働くには、中身があってはじめて分けることができるので、機能だけを取り出すのは難しいですが。


>「自我がない」というのは、「すべてが自分」であるということ、または、「すべてが自然」として存在しているということのような、「自分と他を区別していない」という意味ですか?

たとえば。自我の中身は、ない、です。ないのに、ある、として機能する機構・・・たとえば中心が真空の空気の渦巻き、超強力な台風のような・・・それを、自我、と呼びます。と言う場合。 私、僕、俺、という日常の自分は、ある、でも、ない、でも、どちらでもある、どちらでもない、どう言っても誤りです。違うかも知れませんが仏教では、空(くう)と呼ばれてる有り様と思います。

まあ自分は「自分と他を分ける機能」を自我、と呼ぶのではありません。そういうことを自我と呼ぶのならば、自分と他を分けない、多様にして一つの世界、を前提にしてるのでしょう。そんな場合は、たとえば絶対平等と、絶対差別。どっちもあって、どっちにも偏らない。というように自分に納得させる経緯が必要なようです。

そういう空とか、一つの世界。ということは、ただ人の成長の辿る道、経緯と思います。事実、現実がそうなのかは、疑問というか、どうでもいいです。そのようにも、どのようにも意味を汲み取れる・・・あらゆる意味を孕んで、無意味、未意味。この世界。そこに思考、意味が生じる仕組み、に興味があります。

>そこで気になるのは、自分に対する愛着はないのか?ということです。

ふつうに。愛着がある。の否定にも、肯定にも。愛着がない。の否定にも、肯定にも。偏ることはありません。なので。たとえば失われそうになったら、愛着が生じるのです。たとえば失われそうでもないのに愛着が生じる。失われそうなのに愛着が生じない。なら、なにかの病気です。また、愛着が生じても、生じなくても、そのことに愛着はできません。

>そして、必要なときには、自分と他を区別する機能を取り出してくることもできる、ということですか?

たとえばルーさんとubik0101は、話すことができます。ということは、そう考える前に、区別されてるのではないでしょうか。完全な融合と分離。どちらの場合も、話すこともできないのではないでしょうか。

この世界には、完全な融合と分離。どちらもないのではないでしょうか。なのに、それを望むことが、執着・依存と解することもできます。

>すなわち、自我がない時と、必要なので自我がある時(自我の機能を使う時)とがあるということですか。

>私は、「自我がない」のなら、必要なときにも出してくることはできない、と思っていました。
>まず、自我がないなら、自我が必要になる場面もないだろうと思っていました。


>あれですか、自我の機能はあるが、普段は気にしていない、ということですか。

なにかを思考する、探求するなら、自我の機能を使うんです。人としての機能が失われることが成長ではありません。その機能は、世界の機能です。

No.1415 - 2009/02/20(Fri) 12:58:12

Re: 自我の機能 / ルー
愛着があるか、ないか、ということに執着していないということですが、「自我がない」ということには執着しているのですか?
No.1419 - 2009/02/20(Fri) 18:04:21

Re: 自我の機能 / ルー
> >そして、必要なときには、自分と他を区別する機能を取り出してくることもできる、ということですか?
>
> たとえばルーさんとubik0101は、話すことができます。ということは、そう考える前に、区別されてるのではないでしょうか。完全な融合と分離。どちらの場合も、話すこともできないのではないでしょうか。
>
> この世界には、完全な融合と分離。どちらもないのではないでしょうか。なのに、それを望むことが、執着・依存と解することもできます。


私の質問は、「自我はない」「なにかを思考する、探求するなら、自我の機能を使うんです」といううびさんの言葉から導き出した質問です。
完全な融合と分離の話ではありません。
そんなものを望んでいるのではありません。
普通に考えて、そのような質問が出てきただけのことです。
執着とか依存の問題ではありません。
普段から、自他は区別されている、というわけですね。
自我はないが、普段から、自他の区別は、されている、と。

うびさんの答えは、私の質問の的をえていません。
私の説明が悪いのでしょう。
もういいです。
新しい話をしているのですが、うびさんからは今までの話以上には出てきそうにないので。

No.1420 - 2009/02/20(Fri) 18:15:07

Re: 自我の機能 / ルー
> なにかを思考する、探求するなら、自我の機能を使うんです。人としての機能が失われることが成長ではありません。その機能は、世界の機能です。

その時に使う「自我の機能」って何ですか?
自我の中身は「ない」そうですが。

No.1421 - 2009/02/20(Fri) 18:25:00

Re: 自我の機能 / ルー
> まあ自分は「自分と他を分ける機能」を自我、と呼ぶのではありません。そういうことを自我と呼ぶのならば、自分と他を分けない、多様にして一つの世界、を前提にしてるのでしょう。そんな場合は、たとえば絶対平等と、絶対差別。どっちもあって、どっちにも偏らない。というように自分に納得させる経緯が必要なようです。

絶対平等、絶対差別って何ですか?
どっちもあって、どっちにも偏らないというように自分に納得させるのは、どうしてですか?

No.1422 - 2009/02/20(Fri) 18:30:27

Re: 自我の機能 / ルー
総合すると、「自我がない」というのは、「自我は空である」ということですか?

自我は空であるとして、何かを思考する探求する時には自我の機能を使うというのは、どういうことでしょう。

その時の自我の機能って何でしょうか。

No.1423 - 2009/02/20(Fri) 18:38:58

Re: 自我の機能 / ルー
> >そこで気になるのは、自分に対する愛着はないのか?ということです。
>
> ふつうに。愛着がある。の否定にも、肯定にも。愛着がない。の否定にも、肯定にも。偏ることはありません。なので。たとえば失われそうになったら、愛着が生じるのです。たとえば失われそうでもないのに愛着が生じる。失われそうなのに愛着が生じない。なら、なにかの病気です。また、愛着が生じても、生じなくても、そのことに愛着はできません。


「ふつうに。」というのは?
ふつうに、自分に対する愛着はあるということですか?

No.1424 - 2009/02/20(Fri) 18:42:08

Re: 自我の機能 / ubik0101
>愛着があるか、ないか、ということに執着していないということですが、「自我がない」ということには執着しているのですか?

それは、 「自我がない」ことを了解した、自己、を体験した人に起こりえることです。自己と、そうでないこと、たとえば自我の区別に捕らわれた状態です。「自我がない」に支配されてるとも言えます。

もう自分には、自我と自己の区別はできません。けど、なくなることは、なにもありません。「自我がない」を扱うことができます。「自我がない」に扱われる、支配される。つまり執着しているのではありません。

>その時に使う「自我の機能」って何ですか?
>自我の中身は「ない」そうですが。


たとえば、なにかを理解したいとき、それに集中して、ほかのことは度外視して、思考することです。自我の機能に扱われる、振り回される、使われる。のではなく、使う、ということです。

>絶対平等、絶対差別って何ですか?

まず、「絶対平等」で、グーグル検索すれば、たくさんでてきます。

>どっちもあって、どっちにも偏らないというように自分に納得させるのは、どうしてですか?

たとえば、総ては「ひとつ」という世界を前提にすると。ほかの人と自分が違う、という当たり前のことに整合性がとれません。そのために、絶対平等、絶対差別という両方の世界観を必要にするのだと睨んだり踏んだりしています。

>総合すると、「自我がない」というのは、「自我は空である」ということですか?

いえ。伝統的な考えでは。なにか、ほかのことが原因になって、とあるもの、ことは起こります。たとえば子供は親から生まれる。人が風邪に罹ったのは、ほかの人から移った、ウイルスが原因。つまり、とあるものごとは、どんなことでも、たとえば親、子供、風邪、ウイルスとかは、それ自身が原因で、そのようにあるわけではない。そのことを空と呼びます。

ほかの言い方では、自性がない・・・これも「自性」をグーグル検索すれば、たくさんでてきます・・・ということです。くり返します。そのようなもの、ことは、ある、と言っても。ないと言っても・・・どう言っても総て誤りです。けど。「自我がない」というのは、ただ、ない、という意味です。

>「ふつうに。」というのは?

この、日常のことです。

>ふつうに、自分に対する愛着はあるということですか?

そいうことは、自我と自己と、区別する必要がなくなったら、愛着があるとかないとかに、依存しなくなります。あっても無問題、なくても無問題です。

その前に、そうでない経緯の人もいるでしょうが。自己、自分自身を知る。ことが先決です。でないと、執着があるとかないとかの観念・概念・思考を扱うことになります。もう読んでるでしょうが、図書館閲覧者さんのブログに、適切な引用があります。

http://tosyoetu.blog18.fc2.com/blog-entry-162.html

No.1425 - 2009/02/20(Fri) 23:23:18

Re: 自我の機能 / ルー
> >「ふつうに。」というのは?
>
> この、日常のことです。


ですから、この日常がどうなのかを聞いているのです。
「自我がない」日常が、どんなふうであるのかを聞いているのです。

> >ふつうに、自分に対する愛着はあるということですか?
>
> そいうことは、自我と自己と、区別する必要がなくなったら、愛着があるとかないとかに、依存しなくなります。あっても無問題、なくても無問題です。


無問題かどうかを聞いているのではありません。
「自我がない日常」が、自分に対する愛着は生じていないのかを聞いているのです。

質問は終わります。

No.1427 - 2009/02/21(Sat) 09:15:32

Re: 自我の機能 / ルー
無問題か、無問題でないか、というところに帰着するのでは、その間の微妙なやりとりができません。
質問者には、聞きたいことがあるのです。
それに率直に答えてもらえないと、少しずつの歩みができません。相手の言っていることを理解するために歩みです。
それを、答える側が、「無問題です」というところに結論づけると、その間の会話ができなくなります。
無問題かどうかは、問われていることに答えてから、質問者が理解の糸口を掴んでから、「それは問題なのかどうか」という問いが生じた時に話せばいいことではないですか。

「それは、無問題です」というのが答えでは、横着すぎると思います。

普通ということは、普通に自分に対する愛着を感じたり、そうではない感情を感じたりしているのだなと解釈します。
それを「自我がない」というのは、何だろうかと思いますが、もう問うのはやめます。

ありがとうございました。

No.1428 - 2009/02/21(Sat) 09:23:08