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記事No.1757に関するスレッドです

風の知覚 / hato
>え〜と。
>いまごろ感想ですが。
>一緒に伊豆に旅をした気分になりました。


>なんだか潮のかおりまで・・・。します。

>それと「すべての声、皆が自分でもある、ことをとても。>>わかります。」の言葉が。
>いまごろ、、しみじみと。しみじみと。



嬉しいですね、とても。

この小さな部屋の小さな窓辺には
旅で出会った海女さんたちが、
夜光貝で作ったという風鈴が、
風に揺られ、カラコロン・・
優しい音を奏でています。


山は山。
海は海。

風は風。

そこに誰も、いず。

人は、人に、なり。

そして、尚。

そんなふうに、思います。

No.1757 - 2009/06/29(Mon) 21:32:39

Re: 風の知覚 / ubik0101
たとえば。ある人が、ほかの人を好きでも嫌いでも無関心でも。なにか判断するとしても。その判断基準が自覚されても、されなくても。その、ある人の中の、ほかの人で、つまり現実の、ほかの人を見てると思いながらも、空想の、ほかの人で。空想の現実を生きてるって、こともありそうです。

そのように空想と現実が差があると、ほかの人との衝突が起こって・・・もちろん融和も起きるのですが・・・たとえば、現実の、ほかの人のためになるには?、とか考える機会をもたらしてくれます。そしてまた、衝突も融和も起こらないから現実に生きてる、と思いながらも、空想の現実を生きてるってこともありそうです。

まずは、ほかの人にしても世界にしても。自分の外と思っていたけど、それは実は、中でしかなかった。という経緯がありそうです。で、結局は、総てが、自分の中でもない、外でもない、のではないでしょうか。 どちらかでしかないなら、なにも起こらないかもしれません。

どっちでもないから・・・完全な分離も、完全な融和もないから・・・どっちでもあり得て・・・そこに両極端が仮定され、振幅が生じ、いろんな運動が起きるのではないでしょうか。

それで、そこのところに起こる、ほかの人との衝突や融和を、いくら研究しても、人が自己を知ることには無関係に思えます。でも、そのような無関係なこととして、変調された概念として、なにかを理解する。という形式。それならそれで、そのようだということは、その人に理解される、と思います。

No.1758 - 2009/06/29(Mon) 21:34:40

Re: 風の知覚 / peer
まあ。それにしても。
何かを言う。すると抵抗がある。
それでは、こういうのは・・・と言い直すと
そこにもまた抵抗がある。
なんなら、こういうのも・・・と表現してみる
すると、またまた抵抗がある。

なんとも、面白い。
相手がテーマを与えてくれるので、私の中から
いままで形になっていなかったモノが形を成す。
書いていながら「なるほど、そうなのか」と
自分で、出てきた、その形を見てビックリ〜とか。

そんなこんなを繰り返していました。
在庫一掃大処分〜みたいな。

No.1759 - 2009/06/29(Mon) 23:55:10

Re: 風の知覚 / ルー
> それで、そこのところに起こる、ほかの人との衝突や融和を、いくら研究しても、人が自己を知ることには無関係に思えます。でも、そのような無関係なこととして、変調された概念として、なにかを理解する。という形式。それならそれで、そのようだということは、その人に理解される、と思います。

そうですね。
「変調された概念」ね。
それを、変調された概念だとは本人は気付かないわけでしょ。
自分にとっては、事実だと言うわけでしょう。
ま、「そういう人もいるんだなぁ〜」という感じです。

No.1760 - 2009/06/30(Tue) 09:05:38

Re: 風の知覚 / peer
ある部分で、この人は変調していると感じるとき
対に居る自分は正調だという基準を持ちます。

しかし、どうでしょうね。
何かが変調している。と本当に自分は正調なのか。
逆もありうる。。。
ただ、ある動きの中に、その形と見たものがある。
形が生まれる時は、部分になりますから、全体を
観ているワケではない。「これを見た」に入らない
除かれた部分の方が、大きい。ので、
それをどう、また観るか。
大きな大きな自分の視野に入らないモノを。

No.1761 - 2009/06/30(Tue) 09:54:28

Re: 風の知覚 / ubik0101
たしかに。意識としては自覚してないけど理解している、そういうことが、とくに掲示板での対話に引っ張られて顕れることがあります。

また。たとえば怒ったり平穏だったり満足や不満を感じたりしたら、このようにある自分を、このようにあると、そのまま認める。それまで自我から、さんざん学んだことが蓄積されてて、そこで役に立ちます。

たとえば、

>ある部分で、この人は変調していると感じるとき
>対に居る自分は正調だという基準を持ちます。


として、自我の機能を意識できる、こともあります。けど。これが、それしかない、とは限りません。たとえば自我は、ほかの人が憎いとか好ましいとか、分離、対立とか、比較とか、自己を知りたい衝動とか、さまざまな様式であらわれます。

その様式が無線放送の搬送波のように働いて、それに自我が乗って顕れる・・・その様式そのものは、とくに自我の機能ではありません。たとえば、赤は、危険も意味するし、活力も意味しますが、赤は、ただ赤です。(でなくて、たとえば技術的思考が、いわゆる心理的思考になり得るでしょう)。そのようにして意識化される方法そのことを、変調、と呼んでいます。

それで前回の投稿、言いたかったのは、中道。それは、とある対立、両極端とかがあって、その中間などではなく、ありとあらゆることが自覚されても、されないでも、機能してる、ということでした。

No.1762 - 2009/06/30(Tue) 16:03:44

Re: 風の知覚 / peer
>それで前回の投稿、言いたかったのは、中道。それは、とある対立、両極端とかがあって、その中間などではなく、ありとあらゆることが自覚されても、されないでも、機能してる、ということでした。


はい。実際は、外も内もないワケで・・・
ひとつのものを分けて認識しようとしているだけ。ですから。
しかし、外と内があると思い込んでいる人たちに対して
どのように関わるか。実際は、ソコが〜難しくもあり。
とかなんとか。

No.1763 - 2009/07/01(Wed) 00:42:23

Re: 風の知覚 / ubik0101
そこで・・・変と言うか、当たり前と言うか・・・外や中があっても、分離や対立や比較があっても、それも世界の・・・神秘な・・・活動と見ます。おなじように自我も無我も、あってもなくても、なんでも無問題です。

さんざん自我から学んだことが無自覚の叡智として活動している、悲しんだり怒ったり楽しんだり静寂だったりの日常を、そのまま認める、ことで安穏(変な言い方)です。その説明ですが、どうあっても総活動してる世界。つまり中道から外れようがない、です。

でも偏りに執着したい自我は、したいことを何でもしていいのでしょうか?と問うかもしれません。ここは。なんども引用します。「心の欲するところに従って矩を越えず」。「悪いことをしてはいけない。良いことをしよう」。この匂い立つような美しさが世界に満ちています。

>とかなんとか。

それは、その人に世界との、また自分との分離があるということもあるのでしょう。けど。愛がないのに愛があると、自由がないのに自由があると、幸福がないのに幸福があると。思ってることにもあるでしょう。それなのに、その愛、自由、幸福から始めることが問題であり、倒錯、ではないでしょうか。

No.1764 - 2009/07/01(Wed) 14:18:51

Re: 風の知覚 / peer
>でも偏りに執着したい自我は、したいことを何でもしていいのでしょうか?と問うかもしれません。
>ここは。なんども引用します。「心の欲するところに従って矩を越えず」。
>「悪いことをしてはいけない。良いことをしよう」。この匂い立つような美しさが世界に満ちています。
>それなのに、その愛、自由、幸福から始めることが問題であり、倒錯、ではないでしょうか。


悪いことも良いことも分からない。愛も自由も幸福も知らない。
とすれば、良いと思って、愛と思って、自由だと思って、幸福だと思って、関わってみるしかないのかも知れません。
良いことを与えたら良いことが返ってくるし、愛にも愛が、自由にも自由が、幸福にも幸福が返る。

与えたものは、返ってきたもの。なのでしょう。
それは、自分で分かるんじゃないでしょうか。自分が何を与えたのかが。

人は「悪いことをしないでおこう、良いことをしよう」と思っても、そのようにいかない。
愛を自由を幸福を、と思っても、そこに至らない。。。という至らない自分を意識する、逃げない。そこから始めよう。
ということではないでしょうか。最初から、それが出来るというなら、倒錯です。

No.1765 - 2009/07/01(Wed) 23:59:23

Re: 風の知覚 / ubik0101
>与えたものは、返ってきたもの。なのでしょう。
>それは、自分で分かるんじゃないでしょうか。自分が何を与えたのかが。


それ、たとえば愛は、世界の事象の範疇を超えています。なので、そいう原因と結果ではないでしょう。というより、どんな原因と結果であれ・・・「与えたものは、返ってきたもの」という順当な結果であれ、その逆の結果であれ、とくに関係が見出されなくても・・・それ、は愛の現れようとしてること、ではないでしょうか。

たとえば意地悪が、かえって、ほかの人の役に立った。たとえば、親切が、かえって仇になった。まったく水泡に帰した・・・なんでもありです。それで、この世界は、混乱、無意味、と見えても・・・この、なんでもあり・・・ここに人が愛を得る、自己になる、働きがあるので・・・でなければ矯正、強制です・・・なんでもありでなくては、その働きは不可能で、そのように、この世界が、あまりによく出来てるので、それに魅惑されるということもあります。

>人は「悪いことをしないでおこう、良いことをしよう」と思っても、そのようにいかない。
>愛を自由を幸福を、と思っても、そこに至らない。。。という至らない自分を意識する、逃げない。そこから始めよう。
>ということではないでしょうか。最初から、それが出来るというなら、倒錯です。


たしかに。そうです。これは自己についても同様です。説明ですが、もし人が、自己を知らないことを知らないから、知らないわけではない・・・つまり知ってる・・・という暗黙の誤った了解で日常を暮らしてるなら、そのようなことです。

この暗黙の理論的には正しくも思える誤りの隙間に。傲慢とか、自我が忍び込むのでしょう。そしてそれが、素直さとか、自己の、それがないこと、として機能するので。人は、それをあらしめようと、あがく、もがく、ことができるのではないでしょうか。

そして、たとえば愛から始めよう。ということは、それを得た、それを見た、それを知った(なんであれ変な言い方)人は、たとえば心理的思考、葛藤からではなく、愛から始めよう。という意味です。

No.1766 - 2009/07/02(Thu) 10:30:01