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記事No.1861に関するスレッドです

素直に教えてください。 / のり
ウビさんの前の投稿:
ubik0101
<また、なにかの体験は起こることで、それを理解するのは、やはり努力が必要で。そうして自分の意識に教えて体験の印象を失って、その体験で見たことが、ごく当たり前のことになるのだと思います。>

どのように努力するのでしょうか。どのように意識に教えるのでしょうか。体験で見たことが、ごく当たり前になるとは、どのような感じなのでしょうか。

目を開けたまま瞑想ができるのですね。初めて知りました。この時、確かに目は節穴ですね。でも全体に溶け込んで、気を失いそうになります。仕事中は無理かな?
 “山高ければ谷深し”で“全体が自分”から外れ、ちょっとでも片寄ると鬼のような苦が来ます。

No.1850 - 2009/07/29(Wed) 10:22:31

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
その体験は起こります。感覚、感情、思考の総てが・・・あることと、類似のこと、反対のこと、無関係のことが・・・総活動状態になります。それはどれか、どこか部分的なこと、たとえば怒りとか、喜びとか、平穏とか、善とか、悪とか、好きとか、嫌いとか、個別なことが活動してるわけではありません。

それゆえ、どこにも偏れない・・・あることと、ほかのこととの中間とかではなく・・・活動してる中道とも呼べる状態です。 ちょっとでも、なにかに偏ると、そこから離れる、ということも自覚できます。

そして、徐々に日常の意識に戻っていきます。それも自覚されます。それで自分が、その日常の意識だというだけで苦痛になります。仏教で、総ては苦、と言われるようですが・・・愛しい人と離れる苦、憎い人と会う苦、とか説明されていますが・・・それはもちろん偏り状態、日常意識のことで・・・このことと睨んでいます。なにかを、したりしなかったりの、日常というだけで苦痛です。

続きます。

No.1851 - 2009/07/29(Wed) 12:16:34

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
それは、どこかに・・・おそらく胸に・・・その体験の残り火が燃えてるからです。どうしても、それ、と日常意識との比較が起こります。それ、を対象にしてる自分は、それ、でない、ということが苦痛です。

それの解決法ですが、ひとつには。どうしようもなく湧き上がるのですが・・・ほかの人に、そのような体験をして欲しい、と言えば言い過ぎですが・・・つまりは自我ではなく、自己を知って欲しい・・・ことを、実行することです。それをしないことが、やはり苦痛の大きな原因でもあります。

それでも、できることは、人に、それが起こることだ。みな人は、それに向かうのが必然なんだ・・・諦めてはならない・・・というのも言い過ぎですが・・・ということを、知ってもらう、ということしかできないかもしれません。それだけで充分とも言えます。 知りたくない人には、ふつうに社会生活以外に、関わる必要はありません。

続きます。

No.1853 - 2009/07/29(Wed) 13:01:44

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
も、ひとつには、その体験を理解するということです。それは総活動状態なので、日常意識にとって、情報量に換算できるとして、莫大です。とはいえ、その人の、その体験に至る経緯が反映されています。

とりあえずは、その自分なりの理解をするだけでいいです。それを読み解くことは、実は、日常意識にしかできない、と踏んでいます。苦痛こそ、その理解の原動力です。また理解してないゆえに、残り火が、苦痛としてあります。

>どのように努力するのでしょうか。どのように意識に教えるのでしょうか。体験で見たことが、ごく当たり前になるとは、どのような感じなのでしょうか。

ほかの人の表現とか経緯は、度外視、でいいです。 まず、その体験で見たこと、自我の仕組みを、そのまま言葉で、表現しました。たとえば、自分が何かを考えるのではなく、なにかを考えることによって・・・予め・・・その自分が虚構として設定されるだけです。と。

続きます。

No.1854 - 2009/07/29(Wed) 13:59:45

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
そして、それが自覚できないのは、人は、自分で見ようとしてない努力をしてるからです。自分でその仕組みをつくって、自分で隠して、自分で気がつかないようにしてる。と言葉で表現しました。

さらに。立ち位置が違うと、自我とは、なんであれ世界が人にしてあげてるのに、人がそれを自分でしてると思い違うこと。などとか見えたりもします。

さまざまな立ち位置、そこに実際に行って、見える限り見ます。もし、自分の経緯だけでも、見つくすなら、それらの関係も見え、どの部分的な立ち位置にも、拘る、拠り所を持つ、必要がなくなります。

また。たとえば、意識として、自我が、ない、ことを学ぶと、それを見る中心。ここで言う、残響のような自我が発生します。 無我を張ります。執着しない、に執着します。

そうする必要があるというのは。どのように人が、思考しても、しないでも、総活動してる世界を、狭い範囲でしか機能しない、意識で確認したいから・・・そこで世界を見ます。執着しないに、執着できません。世界を見ます・・・ま、見なくてもですが・・・すると、そんなことも必要なくなります。

>目を開けたまま瞑想ができるのですね。初めて知りました。この時、確かに目は節穴ですね。でも全体に溶け込んで、気を失いそうになります。仕事中は無理かな?

やはり、のりさんは、瞑想の達人かもしれません。ふつうに自分は、野鳥を聞く。世界を見ます。それは、なにかを、そう思考してないでも、自分が、あるも、ないも総ての意味を、無意味をも、孕んで無意味、です。

それは人が、そう認識しないでも、総活動しています。ただ自分がそれを見てることを除いてと言うか、含んで、ほとんど世界は、その体験状態、にあります。それは、偏っても、偏れない。 中道。ただ、そんな世界を見ます。その自分の有り様を見ます。そこから学びます。でも、たしかに料理したり誰かといる時には、そうではないです。

No.1855 - 2009/07/29(Wed) 15:38:20

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
そいえば。「体験で見たことが、ごく当たり前になるとは、どのような感じなのでしょうか。」そうですね。それを自覚(思考)してないでも、自覚(思考)しても、それはそのように、機能してる。という感じです。
No.1856 - 2009/07/29(Wed) 15:58:08

Re: 素直に教えてください。 / のり
> そいえば。「体験で見たことが、ごく当たり前になるとは、どのような感じなのでしょうか。」そうですね。それを自覚(思考)してないでも、自覚(思考)しても、それはそのように、機能してる。という感じです。

先ずは、
なるほど、自覚(思考)してないでも、あの体験が機能している。という事ですね。自分的には“全部が自分”の感覚が機能している、ということ。

No.1857 - 2009/07/29(Wed) 16:33:23

Re: 素直に教えてください。 / のり
ご丁寧なお返事ありがとうございます。
<苦>
> それは、どこかに・・・おそらく胸に・・・その体験の残り火が燃えてるからです。どうしても、それ、と日常意識との比較が起こります。それ、を対象にしてる自分は、それ、でない、ということが苦痛です。
 確かに日常の意識と比較しているのでしょう。自分的には“全部が自分”の感覚も結構、長続きするようになってきましたがチョッと日常意識に夢中になるだけで、
昔だったら何でも無いほんの些細な事が“おそらく胸に”突き刺さり、血の涙が出る思いをします。“それ、でない”事が苦痛です。すぐに鬼の苦痛をもたらします。

No.1858 - 2009/07/29(Wed) 17:00:43

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
まあ、自分の場合は、ですけど。その体験で見たことを理解するのに。とりあえず4、5年かかりました。それが超古代の日記です。それでも実は、ザルで水を掬うみたいに、なにも残ることはなかったんです。

そのままだと、ああ、そいう体験もあったけど。という感じで、その状態でない自分に罪悪感を持ちながら、なんだか物足りない人生を送って、それだけだったでしょう。

それで、どうも納得できないので、見たことを、さらに見直したんです。詩や散文で表現したりもしました。それにも何年もかかりました。怠惰ではありましたが、その点だけは、かなりの努力しました。

ああだこうだ。これは、こういう仕組みになってる。と見ることは、簡単といえば、簡単です。でも、なぜ、それがそうなってるか?それは問うたびに、知らない、ことに気がつきます。そのことが、却って、見たことを明確にしたのかもしれません。本性が愚かな意識に教えるということは、けっこう大変です。けど、素直、つまり真摯で正確であれば、大丈夫です。

そうしてるうちに、自覚してないでも、実は、それが機能してる。意識から失われても、なくなるものは、なにもない。とか。たとえば自己は意識の範疇にないことを、明確にする。それを意識で理解しようとすることも自我の機能。とかに気がついたりしたんだと思います。

ところで。とくに、その原因がなくて、胸が苦痛のこともあります。経済的、社会的に逆境であっても、まったく平穏に安らぐこともあります。そいうことの、あるなしは、絶対の基準にはならないようにも思います。

No.1860 - 2009/07/29(Wed) 23:03:25

Re: 素直に教えてください。 / hato
こんばんは。お久しぶりです。
ubik0101さんに促されて飛び入りしました。気にさわったら、ごめんなさい。

のりさんがもし、それについて書くとしたなら、思考、感覚、感情、、ではないところ、、なんとも言えない、それ、から言葉は起きてくるように思います。その作業のそこでやっと、意識は、自分が既に了解していることを、正確に学び、理解することができます。言葉にして書き出すことで、意識は学ぶことができます。

ここで、なぜその体験、全ては自分、に拘るのか、というところかも知れません。なんとも言えないそれ、自己、を「知ってる、想定している、何か素晴らしい状態」に依って表現しようとすることによって。または、知ってる何かとして表現しなければという誤解から、無理が生じるのかも、知れません。知ってる、ことは意識の範疇にあるように思われます。ご存じの通り、それ、は、ただ意識の範疇、にありません。

それは、なんでもない故に、たとえば、全ては自分、ということにも、ただ依ることができません。
何であれ固定させようとするなら、無理が生じるかも知れません。総てはひとつ、一体、、それは世界の機構のなかで、そのように感じる、ということかも知れません。了解されたことの、大事な表現であるかも知れませんが、なんでもないそれは、正にその境地故に、なにかどこかの素晴らしい境地、状態としてそこに固定させることができません。

また、体験としてはもうすでに自分に起きていることを、再体験させる必要がないのに、それを起こそう、定着させようとすることで、反動として苦しみが起きている、ことがあるかも知れません。それは、ただ、了解したことを、なんとか身体や意識に教えたい故に、のことかも知れません。

もう、それは、いいんだよ〜、と、世界は伝えようとしているかも、知れません。

いつだったか、とても澄み切った青い空に、可愛らしい雲がぽかんと浮かんでいて、嬉しくなりました。
幸雲と名付けました。

No.1861 - 2009/07/29(Wed) 23:20:40