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記事No.1894に関するスレッドです

(No Subject) / peer
>ほかの人が、つまんない空想を事実と見なして葛藤してると、
>なぜ、そんなことも理解できないのか?
>が、その人の問題のこともあります。


ほとんど、その人の為の問題だろうと思います。
そして、それを見て、観る人が学べる。ということもあります。
ひとつで、二度、楽しめる構造なのでしょう。

>なにかを思考するということ。ある意味、AをBと言ったりすることは
>簡単ですが。A=A。そのようであることを、そのようであると
>表現すること。そのことが問題なくなるためには、素直であること、
>つまり真摯で正確なことなど、かなりの研鑽が必要に思えます。


AをBと思いこんでいたら、A=Aに気付かないのでは?
それでは、素直になるも真摯であるも、できない。
思い込みだと気付かないのは、素直でない、真摯でない。
ということでしょうか?

No.1885 - 2009/08/10(Mon) 23:47:28

Re: / ubik0101
ふと思い出したのですが、学生時代、級友に「みな人は、ない、ものを守ってる」。と言ったことがあります。つまり自我は、虚構。そんなことは、気分、感覚、あるいは思考としては、気がつくことができます。でも、それは、目の前に突きつけられるように了解するということとは、違います。

まあ、 気分、感覚、あるいは思考として、気がつくことは、自我が自我を見ただけかもしれません。(そのくらい自我も、なんでもありなんです)。なんであれ、自分のことしか話せませんが、自我であった日常、一度しか、自我に気がつきませんでした。なにか自分の言動を、ほかの人に披露したとき、『これは自我かな?』、と、ちらっと疑っただけです。

これを、問題にしないならば。自我であれば、その人は、自我に気がつかない。とも言えると思います。なにか黄色い光の電灯も、慣れてしまうと、とくに黄色と意識されなくなるように。AであればAであることに気がつかない。とも言えます。

続きます。

No.1886 - 2009/08/11(Tue) 13:31:50

Re: / ubik0101
そこで、自我に気がつくには、自我は、折々に現れる葛藤とか、心理的思考とか、自己顕示とか、であると見なすこと。AをBとする、思い違いが必要なのかもしれません。それには、BがなければAもない、つまり葛藤がなければ自我はない、という隠れた誤解、を前提にする必要があるかもしれません。

>AをBと思いこんでいたら、A=Aに気付かないのでは?
>それでは、素直になるも真摯であるも、できない。


それで、この、『これは自我かな?』と、ちらっと疑った。それは疑う必要もなく疑ったのですけど・・・まったくそうでなければ、まったく疑わないだろうから、事実、そうなのだろう。という、透明な水の、わずかな不純物にも注意する姿勢で疑う、ということをしていました。ここは、自分で自分の身体を解剖する医者のように、真摯で、正確なことが必要だと思います。

たとえば葛藤や軋轢も起こらなかったとしても。一生、なに不自由のない生活をして、なにも問題が起こらなかったとしても。自我の可能性が、ない、というわけではないです。たとえば困窮してないために盗みをしなかった、その可能性も、問題にするんです。

続きます。

No.1887 - 2009/08/11(Tue) 13:32:29

Re: / ubik0101
ささいなことかもしれない、自分の行動、発言、思考、それの起こり来る、それに正当性を与えてる、意識されないかもしれないけれど、勝手な理由、前提を明るみに出すんです。

ただ自分の思考などを観察するのでは、困難なのですが、なにがなんでも、その中心を見たいという強い意志があれば、そのようにしてAをBとかCとか思い込んでる。そのこと自体には気がつけます。

そのためには、いろんな常識や習慣の飛び交う社会の中で、自分で自分を解剖する、こと、にあたるために、そういう社会的なことは邪魔なので、よく見て捨てる・・・そうしながらも学んでいるのですが・・・それは絵の具を塗り重ねて絵を描くというように加えるというのではなく、彫刻のように余計なことを削り捨てることで顕れる特質であり・・・人は必然的に、素直になるしかありません。これを否定の道、自分を掘り起こす、とか呼んでいます。 これには、かなりの努力が必要です。

>思い込みだと気付かないのは、素直でない、真摯でない。
>ということでしょうか?


それでも、そいう努力は自我の完成、自己の了解なくして、意味を持ちません。しかも、自己を自覚しようとする、日常意識は、自己をAとして、それをBと知覚、認識、表現することしかできない傾向にはあります。たとえば。自己は自己だ。自我は、ない。そんなことさえ、それは、自我の機能になり得ます。

続きます。

No.1888 - 2009/08/11(Tue) 13:35:28

Re: / ubik0101
くり返しますが、自我だって、なんでもあり、なんです。でなければ、自己を学ぶことは不完全になるのでしょう。こんなことが明確ならば、 自己は無自覚。自己は、観察不能です。ということは納得できるでしょう。 これは、そうであることを、そうであると。つまりAはA。というより、ただAです。

ここの説明としてはですが、AはAと知覚、認識、表現することはできない、のですが・・・完全にそうだとは言い切れない揺らぎがあり・・・そうできない、といういうことは、知覚、認識、表現可能です。ということ、それを踏まえて、AはAと言うよりも。ただA、は表現可能です。とも言えます。

それにまた。夏。いくら暑い、暑いと、思っても、暑い。ということはあります。俺は怒ってるんだぞ、と思おうが思わなかろうが、怒りが生起したら、そのまま知覚されます。 ということはあります。とくにグラウンド、背景、前提が問題でない、現象、事象は、AはA、そのように顕れ知覚されるのでしょう。

No.1889 - 2009/08/11(Tue) 13:37:01

Re: / peer
>『これは自我かな?』と、ちらっと疑った。

これ、というのは過去のことで
疑ったモノも自我そのもの、のような気もするし?
うーん。いったい何者が疑ったのでしょう。
自我が自我を見ただけかもしれません。とありますが。

No.1890 - 2009/08/13(Thu) 13:01:31

Re: / ubik0101
そ、です。過去、その時点で。ほかの人に話した自分の言葉を自分で聞いて、『これは自我かな?』と疑った、のです。つまり自我な自分が、自我な自分を、ちらっと、自我な自分ではないか?と、疑ったのです。

なん度でも言います。自分の行動は、自分に判ります。自分の発言は、自分に聞こえます。自分の思考は、自分に知覚できます。そうでなくても、いいのに、そうです。これは不思議で、神秘です。

そこで、自我でない自分が、自我な自分だと。自我な自分が、自我でない自分だと。つまりAをBと、BをAと思考するのは、あり得るけれど。AをAと思考するより、よほど奇妙ではあります。

No.1891 - 2009/08/13(Thu) 17:48:54

Re: / ubik0101
追伸。

「みな人は、ない、ものを守ってる」。と言ったときには。もう自分には、守るものはない。と、勝手に思ってて、自分の自我には、気がついてなかったのです。

No.1892 - 2009/08/13(Thu) 22:30:28

Re: / peer
>自分の行動は、自分に判ります。自分の発言は、自分に聞こえます。
>自分の思考は、自分に知覚できます。


谷川俊太郎さんが
(言葉と言うものは、本来「わたし」以外の誰かが「わたし」の口を通して話しているのを「わたし」が聴く。
そういう屈折した経験なのです)。。
と書いています。
私は、なるほどなーと感心して、覚えていました。
詩人だけに、言葉に対して敏感だなぁーと。

自分の言いたいことがあっ、あらかじめあって、それを告知するのではない。と。
今、自分が何を話しているか、これから何を話をするかを自分は「知らない」。
だから、自分の声に耳を傾ける・・・という形で言葉に対する最初の「敬意」は生まれる。
そうやって自分自身の口から出てくる言葉の「静けさ」を聴く訓練を積む。

というようなことで。分かりにくいですが。

>「みな人は、ない、ものを守ってる」

これを「みな人は、ない、ものをもっている」と読んでいました。
「ないもの」って、なんだろうなぁ〜って・・・哲学的だ〜と。
「守っている」だったですね。。

No.1893 - 2009/08/14(Fri) 02:36:57

Re: / ubik0101
うーん。頭の中で、知らない誰かが、勝手に喋ってて、それを聞いてる「わたし」がいる。とも読めなくもないようです。なにかを考えようとしてなくても考えてる。でも考えようとしても考えられる。その「わたし」は、空白、静寂なのでしょうか。

そいえば、ずーと昔。なんかの雑誌に、名前は忘れましたが、詩人のインタビューが載っていました。詩は、ひとつの文章が短くて、たくさん空白があります。その空白がなぜあるのか、分かりません。という話でした。

それが分からないで、詩を書くのも、ある意味、意味ある、のかもしれませんが。うーん。なにかの、もの、こと、が生起するのも、なんか似たようなことにも思えます。

それに。どうもビルや山などを見ると、映画のセット(書き割り)のように、その裏側はないように見えてしまいます。この現実の裏側は、どーなってるんでしょう。るんでしょう。

No.1894 - 2009/08/14(Fri) 16:18:23

Re: / ubik0101
ついさっきです。また、カブトムシが来訪しました。こんどは部屋の中を飛び回って、ちょっと騒ぎになりましたが・・・hatoさんと撮影会のあと逃がしました。これは窓のすぐ前にある、おおきな樹に関係があるのかもしれません。この前のと、角の形が違います。
No.1895 - 2009/08/14(Fri) 22:25:10

Re: / peer

メスは戦う必要がないので、ツノがない〜。

No.1896 - 2009/08/14(Fri) 23:50:53

Re: / ubik0101
ふむふむ。そのように、もの、こと、の生起する、この世界は・・・絶対無の海に浮かんだ、木の葉のような・・・戦いの現場〜。も、ある意味、意味ある(けっこう気に入ってる言い方)、空想、妄想、幻想、かもしれません。しれません。
No.1897 - 2009/08/15(Sat) 13:25:49

Re: / peer
>そのように、もの、こと、の生起する

蚊は、なんの意味があって存在するのか・・・
私が神なら、作らなかったと思う。ホントに、いらないです〜
なんだか雨が多かったせいか、いつもより蚊の発生が著しく。

>どうもビルや山などを見ると、映画のセット(書き割り)
>のように、その裏側はないように見えてしまいます。


離人感でしょうか。極度になると離人症になりますが。
そんな症状もある意味、人の世の虚偽を見抜いている・・・
のかもしれないと思いますです。

No.1898 - 2009/08/16(Sun) 00:09:23

Re: / ubik0101
しばしば、このアパートでは、夜でも蝉の鳴き声が聞こえます。ちっち。ちいちち。それが闇に光る音のように知覚されます。

それは、どこか暗い部屋の窓の外から、どこか林の樹から、聞こえるのではありません。ちっち。ちいちち。あるいは南から、あるいは東から、その方向は明確です。しかしその鳴き声は、自分の中から聞こえます。

そして朝です。いい天気。「静けさや岩にしみいる蝉の声」。なんて蝉時雨です。その作者の意図は知りませんが・・・それは自分という岩にも、実際の岩にも、つまり世界にしみこんでいます。

そいえば。ずーと昔は、ぐるっと、とてつもない質量の世界が取り囲んで、説明すればですが、その中心に、自分がいるように見えてたんだと思います。

でも。そうじゃありません。「荒海や佐渡によこたう天の川」。そうなんだ。これも、説明すればですが。そういう意味での、世界を見返してる実体としての中心が、あるでも、ないでもない。ということ、なのでしょう。

たしかに、知覚にとっては。たとえば見えた山の裏はないのでしょう。たとえば部屋の壁の表面しかないのでしょう。そして無意識に、つじつまのあうように空想、補正してるのではないでしょうか。

江ノ島の東浜です。

No.1899 - 2009/08/16(Sun) 14:04:32

Re: / hato

昨日の江ノ島は、夏らしい景色でした。

すこし泳ぎましたが、お盆過ぎのクラゲに初当選。ubik0101さんが子供の頃、一ヶ月も腫れて大変だっだぞ〜て脅かしましたが、1日で治りました。昨今の薬は凄いのかしら。釣り具合もお盆仕様でしたが、なんとも夏の磯臭さ、熱い浜には蛤をあぶってる屋台の煙のにおい、、歌謡曲が流れ、、灼熱の太陽に、海風が心地よく吹いて、ヨットの白い帆。「メカジキてカジキ鮪のメス〜?」「そんなわけないだろ」なんていいながら帰りました。

自分のサイトの言葉やデザインは、形になって出たものをとりあえず置いてみると、その後ぴったりのところに落ち着いていく感じです。調整や色合わせも楽しみです。

本当にこの自己と世界の機構は、不思議に素晴らしくできてる、と思います。

No.1900 - 2009/08/16(Sun) 15:32:19

Re: / ubik0101
カーテンを開けると、今朝、鷺草が咲いていました。
No.1901 - 2009/08/17(Mon) 09:35:26