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記事No.1912に関するスレッドです

(No Subject) / peer
鷺草〜きれい・・・
カレンというか、なにかを断ち切るような白い色。
(さぎそう、と入力したら詐欺僧と変換されました。
さすがに、私のPC〜。へんなクセある。)

海の両方の写真。ピーカンで夏そのもの。
と見えますが、どういうワケか
暑さよりも清々しい感じがします。

>しかしその鳴き声は、自分の中から聞こえます。

鳴き声が波動として、頭蓋骨にビンビンと当たります。
夜の虫の音は、やさしく。昼のセミの鳴き声は、突き刺すように。
音を聴いているのか、重力を感じているのか曖昧に・・。

>知覚にとっては。たとえば見えた山の裏はないのでしょう。
>たとえば部屋の壁の表面しかないのでしょう。
>そして無意識に、つじつまのあうように空想、補正してる
>のではないでしょうか。


そうです。ないものを、足しています。
ないものを、足して見る。というのも、愛かも。

No.1902 - 2009/08/17(Mon) 11:41:38

Re: / ubik0101
>さぎそう、と入力したら詐欺僧と変換されました。

なんかB級の日本映画にででくるような・・・あたふた逃げてる袈裟をつけた偽坊主の後ろ姿・・・というのをイメージしてしまって、爆笑です。

>そうです。ないものを、足しています。
>ないものを、足して見る。というのも、愛かも。


うーむ。知覚できないことは、ない、こと。と判断することは・・・誤ってて、それで・・・ある立場の自分(いわゆる中心)が、設定されてしまうこともあります。そこからは世界が、歪んだ鏡のように眺望されて、それが人を魅了することもあるようです。

たとえば山の裏側にしても、思考にしても、感情にしても、知覚できないことは、ない、ことだ・・・ない、ことは、知覚できない。知覚できることは、ある、こと。というような、知覚依存症、自分に対する過剰な全知全能感、もありそうです。

また。たとえば、自我にしても、自己にしても・・・それが、そうであるゆえに、その知覚は困難。ということも関係あるかもしれません。そいう知覚と、ある、ない、の関係に切り込んで。この現実の裏側、背景を、探りたくなってしまいます。

でも現実の裏側は見えないのだから、アスファルトの下は見えないのだから。そんなことより上を向いて歩こう。悪いことをしないで、善いことをしよう、だろ?。愛、だろ?。自己、だろ?。という指向性は世界に働いているように思えます。

No.1903 - 2009/08/17(Mon) 19:36:45

Re: / hato

鷺草、いいですね。
我が家はどちらかといえば花ものより草派なので、こうして咲くととても嬉しいです。
そういえば、昨年の今頃行ってた、長崎、そしてよく行く江ノ島にも、今住んでるこの辺りでも白鷺を見ます。ほんとに白鷺のようです、鷺草。

ピーカン。なんか、かっこいいですね。そうですね、もう秋空の気配が漂っていて。爽やかです。

人が成長するために世界が用意されてる、とそこが決着すれば、進みやすいでしょうね。本当に、この日常ですね。

No.1904 - 2009/08/17(Mon) 23:25:51

Re: / hato

もう一枚、載せておきます。

No.1905 - 2009/08/18(Tue) 23:01:28

Re: / peer
花言葉は「芯の強さ」ですね。
一直線に目標に向かって羽ばたく感じがします。

No.1906 - 2009/08/19(Wed) 00:32:57

Re: / hato

朝、待ってたもひとつが咲いていて、一緒に喜びました。

そして・・・

No.1907 - 2009/08/20(Thu) 23:01:18

Re: / peer
そして・・・?

>そいう知覚と、ある、ない、の関係に切り込んで。
>この現実の裏側、背景を、探りたくなってしまいます。


>でも現実の裏側は見えないのだから、アスファルトの下は
>見えないのだから。そんなことより上を向いて歩こう。


「あの山の向こうは?」というのは、確かめられますね。
それなのに、想像するだけで、行動しない。
行動しない言い訳に「現実の裏側は見えないのだ」と
決め込んでしまう〜という気もする。

ない、と思えたら、あるんじゃないかと疑う。ある、と
思えたら、ないんじゃないかと疑う。
そんなことからしか、何も動かない・・かな〜と。

No.1908 - 2009/08/21(Fri) 12:38:51

Re: / ubik0101
あの山の向こうは、知覚されない、ということは。知覚にとっては、ない、ということです。ただ眼の機能としては、見えるところだけ世界を見てるのではないか、という意味です。たとえば山の向こうに行って見ても、同じことです。

ところで実は。ない、ことの知覚は可能です。たとえば自我は、ない、です。それを知覚するのは、自己です。ただ、自我は、自我が、ない、ことは知覚できないようです。ただ、自我は、自我がある、ことは知覚できることもあります。

つまり、それ自身が、それ自身が、ない、と知覚できる。ということは、あり得ないでしょう。できるなら、かなりの理論破綻でしょう。

そして。それ自身が、それ自身が、ない、と知覚できない。ということは。たとえば。自我は、自我を、ない、と知覚できない。ということは、言えないことはない、です。

続きます。

今日の江ノ島の裏磯は、けっこう時化ていました。

No.1909 - 2009/08/21(Fri) 21:59:34

Re: / ubik0101
などと思考することはできるし実情に適合してるでしょう・・・その場合、ある、ない、ということの意味は、暗黙にですが、自明なことと前提にされているようです。

ここが、この自明さゆえに問題でないなら、それが問題です。このあたりが、知覚〜意識の限界かもしれません。しかし。ある、とか、ない、とかは、どういう意味?なんでしょう。

ところで。この世界には、完全な、ある、と、完全な、ない、以外のことなら、総てあります。ということは、完全な、ある、ないは、知覚〜意識の範疇にありません。これは明確なんですが・・・これをなんとか意識に教えようとするのですが、この完全な、ない、ある、は知覚〜意識には識別不能、理解不能にも思えます。

アスファルト下は見えないのだから、上を向いて歩こう。ということは、世界の秩序、美のことのようです。

アイゴです。ヒレの棘に、かなりの毒があります。

No.1910 - 2009/08/21(Fri) 22:15:42

Re: / hato

人は何をしようが鍛えられていますが、世界の機能を意識する、「意識」ってなかなか難儀よね〜、、と思いますね。

人にとって常に真実は、当たり前にシンプル なのだけど、 見たくない知りたくない、、というところかも知れません。当たり前、、それではつまらない、、しかし世界としては、、そうでなければ詰まらない、ようです。

No.1911 - 2009/08/21(Fri) 23:42:01

Re: / hato

> そして・・・?

もうひとつの株に咲きました。パパありがとう、とても可憐で美しいです。球根ができて、そのうち鷺草がいっぱい、咲いたら素敵です。

No.1912 - 2009/08/21(Fri) 23:52:03

Re: / peer
なるほど。。増えているのだ。うん。

>ある、とか、ない、とかは、どういう意味?なんでしょう。

どういう意味の言葉か、わかりませんが。
ある、というのも、ない、というのも
思考とか意識とかがあるから、言えることかな〜と。
自己でも自我でもなんでも、イイんですけど。

どうしても、どうやっても、生きて肉体がある限り
何かの違和感は残っている。のかも知れません。
「自分の問題」が、すべてなくなった、としても。

No.1913 - 2009/08/22(Sat) 01:11:22

Re: / ubik0101
なにが問題かと言えば。この世界が、こうでなくてもいいのに、こうだ。ということです。不思議。それを、たとえば、因果、と言ってしまえば簡単です。

けど。 それでは、因果、は数学の公式のように、暗黙の自明な前提、になりそうです。また、因果を、なにかの原因があって結果があるという、もの、こと、の関係。として思考するなら、それは誤解なゆえに、そうしてる、いわゆる中心が設定されるでしょう。

なら、ことさら、その中心が、ない、という、なにか暗黙の自明な前提を要するでしょう。それは、それで構わないのですが、面倒です。

このように目の前に展開されてる世界。それだけ、で探らねばなりません。それは総活動状態なのに、ある形態で展開して、このように、見たり聞いたり触ったりされるのです。

続きます。

No.1914 - 2009/08/22(Sat) 21:53:45

Re: / ubik0101
けど。たぶん。もし、それが、ある、とか、ない、とか、因果とか。解るようにできてるなら、世界は・・・ある、とか、ない、とか、因果とかとしてさえ・・・取り替え可能な負荷としては・・・機能しないでしょう。

それで。この解らないということ、それは、そうである必要があるのでしょう。不可知、な必要があるのでしょう。では、どのようにして、解らないように、なってるのか?それが、それは、それを知覚できない。それでないことは、それを知覚できない。そんなことかもしれません(要検討ですが)。

ついでに。なにかの原因があって結果があるという、もの、こと、の関係。を因果と呼ぶなら、縁起の、理解のつもりの誤解でしょう。縁起とは、どう説明したとしても、人・世界の総活動のことです。それを、やはり意識は誤解するしかないのではないでしょうか。

No.1915 - 2009/08/22(Sat) 22:14:28

Re: / hato

それで、縁起、というより、むしろ因果の誤解を一気に表明するとしたなら、

「イカは焼いてもタコにはならない」。

なんと、悲しくも実用的なのでしょう。ダーリンが気に入ってくれたのでよしとしておきましょう。

「好雪片々別處に落ちず」。

縁起。なんと美しいのでしょう。誠に美しい、のです。美しくその秩序。美しく、真実です。

縁起を擬似的に誤解するとき、それを因果、と呼ぶことができると思います。意識はその作用として既に焦点であり、基本的に世界を水平方向に眺めて、その事態をとりまとめた内容での理解がしやすいと言えそうです。そうしたことは、人によってもし必要なら、成長を理解していく上での添え木、として見ることができるかも知れません。

このようなことは、やはり人がその意識をして、この世界、その事象のある、ない、、その心の、ある、ない、、を探求することで、見始めることができる、徹底される、と思います。

No.1916 - 2009/08/22(Sat) 23:33:31

Re: / ubik0101
あと。この世界によって作られた、人は、たとえ呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界を作りかえ続けてる。これは宇宙の続く限り、続くでしょう。これを、因果、とも呼べるとは思います。
No.1917 - 2009/08/23(Sun) 00:10:58

Re: / peer
>この世界が、こうでなくてもいいのに、こうだ。
>ということです。不思議。


ひとりひとり、感じている世界は違うでしょうし。
誰かは「こうだ」と感じても、他の人は、また違う「こうだ」になる・・・ような・。
誰かにとって「嫌だ」と思うものが、他の人は「好き」。
ともかく。ひとりひとり、生きている世界が違うようです。
意識を持って、ということは、分断されてますから。ね。
意識を持って「在る」となっている限り。そんなものかな〜と。

No.1918 - 2009/08/23(Sun) 10:50:12

Re: / ubik0101
まあ。あれですよ。意識も、世界の機能です。そして、なにか同じ出来事、言葉について、いろんな勝手な立ち位置で判断ができます。そうならば、とりあえず、その件について・・・たとえば意見の違う相手の立場になるとか・・・友人の立場になるとか・・・ また、あれこれ非難・・・正当化する・・・非難正当化しない・・・

・・・ありとあらゆる立場の判断を真摯に正確に「思考して思考して思考しまくる」んです。そうすれば・・・あることと、類似なことと、反対のことと、無関係なことがあるのですから・・・その自分の立場だけではなく、あらゆる立場を見たら、大雑把な説明ですが、どの立場にも拠り所を失い・・・思考は不成立になります。

また、もっと簡単に。そんな、いろんな立場を空想だと知って、あれこれ思考しない、ということもできます・・・たとえば相手との違いがあれば、直接、相手に聞けばいいのです・・・そのようにして思考は、思考が終わるように働く、ことを学ぶ。のが役目でもあります。

No.1919 - 2009/08/23(Sun) 20:57:46

Re: / hato

さて、今日の晩ご飯はさっそく、我が家で今もっぱら話題のイカでした。イカ野菜詰めubik0101風。ちょっとお洒落に、バジルを添えてみました。

No.1920 - 2009/08/23(Sun) 21:21:17

Re: / peer
とりあえず、思考は、単なる道具・・・なわけで。
誰がその道具を使っているのか、が、ポイントかな〜と。
なんにしても自分の外に出てみないと、本当のものは
観えない。ということでしょうか。
そう。終わりにしないと。

イカ・・・美味しそうです。

No.1921 - 2009/08/24(Mon) 00:05:53