| たとえば知覚依存、、人は日常、そのようにして生きているかも知れません。
けれど それ、は、意識、ではありませんでした。意識を超えていました。それを、見ました。 意識も身体も、それを知るためのツールでした。そして尚、自分にとってそこは、意味に非ず、に通じるものであり、愛はそこまで導き手としてあります。この辺りについては、厳密に言う必要があるときに表現できるでしょう。
この了解は、揺るがないのです。自分にしてそれは幼児のときに通じたことであり、単に幼児のそれ、でなかった、ことは明白です。なぜならそこには、明確な理解があったからです。
明らかに、どういうわけか、そこについては終わっているのです。生のこの紆余曲折のなかで、人生は、なぜそうなのか、ということに費やされました。それでも尚、人は経験を通し、深く見て学び、成長します。
どういうわけか、、たとえばそうでないこと、そこに正しく至っていないことに、気が付かざるを得ない、だけです。
誰にとっても、その人自身になにか焦燥感があるなら、概念ではなくまず、自分がその平和に至ることが先決と思います。そのとき、人の外見や所作に片寄って人を見る、判断する、必要がなくなります。人はただそこにあることができ、分かち合いは相互に、本当に分かち合えるものになるでしょう。そのために座禅をするなら、ただ、すればいいだけです。人は必ず誰しも、内奥から導かれるのであり、そこに正しい信頼がないなら、人は導き手になり得ないのです。
自分にとって、人と会うことは、ただ友達、分かち合うことが幸せ、なだけです。
|
No.1924 - 2009/09/02(Wed) 09:32:03 |