>「苦しみは、苦しみでなくてもいいのに苦しみである」のか、「苦しみは、苦しみでなければならないから苦しみである」のかは、わからないのじゃありませんか? >もう少し、説明してください。 >「悲しみは、悲しみでなくてもいいのに悲しみである」ということ。例えは何でもいいですが。 >「悲しみでなくてもいいのに」と言えるのかどうか。
なんであれ、そう、でなくてもいいのに、そう、です。ということは、そう、ある特定の原因が、ない、ということです。たとえば、なにかの出来事が原因になって、喜びが生起するとしても・・・その喜びは、ただ喜びです。喜びが、喜びである必然性が、ない、ということです。
たとえば同じ出来事に、喜びではなく、怒りを感じたとしても。それならば・・・その怒りは特定の出来事が原因とは言えず・・・また、その怒りが、怒りである原因も、ほかには、ない、ということです。
そして。 なんであれ、そうでなければならないから、そう、であるとしても、その特定の原因が、ある、となんとなく思われても、それを知り得ないという意味では、それを探る人にとっては、原因が、ない、と等価ではないでしょうか。 もっと、簡単には、それを知覚する、しないに関わらず、隠れた根が、ない、ということです。
それで。なんであれ、そう、でなくてもいいのに、そう、です。ということは この世界が、こう、でなくてもいいのに、こう、です。そんな、この世界の不思議を目前にしての実感の表現です。その意味でなら・・・そう、でなくてもいいのに、そう、も。そう、でなければならないから、そう。と言っても、言い尽くしてはないのかもしれません。
そのような名前のつけられないこと、言葉で表現できないことに、言葉は、名前を付けてる、表現してるだけでもあります。 それは、ほかの表現もあり得るでしょう。そんな表現された思考を検討しつくすことは、とても役に立つのですが・・・それよりも主題は、目前の不思議を見てる、そのこと、です。
たとえば、無常と誰かが言ったら・・・その類似なこと、無常でないということ、無関係なこと、そんな事実の有無とかを検討することはできます。
けれど、要点は、それではありません。無常ということは、人が、欲望から解放された。という表明です。もし、探求するのであれば・・・無常とか、無常でないとか、いうことよりも・・・そのような人の有り様です。
それは、この自分、この自分の、あるとして、それだけの問題を解決さえすれば、いいんです。自分のことは自分でしなければならない・・・逆に言うとしてですが・・・それだけでいいのです。イエス・キリスト「わたしの十字架は軽いのです」。
八景島、シーパラダイスの、ジェットコースターです。
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No.2127 - 2009/09/24(Thu) 10:26:36
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