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記事No.2163に関するスレッドです

うーーむ / peer
hatoさん。

>どんなにか子は苦しいでしょう。重たいのです。疲れるのです。

〜わかりますねぇ。もう。ずっしりと重いです。
「あなたのために」なのですが
それば重々分かります。理解してます。でも重いんですよね。

この親に一生、付きまとわれて、いい年をしても
「・・・だからね」と小言を言われ続けるのか〜
それに付き合わされるのか〜と思うとゾッとしましたが。
育てられた御縁もあるし御恩もあるし・・・。
ほんとに・・・親は子の足かせ・・・。
(という面もある、ということで)

No.2152 - 2009/09/29(Tue) 01:53:45

Re: うーーむ / hato

そうですか、peerさんのお母様は、そのようだったのでしょうか。。

おそらくは、どこの家庭でも親子関係はそうなときもあり、、そうでないときもあり、、な感じでしょうが、、そのあたり過激な親というのは、お子さんは大変でしょうね。自分がなんとかしなければ子はだめになる、と信じて突き進まれるわけですから、たまらないでしょう。省みるのはまずは自分で充分なんですけど。省みても浅いんでしょう。自分を掘り起こしていなければ、当然そのようかも知れません。

子供は自己が確立されるまでは厳しいでしょうけど、、でも、世界は上手くできていますから、、学んで超えていくこともできるのではないでしょうか。

人は真摯であればなんでもいい、はずがないですね。素直でなければならない、と思うのです。

No.2154 - 2009/09/29(Tue) 22:16:02

Re: うーーむ / hato

なぜ人としての変容が必要なのでしょう。

それは明らかに、愛、正しい思いやりを得る、その、下地が整備される、ということであるように思えます。ご存じの通り、自己は愛です。その整備がされているなら、土壌が確かであるなら、生の総てに影響があるだろう、ということです。1を知れば10を知るとは、そうしたことといえるでしょう。変容。これは土壌に関わるゆえに、最終的には、ひとつひとつの局面を継ぎ接ぎしていくものではないでしょう。

変容されることは必ず、探求を凌駕します。生が証人です。自己を探求する人はまだ、その土壌を得ていない、ということです。或いは正確に理解されていない、ことも殆ど、まったくでもないが同じようです。たとえばそれは人生の場所場所において、ここらへんはまあよいけど、あのへんは殆ど不明、、な程度にあるでしょう。即ち、そういう表現ができるとして、罪を犯せる状態にある、ということでもあります。

自分の荷物を人にほどかせようとすることも、限度を超えているなら、そのようです。

自己を充分に得るなら、人は自ずからその視点、その表現、その質感が変わらざるを得ないでしょう。
なんであれ、自分がきちんと成長するほうが、人と世界のために、いいのです。

そんなことがあるようです。

No.2155 - 2009/09/29(Tue) 22:23:51

Re: うーーむ / peer
>peerさんのお母様は、そのようだったのでしょうか

ずっしりと重くのしかかってゾッとする。
これは〜今おもえば、世間を背負っていたからかな。
世間というのが、重かった・・・わけですね。

これも、子どもとして感じたことで。
大人になっての見方では、また変わりました。

子どもに憎まれても、思う事を通す。
あるいみ、自己矛盾がない。そんな母親でしたよ。
ホントに〜どれほど私の荷物を苦にせず背負ってくれたか。
どんなに愛されていたかが、大人になって分かった。
そんな感じですね。

No.2156 - 2009/09/30(Wed) 00:17:46

Re: うーーむ / peer
>自分がきちんと成長するほうが、人と世界のために、いいのです。


そのとおり・・・。
どんなに自分が世界に奉仕されているか、愛されているか。
そこに気がつかないこと、それこそが不幸なのでしょう。

No.2157 - 2009/09/30(Wed) 00:24:07

Re: うーーむ / suho
> なんであれ、自分がきちんと成長するほうが、人と世界のために、いいのです。

はい。
起きてくる事は全て自分自身ですよね。
人と世界は自身の素直な顕れとして起きています。
自分を理解し、自分に学ぶ、ということは、
起きている他者と世界が、実は自分そのものであることを、身をもって実感する、ということではないでしょうか。

例えば、他者のありようを排除したい衝動が湧いたとき、それを言葉で発散するまえに、その言葉にならない衝動とともにたたずむこともできます。そして、もしかすると、その衝動を暖かく抱きしめることさえできるかもしれません。

しんどいですけどね。。
でも、どうもそれしかない。
起きてくるあらゆるものの統合が愛と感じる今日この頃です。

ウビさん、hatoさん、お元気そうでなによりです。
しばらく、こちらに遊びにきてなかったのですが、ここ数日拝見させていただいていました。

いま、あらゆることが急速に変化していますね。
僕はこの変化を、とてもわくわくしながら楽しんで過ごしています。

No.2158 - 2009/09/30(Wed) 00:32:04

Re: うーーむ / ubik0101
suhoさん、ひさしぶりです。そういえば、愚さんから聞いた話ですが・・・たとえば自転車、たとえばテーブル。花。これが、バラバラに独立して見えて、空間がそれを隔ててる。そう感じるのが、自我の特性らしいのです。

たぶん、なにかを対象にすることで、その見てる聞いてる触ってる、その中心が設定されるので。それぞれのもの、ことに自分なりの、所有とか、守りたいとか、過去の経験とか、の意味をつける必要があるなら、それぞれの対象も、それを対象にする中心も・・・世界と。また、ほかの人と。また自分と・・・分離された個別なこととして感じる、のかもしれないと思いました。

そうでなく、自我でないなら、まず空間。そこに、たとえば自転車、テーブル、花。などが配置されてる。しかも総てが隔てがない繋がってる関係で・・・空間と物質も、調和、親和して感じられるようです。

これはそれぞれ個別の、もの、ことに、執着できない、拘る必要がないと・・・世界の総体が対象だから、それを見ることは、やはり中心が設定されるとしても、そこに個別、分離、ということが必要なく・・・そのように見えるのではないかと思いました。

ところで自分は。やはり地面の裏、ビルや山の裏のように、知覚されないところは・・・なく・・・それを空想で補わないからかもしれないと勝手に思うのですが・・・世界は、飛び出す絵本のようです。そこを歩いて見てる自分の裏も知覚されません。あっちの裏と、こっちの裏の間には切れ目がないです。

これはこれで。現実感がないというのではなく、緑の岡の道を歩くと、重力波のような力を。よく繁った林は、圧倒的な生命感が伝わってきて、そう反応してることを楽しめます・・・「荒海や佐渡によこたう天の川」・・・そして誰かの家の庭の樹に、その知覚に、我を忘れるようです。

その知覚があると言うことは、完全には世界と一体でない・・・融合ではない、分離でもない・・・ことで、それが面白いのかもしれません。そういえば。この山荘のようなアパートの周囲でも、落ち葉が始まりました。

No.2159 - 2009/09/30(Wed) 11:52:25

Re: うーーむ / suho
>そういえば。この山荘のようなアパートの周囲でも、落ち葉が始まりました。

この季節、湿度の具合といい、空の青の濃さといい、風の肌触りといい、爽やかなのに郷愁が感じられたり、なんともいえず美しいですね。
特に、空の青の深み。思わず「ああ まるごと吸い込まれてぇー」の衝動にかられます。

ウビさんお元気で。

No.2160 - 2009/09/30(Wed) 14:05:57

Re: うーーむ / ubik0101
うん。では、そのうち、きっと。
No.2161 - 2009/09/30(Wed) 14:25:42

Re: うーーむ / hato

> これも、子どもとして感じたことで。
> 大人になっての見方では、また変わりました。
>
> 子どもに憎まれても、思う事を通す。
> あるいみ、自己矛盾がない。そんな母親でしたよ。
> ホントに〜どれほど私の荷物を苦にせず背負ってくれたか。
> どんなに愛されていたかが、大人になって分かった。
> そんな感じですね。


peerさんはご自身の成長によって、克服されたのではないかな、と思いますね。
わたしも両親には感謝しか、ないんです。今も健在ですし、母は会えばケンカもしますけど、いてくれることが嬉しい、だけですね。本当に出来る限り尽くして貰ったんです。

子がそれ自身によって、基盤に変化を起こさない限り、人は自分で気付かれなくても親の影響、それまでの習性を踏襲しているかも知れません。嫌でもそっくり、なんでしょう。もちろん変化したって、たとえば肉親という意味で受け継がれてるものはあるでしょう。けど、むやみに成長を妨げる因子は自然に、失われているのでは・・と思います。

>そのとおり・・・。
>どんなに自分が世界に奉仕されているか、愛されているか。
>そこに気がつかないこと、それこそが不幸なのでしょう。



ほんとうですね。

No.2162 - 2009/09/30(Wed) 21:33:13

Re: うーーむ / hato

suhoさん、こんにちは。お久しぶりですね。

そうですね、

たとえば自分にとって世界は、ただ他者と世界が自分そのものでも、、起きてくる事がただすべて自分自身、でも、、ないようです。なので学ぶ、ことがあるようです。とくに自我を張る必要もありませんが、無我を張る必要もない、、感じです。世界は、不思議・・不可知な様相に見えながら、人の成長を助ける・・との理解があるようです。


そうですね、そして、

たとえば罵倒すること、揶揄することがあったとしましょう。自分はするとして真剣に、そうするでしょう。

人が高校で3年間学び合いました。とても素晴らしい分かち合いがあり、お気に入りの教師、ケンカ仲間がいたとしましょう。もう充分、基礎を学んだとして、大学、社会でも・・次に行かずにそのまま留まったらどうでしょう。世界はなんでもどうでもありとしても、、仲間や先生は、次のステップにいくといいよ、いつでも来られるんだから、まずはやってみようよ、と言うでしょう。

こうした学びについては、最終的には、もし人が本気であればですが、未知に導いて貰うでしょう。不思議といってもいいでしょう。でもたとえば皆と話さずひとりで社会に孤独にいても、真剣でなければ、あまり意味はないでしょう。真剣真摯でなければ、それと対峙することができないでしょう。

そして尚それもまた、いいでしょう。

この小さなアパートで、二度目の秋を迎えます。ささやかに嬉しいのです。道ばたにコスモスが咲き、木々には多くの実がなっています。画像は江ノ島、鳶です。

No.2163 - 2009/09/30(Wed) 22:01:24

Re: うーーむ / suho
hatoさん

> そして尚それもまた、いいでしょう。

互いの世界が交わることが、成長かもしれないと感じました。

> この小さなアパートで、二度目の秋を迎えます。ささやかに嬉しいのです。道ばたにコスモスが咲き、木々には多くの実がなっています。

いいですねー。コスモス、好きなんですよね。
力みなくみんなでパッと開いてさらさらとゆれている感じが。

ありがとうございました。
おじゃましました。

hatoさんもお元気で

No.2164 - 2009/09/30(Wed) 22:20:33

Re: うーーむ / hato

こちらこそ、ありがとうございます。

来年は、たぶん、静岡かな・・と思っています。
ぜひ、ご家族でお越し下さい。
美味しい魚料理、及び農作業・・を交えてお待ちしております。。。

No.2165 - 2009/09/30(Wed) 22:30:27

Re: うーーむ / peer
>peerさんはご自身の成長によって、克服されたのではないかな、と思いますね。

まっ。自然にそうなったような気もします。
順調な発達が行われた・・・と・。
子供って、その時その時が100パーセントでして。
いわば、いいおっぱいと悪いおっぱいがある。と思ってしまう。
今、満足させてくれるか、くれないか。それだけ。
怒られたら鬼だと思うし、優しくされたら聖母だと思う。

究極は・・・相手を心底、信じることが出来るか。
ということじゃないかしらん。
鬼がいるわけでもない、聖母がいるわけでもない。
だから。全部が、自分なのよ、ね。

No.2166 - 2009/10/01(Thu) 01:07:38

Re: うーーむ / hato

> 究極は・・・相手を心底、信じることが出来るか。
> ということじゃないかしらん。
> 鬼がいるわけでもない、聖母がいるわけでもない。
> だから。全部が、自分なのよ、ね。



遅くなりましてこんばんは。
peerさんにというよりはここは念のために、

人はただ自我、でもなく、ただ無我、でもない、世界に無関係に関係する不可知な、、なにか、ということが大事かな、と思いますね。たとえば愛は、人の自我無我に無関係に関係する、といえるでしょう。

子供からの捉え方は置いておくとして、

全部が自分、というのは言葉通りで言うなら、少々おおざっぱな感じです。起きてること総て、世界の事象やなにやかやが、自分が感知できるのだから自分にあるものだ、として、またはそうした深い体験があったとして、たとえば人として、人生での折々に必要な位置をとれないとしたら、偏重があるでしょう。すべてはひとつ、その意味でそれは片寄りです。たとえば、愛はただ堪え忍ぶ、、ことでもないのです。

偏りなく見るなら、世界は折々に世界の事象として起きており、他人は正常に他人であり、(あるとして)鬼は鬼であり、自分は折々に自分である、だけです。自我無我、とくに問題がありません。そのとき自他の事象はむやみに混同されることもなく、かといってとくに隔てる必要もなく、正常に世界を生きるでしょう。

そうではなく、この世界で、自分、というところを使って 了解 できる。世界は触媒としてある、との意味で、総てが自己を学ぶこととしてある、、、たとえばこの不可知、というところを、人は自分で理解することができる、との意味ならば、全部が自分(で了解する)、そう表現できそうです。それは経。縦方向の意図、と言えるでしょう。本質に直結する理解となります。

関係性とは基本的に横方向に働いています。人が世界での関わりのみに意識を偏重させて、そこだけでの理解に留まると、世界はひとつ、その意味での、全部が自分、になるかも知れません。それはとても美しいけれど、それだけでは片寄りです。

それぞれの道のりを歩んでいるそれぞれ、があって構わないのですね。それが世界の有り様として了解されていればいいだけです。そこに分かち合う時がある、というので充分にいいでしょう。

No.2167 - 2009/10/02(Fri) 01:08:54

Re: うーーむ / suho
>それぞれの道のりを歩んでいるそれぞれ、があって構わないのですね。それが世界の有り様として了解されていればいいだけです。そこに分かち合う時がある、というので充分にいいでしょう。

そうそう。世界の捉え方の違いを論じることは、個々の成長にとってほとんど意味がありませんね。
大切なのは、自分がその世界を使って、どこまで自分のありようを正確に理解できるか、そして、どう生きるのか?どんな響きを奏で、どんな実(世界)を創造したいのか?
これにつきると感じます。
自覚しているかしていないかに関わらず、個々の心の本当の響きに共鳴した出来事が正確に起こってきます。善いも悪いも。
それは絶対に隠せません。
世界(現象)は休まずに、無条件に、忠実に、個々の目前で、個々の響きを正確に現象化し続けます。

No.2169 - 2009/10/02(Fri) 09:03:36

Re: うーーむ / hato

> >それぞれの道のりを歩んでいるそれぞれ、があって構わないのですね。それが世界の有り様として了解されていればいいだけです。そこに分かち合う時がある、というので充分にいいでしょう。
>
> そうそう。世界の捉え方の違いを論じることは、個々の成長にとってほとんど意味がありませんね。



なんであれ学ぶという点では、意味があるかどうかはその人の状態、指向によるでしょう。分かち合うこととは端的に、人が世界としてそれをどう見てるか、関わっているか、だけと言えます。

どうとでも取り替え可能な事象の内容についてなら、確かに、成長とその理解に至らず、あまり意味がないかも知れません。けれど物事の形式、即ち、世界の仕組みとの観点から分かち合うなら、そうでもありません。人が意識に正確に理解させる必要があるなら、明確になる場合があるでしょう。


> 大切なのは、自分がその世界を使って、どこまで自分のありようを正確に理解できるか、そして、どう生きるのか?どんな響きを奏で、どんな実(世界)を創造したいのか?
> これにつきると感じます。



そうですね、
自分にとってはまず、どうこうしたい、というものがとくにありません。ubik0101さんが話してるように、どちらかといえば世界はびっくり箱系かも知れません。もちろん、関わる世界、たとえばですが、肉体というものがあり、折々に心が発生し、あらゆる事象を味わい、自ずと発動されながらそれを見ることができます。


> 自覚しているかしていないかに関わらず、個々の心の本当の響きに共鳴した出来事が正確に起こってきます。善いも悪いも。
> それは絶対に隠せません。
> 世界(現象)は休まずに、無条件に、忠実に、個々の目前で、個々の響きを正確に現象化し続けます。



suhoさん。なにか、あったのでしょうか。

心。それも、とくに持続してある、ともいえず、ない、ともいうことができません。持続してある、にのみ依る場合には、いわゆる因果的に世界を解釈することができるでしょう。その意味での因果、的に説明することが理解に繋がる場合があると思います。

自分にとってそうしたことは、常にどちらでもあり、どうでもない、、ただ不思議、です。

No.2170 - 2009/10/02(Fri) 22:10:53

Re: うーーむ / suho
どんなところにも偏りのない「不思議」「中庸」。
という概念をエスケープゾーンにしていませんか?
そこは最強の安全地帯と感じます。

だってすべては偏りであり、答えがない、
が答えの世界ですから。

なにがあっても何を言われても
「逃げきれる世界」ですよ。

疲れが癒えたら、出たほうがいい世界と感じます。

No.2171 - 2009/10/03(Sat) 08:49:42

Re: うーーむ / hato

安全地帯、とは一体、誰にとっての、なんでしょう。

誰もがまずは、そこにいるしかないでしょう。その上で、起きてくることを生きる、ことがあるようです。そのような意味で逃げきれる世界、を自分は知りません。

こうしたことは、頭だけで理解できることではないでしょう。

No.2173 - 2009/10/03(Sat) 15:17:50

Re: うーーむ / suho
> 安全地帯、とは一体、誰にとっての、なんでしょう。

はい。hatoさんが安心していられる世界観です。
安心の後ろ盾です。

> 誰もがまずは、そこにいるしかないでしょう。その上で、起きてくることを生きる、ことがあるようです。そのような意味で逃げきれる世界、を自分は知りません。

はい。未知はまだまだあります。

> こうしたことは、頭だけで理解できることではないでしょう。

全くです。
本だけで世界を知ることができないように。
まずは沸き上がるもの「全て」に、頭なしに、反れることなしに、発散することなしに、向き合うことも必要です。

No.2175 - 2009/10/03(Sat) 17:33:14

Re: うーーむ / hato

未知はまだまだある・・ない・・そうしたことではありません。

一度でもそれに対峙したなら、未知をエスケープゾーン、と言うことはできないでしょう。安心不安、ありとあらゆるなにか総てを孕みながら・・未知。でしか、ないでしょう。

そして理解することは自ずと起きてくるだけでしょう。誠に不思議、でしょう。生が起こり、そして尚この未知の生を生きるでしょう。

そうですね、
自分として端的に言えば、仕事が忙しい、そんな感じです。

No.2176 - 2009/10/03(Sat) 20:44:30