> 不思議不可思議。 > もうここがそのまま、そんな感じでしょう。 > ふと我に返ると、あ。そうよね・・ > て、感じではないかな、と思います。
>★うん。そうですね。時々は静かに。この不思議としっか>り溶け合いたい。私は。動きすぎなので。
そうですね。
チューニングができてる状態なので、こうしたこと。 例えばその自分が、ちょっともったいない感じであることを、読みとれるのかも知れませんね。
potanpotanさんがすでにどこかで気付いているように、人が出来事を流れ行くことだけでは、たとえばなにか問題があるとして、それを根本的に解決することができないのです。 それはね。どうしても、この世界と人の有り様、その昇華の過程からみるとその様にあります。たとえば音楽のように流れていくだけだとしたら、どうしても人は、人として詰まらないのです。
根本的に解決、て、問題がすべて無くなってしまう、ということではありませんよ。。生きるなかではいろいろ、ありますね。でも、必ずその自分は、違ってるはずなんです。それはある意味、たとえばですが、物ごとから取り憑かれるようなこと、その必要がなくなる、とも言えるでしょう。そうしたとき、たとえば音楽に対しても、まったく違った・・おそらくは「その自分」がだいぶ後退したような感覚・・とても親密で自由な・・かといってとくにどうでもない・・感じで関われるでしょう。
事象を捉える閾値に変化があるともいえる、生への関わり方が、ある・・ない・・でもない・・どうでもないようなところから起きてくること。生自体。それはただ、この世界はなんでもどうでもふしぎよねー。。なだけの感じでもないのです。わかりますでしょうか、それは理解の深度、に関係しています。
人は世界と自分の出来事的なところに関わること、即ち、これがこーしてあーなった。。それがそーしてそーなった。。というあれこれに終始できます。それで精一杯のそれで、いいのだ。と思うともなく納得してしまえる世界の罠、というよりは、それは人を成長させる世界の有り様です。この素晴らしく魅惑的な生自体に、流れ行くという慣性を覆してまで自身に向き合うなら、それはその人を強くするでしょう。 そこにはまだ、世界に依り行くだけでは済まない可能性がある、ということでもあるのです。
人生になにかあったとして、考えて悩んだり、自分を批判してみたりすると結構苦痛だったりします。起きたことから少しは自分を見つめて、よい対処ができるよう頑張ることができます。でもこれだけではなかなか難しいでしょう。 事象のあれこれ、表層に関わっていても、理解は得られません。それが深く生じるためには、どうしても、人に縦方向の働きが必要になります。即ち、「この自分、とはなにか」ということです。そこを自身で掘り起こす、ことがどうしても。必要になります。或いは、その状態を深め、意識の内容として構築される作業、たとえばある種の内観、沈黙の場でもよいかも知れません。potanpotanさんは、たぶんどこかでその必要性に気付かれているのでしょう。
なぜでしょう。
意識は学ぶ必要があるのです。それに先だって人はまず深い底、を知る、必要があります。そうでなければ残念ながら、人にはどこか、見過ごせない危うさが取り残されてるということでも、あるでしょう。
誰しもそうして学び、とくに特別でもなくこの世界、なんとも絶妙に不可思議な、事態を生きる、ということができます。
> こんな可愛いのがもう一羽いるんですよ。
> いったいきみたちはなんなんだー。 > かわいすぎるぞー。
そう、可愛いでしょ。世界は愛しいでしょう。 この子はノンノン。ていいます。
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No.2194 - 2009/10/10(Sat) 02:17:24
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