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記事No.2208に関するスレッドです

(No Subject) / hato

> 不思議不可思議。
> もうここがそのまま、そんな感じでしょう。
> ふと我に返ると、あ。そうよね・・
> て、感じではないかな、と思います。


>★うん。そうですね。時々は静かに。この不思議としっか>り溶け合いたい。私は。動きすぎなので。


そうですね。

チューニングができてる状態なので、こうしたこと。
例えばその自分が、ちょっともったいない感じであることを、読みとれるのかも知れませんね。

potanpotanさんがすでにどこかで気付いているように、人が出来事を流れ行くことだけでは、たとえばなにか問題があるとして、それを根本的に解決することができないのです。
それはね。どうしても、この世界と人の有り様、その昇華の過程からみるとその様にあります。たとえば音楽のように流れていくだけだとしたら、どうしても人は、人として詰まらないのです。

根本的に解決、て、問題がすべて無くなってしまう、ということではありませんよ。。生きるなかではいろいろ、ありますね。でも、必ずその自分は、違ってるはずなんです。それはある意味、たとえばですが、物ごとから取り憑かれるようなこと、その必要がなくなる、とも言えるでしょう。そうしたとき、たとえば音楽に対しても、まったく違った・・おそらくは「その自分」がだいぶ後退したような感覚・・とても親密で自由な・・かといってとくにどうでもない・・感じで関われるでしょう。

事象を捉える閾値に変化があるともいえる、生への関わり方が、ある・・ない・・でもない・・どうでもないようなところから起きてくること。生自体。それはただ、この世界はなんでもどうでもふしぎよねー。。なだけの感じでもないのです。わかりますでしょうか、それは理解の深度、に関係しています。

人は世界と自分の出来事的なところに関わること、即ち、これがこーしてあーなった。。それがそーしてそーなった。。というあれこれに終始できます。それで精一杯のそれで、いいのだ。と思うともなく納得してしまえる世界の罠、というよりは、それは人を成長させる世界の有り様です。この素晴らしく魅惑的な生自体に、流れ行くという慣性を覆してまで自身に向き合うなら、それはその人を強くするでしょう。
そこにはまだ、世界に依り行くだけでは済まない可能性がある、ということでもあるのです。

人生になにかあったとして、考えて悩んだり、自分を批判してみたりすると結構苦痛だったりします。起きたことから少しは自分を見つめて、よい対処ができるよう頑張ることができます。でもこれだけではなかなか難しいでしょう。 事象のあれこれ、表層に関わっていても、理解は得られません。それが深く生じるためには、どうしても、人に縦方向の働きが必要になります。即ち、「この自分、とはなにか」ということです。そこを自身で掘り起こす、ことがどうしても。必要になります。或いは、その状態を深め、意識の内容として構築される作業、たとえばある種の内観、沈黙の場でもよいかも知れません。potanpotanさんは、たぶんどこかでその必要性に気付かれているのでしょう。

なぜでしょう。

意識は学ぶ必要があるのです。それに先だって人はまず深い底、を知る、必要があります。そうでなければ残念ながら、人にはどこか、見過ごせない危うさが取り残されてるということでも、あるでしょう。

誰しもそうして学び、とくに特別でもなくこの世界、なんとも絶妙に不可思議な、事態を生きる、ということができます。


> こんな可愛いのがもう一羽いるんですよ。

> いったいきみたちはなんなんだー。
> かわいすぎるぞー。



そう、可愛いでしょ。世界は愛しいでしょう。
この子はノンノン。ていいます。

No.2194 - 2009/10/10(Sat) 02:17:24

Re: / potanpotan
>物ごとから取り憑かれるようなこと、その必要がなくなる、とも言えるでしょう。そうしたとき、たとえば音楽に対しても、まったく違った・・おそらくは「その自分」がだいぶ後退したような感覚・・とても親密で自由な・・かといってとくにどうでもない・・感じで関われるでしょう。

〇はとさんのおっしゃることと自分の感覚が同じかどうかわかりませんが・・音楽にせよ。特定の誰かにせよ・・
握り締めてきたものをどんどん手放す方向に流れています。
不思議なもので。手放すほど、自由に流れ始める感じがします。

> それが深く生じるためには、どうしても、人に縦方向の働きが必要になります。即ち、「この自分、とはなにか」ということです。そこを自身で掘り起こす、ことがどうしても。必要になります。或いは、その状態を深め、意識の内容として構築される作業、たとえばある種の内観、沈黙の場でもよいかも知れません。potanpotanさんは、たぶんどこかでその必要性に気付かれているのでしょう。

〇垂直的深さ。深くなるから高くなれる。高くなれば広くなる。というようなことを以前は考えていたときがあったのですが・・今の実感はもう少し違います。
縦や横、深さ、高さ・・というような区別はなくなってきている感じです。
ある共鳴。ある縁に対して。意識するもなく無意識でもなく。全部が響きます。
それがそのままその形で。作用を生みます。


> 意識は学ぶ必要があるのです。それに先だって人はまず深い底、を知る、必要があります。そうでなければ残念ながら、人にはどこか、見過ごせない危うさが取り残されてるということでも、あるでしょう。

学ぶ必要もなく。すでに、すべての意識は学んでいるようになっていると感じられます。ただ。学んでいるのだと気がつくかどうかの差に思えます。

> 誰しもそうして学び、とくに特別でもなくこの世界、なんとも絶妙に不可思議な、事態を生きる、ということができます。

うん。生きる。うれしいです。

No.2201 - 2009/10/12(Mon) 00:48:39

Re: / suho
わりこみすみません。

> 学ぶ必要もなく。すでに、すべての意識は学んでいるようになっていると感じられます。ただ。学んでいるのだと気がつくかどうかの差に思えます。

無意識の学び、意識的な学び、どちらもあります。
片方だけでは学びは進みません。

No.2202 - 2009/10/12(Mon) 01:28:14

Re: / hato

> 〇垂直的深さ。深くなるから高くなれる。高くなれば広くなる。というようなことを以前は考えていたときがあったのですが・・今の実感はもう少し違います。
> 縦や横、深さ、高さ・・というような区別はなくなってきている感じです。
> ある共鳴。ある縁に対して。意識するもなく無意識でもなく。全部が響きます。
> それがそのままその形で。作用を生みます。



まずここで、

高いのがいい、広いのがいい、というところに意識が上がってくる(妙な表現ですが)としたら、それは解決される必要がある自我なのです。たとえば縦横、物ごとの深浅とは、ただ人と世界の仕組み、その状態というだけです。理解の深浅、それは文字通り深浅ということです。
それ以前に、学ぶということに優劣を競う感触があるなら、それは見る必要があるでしょう。potanpotanさんを物ごとへの働きかけに動かす、或いは止める動機、その奥深いところを探る必要が、あるかも知れません。

肉体として生きているなら、仕組みとは単に度外視できるものではないのです。というより、人はそこをきちんと理解し、学んだものをここ、で生きる必要がありますよ。それは、あるものをあるものとして、見る。空想を空想として、見る。ことができる、本当の意味で、普通になる、ということです。

potanpotanさんの場合は、やはり感度がいいのでしょう。愛というところに自然に合ってしまうのでしょう。自我無我、物事の差異に目を向けられないところ、、自己究明など、まどろっこしくてやってらんな〜い、てところ。そうです、あーほんとーに、なんてめんどーなんでしょう。。。

でもそれは、無我を張りたい自我、かも知れません。
無我を張ることと、不可知。この差は微妙ですがどうしても、違います。potanpotanさんのような領域にいる人にとって、反駁は非常に根強いところかも知れませんが、もし本気なら、ここは見る必要があるところと言えそうです。

自我、自分。その働きは本来、機構の一部としてあるということです。ただ、これが本来の意味でそうなるためには、人としてある種の変化を得ており、尚、正確に理解されていることが必要です。もし、何らかの了解がありながら、大事なところがどうでもいい、になるとしたら、ある意味、ただ自我であるよりも危ういところがあるよ、ということです。

どんなに広大で細やかな宇宙が周囲にあっても、それは対世界、というところ、即ち関係性です。区別なく流れる、共鳴する・・それは愛の擬似的誤解を生きられることとも言えます。もちろん、それだけでもない故に、ここは抜けるのが難しいのです。それでいいんだ、というなら、いいのでしょう。それは、なんでもどうでもありの世界の有り様に貢献する、ということでもあるでしょう。世界の有り様に留まるということです。
そして尚、
人はそこに留まることが本来は、できないものなのです。


> 学ぶ必要もなく。すでに、すべての意識は学んでいるようになっていると感じられます。ただ。学んでいるのだと気がつくかどうかの差に思えます。
>


学ぶこと。
たとえば世界を見るだけでも、何らかを学んでいるでしょう。それは、世界の機構としての差異を使って、ああ、こんな風でもあれるのか、といったようなことかも知れません。

けれどここから先は、本気でなければ、学ぶことはできないのです。世界に流れ行くだけでは、無理なのです。
なぜここまで言うのかといえば、potanpotanさんはおそらく、成長したい、その志を持った人だからなのかも知れません。


一昨日は、江ノ島に行って来ました。
秋の風情の海にススキが穂をたれて美しく、
ubik0101さんと島の小さな食堂で、昔ながらのラーメンを食べて、帰りました。

No.2204 - 2009/10/12(Mon) 15:23:56

Re: / potanpotan
なんとなく。奥底にある自分の自我に気がつきなさい。
無我だとか愛だとか、そういう感覚にあるつもりでも
その奥深い由来には、そうありたいという自我の願いがあるのですよ。そして自我は否定するべきものでなく。要素のひとつなんですよ。

というふうなことを、ハトさんは私に伝えようとしているのでしょうか。

自我とか無我というような区切りがあるというよりは。
刻々と反応があるという感覚が強いですが。

私の日々の言動、振る舞い、思考、言葉・・意識されるものもされないもの、一挙手一投足・・の反応があります。

この反応の中で。
私が排除したり、嫌悪を感じたり、拒絶、怒り、非難・・
が沸いてくるもの。
それがそのまま私自身が嫌悪したり、拒絶したり、嫌がっている自分、認めたくない自分自身。だなと思います。
そういう中で、自分自身をみているところでは・・

自我が強いというのか(例えば、他との繋がりや関係性などが見えなくて、自分の思考や感情に、周辺を使用する傾向のある人)そういう人を嫌悪したり、拒絶したりという反応は生じてきません。
ただ、とうぜん使用されると、負荷がかかるので、疲労したり圧縮したりする反応が生じます。

嫌な人やモノは、近頃どんどんなくなってきています。

ちょっとおもしろいお話なんですが・・
今年の夏のことで・・、人に対してすごく嫌悪感のある友人がいて、この人と会うと必ず、ゴキブリと遭遇することに気がつきました。「嫌悪」の波動が私にうつっているからなのかしら・・とか・・いろんな思考やストーリーが沸いてきましたが・・自分の中の「嫌悪」しているものを「嫌悪」する波動の共鳴関係がゴキブリとなって現れているのだな。
と腑に落ちました。

今はゴキブリに対しても嫌悪はなくなってきましたが。走る姿はびっくりします。

そんな感じで私は自分をみています。

共鳴関係というのは本当に不思議で。

suhoさんと話をしていたことですが・・

心と現象世界は
映写機とスクリーンみたいだね。
スクリーンをいじろうとしたってどうしようもないんだよね
映写機を映しているだけだからね。
スクリーンを見て、映写機の中を観るんだね。

予感ではなく。思考ではなく。ファンタジーや幻想ではなく。そうなっているとき。
まさにそうなっているんですから。

事象、現象、すべてそのように世界がそのようになるんですね。

まあ。もしも。今生で、私が「悟りの境地」にいたることがあるなら。
その瞬間。私と関係している、すべての存在も同時に「悟りの境地」になるのだと思います。

私の周囲の現象はとても、そういう状況にはないので。
日々生じる共鳴関係を見つめ。生じてくるものを感じ。
振る舞いを見。誠実に生きたいなーと思います。

No.2205 - 2009/10/12(Mon) 19:45:21

Re: / potanpotan
> わりこみすみません。
>
> > 学ぶ必要もなく。すでに、すべての意識は学んでいるようになっていると感じられます。ただ。学んでいるのだと気がつくかどうかの差に思えます。
>
> 無意識の学び、意識的な学び、どちらもあります。
> 片方だけでは学びは進みません。


そう思います。

無意識に学んでいるからオッケーですとゆっているわけではないです。

ただ。無意識のレベルではみんな学んでいる。
それを意識化できるかどうかという意味なのですが。

suhoさんのおっしゃる意識的に学ぶというのは、もっと能動的に意図的に揺さぶりをかけて、無意識を意識に引き上げて認識してゆく、さらに積極的なハタラキかけの必要性をゆわれているのでしょうか。

No.2206 - 2009/10/12(Mon) 19:49:00

Re: / hato

お話をありがとう。
そうですね。それぞれが生きたいように生きること、それでいいのでは、と思います。


> 事象、現象、すべてそのように世界がそのようになるんですね。
>
> まあ。もしも。今生で、私が「悟りの境地」にいたることがあるなら。
> その瞬間。私と関係している、すべての存在も同時に「悟りの境地」になるのだと思います。



世界は人の思いを助長するところがあるようです。そこからもさまざま、学ぶことができるでしょうね。心が無垢な人に、世界は応えてくれるところがあるでしょう。

世界と自分、その関係性。局面として見ることはできたとしても、その根本は不可知です。知らない、のです。美しい故に、また、ありありと学ばれる故に、誰もが世界と自分の繋がり、この生を愛しているでしょう。そして世界はその思いを助長してくれます。信じたり、思うところに沿ってくれるところがあるでしょう。思えば叶う、ある程度そんなところもありながら、また、人は見たいものを見る場合もあるでしょう。

共鳴すること。potanpotanさんの言うように、世界のなかで、わたし達の有り様はとても、周囲に影響しますね。関係性において、人の有り様の影響は見逃せないでしょう。こうした掲示板があって、互いに話す些細なことも、そのときではなくてもそのうちのいつか、芽を吹くかも知れません。そんなことがあるでしょう。

ですが、了解という点では、もし誰か一人がそうなって、周囲がそうなるなら、極端に言えば、お釈迦さまがそうなったときに世界は終わっていたかも知れません。或いは弟子や奥さんたちも皆、そうなってたかも知れません。でも、現実にはそうではなかったでしょう。了解とは、自分として世界の範囲を超えなければならないからです。

人は誰しも、この自分。この、自分で。それを得なければならないでしょう。理解とは、理を解すると書きますね。理を解された場所を、了解されたところ、ということができます。 ここはどうしてもその自分、にて了解、されなければならないでしょう。

そして尚、世界はあるのかも知れません、または、ないのかも、知れません。どうでもないのかも、知れません。けれど成長したい人がいるとき、世界はつと顕現してくれるかも、知れません。

そんな風に思います。

江ノ島の海、もう一枚載せておきます。
とりあえず、こちらからはこの辺で。

No.2208 - 2009/10/12(Mon) 23:05:56

Re: / potanpotan
> 人は誰しも、この自分。この、自分で。それを得なければならないでしょう。理解とは、理を解すると書きますね。理を解された場所を、了解されたところ、ということができます。 ここはどうしてもその自分、にて了解、されなければならないでしょう。

〇「この自分」という自分。自分の中に自分を閉じ込めているのはなにかなと思います。

この自分でそれを得る、「それ」というのはなにを言うのかなと思います。

「こちらからはこの辺で」と書いていらっしゃいましたので。これ以上の質問は打ち切りなのかもしれませんが・・

No.2209 - 2009/10/13(Tue) 08:46:58

Re: / hato

> > ここはどうしてもその自分、にて了解、されなければならないでしょう。


> 〇「この自分」という自分。自分の中に自分を閉じ込めているのはなにかなと思います。
>
> この自分でそれを得る、「それ」というのはなにを言うのかなと思います。




閉じこめているなら、理を解されていないそれ、です。理解されていないとき、それは曖昧で不明瞭、明らめず不確かななにかです。それを、無明と言います。

その自分、でそれを得る、それとは誠に、それ自身、です。理解されたなら、自分は単に自分です。何ものでもない、だけどそれ自身であるところの、自分、です。この違いは絶対です。


それ、は安楽だろうか?
幸福だろうか?
ワクワクするだろうか?


いいえ。
それは、未知です。

それは、それ、なんです。

No.2211 - 2009/10/13(Tue) 21:57:33

Re: / (  )将臣(   )
> なんとなく。奥底にある自分の自我に気がつきなさい。
> 無我だとか愛だとか、そういう感覚にあるつもりでも
> その奥深い由来には、そうありたいという自我の願いがあるのですよ。そして自我は否定するべきものでなく。要素のひとつなんですよ。
>
> というふうなことを、ハトさんは私に伝えようとしているのでしょうか。
>
> 自我とか無我というような区切りがあるというよりは。
> 刻々と反応があるという感覚が強いですが。
>
> 私の日々の言動、振る舞い、思考、言葉・・意識されるものもされないもの、一挙手一投足・・の反応があります。
>
> この反応の中で。
> 私が排除したり、嫌悪を感じたり、拒絶、怒り、非難・・
> が沸いてくるもの。
> それがそのまま私自身が嫌悪したり、拒絶したり、嫌がっている自分、認めたくない自分自身。だなと思います。
> そういう中で、自分自身をみているところでは・・
>
> 自我が強いというのか(例えば、他との繋がりや関係性などが見えなくて、自分の思考や感情に、周辺を使用する傾向のある人)そういう人を嫌悪したり、拒絶したりという反応は生じてきません。
> ただ、とうぜん使用されると、負荷がかかるので、疲労したり圧縮したりする反応が生じます。
>
> 嫌な人やモノは、近頃どんどんなくなってきています。
>
> ちょっとおもしろいお話なんですが・・
> 今年の夏のことで・・、人に対してすごく嫌悪感のある友人がいて、この人と会うと必ず、ゴキブリと遭遇することに気がつきました。「嫌悪」の波動が私にうつっているからなのかしら・・とか・・いろんな思考やストーリーが沸いてきましたが・・自分の中の「嫌悪」しているものを「嫌悪」する波動の共鳴関係がゴキブリとなって現れているのだな。
> と腑に落ちました。
>
> 今はゴキブリに対しても嫌悪はなくなってきましたが。走る姿はびっくりします。
>
> そんな感じで私は自分をみています。
>
> 共鳴関係というのは本当に不思議で。
>
> suhoさんと話をしていたことですが・・
>
> 心と現象世界は
> 映写機とスクリーンみたいだね。
> スクリーンをいじろうとしたってどうしようもないんだよね
> 映写機を映しているだけだからね。
> スクリーンを見て、映写機の中を観るんだね。
>
> 予感ではなく。思考ではなく。ファンタジーや幻想ではなく。そうなっているとき。
> まさにそうなっているんですから。
>
> 事象、現象、すべてそのように世界がそのようになるんですね。
>
> まあ。もしも。今生で、私が「悟りの境地」にいたることがあるなら。
> その瞬間。私と関係している、すべての存在も同時に「悟りの境地」になるのだと思います。
>
> 私の周囲の現象はとても、そういう状況にはないので。
> 日々生じる共鳴関係を見つめ。生じてくるものを感じ。
> 振る舞いを見。誠実に生きたいなーと思います。

No.2246 - 2009/10/18(Sun) 10:10:52