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記事No.2347に関するスレッドです

空想。 / ubik0101
>そんな時、人は空想の機能を使って学ぼうとするのでしょう。

たしかに。シュミレーションして、学ぼうとすることとも言えます。空想。 そのためには・・・たとえばビルの中で、ビデオ画像を見ながら、ジェット機の操縦桿を操作する訓練をしても・・・なんの実感も効果もないので・・・そうしてる自分を騙してでも、空想なのに、それが事実だと思いこまなくては、真剣になれません。

たとえば・・・ほかの人が、そう思ってもないことを、そう思ってると勝手に空想して・・・それに対して反対したり賛成したり・・・つまり自分が自分と分裂して闘ったり仲良くしたりします。でも、それに対応しての・・・そうじゃないよ。それは、総て自分。みんな一体だよ・・・としても、それも空想・・・を事実と見なします。

でも、うまくいけば。思考の限界には矛盾があって・・・たとえば、総て自分。という意見には、その類似なことと、反対のことと、無関係なことがあって・・・それに思いあたって、思考が思考を保持できなくなって、思考が消滅したりします。

そこで現実に直面したりします。けどそれも空想で・・・現実に現実逃避・・・つまり現実に依存してる。だけかもしれません。そいうことは、もともと、そんな、その空想してる主体を、ある、と空想してなければ、総てが成立しない・・・です。その主体を、ない、と空想することもできます。

そこで・・・自我は虚構・・・空想だと了解されればどんな空想にも依存する必要がなくなる・・・ついでに空想による、ほかの人との軋轢や葛藤は不要になります。それまでに・・・いい加減な段階で納得なんかしないで、どこまでも、たとえば自分を探求する・・・その自分は世界によって、つくられてた・・・その総てが役に立つ・・・とてもうまく出来ています。

No.2325 - 2009/11/11(Wed) 13:20:36

Re: 空想。 / 図書館閲覧者

>思考が思考を保持できなくなって、思考が消滅したりします。 そこで現実に直面したりします。

「私とは誰か」という問いの持つ射程はここらへんまでかな、と感じています。
ただ、ここらへんまで辿り着くには「私とは誰か」という問いは、入り口としてとても有効だと思います。

>けどそれも空想で・・・

そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。

ただ、大きく見ればその道程も

>自分を探求する

その流れにあるとは思いますが。

No.2326 - 2009/11/11(Wed) 14:40:12

Re: 空想。 / hato

>もちろん
>空想に憑依され続けなければならない理由などどこにもありません。



了解です。その様に思われます。


たとえば人が執拗に、「そのとき一体、君はどうする!?」と空想すること自体。これを見るなら、それはすでに 「そのとき」ではない場所に於いて、なにかを正否判断しようとしていること、それが、いわゆる、人が断片の位置に据え付けられ、逆立ちして生きようとしてる状態でもあり・・・

こうした、それ自身において解体、理解されていない断片、が、当然のように自分であると見なされている状態、から発せられる問いであるとき、その空想は、実際には当人が直面してもいない、ありもしない問題に拘わろう、作りだそうとしてる状態、といえるでしょう。理解されていない自我の場合は、このようでしょう。

ですがたとえば公案は、(正しい意味での自我の機能ではない、)あるというわけでもない幻影としての自我、思い込みの自分、を追い詰めるとの点で、秀逸なものがあるのでしょう。その意味に於いての問いなら、使い手によってツール足るかどうか、ということかと思います。

断片にして存在するこうした空想が、ごく日常生活に於いて正常に役立つこと。例えば、車道を歩くときは車に気を付けよう、な意味の、人として生きる上での注意深さを喚起する、或いは、折々に自らの生を糺す、ことなら、役目を果たせるといえるかも、知れませんね。


> そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。
>
> ただ、大きく見ればその道程も
>
> >自分を探求する
>
> その流れにあるとは思いますが。



そこからは、問い、というよりは既に、
未知それ自体にして自発自動的に。

との、感じでしょうか。

No.2328 - 2009/11/11(Wed) 23:24:05

Re: 空想。 / ubik0101

> >けどそれも空想で・・・

> そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。

> ただ、大きく見ればその道程も

> >自分を探求する

> その流れにあるとは思いますが。

うーん。私は誰。という言葉で、私は誰。を、考えたことはないです。後づけです。でも。そのまま世界や自分を認めたところで生じる疑問があります・・・これは、なぜ、これなのか?

No.2331 - 2009/11/12(Thu) 12:46:30

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> うーん。私は誰。という言葉で、私は誰。を、考えたことはないです。

「私は誰」の問いは、結構楽しめました。

この問いから学べる点は、普段私たちが「思考とは別に、それを思考する思考者がいる」という思い込みがまさに思い込みでしかない、という点です。

「私は誰」と問うたときの私とは、まさに「私とは誰」でしかありえない、という単純な事実は、思考者不在の事実を明らかにします。
要は、思考が思考者を装っていたに過ぎない、ということです。これはショックと共にあからさまに明かになります。

しかしながら(意識の慣性に引っ張られての行きつ戻りつは別にして)それで万事解決、というわけでもなさそうです。

思考者不在のままに、感覚は生じ、思考・感情も生じます。
空想も生じ、物語も生じます。
思考者不在。なら依存も不可能。
それは「依存」が問題なのであり、それ自体はただの機能です。
特に問題ではありません。

では
起こることを起こるままに起こらしめている、これ、は何なのか。

「私は誰」の射程では収まらない、とは、こういう事情のことでした。

No.2332 - 2009/11/12(Thu) 14:59:41

Re: 空想。 / ubik0101
たしかに。観察者が、ある、とか、ない、とか、それで、世界は、分離してる。世界はひとつ。とか探ってる、運動してる、それなら、そういうこと、それだけが作動して。楽しいんです。

じゃ、なぜ、楽しさが、楽しさなの?・・・たとえば自我が苦痛だとしても、その苦痛が、なぜ苦痛なの?・・・そう、でなくてもいいのに、なぜ、そう?・・・それを問うなら、自我の束縛とか解放とか、些細なことに思えます。ついでに、世界って何?ない、って何?ある、って何?と問うと、それも、そう、でなくてもいいのに、そう、です。

なんであれ、知覚であれ、感情であれ、意識であれ・・・これが、こう、でなくてもいいのに、こう、です。これを不思議と呼んでいます。こんなことに気がつけるのが、変、と言えば変なんです。

これは何?という問いは、これは世界に依存しなくなった、その現れでもあるのでしょう。そして、その答えは、それは解らない必要があるように思えます。

続きます。

No.2335 - 2009/11/13(Fri) 09:19:52

Re: 空想。 / ubik0101
もし、それが解るようにできてると、どうも不都合なようです。思考が成り立たない、凝固した感じです。たとえば、なにかが、ある、とか、ない、とか考えても、その、ある、とか、ない、とかが解ってることとして、解ってない・・・定義不能・・・・それを前提に思考は可能なのかもしれません。真っ白い定義不能な紙があって、インクで文字が書けるようなことかもしれません。

そして、これは、なぜ、これ、なのか?これは、その真っ白い紙って何?と。世界って、なに?という問いでしょう。でもそれは、まさに目の前に展開されてる、見える、聞ける、触れる、世界なんです。そして人は、そこで呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界を変え続けています。これは常に世界が、総活動してる・・・その了解でもあると思います。

ところで。世界なんて、こうでなくてもいい、なんであっても、どーでもいい・・・でなくてはならない・・・でなくては人は、どんなことでもない自己。であり得ないのではないでしょうか。自覚できない自己を認めざるをえない、というよりも、自己からしか、これは何?と、思えないのかもしれません。

No.2336 - 2009/11/13(Fri) 09:51:30

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> では
> 起こることを起こるままに起こらしめている、これ、は何なのか。


起こることを起こるままに起こらしめている「これ」
ならば「これ」は何なのか。

「私とは誰か」の問いと同様に、
「これは何なのか」の問いの答えは、まさに「これは何なのか」にならざるを得ない。

つまり
「これは何なのか」という問い自体が、「起こることを起こるままに起こさしめる働き」、つまり「これ」そのものということになる。

既に
「私とは誰か」の問いを通じて「自分と自分以外のものの無境界性」を見た後に発せられたこの「問い」の適用範囲は、思考領域に限定されることなく、全ての領域に及ぶ。

故に

「これ」は苦しみであり

「これ」は怒りであり

「これ」は悲しみであり

「これ」は喜びでもある。

「これ」が時間であり

「これ」が空間であり

「これ」が山であり

「これ」が海であり

「これ」は死であり

「これ」は誕生でもある。

「これ」が身体であり

「これ」が感覚であり

「これ」が感情であり

「これ」が思考でもある。

「これ」はubik0101であり

「これ」はhatoであり

「これ」はノンノンであり

「これ」は図書館閲覧者でもある。


「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。

そして、当然。

「これ」は空想です。

No.2344 - 2009/11/21(Sat) 15:31:42

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> なんであれ、知覚であれ、感情であれ、意識であれ・・・これが、こう、でなくてもいいのに、こう、です。

これはもう
「神はなぜ神なのか」という問いにさえなってしまいそうです。

「完全なるもの(それ自身に原因を持つもの・常住)」は、「完全なるもの」であるが故に、その「完全なるものの証」として、「完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの・無常)」を内包し、表現し続ける。そのように思えます。

No.2345 - 2009/11/22(Sun) 09:19:55

Re: 空想。 / ubik0101
>・

>・

>・

>「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。

>そして、当然。

>「これ」は空想です

な、難解、です。たぶん、 「私とは誰か」にしても「これは何なのか」にしても、いや、総ての思考は空想、という意味?かな、です。そうでなくて、現実、と言っても、そういう思考だし、その思考が生じる前の、手つかずの現実そのもの指摘?かな、です。

また、そのように思考するのも空想だから・・・つまり表現されることと、する言葉が無関係だから、表現されることを正確に表現できる・・・のだけど、まったく無関係でもない、という指摘?かな、です。

また、なんであれ、それは、それ自身でしか、表現できません。なんであれ現象してる、ということは、それがすでに表現です。でも、これ、と、それ。関係。たとえば、怒りと、時間。苦しみと、思考。たとえば海と、図書館閲覧者と、ubik0101は、どうなってるのか?これ、が、これ、だけである、というのは空想、という指摘?かな、です。

ところで。もしかして、まず「私は誰」という問いは「私は誰」でなくてはならないのだろうか?そうでなくては、そうする観察者がいないという意味での「私は誰は、私は誰」にならないのだろうか?それは、違う言葉でも成立するのだろうか?と、すこし探ってみてはいました。

続きます。

No.2346 - 2009/11/23(Mon) 17:58:40

Re: 空想。 / ubik0101
そこで、この私は誰は、私は誰。に、とある言葉を置き換えると・・・たとえば、青空は、青空。星は、星。ライ麦畑でつかまえては、ライ麦畑でつかまえて・・・また、世界は、私。流れよ我が涙、と警官は言ったは、私。言葉は、私・・・それと、私は、青空。私は、世界。私は、言葉・・・これは、とりあえずかもしれないけれど、表現されることと表現の、見られる対象と、見る主体の、同一、が見えてくるようです。

その、同一は、 青空は何か、とか、時間とは何か、君は誰か、とかでは、「私」のこととしては、切実に真摯になりにくいとも感じます。たぶん、私、という言葉に、私(それが何かはともかく)との同一化があったその「私は誰」。に同一しきった、ゆえのそれを見る観察者のはいる余地もない了解。のための役に立ったのかもしれません。

でも、それが実際は・・・その当事者ではないので、勝手な意見ですが・・・観察者がいない、ということが起こって、 「私は誰」は、そうする観察者がいないという意味での「私は誰は、私は誰」、と意味づけられるようにも思えます。そしてともかく、観察者がいない事態は、対象は、青空でも、感情でも、思考でも、なんでもよくて。なんでもいいということは必要で、見ても聞いても思考しても、同一しきってるわけではなくても、それを見てる中心、観察者がいない、いわゆる無心、無我。

でも、もっと正確には、観察者は・・・知覚の領域にはない・・・いるでもいないでもない、ではないでしょうか。観察者はいない、というだけでは空想、という指摘?かな、です。これは、思考というよりは。そう、だということを、そう、だと表現する、ことにも繋がると思えます。

この連休には、hatoさんと海に行って、カサゴやカワハギを釣ったり・・・実家で過ごしていました。画像は、クリスマスリースを齧って遊ぶ、ルンルン、ノンノンです。

No.2347 - 2009/11/23(Mon) 18:17:51

Re: 空想。 / ubik0101
>「完全なるもの(それ自身に原因を持つもの・常住)」は、「完全なるもの」であるが故に、その「完全なるものの証」として、「完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの・無常)」を内包し、表現し続ける。そのように思えます。

不完全もあり得ない完全は、完全ではない、と思います。

No.2348 - 2009/11/23(Mon) 18:24:10