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記事No.2354に関するスレッドです
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これ
/ 図書館閲覧者
引用
「これ」について書き連ねることも、確かに、空想、あるいは物語としてしか表現され得ないのだけれども、その時、その場、においては間違いなく「空想する」「物語る」ということが「これ」の表現になっている、ということです。
No.2349 - 2009/11/24(Tue) 14:21:57
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Re: これ
/ 図書館閲覧者
引用
結局、「私の問題」として立ち上がり続けているのは
「”自分”と”自分以外のもの”を分け隔てる境界線を巡っての攻防」
と、集約できるのかもしれません。
「どうやって、”私”は、”私以外のもの”と折り合いを付ければよいのか?」
これが、人間がその人生を通じて取り組んでいることなのかもしれません。
”私”と”私以外のもの”とを隔てる境界線は、
物質が思い通りにならない場合には、”私”と”物質”のあいだに
身体が思い通りにならない場合には、”私”と”身体”のあいだに
感情が思い通りにならない場合には、”私”と”感情”のあいだに
思考が思い通りにならない場合には、”私”と”思考”のあいだに
というふうに、様々なところに引かれる可能性があります。
そして、その境界線を支える根拠は
「誰が何と言おうと、絶対”私”はここに存在する!」
という根強い確信です。
ところが
では、その「私」について「私とは誰か」と直接問い尋ねてみると、結局そこに見いだせたのは「思考者の振りをした思考」でしかなかったというわけです。
つまり
「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」という事実は、同時に
「”私”と”私以外のもの”を隔てる境界線がそもそも存在しない」
という事実を明らかにします。
その、「見えない境界線」が、「私」と「私以外のもの」との間に実体としてあるかのように錯覚されているのであれば、「私とは誰か」という問いに赴くのが遠回りせずに良い、とは思いますが、もちろん、絶対そうでなければならない、というわけではありません。
No.2350 - 2009/11/24(Tue) 14:35:24
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Re: これ
/ 図書館閲覧者
引用
「どこにも境界線はない」
にもかかわらず。
見えます、聞こえます、考えます。
そして、行為し話します。
確かに何かが活動しています。
起こることを起こるままに起こしています。
それを「これ」と呼んでみました。
「その時その場」が「これ」として表現され続けています。
全ては「これ」。
にもかかわらず、「これ」が展開すると、その時その場において例えば「怒り」として表現されます。
「これ」がその時その場「怒り」として表現されている時、そこに「幸せ」の入り込む余地はありません。
「これ」がその時その場「空腹」として表現されている時、そこに「満腹」の入り込む余地はありません。
「怒り」と「幸せ」、「空腹」と「満腹」、「ubik01010」と「図書館閲覧者」、本来比較の対象になりません。
もし比較しようとするならば、それは「物語る」しかありません。
そしてそれも、その時その場においての「これ」の展開となっているようです。
No.2351 - 2009/11/24(Tue) 15:00:52
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Re: これ
/ hato
引用
>「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。
>そして、当然。
>「これ」は空想です。
> その時、その場、においては間違いなく「空想する」「物語る」ということが「これ」の表現になっている、ということです。
世界とは誠に、完全に不完全に全うされているようです。
なんとも絶妙です。そして、
「これ」。
自分が指し示すこれは、「空想」ではありません。
ここはもう、空想は不可能です。
自分はそれを、未知ながらの道。と言います。
人はよく思考が問題だと言います。なんておかしなことを言うのでしょう。問題とは常に、それを使う人の側にあるだけです。人が正当に「それ」或いは「これ」に至っていないとき、或いは、「そこ」に満ちていないとき、明らかに問題は、思考の有る無し・・・以前に、人がその様にあることでしょう。
道具に使われているときに、それが厭わしいだけです。人が完全に逆転し、尚理解されるなら・・・世界の構成要素に使われるのではなく、用いるまでに成長するなら・・・知覚や思考の本分とは、折々の自分と世界の状態を教えてくれる、物事を物事として知ることができる、というだけです。この世界でたとえば自分として在ることを、可能な分に於いて調整することができる、だけです。
不理解としての無知があるとき、夢想が入り込み、構成要素であるはずのそれが人に先立ちます。たとえば思考、感覚、感情・・。意識は錯綜し、空想が創り出され、人はそれに使われてしまうのです。空想とは、基本的には、人が自我の機能にあるときに見ることができるでしょう。 自我は無知であることができる、とも言えます。
故に人は正当に変容変化成長しつつ、そして尚、理解する必要があるだろう、と言わねばならないのです。
まずはこの世界。仕組みは仕組みとしての正当な位置。たとえばその思考。その、感情。或いは人として、自分。自他として折々の正当な位置を見出すこと。見出したとしても、問題にならないでしょう。こうしたことは、空想でない「これ」を知る、ことから自ずと起きてくると言えるでしょう。
それは人に可能なことと、思います。なぜなら人は、世界の有り様に留まるものではないからです。
先日の江ノ島から、逆光画像です。
No.2352 - 2009/11/25(Wed) 00:28:34
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Re: これ
/ ubik0101
引用
ちょっと昼間、探っていました。この冬の曇り空に展開されてる・・・あの遠くの山や樹や家々でできた稜線を見ても・・・感情を、思考を知覚しても、まったく主観しかない、です。それで、境界は生じようがありません。これを世界と呼んでいるようです。
じゃ、客観は、どうした?たとえば温度計で測る気温は、重力は、客観?感情そのものは、思考そのものは?でも、知覚されるしか知覚がありえず、主観でしかないです。
この境界が生じようがないという意味で・・・主観と・・・「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」・・・もし見方が違っても、おなじ結果なら、その両者の、もっと奥がありそうな感じです。
それを探るために、余計かもしれませんが、説明します。まず主観があって、なにかが知覚されるのではなくて。なにかを知覚することによって、主観がつくられています。
こう言葉にすると、無主観、と変わりないように見えますが・・・ たとえば、環境が変わる、身体の状態が変わる、ほかの人と意見が違う・・・なら・・・環境が変わる、身体の状態が変わる、ほかの人と意見が違う、それが主観です。それから派生することも主観です。
続きます。
No.2353 - 2009/11/25(Wed) 00:29:22
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Re: これ
/ ubik0101
引用
でも、どんな世界観も、ほころび、があるようです。でなくては、とある世界観は成立ができないようにも思うのですが・・・ほかの人や、机や椅子、感情、思考によって、主観がつくられるので・・・ほかの人や、机や椅子、感情、思考が、主観であるはずがない、です。でもこれは、主観に対応してできた客観、なだけかもしれません。
ここで主題に戻ります。たとえば「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」の「存在しない」は。知覚にとっては、存在しないか?つまり知覚できないので、「存在しない」、とするのか? けど。「存在しない」ことの認知は、知覚の範疇にないと思われます。まったくの「存在する」は、これも知覚の範疇にないと思われます。この、知覚、についての説明は、知覚による、とは言い難いです。
これは。 「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」と、禅で言う・・・ほとんど詳しくはないけれど・・・本来の面目、無位の真人・・・とかは、どういう関係になってるのか?という疑問かもしれません。
また。たしかに。これは、なぜ、これなのか?・・・それは人が自己であるためには、それが解けない必要があるしかないかも知れないのですが・・・ これしか、気になる問題はないくらいです。
ところで画像は、赤い実と、黄色の実の、百両です。
No.2354 - 2009/11/25(Wed) 00:30:05
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Re: これ
/ 図書館閲覧者
引用
「空想」も「現実」も、「主観」も「客観」も、「今の現れ」あるいは「生命現象の現れ」であるには違いないことです。
「いま」が「空想」として表現されている。
「いま」が「現実」として表現されている。
あるいは
「いのち」が「空想」として現れ出ている。
「いのち」が「現実」として現れ出ている。
「空想」の時にはきちんと「空想」が、「現実」の時にはきちんと「現実」が、その時その場で表現されています。
但し、「空想」と「現実」を並列で見ようとするときに、「空想」と「現実」に首尾一貫性を持たせるための「空想と現実をつなぐ物語」が作られ、その物語の中に主人公としての「私」が設定されることがあります。
しかし
「空想と現実をつなぐ物語」も「いま」あるいは「いのち」が「空想と現実をつなぐ物語」として現れ出ているのであり、「物語の主人公」も、「いま」あるいは「いのち」が「物語の主人公」として現れ出ている、とうことでは全く変わりがありません。
「空想」や「物語」と別のところに、「いま」や「いのち」があるのではなく、「空想」や「物語」が即、「いま」や「いのち」の証(あかし)、現れになっています。
「いま」や「いのち」を「現実」と呼んでしまえばその瞬間「現実」は「現実という物語」になってしまわざるをえませんが、しかし、「現実という物語」はそのまま「いま」「いのち」の現れになっています。
とはいえ「いま」と言っても「いま」以外にはない、つまり「いま」と区別、比較する対象がないので、「いま」を認識することは出来ません。
同様に「いのち」と言っても「いのち」を認識することは出来ません。
なので「これ」と呼んだ次第です。
「本来の面目」というのは、「これ」がその時その場で取った表現形。
「無位の真人」というのは、これしかないが故に認識不可能な「これ」
のことかな、と思います。
「境界の無さを自覚する」というのは、何だか「世界と仲直りをする」感、「あらゆるものごととの親密さを取り戻す」感があります。
仲直りできていれば、「仲直りした」という自覚が不要なのは言うまでもありません。
そして
仲直りに到る経緯については色々な物語がありえるでしょう。
また
仲直りした上で、どうやって「これ」を「これ」として表現していくのか、それもまた「”これ”の蔵する無尽蔵の可能性」として可能なことなのだと思います。
No.2355 - 2009/11/25(Wed) 11:22:05
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Re: これ
/ hato
引用
> 「境界の無さを自覚する」というのは、何だか「世界と仲直りをする」感、「あらゆるものごととの親密さを取り戻す」感があります。
なかなおり、て、優しい表現ですね。
親密さ・・
その祝福。・・晩秋の紅葉、その葉の香りを吸い込むだけで充分にいいのですから・・・恩寵、と思いますね。
なぜだかすこし飛びますが、
人が素直に・・・その折々の自分がそう、であることを、きちんと認める。そして、新たに自分を提示するだけで、この日常に必要なことは、その折々に開示されていくように思います。
ちょっとしたところで・・・小細工せず・・・逃げず、逆立ちしないで・・正真正銘か弱い自分を、何ものでもないところの未知に一歩踏み出す・・・そうしたなら、これ、は、緑に芽が吹き、可憐で小さな花が開くように・・・開示されていくと言えるでしょう。
問い。とは、それ自体の不確実性によって、何かしらの揺らぎをバランスさせようとする動き・・・原初・・・に戻そうとする、その動き、方向性の模索、とも言えるのかも、知れません。言葉としての問いかけというものは常に、跡付けとなるようです。
そこで、認識不可能、空想不可能なそれ、のところの、これ(あらゆる現象から、そうでしかあり得ない未知ながらの道)。を生きる。ことで、よし。と。
そこがストンと腑に落ちる、こと。
了解。として、あるようです。
No.2356 - 2009/11/26(Thu) 01:11:08
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Re: これ
/ ubik0101
引用
なんと呼ぶにしても、観察者がいる、と。いない。どちらの有り様にも人が縛られなくなると、・・・善悪の概念もそうですが・・・そこで、たしかに、その境界がなくなり、それについての思考も、そうする立ち位置も見失います。
そのことは。たとえば、観察者がいない、と確認しなくても、観察者が、いない。ことの了解、と思われます。なにかを思考しても、こう、だということを、こう、だと思考するだけなので。それを思考しないでも、事態が変わることはなくなります。
まったく、人が、それ、そのことならば・・・言葉では問えるのですが・・・すでに善悪、観察者がいる、いないを問う必要がないように、それ、を問う必要がありません。それは自分にとっては自己、実在がそうです。
にも関わらず自己、実在、それ、そのものではないけど、ちょっと外れた、知覚できること。表現としての、現象としての、この世界、そこで、なぜ、これは、これなのか?の問いが生じるように思います。
なぜ、それ、と区別、比較する対象がないと、それ、を認識することはできないのでしょう・・・それは、それ、ということが理由ではなく、なんでもいいのだけど、なにか解らないことが前提になってるから、というだけの理由なのかもしれません。
そういう形式で、表現、現象ならば、認識は、それぞれの認識、となるのでしょうか。つまり「差が知覚」。それは、どうしようもない原理、法則のようなことでしょうか。 そのようにして世界の総活動は現れてるのかもしれません。
それでもなお。人が、自己、実在、そのことなら、この世界、表現、現象がどうであっても、なんでも、いいです。なぜ、これは、これ、でなくてもいいのに、これなのか?
No.2357 - 2009/11/26(Thu) 09:01:24
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Re: これ
/ 図書館閲覧者
引用
「問い」であれ何であれ、対象に依存すれば依存できないことを思い知らされることになります。
依存がなければ何であれ、「これ」がその時その場でこれと表現されたものであるでしょう。
しかし、では、なぜこれはこれなのか?
「なぜこれはこれなのか?」こそが「これ」の働きそのものとしても、なぜ「これ」は「これ」に留まることなく知覚として、感情として、思考として自らを表現し続けるのでしょうか?
恩寵においては一切を見ることなくただ親しみと共に留まっていたものが、なぜまた時を経ると、知覚として、感情として、思考としてそれらのものが現れ出てくるのでしょうか。
それは「元の木阿弥」になったのでしょうか。
「私」は恩寵から滑り落ち、また一からトボトボと歩み始めなくてはならないのでしょうか。
どうやらそうではなさそうです。
あらゆる知覚、あらゆる感情、あらゆる思考は、それ自身に原因を持たない有り様として現れ続けます。
あらゆる知覚、あらゆる感情、あらゆる思考は、在るかのように、無いかのように、無常なるものとして現れ続けます。
なぜそのようなことが可能なのでしょう。
それは
「これ」が完全なるものだからでしょうか。
「これ」がこれ自身に原因を持つものだからでしょうか。
「これ」が常住だからでしょうか。
「これ」は完全なればこそ、完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの、無常なるもの)を自らの元に親しみと共に許容しているのではないでしょうか。
不完全を許容できないような完全は、完全ではないからです。
完全であるとは、完全である自己を否定する契機を含んでこその完全だからです。
故に
それ自身に原因を持たないものの現れは、それ自身に原因を持つものの恩寵です。
無常なるものは、常住なるものの恩寵です。
完全なるものは、完全なるものの証(あかし)・恩寵として、完全ならざるものを現し続けます。
ならば
知覚、感情、思考は、恩寵です。
世界は、恩寵です。
と、まあ。
堂々巡りになったところで。
そろそろ失礼しましょう。
では、また、そのうち。
No.2358 - 2009/11/26(Thu) 20:59:11
☆
Re: これ
/ hato
引用
ありがとうございます。
問いそのもの未知それ自体の運動性、不確実無尽蔵の様相において、どういうわけか人は見止め、人は変容、成長する、こと。現時点でここをはずすことができないようですが、
知られざるところの可能性を孕みながら、各位それしかあり得ない表現での展開を、楽しませて頂きました。
どうぞ、
またいつでも。
No.2359 - 2009/11/26(Thu) 23:39:13
☆
Re: これ
/ suho
引用
↑
これ。
上のお写真、美しい。。
こういうの好きなんです。
パンパンっ
ヒョコっヒョコっ
(二拍二礼)
あざーっす。
(ありがとうございます)
No.2360 - 2009/11/28(Sat) 22:29:16
☆
Re: これ
/ hato
引用
おお。suhoさん。。拝んでる・・・
富士はほんとに、美しいですよね〜。
昨今の携帯は、素人でもよく写るんです。な感じでしょ。
わたしの携帯画像はちょっと縦長いのが難なんですが、ubik0101さんがこのサイズお気に入りなんでまあ、今のところはこれで、楽しんでます。
今日も江ノ島、行ってきました。
ubik0101hp常連の皆様にはご存じ、魚釣り名人の調理人さん。実はとてもカッコよくて、情のある、江戸前な感じの人なんですよ。今日はお会いしませんでしたが、ご夫婦で来られていたようです。
こちらこそ、あざーっす。
(使って、みました。。。)
No.2361 - 2009/11/28(Sat) 23:39:04