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記事No.2421に関するスレッドです

続・現実 / ubik0101
のり、さん。

それがなんであれ、それに縛られない、依存しない、ということは・・・見たり聞いたり思考したりしてる機能が、滞りなく機能してるって、こととも言えます。それは、そういう機能が削除されたわけではなく、機能が作動してるので、

>縛られている部分もあるし、そうでない部分もあるようです。

と感じるのかもしれません。たとえば、感情に依存しないということは・・・たとえば怒り、楽しさ、あるいは平穏。なにか特定の感情に縛られないで、それが十全に機能してるということです。また、たとえ、とてつもない悲しみを感じたとしても、その悲しみだけが機能してるということです。

たとえば、思考に依存しないということは・・・それが十全に機能して、特定の思考に躓くことはなくなった。ということでもあります。また、とても解読困難な思考をしていても、その思考だけが、機能してるということです。

続きます。

No.2411 - 2010/02/01(Mon) 21:10:50

Re: 続・現実 / ubik0101
だからといって、なにかを知覚したり、思考したりする、自分が、ない、と言っては、嘘です。ない、だけが機能してるわけではありません・・・説明するとして・・・ある、も機能しています。また、たとえば怒りを知覚してるときの喜びも、知覚されてないだけで、ないとはいえない、です。で、とくに、なにか特定なことだけに依存できない、ということです。

(ここは。あの体験で、ない、自我、から、ある、自己、が生じたとも言えます。この意味の、ない、自我、ある、自己、は、どちらも日常意識は知覚できない。ということは面白いです)。

それは。この現実。日常、なにか特定の有り様を否定するということではなく、どれかの特定の有り様を肯定するというようなことでもなく・・・また否定するにしても肯定するにしても・・・そのことによって、そうしている自分をつくってもらう必要がなくなった、ということです・・・それを世界がしてくれてるのに、それを自分がしてると思うこと、が自我でもあります。

(たとえば怒りや、思考が、知覚されようとされまいと。そのことによって、自我が設定され、それに依存しなければ、無問題です。ただ、そういう自我が、ある、も、ない、も、それが自我として設定される、ということもあります)。

続きます。

No.2412 - 2010/02/01(Mon) 21:21:02

Re: 続・現実 / ubik0101
> >なんであれ、これ、はこれでなくてもいいのに、これ・・・それは、なぜ?

>何故、そのように感じ(感覚)、そのように捉えられるのでしょう?
>それに何か意味があるのでしょうか?


そこで・・・たとえば知覚にしても、感情にしても、思考にしても、そのこと事態は、なんの変化もないように見えます。山は山。怒りは怒りです。喜びは喜びです。AはAです。そのこと事態は、なんの変化せず・・・それ自身の変化はあるのでしょうが・・・ただ、人を変化させる、成長させる、ことができます。それで、世界は触媒、と呼んでいます。

ここで問題が見えてきます。総てがあるのに、この特定なことが機能してるのはなぜか?また、なぜ、それが、それなのか?喜びが、喜びなのか?この思考が、なぜ、この思考なのか?そこに、どうも不確定さがあって、それに惹きつけられるようです。

たとえば思考は、こう機能してるよ。自我は苦痛だよ。不幸だよ。とか言うのは、まあいいのですが、それがなぜ、それなのか?と問わなければ。それはまだ・・・してもらうのであり・・・してるのではない、と感じるからかもしれません。単なる好奇心、かもしれません。

>意識を広げたり集中したり、レベルみたいなモノを上げたり下げたりしてます。

それにしても、自分は、こう、である自分を、こう、だと見る、そのことによって。それは、結果的にですが、こう、なるしかなく、成り行き任せなんです。のりさんのように、意識を随意にすることは、とても凄いです。

ところで、けっこう可愛いパブロフ・・・洗濯して、ルンルンです。また、この掲示板、FONT/A/B/I/S/U/TT/SMALL/BIG/SUP/SUB/MARQUEE/BLINK/DIV/IMGの、タグが使えるように設定しました。たとえば文字の場合・・・

http://homepage2.nifty.com/tomoarai/html/text.html#color

などと指定できます。

No.2413 - 2010/02/01(Mon) 22:05:00

Re: 続・現実 / のり
こんにちは!
う〜、ウビさんの表現は深い〜、むつかし〜(泣)!
もう、箇条書きで行きます。

○二極の一方はなくても機能している、在る。二極で一つ、かな?

○現実は変容の手段:手段の中で目的を探しても?かな?

○自我からの解放:う〜ん、まだまだです!

○十全:はい、十全に機能している時、十全に機能しているから片寄りがなくなり、落ち着き、安心するのですね!

○解凍:う〜、私もアノ体験で得たデータをずっと解凍し続けているのかな。

現実:そっか、そうでした。現実とは想念でした。
>なんであれ、これ、はこれでなくてもいいのに、これ・・・それは、なぜ?
>何故、そのように感じ(感覚)、そのように捉えられるのでしょう?

→私なりには、想念を感じ想念を見ている。ようです。
>それに何か意味があるのでしょうか?
→やっぱり変容のための媒体? 

時間も空間も家族も社会も地位も全てその世界のモノでした。 あ〜、何で忘れちゃうんでしょう?
アノ体験もきっと想念が拡大しきって爆発したのに!
何度も何度も忘れて、変な体験をして、何度も何度も会得して、ずっと繰り返してます〜。ウビさんはもうすっかり抜け出したままなのでしょうか。

No.2414 - 2010/02/02(Tue) 11:32:21

Re: 続・現実 / ubik0101
ヘーゲルが、こんなことを言っています・・・とても昔に「精神現象学」の序の2、3ページを読んだだけですが・・・植物は、根の否定が、茎、です。そして茎の否定が、葉、です。そして葉の否定が、花、です。つまり花は、ほかの総ての否定ですが、それは削除でなく、ほかの総ても含んだ活動です。

たとえば、それが・・・自我でも、あの体験でも、知覚でも、意識でも、現実でも・・・忘れた、失った、ということです。全否定は全肯定で。なくなることは、なにもないです。それは自覚(知覚・意識)できない、領域にも及びます。それが、いま、です。

続きます。

No.2415 - 2010/02/02(Tue) 21:29:37

Re: 続・現実 / ubik0101
また。たとえば(A)とくに健康なら、痛いとか、身体を自覚する必要がありません。(B)どこか痛いとか、自覚させられるなら、病気かもしれません。(C)けど、痛みとかを、自覚できないということは、病気が潜伏してるのかもしれません。(D)また、痛くても、病気でないこともあります。

つまり (A´)自己は、自覚できません。(B´)それを自覚しようとするなら、自我です。(C´)けど、自我そのものは自覚できません。(D´)また、一般的には自我の機能と見なされる怒りや問題があっても、自我とは限りません・・・これが難しい、といえば、難しいのかもしれません。

そうならば。怒りであれ、苦悩であれ、喜びであれ、なんであれ、世界の機能です。自我、なんて初めから、ありません。ほかの言い方では・・・自我、でも、無我、でも、それさえ、世界の機能です。いま、それです。

続きます。

No.2416 - 2010/02/02(Tue) 21:40:45

Re: 続・現実 / ubik0101
>○十全:はい、十全に機能している時、十全に機能しているから片寄りがなくなり、落ち着き、安心するのですね!

そうです。そして。そうで、ない、ことなど、ない、です。偏ってても、騒いでても、不安でも、迷っても、矛盾しても、十全に機能してるのです・・・不完全がない、完全は、完全ではない・・・そのように世界は総活動してて、そのほかに、ありようがないです。

>もうすっかり抜け出したままなのでしょうか。

んー。抜け出したのではありません。 「 なんて糞ったれな、この素晴らしい世界」。リアルだろうと、観念だろうと、 これを生きてるんです。で、人生を忘れました。これに埋没して、自己を失いました。まあ、勝手な言い方ですが・・・この世界しかありません。こそ自覚できない、自己、の証明です。そうなってることは、嫌でも仕方がない、です。

ほかの言い方では・・・この世界が、このような世界でなくてはならない、なんてないです。なんでもいいです。それゆえ、人は、自己、であり得ます。ともかく。なんであれ、こう、である自分を、こう、と表現する・・・それだけで、それが導いてくれます。

No.2417 - 2010/02/02(Tue) 22:11:31

Re: 続・現実 / のり
すみません、遅くなりました。
ちょっと見にくいのですが、

・・植物は、根の否定が、茎、です。そして茎の否定が、葉、です。そして葉の否定が、花、です。つまり花は、ほかの総ての否定ですが、それは削除でなく、ほかの総ても含んだ活動です。
→“否定”という表現が面白いですね。成長とか発展とかいう感じですが。
確かに成長とか発展するためには否定が必要ですね。

つまり (A´)自己は、自覚できません。(B´)それを自覚しようとするなら、自我です。(C´)けど、自我そのものは自覚できません。(D´)また、一般的には自我の機能と見なされる怒りや問題があっても、自我とは限りません・・・これが難しい、といえば、難しいのかもしれません。
→はい、全てそう思います。特に難しい感じはしません。

そうならば。怒りであれ、苦悩であれ、喜びであれ、なんであれ、世界の機能です。自我、なんて初めから、ありません。ほかの言い方では・・・自我、でも、無我、でも、それさえ、世界の機能です。いま、それです。
→喜怒哀楽、は世界の機能。そこでのた打ち回る想定された自分が自我。  なるほどそれも世界の機能ですね。


そうです。そして。そうで、ない、ことなど、ない、です。偏ってても、騒いでても、不安でも、迷っても、矛盾しても、十全に機能してるのです・・・不完全がない、完全は、完全ではない・・・そのように世界は総活動してて、そのほかに、ありようがないです。
→そうなのでしょうが、上のヘーゲル?の表現ですと、偏り認識が否定され十全を了解しないと、こうは感じられないんじゃないかな?
>もうすっかり抜け出したままなのでしょうか。
んー。抜け出したのではありません。 「 なんて糞ったれな、この素晴らしい世界」。リアルだろうと、観念だろうと、 これを生きてるんです。で、人生を忘れました。これに埋没して、自己を失いました。まあ、勝手な言い方ですが・・・この世界しかありません。こそ自覚できない、自己、の証明です。そうなってることは、嫌でも仕方がない、です。
→抜け出したのではなく、上の表現の否定、されていったのかな?

この世界しかありません→ドキッ!丁度、一年ほど前、ボーっとしていたらその言葉がポッと浮かび、暫くの間そこから、その言葉から動けませんでした。それから一年程、ずーっとその意味・感覚を追いかけています。正確には“自分なんかない、世界があるだけ!”という言葉でした。

世界、は人を成長させるためにあり、成長したあとは世界しかない!
ウビさんの言われる世界、には成長前の世界、と、成長後の世界、があるような気がします。ちょっと違う気がしますが、成長後の世界しかない!の感じをもう少し教えて頂けないでしょうか。

No.2419 - 2010/02/05(Fri) 15:33:48

Re: 続・現実 / ubik0101
>→そうなのでしょうが、上のヘーゲル?の表現ですと、偏り認識が否定され十全を了解しないと、こうは感じられないんじゃないかな?

たとえ話としては・・・とても大切にされていた宮殿の鏡が割れてしまいました。けど、その割れてしまって野に捨てられた鏡の破片それぞれにも、夜、美しい総ての天の星が映っている・・・アンデルセンかグリムに、そんな童話があったかと思いますが・・・です。

あの体験で、どこにも偏れない、世界の総活動に、ダイナミックな中道に。接した、なった。それを自覚してない日常意識・・・あの体験の破片・・・でも、それから外れようがありません。ということです。いつも人は世界を感じて生きてる。ではないでしょうか。

ふと・・・宇宙の質量が、どれくらいあるか知りませんが、たった一粒の砂でも、欠けては、宇宙はあり得ないのではないでしょうか。この一粒の砂が、成り立たせてる。でもあるかもしれません。と思ってしまいました。

それと。世界は総活動してるゆえに、どうあっても偏れないのですが・・・なにか嘘を言ったとか、悪いことをしたとして、それは偏り、つまり罪・・・それが総活動に接して燃焼した。のりさんの表現では、清らかな空間・・・それで、その働きは、人に渡されたんです。「悪いことをせず、善いことをしよう」。これは、とても大切なことです。

>→抜け出したのではなく、上の表現の否定、されていったのかな?

んー。まったく、意図してないです。なにかの目標を設定してるわけではないです。とてもアホっぽい言い方ですが・・・なるがままに・・・日常に、世界に、乗ってるだけです。

ちょい出かけます。続きは、2、3日後になるかもしれません。

No.2420 - 2010/02/05(Fri) 17:20:48

Re: 続・現実 / ubik0101&hato

毎日早朝から夕方まで、ジュースを飲みに、
また、バードケーキを食べに来る、番のメジロです。

冬らしい景色です。

No.2421 - 2010/02/05(Fri) 22:12:15

Re: 続・現実 / ubik0101
>“自分なんかない、世界があるだけ!”

おそらくこれは・・・人は完全に無我・・・さらに・・・自我も無我も、世界の機能・・・つまり運動してる世界があるだけ、という意味かもしれません。ubik0101にとっての・・・自我もなければ無我もない・・・世界の現前・・・かもしれません。

でもこの、世界、だけでは、ちょっと不安定な感じです。 これは、よこいと(緯)、と呼ぶことがありますが「世界はひとつ」系の了解、ではないでしょうか。これだけだと、私は、ない、に偏りやすいです。

たていと(経)と呼ぶことがありますが、それ自身がそれ自身の原因である、実在、に人が繋がる・・・もともと自分は、この体験でしたが・・・わたしは、ある。に偏りやすいです。

その、ない、と、ある、両方で・・・知覚の領域にあることだけを話してるわけではありません・・・よこいと、たていと、の交点、つまり経緯。それが、この、日常、です。

たぶん、プラトンとアリストテレスが階段を歩いてる絵を、教科書で見た憶えがあります。ひとりは、その指を水平に向けて世界を示して。ひとりは、その指を垂直に向けて、天を示して。なにか対話しています。この世界サイズの経と緯。両方で、一応安定のようです。

また出かけます。続きます。

No.2422 - 2010/02/06(Sat) 10:50:52

Re: 続・現実 / ubik0101
あと。それまで怠惰だったことも、勤勉だったことも、恥ずかしかったこともありますが・・・どの行動も、欠けることがあっても、ほかの行動をしても、あの体験は起こらなかった・・・代替不能・・・世界は必然だった、全肯定、という気分がありました。

しかし、知覚、意識に依存しなくなると・・・ただ呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、変わってしまう世界に、参加してる実感が起こります。世界は軽いのです。♪どこまでも行こう。道は果てなくとも、口笛を吹きながら歩いて行こう♪

ところで。このようにして話してきた、経路、である必要は、まったくないように思います。 なんでもいいのです。まあ、自分を知る。その経路も、もしかして、自我でも無我でもどうでもいい、観察するでも、観察しないでも、いま、ここ、も。なにか目標があるないも、どうでもいいのかもしれません。もし総てのことがそうだとしたら、総ては、こう、でなくてもいいのに、こう、です。つまりは触媒です。自分を知る。というのも変な言い方です。

それでも、春、芽が吹いて葉が繁り花が咲く・・・「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク、ナニゴトノ不思議ナケレド」・・・この不思議。この世界にしても、思考にしても、感情にしても、知覚にしても、それが、なんであるかは、まったく知らず・・・それを意味づけて、変調して、人は運動し、自分を鍛えているのではないでしょうか。つまりは触媒です。

それで。この日常。 自我もなく、無我もなく・・・自我も無我も、十全に機能してるから、それを自覚することもなく、世界しかない、です。ただ、世界しかないでは・・・それも一興ですが・・・馬や鹿です。 自己は自己を自覚できないという意味での、知覚できるのは世界しかない。それは初めから、そういう仕組みがあるのではなく。ある意味、能動的なのだと思います。

さっき、hatoさんと一緒に発見。この部屋の前の、ヒノキに、小型の鷹(チョウゲンボウ?)が訪れました。ドングリの樹の枝に飛び移り(画像中央)、15分ほど滞在しました。

No.2423 - 2010/02/07(Sun) 17:50:07

Re: 続・現実 / のり
> たとえ話としては・・・とても大切にされていた宮殿の鏡が割れてしまいました。けど、その割れてしまって野に捨てられた鏡の破片それぞれにも、夜、美しい総ての天の星が映っている・・
→なるほど、そんな童話があるのですね。凄い、その通りかもしれませんね。この命の破片に一瞬で宇宙が映ります。

> あの体験で、どこにも偏れない、世界の総活動に、ダイナミックな中道に。接した、なった。それを自覚してない日常意識・・・あの体験の破片・・・でも、それから外れようがありません。ということです。いつも人は世界を感じて生きてる。ではないでしょうか。
→偏れない?う〜ん、でも偏ってるという錯覚が起きますね。いつも世界を感じているのかな?

<こう、である自分を、こう、と表現する・・・それだけで、それが導いてくれます。>
う〜、結構忙しいのです。サラリーマンがこう表現する、とトンデモナイところに導かれそうです。

No.2424 - 2010/02/18(Thu) 15:12:17