| だからといって、なにかを知覚したり、思考したりする、自分が、ない、と言っては、嘘です。ない、だけが機能してるわけではありません・・・説明するとして・・・ある、も機能しています。また、たとえば怒りを知覚してるときの喜びも、知覚されてないだけで、ないとはいえない、です。で、とくに、なにか特定なことだけに依存できない、ということです。
(ここは。あの体験で、ない、自我、から、ある、自己、が生じたとも言えます。この意味の、ない、自我、ある、自己、は、どちらも日常意識は知覚できない。ということは面白いです)。
それは。この現実。日常、なにか特定の有り様を否定するということではなく、どれかの特定の有り様を肯定するというようなことでもなく・・・また否定するにしても肯定するにしても・・・そのことによって、そうしている自分をつくってもらう必要がなくなった、ということです・・・それを世界がしてくれてるのに、それを自分がしてると思うこと、が自我でもあります。
(たとえば怒りや、思考が、知覚されようとされまいと。そのことによって、自我が設定され、それに依存しなければ、無問題です。ただ、そういう自我が、ある、も、ない、も、それが自我として設定される、ということもあります)。
続きます。
|
No.2412 - 2010/02/01(Mon) 21:21:02 |