>→偏れない?う〜ん、でも偏ってるという錯覚が起きますね。いつも世界を感じているのかな?
たとえば嘘をつくということは、なにか盗むことは・・・それは倒錯でしょうし、偏りでしょうし、自我の機能でしょうが・・・それでも、そのことは一切れの糸のような、原因や結果がある運動(部分)として機能していて、それでもそれは・・・世界の総活動(全体)・・・からは、外れようがありません。
その、 世界の総活動にあっては、善悪はありません。善悪は概念でしかない、ということです。そんなことの影として・・・だから、なんでもしてもいい、たとえば自分は正しいつもりで、善のつもりで、誤っても、悪をしてしまう、というのは自我の機能です。とても奇妙ですが、あまりに無知で愚かで、偏れないのに偏っている、そんな不可能をしてるのです。
しかし、総活動によって、自我は完成したのです。その、自我も、勝手な概念の善悪も、未完成だから、それとして機能できるのです。たとえば嘘をつかず、盗まず・・・五戒や十戒・・・を知識として知りもしないでも、完成したら、 常に「悪いことをせず、善いことをしよう」のほかは、あり得ない、です。この身の回りのことだけでも、世界の破片だとしても、それを感じていれば、偏れません。
> う〜、結構忙しいのです。サラリーマンがこう表現する、とトンデモナイところに導かれそうです。
こう、だという自分を、こう、だと表現する。ということは、形式としては、Aという事態を、そのまま正確にAと言葉で表現する、思考する、という意味です。
そうでなく、ことさらに「これは、これだ」。とか、同義反復で、なにかを主張することは・・・なにかと(それが当然の前提だから意識されなくても)比較したりして、たとえばBでないCでないとしてのA。とか。AをBとかCとかと表現する、とか、ではないでしょうか。損得が、善悪だとか、それは、果てしない混乱です。
また、Aという事態をAと思考することは、世界の総てが適切に機能してなくては不可能のようです。その思考は、その瞬間に消滅する特質があります。それは何かを食べたら、見えなくなりますが、それは血や肉になったから、というようなことです。そいえば朝、雪でした。「銀椀に雪を盛る」という誰かの言葉を思い出しました。
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No.2425 - 2010/02/18(Thu) 23:22:26
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