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記事No.2428に関するスレッドです

続々・現実 / ubik0101
>→偏れない?う〜ん、でも偏ってるという錯覚が起きますね。いつも世界を感じているのかな?

たとえば嘘をつくということは、なにか盗むことは・・・それは倒錯でしょうし、偏りでしょうし、自我の機能でしょうが・・・それでも、そのことは一切れの糸のような、原因や結果がある運動(部分)として機能していて、それでもそれは・・・世界の総活動(全体)・・・からは、外れようがありません。

その、 世界の総活動にあっては、善悪はありません。善悪は概念でしかない、ということです。そんなことの影として・・・だから、なんでもしてもいい、たとえば自分は正しいつもりで、善のつもりで、誤っても、悪をしてしまう、というのは自我の機能です。とても奇妙ですが、あまりに無知で愚かで、偏れないのに偏っている、そんな不可能をしてるのです。

しかし、総活動によって、自我は完成したのです。その、自我も、勝手な概念の善悪も、未完成だから、それとして機能できるのです。たとえば嘘をつかず、盗まず・・・五戒や十戒・・・を知識として知りもしないでも、完成したら、 常に「悪いことをせず、善いことをしよう」のほかは、あり得ない、です。この身の回りのことだけでも、世界の破片だとしても、それを感じていれば、偏れません。

> う〜、結構忙しいのです。サラリーマンがこう表現する、とトンデモナイところに導かれそうです。

こう、だという自分を、こう、だと表現する。ということは、形式としては、Aという事態を、そのまま正確にAと言葉で表現する、思考する、という意味です。

そうでなく、ことさらに「これは、これだ」。とか、同義反復で、なにかを主張することは・・・なにかと(それが当然の前提だから意識されなくても)比較したりして、たとえばBでないCでないとしてのA。とか。AをBとかCとかと表現する、とか、ではないでしょうか。損得が、善悪だとか、それは、果てしない混乱です。

また、Aという事態をAと思考することは、世界の総てが適切に機能してなくては不可能のようです。その思考は、その瞬間に消滅する特質があります。それは何かを食べたら、見えなくなりますが、それは血や肉になったから、というようなことです。そいえば朝、雪でした。「銀椀に雪を盛る」という誰かの言葉を思い出しました。

No.2425 - 2010/02/18(Thu) 23:22:26

Re: 続々・現実 / ubik0101
AはAについて。追伸。

たとえば「いま、ここ」。それが、いわゆる思考、概念、観念なら・・・どうやっても人は、いま、ここ、から離れられないのに、いま、ここ、などと言うのでしょう。という疑問が起きるかもしれません。

つまり、いま、ここ、にあって・・・それ自身は、それ自身を知覚できないので・・・ことさら、いま、ここ、を思考対象にするとしたら、いま、ここ、と人は分離してるので・・・AはA・・は、かなり変。それはAを言いながら、事態、としてはB?また、事実ではなく、知識で言ってる?という印象があるかもしれません。

しかし人が、いま、ここ、それが食物が血や肉になったような有り様なら、いま、ここ、と思考しても、まったく思考しないでも、いま、ここ、です。それは、たとえば、自我は虚構、にしても、中道、にしても、そうです。なにかを思考すること、思考しないことで・・・忘れていても・・・事態、が変わることはありません。それがAはAです。

ただ自分としては、いま、ここ、の提唱を、あんまり好みません。そんな経路を辿りませんでしたし・・・それゆえ傾聴するのですが・・・じゃ、なぜ、それはそれなのか?を探るからかもしれません。

ふきのとう、です。

No.2428 - 2010/02/19(Fri) 13:53:17

Re: 続々・現実 / のり
アハハ!難し過ぎて付いていけません。
ので、過剰書きです。

○う〜ん、やっぱりウビさんの言う世界は3つあるような!?
?@ 現実・現物の世界
?A ?@を越えた世界
?B ?@と?Aを合わせた世界
別所では?Aを言葉で表現できないので、“いま、ここ”という言葉を使っているのでしょう。

○昔、筏の話しがあったような?現実は筏?自我が筏?天の国に入ったら
もう必要ない?どちらにしても食物を消化して血や肉になるようになる?

○AなのかBなのか曖昧な事はないでしょうか。AであったりBであったり
 する感じがします。元々Aなのでしょうが、Bのドラマに没頭してしまうため
Aに戻ろう、いま、ここに戻ろうととするのではないでしょうか。
了解度によって違ってくるのでしょう。Aのまんまで居るにはどうしたら良いの
でしょう。

No.2429 - 2010/02/23(Tue) 10:59:54

Re: 続々・現実 / ubik0101
>○昔、筏の話しがあったような?現実は筏?自我が筏?天の国に入ったら
>もう必要ない?どちらにしても食物を消化して血や肉になるようになる?


とても激しい大河を筏で渡ったら・・・いくら愛着があっても・・・その筏を背負って歩くだろうか。それを捨てて、歩いて行くのだ・・・仏陀の言う筏・・・とは、自我です。あの、体験です。現実です。天の国です。ありとあらゆることを捨てて行くのです。もちろん、捨てることも、捨てるのです。つまりは、このままです。も、捨てるのです。

それは意図するのではないです。なにを食べよう?と迷って・・・食べてもないのに気持は満腹で・・・食べることができなければ、消化されるはずがなくて。なにかを実際に食べたら、消化しようとしなくても消化されて血や肉になるように・・・こう、である自分を、こう、だと(AをA)と、真摯に、正確に、つまり素直に見ることによって・・・そうしようとしないでも・・・食べ物が見えなくなって、血や肉になるのです。

だから、というわけではないけれど、この世界もまた、この瞬間、この瞬間、自分を捨ててる。ではないでしょうか。いま、ここ、なんて、どこにあるでしょう。いま、ここが、いま、ここに、あるでしょうか。あるいは。自分が、いま、ここ、なら、いま、ここ、がどこにも見つからないから、いまここ、とも・・・言えます。

続きます。

No.2430 - 2010/02/23(Tue) 21:41:59

Re: 続々・現実 / ubik0101
>○AなのかBなのか曖昧な事はないでしょうか。AであったりBであったり
>する感じがします。元々Aなのでしょうが、Bのドラマに没頭してしまうため
>Aに戻ろう、いま、ここに戻ろうととするのではないでしょうか。
>了解度によって違ってくるのでしょう。Aのまんまで居るにはどうしたら良いの
>でしょう。


あるいは、書を読むようなことかもしれません。文字を眼だけが追いかけていても(A)、なんだか意識は、いろんなことを空想して(B)、つまり読んでない、ということがあります。そうでなく、書を読むことは、眼も、意識も、その文字、その文字だけを追っています。いま、ここ、だって、不要です。その書を読んでる、自己、さえ失って、AはA。それで書が読めます。

あるいは車の運転が上手なら、そのように。下手なら、そのように運転すればいいです。AはA、BはB、CはCでいいです。上手なのに下手なように、下手なのに上手なように、運転するのはAはB、その事態と思考が違い、問題かもしれません。

にもかかわらず、どんなに捨てても、失なっても、なくなることは、なにもない、です。ありとあらゆることは自我の機能として使われ、どんなことも削除されることはないです。けど、もともと自我は、ない、ので。無問題です。

No.2431 - 2010/02/23(Tue) 21:56:34